野尻湖立ヶ鼻遺跡 ― 2025年09月10日 00:34
野尻湖立ヶ鼻遺跡(のじりこたてがはないせき)は長野県上水内郡信濃町にある旧石器時代の遺跡である。 「立が鼻遺跡」、「立ヶ鼻遺跡」、「野尻湖底遺跡」ともいう。「信州の史跡百選」に選定されている。
概要
長野県北部の野尻湖付近には旧石器時代の遺跡が約40箇所ある。野尻湖立ヶ鼻遺跡は旧石器時代の骨器が多く産出する遺跡である。野尻湖西岸の湖底に張り出す舌状台地の斜面上標高約650mに野尻湖立ヶ鼻遺跡は立地する。湖底調査は水位が下がる時期に行なわれ、「野尻湖発掘調査団」という全国組織のボランティアによる発掘が行われ、2016年までに21次の調査が行われている。遺物の時期は後期旧石器時代初頭と見られる。
調査
干上がった野尻湖底にナウマンゾウの臼歯が露出を湖畔の旅館の主人が発見したことから、発端となり、野尻湖遺跡調査団が1962年から発掘調査を実施し、多量の動物遺体を発見した。動物解体の場所と推定された。石器はナイフ状石器、スクレイパー、スパイラル剥片など、骨角器はナウマン象の骨製クリーパー、骨製槍、骨製剥片、スパイラル剥片、象牙の骨角器が出土する。大型哺乳類の骨として3万年から5万年前のナウマン象、オオツノシカ、ヒグマの骨が出土している。 旧石器時代人はこれらの大型動物を集団で捕獲していた可能性が高い。当時の野尻湖は寒冷な気候であったため野尻湖に住んでいたのは寒さに適応したナウマンゾウやオオツノシカと想定されている。野尻湖で見つかるゾウの骨は多くの場合は砕けた骨片である。
遺構
- ナウマンゾウの肋骨群と骨器・骨資料の集中分布地点
- 巨礫と骨資料の集中分布地点(キルサイトの状況証拠として、遺構に準ずる)
遺物
- 骨製剥片
- 骨製クリーヴァー(クリーパー)
- スパイラル剥片
- 線条痕のある骨片
- 楔形石器
- 石刃
- 石核
- 剥片
- 交互剥離のある石片
指定
展示
- 野尻湖ナウマンゾウ博物館
アクセス
- 名称:野尻湖立ヶ鼻遺跡
- 所在地:〒389-1303 長野県上水内郡信濃町野尻 海端
- 交 通:北しなの線 黒姫駅から徒歩48分 3.5km
参考文献
- 旧石器文化談話会(2007)『旧石器考古学辞典三訂版』学生社
- 日本旧石器学会(2010)『日本列島の旧石器時代遺跡』
銅鏡を何に使ったか ― 2025年09月10日 00:34
銅鏡を何に使ったか(どうきょうをなににつかったか)は弥生時代、古墳時代に出土する銅鏡は何に使ったかについての考察である。
概要
日本で出土する銅鏡は弥生時代前期から始まった。最古級の銅鏡として吉野ヶ里遺跡で出土した内行花文鏡は弥生時代前期とされる。紀元前2世紀頃(弥生時代中期前半)に中国で製作されたとみられる青龍三年紀年銘鏡は、大阪府高槻市の安満宮山古墳から出土した。青龍三年(西暦235年)の紀年銘が刻まれた銅鏡である。2015年に福岡県の須玖タカウタ遺跡で出土した青銅鏡鋳型は紀元前2世紀頃(弥生時代中期前半)に国内で銅鏡の製作が確認された。長瀬高浜遺跡からは古墳時代前期の竪穴建物跡から鳥の図が描かれた中国製(後漢から三国時代)の銅鏡が出土した。鏡の完形ではなく、破片のまま使用された「破鏡」と見られる。
銅鏡のもともとの機能
中国ではもともと装身具として使われ、祭祀の際の実用品ともされていた。中国・朝鮮半島において銅鏡は王権や貴族層の象徴的な品であり、倭においても「威信財」としての性格を持っていた。日本での銅鏡の主な役割は姿見ではなく、昼間では太陽や夜ではかがり火の光を反射させることで、その輝きが神聖視されて重視されていたと見られる。銅鏡の輝きは魔除けや吉祥紋を連想させ、繁栄を願う心の象徴として、威信材となった。
国内製造
福岡県春日市の鏡を鋳造するための鋳型の破片が出土している。紀元前2世紀と見られる。紀元前に鏡を製作していた可能性がある。
鏡の使用法
次のような使用法が想定される。
- 王権から豪族への配布
- 豪族が支配する民衆への誇示
- 配下の有力者への再分配
- 祭祀での使用
王権から豪族への銅鏡の配布
小林行雄(1961)は椿井大塚山古墳から出土した32面以上の三角縁神獣鏡のうち、17種22面の同笵鏡が全国19基の古墳(畿内・吉備・尾張・九州など)から出土していると指摘した。同じ鋳型でつくられた鏡が広域に分布していることは、偶然に同笵鏡があるわけではなく、組織的に王権から配布されたと見るのが自然である。緩やかな豪族連合の形成と権威の共有を裏付けるものである。地方豪族はその鏡を副葬することで、葬送儀礼などで自らの権威を地域社会に示し、中央との結びつきを誇示した。(『魏志倭人伝』など)では魏から卑弥呼に鏡100枚下賜した記事がある。同時に中国皇帝はこれらの宝物を人民に見せなさいと指示しているこれに対して、同范鏡が本当に中央で一括鋳造されたのか、地方で鋳造が行われた可能性が無いのかという反論がある。
豪族が支配する民衆への誇示
王権とのつながりを示すシンボルとして機能したのであろう。「オレはこんなすごいモノを大王から貰ったんだ」と権力の正当性を示している。銅鏡は王権から下賜される「威信財」でもあり、祭祀を担う巫女や豪族首長が使用することにより、王権の権威と豪族の支配を可視化した。
配下の有力者への再分配
豪族が王権から受け取った銅鏡を、自らの従属する下位の首長層や同盟者に分与することで、地域のヒエラルキーを強化したと見られる。
祭祀での使用
埴輪は葬送儀礼の縮図であり、当時の社会生活や儀礼を反映している。銅鏡をぶら下げた巫女の埴輪は群馬県太田天神山古墳出土の巫女埴輪などで出土している。銅鏡は祭祀具として重要な役割を果たしていた考古学的な証拠である。巫女埴輪が銅鏡を持つ姿は、被葬者の生前に行われた祭祀で実際に鏡が用いられていた様子を示す。
考察
参考文献
- 小林行雄(1961)『古墳時代の研究』青木書店
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