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貨泉 ― 2026年04月10日 00:16

貨泉(かせん)はは、中国の王朝である新の皇帝である王莽が天鳳元年(14年)に鋳造した銅銭である。

円形の銭体の中央に方孔を持ついわゆる方孔銭で、孔の右側に「貨」、左側に「泉」の二字が鋳出されている。直径は約2.27~2.32センチメートル、重量は約1.45~2.53グラムである。

概要

貨泉は、中国の新王朝が実施した貨幣制度改革の一環として鋳造された銅銭である。新王朝は短期間で滅亡したため、この銭貨は鋳造期間が比較的限定されており、中国考古学および東アジア古代史研究において年代指標となる資料の一つとされる。

日本列島では主に弥生時代の遺跡から出土しており、弥生土器と共伴する事例が知られている。このため、かつては弥生時代後期の年代を推定する資料として重視されてきた。しかし、中国から輸入された銅銭の中に後世混入した可能性も指摘されており、出土例のすべてが弥生時代に直接もたらされたものとは限らないと考えられている。

出土状況を見ると、単独または少数での発見が多く、複数枚がまとまって出土する例は比較的少ない。現在知られている最多例は岡山県の高塚遺跡で出土した25枚である。日本国内で確認されている貨泉の総数はおよそ179枚とされる。

弥生時代の日本列島では貨幣経済が成立していたとは一般に考えられていない。そのため貨泉は、交易によってもたらされた物資、あるいは首長層の威信を示す威信財、さらには青銅器鋳造の原材料などとして流入した可能性が指摘されている。

弥生時代年代論と貨泉

1 概要

弥生時代の年代を推定する方法として、中国銭貨である貨泉の出土は長らく重要な資料とされてきた。貨泉は中国の王朝である新の皇帝王莽が天鳳元年(14年)に鋳造した銅銭であり、鋳造年代が比較的明確であること、存続年代がきわめて短い貨幣であることから、日本列島の弥生時代後期の年代決定に利用されてきた。

日本の弥生遺跡では貨泉が弥生土器と共伴して出土する例があり、これらの事例は弥生時代終末期の年代を考えるうえで重要な手掛かりとなった。

2 編年資料としての利用

日本考古学では、年代が明確な外来遺物を「考古学的年代指標(クロノロジー資料)」として利用する方法がとられる。貨泉は鋳造年代が1世紀初頭に限定されるため、弥生時代後期の遺構・遺物の年代を推定する資料として重視された。

弥生遺跡から貨泉が出土した場合、

  • その遺構は1世紀前後以降に形成された可能性が高い と推定することができると考えられてきた。

このため20世紀の弥生時代研究では、貨泉の出土例が弥生時代終末期(弥生後期末)を示す考古学的証拠としてしばしば引用された。

3 問題点と再検討

しかし貨泉を年代決定資料として用いることにはいくつかの問題点が指摘されている。

  • 第一に、貨泉は中国で鋳造された銭貨であり、日本列島には交易や流通を通じて持ち込まれた外来品である。そのため鋳造年と日本への流入時期が必ずしも一致するとは限らない。
  • 第二に、中国銭貨は長期間流通する性質を持つため、
    • 鋳造から相当時間が経過した後に日本へ渡来した可能性
    • 後世の遺構に混入した可能性

も否定できない。

  • 第三に、日本の遺跡では貨泉が単独または少数で出土する例が多いため、埋納年代を厳密に特定することが難しい場合もある。

このような理由から、貨泉のみを根拠に弥生時代の年代を決定することには慎重な立場が取られるようになった。

4 放射性炭素年代との関係

21世紀に入ると、弥生時代の年代研究では「放射性炭素年代測定(AMS年代測定)」が広く利用されるようになった。これにより弥生時代の開始年代は従来よりも古く、紀元前10世紀頃まで遡る可能性が指摘されている。

この新しい年代観のもとでは、貨泉は弥生時代全体の年代を決定する資料というよりも、弥生時代後期から終末期にかけての対外交流を示す遺物として位置づけられることが多くなっている。

5 歴史的意義

現在の研究では、貨泉の出土は単なる年代指標にとどまらず、次のような問題を考える資料としても重視されている。

  • 弥生時代後期の中国との交流関係
  • 日本列島への金属資源の流入
  • 首長層が保持した威信財体系
  • 弥生社会における象徴的財の流通

このように貨泉は、弥生時代の年代研究と東アジア交流史の双方を考えるうえで重要な考古資料とされている。

貨泉出土遺跡一覧(主要遺跡)

中国銭貨である貨泉は、日本列島では主として弥生時代後期から終末期の遺跡から出土している。出土数は多くなく、単独あるいは少数で出土する例が多いが、弥生社会の対外交流や金属資源の流入を示す資料として重要視されている。以下は日本で知られる主な出土遺跡である。

  • 高塚遺跡(岡山県)
    • 岡山県に所在する弥生時代後期の集落遺跡で、日本国内で最も多くの貨泉が出土した遺跡として知られる。

遺跡からは25枚の貨泉がまとまって出土しており、国内最多例とされる。出土状況から、弥生後期の対外交易や威信財としての流入を示す重要資料とされている。

  • 唐古・鍵遺跡(奈良県) 奈良盆地南部に広がる弥生時代を代表する大規模環濠集落遺跡である。 弥生後期の遺構から貨泉が出土しており、中国系遺物や青銅器などとともに、弥生社会における広域交流を示す資料の一つとされる。
  • 吉野ヶ里遺跡(佐賀県) 北部九州の弥生時代を代表する大規模環濠集落遺跡である。 弥生後期から終末期の遺構から貨泉が出土しており、中国との交流を示す外来遺物として注目されている。
  • 原の辻遺跡(長崎県) 壱岐島に所在する弥生時代後期の大規模集落遺跡で、古代の国「一支国」の中心地と考えられている。 中国系遺物が多く出土することで知られ、貨泉もその一例であり、東アジア海域交易の存在を示す資料とされる。
  • 矢野遺跡(徳島県) 徳島市に所在する弥生時代の集落遺跡である。 弥生後期の遺構から貨泉が出土しており、吉野川流域における対外交流の痕跡として注目される。

出土遺跡の地域的特徴

現在確認されている貨泉の日本国内出土数は約179枚とされる。出土遺跡は次の地域に比較的集中する傾向がある。

  • 北部九州(対外交流の拠点地域)
  • 瀬戸内海沿岸(海上交通の要衝)
  • 畿内地域(弥生後期の政治的中心地)

この分布傾向は、弥生時代後期における中国系物資の流入が海上交通ネットワークを通じて伝播した可能性を示唆している。

出土例

  • 貨泉 –入田稲荷前遺跡、兵庫県南あわじ市、弥生時代
  • 貨泉 - 澱池遺跡、大阪府貝塚市、中世の遺構面
  • 貨泉 –高塚遺跡、岡山県岡山市、弥生時代

参考文献

  1. 田中清美(2002)「大阪府下出土貨泉の検討」大阪歴史博物館研究紀要 1,pp.17-28
  2. 山田勝芳(1999)「後漢・三国時代貨幣史研究」東北アジア研究 (3),pp.59-84

下ツ道 ― 2026年04月10日 22:30

下ツ道(しもつみち)は奈良盆地を南北に縦断する古代道路の一つであり、いわゆる「上ツ道・中ツ道・下ツ道」の三直線道路のうち最も西側に位置する。

概要

古代の奈良盆地には、ほぼ等間隔で南北に並行する三本の直線道路(上ツ道・中ツ道・下ツ道)が整備されていた。これらは強い方位性(条里制と共通する方格地割)を持つ計画道路であり、古代国家による都市・地域支配の基盤をなす交通インフラと考えられている。

下ツ道は南端を橿原市の五条野丸山古墳(見瀬丸山古墳)付近、北端を平城宮太極殿付近に至り、総延長は約26kmに及ぶ。奈良時代には平城京の中央大路である朱雀大路へと接続し、都城交通の骨格を形成した。

672年の壬申の乱では、大海人皇子(のちの天武天皇)側が三道に軍勢を配置したとされ、軍事的にも重要な幹線路であったことがうかがえる。

また、奈良盆地に広がる条里制地割は、このような直線道路を基準として整備されたとみられ、下ツ道は条里地割を東西に区分する基準線の一つとして機能した可能性が指摘されている。

成立時期と築造主体

下ツ道の成立時期については諸説あるが、発掘調査成果からは6世紀後半?7世紀初頭に遡る可能性が指摘されている。例えば、平城京左京三条一坊四坪の調査では、下ツ道東側溝の底からこの時期の須恵器杯蓋が出土している。

奈良県立橿原考古学研究所による調査(2010年・2019年など)では、道路幅が側溝心々間で約23m以上に及ぶことが確認されており、当時としては極めて大規模な計画道路であった。

成立年代について、考古学者の和田萃は、飛鳥地域における方格地割の成立状況を踏まえ、孝徳朝末年(654年)から斉明朝初年(655年)頃の整備とする見解を示している。

見瀬丸山古墳との関係

近江俊秀は、下ツ道の南端が見瀬丸山古墳に接続することに注目し、この古墳の被葬者が三直線道路の築造主体である可能性を指摘した。

被葬者候補としては、

  • 欽明天皇
  • 蘇我稲目

の二者が挙げられている。

このうち、考古学者の小沢毅は蘇我稲目説を支持し、主な根拠として以下を挙げる。

  • 欽明天皇陵とされる「檜隅坂合陵」の位置が古墳の立地と一致しない
  • 文献に見える葺石の記述が見瀬丸山古墳では確認されていない
  • 江戸時代の記録では欽明陵(梅山古墳)は砂礫で覆われていたとされる
  • 見瀬丸山古墳は蘇我氏の本拠地に位置する
  • 三直線道路が同古墳を基準に設計されている可能性がある

中世・近世の変遷

中世には「高野街道」とも呼ばれ、高野山への参詣路として機能した。 近世(江戸時代)には「中街道」と称され、一部で経路変更が行われた。

学史的意義

三直線道路の存在が明確に認識されたのは、1966年の藤原京発掘調査以降である。歴史学者の岸俊夫は、上ツ道・中ツ道・下ツ道と横大路などを組み合わせて藤原京の都市構造を復元し、さらに平城京との連続性を論じた。

この研究は、日本古代における都城制および計画都市論の理解に大きな影響を与えた。

下ツ道と条里制 ― 古代国家の空間編成原理に関する一考察

奈良盆地における下ツ道は、単なる交通路ではなく、古代国家による空間編成の基準軸としての性格を有していた可能性が高い。本稿では、下ツ道と条里制地割との関係を検討し、その歴史的意義を考察する。

1 直線道路と方格地割の一致

奈良盆地には、南北にほぼ等間隔で並行する三直線道路(上ツ道・中ツ道・下ツ道)が存在する。これらは強い方位性を持ち、南北方向に正確に整列している点で、後世の条里制地割と顕著な共通性を示す。

条里制は、一定の規格に基づき土地を方形に区画する制度であり、その成立は一般に7世紀後半以降とされる。このとき、基準線として何が用いられたかが問題となるが、奈良盆地では既存の直線道路、特に下ツ道のような幹線路がその役割を担ったとみられる。

実際に、条里地割の東西区分線が下ツ道と一致あるいは平行する事例が確認されており、道路と耕地割の一体的計画が想定される。

2 成立時期の前後関係

下ツ道の成立時期については、6世紀後半から7世紀中頃とする見解が有力である。考古学者の和田萃は、飛鳥地域における方位に基づく地割の成立状況から、孝徳朝末年(654年)から斉明朝初年(655年)頃に三直線道路が整備されたと推定している。

この見解に立てば、下ツ道は条里制の本格的施行に先行するインフラであり、条里制はこれら既存の直線道路を基準として展開したことになる。すなわち、道路が先行し、その後に耕地の区画整理が体系化されたと理解できる。

3 国家的土木事業としての性格

下ツ道の幅員は側溝心々間で約23m以上に達し、当時としては極めて大規模な土木事業であった。このような規模の直線道路を建設するには、強力な権力による動員と測量技術が不可欠である。

ここで注目されるのが、下ツ道の南端が見瀬丸山古墳に接続する点である。近江俊秀は、この古墳の被葬者を道路建設の主体とみなし、王権中枢による計画的事業の可能性を指摘した。

このような視点に立てば、下ツ道は単なる交通路というより、政治権力の可視化装置であり、条里制による土地支配と一体化した国家的プロジェクトの一環と評価できる。

4 都城制との連続性

下ツ道は北方で平城京の朱雀大路に接続する。朱雀大路は都城の中心軸であり、都市空間の秩序を象徴する存在である。この接続関係は、奈良盆地全体の空間構造が都城と連続的に設計されていたことを示唆する。

1966年の藤原京発掘以降、岸俊夫らの研究により、三直線道路と都城道路網との対応関係が明らかにされ、古代日本における広域的な都市計画の存在が指摘されている。

すなわち、下ツ道は単独の道路ではなく、条里制・都城制を含む広域的な空間編成の中核軸として機能したのである。

5 結論

下ツ道は、奈良盆地における条里制地割の基準線として機能した可能性が高く、その成立は条里制に先行する国家的インフラ整備と位置づけられる。直線道路の建設と方格地割の展開は、いずれも方位に基づく空間認識を前提としており、両者は同一の計画思想のもとに統合されていたと考えられる。

このように、下ツ道は交通路であると同時に、土地支配・都市計画・権力表象を担う多機能的な軸線であり、日本古代国家の形成過程を理解する上で極めて重要な遺構である。

参考文献

  1. 佐竹昭広・山田英雄他(2013)『万葉集(一)』岩波書店
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 奈良県立橿原考古学研究所(2019)「郡山下ッ道ジャンクション建設に伴う遺跡調査報告書」奈良県立橿原考古学研究所調査報告第179冊
  4. 近江俊秀(2012)「道が語る日本古代史」朝日新聞出版 
  5. 小沢毅(2002)「三道の設定と五条野丸山古墳」『文化財論叢Ⅲ』
  6. 奈良県立橿原考古学研究所(2010)「平城京朱雀大路・下ツ道」奈良県文化財調査報告第136集
  7. 独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所(2004)「中央区朝堂院の調査 平城第367次調査」
  8. 和田萃(2006)「新城と大藤原京――万葉歌の歴史的背景――」萬葉196、萬葉学会
  9. 近江俊秀(2009)「下ツ道(5)-下ツ道敷設時期をめぐる研究」両槻会 遊訪文庫