三国志 ― 2023年10月29日 09:54
三国志(さんごくし)は古代中国の国である魏・呉・蜀の三国の歴史書である。
概要
中国が魏・呉・蜀の三国に分かれていた時代を三国時代という。三国時代は西暦222年 から 西暦280年の58年間である。広義では黄巾の乱の蜂起(184年)により漢王朝の動乱期から西晋による中国再統一(280年)までを指す。 三国時の前代は「漢」であり、後代は「西晋」である。
漢王朝
漢の末期は腐敗した役人により漢王朝は腐敗していた。張角は仙人から妖術の書を授かり、腐敗した漢王朝を倒すために黄巾の乱を起こした。漢王朝はこの乱を鎮めたが、討伐で活躍した豪族たちが力を握り、漢王朝は弱体化した。混乱の中から、3人の英雄が現れる。その時代が三国時代である。
魏
霊帝に仕える宦官の曹騰の孫が曹操である。武術・舞踊・音曲・兵法など、様々な分野で類まれな才能を発揮する。改革的な政治を行い、人々は始皇帝の再来と称した。わずか5000の挙兵から、群雄割拠の時代を生き196年、後漢王朝最後の皇帝である献帝を、自らの根拠地の許(河北省許昌市)に迎え、天下の3分の1を手にした。彼の実際的な政治能力の高さがうかがえる。200年、「官渡の戦い」で自軍のほぼ十倍の袁紹の大軍を奇襲作戦で破り、軍事的に成功を収め、華北をほぼ平定した。2013年に献帝から魏公の称号を与えられ、さらに216年、魏王に封じられ、黄河流域の華北を支配した。220年正月、66歳で死去し、魏の武王という謚を送られた。子の曹丕が後漢の献帝から帝位を譲られ、魏王朝を創建した。父曹操には太祖武皇帝の諡号が与えられる。 「魏」(国)について書かれた部分を「魏志(又は魏書)」という。
呉
呉の初代皇帝が孫権である。孫堅の次男で、孫策の弟である。漢時代の黄巾の乱の鎮圧のため、孫堅は漢王朝の中郎将であった朱儁の下で参戦する。200年、19歳で孫策の遺命を受けて家督を継いだ。家督を継いだ時点で、会稽・呉郡・丹陽・豫章・廬江・廬陵の江東六郡を領有していた。五郡(廬江・会稽・廬陵・丹陽・豫章)が反旗を翻した。蜀と組み208年、そのとき最大の国であった魏を赤壁の戦いで破った。呉軍は2万の兵力で、80万の魏軍に対し、火船で奇襲して魏の水軍を焼き払う奇襲作戦を成功させた。209年には孫権は妹を劉備に嫁がせて関係を修復した。 210年、交州の南海・鬱林・交阯・日南・珠崖・?耳・蒼梧・九真・合浦の九郡を領有する。後漢の献帝から禅譲を受けて魏を建国した曹丕の皇帝位を承認し、諸侯の礼をとって呉王に封ぜられる。孫権が正式に呉の皇帝として即位したのは、229年であった。 呉の都を置いた建業は現在の江蘇省南京市である。孫権は252年に死去し、末子の孫亮が即位した。280年に司馬炎(武帝)の晋により呉は滅亡する。
蜀
黄巾の乱が起きると、義勇兵を挙げた劉備・張飛と出会い、張飛とともに劉備の護衛官を務め、簡雍・田豫らと各地を転戦する。赤壁の戦いに大功をたてた。劉備は江南の諸郡を平定したあと、関羽の功績を評価し、襄陽太守・盪寇将軍に任命した。関羽は長江の北の守備を任された。関羽と魯粛の会談により湘水を境界線とし、長沙・江夏・桂陽を孫権領に、南郡・武陵、零陵が劉備領となる。211年に劉備は蜀に入り、その地の有力者劉璋に代わって支配権を収め、214年には成都を攻めて攻略した。219年12月、臨沮において関羽は関平らと共に退路を断たれ、捕虜となり斬首される。劉備は221年、成都で即位して正式に蜀(蜀漢)を建国して帝位(昭烈帝)につき、年号を章武とした。劉備による蜀の統治は10年ほどであった。次の皇帝に子の劉禅が即位する。劉備は死にあたって諸葛孔明に丞相としてその補佐を託したが、劉禅には皇帝としての統治力はなかった。263年、劉備の子の後主である劉禅が魏軍に降伏しては滅亡した。 陳寿によると、蜀は歴史を編纂する役人(史官)を(ほとんどの期間に)置いておらず、魏や呉に比べ蜀の歴史は伝わらなかった。
三国志
『三国志』は魏志(書)30巻、呉志(書)20巻、蜀志(書)15巻の三書全65巻からなる。名著と言われる。
三国志の版本
「三国志」の版本は数種類がある。-咸平本 - 北宋咸平五年(1002)刊行本 - 「静嘉堂文庫」に「呉志」のみ残る。「魏志」は現存せず。宋衢州州学刻元明逓修本 共二十五冊。
- 紹興本 - 紹興年間(1131年-1162年)の刊行本。現存最古の刊行本。
- 紹煕本 - 紹煕年間(1190年-1194年)に刊行された。宮内庁書陵部蔵南宋「紹煕本」。
- 百衲本 - 「紹煕本」を元に張元済が刊行したとされる。1936年に商務印書館から出版された『百衲本二十四史』(影印本、全820冊)である。
参考文献
陳寿 ― 2023年10月29日 12:09
陳寿(ちんじゅ,233-297,Chen shou,?寿)は中国の三国時代に蜀と西晋に仕えた歴史学者、官僚である。
概要
陳寿は巴西郡安漢県(現在の四川省南充市)を本籍とする蜀出身の人物であり、字は承祚(しょうそ)。蜀が滅んだ後は晋に官僚として仕えた。 学識の高い譙周に師事し儒学と史学を修め、蜀に仕えたとされる。譙周は歴史に明るく、師の教えにより、陳寿は史家としての能力を身につけた。 晋の張華に認められて陳寿は武帝期の西晋に仕官し、佐著作郎となり、ついで著作郎となった。
三国志
中国三国時代について書かれた紀伝体の史書『三国志』を編集した。後漢の混乱期から西晋による中国統一までを記載する。 陳寿の『三国志』は二十四史の中でも『史記』に次ぐ高い評価を受けている。 しかし、陳寿は晋の官僚であったため、晋にとって都合が悪い出来事は簡潔な形で記載される。 紀伝体であるが、本紀は魏書のみに設けられ、蜀書・呉書は総て列伝のみであることから、『三国志』は体裁上は「曹魏正統論を説く書」となる。曹魏を継承して成立した西晋の臣下である陳寿には、魏を正統ではないとすることはできなかった。蜀漢に贔屓する筆致であることは古くから指摘されており、その証拠として、劉備・劉禅に対する「先主」、「後主」の呼称である。一方で孫権を「権」と呼び捨てにしており、劉備父子の扱いを際立たせる。
参考文献
高槻市立今城塚古代歴史館 ― 2023年10月29日 18:51
高槻市立今城塚古代歴史館(たかつきしいましろづかれきしかん)は今城塚古墳から出土した遺物を展示解説する歴史観である。
概要
平成23年(2011年)4月にオープンした古代を体感する施設である。 今城塚古墳公園に隣接する館内に、三島古墳群の概要をはじめ今城塚古墳の発掘調査で判明した、古墳づくりのさまざまな工夫を解説する。 復元された大王石棺、復元された大王甲冑、出土した埴輪などを展示する。
展示
- 三島の古墳時代前史 旧石器時代から縄文・弥生時代を経て、王の登場まで
- 三島と初期ヤマト王権
- 旧石器時代から縄文・弥生時代を経て、王の登場まで
- 古墳時代前期、三島の王とヤマト王権との関わり
- 今城塚古墳の実像
- 巨大古墳の築造
- 巨大古墳の築造過程
- 大王の葬送儀礼
- 本物の埴輪群と3基の復元石棺や副葬品から大王墓の葬送儀礼に迫る
- 巨大古墳の築造
- 学芸員の部屋
- 古墳時代の終焉
- 群集墳と終末期古墳の登場から寺院の建立へ、律令国家の成立過程
指定
アクセス等
- 名称:高槻市立今城塚古代歴史館
- 所在地:〒569-1136 大阪府高槻市郡家新町
- 休館日: 月曜日(祝日は開館)・祝日の翌平日、年末年始(12月28日~1月3日)
- 開館時間:午前10時~午後5時(入館は4時30分まで)
- 入館料:無料(ただし、特別展は有料の場合あり)
- 交通:JR京都線「摂津富田駅」より高槻市バス「岡本バス停」下車 徒歩5分
参考文献
コウヤマキ ― 2023年10月29日 19:26
コウヤマキ(こうやまき、高野槇)は日本の本州、四国、九州に自生する日本固有の常緑性針葉樹である。世界三大庭園樹のひとつである。
概要
樹高30m、直径1mにも達する常緑針葉樹幅が太い独特の針状葉は、2枚が合わさったものである。中央には溝があり、葉先は少し窪む。松ぼっくりができ、秋に熟して開くと、種子を放つ。 高野山では、ヒノキ、モミ、アカマツ、ツガ、スギとともに生育し「高野の六木」の一つに数えられる。日本書紀には「マキ(コウヤマキ)は棺を作るのによい」との記述がある。古代の遺跡から、コウヤマキは棺の用材として珍重されていた。弥生時代の遺跡などから、コウヤマキの建築材や木棺が発掘される。
百済の木棺
百済の王・武寧王陵の木棺材は、日本特産のコウヤマキであると判明している。日本では弥生時代から古墳時代にかけて、コウヤマキが木棺材として用いられた。しかし、それらの木棺は、武寧王陵の木棺の構造とは異なっている。コウヤマキは朝鮮半島には生育しない日本固有種である。すなわちコウヤマキの原材または板材が、日本から百済に運ばれた。陵山里古墳群や益山大王墓で用いられた木棺材もコウヤマキとされている。
出土
- 木製埴輪 峯ケ塚古墳、大阪府羽曳野市、5世紀末
- 組合せ式木棺 雁屋遺跡、1号方形周溝墓6号、大阪府四條畷市、弥生時代中期
参考文献
- 国立公州博物館(2001)『百済斯麻王 武寧王陵発掘後30年の足跡』
長方形墳 ― 2023年10月29日 19:59
長方形墳(ちょうほうけいふん)は平面形が長方形の古墳である。
概要
古墳時代の終わり頃に造られた。遺体を埋葬する玄室が複数設けられていることが多い。
事例
- 安満宮山古墳 - 大阪府高槻市安満御所の町、3世紀後半の築造
- 宇摩向山古墳 - 愛媛県四国中央市金生町、7世紀前半築造
- 植山古墳 - 奈良県橿原市五条野町、6世紀末葉から7世紀前半
- 甲塚方墳 - 福岡県京都郡みやこ町、6世紀後半
参考文献
板状鉄斧 ― 2023年10月29日 21:36
板状鉄斧(ばんじょうてっぷ)は板状になった鉄の斧である。 「短冊形鉄斧」ともいわれる。
概要
斧の平面が板状になったものである。斧の刃があるものとないものとがある。
調達先
日本に最初に鉄器が入ってきたのは弥生時代の初め頃と言われる。弥生時代の中期以降にはまとまった量の鉄器が国内に入り、朝鮮半島で鉄素材として作られた鉄素材を加工して国内で鉄器の生産が行われた。 『三国志』『魏書』東夷伝に「(弁辰國鉄を出す。韓・濊(わい)・倭皆従って之を取る。」という記述がある。北部九州を含む「倭」は朝鮮半島南部の鉄を輸入していた
形態変化
青銅器は次第に祭器の形態に変化するが、鉄器は祭祀的な形態変化はなかった。
出土
- 板状鉄斧 川合遺跡、静岡市葵区川合、弥生時代後期~古墳時代前期
- 板状鉄斧 河原口坊中遺跡、神奈川県海老名市、弥生時代中期~後期
- 板状鉄斧 茨木市安威0号墳、大阪府茨木市安威、古墳時代前期
参考文献
棗玉 ― 2023年10月29日 22:01
棗玉(なつめだま)は古墳時代に装身具として用いた玉の一種である。 棗の果実に似ているのでこの名がある。
概要
切り子玉の角を取り去ってナツメの実の形になったものである。琥珀製のものが多いが、硬玉・水晶・ガラス製もある。
出土
- 棗玉 - 東大寺山古墳、奈良県天理市、古墳時代・4世紀
- 棗玉 - 西宮山古墳、兵庫県竜野市日山、古墳時代後期、6世紀前半
- 棗玉 - 北和城南古墳、奈良県北部、古墳時代 4世紀
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