皇親 ― 2026年07月20日 21:08
皇親 (こうしん)は、古代日本において大王(天皇)の皇族のうち、法令で定められた範囲の親族を指す呼称である。現代の皇族とは制度や範囲が異なる。
概要
古代日本において皇親の範囲を定めることにより、皇位継承資格や賜姓降下の対象、律令国家における皇族の身分秩序を明確にした。すなわち律令制において皇親は皇族に相当する身分を指している。
現代の皇族は皇室典範によって定められ、配偶者も皇族に含まれる。一方、律令制の皇親は天皇からの世数によって範囲が定められ、配偶者は皇親には含まれなかった。
古代の皇親と現在の皇族では範囲が異なる。
天皇号成立後の一般的制度では、天皇の子を皇子・皇女、孫以下を王・女王と称したようである。大宝令では皇孫から五世までを王・女王とし、このうち四世王までを皇親とした。
養老令では四世王(天皇の玄孫)までを皇親とし、天皇の兄弟・皇子を親王とし、それ以外を諸王と称する。五世王も王号を称したが、皇親には含まれなかった。
皇親の範囲の比較
| No | 皇親 | 古代 | 現代 |
| 1 | 親王 | ○ | ○ |
| 2 | 内親王(未婚) | ○ | ○ |
| 3 | 王(4世以内) | ○ | ○ |
| 4 | 女王(未婚) | ○ | ○ |
| 5 | 太皇太后 | ○ | ○ |
| 6 | 皇太后 | × | ○ |
| 7 | 皇后 | × | ○ |
| 8 | 親王妃 | × | ○ |
| 9 | 王妃 | × | ○ |
| 10 | 内親王(既婚) | ○ | × |
| 11 | 女王(既婚) | ○ | × |
| 12 | 五世王(律令制) | × | ○ |
その後の改正
慶雲3年(706年)の格では五世王も皇親に含められたが、延暦17年(798年)には養老令の規定に戻され、再び五世王は皇親から除外された。
皇親制度の変遷
大宝元年(701年)の大宝令では、天皇の兄弟姉妹と皇子・皇女を親王・内親王、皇孫(2世)から五世までを王・女王とし、このうち四世王までを皇親と定めた。
養老2年(718年)に制定された養老令(757年施行)でも、基本的な制度は踏襲され、四世王(天皇の玄孫)までを皇親とし、五世王は王号を称するものの皇親には含まれなかった。
その後、慶雲3年(706年)の格では、一時的に五世王も皇親に加えられた。しかし、延暦17年(798年)の格によって再び養老令の規定に戻され、五世王は皇親から除外された。このように、律令国家では皇親の範囲は基本的に四世王までとされたが、一時期のみ五世王まで拡大されたことがある。
| 年 | 法令・格 | 皇親の範囲 |
| 701年(大宝元年) | 大宝令 | 四世王までを皇親 |
| 706年(慶雲3年) | 格 | 五世王まで皇親に拡大 |
| 718年制定(757年施行) | 養老令 | 四世王までを皇親 |
| 798年(延暦17年) | 格 | 養老令どおり四世王までに復帰 |
1.安田政彦(1998)『平安時代皇親の研究』吉川弘文館 2.岸俊男(1966)『日本古代政治史研究』塙書房 3.栗原弘(2002)「皇親女子と臣下の婚姻史」名古屋文理大学紀要 第2号 4.𠮷口住恭(2001)「皇親と賜姓皇親」『史窓』058,pp.181-196
甕 ― 2026年07月17日 00:24
甕(かめ)は口が広く胴が深い容器で、考古学では縄文時代以降の土器に広くみられる基本的な器種の一つである。 甕は縄文時代の深鉢形土器を起源とし、弥生時代には煮炊き用の甕形土器として発達した。また、貯蔵・埋葬・祭祀にも利用され、日本列島の先史・古代社会を代表する土器の一つとなった。
概要
考古学では、形の大小にかかわらず、深くて口の大きな深鉢形土器を甕という。 縄文・弥生時代には、土器の甕(かめ)で実際に火にかけて煮炊きをしていた。 現代では甕は貯蔵用容器を指すことが多いが、縄文・弥生時代には煮炊きにも用いられた。かつて縄文土器では丈の高い広口の器を「かめ」と呼ぶこともあったが、現在の考古学では一般に深鉢と呼ぶ。北部九州では特大の甕が埋葬用容器として用いられた。。 甕は貯蔵・埋葬・祭祀など用途は多岐にわたり、日本列島の先史・古代社会における代表的な土器の一つである。
甕と壺の違い
甕は口が広く底が深いので手を入れて中身を取り出しやすい、壺は口が狭く頸部が発達することが多い。広口壺は、壺の一種で口が広いものを指す。弥生時代などの遺跡から、中にどんぐりなどが入った広口壺がみつかっている。 壺は口が狭いため外気に触れにくい利点を持つ一方、出し入れをする際は少しずつしかできない点がある。
甕形土器
- 甕形土器は弥生時代、古墳時代に代表的な器種である土器の形式である。
- 弥生土器の基本的な器種は壺形土器、甕形土器、鉢形土器、高坏形土器の四種類である。
埋甕(うめがめ、まいよう)
- 甕を地中に埋設する遺構である。住居の内部(出入口部)に営まれる住居内埋甕と住居外に営まれる住居外埋甕とがある。縄文時代前期中葉の、乳幼児の骨の入った深鉢の出土例が最も古いものである。縄文時代中期後半には乳幼児の骨が正立または伏せて埋設された底部穿孔土器中に葬られた。のちに住居入口部に胎盤、へその緒を入れた土器を埋める風習も現れた。子供の健康を願う、まじないの側面もあったとされる。一度白骨化した遺骨を土器に納めて再葬する洗骨葬は縄文時代後期初頭となる。
日本書紀 巻第一 神代上
- 「汝、可以衆菓釀酒八甕、吾當爲汝殺蛇。」
- 「素戔嗚尊勅蛇曰「汝、是可畏之神、敢不饗乎。」乃以八甕酒、毎口沃入。」
- (大意)素戔嗚尊が大蛇に向かい『お前は恐ろしい神だ。どうしてごちそうを食べないことがあろうか(いや、食べるはずだ)』と呼びかけ、甕に入れた酒をそれぞれの8つの大蛇の口に流し込んだ。 『日本書紀』にも酒を入れる容器として「甕」が登場し、古くから酒や水などを蓄える大型容器として認識されていたことが分かる。
出土例
甕は荻杼古墓などから、埋甕は古婦毛遺跡や黒谷貝塚などから出土しており、縄文時代の乳幼児埋葬や祭祀との関係が知られている。
- 甕 - 荻杼古墓。島根県出雲出土品、
- 埋甕 - 古婦毛遺跡、縄文時代の新生児埋葬施設
- 埋甕 - 黒谷貝塚
参考文献
- 岩永祐貴(2019)『岐阜県における埋甕の様相』奈良大学大学院研究年報
- 木下忠(1970)『戸口に胎盤を埋める呪術』日本民族学会第9回研究大会報告要旨,民族學研究
近江令 ― 2026年07月16日 00:49
近江令(おうみりょう)は天智天皇の時代に制定されたと伝えられる法令である。日本最初の令とする説があるが、その実在については議論がある。
概要
近江令は、飛鳥時代後期に天智天皇のもとで制定されたと伝えられる令であり、日本最初の令とする説がある。一方で、現存史料がないことから実在を疑う説もあり、日本古代法制史上の重要な論点となっている。 日本書紀には近江令の編纂・完成記事や「近江令」という名称はみえない。原本史料がなく、存在を裏付ける史料にもとぼしいことから、存在説と非存在説がある。 『藤氏家伝』天智7年の段に天智天皇は藤原鎌足に「礼儀」の編纂と「律令」の修訂を命じたとされる。大臣たちは礼・法制度の整備を検討し、条文を作成したと記される(沖森卓也、佐藤信訳(2019)『藤氏家伝』)。 弘仁格式に「天智天皇元年に至り、令22巻を制す。世人のいわゆる近江令である」と記される。(『類聚三代格』)。 日本書紀天智十年(671年)正月条に東宮大海人皇子(ある本には大友皇子と書かれる)は宣命し、冠位と法度を施行し、全国に大赦を行ったと記される。
名称
近江令の名称は、作られた場所が近江大津宮(現滋賀県大津市)」であったからである。天智天皇は、政治の中心地を飛鳥(奈良県)から近江に移した。目的は外国からの攻撃に備えるため(白村江の戦いで負けた直後)であったこと、伝統勢力の多い飛鳥をはなれ天皇中心の国づくり(律令国家)を目指したためと言われる。
反論
青木説
青木和夫(1992b)は『藤氏家伝』上や『弘仁格式』序(『類聚三代格』所収)は後代史料であり史料的価値を慎重に評価する説を展開した。 青木和夫説は単独法令説を展開し、近江令は単独の法令の集成を意味し、体系的法典としての令は編纂されなかったとする(青木和夫(1992b))。 『弘仁格式』序の「近江朝廷の令22巻」は飛鳥浄御原令を指していると指摘する学説もある。
史料
- 日本書紀 天智十年(671年)正月条
- (原文) 十年春正月己亥朔庚子・・・東宮太皇弟奉宣或本云大友皇子宣命施行冠位法度之事、大赦天下。法度冠位之名、具載於新律令也。
- (大意) 10年1月1日、冠位制度および法令を施行した。大赦を与え、皇太弟(または大友皇子)が天皇の命を奉じて宣した。法令の名称は、新しい律令に詳細に記されている。
参考文献
- 青木和夫(1992a)『日本古代史』放送大学教育振興会
- 青木和夫(1992b)『日本律令国家論攷』岩波書店
- 井上光貞、佐伯有清、川副武胤(2020)『日本書紀』中央公論新社
- 大津透(2020)『律令国家と隋唐文明』岩波書店
- 大津透『律令制とは何か』山川出版社
- 沖森卓也、佐藤信訳(2019)『藤氏家伝』筑摩書房
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
木製仮面 ― 2026年07月15日 00:05
木製仮面(もくせいかめん)は日本の弥生時代から古墳時代にかけて製作・使用されたと考えられる木製の仮面である。全体の形状は顔の形をしており、両目をと口の部分を切り抜いている。
概要
現在までに、弥生時代後期から古墳時代前期にかけての木製仮面は4例が確認されている。 纒向遺跡(奈良県桜井市)、大福遺跡(奈良県桜井市、古墳時代前期初頭)、西岩田遺跡(大阪府東大阪市、弥生時代終末から古墳時代初頭)、宅原遺跡(兵庫県神戸市、古墳時代末期)である。
正確な用途は分からないものの、弥生時代の土器に仮面を着けた人物を描いているものがあり、農耕儀礼を表したものではないかという説がある。 東日本からは見つかっていないが、無かったとは言いきれない。 木製仮面ではなく、土製仮面は縄文時代に出土している。品川欣也(2013)によれば縄文時代後期の土製仮面の出土は北・東日本に多く、太平洋側に偏る傾向があると指摘した。
用途
日本では、木製仮面は弥生時代から古墳時代の遺跡などから出土しており、豊作を祈る農耕儀礼や祀りで使われたと見られる。弥生時代の日本でこれまで出土した木面の多くは、使い古した木製の「鍬」を削り直して作られている。米作りの道具に神聖な力が宿ると考えられていた可能性があり、祭祀的意味を持たせ仮面に転用したという説がある。作り方は目や口の形をくり抜いたり、鼻の形を立体的に彫り出したりする。品川欣也(2013)は縄文時代の土製仮面は葬送用だけではなく、土偶などの他の祭祀器物と同様に集落や居住域で用いられたと判断すべき事例が多いと指摘した。縄文時代の仮面の使用法がそのまま弥生時代に当てはまるわけではないが、参考になる情報であろう。
出土例
- 木製仮面 - 大福遺跡
- 国内最古ともいわれる木製仮面の一部が出土した。2世紀後半ごろの仮面状の木製品、樹種はコウヤマキで、縦23・4センチ、最大幅7センチ、厚さ5ミリ。全体の4割程度が残存する。2013年5月30日、発表。仮面はほぼ中央で割れている。目を表す穴と、ひもを通したとみられる穴がある。まゆ毛の線刻表現はない。
- 木製仮面 -纒向遺跡(奈良県桜井市)
- 縦26センチ、幅21・6センチ、厚さ6ミリ。まゆ毛の線刻表現がある。農具のクワの刃を転用した。古墳時代前期(3世紀前半)、纒向遺跡太田池土坑出土品である。奈良県の有形文化財。鼻は盛り上がり、鼻の穴があいている。三日月形の眉も線刻されており、周りに赤い顔料が残されていた。仮面はアカガシ製、深さ1.4メートルの井戸跡から出土。2007年 9月26日発表。裏面はほぼ平らで顔に沿う湾曲はなく、かぶるためにひもを通す穴もなかった。
- 木製仮面 -西岩田遺跡
- 木製仮面の素材はスギで、長さ約30センチ、幅約18センチ、厚さ最大2センチ。三つの穴が両目と口を、中心付近の隆起が鼻を表す。2023年4月23日発表。寺沢薫所長は、着用するには重く、飾るなどして祭祀に用いた可能性が高いとみる。 炭化した鍬や水をためる容器などの木製品とともに見つかっているため、水と火を使った農耕儀礼で使われたとみられるとされる。右側の一部が欠けているが、ほぼ全体が分かる形で出土した。右耳付近に小さな孔があけられており、右側は欠損しており分からないが、紐などを通していた可能性がある。しかし約300グラムと比較的重く、厚みもあること、裏面は扁平であり、顔に装着するには向いていない。手で持って使用したか、柱などに紐で縛ったかなどが考えられる。 西岩田遺跡、纏向遺跡のものと、調査では目の加工方法に共通点が指摘されている。
世界の仮面文化
木製仮面は、古くから世界各地で神や精霊、祖先の霊と交信する祭祀や呪術、儀礼に用いられてきた。 参考事例としてインドネシアの「トペン」(仮面舞踊劇)やメキシコのフィエスタ(祭り)などでは、精霊や動物に扮して踊るために使用されている。一部地域では、仮面そのものに霊力が宿ると信じられていた例もある。 南西カメルーンの南西部のクロスリヴァー地方のエジャガム族においては、オバシンジョムという、仮面を用いた儀礼が行われる。佐々木重洋(2000)は、こうした事例を日本の弥生時代の木製仮面の用途を考察する際の比較資料として位置付けている。
指定
- 令和4年3月25日 奈良県有形文化財、奈良県纒向遺跡太田地区出土
参考文献
- 「3世紀初めの木製仮面、大阪の遺跡から出土」朝日新聞, 2023年4月24日
- 「国内最古の木製仮面?-2世紀後半纏向出現前」奈良新聞, 2013年5月31日
- 「木製仮面が出土した纒向遺跡」桜井市立埋蔵文化財センター
- 「3世紀前半の木製仮面、大阪の遺跡で出土」産経新聞, 2023年5月11日
- 池田進(2003)「縄文時代の土製仮面に見られる歪みの造形」関西大学社会学部紀要34
- 佐々木重洋(2000)『仮面パフォーマンスの人類学アフリカ、豹の森の仮面文化と近代』
- 品川欣也(2013)「縄文時代の仮面祭祀」明治大学文学研究科 学術研究報告会要旨資料集
- 比留間絢香(2018)「土製仮面の基礎的研究」『溯航』第36号,pp.47-56
帯金具 ― 2026年06月18日 22:12
帯金具(おびかなぐ)は古墳時代から律令期にかけて東アジアで用いられた腰帯の装飾・留め具の総称であり、中国・朝鮮半島・日本から多くの出土例が知られる。革や布製の腰帯に取り付けられ、金属製を中心とする。
概要
中国では戦国時代に帯留金具としての帯鉤が普及した。魏晋南北朝時代には北方騎馬民族の胡服の流入とともに帯を金具で飾る風習が定着した。 古墳時代から律令期にかけての日本では、布や皮革製の帯に各種の帯金具が取り付けられた。飾り金具には銙板、銙帯金具がある。端には銙具、尾錠をつけ、もう一方には帯先金具、鉈尾をつける。出土時は帯の本体は腐朽しており、帯金具だけが残る。 朝鮮半島の新羅では唐草文の帯金具が主流だが、中国の帯金具の影響を受けた竜文透彫り帯金具も新羅で製作された。銙板には方形、長方形、宝珠形がある、垂飾や鈴が付くものが多い。
素材
金具は金銅製が多く、中には銀製もある。古墳時代の日本列島では、4世紀中葉と末に加耶地域との交流を通じて中国の晋式帯金具が、5世紀中葉から後半には新羅の竜文帯金具がもたらされている。ただ、日本で帯金具が本格的に普及したのは、律令期に金属製や石製の銙を取り付けた銙帯(かたい)が役人の服制として採用されて以降である。
装飾
透彫り文様は、龍文、虎文、鳳凰文、唐草文などがある。精巧なものが多い。帯の幅は3cm前後で、帯金具は約10個が間隔を空けて装着されていたと考えられる。
出土例
- 龍文透彫帯金具 - 稲荷山古墳第1主体(礫槨)出土、埼玉県行田市、埼玉県立さきたま史跡の博物館
- 青銅製の帯金具 - 穴太遺跡、滋賀県大津市下阪本、9世紀後半~10世紀
参考文献
陰刻 ― 2026年06月15日 00:18
陰刻(いんこく)は文字や文様を表面より低く彫り込む彫刻技法である。印章や金属器、墓誌などに広く用いられ、対義語は文字や文様を浮き上がらせる陽刻である。
概要
古代の印章では陰刻が一般的な彫り方として広く用いられた。 国宝の金印「漢委奴国王」の文字は陰刻で刻まれている。 陰刻では文字部分が凹んでおり、印肉は凹部に入る。押印すると文字が白く抜ける(白文) 陽刻では文字が凸になっており、凸部に印肉が付く。押印すると文字がインクなどの色で表現される。 陰刻に比べると、陽刻は彫る面積が大きくなる。 印を押すと文字部分が白く抜けて見えるため、この形式の印章を「白文印」と呼ぶ。
陰刻のメリット
陰刻のメリットは陽刻に比べ、より繊細で細かい形状を表現できる。印影では文字や文様が白抜きとなり、輪郭が明瞭になる。凸部がないため、一般に陽刻より欠損や摩耗の影響を受けにくいとされる。
陰刻の事例
国宝の船王後墓誌は日本最古の金属製(銅板)墓誌であり、長さ約29.4cm、幅約6.6cmの短冊形銅板の両面に、計162字が楷書体で陰刻されている。
参考文献
- 加藤諄、柴田光彦編(1988)『日本金石文学』青裳堂書店
- 東野治之(1978)「日本古代の墓誌の調査」奈良文化財研究所年報、奈良国立文化財研究所
円形周溝墓 ― 2026年06月08日 19:04
円形周溝墓(えんけいしゅうこうぼ)は弥生時代から古墳時代にかけて造られた、円形の墓域の周囲に周溝を巡らせた墳墓である。
概要
円形周溝墓は弥生時代に出現した墓制であり、その成立については朝鮮半島の墓制との関連を指摘する説もある。弥生時代を通じて造営され、一部地域では後期に大型化した。古墳時代まで作られた。古墳のような大規模な墳丘を持たない例が多い。周溝や墳丘の規模はさまざまで、直径数mの小型例から20mを超える大型例まで知られている。円形の径は5mから6m前後である。周溝内から土器が出土する。副葬品は古墳に比べると質と量で劣る。
著名な事例
2016年春、奈良県橿原市の瀬田遺跡で、弥生時代の終わり頃に造られた「円形周溝墓」が見つかった。円形の墳丘の南側に台形の陸橋がとりついており、古墳時代の「前方後円墳」によく似る。全長はおよそ26メートル、墳丘の直径は約19メートルである。 青森県青森市の新町野遺跡では遺構の外郭を円形状に掘り、溝から出た土を溝の内側に古墳状に盛り上げる。徳島県の昼間遺跡では円形周溝墓の中央に遺体を安置するために結晶片岩と砂岩を用いた石囲いの主体部が確認されている。
起源
円形周溝墓の埋葬主体は1基の場合が多いが、複数の埋葬施設を持つ例もある。日本では岡山県、香川県、兵庫県、大阪府、奈良県などで確認されている。 近畿地方では円形周溝墓は方形周溝墓より少ない。一方、弥生時代後期には円形周溝墓は大型化する。
事例
- 円形周溝墓 - 昼間遺跡、徳島県。
- 円形周溝墓2基 – 平原遺跡、福岡県糸島市
- 大型円形周溝墓 - 瀬田遺跡、奈良県橿原市、国内最大級。
- 円形周溝墓- 新町野遺跡、青森県青森市、
参考文献
- 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
- 都出比呂志(2005)『前方後円墳と社会』塙書房
- 岩永省三(2010)「弥生時代における首長層の成長と墳正墓の発達」九州大学総合研究博物館研究報告8,pp.17-42
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