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梁瀬二子塚古墳2026年03月01日 00:40

梁瀬二子塚古墳(やなせふたごづかこふん)は、群馬県安中市簗瀬に所在する古墳時代後期初頭に築造された前方後円墳である。

概要

根川水系の一級河川である碓氷川左岸の河岸段丘縁辺部、標高約220mに立地する。前方部を西方に向ける。

本古墳は、古墳時代後期初頭において安中市域一帯を支配した有力首長の墓と想定されている。埋葬施設が竪穴式石室から横穴式石室へと移行する時期に位置づけられる前方後円墳であり、群馬県内における横穴式石室導入期の様相を示す重要な事例の一つである。横穴式石室は東日本における初期段階の例に属すると考えられている。

また、梁瀬二子塚古墳は、古東山道(現在の国道18号付近と推定されるルート)沿いに立地しており、交通路との関係からも被葬者の政治的・社会的地位をうかがうことができる。

調査

1本古墳の石室は、1879年(明治12年)に初めて開口され、多数の副葬品が出土した。鉄製品としては、摺環頭大刀(三輪玉で装飾された勾金付き大刀)、直刀、刀子、鹿角装刀子、鉄鏃(長三角形鏃)、弓両頭金具、挂甲小札、馬具、石突、釣針、針、槍鉋などがある。特に、長三角形鏃の茎部には径約1.5cm前後、幅約1cmの鉄製金具が装着されており、この特徴は6世紀初頭に位置づけられる高崎市少林山台遺跡12号古墳出土例と共通する。

馬具類は質・量ともに充実しており、木芯鉄板張壺鐙の側板、鞍縁金具、鉄地金銅張の吊金具・辻金具、鉄地銀張の責金具などが確認されている。帯金具には鉄地金銅張製および青銅製のものがある。なかでも、鉄地金銅張の花弁形杏葉は本古墳出土品のなかで特に注目される。花弁形杏葉は全長約10cmで、中央部がややくびれ、下部が丸みを帯びる形態を呈し、6世紀前半の特徴を示す。

装身具としては、ヒスイ製勾玉、碧玉製管玉、琥珀製丸玉、水晶製丸玉・切子玉・算盤形玉、金層ガラス三連玉、ガラス製丸玉・小玉、垂飾付耳飾などが出土している。このうち金層ガラス三連玉は、梁瀬二子塚古墳と埼玉県美里町白石久保1号墳の2例のみが確認されている極めて稀少な資料である。垂飾付耳飾は金銅製で、兵庫鎖および花鬘の構成部材と考えられている。

これらの出土品は小森谷家に伝来し、現在も同家に保管されている(群馬県安中市教育委員会2003『小森谷家所蔵資料』p.106)。

石室入口部の東西壁面は、明治期の開口時に一度取り外され、その後、大谷石製の石枠を組み込んで積み替えられたものと判断されている。埋葬施設は後円部に構築された横穴式石室であり、玄室長4.07m、玄室幅2.32m、羨道長7.47m、羨道幅0.95m、全長11.54mを測る。羨道入口側から階段状に2段下がって玄室に至る構造を持ち、玄室に比して羨道が細長い点が特徴である。

玄室内はベンガラによる塗彩が施されている。石材は、壁体が川原石の乱石積み、天井石が硬質凝灰岩(秋間石)で構成される。彩色は側壁下端および奥壁第2石目の横積み部分までに限られ、それより下部には認められない。このため、彩色が施された高さが当時の床面を示す可能性が指摘されている。

本古墳は昭和32年に群馬大学の尾崎喜左雄氏による調査が行われたほか、平成7年度から平成9年度にかけて、安中市史編さん事業の一環として3か年にわたる発掘調査が実施された。

考察

梁瀬二子塚古墳の出土品は個人所蔵とされている。群馬県または安中市に寄贈し、博物館公開とするのが筋ではなかろうか。

規模(現状)

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 後円部:2段
  • 墳長 78m
  • 後円部径 径55m 高7m
  • 前方部 幅55m 長35m 高5.5m

埴輪 

  • 円筒埴輪 円筒Ⅴ式
  • 葺石 河原石

遺構

  • 主体部 室・槨 横穴式石室(両袖型)

遺物

  • 【装身具】
    • 金銅製耳環
  • 【玉類】
    • 硬玉勾玉
    • 碧玉管玉
    • 滑石臼玉
    • ガラス勾玉
    • ガラス棗玉
    • ガラス丸玉
    • ガラス小玉
    • 水晶切子玉
    • 水晶算盤玉
    • 水晶丸玉
    • 金銅丸玉
    • 琥珀小玉
  • 【石製模造品】
  • 装身具
    • 有孔円盤
  • <農工具>
    • 刀子
  • <武器>
  • 【武器】
  • 鉄刀・
    • 玉纒の大刀?
    • (三輪玉)
    • 鉄鏃
  • 【武具】
    • 挂甲
  • 【馬具】
    • 鉄地金銅張辻金具
    • 鐙吊金具
  • 【土器】
    • 須恵器蓋杯4(TK47~MT15)
    • 高杯杯部
    • 脚部
    • 長頸壺

指定

  • 2012年11月27日 安中市指定 有形文化財(美術工芸品)
  • 平成30年10月15日 -国指定史跡

被葬者

築造時期

  • 群馬県安中市簗瀬字八幡平

展示

アクセス等

  • 名称:漆山古墳
  • 所在地:高崎市下佐野町字蔵王塚863番地1
  • 交通:上信電鉄上信線 佐野のわたし駅 徒歩7分

参考文献

  1. 群馬県安中市教育委員会(2003)「梁瀬二子塚古墳」
  2. 近代博物館形成史研究会(2020)「好古家ネットワークの形成と近代博物館創設に関する学際的研究Ⅲ」

菅生小学校裏山遺跡2026年03月02日 00:16

菅生小学校裏山遺跡(すごうしょうがっこううらやまいせき)は、岡山県倉敷市西坂に所在する、旧石器時代から中世に及ぶ複合遺跡である。丘陵と低地が接する地形に立地し、貝塚・集落・古墳・古代窯跡など多様な遺構を包含する点に特色がある。

立地と地形環境の整理

菅生小学校裏山遺跡は倉敷市北部、東西方向に延びる丘陵の南麓に位置する。 南側は現在水田地帯であるが、縄文時代には海岸線がより内陸に入り込み、浅海や干潟環境が広がっていた可能性が高い。

  • 丘陵上は旧石器・古墳があり、
  • 山裾〜低地は縄文貝塚・弥生〜古代集落である。 すなわち「丘陵―山裾―低地」と垂直的土地利用の変遷が読み取れる。

2. 時期別の特徴

  • (1)旧石器時代
    • 東丘陵上に石器散布地が確認される。明確な住居跡は不明だが、台地縁辺の活動地点と理解できる。
  • (2)縄文時代
    • 山裾部に西岡貝塚(縄文中期中心)がある。貝層の存在は当時の海進状況を示す重要資料であり。11・12区では晩期の土壙・包含層を確認した。 「中期貝塚+晩期包含層」という時間幅のある利用が確認される。
  • (3)弥生~古墳時代
    • 中州上から古墳時代中頃の溝を検出した。朝鮮半島系軟質土器・初期須恵器・木器が出土した。吉備地域における対外交流の具体例として位置づけられる。
  • (4)古墳
    • 西阪古墳は直径17m、高さ2mの円墳と規模は小さいが、地域内では長大な石室全長9.5mの横穴式石室をもつ。
  • (5)奈良・平安時代
    • 1区:掘立柱建物4棟
    • 3区:平安時代銅印出土
    • 5区:7世紀頃窯跡
    • 6区:8世紀代中心の遺物大量出土
    • 8区:黒色土器出土

平安時代銅印の出土は行政的機能の可能性を示す。

3. 甑(こしき)の出土と渡来系土器

高田貫太(2025)が指摘する三類型の甑は、洛東江流域~百済南部に広がる蒸器系譜との比較が論点である。

① 丸底・蒸気穴が細筋状

  • 新羅・釜山系である。

② 平底・蒸気穴が丸く多数

  • 百済南部・伽耶地域である。

③ 丸底・丸穴多数

  • 金官伽耶など洛東江下流西岸系である。

4. 学術的意義

  • (1)吉備地域と朝鮮半島交流
    • 倉敷周辺は古墳時代に吉備勢力圏に属しており、対外交易拠点の一端を担った可能性がある。甑の型式差は単なる搬入品ではなく、居住集団の存在を示唆する可能性もある。
  • (2)沿岸環境の復元資料
    • 貝塚・木器出土は古環境復元に極めて重要となる。
  • (3)丘陵利用の長期継続性
    • 旧石器→縄文→古墳→古代建物群まで継続する立地利用は、地形優位性の継承を示している。

6. 総合評価(研究的視点)

菅生小学校裏山遺跡は単なる「学校裏の遺跡」ではなく、

  • 縄文海進の証拠
  • 古墳時代の半島系土器群
  • 古代窯業
  • 平安期行政関連遺物

を包含する、吉備南部の長期集落動態を読み解く鍵遺跡と評価できる。

吉備地域における渡来系甑の分布比較

  • 1.問題の所在
    • 古墳時代中期(5世紀前後)を中心に、吉備地域では朝鮮半島系とみられる甑(こしき)が散発的に出土している。甑は蒸気を使用する調理具であり、日常生活と密接に結びついているため、単なる交易品ではなく「生活様式の持ち込み」や「居住者集団の移動」を示唆する指標とされる。

とくに菅生小学校裏山遺跡の例は、複数系統の甑が同一遺跡内で確認される点で重要である。

2.渡来系甑の型式分類と半島側対応関係

吉備地域出土例は、概ね次の三類型に整理できる。

  • A類型:丸底・細筋状蒸気孔
    • 半島対応:新羅・釜山系
    • 特徴:底部丸く、蒸気孔が縦方向の細いスリット状
    • 分布傾向:内陸丘陵上集落に点在
  • B類型:平底・丸孔多数
    • 半島対応:百済南部~伽耶圏
    • 特徴:底部が平坦で安定性が高い
    • 分布傾向:瀬戸内沿岸部に比較的集中
  • C類型:丸底・丸孔多数
    • 半島対応:金官伽耶など洛東江下流西岸
    • 特徴:丸底だが蒸気孔は円形
    • 分布傾向:河川交通路沿い

3.吉備地域内での空間分布傾向

  • (1)沿岸部(児島湾・高梁川下流域)
    • 百済南部~伽耶系(B類型)が比較的多い
    • 海上交通を通じた直接搬入の可能性
    • 港湾的機能を持つ集落との関連が想定される

→ 海上ネットワーク直結型である。

  • (2)高梁川・旭川流域
    • C類型(洛東江西岸系)が点在
    • 内陸への河川遡上ルートと一致

→ 「沿岸搬入→河川遡上→内陸拠点定着」モデルに適合する。

  • (3)丘陵上集落(例:菅生小学校裏山遺跡)
    • A類型を含む複数型式共存
    • 朝鮮半島系軟質土器・初期須恵器と共伴

→ 単一交易ではなく、複数出自の人々が集住した可能性がある。

4.瀬戸内海ネットワークとの関係

吉備は瀬戸内海航路の中継点であり、九州北部―吉備―畿内を結ぶ海上ルートの要衝に位置する。 甑の型式差は、

  • 単発的交易
  • 技術移転
  • 職能集団の移住
  • 軍事的編成に伴う移動

のいずれか、あるいは複合として説明できる。

とくに5世紀は吉備勢力が畿内政権と緊張関係を持つ時期とも重なるため、半島系集団の編成と政治的背景の検討が必要である。

5.研究上の論点

  • 甑の製作地は半島か在地か
  • 甑の使用痕の有無(実用か副葬か)
  • 共伴遺物(鉄器・武器・須恵器)との関係
  • 古墳被葬者層との関連

甑は調理具であるため、副葬専用品より生活実用品である可能性が高い。 したがって「実際に居住していた人々」の存在証拠として重視できる。

7.総括

吉備地域の渡来系の甑は、

  • 型式的多様性
  • 沿岸→河川→丘陵という段階的分布
  • 朝鮮半島南部複数地域との対応関係

を示し、単一の渡来集団ではなく複数ルート・複数背景をもつ人々の流入を物語る。 菅生小学校裏山遺跡は、その縮図的事例と位置づけられる。

遺構

  • 掘立柱
  • 柱穴
  • 土壙
  • 炭窯
  • 焼土土坑

遺物

  • 旧石器
    • ナイフ形石器
    • 槍先形尖頭器
    • 剥片
  • 弥生土器
  • 須恵器
  • 陶質土器
  • 土師器
  • 緑釉陶器
  • 銅印
  • 木器
  • 土製品
  • 陶硯

展示

考察

指定

アクセス等 

  • 名称  :菅生小学校裏山遺跡
  • 所在地 :岡山県倉敷市西坂
  • 交 通 :

参考文献

  1. 岡山県教育委員会(1993)「山陽自動車道建設に伴う発掘調査5 岡山県埋蔵文化財発掘調査報告81」pp.53-
  2. 高田貫太(2025)『渡来人とは誰か』筑摩書房

矢野遺跡 (徳島)2026年03月03日 01:10

矢野遺跡 (徳島)(やのいせき)は徳島県徳島市、吉野川支流の鮎喰川左岸に位置する縄文時代後期から弥生時代を中心とする大規模集落遺跡である。標高約10m前後の自然堤防状の微高地上に立地し、南北約2km・東西約1kmにおよぶ広範囲に遺構・遺物が分布する。

1.縄文時代の展開と評価

  • (1)成立時期と存続期間
    • 吉野川の支流、鮎喰川左岸の標高10m 前後の微高地に位置する。南北約2km、東西約1km の範囲に拡がり、縄文時代以降の非常に大規模な遺跡であり、特に徳島県内の弥生時代に中心的な役割を果たした集落である。集落形成の中心は縄文時代後期初頭~前葉にかけてであり、後期前葉まで約300年前後の継続が想定され、一定規模の集落が営まれた。弥生時代の遺構は、現在までに竪穴住居跡 約100棟が見つかっている。5~10軒で一つの群をなし、住居と住居は数m の間隔で存在していた。
  • (2)洪水による廃絶
    • 後期前葉に洪水砂層が確認されており、洪水を契機に集落構造が大きく変化、あるいは一時的中断が生じた可能性が高い。

2.縄文時代土製仮面の意義

1996年、矢野遺跡で土製仮面が出土した。供伴した土器が縄文時代後期初頭であることから、同時期と見られる。顔面全体に丸い道具で突き刺した模様がある仮面である。縄文時代で土製仮面が出現するのは中期から後期初頭である。矢野例は出現期に近い段階の資料と評価される。土製仮面は本遺跡の重要資料である。土製仮面は祭祀・通過儀礼・シャーマニズム的行為との関連が議論されている。集落域内での出土である点が重要であり、集落で使われていたことを示唆する。

  • 時期:縄文時代後期初頭である。
  • 特徴:顔面全面に丸棒状工具による刺突文がある。
  • 分布:縄文中期末~後期初頭に瀬戸内・近畿・東北南部へ展開している。

3.弥生時代の大規模集落化

  • (1)人口増加の時期
    • 矢野遺跡は弥生時代の中期後半~後期初頭にかけて人口が急速に拡大した。
  • (2)住居構造
    • 竪穴住居約100棟以上
    • 5~10棟単位の小群構成
    • 数m間隔で配置

との特徴は計画的集落構造の萌芽を示す可能性があり、吉野川流域における中核的拠点の一つと評価できる。

4.鍛冶遺構と鉄器生産

鍛冶関連遺構の存在は、弥生後期段階における

  • 地域内鉄器流通拠点
  • 技術受容の先進地

としての性格を示唆する。集落内で鍛冶関連活動が行われた可能性が高い。

5.水銀朱の問題

1994~1998年の道路建設に伴う発掘では、

  • 竪穴住居19棟
  • 土器・石器に水銀朱の付着

が確認された。これは(1)朱の精製・加工痕の可能性、(2)葬送儀礼用途の可能性の2説がある。

6.銅鐸埋納の意義

矢野遺跡最大の特色は銅鐸出土状況である。

  • (1)埋納状況
    • 埋納坑:1.37×0.61m、深さ約0.5m
    • 鰭を上下にした状態
    • 周囲に柱穴列(切妻建物の可能性)
  • (2)形式
    • 突線鈕式
    • 突線袈裟襷文銅鐸
    • 弥生後期の新段階型式
  • (3)学術的意義
    • 従来、銅鐸は山間部など集落外出土例が多い中、集落域内、しかも竪穴住居から約10mの至近距離で出土したことは画期的である。また、同一層位から弥生土器が出土したことで、 銅鐸埋納の年代を具体的に比定できた稀少例となった。層位的に明確な年代資料を伴う例として重要である。

7.全体評価

矢野遺跡は次の複合的性格を持つ、吉野川流域研究の基準資料となる。

  • 縄文後期の大規模集落
  • 出現期に近い土製仮面出土例
  • 弥生中後期の拠点的環濠性集落群の一角
  • 鍛冶関連遺構を伴う技術拠点
  • 集落内銅鐸埋納という特異事例

遺構

  • 竪穴建物
  • 土坑
  • ピット
  • 貯蔵穴
  • 土坑
  • 銅鐸埋納土坑
  • 井戸
  • 溜池
  • 河川
  • 土壙墓
  • 周溝墓
  • 集石
  • 土器溜

遺物

  • 弥生土器
  • 鉄製品
  • 剥片(サヌカイト製)
  • 銅鏃
  • 石器
  • 青銅器
  • 突線鈕5式近畿IV式銅鐸1(国指定重文)
  • 土器(深鉢+鉢+浅鉢+双耳+壺+壺)
  • 土製品
  • 石鏃
  • 石匙
  • 石錘
  • 削器
  • 楔形石器
  • 石斧
  • 石皿
  • 石杵
  • 敲石
  • 台石

展示

  • 徳島県立埋蔵文化財総合センター
  • 徳島市立考古資料館

指定

  • 1995年6月15日 - 重要文化財(考古資料)指定

アクセス等

  • 名称:矢野遺跡
  • 所在地:徳島県徳島市国府町矢野
  • 交通:JR徳島駅から徳島バスが運行する「石井・鴨島線」(15番乗場、「石井」方面行き)などに乗車し約20-30分程度。バス停「矢野西」や「国府」で下車する。

参考文献

  1. 松永住美ほか(1983)『矢野遺跡国府養護学校地区現地説明会資料』
  2. 徳島県埋蔵文化財センター(1993)『矢野銅鐸』
  3. 氏家敏之(2018)『徳島の土製仮面と巨大銅鐸の村』新泉社

亀甲山古墳2026年03月04日 00:03

亀甲山古墳

亀甲山古墳(かめのこやまこふん)は東京都大田区の多摩川台公園内に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。 「亀塚」「亀塚山」「亀山」「亀ノ甲山」「西岡第46号古墳」など複数の呼称があり、「きっこうやまこふん」と読まれる場合もある。

立地と環境

本古墳は、多摩川左岸に発達した武蔵野台地南縁の細長い尾根上に築かれている。台地は多摩川による侵食作用で形成された段丘面であり、古墳は川を望む戦略的かつ象徴的な位置を占める。現在、墳丘上に樹木が生い茂り、墳丘を見ることはできない。

周辺には多数の古墳が分布し、総称して荏原台古墳群と呼ばれる。その中心的存在が亀甲山古墳であり、同古墳群(約50基確認)の中で最大規模をもつ。

規模と特徴

測量調査の成果から、本古墳は多摩川流域において最大規模の前方後円墳と評価されている。 現状では本格的な発掘調査は実施されておらず、出土遺物は確認されていない。墳丘には葺石や埴輪列も認められていないが、これが当初から存在しなかったのか、後世に失われたのかは明確ではない。 盗掘坑は確認されておらず、埋葬施設が比較的良好に残存している可能性が指摘されている。

周辺古墳との関係

亀甲山古墳の南西側、谷を隔てた位置には宝莱山古墳がある。宝莱山古墳は4世紀前半の築造と推定され、当地域で最も古い段階の前方後円墳と考えられている。

両古墳の間には複数の小規模古墳が存在し、現在は多摩川台古墳群としてまとまりをもって理解されている。亀甲山古墳は、宝莱山古墳に続く世代の首長墓とみなされることが多く、地域首長層の系譜を考える上で重要な位置を占める。

歴史的位置づけ

築造時期は4世紀前半〜中葉と推定される。宝莱山古墳に続く段階にあたり、南関東における前方後円墳の展開過程を示す資料の一つである。

東京都内では、芝丸山古墳と並び代表的な前期前方後円墳と位置づけられることが多い。ただし、詳細な内部構造や副葬品の実態については未調査のため未解明の部分が多い。

南関東前期前方後円墳の展開 —多摩川・相模川流域を中心に—

1 問題の所在

前方後円墳は3世紀後半に畿内で成立し、4世紀に入ると各地へ波及する。南関東では、4世紀前半に大型前方後円墳が出現し、地域首長層の形成と政治的再編を示す重要な指標となる。本稿では、多摩川流域を軸に、相模川・東京湾沿岸を含む南関東前期前方後円墳の展開過程を整理する。

2 出現段階:多摩川流域の先行

南関東における最初期の大型前方後円墳の一つが、東京都大田区の「宝莱山古墳」である。築造は4世紀前半と推定され、整った墳形と規模から、畿内的葬制の受容を比較的早い段階で示す事例とされる。

これに続く段階として位置づけられるのが、同じ多摩川台地上の「亀甲山古墳」である。規模は流域最大級であり、単発的出現ではなく、首長層の継続的系譜を想定させる。両古墳の間に中小規模墳が展開することから、多摩川台地一帯が4世紀前半〜中葉にかけて地域政治の中心であった可能性が高い。

この段階の特徴は以下の通りである。

  • 台地縁辺部の眺望性の高い立地
  • 単独大墳+周辺中小墳という構成
  • 葺石・埴輪の有無が事例により分かれる(未調査例も多い)

3 拡大段階:東京湾沿岸・相模川流域への波及

4世紀中葉以降、前方後円墳は東京湾岸や相模川流域へ拡大する。横浜市域では「稲荷前古墳群」などが知られており、丘陵先端部に築造される傾向がみられる。これは多摩川流域と共通する立地選択であり、交通・水運との結びつきを示唆する。

相模川流域では中規模前方後円墳が点在的に築かれ、必ずしも単一の巨大首長墓に集約されない点が特徴的である。すなわち、

  • 多摩川流域:比較的大型墳への集中
  • 相模川流域:中規模墳の分散的展開

という地域差が認められる。

4 構造的特徴と政治的含意

南関東前期古墳の構造的特徴として、

  • 畿内型墳形の比較的忠実な採用
  • 立地の象徴性(河川・海上交通の掌握)
  • 古墳群単位での首長層の系譜形成

が挙げられる。

特に多摩川流域では、宝莱山古墳 → 亀甲山古墳という継続的展開が確認され、首長権力の世代交代が墳丘規模の維持・拡大として表現された可能性がある。

一方で、埋葬施設や副葬品の詳細が未解明な例も多く、畿内政権との政治的距離や従属性の度合いについて断定することは難しい。南関東は畿内政権の直接的支配圏というより、広域ネットワークの一端を担う地域的首長連合体とみる理解が有力である。

5 後続段階への接続

5世紀に入ると、神奈川県域ではさらに大型化が進み、継続的古墳群が形成される。東京都港区の「芝丸山古墳」などは前期終末〜中期初頭に位置づけられ、東京湾岸における新たな政治拠点の成立を示唆する。

このように南関東では、

  • 4世紀前半:多摩川流域に大型墳出現
  • 4世紀中葉:東京湾岸・相模川流域へ波及
  • 4世紀後半〜5世紀初頭:湾岸部での再編

という段階的展開が想定される。

結論

南関東前期前方後円墳の展開は、単なる畿内文化の受動的伝播ではなく、河川交通・海上交易を基盤とした地域首長層の主体的形成過程と理解できる。

多摩川流域はその初期中心地であり、宝莱山古墳と亀甲山古墳の連続は、地域権力の継承構造を考えるうえで基軸となる。今後、未発掘大型墳の調査が進めば、南関東における4世紀政治構造の実像がさらに明らかになるであろう。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:2段、後円部:3段
  • 全長 107.25m
  • 墳長 91m(復元104m)
  • 後円部 径66m 
  • 後円部高11.4m
  • 前方部幅49.5m
  • 前方部長44m 高7.4m

遺構

遺物

築造時期

  • 4世紀後半から5世紀初めの築造

指定

  • 1928年(昭和3年) 国指定史跡

展示保管

  • 多摩川台公園古墳展示室

アクセス等

  • 名称:亀甲山古墳
  • 所在地:大田区田園調布一丁目63番1号 多摩川台公園内
  • 交通:東急多摩川線 多摩川駅下車徒歩約10分

参考文献

  1. 大田区教育委員会(1992)「田園調布本町貝塚発掘調査・国史跡亀甲山古墳測量調査 昭和63年度?平成3年度発掘調査概要」

立正大学博物館2026年03月05日 00:32

立正大学博物館(りっしょうだいがくはくぶつかん)は埼玉県熊谷市の立正大学熊谷キャンパス内に所在する大学博物館である。2002年(平成14年)4月に開館し、同大学の考古学研究の蓄積を基盤として、日本およびアジアの考古資料を体系的に収蔵・展示している。 本館は、1932年(昭和7年)に設置された立正大学考古学資料室および1978年(昭和53年)に熊谷キャンパスに開設された考古学陳列室の収蔵資料を母体として整備されたもので、学内研究成果の公開と地域文化への貢献を目的としている。

収蔵・展示資料の特色

1.ネパール・ティラウラコット出土資料

本館の特徴の一つが、ネパール・ティラウラコット遺跡出土資料群である。これらは日ネパール親善の一環としてネパール考古局より寄贈された資料で、南アジア仏教文化圏の考古資料として学術的意義が高い。

2.旧石器時代資料

日本列島の旧石器文化を示す資料として、北海道白滝遺跡出土品のほか、立正大学が調査を行った北海道報徳遺跡、神奈川県朝日遺跡の出土品を収蔵する。大学による発掘成果を直接示す点に特色がある。

3.縄文時代資料

埼玉県石神貝塚、千葉県築地台貝塚の出土品をはじめ、大学OB吉田格氏寄贈の縄文土器群が重要である。

  • 早期:花輪台式・子母口式
  • 後期:称名寺式・堀之内式
  • 晩期:安行各式

また、称名寺貝塚出土の土器・石器・骨角器および骨角器原料(鹿角)も収蔵しており、縄文時代の地域文化変遷を比較研究するうえで貴重な資料群となっている。

4.弥生時代資料

東京都久ヶ原出土の弥生式土器を所蔵し、関東地方における弥生文化受容の様相を示す資料として位置づけられる。

5.古墳時代資料

埼玉県野原古墳群出土の耳飾・直刀・鉄鏃・須恵器などの発掘資料を展示しており、地域首長層の副葬品構成や武器体系を考察する手がかりを提供する。

6.古代窯業研究資料

1958年から1980年にかけて、文部省(現・文部科学省)科学研究費の交付を受けて実施された「古代窯業の考古学的研究」による発掘資料を所蔵・展示している。これは戦後日本考古学における生産遺跡研究の先駆的成果を示すものである。

学術的意義

立正大学博物館は、単なる展示施設ではなく、

  • 大学附属機関としての研究成果公開
  • 学外研究者への資料提供
  • 地域社会への文化資源還元

という三つの機能を担う。とくに、関東地方を中心とした旧石器時代から古墳時代に至る通時的資料群を有する点、ならびに南アジア考古資料を併せ持つ点に特色がある。

立正大学文学部考古学研究室発掘資料

  • 朝日遺跡(神奈川県) -旧石器時代
  • 報徳遺跡(北海道) - 旧石器時代
  • 白滝遺跡(北海道)
  • 石神貝塚(埼玉県) - 縄文時代
  • 野原古墳群(埼玉県)- 古墳時代
  • 長熊(ながくま)廃寺跡・ - 千葉県
  • 九十九坊(くじゅうくぼう)廃寺 - (千葉県)
  • 大椎経塚(千葉県)

古代窯業

  • 前田野目窯跡(青森県)
  • 荒沢窯跡(山形県)
  • 町沢田窯跡(山形県)
  • 上小友窯跡(群馬県)
  • 金山瓦窯跡(群馬県)
  • 新沼窯跡(埼玉県)
  • 虫草山窯跡(埼玉県)
  • 亀ノ原窯跡(埼玉県)
  • 新久窯跡(埼玉県)
  • 八坂前窯跡(埼玉県)
  • 八瀬里工房跡(埼玉県)
  • 宮ノ前窯跡(埼玉県)
  • 鶴牧窯跡(埼玉県)
  • 宮洞窯跡(長野県)
  • 若宮窯跡(長野県)
  • 御牧ノ上窯跡(長野県)
  • 青水窯跡(広島県)
  • 平田窯跡(福岡県)

アクセス等

  • 名称:立正大学博物館
  • 所在地:〒360-0194 埼玉県熊谷市万吉1700
  • 開館日: 月・水・木・金曜日 (大学休業中を除く)
  • 開館時間:10:00~16:00
  • 入館料: 無料
  • 交通: 熊谷駅【JR(上越・北陸新幹線/高崎線/湘南新宿ライン/上野東京ライン)、秩父鉄道】下車 南口より森林公園駅行・立正大学行バス(国際十王バス)で約10分

参考文献

  1. 立正大学博物館(2002)「立正大学博物館年報」

新羅2026年03月06日 00:11

'新羅(しらぎ)は古代朝鮮半島南東部に成立した国家であり、いわゆる三国時代において高句麗・百済と並立した王国である。都は現在の慶州(当時は金城)に置かれた。

1 新羅の成立と発展

新羅の起源は、三韓の一つ辰韓地域に成立した斯盧国(しろこく)に求められる。4世紀後半には王位が金氏によって世襲される体制が確立し、国家的統合が進展した。

6世紀に入ると中央集権化が急速に進み、とくに「法興王(在位514~540)」の時代に重要な制度改革が行われた。

  • 律令の公布(法制整備)
  • 十七等官位制の整備
  • 仏教の公認(527年)
  • 年号の制定
  • 金官国(南加羅)の併合

これらは王権強化と貴族統制を目的とするものであり、東アジア諸国との外交関係(南朝梁への遣使など)も活発化した。

2 三国統一と唐との関係

7世紀半ば、「武烈王(在位654~661)と文武王(在位661~681)」の下で対外戦争が本格化する。

新羅は唐と軍事同盟を結び、660年に百済、668年に高句麗を滅ぼした。しかしその後、半島支配を企図した唐軍と対立し、676年にこれを撃退した。

この結果、新羅は大同江以南を実質的に支配し、いわゆる「統一新羅」時代を迎える。ただし旧高句麗北方地域は渤海の成立へとつながり、半島全域を完全統一したわけではない点には注意が必要である。

3 統治体制と社会

新羅社会の特色として「骨品制(こっぴんせい)」が挙げられる。これは血統に基づく身分秩序で、王位継承や官位昇進を厳格に規定した。

初期の中央集権化においては安定要因となったが、時代が下ると上位貴族層の固定化を招き、政治的停滞の一因となったと評価されている。

4 衰退と滅亡

9世紀に入ると地方豪族の台頭、王位継承争い、農民反乱の頻発などにより王権は弱体化した。仏教保護政策による寺院造営が財政負担を増大させたことも背景として指摘されるが、単一要因ではなく、政治的分裂と社会変動の複合的結果と考えられている。

935年、新羅最後の王である敬順王は高麗への帰順を決断し、王朝は終焉を迎えた。この帰順は大規模な戦闘を伴わない政治的移行であり、以後は高麗王朝へと統合される。

三国統一戦争の国際関係史的再評価

7世紀の三国統一戦争(660~676年)は、従来「新羅による民族的統一」として叙述されることが多かった。しかし近年の研究では、これを東アジア国際秩序の再編過程の中に位置づける視点が重視されている。

1 冊封体制と東アジア秩序の再編

7世紀は、唐が東アジアで覇権的地位を確立し、周辺諸国を冊封・羈縻体制の下に組み込もうとした時期である。

朝鮮半島では、

  • 高句麗は北方遊牧勢力と結び強力な軍事国家を形成
  • 百済は倭と外交的連携を維持
  • 新羅は相対的に劣勢

という三極構造が続いていた。

新羅はこの均衡を打破するため、唐と積極的に接近し、国際秩序を利用して国内統一を達成する戦略を選択したと再評価されている。

2 百済・高句麗滅亡と国際戦争化

660年の百済滅亡、668年の高句麗滅亡は、新羅単独の勝利ではなく、唐軍の大規模派兵によるものであった。

とくに663年の白村江の戦いでは、百済再興を支援した倭軍が唐・新羅連合軍に敗北し、日本列島の対外政策にも大きな転換をもたらした。この戦争は、半島内戦というよりも唐・倭を含む東アジア規模の国際戦争とみるべき性格を持つ。

3 唐・新羅戦争の意味

百済・高句麗滅亡後、唐は半島に安東都護府を設置し、直接支配を企図した。これに対し新羅は反発し、670年代に唐と戦争状態に入る。

676年までに唐軍を半島南部から撤退させ、新羅は大同江以南の支配を確立した。

ここで重要なのは、新羅が唐の軍事力を利用しつつも、その支配には従属しなかった点である。 これは冊封秩序下における「形式的服属と実質的自立」という二重構造を示す事例と評価される。

4 「民族統一」史観の再検討

近代以降のナショナル・ヒストリーでは、新羅の統一は「民族的統一国家の成立」と説明されてきた。しかし、

  • 渤海の成立により旧高句麗北部は別国家となった
  • 唐軍の軍事的介入が不可欠であった
  • 戦争の契機は国内対立と国際政治の結合であった

ことを踏まえると、「単独民族統一」という理解は単純化の側面を持つ。

むしろ三国統一戦争は、

  • 唐帝国の東アジア再編戦略と半島諸国の生存戦略が交錯した結果

として把握する方が国際関係史的には妥当である。

5 倭国への影響

白村江敗北後、日本列島では防衛体制の整備(大宰府強化・水城築造など)が進み、律令国家形成が加速した。

したがって三国統一戦争は、

  • 朝鮮半島の政治統合
  • 唐の対外政策の限界露呈
  • 日本古代国家形成の契機

という三地域連動型の歴史現象と位置づけられる。

総括

三国統一戦争は、

  • 半島内部の王権競争
  • 唐帝国の冊封秩序拡張政策
  • 倭国の対外関与

が複合した国際秩序再編戦争であった。

その結果誕生した統一新羅は、東アジア世界の一員として唐との外交関係を維持しつつ、自立的王国として存続した。この事例は、7世紀東アジアにおける「帝国と周辺国家」の関係性を考える上で重要な歴史的ケーススタディとなっている。

参考文献

  1. 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
  2. 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
  3. 井上 秀雄(2004)『古代朝鮮』講談社
  4. 李 盛周(2005)『新羅・伽耶社会の起源と成長』雄山閣

河原口坊中遺跡2026年03月07日 00:33

河原口坊中遺跡(かわらぐちぼうじゅういせき)は神奈川県海老名市河原口に所在する、弥生時代から近世におよぶ大規模な複合遺跡である。相模平野を南流する相模川左岸の自然堤防上に立地し、微高地という地形条件を活かして長期にわたり集落が営まれた。

1.立地と調査の経緯

遺跡はJR相模線・小田急小田原線厚木駅の北西約1kmに位置する。 2006年(平成18年)6月に発掘調査が開始され、2014年(平成26年)1月に第6次調査が終了した。

自然堤防上という洪水の影響を受けにくい立地条件は、弥生時代以降の継続的な居住を可能にした重要な要因である。

2.弥生時代の大規模集落

弥生時代中期後半から後期にかけて、本遺跡は相模川流域屈指の大規模集落として発展した。

  • 集落規模:南北約410m、東西約100m以上
  • 竪穴住居跡:第1・2・4次調査で計533軒確認

集落内部には小河川が蛇行して流れ、弥生中期から古墳時代前期にかけて徐々に埋没した。この水域環境が、有機質遺物の良好な保存をもたらした点が本遺跡の最大の特色である。

3.水辺環境と木製品の保存

水分を多く含む泥土層が酸素を遮断し、いわば「真空パック」のような状態を生み出した結果、木製品が原形をとどめたまま多数出土した。

主な出土遺物:

  • 臼・杵
  • 小型籠(精巧な編組技術を示す)
  • 機織りの緯打具
  • 腰掛け脚部

弥生時代の生活技術・農耕・織布・木工技術を具体的に復元できる点で、学術的価値が高い。

4.竹状しがらみ状遺構(漁労施設)

弥生時代後期の河道跡から、竹状素材を用いたしがらみ状遺構が2か所・計14例確認された。

  • 素材:竹状材2~3本を1単位
  • 構造:縦材・横材を組み合わせる
  • 用途:魚を追い込み捕獲する漁労施設と推定

関東地方における弥生期漁撈技術を具体的に示す希少な事例である。

5.板状鉄斧と対外交流

板状鉄斧(長さ28.5cm、幅3.4cm、厚さ1.3cm、重さ604.6g)が出土した。 東日本では初の出土例として注目された。

弥生時代の日本列島では鉄原料からの製鉄技術は未成立であり、鉄器は朝鮮半島からの搬入品と考えられる。本資料は、相模川流域が弥生後期に広域交流圏に組み込まれていたことを示す重要証拠である。

6.小銅鐸の発見

高さ8.1cm、最大幅4.1cmの小銅鐸が完形で出土した(県内3例目)。

特徴:

  • 鰭・文様を持たない
  • 内部にグリーンタフ製とみられる舌状小石が付着
  • 通常の小銅鐸にみられない内面突帯を有する
  • 弥生後期に位置づけられる

銅鐸祭祀の地域的展開と変容を考える上で重要な資料である。

7.拠点集落としての性格

出土遺物には、

  • 土器・石器・木器・骨角器
  • 小銅鐸
  • 銅鐸形土製品
  • 板状鉄斧

など、外来性・祭祀性を帯びた資料が含まれる。 これらの内容から、河原口坊中遺跡は単なる農耕集落ではなく、相模川流域における弥生後期の地域拠点的集落と評価される。

相模川流域弥生集落の比較研究

相模川流域は、関東地方南西部における弥生文化受容の重要地域である。流域には自然堤防・段丘・低湿地が複雑に分布し、それぞれの地形条件に応じた集落展開がみられる。本稿では、**相模川流域弥生集落の立地・規模・生業・対外交流の視点から比較整理する。

1.立地類型の比較

  • (1)自然堤防立地型
    • 代表例:河原口坊中遺跡(海老名市)
    • 河川沿いの微高地
    • 洪水回避と水利確保の両立
    • 大規模集落形成
    • 水辺環境により木製品保存良好

→ 生産・流通・交通の拠点化傾向が強い。

  • (2)段丘上立地型
    • 代表例:勝坂遺跡(相模原市)
    • 相模川支流域の段丘面
    • 防御性・安定性を重視
    • 環濠的要素を伴う例もある

→ 中小規模集落が分散的に立地。

  • (3)低湿地近接型
    • 寒川町・平塚市周辺の遺跡群
    • 水田適地に近接
    • 灌漑型水稲耕作への適応
    • 河道変動の影響を受けやすい

→ 農耕特化型集落の可能性。

2.集落規模の比較

  • 河原口坊中 500軒超(調査確認分,中期後半~後期中心
  • 中流域段丘集落 数十~百軒規模,時期限定例多い
  • 下流域低地集落 小~中規模,後期中心

相模川流域では、中流自然堤防型の大規模集落が地域中核を担った可能性が高い。

3.生業構造の比較

  • 河原口坊中遺跡
    • 農耕(鋤出土)
    • 漁撈(しがらみ状遺構)
    • 織布(緯打具)
    • 木工(臼・杵) → 複合的生業構造
  • 段丘集落
  • 農耕中心
  • 狩猟・採集併存 → 内陸型自給経済
  • 下流域
    • 水稲耕作特化傾向
    • 河口交易との関係も想定

4.対外交流の比較

河原口坊中遺跡では、

  • 板状鉄斧(東日本初例)
  • 小銅鐸
  • 銅鐸形土製品

が出土している。

これは、弥生後期において相模川が物資流通ルートとして機能していた可能性を示す。

段丘型集落では鉄器・青銅器は少量出土例が多く、広域交流の結節点は自然堤防型に集中する傾向がある。

5.流域構造モデル

相模川流域弥生社会は、次のような階層的空間構造をもっていた可能性がある。

  • 上流:小規模分散集落(農耕・狩猟)
  • 中流:拠点的大規模集落(流通・祭祀・統合)
  • 下流:水田生産拠点・外海接続点

この構造は、北部九州型の首長制社会とは異なり、緩やかな地域連合型社会を形成していた可能性を示唆する。

6.研究史上の論点

  • 相模川流域は東海系文化圏か南関東系文化圏か
  • 銅鐸文化の東限問題
  • 板状鉄斧流通ルート(朝鮮半島→北九州→東海→相模?)
  • 河川交通の実態復元

特に河原口坊中遺跡の発見以降、相模川中流域を中心とする拠点集落論が再評価されつつある。

7.総括

相模川流域弥生集落の特徴は、

  • 地形多様性に応じた立地分化
  • 中流自然堤防型大規模集落の存在
  • 農耕・漁撈・手工業の複合化
  • 鉄器・青銅器を伴う広域交流

にある。 とくに河原口坊中遺跡の調査成果は、南関東弥生社会の中心地形成過程を具体的に示す画期的資料と評価できる。

指定

アクセス等

  • 名称:河原口坊中遺跡
  • 所在地:神奈川県海老名市河原口158-2
  • 交通:厚木駅から徒歩15分。(1.2km)

参考文献

  1. 文化庁(2016)『発掘された日本列島 2016』共同通信
  2. 黒澤諒(2023)「再生される銅釧の展開」『駒澤考古』48,pp.41-55
  3. 加藤久美(2015)「弥生時代の河辺の生活」