秦河勝 ― 2023年11月05日 11:59
秦河勝(はたかわかつ、生没年不明)は古墳時代から飛鳥時代の豪族である。
概要
秦氏の中心人物で、山城の葛野の人である。新羅系の渡来人で、始皇帝の五世孫融通王の子孫とされる。厩戸皇子から譲り受けた仏像をまつるため広隆寺を建立したとされる。 また『新撰姓氏録』によれば、4世紀頃に秦国から百済を経由し倭国へ帰化したとされる。 『上宮聖徳太子伝傳補闕記』によれば、587年(用明)に物部守屋の討伐の時、太子を守り、四天王の矢が守屋に当たったとき、秦河勝はその頭を斬ったとされる。その功により、冠位十二階の制定に際して、大仁に任じられたとされる。 603年(推古11年)、太子より仏像を譲られた。610年、新羅使の来朝時に先導役を務める。 『広隆寺資財校替実録帳』に622年(推古30年)に太子から贈られた仏像を本尊として広隆寺を造立したとされる。643年の上宮王家の滅亡時における動静は不明である。富士川付近で河邊の人大生部多が虫を祭って財産を捨てさせた騒擾を秦河勝が鎮めたとされる。
日本書紀
- (原文 巻第廿二 推古十一年)十一月己亥朔、皇太子、謂諸大夫曰「我有尊佛像、誰得是像以恭拜。」時、秦造河勝進曰、臣拜之。便受佛像、因以造蜂岡寺。
- (大意)厩戸豐聰耳皇子は大夫らに「尊い仏像がある。誰かこの像を礼拝するものはいないか」と問うと秦河勝は進み出て「私が拝みましょう」といい、これを受けて蜂岡寺(広隆寺)を建立した。
- (原文 巻第廿二 推古十八年冬十月)丁酉、客等拜朝庭。於是、命秦造河勝・土部連菟爲新羅導者、以間人連鹽蓋・阿閉臣大籠爲任那導者、共引以自南門入之、立于庭中。時、大伴咋連・蘇我豐浦蝦兩臣・坂本糠手臣・阿倍鳥子臣、共自位起之進伏于庭。於是、兩國客等各再拜、以奏使旨。
- (大意)新羅と任那の献使が来朝したとき、秦河勝と土部菟に命じ新羅の使者の先導者とした。
- (原文 巻第廿四 皇極三年秋七月)都鄙之人、取常世蟲、置於淸座、歌儛、求福棄捨珍財。都無所益、損費極甚。於是、葛野秦造河勝、惡民所惑、打大生部多。
- (大意)大生部多は人々に虫を祭り、福を求めて歌を歌い財産を捨てることを奨励し、損をさせた。葛野の秦河勝は庶民を惑わす大生部多を打ち据えた。
広隆寺資財校替実録帳
- (原文)右寺縁起推古天皇治天下三十歳次壬牛花土秦造河勝奉為
参考文献
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 『広隆寺資財校替実録帳』国立国会図書館
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