横幅 ― 2026年08月01日 00:05
横幅(おうふく)は布を巻いて結ぶだけで、裁断や縫製をほとんど行わず布を体に巻き付ける衣服である。横幅衣(おうふくい)ともいう。
概要
『魏志倭人伝』の記述に3世紀頃の倭国の男子の服装が書かれる、すなわち「男子は皆露、木緜を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし」(男子皆露紒、以木綿招頭、其衣横幅、但結束相連、略無縫)とされる。男子は冠や頭巾を着けず、木綿を頭に巻き付け、衣は横幅で、結んだだけで連結し、縫い目(裁縫)はない、とされている。
『古事記』『日本書紀』には同様の記述はみられず、『魏志倭人伝』に記される3世紀頃の倭人の服装を知る数少ない史料となっている。
横幅の解釈
大林太良(1977)によれば、横幅は2通りの解釈がされている。一つ目の解釈は長い布を腰巻きとして使う方法である。梁代(6世紀)の『職貢図』に描かれた倭国使は、横に長い布を肩掛けから、腹のあたりまで巻き付け、腰付近でくくり合わせる衣装である。百済の使節とはかなり異なっており、相対的に貧弱な服装になっている。
『晋書』卷九十七・林邑伝に「女嫁之時、著迦盤衣、橫幅合縫如井欄、首戴寶花」(女性が嫁ぐ時は、迦盤(かばん)の衣を着用し、横幅の布を井戸の垣根(井欄)のように縫い合わせ、頭には宝花(宝石や宝飾をつけた飾り花)をかむる)と書かれる。「迦盤」は当時の筒状のスカート状の衣服を意味する。布を円筒形・円周状に縫い合わせて体に巻き付ける。林邑とはベトナム中部から南部でチャム人が2世紀末に建設した国家をいう。
『隋書』卷八十二列傳第四十七 南蠻林邑伝に「俗皆徒跣、以幅布纏身」(風俗は皆裸足で、横幅に衣服をまとう)と書かれる。「横幅」の語は倭国以外にも林邑の衣服を表す語として中国史書にみられる。
二番目の解釈では肩から掛けた布をさすという。三品彰英(1971)は袈裟式の服装と解釈した。斎藤忠(1958)も同様の解釈である。サリーはインド・ネパール・スリランカ・バングラデシュ・パキスタンにおいて、細長い布を様々なスタイルで体を包み込んで使用する。サリーも裁断・縫製をほとんど行わず、長布を身体に巻いて着用する衣服の一例である。
考察
布を巻き付けて着用する衣服は、南アジア・東南アジアに広くみられる。南アジアから東南アジアにかけて広く分布している布を裁断せず身体に巻き付ける服装文化がある。名称はサロン、サルン(マレーシア,インドネシア),シン(ラオス),ルンギー(インド,バングラデシュ)、ロンジー(ミャンマー)があるが、いずれも布を腰巻きとして使用する。 現代でも、インドネシアでは輪にした布を衣料に用い、裁断や縫製をしないまま身体を包む布として使う。このような布を巻き付けて着る衣服は現代の東南アジアにもみられる。
参考文献
- 三品彰英(1971)『神話と文化史』平凡社
- 斎藤忠(1958)『日本全史1 原始』東京大学出版会
- 吉本忍(2005)『アジアにおける「包むJ文化』日本衣服学会誌 Vol.49 No.l
- 大林太良(1977)『邪馬台国』中央公論社
上御殿遺跡 ― 2026年08月02日 00:05
上御殿遺跡(かみごてんいせき)は、滋賀県高島市に所在する弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡である。弥生時代中期~後期の双環柄頭短剣に似た鋳型が国内で初めて出土したことで知られ、古墳時代前期の石釧、大規模な集落跡、2026年に確認された鍛冶工房とみられる円形竪穴建物など、多様な遺構・遺物が確認されている。丹後・若狭など日本海側地域の特徴をもつ土器も出土しており、琵琶湖西岸と日本海側を結ぶ地域間交流を考えるうえでも重要な遺跡である。
概要
上御殿遺跡は、滋賀県高島市南部、琵琶湖の西岸に広がる高島平野の南部を流れる鴨川の左岸に所在する。JR湖西線安曇川駅から南西方向に約800mの距離である。オルドス式銅剣や古墳時代の石釧、古墳時代前期の鍛冶工房跡などが出土したことで知られる。
調査
2013年調査(短剣鋳型)
古代中国北部に分布したオルドス式銅剣に特徴が似た双環柄頭短剣の石製鋳型(金属を流し込んで形を作る型)が国内で初めて出土した。鋳型は2枚ある。2点一対で、長さ約30cm、幅約8.8cmである。弥生時代中期から後期のものとされる。オルドス式銅剣は、中国北方から内モンゴル地域などを中心に分布する青銅製短剣である。柄の先が2つのリング(双環)になっているのが特徴である。復元される短剣は、双環柄頭をもつ点で中国北方の短剣と共通する一方、鍔をもたず、刃部に幾何学的な文様が施されるなど、既知のオルドス式銅剣とは異なる特徴もみられる。
鋳型の石材は泥が固まったシルト岩で産地は不明である。鋳型の彫り込みが浅く、復元すると刃部が約3mmと薄いことから、実用品ではなく、特殊な目的のために製作された可能性が指摘されている。 短剣鋳型の出土は、上御殿遺跡周辺で青銅器生産に関わる技術活動が行われていた可能性を示す。一方、2026年には古墳時代前期の鍛冶関連遺構とみられる建物も確認され、金属加工技術の実態を考えるうえで重要な遺跡となっている。滋賀県指定有形文化財となっている。朝鮮半島に同型の出土例がそれまで知られていなかったことから、その伝来経路について、日本海側を含めた複数の可能性を検討する必要がある資料となった。
2013年調査(石釧)
古墳時代の川跡から腕輪形石製品の「石釧」が出土したと発表した。直径8 ㎝(外側:内側は直径6.6 ㎝)・高さ2.4 ㎝を測り、破片の大きさは全体の約1/4 程度である。石材は緑色凝灰岩とみられ、淡い緑色腕輪形である。石釧は東北南部~九州北部に広く分布しており、有力者の墓に副葬されることが多い。古墳時代前期の後葉(4世紀後半)ごろのものと見られている。土器の他、紡錘車や鉄鎌が出土している。湖西地域では初めて確認された石釧であり、琵琶湖を挟んだ湖南地域との交流や、腕輪形石製品の流通を考えるうえでも重要である。
2014年調査(古墳)
2014年2月27日、古墳1基が発見された。直径約12.8mの円墳で、主体部は木棺直葬であった。周溝から出土した須恵器などから、古墳時代後期の古墳と考えられている。底の土に赤い顔料が見られた。
2024年度~2025年調査(集落)
2024年度からの調査では、弥生時代後期から古墳時代前期の竪穴建物が多数確認され、2026年までに方形建物32棟などが確認されている。丹後・若狭地域の影響を受けた北近畿系の土器や湖南地域の特徴を持つ土器が含まれており、他地域との交流が推測される。弥生時代後期から古墳時代前期にかけて約200年間続いた地域の拠点集落と見られる。
2026年調査(鍛冶工房跡)
古墳時代前期の鍛冶工房とみられる2棟の円形竪穴建物跡がみつかった。建物内部で6基の炉の跡を発見している。炉周辺の被熱状況から、700~1000度弱の高温になったと推定されている。出土状況は、直径約7.2メートルの建物跡から4基、直径約6.0メートルの建物跡から2基の炉が確認されている。炉は床面から数センチ高く粘土等でかさ上げされており、湿気対策が施されていたと考えられる。炉周辺の被熱状況から、ふいごによって送風していた可能性も指摘されている。北方からもたらされた鉄製品などを再加工していた可能性が考えられている。丹後・若狭など日本海側地域の特徴をもつ土器がされ、遠隔地との交流を示すものと評価されている。
遺構
- 鍛冶工房跡
- 古墳
遺物
- 紡錘車
- 鉄鎌
- 石釧
- 双環柄頭短剣の石製鋳型
指定
時期
アクセス
- 名称:上御殿遺跡
- 所在地:滋賀県高島市鴨2742-3
- 交 通:JR湖西線 安曇川駅 徒歩18分(1.3km)
参考文献
- 「滋賀・高島の遺跡で邪馬台国時代の鍛冶工房跡」産経新聞、2026年7月17日
- 「弥生―古墳期の鍛冶工房か」共同通信、2026年07月16日
- 滋賀県文化財保護協会(2013a)「平成24年度 高島市上御殿遺跡出土の石釧について」
- 滋賀県文化財保護協会(2013b)「御殿遺跡発掘調査現地説明会資料」
深江城崎遺跡 ― 2026年08月03日 00:05
深江城崎遺跡(ふかえじょうざきいせき)は、福岡県糸島市に所在する弥生時代の遺跡である。
概要
深江城崎遺跡は弥生時代に栄え、伊都国の西部における対外交流を考えるうえで重要な拠点集落の一つである。2020年(令和2年)の試掘調査で遺構や遺物が出土し、本格的な調査が必要と判断された。
2021年度(令和3年度)の第1次調査では、弥生時代中期後半~終末期にかけての2つの遺構面が確認され、第1面(弥生時代後期後半から終末期)からは掘立柱建物1棟、溝1条、土坑28基、ピット442基を検出した。第2面(弥生時代中期後半から末期)からは掘立柱建物4棟、土坑27基、ピット100基を検出した。溝からは甕、大型甕が出土した。L字形石杵は食料加工などに用いられたと考えられる特徴的な形の石器である。
2025年度に行われた第2次調査では、弥生時代の木製台「案」の出土や港湾集落の発見があった。 谷部から大型器台など外来系土器や木製品がまとまって出土しており、護岸を備えた人工流路も見つかっており、大陸や朝鮮半島との交流・交易に関わる拠点としての性格が想定される。遺跡は港湾的機能が想定されている。地域間交流や水辺での活動を考えるうえで重要である。
大陸・朝鮮半島系土器
朝鮮半島南部や楽浪郡に関係する外来系土器が出土しており、深江城崎遺跡における大陸・朝鮮半島との交流を示す資料となっている。深江城崎遺跡が大陸・朝鮮半島との物流や交流に関わった可能性を示す資料である。
クジラが描かれた「絵画土器」
2023年4月、糸島市が公表した絵画土器には、高さ60cmの壺の表面に、上から見下ろした(俯瞰した)視点で全長約8cmのクジラが線刻されている。クジラの体の両側に計6本の線が伸びており、これはクジラに刺さった「もり」を表している可能性がある。クジラを描いた絵画土器としては、長崎県壱岐市の原の辻遺跡に続く国内2例目とされる。伊都国と一支国の海上ネットワークや交流を考えるうえで注目される。
木製台「案」と中国・漢代の案との類似
深江城崎遺跡出土の「案」は、中国・漢代の木製案と形態や構造に類似すると指摘されている。長方形の天板に脚を取り付ける構造をもち、脚を押さえ板や鼻栓で固定する点も共通する。こうした組み合わせ式の構造は、弥生時代の北部九州でも雀居遺跡などから確認されており、大陸との交流を背景とした木工技術の受容を考えるうえで注目される。なお、食器や供え物を載せる台との説もあるが、天板には多数の刃物傷が残されており、実際の用途については今後の検討が必要である。
調査
弥生時代前期
楽浪系土器や東九州系、瀬戸内系の土器が出土する。
弥生時代後期前半
漁労具(タモ、アカトリ)、農具(竪杵、横槌など)、運搬具(舟、背負梯子)など多くの木 製品が出土した。長さ 1.96m、幅 55cmの刳り抜き式丸木舟と舟内やその周辺でも完形の土器が出土した。砂丘に沿って人工流路が造られ、杭や矢板を用いて護岸している。
弥生時代中期末~後期初頭
完形の土器に丹塗磨研土器が含まれる。
遺構
- 掘立柱建物
- 人工流路
- 土坑
遺物
- 絵画土器
- 案
指定
時期
アクセス
- 名称:深江城崎遺跡
- 所在地:福岡県糸島市二丈深江
- 交 通:JR筑肥線 筑前深江駅から 850m
参考文献
- 糸島市(2023)『糸島市文化財調査報告書29:深江城崎遺跡』
- 西日本新聞(2026)「福岡・糸島市、弥生時代の木製台が完全な形で出土 国内唯一の発見」2026/7/5
海獣葡萄鏡 ― 2026年08月04日 00:10
海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)は鏡背に海獣と呼ばれる霊獣や葡萄唐草文を高肉彫風に表した中国・唐代を代表する銅鏡である。
概要
海獣は海に生息する動物ではなく、中国で西域文化の影響を受けて成立した獅子や麒麟などの霊獣を総称したものである。葡萄唐草は葡萄の房、葉、蔓を組み合わせて連続模様にした文様である。中国では葡萄文が吉祥文として好まれた。黄名時(2014)は「唐の高宗・則天武后時代に瑞獣を主文とする海獣葡萄鏡が流行した」「シルクロードを通じて伝来したペルシアなど西アジア・中央アジアのデザインや図案をとりいれた鏡や,東西の文化がミックスし融合した文様の鏡が流行した」と指摘する。中国の唐代の盛唐期前期に流行した代表的な装飾鏡である。 葡萄は多くの実をつけることから「子孫繁栄」や「豊穣」を表し、どこまでも伸びる蔓から「生命力」や「長寿」を象徴する。海獣葡萄鏡は唐代(7~8世紀)に最も盛んに製作された。日本では飛鳥時代から奈良時代にかけて遣唐使などを通じて伝来した。西域文化の影響を受けた国際色豊かな意匠をもっている。日本では正倉院宝物や古代寺院・神社に多く伝来し、美術史・考古学の双方で重要な資料である。
海獣葡萄鏡の事例
香取神宮(茨城県)蔵の海獣葡萄鏡
- 1953年に国宝指定された。鏡径29.5cm、白銅質の大型の円鏡である。唐代鏡の最高傑作の一つといわれている。正倉院御物及び大山祇神社の神鏡とを合わせて『日本三銘鏡』とされている。葡萄唐草を地紋とし、獅子形の鈕(ちゅう)を中心として獅子・馬・鹿・麒麟などの獣類や孔雀・鴛鴦・鳳凰・鶏などの鳥類、さらには昆虫を配置する。
大山祇神社蔵の海獣葡萄鏡(禽獣葡萄鏡)
- 国宝指定。鏡径26.5cm、重さは3キロ以上。愛媛県の大山祇神社に伝わる鏡である。中国・唐時代の白銅製の鏡とされる。斉明天皇が朝鮮出兵の際に戦勝を祈って奉納したと伝えられる(歴史的事実かは定かでない)。中央のつまみ(鈕)を中心に内区と外区に分かれる。中央には獅子が彫られ、その周りを葡萄ツタ、孔雀や鳳凰、小鳥が囲む。
東京国立博物館蔵の鳥獣葡萄鏡
- 「鳥獣葡萄鏡」や「禽獣葡萄鏡」も獣葡萄鏡と同系統・同種の文様を持つ鏡の別称や類例として扱われる。
- 法隆寺に伝来した銅鏡である。1957年(昭和32年)6月18日、重要文化財に指定。中央の獅子のつまみの周囲に、葡萄のツル、葉、小鳥、動物が立体的に描かれる。
正倉院蔵の鳥獣花背方鏡
- 鳥獣花背方鏡は中国・唐代に作られた海獣葡萄鏡の1種で、中央には獅子が鈕となり、その周囲の六頭の霊獣を配置し、外区に鳥、蝶、蜂、葡萄唐草文様をを鋳出す。白銅で作られた四角い鏡である。
- 方形の海獣葡萄鏡はめずらしい。辺長17.1cm。重さ1934.1g。正倉院に伝わる白銅鏡の中でも最高傑作の一つとされる。
参考文献
- 黄名時(2014)「隋唐時代の鏡文化(1)」名古屋学院大学論集 言語・文化篇 第25 巻第2号 pp.1―15
元稲荷古墳 ― 2026年08月05日 00:05
元稲荷古墳(もといなりこふん)は京都府向日市に所在する古墳時代前期初頭(3世紀後半~末頃)の前方後方墳である。史跡乙訓古墳群を構成する古墳である。
概要
元稲荷古墳は向日丘陵南端部の尾根上に位置し、墳丘主軸を南北方向にとる。古墳の規模は墳丘長約94m、後方部は長さ約50m、幅約49m、高さ約7m、前方部は長さ約43m、幅約47m、高さ約4mである。後方部は三段築成、前方部は二段築成である。前方部が外側に向かって大きく開く形態は、初期の前方後円墳・前方後方墳に共通する墳丘形態の形成過程を考えるうえで注目される。前方後方墳という墳形が地域的に展開する一方で、乙訓地域では前方後方墳や前方後円墳が大型の首長墓として採用されている。
元稲荷古墳は乙訓地域における最古段階の大型首長墓の一つであり、古墳時代初頭の畿内と周辺地域との交流や首長墓形成を考えるうえで重要な古墳である。2016年(平成28年)に「乙訓古墳群」のひとつとして国指定史跡となっている。
竪穴式石槨
竪穴式石槨は板石を合掌形に積み上げて壁体を構築し、その上に11枚の天井石を架けている。板石を内側へ持ち送る構造から、全体として家形に近い立体形状を呈する。竪穴式石槨などの埋葬施設に用いる板石は必要量が葺石ほど多くないため、石質、石の色彩や形状などを優先して、遠隔地から搬入される場合もある。元稲荷古墳の竪穴式石槨には西山産(京都府西山丘陵周辺)のチャートの板石が用いられており、葺石とは異なる石材調達のあり方を示している。
副葬品
副葬品は埋葬施設は盗掘を受けており、副葬品の多くは失われたと考えられるが、刀剣・槍・鏃などの武器類、斧・鑿・刀子・鋤・鍬先などの農工具・工具類が残されている。向日丘陵の首長墓群では五塚原古墳(前方後円墳)に次ぐ時期の築造とされる。乙訓地域全体を見下ろす位置に大型墳丘を築いたことは、首長墓としての立地選択が垣間見える。
葺石の採取場所
一般的に古墳の葺石は付近の河川から採取する例が多い。奥田尚(1999)は心合寺山古墳の葺石について、「石材の石種はペグマタイト、粗粒黒雲母花闘岩、中粒黒雲母花向岩、細粒黒雲母花闘岩、黒雲母閃緑岩、斑糖岩、片麻状中粒黒雲母花闘岩、片麻状細粒黒雲母花聞岩、鉱物種は石英である」としている。採取地として「葺石の石材は当古墳東方の楽音寺から大窪にかけての付近の山麓」から採取した礫を使用していると述べる。
元稲荷古墳の墳丘の斜面を覆う葺石には、主に拳大(10センチ未満)の卵形の礫(れき)が大量に敷き詰められている。元稲荷古墳では墳丘全体に大量の礫を用いた葺石が施されている。葺石は大量の石材を必要とするため、一般には古墳周辺の河川や山麓など、近距離で大量に確保できる場所から調達されたと考えられる。元稲荷古墳の場合、古墳の東側を流れる桂川や小畑川流域など、近隣地域から採取された礫が用いられた可能性が高い。遠隔地からの採取では重い石材を陸路や水運(船)で運ぶため、当時において強力な権力や高い土木・流通ネットワークを必要とした。
元稲荷古墳は桂川流域の水陸交通の要衝にあり、すぐ西側には小畑川が南流する。葺石に使われている「拳大の円礫」は、これらの近隣河川の川原から集められたと考えられている。しかし大型古墳では数キロから数十キロ離れた地域から採取した礫の遠隔地搬入の例も見られる。例として神戸市の五色塚古墳では、淡路島東海岸の英雲閃緑岩や斑糲岩などが大量に使用・搬入されている。これらは外観に拘って特別な葺石を使用した事例である。
元稲荷古墳ではそのような特別な外観に拘った形跡はみられず、墳丘全体に古墳近隣を流れる小畑川から採取したと想定される礫による葺石が施されている。
調査
1919年(大正8年)梅原末治の踏査により元稲荷古墳は古墳と確認された。1960年・1970年には京都大学による第一次、第二次発掘調査が行われ、その後、第三次移行は向日市教育委員会・向日市埋蔵文化財センターによる継続的な調査が行われ、第11次調査(2017年)までに、墳丘裾部や周辺の溝、埴輪・葺石の配置などが調査された。
地山を削り出して墳丘の基本形を整え、その上に盛土を施して墳丘を構築している。第10次調査で墳丘の流土内から、讃岐系大型二重口縁壺と特殊器台形埴輪の細片が確認された。
出土遺物
埋葬施設として確認されているのは、後方部中央の竪穴式石槨1基である。長さ5.6m、幅1mから1.3m、高さ1.9mである。かつて盗掘を受けたが、副葬品として武器(刀2点以上、槍2点以上、鉄鏃24点以上、銅鏃1点)、農具(方形鋤、鍬先、鎌)、工具(ヤリガンナ、有袋鑿状鉄製品、有袋鉄斧、有袋鑿、刀子)、漁労具とみられる刺突具とヤスが出土した。 副葬品には武器類だけでなく、農工具・工具類、漁撈具とみられる鉄製品も含まれ、被葬者の武力だけでなく生産・労働活動との関係をうかがわせる。
特殊器台形埴輪
前方部の墳頂中央に南北約2m、東西約4mの範囲に壺形土器をのせた特殊器台形埴輪6~7個が、壺形土器を載せた状態で配置されていたと推定される。特殊器台形埴輪は吉備地域に成立した特殊器台・特殊壺の系譜を引くもので、箸墓古墳など大和の初期大型古墳にも類例があり、初期大型古墳における葬送・祭祀の共通性を考えるうえで重要である。特殊器台形埴輪の文様は都月形であるが、都月坂1号墳などと比べると、文様が途中で途切れていること、条数がより少ないことから、省略化が進んだ時期の製作と評価されている。文様構成や条数などに省略化がみられ、特殊器台の型式変化を考えるうえでも重要である。
元稲荷古墳では人物・動物・家などの形象埴輪は確認されておらず、特殊器台形埴輪など初期段階の埴輪が中心である。また、讃岐地域に系譜をもつ大型二重口縁壺も確認されており、特殊器台形埴輪にみられる吉備との関係とあわせて、元稲荷古墳の築造をめぐる広域的な交流を考える重要な資料となっている。出土資料の一部は京都大学総合博物館および向日市文化資料館などで保管・公開されている。
前方後方墳の起源
前方後方墳の成立過程については、弥生時代の前方後方形墳丘墓・周溝墓との系譜関係を重視する説がある一方、特定の一地域から直接発生したとすることには慎重な見方もあり、複数地域における墳墓形態の展開を含めて議論されている。前方後方墳の成立地については、近江・東海・長野など複数地域の候補があり、単一の地域を起源地として確定することは難しい。前方後方墳は滋賀や東海、長野など複数の地域で同時多発的・連続的に現れたとの説がある。最古級の前方後方墳には以下が挙げられる。
- 神郷亀塚古墳(滋賀県東近江市) 3世紀前半から中頃の築造とされる。
- 弘法山古墳(長野県松本市)近年の再調査で3世紀中頃の築造の可能性も指摘される。
- 西上免古墳(西上免遺跡・愛知県一宮市)3世紀の前方後方形墳丘墓として最初期事例の一つ
乙訓地域における首長墓の成立
3世紀後半の乙訓地域における首長墓の成立は、ヤマト王権への臣従だけではなく、独自に各地域の有力勢力と主体的に結びつきながら、自律的な外交と政治的地位を確立していったプロセスと位置づける見解がある。京都府向日市の元稲荷古墳が持つ5つの象徴的な要素は、当時の乙訓首長が畿内中心部(大和・山城)や瀬戸内地域の諸勢力と接点があったとの指摘もある。乙訓地域における首長墓の成立とは、「畿内の最新技術」と「瀬戸内の葬送文化」を主体的に選択・融合させ、初期ヤマト王権の形成期において流通の仲介者・政治的パートナーとしての地位を想定する見解もある。
大型前方後方墳の採用
ヤマト王権の「前方後円墳」とは異なる形態により、独自の政治的立場や系譜を政治的アイデンティティとの見方がされている。東海や北陸、畿内の一部で好まれた「前方後方墳」の選択は、初期王権内における独自のネットワークの存在を示唆するとの指摘もある。
家形に近い竪穴式石槨
合掌式のように板石を傾けて傾斜を作る高度な埋葬構造は、初期の畿内中枢の有力古墳と合致している。地域を超える石材調達は地域間連携を示唆する。
吉備系特殊器台(特殊器台形埴輪)の採用
後の円筒埴輪のルーツとなる吉備(岡山県)由来の最高級の葬送儀礼を受け入れた証拠とみる説もある。
讃岐系土器の搬入
讃岐(香川県)からもたらされた土器の存在は、単なる交易を超える人的・政治的往来の可能性を裏付けるとの見解もある。
畿内初期大型古墳との共通性
墳丘の設計プランや築造技術は、大和の箸墓古墳や西殿塚古墳と酷似する指摘がなされている(日本経済新聞(2012))。中央の技術者集団を直接招聘できる、高い政治的地位をヤマト王権内で確立していた可能性を指摘する見解もある。
古墳の規模
- 全長は約92m、後方部長50m、同北辺幅50m、同南辺幅 48m、同高さ約7m。
- 前方部長 約42m、同高さ約4m、くびれ部 幅23m、前端幅約46m
指定
- 2016年3月1日 国指定史跡「乙訓古墳群」史跡の統合・追加指定・名称変更
アクセス
- 名称:元稲荷古墳
- 所在地:京都府向日市向日町北山65−5
- 交通: 阪急京都線「西向日」駅下車、徒歩10分
参考文献
- 奥田尚(1999)「心合寺山古墳の葺石の石種とその採取地」『史跡心合寺山古墳 第6次発掘調査概報』
- 京都府教育庁指導部(2015)『乙訓古墳群調査報告書』京都府教育委員会
- 公財向日市埋蔵文化財センター(2018)『元稲荷古墳』パンフレット
- 元稲荷古墳第8次調査 現地説明会資料
- 日本経済新聞(2012)「元稲荷古墳、大王墓の相似形と判明」、2012年2月15日記事
- 向日市教育委員会(2014)『向日市埋蔵文化財調査報告書 第101集』向日市教育委員会
会下山遺跡 ― 2026年08月06日 00:40
会下山遺跡(えげのやまいせき)は兵庫県芦屋市にある弥生時代中期から後期の高地性集落遺跡である。日本を代表する高地性集落の一つであり、高地性集落の性格や弥生時代の社会・交流を考える上で重要な遺跡として知られる。
概要
六甲山系南部の標高201mの会下山の尾根部に位置する。1954年(昭和29)、弥生土器の発見を契機に遺跡の存在が知られた。土器は広範囲な地域集団との交流を示している。約2000年前の防御的性格を備えた高地性集落であり、1960年(昭和35年)には、兵庫県の史跡第1号に指定された。高地性集落の成立や弥生時代社会の実態を知るうえで学術的価値が高く評価され、2011年に国史跡となった。弥生時代の争乱や交易の様子を伝える貴重な遺跡として評価されている。 麓に「三条文化財事務所」が併設されており、出土品の見学ができる。 会下山遺跡は発掘調査によって山頂から山麓まで広がる大規模集落であることが明らかとなった。全国的に知られた代表的な高地性集落である。急峻な尾根地形に立地し、全山が国有地となっている。防御施設を備えた高地性集落であるだけでなく、広域交流を示す土器や中国系武器の出土によって、弥生時代の社会や交易、地域間交流を考える上で重要な遺跡となっている。
調査
発見経緯
1954年(昭和29年)、会下山遺跡の近くの芦屋市立山手中学校で、裏山(会下山)に植物実習園をつくるための道づくりが行われた。この時、作業に参加していた生徒たちが偶然、弥生土器の破片を発見した。この発見を受けて発掘調査が行われた。
発掘調査史
第1から10次調査調査
1956年(昭和31年)から1961年(昭和36 年)に芦屋市教育委員会などが第1次から第5次に渡る大規模な発掘調査を実施した。昭和48年(1973年)7月1日から7月6日、10月1日に会下山の西斜面について、第6次調査が行われ、多数の弥生土器が出土した。第7次調査は2002年(平成14年)に兵庫県教育委員会によって実施され、遺跡の範囲や内容が確認され、のちの国指定への重要なステップとなった。第8次調査は2008年(平成20年)3月3日から21日まで遺跡の正確な範囲と地下の埋蔵状況を把握するために行われた。 第9次調査は2009年(平成21年)2月9日から3月4日まで遺跡の正確な広がりや内容を確認するために行われた。第10次発掘調査は範囲確認調査(第8から10次)の最終年として2009年(平成21年)8月31日から12月16日に行われた。ここで特殊な構造を持つ「焼土坑」が発見された。
竪穴建物
祭祀関係遺物をともなう竪穴建物1棟、大型の竪穴建物1棟を含む合計9棟の竪穴住居跡が見つかった。竪穴建物は屋根を支える柱が4本から5本ある。最も大きな竪穴住居は直径が8mから10 mあり、他の竪穴住居より少し高い場所につくられていた。この建物には集落のリーダーが住んでいたか、または集落の人々たちが共同で使う施設と考えられている。また祭祀に用いられたと考えられる施設、火たき場跡、墓跡、柵跡、堀跡、ゴミ捨て場跡などがある。焼土遺構は穴の中で高温の火を使った跡が2ヶ所で見つかっている。野外の調理場やノロシの施設、土器を焼き上げるための施設などの説がある。
環壕
集落の最も北側で、二重の環壕跡がみつかっている。幅は約3~5.5 m、深さは約1.2 mある。敵や動物の侵入を防いだり、集落の境界を区切るためのものであったと考えられる。 外側の環壕が幅約5.5 m、深さ1m以上、内側の環壕が幅約3〜4m、深さは約1.2 mである。
出土品
- ①鉄製品 鉄鏃、鋳造鉄斧などの鉄製品が出土した。
- ②石器 石器は矢尻(石鏃)をはじめ、錐・石剣・ 石斧・叩石・ 石鎚・ 磨石・ 石錘、砥石・投石弾・軽石などがある。
- ③特殊遺構 穴の中で高温の火を使った跡が2ヶ所で見つかった。野外の調理場やノロシの施設、土器を焼き上げるための施設など、さまざまな説がある。焼土坑、土坑墓、柵列なども確認されている。
- ④漢式三翼鏃 日本列島では珍しい漢式三翼鏃も出土した。出土した青銅製漢式三翼鏃(芦屋市指定文化財)は中国で作られたものである。漢式三翼鏃は中国系武器の流入を示す資料として注目されている。
土器
出土土器全体の器種構成は、壺・甕・鉢・高杯・器台などで、畿内でよく出土するものとされている。河内や讃岐など他地域の土器も含まれ、広域交流が行われていたことを示している。
森岡説
森岡秀人は会下山遺跡を、一時的な小集団の高地性集落ではなく、長期間にわたり営まれた大規模な高地性集落として再評価している(芦屋市教育委員会2010)。 すなわち森岡秀人は「制約を受ける狭い尾根上に数棟営まれた小集団の居住の場ではなく、規模の大きい集団が日常生活を長期間にわたって営んだ高地性集落」(芦屋市教育委員会(2010))と再定義している。
遺構
- 竪穴住居 9棟 平面円形
- 祭祀場 2か所
- 墓跡 4基
- 焼土坑 - 長径4メートル
- ピット
- 段状遺構
- 溝状遺構 2条
- 柵跡
- 段
- 溝
遺物
- 土器(壺+甕+鉢+高杯+無頸壺)
- 有茎式銅鏃 1
- 漢式三翼銅鏃1
- 石鏃
- 甕
- 高坏
- 鉢
- 無頸壺
- ガラス小玉
- 鉄器(鉄片+釘)
- 石鏃(サヌカイト製)
- 剥片(サヌカイト製)
- 弥生土器
- サヌカイト製石鏃
- サヌカイト剥片
- 掻器
- 石錐
指定
- 1960年 - 兵庫県史跡指定
- 2011年(平成23年)2月7日 - 国の史跡指定
アクセス等
- 名称:会下山遺跡
- 所在地:〒659-0087 兵庫県芦屋市三条町258番地
- 交通:阪急電鉄神戸本線芦屋川駅から徒歩約15分
参考文献
- 芦屋市教育委員会(2017)会下山遺跡パンフレット
- 芦屋市教育委員会(2010)『芦屋市文化財調査報告85:兵庫県芦屋市 会下山遺跡確認調査報告書』芦屋市教育委員会 社会教育部生涯学習課
陶邑遺跡群 ― 2026年08月07日 00:05
陶邑遺跡群(すえむらいせきぐん)は大阪府堺市・和泉市・大阪狭山市にまたがる日本で最大規模の須恵器生産遺跡である。
概要
古墳時代から平安時代までの約500年間に渡り須恵器を生産した1000基以上の窯跡が分布すると推定される。東西15キロメートル、南北9キロメートルに渡り、泉北丘陵で大規模に生産された。朝鮮半島から伝えられた陶質土器の製作・窯焼成技術を基盤として生産が始まったと考えられている。全体の詳細な分布調査はされれていない。富田林市役所(1985)によれば、全体の分布密度や500年という長期の存続期間を考慮し、「およそ3000基あるいはそれ以上」の窯が存在したと推定されている。現在までに発掘・分布調査等で具体的に確認・把握されている数はおよそ1000基程度であるが、大部分は破壊・埋没しているため、未発見のものを含めると推計値のような規模になるとみられている。広大な分布面積と稼働期間(約500年間)における窯のライフサイクルから推計された予測値が3000基となる。
陶邑編年
陶邑遺跡では長期間にわたり須恵器を生産したので、須恵器の形や機能、文様などの形式変化により、出土資料の年代を測る指標となる。陶邑編年と呼ばれ、森浩一、田辺昭三、中村浩らにより編年が示されている。須恵器は古墳や集落、官衙など様々な遺跡で広く出土するため、その年代決定に役立つ。編年に使われる理由は以下の通りである。
約500年間の連続した生産と発達
古墳時代から平安時代にかけて長期間(5世紀から9世紀)に渡り、1000基以上の窯が連続して操業していたわけではなく、長期間にわたって生産が継続したため、須恵器の型式変化(土器の形の変化)を追跡できる。
層位学的研究が可能
陶邑編年の成立は「不良品の層(物原)の上下関係」だけではなく、窯跡の層位、共伴関係、型式組列、古墳などの年代が分かる遺跡との比較など、複数の資料を組み合わせ、窯跡やその周辺の物原などからまとまって出土する須恵器を比較している。すなわち層位関係や型式の変化を総合的に検討し、陶邑編年を構築した。
全国への流通と基準化
陶邑産の須恵器は広い地域に流通し、各地の古墳・集落などから出土するため、地域遺跡の年代を検討する際の基準として利用される。他の地域の遺跡(古墳や集落)で陶邑の須恵器が出土した際には、年代を測る「物差し(全国的な基準)」として機能した。
圧倒的な出土量
泉北ニュータウンなどの開発に伴う大規模な発掘調査により、型式の変遷を裏付ける大量の須恵器や窯道具が体系的に収集され、型式の変遷を検討することが可能となり、精緻な編年が可能となった。
須恵器の型式変化
代表的な型式変化は「TK73 → TK216 → TK208 → TK23 → TK47 → MT15 → TK10 → TK43 → TK209」となる。
4世紀末~5世紀初頭:導入・成立期
導入期であり朝鮮半島(特に加耶や百済)の「陶質土器」の形を色濃く残している。器壁が非常に薄く、精巧である。主な型式はTG232号窯・TK73号窯などに代表される初期の須恵器である。「高杯」、儀礼用の「器台」、丸底の「壺」などが作られた。陶邑の最古段階としてTG232・TG231が設定されており、陶邑での須恵器生産開始は4世紀末~5世紀初頭まで遡ると考えられている。
5世紀:生産の拡大と器種の変化
ヤマト王権や各地域の豪族の好みに合わせ、日本列島での使用実態に応じて器種や器形が変化し、坏・蓋などの食器類が増加する。器の壁はやや厚くなり、実用的な器種となる。「蓋」や「坏」などが作られた。
6世紀:型式の細かな変化と生産の展開
古墳の副葬品や祭祀に用いられる器種が発達するとともに、食器・貯蔵器などの器種も多様化する。主な型式はTK10型式、MT85型式、TK43型式 などである。
7~8世紀:古代国家形成期の窯業
飛鳥・奈良時代になると、須恵器の器種構成や形態が大きく変化し、坏・蓋などの食器類が増加する。器種や器形、口縁部、蓋などの細かな形態にも時期的な変化がみられる。
9世紀:生産規模の縮小期
平安時代には陶邑の生産規模は縮小し、須恵器の器種構成も変化する。大型の甕や鉢などの生産がみられる一方、食器類では他地域の窯業製品や木器などとの用途分担が進んだ。
調査
遺構
- 高蔵寺第85(TK85)号窯
- 高蔵寺第87(TK87)号窯
- 高蔵寺第305-Ⅰ(TK305-Ⅰ)号窯
- 高蔵寺第94(TK94)号窯
- 高蔵寺第303(TK303)号窯
- 高蔵寺第306(TK306)号窯
- 高蔵寺第301-Ⅰ(TK301-Ⅰ)号窯
- 高蔵寺第301-Ⅱ(TK302-Ⅱ)号窯
- 高蔵寺第103(TK103)号窯
- 高蔵寺第67-Ⅰ(TK67-Ⅰ)号窯
- 高蔵寺第67-Ⅱ(TK67-Ⅱ)号窯
- 高蔵寺第52(TK52)号窯
- 高蔵寺第109-Ⅲ(TK109-Ⅲ)号窯
- 高蔵寺第37(TK37)号窯
- 高蔵寺第236(TK236)号窯
- 高蔵寺第4(TK4)号窯
- 高蔵寺第4(TK4)号窯
- 高蔵寺第309(TK309)号窯
- 高蔵寺第307(TK307)号窯
- 高蔵寺第235-Ⅰ(TK235-Ⅰ)号窯
- 高蔵寺第235-Ⅱ(TK235-Ⅱ)号窯
- 高蔵寺第115(TK115)号窯
- 高蔵寺第42(TK42)号窯
- 高蔵寺第66(TK66)号窯
- 高蔵寺第218(TK218)号窯
- 高蔵寺第2(TK2)号窯
- 高蔵寺第43-Ⅲ(TK43-Ⅲ)号窯
- 高蔵寺第15-Ⅱ(TK15-Ⅱ)号窯
遺物
- 須恵器(蓋杯・高杯・把手付コップ・鉢・はそう・装飾付器台・甕・壷)
- 土師器(甕・鍋)
- 杯蓋(TK73号窯)
- 四把手付長胴壺(KM226号窯)
指定
築造年代
展示
- 堺市文化財課分室(堺市文化財調査事務所) 展示室
アクセス
- 名称:陶邑遺跡群
- 所在地:大阪府堺市南区
- 交 通:
参考文献
- 大阪府立近つ飛鳥博物館(2006)『年代のものさし-陶邑の須恵器-』
- 富田林市役所(1985)『富田林市史 第一巻』考古編・古代編
- 田辺昭三(1981)『須恵器大成』KADOKAWA
- 田辺昭三(1967)「陶邑古窯址群(1)」考古学研究14 (1),pp.53-56
- 中村浩(2001)『和泉陶邑窯 出土須恵器の型式編年』芙蓉書房出版
- 中村浩(2023)『改訂版 泉北丘陵に広がる須恵器窯 陶邑遺跡群』新泉社
- 公益社団法人日本陶磁協会(2021)『陶説』No.812 陶邑窯
- 樋口吉文(1993)『生産地の様相と編年 陶邑』『季刊考古学42』雄山閣
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