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編年体2026年03月28日 14:45

編年体(へんねんたい)は歴史的事象を年代順に配列して記述する歴史叙述の方法であり、人物ごとに記述する「紀伝体」や、事件ごとに叙述する「紀事本末体」に対置される。

概要

中国史学においては、『春秋』(成立年代不明)に代表されるように、編年体は早い段階から成立し、正統的な叙述形式の一つとされた。『春秋』は魯の史官が記した記録(隠公元年(前722)―哀公十四年(前481))を孔子が整理したものと伝わる。さらに司馬光の『資治通鑑』(1084年(元豊7年)成立)は編年体の完成形とされ、名著とされる。これ以後の史書編纂に大きな影響を与えた。また、『春秋左氏伝』(紀元前5世紀から前4世紀頃に成立)は『春秋』の記述を敷衍したものであり、編年体の叙述を補完する重要な史書である。

一方、『十八史略』のような史書は、編年体的要素を含んでいるが抄録的性格が強く、厳密には正統的な編年体と区別されている。また、清代の夏燮による『明通鑑』(1821年から1861年頃に成立)は『資治通鑑』の例を継承した編年体史書である。

日本においては、『日本書紀』をはじめとする六国史が編年体で記されており、国家的編纂史書の基本形式となった。さらに、『栄花物語』『大鏡』『今鏡』『増鏡』などの歴史物語も基本的に年代順叙述を採用しつつ、人物評や逸話を交えるなど、紀伝体的要素を部分的に取り入れている。とくに人物の死去に際して略伝(薨伝)を付す点は、中国正史の影響を示すものである。 編年体は時間軸に基づいて政治史を記述するために最適化された形式であるが、人物評価や事件の構造分析の記述には限界があるため、紀伝体や紀事本末体が補完的形式として発展したと考えられる。

日本六国史の編年体的特徴

日本古代国家によって編纂されたいわゆる「六国史」(すなわち『日本書紀』に始まり、『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』に至る一連の正史)は、中国史書の影響のもとに成立した編年体史書である。その編年体的特徴は、単なる年代順叙述にとどまらず、律令国家の統治理念や政治運営のあり方と密接に結びついている。

1.天皇中心の時間編成(「年紀」構造)

六国史は各天皇の治世ごとに区分され、その内部で「○年○月○日」という形式により記事が配列されている。このような年紀に基づく叙述は、中国の編年体史書の影響を受けたものであるが、日本の場合はとりわけ天皇の治世そのものが時間秩序の基準となっている点に特徴がある。

例えば、日本書紀では天皇ごとの即位・崩御を軸に歴史が構成され、以後の六国史もこの枠組みを継承する。すなわち、編年体でありながら単なる時間順ではなく、「天皇代」という政治的単位によって秩序づけられた時間構造をもつ。

2.国家記録としての「記事主義」

六国史の編年体は、日々の出来事を網羅的に記録する「記事主義」を特徴とする。具体的には、以下のような内容が体系的に収録される。

  • 官人の任免・叙位
  • 詔勅・太政官符
  • 外交(遣唐使・渤海使など)
  • 災異(地震・疫病・旱魃)
  • 仏教・神祇関係の記事

これらは単なる出来事の羅列ではなく、律令国家の運営記録としての性格を強く持つ。特に詔勅の原文収録は、国家意思の記録という点で重要であり、編年体が「政治の逐次記録」に適した形式であることを示している。

3.因果関係の把握と政治的教訓性

編年体は同時代の出来事を時間軸上に配置するため、政策と結果、災異と政治の対応といった因果関係の把握に適している。六国史においても、例えば災異の発生に対して朝廷が祈祷や恩赦を行う記事が連続して記されることで、政治と自然現象との関係が一つの秩序として提示される。

この点は、中国の『資治通鑑』に代表されるような「為政者への教訓」を意図した編年体史学と共通しており、六国史もまた統治の正当性や規範を示す政治的テキストとして機能していた。

4.紀伝体的要素の部分的導入

六国史は基本的に編年体であるが、人物の死去に際してその事績をまとめた「薨伝(こうでん)」を付すなど、紀伝体的要素を部分的に取り入れている。これは個々の人物の評価や功績を明示する必要から導入されたものであり、編年体の弱点(人物像の把握の困難さ)を補う役割を果たしている。

このような混合形式は、日本における史書編纂の柔軟性を示すものであり、中国正史の単純な模倣ではない独自の展開と評価できる。

5.編纂主体と史料的制約

六国史は国家事業として編纂されたため、その記述は基本的に朝廷中心であり、地方社会や民衆の動向は限定的にしか現れない。また、記録の多くは公文書や日記に依拠しており、記録されるべき事柄が制度的に選別されている点にも注意が必要である。

したがって、編年体による網羅的叙述は一見客観的であるが、実際には当時の国家的視点に基づいた選択と編集が行われている。

結論

日本六国史の編年体は、中国史学の影響を受けつつも、天皇中心の時間構造と律令国家の行政記録という性格を強く反映した独自の発展を遂げた。そこでは、年代順叙述は単なる記録技法ではなく、国家秩序を可視化し、統治の正当性を支える装置として機能していたのである。

同時に、薨伝などの紀伝体的要素の導入は、編年体の限界を補完しようとする試みであり、日本史書の複合的性格を理解する上で重要な視点を提供している。 そこで『日本書紀』の神話部分が編年体になっていない理由を考える必要がある。

『日本書紀』の神話部分が編年体でない理由

① 神話は「編年できる時間」を前提としていない

日本書紀の神代巻では、「○年○月」といった形式で書かれていない。これは単なる不備(整合性の欠如)ではなく、執筆者による意図的な構造差である。

  • ● 編年体が成立する条件 編年体は本来、次の条件を必要とする。
    • 記述する出来事の年次が確定している
    • 同時代の出来事を横断的に比較できる
    • 記録(史料)が存在している

しかし、神話はこれを満たさない。

  • 神話の時間は循環的・象徴的である。
  • 神話の出来事は因果ではなく意味(神意)で結ばれている。
  • 神話は史料ではなく伝承である。

つまり、神話は編年体の「歴史時間」には乗らない領域である。

② 神話は「時間の秩序」ではなく「世界の秩序」を語っている。

神話の目的は、年代記ではなく世界の秩序の起源を説明したものである。

  • 天地開闢
  • 神々の系譜
  • 天孫降臨

これらは「いつ起きたか」ではなく、「なぜ現在の世界(天皇統治)が正当といえるのか」を説明したものである。 したがって神話部分は時間軸ではなく構造(系譜・物語、ナラティブ)により組織されている。

③ 神話→歴史への「接続点」としての神武紀

六国史は神話と歴史が完全に断絶・分離しているわけではなく、神話を編年体へ接続する工夫をしている。その典型が:

  • 神武天皇の即位以降は年紀が整う
  • 干支紀年が導入される

つまり

  • 神話(非編年) → 神武即位 → 編年体開始

という構造となる。

これは神話を歴史へと接続し、連続性を作る仕掛けである。

④ 編年体の導入目的との関係

仮説「天皇中心の歴史の叙述にするため」との説明は半分正しく、半分補足が必要となる。

  • ● 正しい点
    • 編年体は天皇の治世を軸に時間を整理できる
    • 国家の正統性を示すのに適している
  • ● しかし本質は
  • 国家が管理できる時間(=歴史)を成立させることである、

そのためには:

  • 神話(前史)   物語(意味の連鎖)
  • 編年体(歴史)  事実の連鎖

を区別する必要があった。

⑤なぜ「神話を無理に編年化しなかった」のか

仮に神話を編年化すると:

  • 年代の信憑性が崩れる
  • 中国史書との整合性が取れない

ことになり、かえって権威や信頼性が低下することになる。

そのため編纂者は神話は神話として提示しつつ、歴史部分だけを編年化としたという折衷を採用した。

⑥まとめ

六国史における構造は次のように整理できる。

  • 神話:時間を超えた起源(非編年)
  • 神武以降:国家の時間(編年体)

つまり『日本書紀』の編年体は「国家が成立した後の時間」にのみ適用されるのである。

神武紀の年代操作(辛酉革命説)

日本古代史研究において、『日本書紀』神武紀の年代は、単なる年代記述ではなく、意図的に構成された(創作された)「政治的時間」と理解されている。その代表的説明が辛酉革命説(しんゆうかくめいせつ)である。

1.辛酉革命説とは

辛酉革命説は、中国の思想である干支(十干十二支)と王朝交替思想に基づいている。

  • ● 基本原理
    • 干支は60年周期で巡る
    • 特に「辛酉(しんゆう)」の年は天命が改まり、革命(王朝交替)が起こる年とされた

この思想は『易』や讖緯思想の影響を受け、中国では王朝正統性の説明に利用された。

2.神武即位年と辛酉の一致

『日本書紀』では、神武天皇の即位年は

  • 紀元前660年

とされている。

この年を干支で表すと:

  • 辛酉年

になる。

3.なぜ辛酉に合わせたのか

六国史編纂者は、「日本の王権もまた、天命によって成立した正統王朝である」 ことを示すために、神武即位を“革命の年(辛酉)”に設定した、と考えられている。

つまり:

  • 単なる偶然の一致ではない
  • 意図的に(後から計算して)辛酉に配置された可能性が高い

4.具体的な年代操作の仕組み

神武紀の年代は、そのまま伝承されたものではなく、

  • ● 手順的には
    • 推古朝(7世紀)など比較的確実な年代を基準にする
    • 天皇の在位年数を積み上げる
    • 神武まで遡る
    • 最終的に辛酉年に一致する

よう調整編集する。その結果が紀元前660年である。

5.不自然な長寿・在位年数

この操作の副産物として、

  • 神武天皇:127歳
  • 綏靖〜開化:長期在位・高齢

といった非現実的な寿命・在位年数が生じた。

これは

  • 年代を「実際」ではなく「整合的」(都合よく)に合わせた結果

と理解される。

6.辛酉革命説の歴史的意味

この年代操作は単なる誤りではなく、明確な意図を持つ。

  • ● 意義
    • 日本王権を中国的世界観に接続する。
    • 王朝の正統性を「天命」によって保証する。
    • 対外的(対唐など)にも通用する(説明できる)歴史構築。

つまり国際的な歴史物語(ナラティブ)で日本の正統性を語る試みであった。

7.補足:他の年代思想との関係

辛酉革命説以外にも、

  • 甲子革令思想
  • 讖緯思想
  • 天人相関思想

などが六国史の時間構成に影響していると考えられる。

■ 結論

神武紀の年代は、単なる伝承の記録ではなく、中国思想(辛酉革命)に基づいて構築された「理念的年代」である。

したがって六国史の編年体は、客観的年代記というよりも、国家の正統性を時間の中に配置する装置として理解する必要がある。

崇神紀・応神紀の年代問題

『日本書紀』における崇神紀・応神紀は、日本古代史の年代論の中核をなす部分である。神武紀のような観念的年代(辛酉革命説)に比べ、この両紀は考古学資料との対応が議論されるため、「どこまでが史実に近いか」という問題が集中的に検討されてきた。

1.崇神紀の年代問題(「初期国家形成期」の前倒し)

  • ● 記紀上の位置 崇神大王は第10代天皇とされ、
  • 疫病鎮圧
  • 四道将軍の派遣
  • 三輪山祭祀の確立

など、「初期国家形成の祖」として描かれている。

  • ● 問題点 『日本書紀』の年代では、崇神朝は紀元前1世紀頃に置かれている. しかしこれは、
  • 弥生時代後期の段階
  • まだ前方後円墳が出現していない

という考古学的状況とは一致しない。

● 考古学とのズレ

崇神紀に対応すると考えられる現象:

  • 巨大古墳の出現
  • 広域政治勢力の成立
  • 三輪山周辺の祭祀遺跡

これらは3世紀後半から4世紀初頭の現象であるから考古学とズレがある。

● 評価

したがって崇神紀は実際より数百年さかのぼって配置された可能性が高い そうした理由は以下が想定される。

  • 神武以来の連続性を保つため
  • 天皇系譜を長大化するため

2.応神紀の年代問題(対外関係と実年代の接近)

  • ● 記紀上の位置 応神天皇(第15代)は:
    • 渡来人(秦氏・東漢氏など)の活動
    • 鉄器文化の進展
    • 朝鮮半島との関係

が強調される。

  • ● 問題点 『日本書紀』では 応神朝は3世紀後半頃とされるが、これは対外史料とズレがある。
  • ● 外部史料との比較 中国史書『宋書』などに見える
    • 倭の五王(5世紀)

との対応が問題になる。

多くの研究では:

  • 応神から仁徳朝は5世紀頃に比定される可能性が高い
  • ● 考古学的対応 応神期に対応する現象:
  • 巨大前方後円墳(例:誉田御廟山古墳)
  • 馬具・鉄製武器の普及
  • 朝鮮半島との活発な交流

これらも5世紀の特徴とされる。

  • ● 評価 応神紀は、比較的史実に近づいているが、それでも年代は前倒しされている。

4.なぜ年代がずれるのか

共通する原因は以下の通り:

  • ① 系譜の連続性確保
    • 神武→崇神→応神と連続させる必要
    • 空白期間を作れない
  • ② 在位年数の累積
    • 各天皇の在位が長い
    • → 全体が過去に押し出される
  • ③ 編年体の「整合性優先」 年代の正確さより
    • 体系としての整合性が重視された

5.研究史的到達点

現在の一般的理解は:

  • 神武から開化:神話的段階
  • 崇神から応神:半伝承・半歴史
  • 仁徳以降:歴史性が強まる

特に応神期は「古墳時代前期?中期の実態に対応する可能性が高い」とされる。

■ 結論

崇神紀・応神紀の年代問題は、編年体史書における「理念的時間」と「実年代」のズレ、を最もよく示す事例である。

  • 崇神紀:国家成立を説明するための理念的過去
  • 応神紀:史実に接近しつつある歴史的過去

この二つの層の連続によって、六国史は神話から歴史へと連続する王権の時間を構築した と評価できる。

参考文献

  1. 小島荘一(2003)『『日本書紀』の暦日』日本研究 (16),pp.1-26
  2. 坂本太郎(1989)『六国史』『坂本太郎著作集』第三巻、吉川弘文館
  3. 黒板勝美(1908)「国史の編纂著述」(『国史の研究 訂正版』総説、文会堂

唐草文2026年01月27日 00:28

唐草文(からくさもん)は、植物の葉や茎の形を蔓状のリズミカルな曲線で連続的につないだ文様である。蔓が途切れることなく展開する構成に特徴があり、反復と連続による秩序あるリズムや、途切れることなく伸び続ける様子から、無限の繁栄を象徴する文様として用いられてきた。

概要

その起源は古代オリエント世界の植物文様に求められ、アッシリア美術にその源流がみられるとされる。ギリシア・ローマ時代になると様式化が進み、さらにササン朝ペルシャを経て、西アジアから地中海世界にかけて広く盛行した。建築の壁面装飾をはじめ、土器、金工、織物など多様な工芸分野に用いられた。

なお、「唐草」とは特定の植物を指す名称ではなく、蔓状に連続する植物文様全体を総称する呼称である。

その後、唐草文はササン朝ペルシャ文化の影響のもと、シルクロードを通じて東アジアに伝播し、中国では魏晋南北朝から唐代にかけて発展した。日本には飛鳥・奈良時代に伝来し、仏教美術と結びついて、仏像の台座や光背、瓦、染織品などに多く用いられ、代表的な装飾文様の一つとなった。

日本での展開

日本の考古資料においては、唐草文は寺院建築の軒丸瓦・軒平瓦の文様として多く認められ、特に飛鳥・奈良時代の瓦には、忍冬唐草文を中心とする連続的な植物文様が施されている。また、仏具や装身具に用いられた金銅装では、透彫や毛彫による唐草文が多用され、荘厳性や霊的空間の強調を担った。

さらに、須恵器においても、胴部や頸部に線刻や貼付によって唐草文が表される例があり、これは朝鮮半島・中国系の装飾要素を受容しつつ、日本的な器形や用途に適応した結果と考えられる。これらの用例は、唐草文が単なる装飾にとどまらず、建築・金工・土器といった異なる素材と技法を横断して受容・展開されたことを示している。

唐草文は表現される植物の種類や形態によって、「忍冬唐草」「葡萄唐草」「牡丹唐草」「菊唐草」などに区別される。また、蔓の分岐が蛸の足に似ることから名づけられた「蛸唐草文様」は、江戸時代の古伊万里焼などに多用されている。

出土例

  • 均正唐草文軒平瓦 伝東大寺西塔跡出土、奈良時代、8世紀
  • 青銅製唐草文鐎斗 伝韓国慶尚南道陜川出土、6世紀

多紐細文鏡2025年10月04日 00:44

多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)は複数の帯状の鈕が中心を外した位置にあり、 鏡の背面に鋸歯文様など細線の文様がある銅鏡である。

概要

鏡の裏面に紐を通す鈕が2、3個あり(多鈕)、細い線で鋸歯文などの幾何学紋様(文)を施した銅鏡である。紀元前6世紀頃中国で登場した。鈕が複数あるため多鈕細文鏡と呼ばれる。 朝鮮半島から蒙古・中国東北地方を中心として数多く発見される。日本では弥生時代の墳墓から出土する。日本ではこれまでに福岡・佐賀・長崎・山口・大阪・奈良・長野の11遺跡12面の出土例のみである。朝鮮半島では29面以上が知られている。 東京国立博物館には伝韓国慶尚南道出土の面径14.3cmの重要美術品となっている多紐細文鏡がある。2015年に福岡県・須玖タカウタ遺跡で弥生時代中期の多鈕細文鏡鋳型が出土したと報道された。従来は朝鮮半島製とされてきたが、この出土により国内生産の可能性も出ている。出土した鋳型は長さ5.1cm、幅2.5cm、厚さ2.36cm、重さ39gの滑石製である。、「重弧文」は日本の弥生土器や銅鐸に現れる文様であるから、渡来人より倭製鋳型の可能性がある。

出土(日本国内)

  • 多紐細文鏡 - 奈良県御所市名柄出土、弥生時代、前4~前1世紀、東京国立博物館
    • 銅鐸と多鈕細文鏡がはじめて共伴した例としてきわめて重要である。
    • 直径15.6cm、縁高0.6-0.8cm、縁は断面蒲鉾形
    • 1955年2月2日、国指定重要文化財、指定名「双鈕細線鋸歯文鏡」
  • 多紐細文鏡 - 梶栗浜遺跡出土、山口県下関市、弥生時代(中期)・前2~前1世紀
    • 直径8.95cm、縁厚0.55cm、重量115g、三紐、東京国立博物館
    • 多鈕細文鏡は銅剣や銅矛と共伴する
  • 多紐細文鏡 - 若山遺跡土坑出土、福岡県小郡市、弥生時代中期から後期
    • 1998年10月16日 国指定重要文化財、「福岡県小郡若山遺跡土坑出土品」
    • 福岡県小郡市埋蔵文化財調査センター蔵、2面出土
    • 1号鏡は直径15.3cm、厚さ約2mm、重さ43g、完形
    • 2号鏡は直径16.0cm、厚さ約2mm、重さ407g、腐食のため欠損あり
  • 多紐細文鏡 - 吉武高木遺跡、福岡市西区早良平野、弥生前期末から中期初頭
    • 重要文化財
  • 多紐細文鏡 -大県遺跡、大阪府柏原市、東京国立博物館蔵
    • 割れあり、直径21.6cm、縁高0.8cm、面厚0.3cm、重量937g
  • 多紐細文鏡 - 本村籠遺跡、佐賀市大和町大字池ノ上、
    • 面径10.5cm、ほぼ完形で鋳上がり良好、割れあり、蒲鉾状縁
    • 平成5年3月31日 佐賀県 重要文化財
  • 多紐細文鏡 - 宇木汲田遺跡、佐賀県唐津市宇木、弥生早期~後期
  • 多紐細文鏡 - 増田遺跡、佐賀県佐賀市鍋島町、弥生中期初頭、県指定重要文化財
    • 甕棺に細片として出土、面径10.5cm
  • 多紐細文鏡 - 原の辻遺跡、長崎県壱岐市
    • 破片
  • 多紐細文鏡 - 里田原遺跡出土、長崎県平戸市田平町、平戸市立里田原歴史民俗資料館
    • 三つの鈕をもった完形品であり、径8.9cmの小形の部類に属する。
    • 有形文化財(長崎県指定)
  • 多紐細文鏡 - 社宮司遺跡、長野県佐久市野沢地区

参考文献

盒子2025年09月02日 19:45

盒子(こうし、かふし、ごうす)はふたが付いた小さな容器である。

概要

中国語で箱や小箱の意味と言われる。「香合」の別名とも言われる。 蓋の付いた小型の容器を盒子という。素材は木製や金属製、紙製などがある。

古墳時代

平面形が円形のものと楕円形のものがある。古墳時代には石でつくられた盒子が古墳に副葬されるようになる。古墳時代前期から中期にみられるが、緑色をした碧玉や淡緑色の緑色凝灰岩、滑石などでつくられる。分布は近畿地方を中心とし、東は愛知県から西は岡山県に及んでいる。

正倉院

正倉院では盒子を「合子」とし、宝物を入れる蓋付きの容器である。銀平脱合子 第1号(北倉 25)は碁石の容器である。槻薬合子(北倉 109)は龍骨を入れるケヤキ製の蓋付合子である。

出土

  • 石製盒子 - 出土地不詳、古墳時代前期、天理参考館
  • 盒子 - 島の山古墳、奈良県磯城郡川西町唐院、4世紀末葉、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
  • 石製盒子 - 佐味田宝塚古墳、奈良県北葛城郡河合町、4世紀後半
  • 銀平脱六角盒子 伝韓国慶尚南道出土、統一新羅時代・8世紀、東京国立博物館
  • 青花人物花鳥文盒子 景徳鎮窯、17世紀、京都国立博物館

参考文献

フローテーション法2025年09月01日 00:25

フローテーション法(ふろーてーしょんほう)は遺跡から炭化物などの微細遺物を効率的に回収するための方法である。

概要

「水洗選別」という。比重の軽い種子や炭化物などの微細遺物が浮遊する性質を利用した選別方法である。1970年代から導入されている。

フローテーション法の手順

土壌サンプルを水中に投入して攪拌し、比重の軽い炭化物を分離し、取り出す方法である。循環式フローテーション装置(機械で水流を起こす)を使うと効率がよい。試料の採取は後世の炭化物が入らないよう、細心の注意を払うこと。土壌は生物活性度が高いため、動物や昆虫の巣穴や植物の根などの混入があり得る。 ①容器に適量の土壌を入れる。(通常は数リットル単位)大きな石や木片などはあらかじめ取り除いておく。 ②水槽(フローテーション装置)に土壌を投入する。水を入れた容器(水槽やタンク)に土壌試料を少しずつ投入し、シャワーで土壌を攪拌し、手や棒でやさしくかき混ぜ、泥をほぐす。バケツ・タライ・ザルを用いた手動方式である。水流が強すぎると微小遺物が失われるので、攪拌はやさしくする。 ③炭化種子や木炭片など軽い遺物は分離(浮遊物)して水面に浮かぶ。水面を流して浮遊した炭化物を網や布回収垢取り細かいネット(0.25mmから0.5 mm程度)で採集する(軽画分)。網の目は調査目的(種子・花粉・昆虫など)に応じて選択する。 ④石片、骨片、土器片など重い遺物は分離して沈降する。水槽の底部に沈んだものは「重画分(heavy fraction)」としてザルやふるいで回収する。 ⑤取り出した炭化物を顕微鏡を使いながら、同定可能な種実をピンセットでつまみだす。 ⑥回収した軽画分・重画分を別々にラベルを付け、日陰で自然乾燥、または低温乾燥機で処理する。回収後の試料は混ざらないように厳密にラベル管理する。 ⑦コンテキスト(遺構や層位)ごとに分けて、顕微鏡下で植物種子・木炭・昆虫・小動物遺体などを同定記録し、数え、記録する。 ⑧残土処理も重要である(再混入を避ける)。

フローテーション法の特徴

低湿地遺跡の粘土層に包埋された有機遺物の水洗選別は、従来の乾燥筋別法、あるいは水洗筋別法では不可能であり、フローテーション法が唯一の方法とされる。遺跡土壌に含まれる炭化物、種子、骨などの微細な有機物を効率的に回収できる。 ①微小遺物の回収に特化した方法である。 ②比重差を利用したシンプルな方法であり、特別な化学処理は必要なく、環境への負荷は少ない。 ③浮いた軽画分と沈んだ重画と分を分別回収できる。 ④採取した種子や炭化物から、農耕の開始時期・栽培植物の種類・食生活を推定できる。 ⑤水を用いた物理的分離のため非破壊であり、対象遺物を傷めにくい。 ⑥回収した後は乾燥させれば、長期保存が可能である。 ⑦遺跡の生活痕跡や農耕活動を具体的に復元できる。

フローテーション法を適用した遺跡

  • 目切遺跡 - 長野県岡谷市、縄文時代中期中葉末
  • 居家以岩陰遺跡 - 群馬県吾妻郡長野原町、縄文時代

参考文献

  1. 若松貴英(1990)「分離法としてのフローテーション」表面科学 12 (1), pp.28-33
  2. 小林達雄(2007)『考古学ハンドブック』新書館

切妻2025年08月24日 17:53

切妻(きりつま)は家の屋根の頂点から山型となり、二方向へ屋根が斜めに落ちる屋根の形式である。

概要

斜面が2面ある屋根であり、寄棟とともに日本の住宅建築における基本的な形式である。 弥生時代から続く基本的な形状とされている。 吉野ヶ里遺跡の高床建築も切妻である。古代の高床家屋や伊勢神宮正殿は切妻である。 構造がシンプルなので施工しやすい。屋根裏のスペースを広く確保できる。複雑な屋根ではないので、建設に要する工期が短くなる。屋根の断面が正面からみると、三角形になることから、「三角屋根」とも言われる。切妻屋根をもつ建物の外壁に三角形の壁ができた場所を妻壁という。

入口

入り口は妻入りと平入りとがある。軒と平行な面を平(ひら)、直角方向の面を妻(つま)という。。棟と平行な平側(軒先側)に入口がある場合を平入りという。屋根の棟と直角の面に入口がある場合を妻入りという。出雲大社の「大社造り」は、切妻屋根の妻側に入口を持つ「妻入り」が特徴である。伊勢神宮などの神明造りでは平側に入口がある「平入り」である。

雨漏りリスク

屋根と壁のつなぎ目部分が両側2個所と少ないので、構造が単純になり雨漏りリスクが少ない。屋根に傾きがあるので雨は屋根を急速に伝わり落下するので、雨漏りリスクが少ない。勾配が急になるほど雨漏りリスクが減る。

参考文献

  1. 石野博信(2006)『古代住居のはなし』吉川弘文館

2025年07月07日 00:10

(かい)は人力で舟を前進させるための木の棒の先端を翼状に削ったものである。

概要

船を漕ぐためのオールである。櫂には①手櫂、②練り櫂、③櫓、④棹の種類がある。手櫂は柄が短く、水かき部が細長く船の中で座位で使われた。柄が長いものは立位出使われる練り櫂、櫓、棹である。 古くは縄文時代から櫂は使われる。青田遺跡の櫂はすかしのある櫂状木製品となっている。先端が尖る水かき部をもっている。夫手遺跡の櫂は年代測定により縄文前期 と判明している。 材質はスギ製で、水かき部分の形が島大構内遺跡出土の権と似ている。 石狩紅葉山49号遺跡では櫂が計14点が出土した。ほぼ完全な形で出土する1点,一部欠損した状態で柄部と水掻部の残存が認められる2点,櫂の水掻部のみが残存した5点,櫂の柄部と推定された6点がある。樹種は11点が同定されており、モクレン科モクレン属8点、そのほかカエデ科カエデ属、ブナ科コナラ属、クルミ科クルミ属各1点である。四日市地方遺跡の櫂1は長さ38.2cm、幅9.3cm、厚さ2.0cm、スギ製である。櫂2は長さ64.5cm、幅11.6cm、厚さ1.7cm、スギ製である。

考察

出土例

  • 小型櫂 - 羽根尾貝塚、神奈川県小田原市、縄文時代前期中葉
  • 櫂 - 善通寺西遺跡、香川県善通寺市善通寺町、弥生時代から古墳時代
  • 櫂 - 青田遺跡、新潟県新潟県新発田市、縄文時代晩期
  • 櫂 - 高宮八丁遺跡、大阪府寝屋川市、弥生時代
  • 櫂 - 夫手遺跡、島根県松江市、縄文時代前期
  • 櫂 - 多古田低地遺跡、千葉県匝瑳市、縄文時代早期
  • 櫂 - 四日市地方遺跡、三重県四日市市、弥生時代中期
  • 櫂 - 飛鳳里遺跡、韓国、昌寧、新石器時代

参考文献

  1. 荒山千恵()「石狩紅葉山49号遺跡の丸木舟と櫂」