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大神塚古墳 ― 2026年08月16日 00:50

大神塚古墳(おおじんづかこふん)は神奈川県高座郡寒川町に所在する4世紀後半から5世紀前半の前方後円墳(または帆立貝形前方後円墳)である。「応神塚古墳」、「寒川町No.8遺跡」とも呼ばれる。

概要

座間市、海老名市、綾瀬市、藤沢市、寒川町を流れる目久尻川・小出川流域を望む相模野台地南縁部、標高約15mの微高地に立地する 高野山真言宗の寺院安楽寺の境内に位置しており、本堂の裏手に存在する。

1908年(明治41年)帝国大学理科大学教授・坪井正五郎の指導で発掘調査が実施された。しかし詳しい調査報告書がないため、詳細は不明である。 坪井正五郎氏の指導のもとで行われた、日本最古期の発掘調査で、埋葬施設(粘土槨、または舟形木棺を収めた施設と推測される遺構)から、副葬品として主体部から倭鏡(1908年(明治41年)の調査)2面と漢鏡1面、直刀3振が出土した。

現存する墳丘は全長約43m、後円部径約28m、高さ約4mとされるが、前方部は大きく削平されている。前方部が大きく削平されているため、本来の墳形には不明な点がある。墳丘上の配石や、和鏡の再配置、さらに安楽寺本尊の年代などから、古墳は中世において山岳信仰・修験的な宗教空間として再利用されていた可能性が指摘されている。 墳丘は裾に近い部分は地山をローム層近くまで掘削して土台を構築し、その後黒色土を盛土した。残存状況から、主体部は粘土槨を基本とし、その内部に木棺を据え、周囲に礫を配した構造であった可能性が高い。 出土品の一部として寒川神社方徳資料館に鏡1面が保管展示される。そのほか直刀・その他鉄製品は大神塚古墳およびD号墳の出土と思われる。

築造時期は時期を決定づける土器が出土していないので不確定であるが、古墳時代前期の4世紀後半頃と推定されている。従来は5世紀前半頃と考えられていたが、近年の調査成果により年代が見直されている。近年、寒川町教育委員会による保存目的の発掘・確認調査が継続して実施されている。

陪塚

大神塚古墳の周辺に小型古墳5基(大神塚周辺古墳群)が配置される。大神塚周辺古墳からC・D号墳で勾玉・管玉・切子玉・ガラス小玉、D号墳から金環が出土した。

被葬者の伝承

被葬者について、寒川地域では寒川神社が国造の祖先を祀る神社と伝えられていることから、大神塚古墳を相模川流域を開拓した初代相武国造・茅武彦命の墓とする伝承がある。ただし、これは後世の伝承に基づくものであり、考古学的に被葬者を特定できる資料は確認されていない。

考察

大神塚古墳は、相模川流域において前方後円墳が出現する初期段階に位置づけられる古墳である。相模川流域では、4世紀後半から5世紀初頭にかけて、前方後円墳の築造が各地で開始されるが、その多くは全長40~60m級の中規模墳であり、大神塚古墳(推定全長約50m)もこの規模帯に属する。 漢鏡は内行花文鏡で、1世紀から2世紀頃の中国(後漢時代)で作られたものとみられる。築造年代と鏡の製作年代との時代差から、伝世品と推定されている。 ヤマト王権中枢または王権と緊密な関係をもつ有力首長層によって管理・授与されていた性格の遺物と考えられる。相模川流域の同時期古墳において漢鏡副葬例が限られることを踏まえると、大神塚古墳の被葬者は、単なる地域内部の有力者にとどまらず、ヤマト王権の政治秩序に早い段階から組み込まれた首長層であった可能性がある。

また、大神塚古墳の周辺には複数の小型古墳(大神塚周辺古墳群)が配置されており、被葬者を中心とした首長墓とその従属的墓域からなる構造が認められる。この点も、相模川流域における初期首長制の成立過程を示す好例といえる。

築造時期

  • 4世紀後半頃

被葬者

展示

  • 寒川神社方徳資料館)(一部のみ)、東京大学総合研究博物館

指定

  • 1987年(平成9年)12月24日 寒川町指定重要文化財

アクセス等 

  • 名称  :大神塚古墳
  • 所在地 :神奈川県高座郡寒川町岡田字大塚
  • 交 通 :JR相模線「寒川駅」北口から徒歩で10分

参考文献

  1. 小林秀満(2025)「近年の発掘調査成果をもとに寒川町大(応)神塚古墳を読み解く」
  2. 寒川町教育委員会(2023)「令和4年度大(応)神塚古墳(寒川町№8 遺跡)保存目的のための調査概要」