吉武高木遺跡 ― 2024年03月26日 23:22
吉武高木遺跡(よしたけたかぎいせき)は福岡県福岡市西区に所在する弥生時代の遺跡である。
概要
吉武高木遺跡は、早良平野の中央部を流れる室見川の左岸に広がる吉武遺跡群の一部を構成する弥生時代の遺跡である。
調査
吉武高木遺跡は吉武遺跡群の南端部に位置し、青銅器や玉類を副葬する墳墓群が検出された。高木地区の墳墓群は、共同墓地と独立した墓域が形成され、調査された350平方メートルの範囲に、木棺墓四基、甕棺墓一六基、小型甕棺墓一八基が密集している。 1981年の第一次調査で金海式甕棺が200基以上検出された。金海式甕棺墓からは細形銅剣の切先、板付Ⅱ式の小壺が出土する。1982年の第Ⅱ次調査では、弥生中期の甕棺墓2基が検出された。1983年の第Ⅲ次調査では弥生中期後半墓地から、甕棺墓25基以上、木棺墓1基、箱式石棺墓1基が検出された。銅矛と銅戈の片面には布が遺存していた。鑑定の結果、繊維は絹布で、国産の可能性が高いとされた。 1984年(昭和59年)第五次調査、1985年(昭和60年)第六次発掘調査で、整然とならんだ弥生時代の木棺墓・甕棺墓の一群が発見された。甕棺墓は弥生時代前期末から中期初頭に位置付けられる金海式甕棺であり、成人棺は特別に大型に作られ、蕨手状の刻目突帯文を施したものや、疾駆する二頭の鹿を描いた甕がある。副葬品をもつ甕棺墓の構成は銅剣一口を基本に玉類が加わるもの4基、銅釧2点と玉類からなるもの1基、玉類のみが2基である。 高木地区の木棺墓と甕棺墓から出土した副葬品は、細形銅剣九口、細形銅戈1口、細形銅矛1口、多鈕細文鏡1面、銅釧2点、碧玉製管玉468点、硬玉製勾玉4点、ガラス製小玉1点、有茎式磨製石鏃1点、小壺などである。多鈕細文鏡と青銅製武器は、朝鮮半島からの船載品と考えられる。豊富な副葬品をもつ墓は奴国王墓と推定される福岡県春日市須玖岡本遺跡や、伊都国王墓と推定される前原市三雲南小路遺跡の墳墓につながるる要素があり、この墳墓の被葬者達が早良平野に出現した有力首長層と見られる。青銅器を多量に副葬した墓群の東方40mの地点から、大型の掘立柱建物と高床倉庫が発見されている。大型建物は、桁行5間(総長12.5m)、梁行4間(総長9.5m)の身舎に西廂が付く南北棟建物で、北・東の二面には軒支柱が巡り、既発見の同時期の建物としては最大の規模である。吉武高木遺跡は、北部九州における弥生時代の階層分化の過程と王権の生長過程を解明する上で重要である。
最古の王墓の評価
3号木棺墓からは銅鏡(多鈕細文鏡)1・銅剣2・銅矛1・銅戈1・ヒスイ製勾玉1・碧玉製管玉95と、質・量ともに優れた副葬品が出土した。銅鏡・青銅製武器・勾玉という組み合わせは歴代天皇のレガリア(象徴品)である鏡(八咫鏡)・剣(草薙剣)・勾玉(八坂瓊勾玉)の「三種の神器」を彷彿とさせるものであり、3種類をそろえて副葬した墓は、3号木棺墓が日本で最初であった。3号木棺墓は「最古の王墓」と呼ばれるようになった。しかし個人の墓として他から独立するのではなく、集団墓の一員として吉武高木遺跡の3号木棺墓は、隔絶した存在である王墓の出現にいたるまでの、過渡的なものと評価される。
遺構
- 甕棺墓34
- 木棺墓4
- 組合式木棺
遺物
- 細形銅剣2
- 銅釧2
- 勾玉2
- 管玉116
- ガラス製小玉1
- 細形銅剣7
- 細形銅戈1
- 細形銅矛1
- 多鈕細文鏡1
- 勾玉2
- 管玉230
- 多鈕細文鏡 - 銘文なし
- 剣
- 矛
- 戈
- 素環頭太刀
- 水晶製算盤玉
- 鍔金具
指定
- 1993年(平成5年)10月4日 - 国指定史跡
展示
- やよいの風公園
- 所在地:福岡市西区大字吉武(西部運動公園から南へ約600m)
- 開園時間: 9:00~17:00 年中無休
- 入 園 料:無料
アクセス
- 名 称:吉武高木遺跡
- 所在地:福岡県福岡市西区吉武字高木
- 交 通:「藤崎駅」下車(2番出口) ⇒ 西鉄バス「藤崎バスターミナル」乗車(2番系統) ⇒「田村一丁目」下車徒歩約15分
参考文献
- 福岡市教育委員会(1986)「吉武高木」『福岡市埋蔵文化財調査報告書』-弥生時代埋葬遺跡の調査概要-
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