隅田八幡鏡 ― 2023年06月03日 12:49
隅田八幡鏡(すだはちまんきょう)は和歌山県の隅田八幡神社が所蔵する古代の銅鏡である。「隅田八幡神社人物画像鏡」ともいう。
概要
国宝である。古代の日本語を知るための重要な資料とされている。断片的ではあるが、同時代資料として当時の政治や社会の様相を探る上で重要な史料である。現物は東京国立博物館に寄託されている。
原文
- (原文)癸未年八月日十大王与(年)男弟王、在意柴沙加宮時、斯麻念長寿(奉)、遣開中費直・穢人今州利二人等、取白上同二百旱、作此竟
- (銘文大意) 癸未年八月に日十大王は男弟王が意柴沙加宮にあるとき、斯麻は長寿を念じて開中費直(かわちのあたい)、穢人(漢人)今州利の二人らを遣わし、白上同(真新しい上質の銅)二百旱をもってこの鏡を作る。
年号
癸未年は鏡を製作した年とみられる。443年説と503年説とがある。どちらも倭の五王時代となる。考古学的年代観から503年説が有力との説があるが、443年を押す説もある。
- 443年は古墳時代中期で、宋から「安東将軍倭国王」を正式に任命された年となる。倭王は「済」である。
- 503年は倭王武が「征東大将軍」の称号を得た翌年である。武寧王の在位年代にはまるのは503年であろう。
- 坂本太郎・井上光貞他(1994)は癸未年を443年とする説が有力であるとする。
「開中費直」とは
日本書紀が引く百済本紀中に登場する「加不至費直(河内直)」と同一人物との見解がある。「開中」は、(参考文献1) カフチ説、(参考文献2) 「開中」は百済地名で、『日本書紀』の「辟中」などであろうとする説がある。費直はもともと百済で使用されていた呼称であり、郡の長で王に仕えるリーダーであったとされる。
斯麻
斯麻は武寧王陵の発掘の墓誌銘に「寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、癸兎年五月丙戊朔七日壬辰崩」と書かれている。)癸未年は523年である。『日本書紀』武烈四年、この年に嶋王が即位し、武寧王といったとの記事がある。百済新撰にも武寧王を斯麻王というと書かれる。したがって斯麻は武寧王と考えても矛盾はない。開中費直と今州利は武寧王が派遣した人物とみることができる。
男弟王
男弟王を笹山晴生他(2020)は503年の解釈であれば、即位前の継体大王と解釈している。しかし坂本太郎・井上光貞他(1994)は男弟王を継体に充てるのは音韻学から、無理があるとする。すなわち男弟は「Wöötö」(またはwötö)の発音と推定されるので、男大迹の読み「wöfödö」とは異なるとする。503年としても、即位前の継体が忍坂宮にいたとする記録はない。癸未年を443年とすると、継体大王とは結びつかない。
意柴沙加宮
笹山晴生・五味文彦(2020)は「忍坂宮」とする。『日本書紀』・『古事記』に忍坂が現れるのは、忍坂大中姬命だけである。坂本太郎・井上光貞他(1994)は允恭の妃の忍坂大中姬命の宮とする説が有力であるとする。刑部(忍坂部)は,この宮の経営のための費用を貢進する部民であった。
王号
天皇ではなく、大王と称している。この時代の表現として適切である。天皇号の成立は天武朝と考えられている。
日十大王
篠川賢(2010)はどの大王かは特定できないが、継体の1代前の大王であろうとする。 坂本(1991)は原文を「癸未年八月日十大王年」を「癸未年8月10日大王の年」と解釈している。笹山晴生・五味文彦(2020)もこの解釈である。
参考文献
- 篠川賢(2010)「隅田八幡宮人物画像鏡銘小考」日本常民文化紀要 28,pp.127-150
- 石和田幸(1996)「隅田八幡神社人物画像鏡における 「開中」 字考」同志社国文学 45,pp. 63-72
- 石和田幸(2001)「上代表記史より見た隅田八幡神社人物画象鏡銘_「男弟王」と「斯麻」は誰か」同志社国文学54,pp.1-8
- 坂本義種(1991)「隅田八幡人物画像鏡」『古代日本金石文の謎』学生社
- 笹山晴生・五味文彦(2020)『日本史史料集』山川出版
- 坂本太郎・井上光貞・家永三郎他・大野晋(1994)「日本書紀(三)」岩波書店
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/06/03/9591535/tb
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。