冠位十二階 ― 2026年05月01日 00:28
冠位十二階(かんいじゅうにかい)は飛鳥時代初期の603年(推古11年)に制定された官位制度であり、官人の地位を12段階に区分し、位階に応じて冠の色を変えることで序列を明示したものである。
概要
この制度は一般に聖徳太子による政策とされるが、実際には蘇我馬子をはじめとする有力豪族の関与も想定されている。
それまでのヤマト政権では、氏姓制度に基づく門閥的・世襲的な支配が行われており、特定の氏族が政治的地位を独占していた。冠位十二階はこうした体制を相対化し、個人の能力や功績に応じて官位を与える仕組みを導入した点に大きな意義がある。これは日本における官僚制的秩序の萌芽と評価される。
位階は上位から「徳・仁・礼・信・義・智」の6区分に分けられ、それぞれに「大」と「小」を設けることで、合計12階の序列が構成された。また、冠の色は紫・青・赤・黄・白・黒の6色が用いられ、視覚的に身分秩序を示す工夫がなされている。
制度の成立には、当時交流のあった百済や高句麗の官制の影響が指摘されており、東アジアの政治制度を受容した改革の一例といえる。
冠位十二階はその後、647年(大化3年)に制定された「七色十三階冠」へと発展的に改編されるまで、およそ40年間にわたって運用された。ただし、その適用範囲は主に畿内およびその周辺に限られ、地方社会への浸透は限定的であったと考えられている。
この制度は、後の律令制における位階制度の先駆けとして、日本古代国家形成史において重要な位置を占めている。
参考文献
- 広瀬 圭(1978)「古代服制の基礎的考察--推古朝から衣服令の成立まで」日本歴史, 日本歴史学会編 (356),pp.20-41
- 武田佐知子(1982)[「古代国家の形成と身分標識--東アジア社会における衣服の機能について」『歴史学研究』歴史学研究会 編 (別冊),pp.28-40
土師器 ― 2026年05月02日 00:57
土師器(はじき)は古墳時代から平安時代にかけて広く用いられた、弥生土器の系譜を引く素焼きの土器である。日常生活用の煮炊き・食器を中心に、祭祀や副葬品にも用いられ、日本古代社会の基礎的な土器群を構成する。
概要
土師器は、粘土紐を積み上げて成形する紐積み(輪積み)法を基本とし、ろくろや登窯を用いず、野焼きに近い方法で焼成される。焼成温度はおよそ700~900℃程度で、全体に赤褐色・黄褐色を呈するのが特徴である。
弥生土器の技術的伝統を継承しつつ成立し、古墳時代を通じて形態や製作技法に変化がみられる。
時期ごとの特徴
古墳時代前期:弥生土器の系統を色濃く残し、壺・器台・小型丸底土器などが中心となる。 中期:壺や高坏などの器形が変化し、甑(こしき)など調理具の発達がみられる。調整技法にも多様化が生じる。 後期:灰色硬質土器である須恵器が登場し、両者の併用が一般化する。 奈良・平安時代:須恵器や施釉陶器の普及により相対的に地位は低下するが、日常用土器として継続して使用される。
器種と用途
主な器種には、壺・甕・坏・高坏・器台・盤・甑・椀などがあり、用途に応じて使い分けられた。
- 煮炊き・調理:甕・甑
- 飲食・供膳:坏・椀・高坏
- 貯蔵:壺
また、祭祀用土器には手で成形する手づくね法が用いられる例もある。
製作技法
成形後の整形・調整には、叩き、刷毛目、ナデ、削り、磨き、押圧など多様な技法が用いられ、地域差も顕著である。文様は基本的に施されず、機能性を重視した簡素な外観をもつ。
須恵器との違い
土師器と須恵器は、日本古代の代表的な土器であり、以下の点で区別される。
- 焼成方法:
- 土師器=野焼き(低温焼成)
- 須恵器=窯焼成(高温焼成・約1000~1200℃)
- 色調:
- 土師器=赤褐色系
- 須恵器=灰色系
- 性質:
- 土師器=軟質で吸水性が高い
- 須恵器=硬質で緻密
用途面でも、土師器が煮炊きや日常食器に用いられるのに対し、須恵器は貯蔵・供膳・儀礼的用途に多く用いられる傾向がある。
文献史料と名称
平安時代の法制書『延喜式』や辞書『和名類聚抄』には「波爾(はじ)」の表記がみえ、古代における呼称を知る手がかりとなる。名称は、土器生産に関与したとされる土師氏との関係が指摘されている。
出土例
- 壺 石田川遺跡、群馬県太田市、古墳時代
- 皿 郡山遺跡、宮城県仙台市、奈良時代
- 高坏 奈良県天理市柳本町、東京国立博物館蔵、8世紀、重要文化財
- 土師器甕 小治田安万侶墓出土、奈良市都祁甲岡町、神亀6年(729) 東京国立博物館
参考文献
- 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂出版
- 江坂輝彌、芹沢長介(1985)『考古学ハンドブック』ニューサイエンス社
三原田諏訪上遺跡 ― 2026年05月03日 00:25
三原田諏訪上遺跡(みはらだすわがみいせき)は群馬県渋川市に所在する縄文時代中期の集落遺跡である。赤城山西麓の台地上に立地し、周辺には三原田遺跡・房谷戸遺跡・道訓前遺跡などが約1km圏内に分布しており、本地域における縄文時代集落群の一角を構成する。
概要
本遺跡は2002年度の発掘調査によって確認され、縄文時代中期の竪穴住居跡6軒、土坑約200基が検出された。これらの遺構は、当該期における定住的生活と活発な土地利用を示すものと評価される。
出土土器には、阿玉台式土器・勝坂式土器・曲隆線文土器が認められ、これらが同一遺跡内で共存する点が注目される。これは、関東地方における縄文中期の土器様式の地域的多様性や文化交流を考える上で重要な資料となる。
また、遺跡から約500m離れた上三原田東峰遺跡では、「柳町土器」と呼ばれる特徴的な土器が出土している。柳町土器は、口縁部に円環状の突起を持ち、器面全体を密に粘土帯文で装飾する点に特徴がある。三原田諏訪上遺跡出土の勝坂式土器と比較すると、口縁部や胴部の装飾をより発達させた形態として理解することができ、地域内での土器様式の変遷や発展過程を示唆する。
石器では、有舌尖頭器が1点確認されている。全長約6.5cmで、遺構外から出土した。二重縁が鋸歯状を呈し、基部は欠損している。この資料は狩猟活動に関連する道具の一例として位置づけられる。
以上のように、三原田諏訪上遺跡は縄文時代中期の集落構造、土器様式の多様性、周辺遺跡との関係性を考察する上で重要な遺跡である。
遺構
- 住居
- 竪穴建物
- 土坑 260
- 竪穴3
遺物
- 縄文土器
- 石器
- 縄文土器(深鉢+浅鉢)
指定
- 平成15年3月25日 群馬県指定史跡
展示
- 渋川市赤城歴史資料館
アクセス等
- 名称: 三原田諏訪上遺跡
- 所在地:群馬県渋川市赤城町三原田字諏訪上140-1
- 交通:
参考文献
- 赤城村教育委員会(2004)『赤城村埋蔵文化財発掘調査報告書 25:三原田諏訪上遺跡』赤城村教育委員会
- 橋本勝雄(2020)「出現期の石鏃に関わる新たな資料群の発見とその意義」研究連絡誌 (83), pp.2507-2519,千葉県教育振興財団文化財センター
田中王塚古墳 ― 2026年05月03日 00:28
田中王塚古墳(たなかおうづかこふん)は、滋賀県高島市に所在する古墳時代中期の古墳である。高島平野を流れる安曇川右岸、泰山寺野台地東端部に立地し、同地に分布する田中古墳群の中核をなす古墳で、田中古墳群の第1号墳として位置づけられている。通称は「王塚」・「ウシ塚」とされている。
概要
墳丘の規模は直径約58mとされるが、その墳形については議論がある。従来は後円部径約58メートルをもつ帆立貝式古墳(前方部の短い前方後円墳)とする説が提示されてきた。しかし、明治時代の土地改変により墳丘の一部が削平・変形している可能性が高く、現状の地形からは円墳とみなす見解が有力となっている。このため、本来の墳形については確定しておらず、帆立貝式古墳であった可能性を含めて検討が続けられている。
1905年(明治38年)には、宮内庁により第26代とされる継体大王の父、彦主人王の陵墓参考地に比定され、用地が買い上げられて現在も同庁の管理下にある。陵墓参考地とは、文献伝承や立地・規模などから皇族墓の可能性があるとして指定されたものであるが、被葬者が確定しているわけではない。宮内庁は「彦主人王御陵」としている。安曇川以南で最初の首長墓とされている。
築造時期は、周辺で採集された埴輪片(円筒埴輪など)の様式や墳形の特徴、さらに田中古墳群内の他古墳との比較から、5世紀中葉頃と考えられている。この時期は、畿内政権の影響が地方へ及ぶ過程にあたり、本古墳もその政治的動向と関わる地域首長墓の一つと位置づけられる。
立地する高島平野は、安曇川流域の水運と農耕基盤を背景とした交通・生産の要衝であり、田中王塚古墳はこうした地域支配の中核を担った首長の墓として築造された可能性が高い。とくに台地縁辺という立地は、周辺低地を見渡す視覚的優位性を備え、古墳の権威性を強調する意図があったと考えられる。
継体系譜と近江勢力
古墳時代後期初頭に即位した第26代大王とされる継体は、それまでの大王系譜とはやや異なる出自をもつことで知られる。『古事記』『日本書紀』によれば、継体は応神大王の五世孫とされるが、その系譜は遠縁とされており、王統の連続性に断絶のあることが指摘されてきた。また応神から武烈までは10代あるので、世代数が2倍あって大幅に異なる。このような中で、継体の出自基盤として重視されるのが近江・越前に広がる地域勢力である。
継体は即位以前、近江国高島郡三尾(現在の滋賀県高島市周辺)に拠点を有していたとされる。この地域は琵琶湖西岸に位置し、日本海側へ通じる交通の要衝であると同時に、安曇川流域の豊かな農耕地帯を背景とした有力な地域社会が形成されていた。こうした地理的・経済的条件は、単なる地方豪族の域を超えた政治勢力の成立を可能にしたと考えられる。
近江北部には、田中王塚古墳をはじめとする首長墓が分布し、古墳時代中期以降の有力勢力の存在を示している。とくに高島平野一帯は、琵琶湖水運と内陸交通を結節する地点であり、物資流通と軍事動員の双方において戦略的価値を有していた。このような地域に根ざした勢力が、中央王権の変動期において台頭した可能性は高い。
6世紀初頭、大和王権では武烈大王の死後に後継者が不在となり、王統の継続が危機に陥った。この状況の中で、継体は諸豪族の支持を受けて擁立された。即位は大和ではなく河内・山背など複数の地を経て段階的に進められたことが知られており、これは継体政権の基盤が必ずしも大和に限定されていなかったことを示唆する。すなわち、近江・越前などの地方勢力が連合的に関与し、新たな王権を構築したとみることができる。
また、継体の父とされる彦主人王の陵墓参考地が近江に比定されている点も、この地域が王統形成に深く関与していたことを物語る。ただし、陵墓参考地はあくまで比定であり、実際の被葬者を確定するものではない点には注意が必要である。
以上のように、継体天皇の即位は単なる王統内部の継承ではなく、近江をはじめとする地方有力勢力の台頭と結びついた政治的再編の結果の新たな王統と捉えることができる。すなわち、6世紀初頭の王権は、大和中心の単一的構造から、広域的な勢力連合へと再編される過程にあり、継体大王はその転換点に位置する存在であった。この視点からは、近江勢力は単なる地方勢力ではなく、新王権の成立を支えた中核的基盤の一つとして再評価されるべきであろう。
遺物
- 埴輪片
指定
- 1905年(明治38年) 宮内庁陵墓参考地
展示
アクセス等
- 名称 :田中王塚古墳
- 所在地 :滋賀県高島市安曇川町田中
- 交 通 :JR湖西線「安曇川駅」から徒歩約20分
参考文献
- 高島市(2026)「歴史散歩 No111」『広報 高島No170』
- 琵琶湖高島観光協会(2019)「高島今昔旅」
送風管 ― 2026年05月04日 00:34
送風管(そうふうかん)は古代における青銅器鋳造・鉄器生産・ガラス製作などの炉に空気を送り込むための装置である。炉内に強制的に空気を供給することで燃焼効率を高め、温度を上昇させる役割を担う。送風管は、ふいご(送風装置)と炉を接続する重要な構成要素であり、古代の生産技術を理解するうえで不可欠な遺物である。
構造と材質
送風管には主に土製と木製があり、一般的には耐火性に優れた土製品が多い。形状は直状(ちょくじょう)と曲状(きょくじょう)に大別される。曲状送風管は先端部を炉内に差し込む構造をもち、高熱にさらされるため先端部が赤変・黒変している例が多い。一方、直状送風管は複数連結され、送風効率を高めるための延長管として機能したと考えられる。
元岡・桑原遺跡群の事例
元岡・桑原遺跡群では、管状の木製送風管が約10点出土している。これらは長さ約60cm、直径4?6cm程度で、一端に焦げ跡が確認される。木製送風管の出土例は全国的にも稀であり、当該遺跡における技術的特徴を示す重要資料である。また、同遺跡群の他地点では土製送風管も確認されており、材質の使い分けが行われていた可能性がある。
東奈良遺跡の事例
東奈良遺跡は弥生時代中期後半を代表する鋳造遺跡であり、送風管が143点出土している。これらは直状・曲状の両タイプが存在し、外面にはヘラ描きによる三叉形の記号が施されている例がある。この記号については「狩人」「シャーマン」「鳥」など諸説があるが、弥生文化に特徴的な図像表現の一種と解釈されている。
また、送風管内面に広範囲に付着する煤(すす)は、炉内温度の上昇が不十分であったことを示す痕跡と考えられており、当時の操業条件や技術的課題を復元する手がかりとなる。
唐古・鍵遺跡の事例
唐古・鍵遺跡では銅鐸鋳造に関係する石製鋳型が出土しており、青銅器生産の拠点集落とされる。この遺跡でも送風管が確認されており、曲状の先端部を炉内に挿入し、その後方に複数の直状送風管を接続する構造が想定される。先端部の変色は高温環境での使用を示している。
学術的意義
送風管の出土は、単なる道具の存在を示すにとどまらず、古代における燃焼制御技術・冶金技術の発達段階を示す重要な指標である。特に形状・材質・使用痕の分析は、炉の構造や操業方法の復元、さらには生産体制や技術集団の存在を考察する上で有効である。
古代の送風技術
古代における生産技術の発展を考える際、送風技術の意義は大きい。送風技術とは、炉内に空気を強制的に供給し燃焼効率を高める技術であり、青銅器鋳造・鉄器生産・ガラス製作といった高温を必要とする工業的生産活動の基盤をなすものである。すなわち送風技術の成立は、単なる道具の改良にとどまらず、古代社会における生産力の質的転換を示す重要な指標である。
まず、送風技術の本質は「温度制御」にある。自然燃焼に依存する場合、炉内温度には限界があるが、送風管とふいごを用いることにより酸素の供給量を増加させ、より高温かつ安定した燃焼環境を実現することが可能となる。この技術的飛躍によって、青銅の溶解や鉄の還元といった高度な冶金操作が現実のものとなった。特に鉄器生産においては、送風の強弱が還元反応の成否を左右するため、送風技術は生産の核心をなす要素であった。
考古学的には、送風管の形状・材質・使用痕が技術水準を具体的に示している。例えば、東奈良遺跡において多数出土した送風管は、直状・曲状の使い分けや記号の付与など、単なる機能部材を超えた管理・運用の体系を示唆する。また、送風管内面に付着した煤は、炉内温度の制御が必ずしも安定していなかったことを示し、当時の技術的試行錯誤の存在を物語る。
さらに、元岡・桑原遺跡群に見られる木製送風管の存在は、材質選択の多様性と地域的適応を示す重要な事例である。一般に耐火性の観点から土製が主流とされる中で、木製品が用いられていることは、短期的使用や補助的機能、あるいは資源制約への対応といった柔軟な技術運用を示唆する。
また、唐古・鍵遺跡における送風管の構造は、複数の管を連結するシステム的発想を示している。これは単一の道具ではなく、「装置」としての技術段階に到達していることを意味し、作業の分業化や工程管理の存在を想定させる。
以上のように、送風技術は単なる補助的手段ではなく、古代生産の成立そのものを支える基盤技術であった。その発展は、①高温技術の確立、②生産の安定化と効率化、③技術体系の組織化、という三つの側面において古代社会に大きな影響を与えたといえる。
結論として、送風技術の展開は、弥生時代以降の社会における生産力の向上と専門技術集団の形成を促し、ひいては首長権力の成立や地域間交流の活発化にも寄与したと考えられる。送風管という一見して小さな遺物は、実際には古代社会の技術革新と構造変化を読み解く鍵となる重要資料となっている。
出土例
- 送風管 - 大山遺跡 –埼玉県北足立郡伊奈町小室、奈良時代・平安時代
- 県内屈指の古代製鉄遺跡である
- 送風管 - 東奈良遺跡、大阪府茨木市、弥生時代
参考文献
- 清水邦彦(2018)「東奈良遺跡出土の送風管について」茨木市立文化財資料館館報第4号
- 清水邦彦(2021)「記号が描かれた送風管」 茨木市立文化財資料館館報第6号
- 清水邦彦(2017b)『銅鐸をつくった人々-東奈良遺跡の 工人集団‐』茨木市立文化財資料館
割見塚古墳 ― 2026年05月04日 00:39
割見塚古墳(わりみづかこふん)は、千葉県富津市に所在する古墳時代終末期(7世紀前半)の方墳で、内裏塚古墳群に属する首長墓の一つである。大型の横穴式石室と整った墳丘規格を備える点で、同古墳群の最終段階を代表する古墳として重要視されている。
概要と立地
本古墳は内裏塚古墳群の一角に築かれた方墳で、墳丘は一辺約40メートル、高さ約5メートルを測る。古墳群は東京湾岸地域の有力首長層の墓域と考えられており、本古墳はその終末期における政治的・葬制的変化を示す資料である。
墳丘と周濠
昭和58年度・59年度の発掘調査により、墳丘の周囲には内濠と外濠からなる二重周濠が巡ることが確認された。これにより、墳丘と周濠を一体として設計された計画的な築造が明らかとなっている。
埋葬施設(横穴式石室)
埋葬施設は横穴式石室で、前庭部を含めた全長は約18.75メートルに達する大型のものである。石室は、入口通路である羨道、副次的な空間である前室・後室、そして遺体を安置する棺室から構成される複室構造をとる。
岩井直人(2016)は東日本の横穴式石室を分類し、本古墳を「奥室中心型」と位置づけた。これは、遺体を安置する奥の棺室を中心に、前室や羨道が付加された構造を特徴とする形式である。
出土遺物
本古墳は盗掘を受けていたが、前庭部などから以下の遺物が出土している。
- 直刀
- 馬具
- 銀製・金銅製の刀子装具
- 鉄鏃
- 弓金具
- 土師器・須恵器
これらは被葬者が武人的性格を有する有力首長であったことを示唆する。
古墳群内での位置づけと終末期方墳
内裏塚古墳群では、7世紀前半になると首長墓の形態として方墳が採用されるようになり、最終段階には方墳のみが築造される傾向が認められる。これは前方後円墳に代表される従来の墓制からの転換を示すものであり、政治体制や葬送儀礼の変化を反映すると考えられる。
割見塚古墳はこのような流れの中に位置づけられる「終末期方墳」の典型例である。
墳丘規格と設計論
小沢洋(1992)は、本古墳の墳丘および周濠の規模について、設計に一定の尺度が用いられた可能性を指摘している。具体的には、以下の数値が高麗尺(1尺約35cm)に基づく規格に近いとされる。
- 墳丘一辺:約40m(約120尺)
- 内周堀外辺:約63m(約180尺)
- 外周堀外辺:約107m(約300尺)
さらに、内周堀幅・周堤幅・外周堀幅についても、それぞれ約30尺・40尺・20尺に相当する値が認められ、全体として統一的な設計思想に基づいて築造された可能性がある。
総括
割見塚古墳は、
- 大型横穴式石室
- 二重周濠を備えた計画的墳丘
- 規格的設計の存在
- 終末期方墳への転換
といった特徴を備え、内裏塚古墳群の最終段階を理解する上で重要な古墳である。同時に、古墳時代から律令国家形成期へ移行する過程における葬制変化を示す考古資料として高い学術的価値を有する。
遺物
- 土師器
- 須恵器
- 馬具
- 刀子
- 鉄鏃
指定
展示
アクセス等
- 名称 :割見塚古墳
- 所在地 :千葉県富津市二間塚字割見塚1754
- 交 通 :JR内房線 青堀駅出口から徒歩約17分/1.3km
参考文献
- 小沢洋(1992)「上総南西部における古墳終末期の様相」国立歴史民俗博物館研究報告 44,pp. 329-366
- 岩井直人(2016)「東日本の横口式石榔」国士舘史学 巻 20,pp.85-106
跡部遺跡 ― 2026年05月04日 11:15
跡部遺跡(あとべいせき)は、大阪府八尾市に所在する、弥生時代前期から古墳時代前期、さらに古代・中世に至るまで継続して営まれた複合遺跡である。
概要
跡部遺跡は八尾市北部に位置し、北を長瀬川、南を平野川に挟まれた、旧大和川流域の低湿地帯に立地する。周辺は古くから水運や農耕に適した環境であり、弥生時代以降の集落形成に好適な条件を備えていた。
遺跡の中心は東部にあり、遺構の分布密度が高い地域である。一方、西部は比較的遺構が少ない地域とされる。発掘調査により、弥生時代から古墳時代前期、さらに奈良時代・中世に至るまでの連続した生活痕跡が確認されている。
主な遺構・遺物
弥生時代の集落は、複数の環濠(溝)によって囲まれていたことが確認されており、防御的性格や集落構造を示す重要な成果である(1993年〔平成5年〕の調査)。 また、1994年〔平成6年〕の調査では弥生時代中期の大規模な溝、1996年の調査では奈良時代の井戸が検出されている。1989年(平成元年)の出土遺物は銅鐸のほか、、小型壺、直口壺、複合口縁壺、長胴壺、手焙形土器、高杯、鼓形器台、小型器台、小型鉢、大型鉢、甕、台付甕、鉢があり、溝を伴う遺構の南東部に集積された土器は小型壺、鉢、高杯、台付鉢、甕である。弥生時代の終末期の広口壺が見られる。土器のほかにサヌカイト石器未成品と加工痕のある剥片が検出されている。
銅鐸の出土とその意義
跡部遺跡および周辺地域では、弥生時代の青銅器である銅鐸の発見が相次いでいる。
1921年(大正10年)には、八尾市恩地の垣内山で流水文銅鐸が発見され、現在は東京国立博物館に所蔵されている。、鐸全高44.5cm、鉦高12cm、鐸身紋様は横帯流水紋であるが、胴の上部と中部に複合直線紋帯があり、流水紋を上下に三分する。これは春日町出土のものと異なり、二区流水紋銅鐸といわれている。A面の下方鋸歯紋帝の下辺に魚が4匹泳いでいる様子を表し、B面には鹿が3頭1列に並んでいる姿を描いている。 さらに1949年(昭和24年)には近隣の都塚山から袈裟襷文銅鐸が出土している。鐸全高 39cm、鉦高10cmで大阪府文化財に指定されている。
特に重要なのが、1989年(平成元年)に八尾市春日町一丁目で発見された流水文銅鐸である。1989年(平成元年)10月17日から機械掘りの後の整地を行ったところ、古墳時代の土器片が現れ、10月24日に銅鐸の鰭が直立しているところを発見した。銅鐸は鰭を上下に直立した状態で、鉦を南東方向にむけて埋納されていた。埋納坑はは一辺1.4mの隅九方形で、深さは40~ 50cmであった。一辺1.4mの隅九方形の埋納坑が南東方向に掘られており、南東方向の中央部に粘土床がつくられ、そこに銅鐸が鰭を直立して鈕を南東方向に向けて丁重に埋納されていた。 この銅鐸は、低湿地において土坑内に埋納された状態で発見された全国初の事例として注目される。発掘調査により、銅鐸は約1.4メートル四方の穴の中に丁寧に埋められていたことが確認された。また、銅鐸内部の土壌が周囲と異なることも判明しており、埋納行為の意図性が指摘されている。この銅鐸は八尾市指定文化財に指定されている。
銅鐸の形状は扁平紐式で、全高46.65cm、鈕高13.65cm、重量約4.7kgを測る。鐸身には五条の突線による流水文が全面に施され、外縁には鋸歯文帯・連続渦文帯・斜線文帯が巡る。さらに菱環には綾杉文、紐外側には双頭渦文の飾耳が付されるなど、精緻な装飾が特徴である。最終仕上げとして研磨が施されている点も注目される。部分的に補鋳が見られる。
歴史的評価
跡部遺跡は、『日本書紀』にみえる「阿都(あと)」の地名と関連づけられることから、古代豪族である物部氏の本拠地の一角であった可能性が指摘されている。実際に6世紀の遺構・遺物も確認されており、古代国家形成期における地域拠点としての性格を有していたと考えられる。
総合評価
跡部遺跡は、弥生時代の環濠集落から古代・中世に至る長期的な土地利用の変遷を示す重要遺跡である。とりわけ銅鐸の出土状況は、弥生時代の祭祀や埋納儀礼の実態を考える上で極めて貴重であり、河内地域における社会構造や信仰の解明に大きく寄与している。
遺物
- 直口壺破片 弥生時代
- 小型壺
- 加飾壺
- 広口壺
- 長胴壺
- 高坏
- 鼓型器台
- 小型鉢
- 大型鉢
- 甕
- 木製品
指定
時期
展示
- 八尾市立歴史民俗資料館*アクセス
- 名称:跡部遺跡
- 所在地:大阪府八尾市東太子1丁目6-12(竜華小学校内)
- 交 通:JR「久宝寺」駅から徒歩約14分/近鉄バス「植松」から徒歩4分
参考文献
- 「銅鐸(八尾市指定文化財)(跡部遺跡出土)」八尾市立歴史民俗資料館
- 大阪府教育委員会(2002)『跡部遺跡』大阪府埋蔵文化財調査報告2001-6
- 八尾市文化財調査会(1991)「跡部遺跡発掘調査報告書」八尾市文化財調査研究会報告31
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