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    <title>新古代史の散歩道</title>
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    <pubDate>Mon, 10 Aug 2026 00:15:45 +0900</pubDate>
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      <title>日本書紀での卑弥呼問題</title>
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      <pubDate>Mon, 10 Aug 2026 00:11:05 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-10T00:15:45+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;日本書紀での卑弥呼問題&lt;/strong&gt;（にほんしょきでのひみこもんだい)は日本書紀に卑弥呼が書かれているかどうかの問題である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;『日本書紀』本文には『卑弥呼』という名（文字）は現れないが、神功皇后紀には『魏志』から引用された卑弥呼に対応する記事が存在する。すなわち、
&lt;/p&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;①『日本書紀』は『魏志』を引用している。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;②引用中で『日本書紀』は「景初三年六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣わす」と記す。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;③『魏志』の被引用部分には「親魏倭王卑弥呼」と書かれている。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;④したがって『日本書紀』記載の「倭の女王」は卑弥呼と理解できる。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;という構造である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;文献の確認&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;『日本書紀』巻第九　神功三十九年条に「『魏志』に曰く、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣はして、郡に至りて、天子に語らむことを求めて朝献す」と書かれている。ここには「卑弥呼」とは書かれていない。
対応する『魏志倭人伝』には「景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし、郡に詣らしめ、天子に詣りて朝献せんことを求む。」「其の年十二月、詔書して倭の女王に報て曰く、親魏倭王卑弥呼に制詔す」と記す。つまり、『日本書紀』は「卑弥呼＝神功皇后と明記」している訳ではないが、倭の女王は卑弥呼以外では考えられない。
なお、『日本書紀』は『魏志』を引用しつつも、景初三年・難斗米という異なる表記を伝えている。景初三年と景初二年の問題は本サイト別記事の「景初二年・景初三年問題」で詳しく説明している。難斗米については、後半で説明する。なお『日本書紀』編纂時に参照された『魏志』が、現在伝わる『魏志倭人伝』と同一の本文であったとは限らず、異本・異伝の存在を想定する余地がある点を指摘しておく。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;『日本書紀』が直接「卑弥呼」と書かない理由&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;なぜ「卑弥呼」を書かなかったのか、理由を推察する。論点がいくつかある。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;神功皇后のモデルとした可能性&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;『日本書紀』の神功皇后の巻（条）の注釈に、中国の『魏志倭人伝』の記述が引用されており、編者たちは神功皇后を3世紀の巫女的な女王・卑弥呼と同一人物、あるいは神功皇后のモデルとして意識していた可能性が指摘されている（若井敏明（2014））。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;伝承がなかった可能性&lt;/h3&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;①3世紀の有力首長でも人物伝承が残っていない例がある
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;『日本書紀』の編纂時（8世紀初頭）には、3世紀の倭国の出来事について、国内にどの程度の伝承が残されていたかは明らかではない。3世紀後半頃の大型前方後円墳である桜井茶臼山古墳は、大量の銅鏡などの副葬品や墳丘規模から大王級の首長墓と評価されることがあるが、被葬者の個人名や具体的な人物伝承は『日本書紀』に伝わっていない。このことからも、3世紀の有力首長であっても、後世まで8世紀の『日本書紀』編纂時まで個人名や事績が伝承されなかった可能性があるため、『日本書紀』『古事記』に書かれなかったことは想定できる。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;②卑弥呼についても、国内に個人名・事績の伝承が残っていなかった可能性は否定できない。
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;卑弥呼の事績や個人名は文字のない期間があった中では、400年もの間に世代が変わり、人々の記憶や伝承として残らなくとも不思議ではない。3世紀当時に倭国で広く知られた人物であったとしても、国内の人物伝承が後世に残っていなかった可能性は考えられる。ただし、実際に卑弥呼の国内伝承が存在しなかったことを直接証明する史料はなく、あくまで可能性の一つである。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;③『日本書紀』編纂時に、国内伝承として卑弥呼を記載できなかった可能性がある
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;『日本書紀』の編纂時（8世紀初頭）には、すでに倭国国内の古い伝承と中国の3世紀の記録との間で年代観や事実関係が大きく乖離しており、そのまま正史に組み込むことが全体の統一性の観点から、記載が難しかったことは想定できる。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;④『魏志』には卑弥呼の記事が写本として残っていたため、日本書紀編者はそれを神功皇后紀に引用できた。
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;『日本書紀』神功皇后紀には『魏志』の記事が引用されており、編纂者が中国史書に記された卑弥呼とその外交記事を認識していたことは確認できる。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h3&gt;政治的理由&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼は魏に使者を送り、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号と金印紫綬を受けた。これは中国皇帝との君臣関係、すなわち冊封関係に入ったことを意味する。冊封体制論を提唱した西嶋定生によれば、冊封とは中国皇帝が周辺諸国の君主に王・侯などの爵位を授け、その統治者としての地位を公認するとともに、君臣関係を成立させる制度であった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;したがって、卑弥呼が魏から冊封を受けたという事実は、後世の日本から見れば、倭国の女王が中国皇帝の権威の下でその地位を公認されたことを意味する。律令国家として独自の皇統と国家秩序を形成した8世紀の日本にとって、このような中国皇帝との君臣関係を自国の正史で強調することは、国家の独立性や天皇の権威を示す『日本書紀』の歴史叙述とは緊張関係（齟齬）を生じる可能性がある。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただし、これを理由として『日本書紀』が意図的に卑弥呼を歴史から削除したと断定するわけではない。『日本書紀』は卑弥呼の名を直接記さない一方、神功皇后紀に『魏志』の卑弥呼関連記事を引用しているため、卑弥呼の存在そのものを隠したとは言い切れない。むしろ、卑弥呼に関する中国側の記録を認識しながら、それを神功皇后紀の年代に組み込んだこと自体が、『日本書紀』編纂者の歴史認識を考える重要な問題となる。
&lt;/p&gt;
&lt;h3&gt;万世一系との矛盾&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;「卑弥呼」を登場させると「万世一系」という基本骨格の物語と矛盾を来すので、大和朝廷による日本支配を正当化できなくなると考えたという推測も成り立つ。
『日本書紀』は神武天皇以来の皇統を「一系として」連続的に叙述する構成をとっているため、卑弥呼を独立した倭王として位置づけることには、皇統中心の歴史叙述との矛盾が生じ、調整が必要だったと考えられる。中国の史書（魏志倭人伝）に「3世紀の倭国に卑弥呼という独立した女王が倭国を統治していた」と書かれているため、そのまま引用すると大和朝廷による「神武天皇から一系の血筋で日本を統治してきた」という万世一系の骨格となる物語が崩れてしまうからである。
中国の思想（辛酉革命説）に基づいて紀元前660年を初代・神武天皇の即位年に大幅に引き延ばしたため、卑弥呼の生きた3世紀は、大和朝廷の歴史では「第10代・崇神天皇」や「第14代・仲哀天皇」の時代に相当することになる。
&lt;/p&gt;
&lt;h3&gt;朝鮮半島への優位性誇示&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼は魏に朝貢し、魏の皇帝から「親魏倭王」の称号を受けた。これは倭王が中国皇帝との冊封関係に入り、その権威によって王としての地位を公認されたことを意味する。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これに対して、『日本書紀』の神功皇后紀では、神功皇后が新羅を征討し、百済・高句麗を含む朝鮮半島諸国との関係において倭が優位に立つという物語が構成されている。これらの征討・服属記事については、仁藤敦史（2024）の研究などから、4世紀の倭による朝鮮半島支配の史実を記録したものとは認めがたく、『日本書紀』において構成された虚構の対外関係物語と考えられている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このような朝鮮半島に対する優位性の主張は、神功皇后紀に限られない。5世紀の倭の五王による中国南朝への遣使でも確認できる。『宋書』倭国伝に収められた倭王武の上表文では、倭王の祖先が東方の毛人、西方の衆夷を征服し、さらに「海北」を平定したと主張している。この「海北」は一般に朝鮮半島方面を指すと理解され、倭王が中国皇帝に対して朝鮮半島方面への軍事的支配を主張していたことを示している。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このように、3世紀の卑弥呼が魏から冊封を受けたという記憶とは対照的に、後世の倭王権の対外関係を記す史料では、倭が朝鮮半島に対して軍事的・政治的に優位に立つという主張が繰り返し現れる。『日本書紀』における神功皇后の征討・服属記事も、このような倭王権の対外的優位性を強調する歴史認識の中で理解することができる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただし、倭王武の上表文における征服範囲の主張も、そのまま実際の領域支配を意味すると断定することはできない。中国皇帝への上表における外交的・政治的主張としての側面を考慮する必要がある。
&lt;/p&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;① 神功皇后の対外征討記事が史実か
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;仁藤敦の研究によって、従来の「4世紀の倭による任那支配」の歴史的根拠として使うことには大きな問題がある。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;②『日本書紀』の神功紀の対外的な征討・服属という虚構的な歴史叙述が構成されているか
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;これは「虚構の物語」「伝承・歴史叙述として構成されたもの」と評価してよい。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;③なぜその虚構を作ったのか
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;神功皇后を強大な対外征服者として描くことは、朝鮮半島に対する優位性を誇示する目的があったとみられる。証拠として倭の五王が朝鮮半島に対する支配権を度々要求している事実がある。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h2&gt;難升米について&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;『日本書紀』では『魏志』での難升米を難斗米と表記する。「升」と「斗」の漢字の形が手書きの楷書や行書、あるいは文字が潰れた古い写本と酷似していることによるとする「誤写説」は最有力である。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『日本書紀』の編纂者が参照した『三国志（魏志）』のテキスト、あるいは後世に『日本書紀』を書き写した人物が、「升」という文字を「斗」と見間違えてそのまま記録してしまった可能性が想定できる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;次に「大和言葉（訓読み）」の音（おん）への適合説がある。言語的なアプローチでは『魏志倭人伝』の「難升米」は、大和言葉で「なしめ」と読まれていたと推測され、「なしめ」から「なとめ」へ変化したとの推測説がある。
&lt;/p&gt;
&lt;h3&gt;「難升米＝田道間守」説&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;内藤湖南（1969）は「難升米」を田道間守（たじまもり）とする。田道間守は日本神話（『古事記』や『日本書紀』）に登場する伝説的人物で、垂仁天皇の命を受け、不老長寿の果実とされる「非時香菓（のちに橘（たちばな）の実といわれる）」を求めて「常世国（とこよのくに）」へ遣わされた。橘良平の「日本紀元考概略」で「難升米は田道間守が訛ったものである」としたことを内藤湖南（1969）は「從ふべし」とし、「使者の境遇は略ぼ相似たり」としている。
しかし「なしめ」と「たじま」とでは音の関連性が薄い。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;石原道博編（1985）『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;内藤湖南（1969）「卑彌呼考」『内藤湖南全集　第七巻』筑摩書房
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;仁藤敦（2024）『加耶／任那―古代朝鮮に倭の拠点はあったか』中央公論新社
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;若井敏明（2014）「神功皇后説 同一人物説を唱えた『日本書紀』の編者たち」歴史読本59号7巻
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>魏志倭人伝</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>らちめん古墳</title>
      <link>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/08/09/9869951</link>
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      <pubDate>Sun, 09 Aug 2026 00:05:18 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-08T23:55:52+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;らちめん古墳&lt;/strong&gt;（らちめんこふん)は神奈川県伊勢原市に所在する古墳時代後期の円墳である。「埒免古墳」とも書かれる。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1966年（昭和41年）の当時の恵泉女学園短期大学の校舎建設に伴って発見された古墳である。墳丘を失い石室が露出している。石室は野石乱積みの片袖式の横穴式石室であり、石室、玄門、羨道は現在もその一部が残る。國學院大學による調査が行われ、多くの遺物が出土した。
石室の全長は約9メートル、玄室は玄室長 4.8m、幅 2m、高さ最大 2.2m、羨道（通路部分）は長さ約4m、幅約1mである。6世紀末から7世紀初頭頃に築造されたと考えられている。
平成12年（2000年）以降の調査で周溝が確認され、墳丘の直径は約40mと推定された。
2000年5月の調査で幅数メートルの周溝を確認した。墳頂から周溝まで16mから17mと判明した。古墳時代後期から終末期にかけての相模地域を代表する大型円墳である。
古墳は原則非公開である。公開日として５月最終土曜日の恵泉女学園大学のプレーデー（創立記念祭）がある。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;出土遺物は乳文鏡（銅鏡、倭鏡、径9cm）、武具（銀装大刀断欠、大刀、刀子、鉄鏃）、馬具（金銅製鞍、鏡板、金銅製杏葉、磯金具）、耳環、玉類（琥珀製棗玉）などである。
らちめん古墳の出土遺物の所有者は、近隣の三之宮比々多神社である。三ノ宮比々多神社の郷土博物館で保管・展示されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;1988年（昭和63年）4月30日　伊勢原市指定重要文化財　らちめん古墳出土品　一括
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：らちめん古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：神奈川県伊勢原市三ノ宮1436
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通：伊勢原駅から徒歩51分（3.5km）/伊勢原駅 北口1番線（関台経由栗原行）乗車→「比々多神社」下車
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;伊勢原市教育委員会（2014年）『伊勢原市文化財調査報告書：市内遺跡発掘調査報告』
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;伊勢原市教育委員会（2003年）『伊勢原の文化財：らちめん古墳出土品』
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;相原精次（2000）『神奈川の古墳散歩』彩流社
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;國學院大學考古学研究室（1967年）『三ノ宮古墳群（らちめん古墳）』國學院大學
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>王塚装飾古墳館</title>
      <link>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2025/04/09/9767032</link>
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      <pubDate>Sat, 08 Aug 2026 00:05:25 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-08T00:12:37+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2025-04-09T00:47:15+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;王塚装飾古墳館&lt;/strong&gt;（おうづかそうしょくこふんかん）は王塚古墳を中心に、装飾古墳や古墳時代の歴史を紹介する資料館である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;王塚古墳発見当時の石室や出土品の実物大模型、王塚古墳の概要や代表的な装飾古墳の1/5模型等を展示する。1994年（平成6年）11月に開館した。王塚古墳は1934年（昭和9年）に発見されるまで未発掘であったため、副葬品の大部分が残されており、その数は100点を超える。現存する出土品は「筑前国嘉穂郡王塚古墳出土品」として国の重要文化財に指定されている。装飾古墳館には熊本県立装飾古墳館（山鹿市）がある。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;展示室&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;王塚古墳はどんな時代か
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;当時のくらしのようすをジオラマで紹介し、同時代のものと推測される町内の住居跡の写真パネルや出土品を展示する。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;特別史跡王塚古墳
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;通常は立ち入ることのできない王塚古墳の石室内部を、発見当時の鮮やかな色彩や文様で原寸大でリアルに再現・展示する。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;多彩な色彩と豪華な装飾壁画
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;王塚古墳の石室内の壁面ほぼ全面には、赤・黄・緑・黒・白・灰の6色を用いて、人物や騎馬、盾、靫などの具象的な図文と、三角文、蕨手文、双脚輪状文などの幾何学的な文様が描かれている。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;装飾古墳の時代
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;国内外の代表的な装飾古墳9基を5分の1スケールの模型で再現する。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;出土品
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;馬具や装飾品、武器などの出土品について、実物や複製資料を用いて紹介する。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;火災&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;2025年4月15日、午後11時30分頃に王塚装飾古墳館から出火し、事務室の一部が焼けた。出火原因は特定されていないが、床下の配線周辺が激しく燃えていた（読売新聞2025年10月記事）。石室のレプリカなどの展示品に大きな被害はなかった。変形四獣鏡や耳環、玉類、武器・武具、馬具、土師器、須恵器などの副葬品は国の重要文化財・考古資料に指定され、京都国立博物館で保管されており、無事であった。翌日から王塚装飾古墳館は臨時休館となったが、2026年8月25日（火）に再開館する（毎日新聞地方版、2026/8/5）。再開館にあわせて展示物の追加も予定されており、破片から復元した高さ約1mの円筒埴輪が公開される。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;展示品&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;鐙
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;杏葉
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;轡 （鏡板）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;雲珠
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;変形神獣鏡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;土製丸玉
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;管玉
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;銀の鈴
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;埋木製切子玉
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;コハク製なつめ玉
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;金の耳輪
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;大刀
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;挂甲
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;小札
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;須恵器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;台付壺
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;須恵器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;坏
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;蓋
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;須恵器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;提瓶
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高坏　
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;施設概要&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;敷地面積：15,945.10㎡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;延床面積：1,875.37㎡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;構造：鉄筋コンクリート一部２階建
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;総事業費：14億6,200万円
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：王塚装飾古墳館
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：福岡県嘉穂郡桂川町大字寿命３７６番地
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;営業時間：午前9時～午後4時30分
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;定休日：毎週月曜日・・・;月曜日が祝日の場合は翌日、年末年始
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通： JR博多駅より福北ゆたか線で約30分　JR桂川駅下車徒歩8分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;「火災で臨時休館中の王塚装飾古墳館、来年度中の再開目指す」読売新聞、2025/10/18
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;「火災から1年4カ月　王塚装飾古墳館が25日再開館」毎日新聞地方版、2026/8/5
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;桂川町教育委員会（2021）『特別史跡王塚古墳保存活用計画』
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古代史展示施設</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>陶邑遺跡群</title>
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      <pubDate>Fri, 07 Aug 2026 00:05:54 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-07T00:01:19+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2025-12-14T00:40:25+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;陶邑遺跡群&lt;/strong&gt;（すえむらいせきぐん)は大阪府堺市・和泉市・大阪狭山市にまたがる日本で最大規模の須恵器生産遺跡である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;古墳時代から平安時代までの約500年間に渡り須恵器を生産した1000基以上の窯跡が分布すると推定される。東西15キロメートル、南北9キロメートルに渡り、泉北丘陵で大規模に生産された。朝鮮半島から伝えられた陶質土器の製作・窯焼成技術を基盤として生産が始まったと考えられている。全体の詳細な分布調査はされれていない。富田林市役所（1985）によれば、全体の分布密度や500年という長期の存続期間を考慮し、「およそ3000基あるいはそれ以上」の窯が存在したと推定されている。現在までに発掘・分布調査等で具体的に確認・把握されている数はおよそ1000基程度であるが、大部分は破壊・埋没しているため、未発見のものを含めると推計値のような規模になるとみられている。広大な分布面積と稼働期間（約500年間）における窯のライフサイクルから推計された予測値が3000基となる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;陶邑編年&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;陶邑遺跡では長期間にわたり須恵器を生産したので、須恵器の形や機能、文様などの形式変化により、出土資料の年代を測る指標となる。陶邑編年と呼ばれ、森浩一、田辺昭三、中村浩らにより編年が示されている。須恵器は古墳や集落、官衙など様々な遺跡で広く出土するため、その年代決定に役立つ。編年に使われる理由は以下の通りである。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;約500年間の連続した生産と発達&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;古墳時代から平安時代にかけて長期間（5世紀から9世紀）に渡り、1000基以上の窯が連続して操業していたわけではなく、長期間にわたって生産が継続したため、須恵器の型式変化（土器の形の変化）を追跡できる。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;層位学的研究が可能&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;陶邑編年の成立は「不良品の層（物原）の上下関係」だけではなく、窯跡の層位、共伴関係、型式組列、古墳などの年代が分かる遺跡との比較など、複数の資料を組み合わせ、窯跡やその周辺の物原などからまとまって出土する須恵器を比較している。すなわち層位関係や型式の変化を総合的に検討し、陶邑編年を構築した。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;全国への流通と基準化&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;陶邑産の須恵器は広い地域に流通し、各地の古墳・集落などから出土するため、地域遺跡の年代を検討する際の基準として利用される。他の地域の遺跡（古墳や集落）で陶邑の須恵器が出土した際には、年代を測る「物差し（全国的な基準）」として機能した。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;圧倒的な出土量&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;泉北ニュータウンなどの開発に伴う大規模な発掘調査により、型式の変遷を裏付ける大量の須恵器や窯道具が体系的に収集され、型式の変遷を検討することが可能となり、精緻な編年が可能となった。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;須恵器の型式変化&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;代表的な型式変化は「TK73 → TK216 → TK208 → TK23 → TK47 → MT15 → TK10 
→ TK43 → TK209」となる。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;4世紀末～5世紀初頭：導入・成立期&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;導入期であり朝鮮半島（特に加耶や百済）の「陶質土器」の形を色濃く残している。器壁が非常に薄く、精巧である。主な型式はTG232号窯・TK73号窯などに代表される初期の須恵器である。「高杯」、儀礼用の「器台」、丸底の「壺」などが作られた。陶邑の最古段階としてTG232・TG231が設定されており、陶邑での須恵器生産開始は4世紀末～5世紀初頭まで遡ると考えられている。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;5世紀：生産の拡大と器種の変化&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;ヤマト王権や各地域の豪族の好みに合わせ、日本列島での使用実態に応じて器種や器形が変化し、坏・蓋などの食器類が増加する。器の壁はやや厚くなり、実用的な器種となる。「蓋」や「坏」などが作られた。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;6世紀：型式の細かな変化と生産の展開&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;古墳の副葬品や祭祀に用いられる器種が発達するとともに、食器・貯蔵器などの器種も多様化する。主な型式はTK10型式、MT85型式、TK43型式 などである。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;7～8世紀：古代国家形成期の窯業&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;飛鳥・奈良時代になると、須恵器の器種構成や形態が大きく変化し、坏・蓋などの食器類が増加する。器種や器形、口縁部、蓋などの細かな形態にも時期的な変化がみられる。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;9世紀：生産規模の縮小期&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;平安時代には陶邑の生産規模は縮小し、須恵器の器種構成も変化する。大型の甕や鉢などの生産がみられる一方、食器類では他地域の窯業製品や木器などとの用途分担が進んだ。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;調査&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第85(TK85)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第87(TK87)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第305-Ⅰ(TK305-Ⅰ)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第94(TK94)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第303(TK303)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第306(TK306)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第301-Ⅰ(TK301-Ⅰ)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第301-Ⅱ(TK302-Ⅱ)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第103(TK103)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第67-Ⅰ(TK67-Ⅰ)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第67-Ⅱ(TK67-Ⅱ)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第52(TK52)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第109-Ⅲ(TK109-Ⅲ)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第37(TK37)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第236(TK236)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第4(TK4)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第4(TK4)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第309(TK309)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第307(TK307)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第235-Ⅰ(TK235-Ⅰ)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第235-Ⅱ(TK235-Ⅱ)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第115(TK115)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第42(TK42)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第66(TK66)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第218(TK218)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第2(TK2)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第43-Ⅲ(TK43-Ⅲ)号窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高蔵寺第15-Ⅱ(TK15-Ⅱ)号窯
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;須恵器(蓋杯・高杯・把手付コップ・鉢・はそう・装飾付器台・甕・壷）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;土師器(甕・鍋）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;杯蓋（TK73号窯）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;四把手付長胴壺（KM226号窯）
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;築造年代&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;堺市文化財課分室（堺市文化財調査事務所）　展示室
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：陶邑遺跡群
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：大阪府堺市南区
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交　通： 
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;大阪府立近つ飛鳥博物館（2006）『年代のものさし－陶邑の須恵器－』
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;富田林市役所（1985）『富田林市史　第一巻』考古編・古代編
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;田辺昭三（1981）『須恵器大成』KADOKAWA
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;田辺昭三（1967）「陶邑古窯址群(1)」考古学研究14 (1),pp.53-56
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;中村浩（2001）『和泉陶邑窯 出土須恵器の型式編年』芙蓉書房出版
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;中村浩（2023）『改訂版　泉北丘陵に広がる須恵器窯　陶邑遺跡群』新泉社
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;公益社団法人日本陶磁協会（2021）『陶説』No.812　陶邑窯
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;樋口吉文（1993）『生産地の様相と編年 陶邑』『季刊考古学42』雄山閣
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>会下山遺跡</title>
      <link>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2025/08/08/9794658</link>
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      <pubDate>Thu, 06 Aug 2026 00:40:52 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-06T00:41:17+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2025-08-07T22:36:45+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;会下山遺跡&lt;/strong&gt;（えげのやまいせき)は兵庫県芦屋市にある弥生時代中期から後期の高地性集落遺跡である。日本を代表する高地性集落の一つであり、高地性集落の性格や弥生時代の社会・交流を考える上で重要な遺跡として知られる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;六甲山系南部の標高201mの会下山の尾根部に位置する。1954年（昭和29）、弥生土器の発見を契機に遺跡の存在が知られた。土器は広範囲な地域集団との交流を示している。約2000年前の防御的性格を備えた高地性集落であり、1960年（昭和35年）には、兵庫県の史跡第1号に指定された。高地性集落の成立や弥生時代社会の実態を知るうえで学術的価値が高く評価され、2011年に国史跡となった。弥生時代の争乱や交易の様子を伝える貴重な遺跡として評価されている。
麓に「三条文化財事務所」が併設されており、出土品の見学ができる。
会下山遺跡は発掘調査によって山頂から山麓まで広がる大規模集落であることが明らかとなった。全国的に知られた代表的な高地性集落である。急峻な尾根地形に立地し、全山が国有地となっている。防御施設を備えた高地性集落であるだけでなく、広域交流を示す土器や中国系武器の出土によって、弥生時代の社会や交易、地域間交流を考える上で重要な遺跡となっている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;調査&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;発見経緯&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;1954年（昭和29年）、会下山遺跡の近くの芦屋市立山手中学校で、裏山（会下山）に植物実習園をつくるための道づくりが行われた。この時、作業に参加していた生徒たちが偶然、弥生土器の破片を発見した。この発見を受けて発掘調査が行われた。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;発掘調査史&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;第1から10次調査調査&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;1956年（昭和31年）から1961年（昭和36 年）に芦屋市教育委員会などが第1次から第5次に渡る大規模な発掘調査を実施した。昭和48年（1973年）7月1日から7月6日、10月1日に会下山の西斜面について、第6次調査が行われ、多数の弥生土器が出土した。第7次調査は2002年（平成14年）に兵庫県教育委員会によって実施され、遺跡の範囲や内容が確認され、のちの国指定への重要なステップとなった。第8次調査は2008年（平成20年)3月3日から21日まで遺跡の正確な範囲と地下の埋蔵状況を把握するために行われた。
第9次調査は2009年（平成21年）2月9日から3月4日まで遺跡の正確な広がりや内容を確認するために行われた。第10次発掘調査は範囲確認調査（第8から10次）の最終年として2009年（平成21年）8月31日から12月16日に行われた。ここで特殊な構造を持つ「焼土坑」が発見された。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;竪穴建物&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;祭祀関係遺物をともなう竪穴建物1棟、大型の竪穴建物1棟を含む合計9棟の竪穴住居跡が見つかった。竪穴建物は屋根を支える柱が4本から５本ある。最も大きな竪穴住居は直径が8mから10 ｍあり、他の竪穴住居より少し高い場所につくられていた。この建物には集落のリーダーが住んでいたか、または集落の人々たちが共同で使う施設と考えられている。また祭祀に用いられたと考えられる施設、火たき場跡、墓跡、柵跡、堀跡、ゴミ捨て場跡などがある。焼土遺構は穴の中で高温の火を使った跡が２ヶ所で見つかっている。野外の調理場やノロシの施設、土器を焼き上げるための施設などの説がある。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;環壕&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;集落の最も北側で、二重の環壕跡がみつかっている。幅は約3～5.5 ｍ、深さは約1.2 ｍある。敵や動物の侵入を防いだり、集落の境界を区切るためのものであったと考えられる。
外側の環壕が幅約5.5 ｍ、深さ１ｍ以上、内側の環壕が幅約３〜４ｍ、深さは約1.2 ｍである。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;出土品&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;①鉄製品
鉄鏃、鋳造鉄斧などの鉄製品が出土した。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;②石器
石器は矢尻（石鏃）をはじめ、錐・石剣・
石斧・叩石・ 石鎚・ 磨石・ 石錘、砥石・投石弾・軽石などがある。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;③特殊遺構
穴の中で高温の火を使った跡が２ヶ所で見つかった。野外の調理場やノロシの施設、土器を焼き上げるための施設など、さまざまな説がある。焼土坑、土坑墓、柵列なども確認されている。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;④漢式三翼鏃
日本列島では珍しい漢式三翼鏃も出土した。出土した青銅製漢式三翼鏃（芦屋市指定文化財）は中国で作られたものである。漢式三翼鏃は中国系武器の流入を示す資料として注目されている。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;土器&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;出土土器全体の器種構成は、壺・甕・鉢・高杯・器台などで、畿内でよく出土するものとされている。河内や讃岐など他地域の土器も含まれ、広域交流が行われていたことを示している。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;森岡説&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;森岡秀人は会下山遺跡を、一時的な小集団の高地性集落ではなく、長期間にわたり営まれた大規模な高地性集落として再評価している（芦屋市教育委員会2010）。
すなわち森岡秀人は「制約を受ける狭い尾根上に数棟営まれた小集団の居住の場ではなく、規模の大きい集団が日常生活を長期間にわたって営んだ高地性集落」（芦屋市教育委員会（2010））と再定義している。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;竪穴住居　9棟　平面円形
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;祭祀場　2か所
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;墓跡　 4基
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;焼土坑 - 長径4メートル
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;ピット
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;段状遺構
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;溝状遺構 2条
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;柵跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;段
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;溝
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;土器（壺+甕+鉢+高杯+無頸壺）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;有茎式銅鏃 1
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;漢式三翼銅鏃1
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;石鏃
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;甕
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高坏
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉢
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;無頸壺
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;ガラス小玉
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉄器（鉄片+釘）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;石鏃（サヌカイト製）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;剥片（サヌカイト製）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;弥生土器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;サヌカイト製石鏃
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;サヌカイト剥片
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;掻器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;石錐
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;1960年 - 兵庫県史跡指定
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;2011年（平成23年）2月7日 - 国の史跡指定
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：会下山遺跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：〒659-0087 兵庫県芦屋市三条町258番地
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通：阪急電鉄神戸本線芦屋川駅から徒歩約15分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;芦屋市教育委員会（2017）会下山遺跡パンフレット
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;芦屋市教育委員会（2010）『芦屋市文化財調査報告85：兵庫県芦屋市　会下山遺跡確認調査報告書』芦屋市教育委員会　社会教育部生涯学習課
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>弥生時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>元稲荷古墳</title>
      <link>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/08/05/9869271</link>
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      <pubDate>Wed, 05 Aug 2026 00:05:15 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-04T23:43:47+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-04T23:43:47+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;元稲荷古墳&lt;/strong&gt;（もといなりこふん)は京都府向日市に所在する古墳時代前期初頭（3世紀後半～末頃）の前方後方墳である。史跡乙訓古墳群を構成する古墳である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;元稲荷古墳は向日丘陵南端部の尾根上に位置し、墳丘主軸を南北方向にとる。古墳の規模は墳丘長約94m、後方部は長さ約50m、幅約49m、高さ約7m、前方部は長さ約43m、幅約47m、高さ約4mである。後方部は三段築成、前方部は二段築成である。前方部が外側に向かって大きく開く形態は、初期の前方後円墳・前方後方墳に共通する墳丘形態の形成過程を考えるうえで注目される。前方後方墳という墳形が地域的に展開する一方で、乙訓地域では前方後方墳や前方後円墳が大型の首長墓として採用されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;元稲荷古墳は乙訓地域における最古段階の大型首長墓の一つであり、古墳時代初頭の畿内と周辺地域との交流や首長墓形成を考えるうえで重要な古墳である。2016年（平成28年）に「乙訓古墳群」のひとつとして国指定史跡となっている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;竪穴式石槨&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;竪穴式石槨は板石を合掌形に積み上げて壁体を構築し、その上に11枚の天井石を架けている。板石を内側へ持ち送る構造から、全体として家形に近い立体形状を呈する。竪穴式石槨などの埋葬施設に用いる板石は必要量が葺石ほど多くないため、石質、石の色彩や形状などを優先して、遠隔地から搬入される場合もある。元稲荷古墳の竪穴式石槨には西山産（京都府西山丘陵周辺）のチャートの板石が用いられており、葺石とは異なる石材調達のあり方を示している。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;副葬品&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;副葬品は埋葬施設は盗掘を受けており、副葬品の多くは失われたと考えられるが、刀剣・槍・鏃などの武器類、斧・鑿・刀子・鋤・鍬先などの農工具・工具類が残されている。向日丘陵の首長墓群では五塚原古墳（前方後円墳）に次ぐ時期の築造とされる。乙訓地域全体を見下ろす位置に大型墳丘を築いたことは、首長墓としての立地選択が垣間見える。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;葺石の採取場所&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;一般的に古墳の葺石は付近の河川から採取する例が多い。奥田尚（1999）は心合寺山古墳の葺石について、「石材の石種はペグマタイト、粗粒黒雲母花闘岩、中粒黒雲母花向岩、細粒黒雲母花闘岩、黒雲母閃緑岩、斑糖岩、片麻状中粒黒雲母花闘岩、片麻状細粒黒雲母花聞岩、鉱物種は石英である」としている。採取地として「葺石の石材は当古墳東方の楽音寺から大窪にかけての付近の山麓」から採取した礫を使用していると述べる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;元稲荷古墳の墳丘の斜面を覆う葺石には、主に拳大（10センチ未満）の卵形の礫（れき）が大量に敷き詰められている。元稲荷古墳では墳丘全体に大量の礫を用いた葺石が施されている。葺石は大量の石材を必要とするため、一般には古墳周辺の河川や山麓など、近距離で大量に確保できる場所から調達されたと考えられる。元稲荷古墳の場合、古墳の東側を流れる桂川や小畑川流域など、近隣地域から採取された礫が用いられた可能性が高い。遠隔地からの採取では重い石材を陸路や水運（船）で運ぶため、当時において強力な権力や高い土木・流通ネットワークを必要とした。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;元稲荷古墳は桂川流域の水陸交通の要衝にあり、すぐ西側には小畑川が南流する。葺石に使われている「拳大の円礫」は、これらの近隣河川の川原から集められたと考えられている。しかし大型古墳では数キロから数十キロ離れた地域から採取した礫の遠隔地搬入の例も見られる。例として神戸市の五色塚古墳では、淡路島東海岸の英雲閃緑岩や斑糲岩などが大量に使用・搬入されている。これらは外観に拘って特別な葺石を使用した事例である。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;元稲荷古墳ではそのような特別な外観に拘った形跡はみられず、墳丘全体に古墳近隣を流れる小畑川から採取したと想定される礫による葺石が施されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;調査&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1919年（大正8年）梅原末治の踏査により元稲荷古墳は古墳と確認された。1960年・1970年には京都大学による第一次、第二次発掘調査が行われ、その後、第三次移行は向日市教育委員会・向日市埋蔵文化財センターによる継続的な調査が行われ、第11次調査（2017年）までに、墳丘裾部や周辺の溝、埴輪・葺石の配置などが調査された。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;地山を削り出して墳丘の基本形を整え、その上に盛土を施して墳丘を構築している。第10次調査で墳丘の流土内から、讃岐系大型二重口縁壺と特殊器台形埴輪の細片が確認された。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;出土遺物&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;埋葬施設として確認されているのは、後方部中央の竪穴式石槨1基である。長さ5.6m、幅1mから1.3m、高さ1.9mである。かつて盗掘を受けたが、副葬品として武器（刀2点以上、槍2点以上、鉄鏃24点以上、銅鏃1点）、農具（方形鋤、鍬先、鎌）、工具（ヤリガンナ、有袋鑿状鉄製品、有袋鉄斧、有袋鑿、刀子）、漁労具とみられる刺突具とヤスが出土した。
副葬品には武器類だけでなく、農工具・工具類、漁撈具とみられる鉄製品も含まれ、被葬者の武力だけでなく生産・労働活動との関係をうかがわせる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;特殊器台形埴輪&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;前方部の墳頂中央に南北約２ｍ、東西約４ｍの範囲に壺形土器をのせた特殊器台形埴輪6～7個が、壺形土器を載せた状態で配置されていたと推定される。特殊器台形埴輪は吉備地域に成立した特殊器台・特殊壺の系譜を引くもので、箸墓古墳など大和の初期大型古墳にも類例があり、初期大型古墳における葬送・祭祀の共通性を考えるうえで重要である。特殊器台形埴輪の文様は都月形であるが、都月坂1号墳などと比べると、文様が途中で途切れていること、条数がより少ないことから、省略化が進んだ時期の製作と評価されている。文様構成や条数などに省略化がみられ、特殊器台の型式変化を考えるうえでも重要である。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;元稲荷古墳では人物・動物・家などの形象埴輪は確認されておらず、特殊器台形埴輪など初期段階の埴輪が中心である。また、讃岐地域に系譜をもつ大型二重口縁壺も確認されており、特殊器台形埴輪にみられる吉備との関係とあわせて、元稲荷古墳の築造をめぐる広域的な交流を考える重要な資料となっている。出土資料の一部は京都大学総合博物館および向日市文化資料館などで保管・公開されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;前方後方墳の起源&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;前方後方墳の成立過程については、弥生時代の前方後方形墳丘墓・周溝墓との系譜関係を重視する説がある一方、特定の一地域から直接発生したとすることには慎重な見方もあり、複数地域における墳墓形態の展開を含めて議論されている。前方後方墳の成立地については、近江・東海・長野など複数地域の候補があり、単一の地域を起源地として確定することは難しい。前方後方墳は滋賀や東海、長野など複数の地域で同時多発的・連続的に現れたとの説がある。最古級の前方後方墳には以下が挙げられる。
&lt;/p&gt;&lt;ol&gt;&lt;li&gt;神郷亀塚古墳（滋賀県東近江市）　3世紀前半から中頃の築造とされる。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;弘法山古墳（長野県松本市）近年の再調査で3世紀中頃の築造の可能性も指摘される。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;西上免古墳（西上免遺跡・愛知県一宮市）3世紀の前方後方形墳丘墓として最初期事例の一つ
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;&lt;h2&gt;乙訓地域における首長墓の成立&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;3世紀後半の乙訓地域における首長墓の成立は、ヤマト王権への臣従だけではなく、独自に各地域の有力勢力と主体的に結びつきながら、自律的な外交と政治的地位を確立していったプロセスと位置づける見解がある。京都府向日市の元稲荷古墳が持つ5つの象徴的な要素は、当時の乙訓首長が畿内中心部（大和・山城）や瀬戸内地域の諸勢力と接点があったとの指摘もある。乙訓地域における首長墓の成立とは、「畿内の最新技術」と「瀬戸内の葬送文化」を主体的に選択・融合させ、初期ヤマト王権の形成期において流通の仲介者・政治的パートナーとしての地位を想定する見解もある。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;大型前方後方墳の採用&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;ヤマト王権の「前方後円墳」とは異なる形態により、独自の政治的立場や系譜を政治的アイデンティティとの見方がされている。東海や北陸、畿内の一部で好まれた「前方後方墳」の選択は、初期王権内における独自のネットワークの存在を示唆するとの指摘もある。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;家形に近い竪穴式石槨&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;合掌式のように板石を傾けて傾斜を作る高度な埋葬構造は、初期の畿内中枢の有力古墳と合致している。地域を超える石材調達は地域間連携を示唆する。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;吉備系特殊器台（特殊器台形埴輪）の採用&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;後の円筒埴輪のルーツとなる吉備（岡山県）由来の最高級の葬送儀礼を受け入れた証拠とみる説もある。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;讃岐系土器の搬入&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;讃岐（香川県）からもたらされた土器の存在は、単なる交易を超える人的・政治的往来の可能性を裏付けるとの見解もある。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt; 畿内初期大型古墳との共通性&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;墳丘の設計プランや築造技術は、大和の箸墓古墳や西殿塚古墳と酷似する指摘がなされている（日本経済新聞（2012））。中央の技術者集団を直接招聘できる、高い政治的地位をヤマト王権内で確立していた可能性を指摘する見解もある。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;古墳の規模&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;全長は約92m、後方部長50m、同北辺幅50m、同南辺幅 48m、同高さ約7m。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;前方部長 約42m、同高さ約4m、くびれ部 幅23m、前端幅約46m
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;2016年3月1日 国指定史跡「乙訓古墳群」史跡の統合・追加指定・名称変更
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：元稲荷古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：京都府向日市向日町北山65−5
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通： 阪急京都線「西向日」駅下車、徒歩10分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;奥田尚（1999）「心合寺山古墳の葺石の石種とその採取地」『史跡心合寺山古墳 第6次発掘調査概報』
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;京都府教育庁指導部（2015）『乙訓古墳群調査報告書』京都府教育委員会
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;公財向日市埋蔵文化財センター（2018）『元稲荷古墳』パンフレット
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;元稲荷古墳第8次調査　現地説明会資料
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;日本経済新聞（2012）「元稲荷古墳、大王墓の相似形と判明」、2012年2月15日記事
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;向日市教育委員会（2014）『向日市埋蔵文化財調査報告書　第101集』向日市教育委員会
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>海獣葡萄鏡</title>
      <link>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/08/04/9869102</link>
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      <pubDate>Tue, 04 Aug 2026 00:10:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-04T09:15:47+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-04T00:15:06+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;海獣葡萄鏡&lt;/strong&gt;（かいじゅうぶどうきょう）は鏡背に海獣と呼ばれる霊獣や葡萄唐草文を高肉彫風に表した中国・唐代を代表する銅鏡である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;海獣は海に生息する動物ではなく、中国で西域文化の影響を受けて成立した獅子や麒麟などの霊獣を総称したものである。葡萄唐草は葡萄の房、葉、蔓を組み合わせて連続模様にした文様である。中国では葡萄文が吉祥文として好まれた。黄名時（2014）は「唐の高宗・則天武后時代に瑞獣を主文とする海獣葡萄鏡が流行した」「シルクロードを通じて伝来したペルシアなど西アジア・中央アジアのデザインや図案をとりいれた鏡や，東西の文化がミックスし融合した文様の鏡が流行した」と指摘する。中国の唐代の盛唐期前期に流行した代表的な装飾鏡である。
葡萄は多くの実をつけることから「子孫繁栄」や「豊穣」を表し、どこまでも伸びる蔓から「生命力」や「長寿」を象徴する。海獣葡萄鏡は唐代（7～8世紀）に最も盛んに製作された。日本では飛鳥時代から奈良時代にかけて遣唐使などを通じて伝来した。西域文化の影響を受けた国際色豊かな意匠をもっている。日本では正倉院宝物や古代寺院・神社に多く伝来し、美術史・考古学の双方で重要な資料である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;海獣葡萄鏡の事例&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;香取神宮（茨城県）蔵の海獣葡萄鏡&lt;/h3&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;1953年に国宝指定された。鏡径29.5cm、白銅質の大型の円鏡である。唐代鏡の最高傑作の一つといわれている。正倉院御物及び大山祇神社の神鏡とを合わせて『日本三銘鏡』とされている。葡萄唐草を地紋とし、獅子形の鈕（ちゅう）を中心として獅子・馬・鹿・麒麟などの獣類や孔雀・鴛鴦・鳳凰・鶏などの鳥類、さらには昆虫を配置する。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h3&gt;大山祇神社蔵の海獣葡萄鏡（禽獣葡萄鏡）&lt;/h3&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;国宝指定。鏡径26.5cm、重さは3キロ以上。愛媛県の大山祇神社に伝わる鏡である。中国・唐時代の白銅製の鏡とされる。斉明天皇が朝鮮出兵の際に戦勝を祈って奉納したと伝えられる（歴史的事実かは定かでない）。中央のつまみ（鈕）を中心に内区と外区に分かれる。中央には獅子が彫られ、その周りを葡萄ツタ、孔雀や鳳凰、小鳥が囲む。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h3&gt;東京国立博物館蔵の鳥獣葡萄鏡&lt;/h3&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;「鳥獣葡萄鏡」や「禽獣葡萄鏡」も獣葡萄鏡と同系統・同種の文様を持つ鏡の別称や類例として扱われる。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;法隆寺に伝来した銅鏡である。1957年（昭和32年）6月18日、重要文化財に指定。中央の獅子のつまみの周囲に、葡萄のツル、葉、小鳥、動物が立体的に描かれる。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h3&gt;正倉院蔵の鳥獣花背方鏡&lt;/h3&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;鳥獣花背方鏡は中国・唐代に作られた海獣葡萄鏡の１種で、中央には獅子が鈕となり、その周囲の六頭の霊獣を配置し、外区に鳥、蝶、蜂、葡萄唐草文様をを鋳出す。白銅で作られた四角い鏡である。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;方形の海獣葡萄鏡はめずらしい。辺長17.1cm。重さ1934.1g。正倉院に伝わる白銅鏡の中でも最高傑作の一つとされる。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;黄名時（2014）「隋唐時代の鏡文化（1）」名古屋学院大学論集　言語・文化篇　第25 巻第2号　pp.1―15
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
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      <dc:subject>奈良時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>深江城崎遺跡</title>
      <link>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/08/03/9868930</link>
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      <pubDate>Mon, 03 Aug 2026 00:05:15 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-02T23:07:22+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-02T23:07:22+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;深江城崎遺跡&lt;/strong&gt;（ふかえじょうざきいせき)は、福岡県糸島市に所在する弥生時代の遺跡である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;深江城崎遺跡は弥生時代に栄え、伊都国の西部における対外交流を考えるうえで重要な拠点集落の一つである。2020年（令和2年）の試掘調査で遺構や遺物が出土し、本格的な調査が必要と判断された。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;2021年度（令和3年度）の第1次調査では、弥生時代中期後半～終末期にかけての2つの遺構面が確認され、第1面（弥生時代後期後半から終末期）からは掘立柱建物1棟、溝1条、土坑28基、ピット442基を検出した。第2面（弥生時代中期後半から末期）からは掘立柱建物4棟、土坑27基、ピット100基を検出した。溝からは甕、大型甕が出土した。L字形石杵は食料加工などに用いられたと考えられる特徴的な形の石器である。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;2025年度に行われた第2次調査では、弥生時代の木製台「案」の出土や港湾集落の発見があった。
谷部から大型器台など外来系土器や木製品がまとまって出土しており、護岸を備えた人工流路も見つかっており、大陸や朝鮮半島との交流・交易に関わる拠点としての性格が想定される。遺跡は港湾的機能が想定されている。地域間交流や水辺での活動を考えるうえで重要である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;大陸・朝鮮半島系土器&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;朝鮮半島南部や楽浪郡に関係する外来系土器が出土しており、深江城崎遺跡における大陸・朝鮮半島との交流を示す資料となっている。深江城崎遺跡が大陸・朝鮮半島との物流や交流に関わった可能性を示す資料である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;クジラが描かれた「絵画土器」&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;2023年4月、糸島市が公表した絵画土器には、高さ60cmの壺の表面に、上から見下ろした（俯瞰した）視点で全長約8cmのクジラが線刻されている。クジラの体の両側に計6本の線が伸びており、これはクジラに刺さった「もり」を表している可能性がある。クジラを描いた絵画土器としては、長崎県壱岐市の原の辻遺跡に続く国内2例目とされる。伊都国と一支国の海上ネットワークや交流を考えるうえで注目される。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;木製台「案」と中国・漢代の案との類似&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;深江城崎遺跡出土の「案」は、中国・漢代の木製案と形態や構造に類似すると指摘されている。長方形の天板に脚を取り付ける構造をもち、脚を押さえ板や鼻栓で固定する点も共通する。こうした組み合わせ式の構造は、弥生時代の北部九州でも雀居遺跡などから確認されており、大陸との交流を背景とした木工技術の受容を考えるうえで注目される。なお、食器や供え物を載せる台との説もあるが、天板には多数の刃物傷が残されており、実際の用途については今後の検討が必要である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;調査&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;弥生時代前期&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;楽浪系土器や東九州系、瀬戸内系の土器が出土する。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;弥生時代後期前半&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;漁労具（タモ、アカトリ）、農具（竪杵、横槌など）、運搬具（舟、背負梯子）など多くの木
製品が出土した。長さ 1.96ｍ、幅 55ｃｍの刳り抜き式丸木舟と舟内やその周辺でも完形の土器が出土した。砂丘に沿って人工流路が造られ、杭や矢板を用いて護岸している。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;弥生時代中期末～後期初頭&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;完形の土器に丹塗磨研土器が含まれる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;掘立柱建物
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;人工流路
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;土坑
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;絵画土器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;案
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;時期&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：深江城崎遺跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：福岡県糸島市二丈深江
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交　通：JR筑肥線　筑前深江駅から　850m
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;糸島市（2023）『糸島市文化財調査報告書29：深江城崎遺跡』
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;西日本新聞（2026）「福岡・糸島市、弥生時代の木製台が完全な形で出土　国内唯一の発見」2026/7/5
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>弥生時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>上御殿遺跡</title>
      <link>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/08/01/9868715</link>
      <guid>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/08/01/9868715</guid>
      <pubDate>Sun, 02 Aug 2026 00:05:15 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-01T23:50:57+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-01T23:47:26+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;上御殿遺跡&lt;/strong&gt;（かみごてんいせき)は、滋賀県高島市に所在する弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡である。弥生時代中期～後期の双環柄頭短剣に似た鋳型が国内で初めて出土したことで知られ、古墳時代前期の石釧、大規模な集落跡、2026年に確認された鍛冶工房とみられる円形竪穴建物など、多様な遺構・遺物が確認されている。丹後・若狭など日本海側地域の特徴をもつ土器も出土しており、琵琶湖西岸と日本海側を結ぶ地域間交流を考えるうえでも重要な遺跡である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;上御殿遺跡は、滋賀県高島市南部、琵琶湖の西岸に広がる高島平野の南部を流れる鴨川の左岸に所在する。JR湖西線安曇川駅から南西方向に約800ｍの距離である。オルドス式銅剣や古墳時代の石釧、古墳時代前期の鍛冶工房跡などが出土したことで知られる。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;調査&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;2013年調査（短剣鋳型）&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;古代中国北部に分布したオルドス式銅剣に特徴が似た双環柄頭短剣の石製鋳型（金属を流し込んで形を作る型）が国内で初めて出土した。鋳型は2枚ある。2点一対で、長さ約30cm、幅約8.8cmである。弥生時代中期から後期のものとされる。オルドス式銅剣は、中国北方から内モンゴル地域などを中心に分布する青銅製短剣である。柄の先が2つのリング（双環）になっているのが特徴である。復元される短剣は、双環柄頭をもつ点で中国北方の短剣と共通する一方、鍔をもたず、刃部に幾何学的な文様が施されるなど、既知のオルドス式銅剣とは異なる特徴もみられる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;鋳型の石材は泥が固まったシルト岩で産地は不明である。鋳型の彫り込みが浅く、復元すると刃部が約3mmと薄いことから、実用品ではなく、特殊な目的のために製作された可能性が指摘されている。
短剣鋳型の出土は、上御殿遺跡周辺で青銅器生産に関わる技術活動が行われていた可能性を示す。一方、2026年には古墳時代前期の鍛冶関連遺構とみられる建物も確認され、金属加工技術の実態を考えるうえで重要な遺跡となっている。滋賀県指定有形文化財となっている。朝鮮半島に同型の出土例がそれまで知られていなかったことから、その伝来経路について、日本海側を含めた複数の可能性を検討する必要がある資料となった。
&lt;/p&gt;
&lt;h3&gt;2013年調査（石釧）&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;古墳時代の川跡から腕輪形石製品の「石釧」が出土したと発表した。直径8 ㎝(外側：内側は直径6.6 ㎝)・高さ2.4 ㎝を測り、破片の大きさは全体の約1/4 程度である。石材は緑色凝灰岩とみられ、淡い緑色腕輪形である。石釧は東北南部～九州北部に広く分布しており、有力者の墓に副葬されることが多い。古墳時代前期の後葉(4世紀後半)ごろのものと見られている。土器の他、紡錘車や鉄鎌が出土している。湖西地域では初めて確認された石釧であり、琵琶湖を挟んだ湖南地域との交流や、腕輪形石製品の流通を考えるうえでも重要である。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;2014年調査（古墳）&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;2014年2月27日、古墳１基が発見された。直径約12.8mの円墳で、主体部は木棺直葬であった。周溝から出土した須恵器などから、古墳時代後期の古墳と考えられている。底の土に赤い顔料が見られた。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;2024年度～2025年調査（集落）&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;2024年度からの調査では、弥生時代後期から古墳時代前期の竪穴建物が多数確認され、2026年までに方形建物32棟などが確認されている。丹後・若狭地域の影響を受けた北近畿系の土器や湖南地域の特徴を持つ土器が含まれており、他地域との交流が推測される。弥生時代後期から古墳時代前期にかけて約200年間続いた地域の拠点集落と見られる。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;2026年調査（鍛冶工房跡）&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;古墳時代前期の鍛冶工房とみられる2棟の円形竪穴建物跡がみつかった。建物内部で6基の炉の跡を発見している。炉周辺の被熱状況から、700～1000度弱の高温になったと推定されている。出土状況は、直径約7.2メートルの建物跡から4基、直径約6.0メートルの建物跡から2基の炉が確認されている。炉は床面から数センチ高く粘土等でかさ上げされており、湿気対策が施されていたと考えられる。炉周辺の被熱状況から、ふいごによって送風していた可能性も指摘されている。北方からもたらされた鉄製品などを再加工していた可能性が考えられている。丹後・若狭など日本海側地域の特徴をもつ土器がされ、遠隔地との交流を示すものと評価されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;鍛冶工房跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;古墳
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;紡錘車
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉄鎌
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;石釧
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;双環柄頭短剣の石製鋳型
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;時期&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：上御殿遺跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：滋賀県高島市鴨2742-3
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交　通：JR湖西線 安曇川駅 徒歩18分（1.3km）
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;「滋賀・高島の遺跡で邪馬台国時代の鍛冶工房跡」産経新聞、2026年7月17日
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;「弥生―古墳期の鍛冶工房か」共同通信、2026年07月16日
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;滋賀県文化財保護協会（2013a）「平成24年度 高島市上御殿遺跡出土の石釧について」
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;滋賀県文化財保護協会（2013b）「御殿遺跡発掘調査現地説明会資料」
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>弥生時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>横幅</title>
      <link>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2024/04/16/9676216</link>
      <guid>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2024/04/16/9676216</guid>
      <pubDate>Sat, 01 Aug 2026 00:05:10 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-07-31T23:48:05+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2024-04-16T00:58:09+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;横幅&lt;/strong&gt;（おうふく）は布を巻いて結ぶだけで、裁断や縫製をほとんど行わず布を体に巻き付ける衣服である。横幅衣（おうふくい）ともいう。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;『魏志倭人伝』の記述に3世紀頃の倭国の男子の服装が書かれる、すなわち「男子は皆露、木緜を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし」（男子皆露紒、以木綿招頭、其衣横幅、但結束相連、略無縫）とされる。男子は冠や頭巾を着けず、木綿を頭に巻き付け、衣は横幅で、結んだだけで連結し、縫い目（裁縫）はない、とされている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『古事記』『日本書紀』には同様の記述はみられず、『魏志倭人伝』に記される3世紀頃の倭人の服装を知る数少ない史料となっている。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;横幅の解釈&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;大林太良（1977）によれば、横幅は２通りの解釈がされている。一つ目の解釈は長い布を腰巻きとして使う方法である。梁代（6世紀）の『職貢図』に描かれた倭国使は、横に長い布を肩掛けから、腹のあたりまで巻き付け、腰付近でくくり合わせる衣装である。百済の使節とはかなり異なっており、相対的に貧弱な服装になっている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『晋書』卷九十七・林邑伝に「女嫁之時、著迦盤衣、橫幅合縫如井欄、首戴寶花」（女性が嫁ぐ時は、迦盤（かばん）の衣を着用し、横幅の布を井戸の垣根（井欄）のように縫い合わせ、頭には宝花（宝石や宝飾をつけた飾り花）をかむる）と書かれる。「迦盤」は当時の筒状のスカート状の衣服を意味する。布を円筒形・円周状に縫い合わせて体に巻き付ける。林邑とはベトナム中部から南部でチャム人が2世紀末に建設した国家をいう。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『隋書』卷八十二列傳第四十七 南蠻林邑伝に「俗皆徒跣、以幅布纏身」（風俗は皆裸足で、横幅に衣服をまとう）と書かれる。「横幅」の語は倭国以外にも林邑の衣服を表す語として中国史書にみられる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;二番目の解釈では肩から掛けた布をさすという。三品彰英（1971）は袈裟式の服装と解釈した。斎藤忠（1958）も同様の解釈である。サリーはインド・ネパール・スリランカ・バングラデシュ・パキスタンにおいて、細長い布を様々なスタイルで体を包み込んで使用する。サリーも裁断・縫製をほとんど行わず、長布を身体に巻いて着用する衣服の一例である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;考察&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;布を巻き付けて着用する衣服は、南アジア・東南アジアに広くみられる。南アジアから東南アジアにかけて広く分布している布を裁断せず身体に巻き付ける服装文化がある。名称はサロン、サルン（マレーシア，インドネシア），シン（ラオス），ルンギー（インド，バングラデシュ）、ロンジー（ミャンマー）があるが、いずれも布を腰巻きとして使用する。
現代でも、インドネシアでは輪にした布を衣料に用い、裁断や縫製をしないまま身体を包む布として使う。このような布を巻き付けて着る衣服は現代の東南アジアにもみられる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;三品彰英（1971）『神話と文化史』平凡社
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;斎藤忠（1958）『日本全史１　原始』東京大学出版会
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;吉本忍（2005）『アジアにおける「包むJ文化』日本衣服学会誌 Vol.49 No.l
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;大林太良（1977）『邪馬台国』中央公論社
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>魏志倭人伝</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>野多目遺跡</title>
      <link>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2025/03/15/9761103</link>
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      <pubDate>Fri, 31 Jul 2026 00:06:10 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-07-31T00:06:51+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2025-03-15T00:40:46+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;野多目遺跡&lt;/strong&gt;（のためいせき)は福岡県福岡市にある旧石器時代から近世に及ぶ複合遺跡である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;野多目遺跡は福岡市西部を北に流れる那珂川左岸の標高15mから20mほどの段丘上にある。
那珂川河口から南に8kｍの地点で、弥生時代開始期を代表する板付遺跡の北東3.5kmにある。
野多目遺跡では板付遺跡と同様に縄文時代晩期終末の水田遺構が検出された。水系の異なる両遺跡の比較は、福岡平野における弥生時代開始期の実態を解明する上で重要視されている。
野多目遺跡はA・B・C・Dなどの地区から構成され、これらを総称して野多目遺跡群という。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;調査&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;遺跡は戦前から知られていたが、昭和54年から発掘調査が始まり、旧石器時代の包含層、縄文時代の貯蔵穴・落とし穴、同終末の水田関係遺構、弥生時代の住居・貯蔵穴や墓地、古墳時代の住居・墳墓、古代から中世の集落、近世の集落跡などが確認された。
昭和54年以降、調査は段階的に進められた。1987年の調査では水田跡が認められ、弥生時代の開始期、突帯文土器から板付Ⅰ式の段階が認められた。水路祭祀に関係すると考えられる遺物や水路が検出された。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;野多目A遺跡では第二次調査で弥生時代開始期（突帯文土器単純期）の水田（水路、井堰、水口、土坑等）が検出された。A遺跡の第4次調査では縄文時代後期の土器の精製土器片が出土した。鉢形土器の口縁部片である。
野多目B遺跡第一次調査では縄文時代後期前半の旧河川・溝状遺構、弥生時代前期の水田水路を検出した。野多目C遺跡群では旧石器時代の三稜尖頭器・台形石器、縄文時代中期後半～後期初頭の貯蔵穴などが出土した。第三次調査では縄文時代晩期の貯蔵穴．溝状遺構を確認した。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;縄文時代&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;縄文時代後期から晩期（約4,000～2,400年前）のドングリなど堅果類の貯蔵穴が多数検出され、採集活動の様子が明らかとなった。縄文時代の採集経済から弥生時代の稲作農耕を基盤とする生産経済への移行過程を示す遺跡として重要である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;旧石器時代&lt;/h3&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;集石
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;包含層
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h3&gt;弥生時代&lt;/h3&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;畦畔
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;水路5
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;井堰3
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;水口8
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;土坑５
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;掘立柱建物1
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;溝２
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;旧石器時代&lt;/h3&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;ナイフ形石器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;台形石器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;細石刃
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;細石核
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;角錐状石器
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h3&gt;縄文時代&lt;/h3&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;石器類
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;堅果類
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h3&gt;弥生時代&lt;/h3&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;弥生土器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;石器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;夜臼式土器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;磨製石斧
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;スクレイパー
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;石包丁
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;石鏃
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;須恵器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;打製石鏃
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;打製石斧
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;石包丁
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：野多目遺跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：福岡県福岡市南区野多目字古古賀522
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通：天神大牟田線　大橋駅　徒歩33分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;福岡市教育委員会（1987）『野多目遺跡群- 稲作開始期の水田遺跡の調査』福岡市埋蔵文化財調査報告書　第159集
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;福岡市教育委員会（1997）「野多目A遺跡　4」福岡市埋蔵文化財調査報告書第527集
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>弥生時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>府中遺跡 （大阪府）</title>
      <link>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/07/30/9868215</link>
      <guid>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/07/30/9868215</guid>
      <pubDate>Thu, 30 Jul 2026 00:22:50 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-07-30T00:23:36+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-07-30T00:23:36+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;府中遺跡 （大阪府）&lt;/strong&gt;（ふちゅういせき)は、大阪府和泉市（主に府中町・黒鳥町周辺）に所在する弥生時代から中世にかけての複合集落遺跡である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;府中遺跡は槇尾川右岸、信太山丘陵西側の低位段丘に立地する。東西約1km、南北約1.2kmに及ぶ広範囲の遺跡である。縄文時代の遺物や弥生時代の大規模集落跡が確認され、方形周溝墓や土器だまり、渡来系要素をもつ古墳時代の建物跡などが発見されている。泉州地域における集落の変遷や地域間交流を考える上で重要な遺跡である。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;縄文時代の遺物や、弥生時代の大規模な集落跡が確認されている。弥生時代終末期（2世紀前半）には一時的に集落活動が停滞し、人々が丘陵上へ移動したと考えられている。
出土品は和泉市いずみの国歴史館で展示される。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;縄文時代&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;発掘調査では、縄文時代中期末の土器である北白川C式の土器が出土した。口縁部に波状口縁をもつものが多く、また土器の表面に縄文を施した上から沈線文などで装飾する。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;弥生時代中期&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;弥生時代中期では壷口縁部、弥生土器甕の底部、方形周溝墓が確認された。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;弥生時代後期～古墳時代&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;弥生時代後期～古墳時代初頭では自然流路の肩から大量の土器が集中して出土する「土器だまり」が検出され、その中に淡路型器台5点が含まれていた。土器を意図的に廃棄・集積した可能性が指摘されている。淡路型器台は淡路島とその周辺地域を中心に分布する特徴的な器台で、口縁部が段状に広がり、円錐形の脚部をもつ。府中遺跡での出土は地域間交流を示す資料として注目される。
また装飾品（臼玉や有孔円板、紡錘車）、韓式系軟質土器の甕、土師器甕が検出された
縄文時代から弥生時代にかけての人骨約90体が確認されている。
遺跡の中央に位置する南北方向の谷から多量のサヌカイト片が出土した。これらのサヌカイト片は、石器製作時の石屑である。府中遺跡はサヌカイトの流通や石器生産を考える上で重要な資料を提供している。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;古墳時代&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;古墳時代の遺構として竪穴建物や自然流路が検出されている。弥生時代後期末から古墳時代前期の竪穴建物1基は、カマドの位置や柱穴を持たない構造、韓式系土器の出土などから、渡来系の要素をもつ建物と考えられている。
遺物は古墳時代中期の鉄鐸が出土している。鉄鐸は銅鐸を鉄製で模倣した祭祀具と考えられており、出土例が少ない。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;奈良時代以降&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;奈良時代～平安時代にかけての遺物は瓦や土師器・須恵器などが検出されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;時期&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：府中遺跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：大阪府和泉市黒鳥町一丁目
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交　通：JR阪和線 和泉府中駅下車　徒歩で約10?15分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;大阪府教育委員会（2018）「府中遺跡」
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;大阪府教育委員会（2019）『大阪府埋蔵文化財調査報告2018-2：府中遺跡Ⅱ』大阪府教育委員会
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>弥生時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>景初二年・景初三年問題</title>
      <link>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/12/31/9647120</link>
      <guid>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/12/31/9647120</guid>
      <pubDate>Wed, 29 Jul 2026 00:05:10 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-07-31T10:18:35+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-12-31T00:28:54+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;景初二年・景初三年問題&lt;/strong&gt;（けいしょにねんさんねんもんだい）は『魏志倭人伝』に記される卑弥呼の最初の遣使について、「景初二年（238年）」とする本文をそのまま採るか、「景初三年（239年）」の誤記とみるかをめぐる年代論争である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;『魏志倭人伝』（『三国志』魏書 東夷伝 倭人条）には、景初二年（238年）六月、倭の女王（卑弥呼）は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に到着し、天子にお目通りして献上品をささげたいと申請した。帯方郡太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を洛陽まで引率して送り届けさせたと書かれる。景初二年（238年）六月は景初三年（239年）六月の誤りであるとの指摘がある。
239年（景初3年）1月に魏の明帝は死去したから、景初三年説を採ると、最終的に倭使が謁見した相手は、明帝の死後に即位した曹芳であったことになる。現在では景初三年説を支持する研究者が比較的多いが、景初二年説も有力な異説として議論されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;文献史料上の根拠&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;景初三年説の文献史料上の根拠は以下である。
石原道博（1985）はこれらの史料を根拠として『魏志倭人伝』の「景初二年」は「景初三年」の誤りとした。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;(1)『梁書』に景初三年と書かれている。&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;『梁書』は、「景初三年に公孫淵が滅びて後、卑弥呼が遣使した」（至魏景初三年公孫淵誅後卑弥呼始献使朝貢）と書く（石原道博（1985）l巻末影刻）。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;(2)『日本書紀』に景初三年と書かれる。&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;『日本書紀』神功三十九年記事に「是の年太歳己羊。魏志に曰く、明帝の景初三年の六月倭の女王（卑弥呼）、大夫難斗米等を遣わして、郡（帯方郡）に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献する」と書かれる（坂本太郎他(1995)『日本書紀』）。『日本書紀』記載の太歳己羊は景初三年と整合する。
『日本書紀』が引用した『魏志』は現存本より古い系統の本文を反映している可能性があり、そのため景初三年の記載を重視する研究者もいる。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;(3)『太平御覧』の記載&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;佐伯有清（2000）は『太平御覧』（慶元版）の『魏志』に「景初三年、公孫淵死す。倭の女王、大夫難升米等を遣わして、帯方郡に言せしめ天子に詣りて朝貢せんことを求む」とあり、『日本書紀』記事と合わせると、『魏志』の記載は「景初三年」であったとみられる事を挙げる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;歴史的状況からの根拠&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;(1)障壁説&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;魏から独立した勢力として楽浪郡・帯方郡を支配していた公孫淵が景初二年（238年）六月にはまだ滅びていないから、その時点では洛陽に倭国の使者は到達できないとする見解がある。鳥越憲三郎（2020）は「公孫淵の父子を誅殺したのが景初二年八月である。それ以前の六月に帯方郡の役所に行くことは絶対に不可能であった」と指摘する。倭の献使は景初三年六月に皇帝への謁見を願い出て、郡の太守が役人を洛陽に行かせて、倭国の使者を同行することの許可を皇帝から得て、郡に帰り太守に報告する。太守は倭の使者と同行者を伴い、洛陽に上京する。そこまで五ヶ月を要した。このため景初二年説では約1年5か月の空白が生じることになり、不自然であると論じている。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;(2)戦乱説&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;景初二年はまだ戦乱が激しいため朝鮮半島を通行できないとする説である。ただし海路を取れば、戦乱に巻き込まれる危険は少ないとの指摘もある（水野祐（1982））。
『太平御覧』景初二年六月に公孫淵を撃つため司馬懿率いる4万余の軍が遼東に到達し、公孫淵は遼隧の軍を撤退させ、都の守備に当たらせたが、防戦一方となり敗退を繰り返して、司馬懿に襄平を包囲された。公孫淵は人質を出して和睦しようと画策するが、司馬懿はこれを許さず公孫淵を捕えて処刑した。『魏志』公孫淵に「遼東、帯方、楽浪、玄菟、悉く平らぐ」と書かれる。佐伯有清（2000）は「そうした混乱の中で、倭の女王卑弥呼が帯方郡に使者を派遣し、さらに魏の皇帝のもとに朝貢しようとしたことは、景初二年六月の時点ではありえない」とする。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;(3)陳寿の執筆意図説&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;渡邊義浩（2012）は、西晋で『三国志』を執筆した陳寿は、司馬氏政権の正統性を示す意図を有していたと指摘する。司馬懿が公孫淵を討伐した徳を慕って卑弥呼が遣使したとする構成であるため、その外交開始は景初三年でなければ陳寿の叙述意図は成立しないと論じている。
&lt;/p&gt;
&lt;h3&gt;(4)本文尊重説&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;景初二年（238年）説の根拠となる根拠は以下である。
&lt;/p&gt;&lt;ol&gt;&lt;li&gt;『三国志』は景初二年と書いている(本文尊重説)。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;景初二年でも前後関係は不自然ではないとする説（水野説）。
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;
&lt;p&gt;現行『三国志』本文を尊重し、現存する最古級の本文を安易に誤記とみなすべきではないとする立場である。水野祐（1982）は劉夏の赴任時期とも整合すると指摘している。
裴松之は異説を大量に紹介するが、景初二年の個所は修正していない。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;水野説&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;水野祐（1982）は戦乱で通行できるかどうかを判断していないが、『晋書』の記載から景初二年説を主張する。「景初二年に（倭国の遣使は）明帝に謁見し、帯方郡に戻った。それは（景初三年）三月か四月のことであろう」とする。「景初二年を正しいとする根拠は当時の海上交通を検討しなければならない」とし、倭国から魏への通交は不可能ではなかったとする。魏が楽浪・帯方２郡の奪回のため水軍を編成したのは景初元年七月であった。韓諸国が遼東の楽浪公との関係を切り、帯方太守を介して魏との関係を結んだのは公孫淵滅亡の景初二年八月以前とする。倭も同時期に韓諸国と同様に帯方太守との修好を結んだから通交は可能であった。倭の一行は景初二年十一月までに洛陽に入り、明帝に謁見した。魏の皇帝と修好を結ぶため、媒介となる使訳に優秀なものがおり、東アジア情勢に通暁しており、正副の使節を郡の太守は丁重に送り届けた。景初三年は一月に３５歳の明帝が崩御し、服喪期間は１年あったから、景初三年中に公式行事を行えたかどうかが問題となると指摘する。『倭人伝』により時系列で整理すると以下の通りである。
&lt;/p&gt;&lt;ol&gt;&lt;li&gt;景初二年六月　卑弥呼、使を派遣
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;景初二年七月から八月　楽浪・帯方戦乱、公孫淵滅亡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;景初二年十二月はじめ　倭使明帝に謁見、十二月中に帯方に向かう
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;景初三年正月　明帝崩御
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;景初三年三月頃　倭使帯方郡に帰着する。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;景初三年五月頃　倭使は倭国に帰着する。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;景初三年七月　斉王芳、はじめて臨朝
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;景初三年八月まで　帯方太守は劉夏から弓遵となる。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;景初三年九月ころ　帯方太守弓遵は、郡使を倭国に派遣する。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;景初三年十二月ころ　倭使女王の答礼の上表文を持参し、帯方郡に向かう。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;正始元年正月　帯方太守弓遵に答謝の上表文を呈す。
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;&lt;h2&gt;『正史　三国志』本文の信頼性&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;(1)本文校訂の問題&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;景初二年説・景初三年説の対立は本文校訂（史料批判）の問題である。現存する『三国志』本文をそのまま採用するか、『梁書』『日本書紀』など後代史料を用いて本文を校訂するかという史料学上の問題でもある。ただし『正史　三国志』は著者・陳寿による直筆の原本はなく、まとまった書籍（版本）として現存する最古のものは、12世紀の宋代（紹興年間など）に作られた刻本である。中国の商務印書館などが影印出版した「百衲本」は底本に宋代の古い版本を使用するが、『日本書紀』が参照する『魏書』の方が先行するとみられる。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;(2)裴松之の注釈&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;南朝宋の文帝の命を受けた裴松之は『正史　三国志』に注釈（裴注）を加え、中国史学における初期の本格的な史料批判の例と評価されている。裴松之が膨大な補足史料を盛り込んだ注釈を文帝に献上したのは429年（元嘉6年）である。裴松之により異説の比較ができ、本文の史料批判が進んだ。しかし裴松之は景初二年の記述を改めていない。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;(3)『三国志』本文の評価&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;『三国志』の原文の記述については政治的配慮や編纂方針の影響が指摘されている箇所もあり、そのため本文をどこまで信頼するかも議論となる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;卑弥呼の献使の意味&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;景初二年説と景初三年説とでは、卑弥呼の献使の意味が異なる。
景初二年六月説に立てば、戦乱の最中に派遣された外交使節という意味合いを持つことになる。一方、景初三年六月では、公孫淵討伐後の新たな国際秩序の成立を受けた朝貢外交として理解することができる。
さらに渡邊義浩（2012）は景初二年説では戦乱をくぐり抜けて帯方郡太守は使者を送り届けたことになり、景初三年六月説なら公孫氏を滅ぼした司馬懿の功績を言祝ぐ意味となると指摘した。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;考察&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;景初二年説は『三国志』本文と当時の海上交通の可能性を重視する。一方、景初三年説は『梁書』『日本書紀』などの異本や、公孫淵討伐との時系列を重視する。双方に一定の根拠があり、現時点でも決着をみていない。この問題は卑弥呼の外交開始時期だけでなく、3世紀東アジアの国際情勢や『三国志』本文の信頼性をどのように評価するかという史料学上の課題とも密接に関わっている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;石原道博（1985）『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;佐伯有清（2000）『魏志倭人伝を読む　（上下）』吉川弘文館
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;坂本太郎,家永三郎,井上光貞,大野 晋(1995)『日本書紀』岩波書店
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鳥越憲三郎（2020）『倭人・倭国伝全釈』KADOKAWA
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;水野祐（1982）『評釈　魏志倭人伝』雄山閣
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;渡邊義浩（2012）「魏志倭人伝の謎を解く」中央公論新社
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;新・私の本棚 前田晴人 「纒向学研究」 第7号『「大市」の首長会盟と…』１／４ 補充
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>魏志倭人伝</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>西岩田遺跡</title>
      <link>http://ancient-history.asablo.jp/blog/2024/01/20/9652201</link>
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      <pubDate>Tue, 28 Jul 2026 00:05:10 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-07-27T23:19:24+09:00</dcterms:modified>
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      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;西岩田遺跡&lt;/strong&gt;（にしいわたいせき)は、河内平野中央部に位置する古墳時代の水辺集落遺跡である。古墳時代初頭の河内と吉備地方との交流を示す土器（庄内式土器成立期における技術交流や人の移動を考えるうえで重要な資料となっている）や、全国でも出土例の少ない3世紀前半の木製仮面が発見されたことで知られる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;西岩田遺跡は河内平野のほぼ中央に所在する。弥生時代中期以前には現在の遺跡付近は河内潟・河内湖の水域に含まれ、水面下にあった。弥生中期末以後の海水面の低下と旧大和川による急激な沖積作用とによって陸となり、河内湖の水域を前面に望む微高地が形成され、5世紀頃から集落が営まれるようになった。西岩田遺跡は古墳時代には水辺の集落遺跡であった。木製農具が出土していることから、西岩田周辺では農耕が行われていたと考えられる。南方に位置する集落に比較すると半農半漁であり、水上交通の拠点であったと考えられている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;調査&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1960年代に発見され、昭和46年には中央南幹線下水管渠築造に伴って西岩田遺跡で最初の発掘調査が実施された。出土土器のなかで近畿地方の古墳時代初頭の土器型式（庄内式から布留式古段階）と、近い時期の吉備地方の土器型式（吉備地方の酒津式土器）とが同じ地層から出土することが注目された。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;庄内式の甕にみられる胴部内面をヘラで削る技法は吉備地方の影響を示す資料として注目された。1971年（昭和46年）調査では古墳前期の井戸や奈良時代の掘立柱建物などが検出された。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1982年（昭和57年）の発掘調査では、古墳時代前期の溝、奈良時代の柱穴などを検出した。建物の規模は、一例として横幅7.2メートル、奥行き3.6メートルなどの大きさが推測されている。検出された柱穴や住居跡は、古墳時代前期のものから、井戸や溝などとともに奈良時代から中世のものまで重層的に確認されている。
奈良時代の建物の下層から古墳時代中期ないし後期の遺物が発見された。須恵器が多く、特に高坏が多く出土した。そのほか高坏に載せる蓋、坏身、壺、甕、製塩土器などの土器のほか、石製臼玉が出土した。その下層から籠目土器、船の櫂、横鍬（田を均すために使う）などの農具、有頭棒などの木製品が出土した。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;木製仮面&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;2023年4月の発掘調査では、特に国内で数例しかない3世紀前半の木製仮面が出土し、全国的に注目を集めた。公益財団法人大阪府文化財センター（2025）では当時3例目の木製仮面とされている。長さ29.9㎝、幅17.7㎝、最大厚さ2.0㎝と、人の顔の形・大きさに近いサイズである。穿孔や隆起部による目や鼻などの顔面表現がある。材質は杉材で作られている。
裏面は平らで顔の凹凸に合わせて削られておらず、仮面は厚みと重量があることから、顔に直接装着する使い方ではなく、顔の前で「手で掲げる」あるいは木や壁などに「吊り下げて」使う儀礼に使われたと見られている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;仮面は地表から約2.9メートル下の洪水堆積層から見つかった。水をためる容器や、炭化した（燃やされた）「くわ（鍬）」などの農具が一緒に出土している。目の仕上げ方などは奈良の木製仮面との共通点が認められる。そのことから「奈良県の纒向遺跡や大福遺跡と祭祀・儀礼形態を共有していた可能性が高い」（公益財団法人大阪府文化財センター（2025））とされ、祭祀との関わりを考える上で重要な資料として注目された。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;纒向遺跡や大福遺跡との共通性は、3世紀前半に祭祀・儀礼の共通基盤が畿内各地へ広がっていた可能性を示唆する。
木製仮面周辺から出土した木材３点の放射性炭素年代測定では、1850±20BP、1860±20BP、1890±20BP（IntCal20による較正年代であり、2世紀前半から3世紀前半頃）という年代値が得られている（公益財団法人大阪府文化財センター（2025））。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;説明会&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;発掘調査に伴い、2022年6月23日に現地見学会が開催され、調査成果が一般公開された。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;竪穴建物
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;倉庫
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;掘立柱建物
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;土壙-
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;溝
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;井戸
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;土師器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;須恵器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;瓦器片
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;古瓦片
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;摺鉢片
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;石製臼玉
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;製塩土器
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;時期&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：西岩田遺跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：大阪府東大阪市西岩田3丁目/4丁目
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交　通：近鉄奈良線　若江岩田駅　徒歩16分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;瓜生堂遺跡調査会（1976）「西岩田・瓜生堂遺跡　試掘調査報告書Ⅰ」
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;公益財団法人大阪府文化財センター（2025）『公益財団法人大阪府文化財センター調査報告書346：西岩田遺跡２』公益財団法人大阪府文化財センター
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
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      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
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      <title>曽利式土器</title>
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      <pubDate>Mon, 27 Jul 2026 00:10:13 +0900</pubDate>
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      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;曽利式土器&lt;/strong&gt;（そりしきどき）は縄文時代中期後半（約5,000～4,500年前）に中部高地を中心に発達した縄文土器の一型式である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;勝坂式土器に続いて成立し、中部高地における縄文時代中期後半を代表する土器型式となった。代表的な特徴として(1)口縁部の肥厚帯(口縁部を厚く盛り上げる)、(2)炎や煙が立ち上るような曲線的な立体文様である水煙文（ダイナミックで流れるような曲線の立体的な装飾）、(3)渦巻文様（胴部の大きな渦巻文様）、がある。ただし時期差・地域差がある。
分布範囲は山梨県甲府盆地から八ヶ岳西南麓 または 八ヶ岳山麓、富士川下流域、伊豆地方、西関東（神奈川県・東京都西部・埼玉県西部）が主な分布域である。房総半島からも出土しており、中部高地との交流を示す資料と考えられている。
曽利式土器は、中部高地における縄文文化の成熟を示す土器型式であり、縄文時代中期の地域文化や交流を研究する上で重要な資料となっている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;長野県諏訪郡富士見町に所在する曽利遺跡が標識遺跡であり、その名称の由来となった。曽利遺跡は、縄文時代中期の代表的な大集落跡である。2025年に国史跡「井戸尻遺跡」に追加指定され、「史跡井戸尻遺跡群」を構成する遺跡となった。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;編年&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;主にⅠからⅤの5期に細分化されている。曽利Ⅰ・Ⅱ式（縄文時代中期中葉から後葉）は前身である井戸尻式の系統を引き継ぐ。Ⅰ式は流麗な水煙文や浮線文（ふせんもん）、従位条線地文を特徴とする。Ⅱ式では胴部に重弧文や波状文が描かれ、この時期に関東地方に拡散した。
曽利Ⅲ式（中期後葉前半）は関東の加曽利EⅡ式などと並行する。沈線で区画された中に矢羽根状沈線文などを充填する。曽利Ⅳ式（中期後葉後半）は関東の加曽利EⅢからⅣ式と並行する。器形は「キャリパー形」と呼ばれる胴部が張り出した特徴的な形になり、文様が徐々に退化・省略される傾向がある。曽利Ⅴ式（中期末?後期初頭）は曽利式の終末段階であり、関東の加曽利EⅣ式や称名寺式などへ移行する過渡期の土器群である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;郵便はがき料額印面での採用&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;曽利式土器は考古学上の価値だけでなく広く知られ、1972年（昭和47年）には郵便はがきの料額印面の意匠にも採用された。1963年にはフランス・パリのセルヌスキ美術館で開催された「日本古美術展」に出品され、日本の縄文美術を代表する作品として海外でも紹介された。1972年には、その芸術性が評価され、郵便はがきの料額印面の意匠にも採用された。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;学術的意義&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;曽利式土器の学術的意義は、高度な造形技術による水煙文の芸術性だけでなく、当時の地域間交流や社会構造を解明する指標となる点にある。曽利式土器の最大の特徴の一つに、胴部や口縁部に施される複雑な「渦巻文」「重弧文（じゅうこもん）」「斜行文」などがある。これら独自の文様や土器の製作技術は、中部高地から関東地方や東海地方などの周辺地域へと広範囲に拡散した。異なる地域社会の間で、どのように土器のスタイルや情報が共有・受容されたのか、あるいは地域ごとの独自色とどう融合したのか、人や物資の移動や社会関係を追跡するための重要な基準（指標）となる。曽利式の変遷の基準は、関東地方の加曽利E式など周辺地域の土器編年（土器編年の基準）を組み立てる上での重要な基準資料として機能する。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;出土&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;曽利遺跡
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;井戸尻考古館
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;櫛原功一（2014）「曽利式土器編年の再検討」『山梨考古学論集. 7』山梨県考古学協会
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;神奈川考古同人会編（1981）「曽利式土器編年の現状と課題」『神奈川考古11』神奈川考古同人会
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>縄文時代</dc:subject>
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