古代東アジア情勢と白村江の戦い ― 2024年08月04日 01:35

古代東アジア情勢と白村江の戦い(こだいひがしあじあじょうせいとはくそんこうのたたかい)は2024年7月27日に開催された「第9回高麗郡公開歴史講演会」のテーマである。
概要(講演概要と要旨)
- タイトル:「古代東アジア情勢と白村江の戦い、その後 行方を探る!」
- 主催者:日本高麗浪漫学会
- 後援:日高市教育委員会
- 開催日:2024年7月27日(土) 13:30-16:30
- 会 場:日高市総合福祉センター「高麗の郷」1F研修室
- 定 員:150名(申込先着順))
内容プログラム
- 講演「白村江戦余滴~亡命百済人・高句麗人の到来とその行方~」
- 13:45~15:15 講演1(45分)
- 講師:森公章氏(東洋大学文学部教授)
- トークセッション『古代東アジア情勢と白村江の戦い、その後の行方を探る!』
- 15:30~16:30 (60分)
- 講師:森公章氏
- コーディネーター:中野高行氏(日本高麗浪漫学会副会長) 進 行
- コメンテーター:新井秀規氏(日本高麗浪漫学会副会長)
講演要旨
講演1「古代東アジア情勢と白村江の戦い、その後 行方を探る」森公章教授
「白村江」は日本書紀の写本に「ハクスキノエ」と読むモノがあるが、最近では「ハクソンコウ」と読んでいる。 当時の百済への倭国への軍事援助は3段階があった。
- 661年9月 百済豊璋を国に還すとき(倭国は)5,000名の兵士を送った。(①)
- 663年9月 新羅を側面攻撃するため27,000名の兵士が渡海した。(②)
- 663年8月 百済遺民の拠点・周留城を救援するため万余の兵士が渡海した。(③)
- 『三国史記』『旧唐書』によれば倭国は1,000隻の船を出したが、663年7月26日の「白村江戦」で唐と新羅の連合軍に大敗した。1000隻の内400隻が焼かれた。その後、9月7日の周留城陥落が最終的な敗北で転回点となる。②の軍は南部中央にいたので、「白村江戦」に参加していない。伽耶地域から上陸し、戦後はそこから退去したと思われる。百済人の随伴はない。③は百済の高官と倭軍が随伴して、百済の南部地域から倭国に亡命・帰還した。亡命百済人は倭国の形成に大きな役割を果たした。百済の佐平は3名おり、百済の王族の余自身は671年(天智10年)、大錦下を授与されている。同じく佐平の沙宅紹明は671年(天智10年)法官大輔となっており、673年(天武天皇2年)閏6月に死去した。高句麗は668年(天智7年)に滅亡したので、そのときの亡命高句麗人も多かったが、百済人とは異なり、倭国の中央政界で活躍する例は少ない。高麗若光は666年(天智5年)に日本に派遣された使節の一員として玄武若光がいたが、同一の可能性のある人物である。高麗若光は高句麗王の息子であり、『続日本紀』703年(大宝3年)4月4日条に「王」の姓を与えたとの記載がある。716年(霊亀2年)、武蔵国に東海道7ヶ国から1799人の高句麗人を移住させたが、高麗若光はそのリーダーであった可能性がある。
トークセッション『古代東アジア情勢と白村江の戦い、その後の行方を探る!』
- 高麗郡、新羅郡の設置記事はあるが、百済郡の設置記事はない。百済郡の設置はおそらく664年から700年の間ではないか。
- 高麗系と百済系の違いは何か。
- 高句麗から倭国には間に新羅や百済があった。どうやって倭国にきたのか。高句麗と倭国とは4世紀以来の通行の歴史がある。百済経由できたのではないか。
- 高句麗の貴族階級はどのくらいの規模できたのか。
- 666年(天智5年)高句麗から玄武若光が倭国に来ている。これは高麗王若光と同一人物であろうか。『日本書紀』には「二位玄武若光」と記載されている。『日本書紀』記載の玄武若光と『続日本紀』記載の高麗若光が同一人物ではない可能性もある。
- 新羅、百済、高句麗ではそれぞれ土器が全く異なる。高句麗土器は日本ではあまり出土しない。深い関係はなかったのではないか(酒井清治駒澤大学名誉教授)。
参考
- (日本書紀 巻第廿七 )
- (天智五年)冬十月甲午朔己未、高麗遣臣乙相奄𨛃等進調。大使臣乙相奄𨛃・副使達相遁・二位玄武若光等。
- (旧唐書原文 卷八十八 列伝第三十四 劉仁軌 ?處俊 裴行儉)
- 仁軌引新羅之兵,乘夜薄城。四面攀草而上,比明而入據其城,遂通新羅運糧之路。俄而餘豐襲殺福信,又遣使往高麗及倭國請兵,以拒官軍。詔右威衛將軍孫仁師率兵浮海以為之援。仁師既與仁軌等相合,兵士大振。於是諸將會議,或曰:「加林城水陸之沖,請先?之。」仁軌曰:「加林險固,急攻則傷損戰士,固守則用日持久,不如先攻周留城。周留,賊之?穴,群兇所聚,除惡務本,須拔其源。若克周留,則諸城自下。」於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶餘隆率水軍及糧船,自熊津江往白江,會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷,焚其舟四百艘,煙?漲天,海水皆赤,賊?大潰。餘豐?身而走,獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝、忠志等,率士女及倭?並耽羅國使,一時並降。百濟諸城,皆復歸順。賊帥遲受信據任存城不降。
- (旧唐書原文 卷一百九十九上 高麗 百濟 新羅 倭國 日本)
- 二年七月,仁願、仁軌等率留鎮之兵,大破福信餘眾於熊津之東,拔其支羅城及尹城、大山、沙井等柵,殺獲甚眾。仍令分兵以鎮守之。福信等以真峴城臨江高險,又當沖要,加兵守之。仁軌引新羅之兵乘夜薄城,四面攀堞而上,比明而入據其城,斬首八百級,遂通新羅運糧之路。仁願乃奏請益兵,詔發淄、青、萊、海之兵七千人,遣左威衛將軍孫仁師統眾浮海赴熊津,以益仁願之眾。時福信既專其兵權,與撫餘豐漸相猜貳。福信稱疾,臥於窟室,將候扶餘豐問疾,謀襲殺之。扶餘豐覺而率其親信掩殺福信,又遣使往高麗及倭國請兵以拒官軍。孫仁師中路迎擊,破之。遂與仁願之眾相合,兵勢大振。於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍進,劉仁軌及別帥杜爽、扶餘隆率水軍及糧船,自熊津江往白江以會陸軍,同趨周留城。仁軌遇扶餘豐之眾於白江之口,四戰皆捷。焚其舟四百艘,賊眾大潰,扶餘豐脫身而走。偽王子扶餘忠勝、忠志等率士女及倭眾並降。百濟諸城皆復歸順。孫仁師與劉仁願等振旅而還。詔劉仁軌代仁願率兵鎮守。乃授扶餘隆熊津都督,遣還本國,共新羅和親,以招輯其餘眾。
参考文献
- 「古代東アジア情勢と白村江の戦い、その後 行方を探る!」当日資料
- 森公章(1998)『「白村江」以後 国家危機と東アジア外交』講談社
- 森公章(2006)『東アジアの動乱と倭国』吉川弘文館
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