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武寧王2024年10月17日 00:09

武寧王(ぶねいおう、무령왕、462年 - 523年)は百済の第25代王である。

概要

在位は501年から523年。『三国史記』百済本紀・武寧王紀では牟大王(東城王)の第二子とされている。東城王が高官に殺害された後をうけて即位したとする。40歳であった。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱を斯摩とする。武霊王が生まれたとされる島の洞窟に説話が伝わる。武寧王は中国「梁」から「寧東大将軍」の爵号を贈られ、百済の全盛期を築いた。

日本書紀記事の正確性

次の点で正確である。

  • (1)史料間で親が異なっている。『三国史記』百済本紀・武寧王紀では牟大王(東城王)の第二子とするが、武寧王陵の発掘の結果、武寧王が東城王や三斤王より年齢が高いことが明らかになっており、現在では『日本書紀』によれば蓋鹵王の子とされる。『日本書紀』の方が正しいと考えられている。
  • (2)『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱を斯摩とする。諱は日本書紀の記述「嶋」と読みが一致する。
  • (3)武寧王の生年は武寧王陵墓誌から462年とされている。『日本書紀』では雄略5年(461年)6月とされており、1年違うが概ね一致しているといえる。
  • (4)523年に死亡した当時の年齢で62歳だったと記録されている。『日本書記』の生年461年(雄略5年)は1年以内の誤差となる。百済では蓋鹵王の8年である。

武寧王の生誕

  • (『日本書紀』原文 雄略五年) 六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。
  • (大意)461年(雄略5年)6月、妊娠した婦人は、筑紫の加唐島(現佐賀県)で男子を産んだ。名付けて「嶋君」という。軍君は船を出して、百済に送った。これを武寧王とする。百済人は嶋王を「主嶋」(国主嶋)と呼んだ。

即位の事情

  • (『日本書紀』大意)百済の末多王(第24代国王、東城王)は百姓に暴虐を働いたため、百濟の国人は王を排除して、嶋王を王に立て武寧王が即位した。
  • (『日本書紀』原文 武烈) 四年夏四月、是歲、百濟末多王無道、暴虐百姓。國人遂除而立嶋王、是爲武寧王。

死去

  • 継体17年(523年)5月、百済の武寧王が死去した。継体18年(524年)1月、聖明王が即位した。
  • (『日本書紀』原文 継体)十七年夏五月、百濟國王武寧薨。十八年春正月、百濟太子明卽位。

武寧王陵

金銀で作られた多様な装身具、金銅製飾履、青銅鏡、中国製陶磁器など4,600点におよぶ多くの遺物が出土した。墓誌石の碑文から、被葬者は百済第25代国王武寧王とその王妃と特定された。三国時代の王陵の中で唯一被葬者が明らかになった墓である。公州宋山里古墳群の一つである武寧王陵は1971年7月、宋山里6号墳の排水工事の際に偶然発見された。武寧王陵と宋山里6号墳は中国南朝の影響を受けて作られた磚築墳でアーチ型の天井をなす石室と羨道を備えた構造である。塼という煉瓦を積み上げた「塼築墓」形式で、煉瓦の紋様から副葬品の種類や配置まで、中国の南朝・梁の形式を完全に踏襲している。

倭国との関り

武寧王と王妃の木棺は、コウヤマキ(高野槙)という日本の九州にしか自生しない木材で作られていた。また『日本書紀』には武寧王(斯麻王)は倭国の佐賀県唐津市加唐島で生まれたと記されている。武寧王陵の副葬品には銅鏡や環頭太刀、翡翠の勾玉など日本との交流を示す数多くの品があった。

考察

韓国資料(日本では未刊行)では東城王は466年以降の生誕であるという。百済の反乱を平定した後、政権を握った勢力によって東城王が擁立されたという。

『日本書紀』では479年(雄略23年)4月、文斤王(三斤王)が急死したが、昆支王の5人の子の中で2番目の末多王は幼いが聡明であるため、兵500名を付けて百済に送ったとある。これが東城王となる。日本書紀の記述は真実を語っていない可能性があるが、東城王が幼かったことは事実であろう。

武寧王が昆支王の長子だったとすれば、東城王が第2子となるから整合性はありそうだ。文斤王も13歳で即位したので、東城王が13歳くらいで即位したとしても不思議ではない。百済内部の派閥争いで、東城王が擁立されたのか、または両者は母親が違うので、東城王は正妻の子であったから優先された可能性もある。百済でも正妻(王妃)の子と妾の子とでは格差があったかもしれない。『日本書紀』の「蓋鹵王の子」が正しいとすれば、東城王と武寧とは父親も母親も違うことになりそうだ。いずれにしても、この時代については『日本書紀』も『三国史記』も百済王族の親子関係の記述が混乱しているので、正確には判断しにくい。

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 金 富軾, 井上秀雄訳(1980)『三国史記』平凡社

迎日冷水碑2024年07月09日 10:12

迎日冷水碑/出典:韓国金石文総合画像情報システム

迎日冷水碑(ヨンイルネスピ、영일냉수비l)は503年に建立された新羅で最古の古碑である。

概要

1989年に大韓民国慶尚北道迎日郡(現在は浦項市と合併)神光面冷水里で発見された石碑である。「道路工事現場で昔の碑石が出てきたという申告を受け、国立慶州文化財研究所に移し分析した結果、新羅古碑石であることを確認した」とされる。高さ67cm、幅72cm、厚さ25~30cmの台形状である。大韓民国の国宝第264号(迎日冷水里新羅碑)に指定されている。 花崗岩を一部加工して前面・裏面・上面に文字を刻んだ特殊な形の古碑であり、前面12列152文字、裏面7列59文字、上面5列20文字などともに231文字が陰刻でほぼ鮮明に残っている。新羅王が葛文王をはじめとする中央の貴族の合議により、冷水という土地の近くにあある財産に関する紛争を王が丸く収めたという内容である。慶尙北道浦項市北区神光面土城里にある神光面のミョンサムソ(村役場)の庭にある。

年代

碑文記載の癸未年は503年または563年であるが、碑石の官職名が561年に建てられた昌寧真興王拓境碑に出てくる官職名よりさらに古いので、503年(智證王4年)が妥当とされる。智証王の在位は500年から514年である。

新羅王

新羅王は「智証麻立干」であるが、『三国遺事』では智哲老王・智訂麻立干と記載される。新羅の第22代の王(在位:500年 - 514年)であり、姓は金、諱は智大路、または智度路、智哲老。碑文では、「至都盧葛文王」と記載される。智証王は500年に王として即位したが3年後の503年に葛文王を称している点が注目される。斯羅は当時の新羅の国名であるが、503年に「新羅」を正式な国号としたので切り替わりの時期である。至都蘆は智証の異表記である。

原文

(表面)

  • 斯羅喙斯夫智王乃智王此二王教用珍而
  • 麻村節居利爲證尓令其得財教耳
  • 癸未年九月廿五日沙喙至都盧葛文
  • 王□徳智阿干支子宿智居伐干支
  • 喙尓夫智壹干支只心智居伐干支
  • 本波頭腹智干支斯彼暮斯智干
  • 支此七王等共論教用前世二王教
  • 爲證尓取財物盡令節居利
  • 得之教耳別教節居利若先
  • 死後令其第兒斯奴得此財
  • 教耳別教末鄒斯申支
  • 此二人後莫更道此財

(裏面)

  • 若更道者教其重罪耳
  • 典事人沙喙壹夫
  • 智奈麻到盧弗須仇
  • □喙耽須道使心公
  • 喙沙夫那斯利沙喙
  • 蘇那支此七人□所白了
  • 事殺牛抜誥故記

上面

  • 村主臾支干
  • 支須支壹
  • 今智此二人世中
  • 了事
  • 故記

大意

斯羅の斯夫智王と乃智王が麻村節居利という人物の財産所有を認めた。 503年9月25日、至都盧葛文王(智証麻立干)以下中央の六部出身の高位官僚の7人(徳智阿干支、本波頭腹智干支、宿智居伐干支、喙尓夫智壹干支、只心智居伐干支、支斯彼暮斯智干支)が以前になされた二王の決定事項を再確認しながら麻村節居利が死んだ後、弟兒斯奴が財産を相続することと、末鄒・斯申支はこの財産には関与しないことを決定した。中央から派遣された官僚7人が上級官僚7人の決定事項を執行しながら牛を殺して天に報告する儀式を行い、宣告した事実を記録した。

問題点

国王だけでなく会議に出席する全メンバー7人全員を王と呼んでいることが挙げられる。当時の新羅は豪族の連合政権であった。集団のメンバーは「七王」と呼ばれており、全員が王であった。王が1名に集約される過程で何が起きたのであろうか。6世紀初めでも豪族の連合政権であったということは、倭国でも同じような状況であったことも考えられる。

参考文献

  1. 李成市(2000)『東アジア文化圏の形成』、山川出版社
  2. 武田幸男編(2000)『朝鮮史』、山川出版社
  3. 鈴木秀夫(1989)「動向と展望-最近発見の韓国の古代四碑について」『国史学』139
  4. 木村誠(1992)「朝鮮における古代国家の形成」『新版古代の日本 アジアから見た古代日本』角川書店
  5. 迎日冷水碑釈文一覧、立教大学

扶余豊璋2024年06月06日 21:01

扶余豊璋(ふよほうしょう、풍장、生没年不詳、在位660年9月から663年8月)は百済の最後の王子である。 日本書紀では「余豊璋」、「余豊」、「豊璋」、「豊章」などとする。『三国史記』では扶余豊、『旧唐書』は扶余豊/余豊とする。「余」は姓で「扶余」の略である。「豊王」ともいう。

概要

百済の最後の王である義慈王(의자왕)の5男とされる。 日本書紀によれば、631年(舒明3年)に子の余豊璋を人質として日本に送り、両国の関係の強化を図ろうとしたとされる。倭国にいる間に養蜂を試みたという。『三国史記』には人質と書かれていないので、人質ではなかったという説もある。 百済の義慈王が敗戦した後も、百済の地方軍と領土は大部分が健在であった。百済復興運動の指導者・鬼室福信は、百済復興のために豊璋の送還を求めた。661年(天智1)年、倭国は5000人をつけて豊璋を衛送したとされる。663年6月、百済王豊璋と福信とは不和となり、豊璋は福信を斬殺してしまった。 663年、百済は唐・新羅の連合軍と戦って敗北し、完全に滅亡した。豊璋は数人と舟で高句麗に逃げたとされる。668年、高句麗の滅亡後は唐に捕虜として送られ、流刑になったとされる。 『日本書紀』は豊璋が即位下と記すが、「三国史記」「三国遺事」は豊璋を正式の王と認めていない。

業績

日本書紀

日本書紀卷第廿三 舒明

  • (三年春)二月辛卯朔庚子、掖玖人歸化。三月庚申朔、百濟王義慈、入王子豐章爲質。
  • (大意)舒明3年2月掖玖の人が帰化した、3月百濟の義慈王は豊璋を人質とした。

日本書紀巻第廿五 孝德

  • (白雉元年)以粟田臣飯蟲等四人使執雉輿而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等而至中庭。
  • (大意)白雉が現れたため改元した。左右大臣らは宮門外に並び、粟田飯虫ら4人は雉を乗せた輿を持ちそれを先頭とし、左右大臣、百官、百済の豊璋、その弟の塞城・忠勝、高句麗出身の醫毛治、新羅出身の侍學士を従えて進んだ。

日本書紀巻第廿六 齊明

  • (二年冬十月)又乞師請救、幷乞王子余豐璋曰或本云、佐平貴智・達率正珍也「唐人率我蝥賊、來蕩搖我疆埸、覆我社稷、俘我君臣。
  • (大意)
  • (六年)冬十月、百濟佐平鬼室福信、遣佐平貴智等、來獻唐俘一百餘人、今美濃國不破・片縣二郡唐人等也。又乞師請救、幷乞王子余豐璋曰或本云、佐平貴智・達率正珍也「唐人率我蝥賊、來蕩搖我疆埸、覆我社稷、俘我君臣。百濟王義慈・其妻恩古・其子隆等・其臣佐平千福・國辨成・孫登等凡五十餘、秋於七月十三日、爲蘇將軍所捉而送去於唐國。蓋是、無故持兵之徵乎。而百濟國遙頼天皇護念、更鳩集以成邦。方今謹願、迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲國主。」云々。詔曰「乞師請救聞之古昔、扶危繼絶著自恆典。百濟國窮來歸我、以本邦喪亂靡依靡告。枕戈嘗膽、必存拯救。遠來表啓、志有難奪。可分命將軍百道倶前、雲會雷動倶集沙㖨、翦其鯨鯢紓彼倒懸。宜有司具爲與之、以禮發遣。」云々。送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等、其正發遣之時見于七年。或本云、天皇、立豐璋爲王・立塞上爲輔、而以禮發遣焉。
  • (大意)百済の佐平・鬼室福信は佐平・貴智を遣わし、「唐と新羅は王とその妻、子の隆、佐平千福らを唐に捕虜として連行した。しかし百済は人々を呼び集めて再興しようとする。そこで皇子の豊璋を迎えて国王としたい」と述べた。斉明は百済を助けたいと述べた。皇子豊璋と叔父の忠勝を送った。ある本には(斉明は)豐璋を王とし、弟の塞上を助けとし、送り出したとする。

日本書紀巻第廿七 天智

  • 九月、皇太子、御長津宮、以織冠授於百濟王子豐璋、復以多臣蔣敷之妹妻之焉。乃遣大山下狹井連檳榔・小山下秦造田來津、率軍五千餘衞送於本鄕。於是、豐璋入國之時、福信迎來稽首奉國朝政、皆悉委焉。
  • (大意)皇太子は長津宮で百濟王子の豐璋に織冠を授け、蔣敷之の妹を妻とした。大山下狹井連檳榔と小山下秦造田來津とに5000の兵を付けて送り出した。豐璋が国に入ると福信は朝政をすべて任せた。
  • 五月、大將軍大錦中阿曇比邏夫連等率船師一百七十艘、送豐璋等於百濟國。宣勅、以豐璋等使繼其位、又予金策於福信而撫其背、褒賜爵祿。于時、豐璋等與福信稽首受勅、衆爲流涕。六月己未朔丙戌、百濟遣達率萬智等進調獻物。
  • (大意)大將軍大錦中阿曇比邏夫連らは舟170隻を率い、豐璋を百済国に送り届け、豐璋を百済国王に付けた。

考察

631年(舒明3年)の来日は、義慈王の即位は641年であり、それより前の時点での人質は疑問がある。豊璋は百済に戻った後は、即位したのではないだろうか。滅亡した国では資料が残らないので、立証が難しい。 国が滅びるときは、内部の混乱が原因となることが多い。百済もその例にもれない。豊璋が鬼室福信を殺害したのは、百済の滅亡に拍車をかけたのではなかろうか。豊璋は政治力や大局的な判断がなかったと思える。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 金富軾 (1983)『三国史記』平凡社
  3. 高寛敏(1995)「百済王子豊璋と倭国」東アジア研究 (10),pp.53-71

武烈王陵2024年06月05日 09:40

武烈王陵(ぶれつおうりょう、경주 무열왕릉, 태종무열왕릉비)は大韓民国の慶州市にある新羅の第29代王太宗武烈王の王陵である。「慶州武烈王陵」ともいう。

概要

統一新羅時代の661年に没した。在位は654~661年。 日本では飛鳥時代で、中大兄皇子称制が招請した年である。白村江の戦いの2年前であった。 直径36.31m、周囲112m、高さ13mの円墳である。東方には陵碑があったとされる。陵碑は失われ、亀跌(きふ)と螭頸(ちしゅ)だけが残る。亀跌の四方に礎石が遺存する。 復元されている。螭頸に武烈王の二男の金仁問が書いた「太宗武烈大王之碑」の8文字を陽刻する。陵碑は唐も影響を受けた形式である。発掘調査はされていない。

業績

本名は金春秋である。諡号は武烈である。唐と連合して百済を併合し、統一のための基盤を整えた。

日本書紀

日本書紀巻第廿五 孝德

  • (三年 )新羅、遣上臣大阿飡金春秋等、送博士小德高向黑麻呂・小山中中臣連押熊、來獻孔雀一隻・鸚鵡一隻。

日本書紀卷第卅 持統

  • (二年)若言前事者、在昔難波宮治天下天皇崩時、遣巨勢稻持等、告喪之日、翳飡金春秋奉勅。

考察

金春秋は日本書紀に登場する。

アクセス等

  • 名称:武烈王陵
  • 所在地:大韓民国慶尚北道 慶州市 西岳洞 842
  • 開館時間:3月~10月9:00~18:00、11月~2月9:00~17:00
  • 展示:年中無休
  • 交通:

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 三池 賢一(1968)「金春秋の王位継承」法政史学20、pp.113-124

聖明王2024年01月01日 10:16

聖明王(せいめいおう、성왕、?- 554年7月)は百済の第26代の王である。『日本書紀』には聖明王または「聖王」「明王」と書かれる。

概要

在位は523年から554年である。武寧王の子である。『三国史記』百済本紀・聖王紀によれば諱は明禯である。西暦475年、高句麗の長寿王は3万の兵士を率いて百済の都である漢城を攻撃する。 百済は攻撃を防ぎきれず、都を「熊津」に移した。 その後、523年5月に即位した聖王を『三国史記』は「才知と決断力に優れる」と書く。 524年に梁から「持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王」に冊封される。 538年に聖明王は首都を熊津(現在の忠清南道公州市)から泗?0;(忠清南道扶余郡)に移した。中央集権国家の確立と中国南朝文化を導入する新都の造営を目指し、国号を南扶余とした。 中央統制と地方の統治組織を構築し、政治運営では貴族の発言権を弱めて、王中心の国運営体制を確立ようとした。聖王は国の精神的支柱を強化するため、仏教を振興し、外交は中国の梁との関係を重んじた。当時の中国は北に北魏と西魏があり、南に梁があった。しかし稜は内部対立から557年に滅び、陳となった。

仏教公伝

『日本書紀』第十九巻・552年(欽明十三年)十月記事に聖明王はこの法は、最もすぐれたた教えである。経典は難しく分かりにくいが、幸福や果報をもたらし悟りに導くものとなる。仏教はインドから中国、朝鮮まで広まっている。すばらしい仏教を、日本でも広めてほしいと上表文を提出し、倭国に経典と仏像を送ったとされる。いわゆる仏教公伝であるが、百済側の史料では549年となる。使者は姫氏怒唎斯致契、姫氏達率らを遣わして釈迦仏の金銅像を一体、幡蓋、経典(經論)を奉ったとされる。ただしこの上表文は後世の偽作とされている(飯田武郷『日本書紀通釈』)。

戦死

554年に世子時代の王子の昌(後の威徳王)が周囲の忠告を無視して、大伽耶、倭と連合して新羅と闘った。新羅と管山城(忠清北道沃川郡)での戦闘中に、関山城の戦いで孤立した王子を救援しようとして出陣したが、狗川(忠清北道沃川郡)で新羅の伏兵(新羅の奴婢出身の兵士といわれる)に襲われて戦死した。王の死に衝撃を受けた百済軍は4人の将軍と3万人の兵士が戦死したとされ、大敗北を喫した。少ない兵で救援に向かったのは無謀な行動であった。百済と新羅の同盟関係は決裂し、聖王が梁や日本との同盟関係も危機となる。百済内部では王権は弱まり、馬韓系の貴族を中心とした政治体制が確立した。

陵墓

陵山里古墳群が陵墓と考えられる。古墳は盗掘されており、被葬者は分からない。最も古い古墳は2号墳、被葬者は聖王(聖明王)と考えられている。古墳は盗掘されており、被葬者は分からなくなっている。

日本書紀 第十九巻・欽明

  • (原文 )冬十月、百濟聖明王更名聖王、遣西部姬氏達率怒唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干卷。別表、讚流通禮拜功德云「是法、於諸法中最爲殊勝、難解難入、周公・孔子尚不能知。此法、能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶・逐所須用・盡依情、此妙法寶亦復然、祈願依情無所乏。且夫遠自天竺爰洎三韓、依教奉持無不尊敬。由是、百濟王・臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝國流通畿內。果佛所記我法東流。」*参考文献
  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 森浩一(2022)『敗者の古代史』KADOKAWA
  4. 角田春雄(1978)「日本書紀の仏教伝来について」印度學佛教學研究 26(2) pp.725~729

三韓2023年10月27日 21:22

三韓(さんかん)は古代において朝鮮半島の3つの地域「馬韓」「弁韓」「辰韓」をいう。 日本書紀では高句麗、百済、新羅を三韓とする。

概要

日本書紀は朝鮮古代の三つの国を三韓とする。『三国志』には「三種あり。位置に馬韓といい、二に辰韓といい、三に弁韓という」とする。馬韓には五十カ国があり、大国で1万余戸、小国は数千個、合計して十余万戸とする。後に百済となる伯済国が含まれる。辰韓は十二国からなる。弁韓も十二国からなる。4世紀には百済が馬韓を統一し、新羅が辰韓を統一した。

日本書紀 巻第九 神功皇后

  • (原文 九年冬十月)於是、高麗・百濟二國王、聞新羅收圖籍降於日本國、密令伺其軍勢、則知不可勝、自來于營外、叩頭而款曰「從今以後、永稱西蕃、不絶朝貢。」故因以、定内官家屯倉。是所謂之三韓也。皇后從新羅還之。

参考文献

渤海2023年10月26日 22:52

渤海(ぼっかい,698年-926年,발해)は8世紀から10世紀にかけて朝鮮半島北部から中国東北部にかけて高句麗の移民が建国した国である。

概要

遼東地方で大祚栄が自立して、高句麗を復興させるとして、698年に震国(または振国)を建て、高王と称して即位した。正式に渤海国となったのは762の第三代大欽茂の時からである。渤海は唐の冊封体制に組み込まれ、頻繁に遣唐使を派遣、唐の律令制度と仏教文化を積極的に受け入れ、唐風の文化が華やいだ。冊封体制下の国家は中国の年号を用いるところであるが、固有の年号を用いるなど、高句麗の後継国家を意識していた。

日本との関係

渤海の支配領域は満州から朝鮮半島北部に及んだため、新羅とは対立関係にあった。新羅の後に位置する日本(奈良朝から平安朝)とは、727年の最初の遣使が出羽に来航し、日本からも遣渤海使を派遣するなど、密接な交流が続いた。最初の渤海使は、大使の高仁義らは往路で死亡し、多くは蝦夷に捕らえられてしまうという苦難を超えて、生き残った高斉徳ら8名が出羽国から上京し、12月に聖武天皇に拝謁した。日本からの使節も何人かは渤海に到達できず行方不明になった。 727年から929年まで34回、日本に遣使した。日本からはこの間、13回遣使した。 航路は明確なコースは不明であるが、直接日本海を横断し、主として季節風を利用して冬は渤海から日本へ来航し、夏にその逆のコースを取ったと推定されている。遣唐使が新羅との関係悪化により、朝鮮半島西側の航路を取れなくなったとき、渤海経由で派遣されたことがある。

参考文献

  1. 上田雄(1992)『渤海国の謎―知られざる東アジアの古代王国』講談社
  2. 浜田 耕策(2000)『渤海国興亡史』吉川弘文館