聖徳太子 ― 2026年02月06日 00:16
''聖徳太子'(しょうとくたいし,574年-622年)飛鳥時代の皇族で、推古朝の政治・外交・仏教政策に深く関与したと伝えられる人物である。
概要
「聖徳太子」は後世の尊称であり、『日本書紀』・『古事記』には「聖徳太子」とは書かれない。 つまり、「聖徳太子」は後世に成立した尊称であり、同時代史料では主に「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」などの名で記される。
その実像をめぐっては、近年、史料批判に基づく再検討が進められている。 史料に見える主な呼称は以下の通りである。
- 『日本書紀』- 厩戸皇子、豊聡耳聖徳、豊聡耳法大王、法主王
- 『上宮聖徳法王帝説』 - 厩戸豊聡耳聖徳法王、上宮王、東宮聖徳王、上宮聖徳法王 など
- 『古事記』 - 上宮之厩戸豊聡耳命
事績
聖徳太子の事績については、後世の史料に基づくものが多く、史実と創作の区別をめぐって研究上の論点が存在する。 文献史料上、厩戸皇子の事績として記録されているものには、次のようなものがある。
- 物部守屋との戦いにおいて仏教に帰依し勝利したとされる(『日本書紀』)
- 四天王寺の建立(同)
- 冠位十二階の制定(603年、『日本書紀』)
- 十七条憲法の制定(604年、『日本書紀』)
- 遣隋使の派遣
- 『天皇記』『国記』の編纂
- 『三経義疏』の著述
ただし、これらのうちどこまでが同時代の史実であるかについては研究者の間で見解が分かれている。
聖徳太子実在論・非実在論
聖徳太子をめぐっては、大きく実在論と非実在論の二つの立場がある。
非実在論は、現在知られる「聖徳太子像」は後世の編纂・創作によって形成されたものであるとする立場である。ただし、この立場においても、厩戸皇子という人物自体の実在を否定するものではない。
非実在論を体系的に提示した研究者として大山誠一が知られ、同氏は、確実な史実として認められる事績を①冠位十二階の制定、②遣隋使の派遣 に限定すべきであるとした。
憲法十七条については、津田左右吉以来、その成立年代を疑問視する研究がある。 津田は、国司制度や中央集権的政治理念、中国古典の高度な理解を前提とする内容が、推古12年(604年)の状況とは整合しないと指摘した。
現在の研究では、厩戸皇子という人物の実在は広く認められている一方で、聖徳太子像の多くは奈良時代以降の史料編纂の中で形成された可能性が高いと考えられている。 聖徳太子は「実在か否か」という二分法ではなく、史料批判を通じてその歴史的役割を再構成すべき対象と位置づけられている。
聖徳太子の誕生
父母については、『日本書紀』と『上宮聖徳法王帝説』とで一致しており、父は用明天皇(橘豊日天皇)、母は穴穂部間人女王であるとされる。なお、穴穂部間人女王は用明天皇の異母妹にあたる。 生年については、『日本書紀』には記載がないが、『上宮聖徳法王帝説』にみえる甲午年をもとにすると、敏達3年(574年)と考えられている。
参考文献
- 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 東野治之校注(2013) 『上宮聖徳法王帝説』岩波書店
- 坂本太郎(1979)『聖徳太子』吉川弘文館
- 金沢英之(2001)『天寿国繍帳銘の成立年代について--儀鳳暦による計算結果から』国語と国文学78 (11),東京大学国語国文学会編,pp.33-42
- 大山誠一(2005)『聖徳太子と日本人』角川書店
- 大山誠一(1999)『聖徳太子の誕生』吉川弘文館
- 大山誠一編(2014)『聖徳太子の真実』平凡社
- 藤枝晃(1976)「勝鬘経義疏 解説」『日本思想大系 2』岩波書店
- 石原道博編訳(1985))『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』〈中国正史日本伝(1)〉岩波書店
- 田中英道(2004)『聖徳太子虚構説を排す』PHP研究所
- 大橋一章(1995)『天寿国繡帳の研究』吉川弘文館
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