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    <title>新古代史の散歩道</title>
    <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/</link>
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    <language>ja</language>
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    <pubDate>Wed, 06 May 2026 00:15:55 +0900</pubDate>
    <item>
      <title>打下古墳</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/05/06/9852820</link>
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      <pubDate>Wed, 06 May 2026 00:15:29 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-05-06T00:15:55+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-05-06T00:15:55+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;打下古墳&lt;/strong&gt;（うちおろしこふん)は、滋賀県高島市に所在する古墳時代の古墳である。
2001年（平成13年）11月7日、滋賀県高島市勝野の日吉神社裏山において、上水道配水施設の新築工事中に箱式石棺内から人骨が発見され、これを契機として緊急の埋蔵文化財発掘調査が実施された。調査の結果、本遺構が古墳であることが確認された。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;明神崎の北麓の日吉神社背後の山腹に築造された古墳である。墳丘は工事による削平のため現状では不明であるが、内部主体として箱式石棺1基が確認されている。
石室はなく箱型石棺が直接埋葬されるタイプであり、丹後地方に多く見受けられる埋葬法である。
石棺は内法長約205cm、最大幅約42cm、深さ約30cmを測る。石材には板石が用いられており、側壁は東側2枚、西側3枚、小口部は両端に各1枚を配して構築されている。蓋石は下段4枚・上段3枚の計7枚で構成され、各石材の隙間には防水のため良質の粘土が充填されている。石棺内部の底面には砂が敷かれ、棺内および蓋石内面には赤色顔料が塗布されていたことが確認されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;副葬品としては、棺内東側に鉄剣（全長約80cm）、西側に鉄刀（全長約60cm）が納められたほか、鹿角製の装身具が出土した。また、棺外の西側蓋石下からは鉄鏃群が検出されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人骨は頭蓋骨の一部を中心に比較的良好な保存状態で出土した。調査後、配水施設の設置位置は変更され、古墳は保存措置が講じられている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;2004年（平成16年）2月26日には、出土した頭蓋骨をもとに、京都大学の片山一道の指導のもと復顔（顔貌復元）が行われた。その結果、被葬者は面長で目が大きく、上顎がやや前方に突出し、鼻幅が広く顔の彫りが比較的浅い特徴を有する男性像として復元された。年齢は25歳から50歳程度、身長は約155cmと推定されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;以上の出土遺物や埋葬施設の内容から、内下古墳は地域の有力者層の墓と考えられ、琵琶湖西岸地域における古墳時代の社会構造を考える上で重要な遺跡である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;箱形石棺
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;鉄剣
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉄刀
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鹿角製の装身具
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称 　：打下古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地 ：滋賀県高島市勝野地先
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交 通  ：湖西線　近江高島駅から徒歩14分（南東に1km）
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;白井忠夫（2002）「打下古墳-古墳時代中期一」『滋賀文化財だより』No281
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>薄葬令</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/05/28/9589912</link>
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      <pubDate>Tue, 05 May 2026 13:43:43 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-05-05T13:52:27+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-05-28T14:44:03+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;薄葬令&lt;/strong&gt;（はくそうれい)は646年（大化2年）3月に発布された葬制に関する法令であり、『日本書紀』大化2年条にその内容が記されている。一般に大化改新の一環として位置づけられ、従来の豪族的葬送慣習を規制し、埋葬の簡素化と国家による統制を目的とした。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;この法令では、被葬者の身分に応じて墳墓の規模や造営に従事できる人数、工期などが細かく定められた。例えば、王（大王）クラスの墓については、内側の埋葬施設の規模や外郭の寸法に制限が設けられ、造営に動員できる人夫は延べ1000人以内、工期は7日以内とされた。上臣・下臣についても、それぞれの身分に応じて造営規模や動員人数が制限され、一定以下の位階の者には墳丘の築造自体が認められなかった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、葬送儀礼についても規制が加えられ、殯（もがり）や殉死、過度な副葬品の埋納などが禁止された。葬具や葬送の形式についても簡素化が求められ、華美な儀礼の抑制が図られた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;薄葬令の背景には、有力豪族が競って巨大古墳を築造し、多数の労働力や資源を消費していた状況がある。このため、墳墓の規模や葬送儀礼を制限することで、豪族の経済力・動員力の過度な集中を抑え、人的・物的資源を国家のもとに再編成する意図があったと考えられている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この法令は、古墳時代以来の葬送文化に大きな転換を促し、後の律令国家における身分秩序と葬制の基礎を形成する契機となったと評価されている。ただし、規制が直ちに全国で完全に実施されたわけではなく、地域や階層によっては従来の葬送慣習が一定程度継続したとみられる。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;1.古墳と豪族権力&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;古墳時代において、巨大古墳の築造は単なる墓ではなく、
&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;首長の権威の象徴
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;労働力動員力の誇示
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;地域支配の可視化
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;という意味を持っていた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;特に前方後円墳の築造には多数の人員と資源が必要であり、これは豪族が独自に持つ「動員力」＝政治的実力を示していました。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;2. 薄葬令の本質：動員力の制限&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;薄葬令は、
&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;墳墓の規模制限
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;動員できる人夫数の制限
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;工期の制限
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;副葬品の制限
を定めている。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;これは単なる倹約令ではなく、
&lt;/p&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;豪族が自由に人と資源を動員することを制限する政策
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;と理解できる。つまり、
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「大きな墓を作れる＝強い豪族」という構図を崩し、権力の源泉を国家側に移すという意味を持ちる。つまり中央集権への過程のひとつとみることが出来る。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;3. 国家形成との関係&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;薄葬令は、いわゆる「大化改新」政策の一つとして、
&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;公地公民制
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;班田収授
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;租庸調制
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;などと並び、「人・土地・資源を国家が把握・統制する流れ」の中に位置づけられる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;特に重要なことは「労働力の再編」すなわち、それまで「豪族が私的に動員していた労働力」を「国家による公共事業・徴税へ振り向ける」という転換が起こる。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;4. 葬制の変化＝権力構造の変化&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;薄葬令によって
&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;巨大前方後円墳 → 終焉
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;小規模墳墓・火葬・寺院墓地 → 移行
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;という変化が進む。これは単なる文化変容ではなく、「見せる権力（古墳）」から「制度としての権力（律令）」への転換を意味する。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;5. 思想的側面&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;薄葬令には思想的背景がある。
&lt;/p&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;儒教的：礼制・節度・身分秩序
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;仏教的：死生観の変化・過度な葬送の否定
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;これにより、「統一的な価値観による国家統治」が進んだ。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;6. 薄葬令にみえる国家形成&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;薄葬令＝国家形成論の核心は以下のとおりである。
&lt;/p&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;古墳は豪族権力の象徴であった
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;薄葬令はその基盤（動員力）を制限した
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;労働力・資源を国家に集中させた
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;葬送の変化は権力構造の転換を示す
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;したがって薄葬令は豪族連合国家から律令国家への移行を示す政策のひとつと評価できる
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;7. まとめ&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;薄葬令は、葬制の簡素化を目的とする法令として理解されることが多いが、その本質は古代国家形成過程における権力再編政策にあった。古墳時代において巨大墳墓の築造は豪族の動員力と権威を象徴していたが、薄葬令は豪族の墳墓規模や労働力動員を制限することにより、豪族の私的権力基盤を抑制した。この結果、人的・物的資源は国家の統制下に再編され、律令国家的支配の基盤が形成されていく。すなわち薄葬令は、古墳という可視的権力から制度的権力への転換を促した政策として、国家形成史上重要な意義を有する。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;安村俊史（2006）「終末期古墳の展開」市大日本史.9巻,pp.7-17
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;奥村郁三（1977）「大化薄葬令について」関西大学考古学研究紀要 3,pp.12-35,
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所功（1973）「書評　大化薄葬令の再検討」法学論叢第八十五卷第五號
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古代史関連用語</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>九流谷古墳</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/05/05/9852660</link>
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      <pubDate>Tue, 05 May 2026 00:29:29 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-05-05T00:31:54+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-05-05T00:31:54+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;九流谷古墳&lt;/strong&gt;（くりゅうだにこふん)は、大阪府南河内郡太子町に所在する古墳時代前期後半（4世紀後半）に築造された前方後方墳であり、磯長古墳群の北端に位置する古墳である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;本古墳は標高約50mの丘陵上に立地し、尾根状の自然地形を利用して築造されている点に特徴がある。墳丘規模は、墳長約65m、後方部一辺約39m・高さ約6m、前方部幅約19m・長さ約26m・高さ約4mを測る。くびれ部の幅は約8mで、前方部は後方部より約2m低く構築されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;墳丘には葺石および埴輪が認められ、古墳時代前期の典型的な外表施設を備える。築造時期については、表面採集された円筒埴輪の形態的特徴（器壁が薄く、突帯が高く発達する点）などから、古墳時代前期後半に位置づけられている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;埋葬施設は未調査のため詳細は不明であるが、墳丘上および周辺からは多様な遺物が確認されている。主な出土遺物には、埴輪類として鶏形埴輪・家形埴輪・円筒埴輪、鉄製品として袋状鉄斧・鉄鎌がある。なお、鶏形埴輪は耕作中に出土したと伝えられている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;現在、墳丘は果樹園（ブドウ畑）として利用されているが、磯長古墳群北端に位置する前方後方墳として、同古墳群の成立過程や地域首長層の動向を考える上で重要な遺跡である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;磯長古墳群における前方後方墳の意義 -九流谷古墳を中心として-&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;1．問題の所在&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;大阪府南河内郡太子町に所在する磯長古墳群は、古墳時代前期から中期にかけて形成された有力首長層の墓域として知られる。この古墳群の中で、九流谷古墳のような前方後方墳の存在は、後続する前方後円墳の展開を考えるうえで重要な位置を占める。本稿では、九流谷古墳を手がかりに、磯長古墳群における前方後方墳の意義について検討する。
&lt;/p&gt;
&lt;h3&gt;2．前方後方墳の位置づけ&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;前方後方墳は、古墳時代前期に比較的多く見られる墳形であり、前方後円墳の成立・普及過程と密接に関係するとされる。墳丘の構成は前方部と後方部からなり、幾何学的で直線的な形態を特徴とする。この形態は、円形を基調とする前方後円墳とは異なり、墳丘設計思想の多様性を示すものといえる。
九流谷古墳は古墳時代前期後半（4世紀後半）に位置づけられ、墳丘には葺石や埴輪が備わるなど、前期古墳としての基本的要素を備えている。この点から、前方後方墳でありながらも、ヤマト王権的な墳墓様式との接点を持つ段階にあると評価できる。
&lt;/p&gt;
&lt;h3&gt;3．磯長古墳群における意味&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;磯長古墳群は、後世には敏達陵・用明陵と比定される大型前方後円墳を含むことで知られるが、その形成初期段階においては、九流谷古墳のような前方後方墳が含まれる点が注目される。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これは以下の二点を示唆する。
&lt;/p&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;第一に、首長墓制の過渡的様相である。
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;すなわち、前方後方墳は在地的な墳墓形態を色濃く残しつつ、前方後円墳へと収斂していく過程に位置づけられる。九流谷古墳の存在は、磯長地域の首長層が当初から一様に前方後円墳を採用していたのではなく、複数の墳形を試行していたことを示す。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;第二に、地域勢力とヤマト王権との関係性である。
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;前方後方墳は、畿内においても一定数確認されるが、やがて前方後円墳が卓越する。この変化は単なる形態変化ではなく、政治的秩序の再編と関係すると考えられる。すなわち、前方後円墳の採用はヤマト王権との結びつきを象徴する可能性が高く、九流谷古墳の段階は、そうした政治的統合以前、あるいはその過渡期を反映するものといえる。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h3&gt;4．立地と構築技術からみた特徴&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;九流谷古墳は丘陵尾根上に築造され、自然地形を巧みに利用している。この点は、後の大規模前方後円墳に見られるような大規模造成とは異なり、比較的在地的・実用的な築造技術段階を示す。
また、出土した円筒埴輪は器壁が薄く突帯が高い特徴を有し、畿内的な埴輪様式との関連が認められる。これは、地域的伝統と広域的文化要素の融合段階を示すものであり、前方後方墳が単なる「古い形式」ではなく、文化的接触の結節点としての性格を持つことを示唆する。
&lt;/p&gt;
&lt;h3&gt;5．結論&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;九流谷古墳に代表される磯長古墳群の前方後方墳は、以下の点において重要な意義を有する。
&lt;/p&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;前方後円墳成立以前の墳墓形態の多様性を示す
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;地域首長層における墓制選択の試行段階を反映する
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;ヤマト王権的秩序への統合過程における過渡的政治状況を示す
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;在地技術と広域文化の接触を示す文化的結節点である
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;したがって、前方後方墳は単なる先行形式ではなく、古墳時代初頭の社会構造や政治統合の動態を読み解く上で不可欠な資料である。磯長古墳群におけるその存在は、後の巨大前方後円墳の成立を準備する基盤として、重要な歴史的意味を持つと評価できる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;鶏形埴輪
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;袋状鉄斧
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉄鎌
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;円筒埴輪
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;家形埴輪
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;竹内街道歴史資料館
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称 　：九流谷古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地 ：大阪府南河内郡太子町太子2342-2
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交 通  ：
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>跡部遺跡</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/05/19/9587517</link>
      <guid>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/05/19/9587517</guid>
      <pubDate>Mon, 04 May 2026 11:15:37 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-05-04T11:20:10+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-05-19T22:57:14+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;跡部遺跡&lt;/strong&gt;（あとべいせき)は、大阪府八尾市に所在する、弥生時代前期から古墳時代前期、さらに古代・中世に至るまで継続して営まれた複合遺跡である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;跡部遺跡は八尾市北部に位置し、北を長瀬川、南を平野川に挟まれた、旧大和川流域の低湿地帯に立地する。周辺は古くから水運や農耕に適した環境であり、弥生時代以降の集落形成に好適な条件を備えていた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;遺跡の中心は東部にあり、遺構の分布密度が高い地域である。一方、西部は比較的遺構が少ない地域とされる。発掘調査により、弥生時代から古墳時代前期、さらに奈良時代・中世に至るまでの連続した生活痕跡が確認されている。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;主な遺構・遺物&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;弥生時代の集落は、複数の環濠（溝）によって囲まれていたことが確認されており、防御的性格や集落構造を示す重要な成果である（1993年〔平成5年〕の調査）。
また、1994年〔平成6年〕の調査では弥生時代中期の大規模な溝、1996年の調査では奈良時代の井戸が検出されている。1989年（平成元年）の出土遺物は銅鐸のほか、、小型壺、直口壺、複合口縁壺、長胴壺、手焙形土器、高杯、鼓形器台、小型器台、小型鉢、大型鉢、甕、台付甕、鉢があり、溝を伴う遺構の南東部に集積された土器は小型壺、鉢、高杯、台付鉢、甕である。弥生時代の終末期の広口壺が見られる。土器のほかにサヌカイト石器未成品と加工痕のある剥片が検出されている。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;銅鐸の出土とその意義&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;跡部遺跡および周辺地域では、弥生時代の青銅器である銅鐸の発見が相次いでいる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1921年（大正10年）には、八尾市恩地の垣内山で流水文銅鐸が発見され、現在は東京国立博物館に所蔵されている。、鐸全高44.5cm、鉦高12cm、鐸身紋様は横帯流水紋であるが、胴の上部と中部に複合直線紋帯があり、流水紋を上下に三分する。これは春日町出土のものと異なり、二区流水紋銅鐸といわれている。A面の下方鋸歯紋帝の下辺に魚が4匹泳いでいる様子を表し、B面には鹿が3頭1列に並んでいる姿を描いている。
さらに1949年（昭和24年）には近隣の都塚山から袈裟襷文銅鐸が出土している。鐸全高
39cm、鉦高10cmで大阪府文化財に指定されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;特に重要なのが、1989年（平成元年）に八尾市春日町一丁目で発見された流水文銅鐸である。1989年（平成元年）10月17日から機械掘りの後の整地を行ったところ、古墳時代の土器片が現れ、10月24日に銅鐸の鰭が直立しているところを発見した。銅鐸は鰭を上下に直立した状態で、鉦を南東方向にむけて埋納されていた。埋納坑はは一辺1.4mの隅九方形で、深さは40～ 50cmであった。一辺1.4mの隅九方形の埋納坑が南東方向に掘られており、南東方向の中央部に粘土床がつくられ、そこに銅鐸が鰭を直立して鈕を南東方向に向けて丁重に埋納されていた。
この銅鐸は、低湿地において土坑内に埋納された状態で発見された全国初の事例として注目される。発掘調査により、銅鐸は約1.4メートル四方の穴の中に丁寧に埋められていたことが確認された。また、銅鐸内部の土壌が周囲と異なることも判明しており、埋納行為の意図性が指摘されている。この銅鐸は八尾市指定文化財に指定されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;銅鐸の形状は扁平紐式で、全高46.65cm、鈕高13.65cm、重量約4.7kgを測る。鐸身には五条の突線による流水文が全面に施され、外縁には鋸歯文帯・連続渦文帯・斜線文帯が巡る。さらに菱環には綾杉文、紐外側には双頭渦文の飾耳が付されるなど、精緻な装飾が特徴である。最終仕上げとして研磨が施されている点も注目される。部分的に補鋳が見られる。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;歴史的評価&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;跡部遺跡は、『日本書紀』にみえる「阿都（あと）」の地名と関連づけられることから、古代豪族である物部氏の本拠地の一角であった可能性が指摘されている。実際に6世紀の遺構・遺物も確認されており、古代国家形成期における地域拠点としての性格を有していたと考えられる。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;総合評価&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;跡部遺跡は、弥生時代の環濠集落から古代・中世に至る長期的な土地利用の変遷を示す重要遺跡である。とりわけ銅鐸の出土状況は、弥生時代の祭祀や埋納儀礼の実態を考える上で極めて貴重であり、河内地域における社会構造や信仰の解明に大きく寄与している。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;直口壺破片　 弥生時代
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;小型壺　
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;加飾壺
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;広口壺
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;長胴壺
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高坏
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鼓型器台
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;小型鉢
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;大型鉢
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;甕
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;木製品 
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;時期&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;八尾市立歴史民俗資料館*アクセス
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;名称：跡部遺跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：大阪府八尾市東太子１丁目6-12（竜華小学校内）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交　通：JR「久宝寺」駅から徒歩約14分／近鉄バス「植松」から徒歩4分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;「銅鐸（八尾市指定文化財）（跡部遺跡出土）」八尾市立歴史民俗資料館
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;大阪府教育委員会（2002）『跡部遺跡』大阪府埋蔵文化財調査報告2001-6
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;八尾市文化財調査会（1991）「跡部遺跡発掘調査報告書」八尾市文化財調査研究会報告31
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>弥生時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>割見塚古墳</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/05/04/9852469</link>
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      <pubDate>Mon, 04 May 2026 00:39:32 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-05-04T00:40:14+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-05-04T00:40:14+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;割見塚古墳&lt;/strong&gt;（わりみづかこふん)は、千葉県富津市に所在する古墳時代終末期（7世紀前半）の方墳で、内裏塚古墳群に属する首長墓の一つである。大型の横穴式石室と整った墳丘規格を備える点で、同古墳群の最終段階を代表する古墳として重要視されている。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要と立地&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;本古墳は内裏塚古墳群の一角に築かれた方墳で、墳丘は一辺約40メートル、高さ約5メートルを測る。古墳群は東京湾岸地域の有力首長層の墓域と考えられており、本古墳はその終末期における政治的・葬制的変化を示す資料である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;墳丘と周濠&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和58年度・59年度の発掘調査により、墳丘の周囲には内濠と外濠からなる二重周濠が巡ることが確認された。これにより、墳丘と周濠を一体として設計された計画的な築造が明らかとなっている。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;埋葬施設（横穴式石室）&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;埋葬施設は横穴式石室で、前庭部を含めた全長は約18.75メートルに達する大型のものである。石室は、入口通路である羨道、副次的な空間である前室・後室、そして遺体を安置する棺室から構成される複室構造をとる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;岩井直人（2016）は東日本の横穴式石室を分類し、本古墳を「奥室中心型」と位置づけた。これは、遺体を安置する奥の棺室を中心に、前室や羨道が付加された構造を特徴とする形式である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;出土遺物&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;本古墳は盗掘を受けていたが、前庭部などから以下の遺物が出土している。
&lt;/p&gt;&lt;ul&gt;&lt;li&gt;直刀
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;馬具
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;銀製・金銅製の刀子装具
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉄鏃
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;弓金具
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;土師器・須恵器
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;これらは被葬者が武人的性格を有する有力首長であったことを示唆する。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;古墳群内での位置づけと終末期方墳&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;内裏塚古墳群では、7世紀前半になると首長墓の形態として方墳が採用されるようになり、最終段階には方墳のみが築造される傾向が認められる。これは前方後円墳に代表される従来の墓制からの転換を示すものであり、政治体制や葬送儀礼の変化を反映すると考えられる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;割見塚古墳はこのような流れの中に位置づけられる「終末期方墳」の典型例である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;墳丘規格と設計論&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;小沢洋（1992）は、本古墳の墳丘および周濠の規模について、設計に一定の尺度が用いられた可能性を指摘している。具体的には、以下の数値が高麗尺（1尺約35cm）に基づく規格に近いとされる。
&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;墳丘一辺：約40m（約120尺）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;内周堀外辺：約63m（約180尺）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;外周堀外辺：約107m（約300尺）
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;さらに、内周堀幅・周堤幅・外周堀幅についても、それぞれ約30尺・40尺・20尺に相当する値が認められ、全体として統一的な設計思想に基づいて築造された可能性がある。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;総括&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;割見塚古墳は、
&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;大型横穴式石室
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;二重周濠を備えた計画的墳丘
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;規格的設計の存在
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;終末期方墳への転換
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;といった特徴を備え、内裏塚古墳群の最終段階を理解する上で重要な古墳である。同時に、古墳時代から律令国家形成期へ移行する過程における葬制変化を示す考古資料として高い学術的価値を有する。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;土師器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;須恵器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;馬具
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;刀子
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉄鏃
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称 　：割見塚古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地 ：千葉県富津市二間塚字割見塚1754
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交 通  ：JR内房線　青堀駅出口から徒歩約17分/1.3km
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;小沢洋（1992）「上総南西部における古墳終末期の様相」国立歴史民俗博物館研究報告 44,pp. 329-366
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;岩井直人（2016）「東日本の横口式石榔」国士舘史学　巻 20,pp.85-106
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>送風管</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/09/09/9616326</link>
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      <pubDate>Mon, 04 May 2026 00:34:51 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-05-04T00:39:10+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-09-09T10:35:07+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;送風管&lt;/strong&gt;（そうふうかん）は古代における青銅器鋳造・鉄器生産・ガラス製作などの炉に空気を送り込むための装置である。炉内に強制的に空気を供給することで燃焼効率を高め、温度を上昇させる役割を担う。送風管は、ふいご（送風装置）と炉を接続する重要な構成要素であり、古代の生産技術を理解するうえで不可欠な遺物である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;構造と材質&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;送風管には主に土製と木製があり、一般的には耐火性に優れた土製品が多い。形状は直状（ちょくじょう）と曲状（きょくじょう）に大別される。曲状送風管は先端部を炉内に差し込む構造をもち、高熱にさらされるため先端部が赤変・黒変している例が多い。一方、直状送風管は複数連結され、送風効率を高めるための延長管として機能したと考えられる。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;元岡・桑原遺跡群の事例&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;元岡・桑原遺跡群では、管状の木製送風管が約10点出土している。これらは長さ約60cm、直径4?6cm程度で、一端に焦げ跡が確認される。木製送風管の出土例は全国的にも稀であり、当該遺跡における技術的特徴を示す重要資料である。また、同遺跡群の他地点では土製送風管も確認されており、材質の使い分けが行われていた可能性がある。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;東奈良遺跡の事例&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;東奈良遺跡は弥生時代中期後半を代表する鋳造遺跡であり、送風管が143点出土している。これらは直状・曲状の両タイプが存在し、外面にはヘラ描きによる三叉形の記号が施されている例がある。この記号については「狩人」「シャーマン」「鳥」など諸説があるが、弥生文化に特徴的な図像表現の一種と解釈されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、送風管内面に広範囲に付着する煤（すす）は、炉内温度の上昇が不十分であったことを示す痕跡と考えられており、当時の操業条件や技術的課題を復元する手がかりとなる。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;唐古・鍵遺跡の事例&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;唐古・鍵遺跡では銅鐸鋳造に関係する石製鋳型が出土しており、青銅器生産の拠点集落とされる。この遺跡でも送風管が確認されており、曲状の先端部を炉内に挿入し、その後方に複数の直状送風管を接続する構造が想定される。先端部の変色は高温環境での使用を示している。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;学術的意義&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;送風管の出土は、単なる道具の存在を示すにとどまらず、古代における燃焼制御技術・冶金技術の発達段階を示す重要な指標である。特に形状・材質・使用痕の分析は、炉の構造や操業方法の復元、さらには生産体制や技術集団の存在を考察する上で有効である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;古代の送風技術&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;古代における生産技術の発展を考える際、送風技術の意義は大きい。送風技術とは、炉内に空気を強制的に供給し燃焼効率を高める技術であり、青銅器鋳造・鉄器生産・ガラス製作といった高温を必要とする工業的生産活動の基盤をなすものである。すなわち送風技術の成立は、単なる道具の改良にとどまらず、古代社会における生産力の質的転換を示す重要な指標である。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まず、送風技術の本質は「温度制御」にある。自然燃焼に依存する場合、炉内温度には限界があるが、送風管とふいごを用いることにより酸素の供給量を増加させ、より高温かつ安定した燃焼環境を実現することが可能となる。この技術的飛躍によって、青銅の溶解や鉄の還元といった高度な冶金操作が現実のものとなった。特に鉄器生産においては、送風の強弱が還元反応の成否を左右するため、送風技術は生産の核心をなす要素であった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;考古学的には、送風管の形状・材質・使用痕が技術水準を具体的に示している。例えば、東奈良遺跡において多数出土した送風管は、直状・曲状の使い分けや記号の付与など、単なる機能部材を超えた管理・運用の体系を示唆する。また、送風管内面に付着した煤は、炉内温度の制御が必ずしも安定していなかったことを示し、当時の技術的試行錯誤の存在を物語る。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに、元岡・桑原遺跡群に見られる木製送風管の存在は、材質選択の多様性と地域的適応を示す重要な事例である。一般に耐火性の観点から土製が主流とされる中で、木製品が用いられていることは、短期的使用や補助的機能、あるいは資源制約への対応といった柔軟な技術運用を示唆する。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、唐古・鍵遺跡における送風管の構造は、複数の管を連結するシステム的発想を示している。これは単一の道具ではなく、「装置」としての技術段階に到達していることを意味し、作業の分業化や工程管理の存在を想定させる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;以上のように、送風技術は単なる補助的手段ではなく、古代生産の成立そのものを支える基盤技術であった。その発展は、①高温技術の確立、②生産の安定化と効率化、③技術体系の組織化、という三つの側面において古代社会に大きな影響を与えたといえる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結論として、送風技術の展開は、弥生時代以降の社会における生産力の向上と専門技術集団の形成を促し、ひいては首長権力の成立や地域間交流の活発化にも寄与したと考えられる。送風管という一見して小さな遺物は、実際には古代社会の技術革新と構造変化を読み解く鍵となる重要資料となっている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;出土例&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;送風管　-　大山遺跡　–埼玉県北足立郡伊奈町小室、奈良時代・平安時代
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;県内屈指の古代製鉄遺跡である
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;送風管 - 東奈良遺跡、大阪府茨木市、弥生時代
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;清水邦彦（2018）「東奈良遺跡出土の送風管について」茨木市立文化財資料館館報第4号
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;清水邦彦（2021）「記号が描かれた送風管」 茨木市立文化財資料館館報第6号
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;清水邦彦（2017b）『銅鐸をつくった人々-東奈良遺跡の　工人集団‐』茨木市立文化財資料館
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
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      <dc:subject>古代史関連用語</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>田中王塚古墳</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/05/03/9852273</link>
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      <pubDate>Sun, 03 May 2026 00:28:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-05-03T00:28:27+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-05-03T00:28:27+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;田中王塚古墳&lt;/strong&gt;（たなかおうづかこふん)は、滋賀県高島市に所在する古墳時代中期の古墳である。高島平野を流れる安曇川右岸、泰山寺野台地東端部に立地し、同地に分布する田中古墳群の中核をなす古墳で、田中古墳群の第1号墳として位置づけられている。通称は「王塚」・「ウシ塚」とされている。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;墳丘の規模は直径約58mとされるが、その墳形については議論がある。従来は後円部径約58メートルをもつ帆立貝式古墳（前方部の短い前方後円墳）とする説が提示されてきた。しかし、明治時代の土地改変により墳丘の一部が削平・変形している可能性が高く、現状の地形からは円墳とみなす見解が有力となっている。このため、本来の墳形については確定しておらず、帆立貝式古墳であった可能性を含めて検討が続けられている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1905年（明治38年）には、宮内庁により第26代とされる継体大王の父、彦主人王の陵墓参考地に比定され、用地が買い上げられて現在も同庁の管理下にある。陵墓参考地とは、文献伝承や立地・規模などから皇族墓の可能性があるとして指定されたものであるが、被葬者が確定しているわけではない。宮内庁は「彦主人王御陵」としている。安曇川以南で最初の首長墓とされている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;築造時期は、周辺で採集された埴輪片（円筒埴輪など）の様式や墳形の特徴、さらに田中古墳群内の他古墳との比較から、5世紀中葉頃と考えられている。この時期は、畿内政権の影響が地方へ及ぶ過程にあたり、本古墳もその政治的動向と関わる地域首長墓の一つと位置づけられる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;立地する高島平野は、安曇川流域の水運と農耕基盤を背景とした交通・生産の要衝であり、田中王塚古墳はこうした地域支配の中核を担った首長の墓として築造された可能性が高い。とくに台地縁辺という立地は、周辺低地を見渡す視覚的優位性を備え、古墳の権威性を強調する意図があったと考えられる。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;継体系譜と近江勢力&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;古墳時代後期初頭に即位した第26代大王とされる継体は、それまでの大王系譜とはやや異なる出自をもつことで知られる。『古事記』『日本書紀』によれば、継体は応神大王の五世孫とされるが、その系譜は遠縁とされており、王統の連続性に断絶のあることが指摘されてきた。また応神から武烈までは10代あるので、世代数が2倍あって大幅に異なる。このような中で、継体の出自基盤として重視されるのが近江・越前に広がる地域勢力である。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;継体は即位以前、近江国高島郡三尾（現在の滋賀県高島市周辺）に拠点を有していたとされる。この地域は琵琶湖西岸に位置し、日本海側へ通じる交通の要衝であると同時に、安曇川流域の豊かな農耕地帯を背景とした有力な地域社会が形成されていた。こうした地理的・経済的条件は、単なる地方豪族の域を超えた政治勢力の成立を可能にしたと考えられる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;近江北部には、田中王塚古墳をはじめとする首長墓が分布し、古墳時代中期以降の有力勢力の存在を示している。とくに高島平野一帯は、琵琶湖水運と内陸交通を結節する地点であり、物資流通と軍事動員の双方において戦略的価値を有していた。このような地域に根ざした勢力が、中央王権の変動期において台頭した可能性は高い。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;6世紀初頭、大和王権では武烈大王の死後に後継者が不在となり、王統の継続が危機に陥った。この状況の中で、継体は諸豪族の支持を受けて擁立された。即位は大和ではなく河内・山背など複数の地を経て段階的に進められたことが知られており、これは継体政権の基盤が必ずしも大和に限定されていなかったことを示唆する。すなわち、近江・越前などの地方勢力が連合的に関与し、新たな王権を構築したとみることができる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、継体の父とされる彦主人王の陵墓参考地が近江に比定されている点も、この地域が王統形成に深く関与していたことを物語る。ただし、陵墓参考地はあくまで比定であり、実際の被葬者を確定するものではない点には注意が必要である。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;以上のように、継体天皇の即位は単なる王統内部の継承ではなく、近江をはじめとする地方有力勢力の台頭と結びついた政治的再編の結果の新たな王統と捉えることができる。すなわち、6世紀初頭の王権は、大和中心の単一的構造から、広域的な勢力連合へと再編される過程にあり、継体大王はその転換点に位置する存在であった。この視点からは、近江勢力は単なる地方勢力ではなく、新王権の成立を支えた中核的基盤の一つとして再評価されるべきであろう。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;埴輪片
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;1905年（明治38年）　宮内庁陵墓参考地
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称 　：田中王塚古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地 ：滋賀県高島市安曇川町田中
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交 通  ：JR湖西線「安曇川駅」から徒歩約20分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;高島市（2026）「歴史散歩 No111」『広報　高島No170』
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;琵琶湖高島観光協会（2019）「高島今昔旅」
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>三原田諏訪上遺跡</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2025/06/12/9782046</link>
      <guid>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2025/06/12/9782046</guid>
      <pubDate>Sun, 03 May 2026 00:25:46 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-05-03T00:26:57+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2025-06-12T23:32:21+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;三原田諏訪上遺跡&lt;/strong&gt;（みはらだすわがみいせき)は群馬県渋川市に所在する縄文時代中期の集落遺跡である。赤城山西麓の台地上に立地し、周辺には三原田遺跡・房谷戸遺跡・道訓前遺跡などが約1km圏内に分布しており、本地域における縄文時代集落群の一角を構成する。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;本遺跡は2002年度の発掘調査によって確認され、縄文時代中期の竪穴住居跡6軒、土坑約200基が検出された。これらの遺構は、当該期における定住的生活と活発な土地利用を示すものと評価される。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;出土土器には、阿玉台式土器・勝坂式土器・曲隆線文土器が認められ、これらが同一遺跡内で共存する点が注目される。これは、関東地方における縄文中期の土器様式の地域的多様性や文化交流を考える上で重要な資料となる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、遺跡から約500m離れた上三原田東峰遺跡では、「柳町土器」と呼ばれる特徴的な土器が出土している。柳町土器は、口縁部に円環状の突起を持ち、器面全体を密に粘土帯文で装飾する点に特徴がある。三原田諏訪上遺跡出土の勝坂式土器と比較すると、口縁部や胴部の装飾をより発達させた形態として理解することができ、地域内での土器様式の変遷や発展過程を示唆する。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;石器では、有舌尖頭器が1点確認されている。全長約6.5cmで、遺構外から出土した。二重縁が鋸歯状を呈し、基部は欠損している。この資料は狩猟活動に関連する道具の一例として位置づけられる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;以上のように、三原田諏訪上遺跡は縄文時代中期の集落構造、土器様式の多様性、周辺遺跡との関係性を考察する上で重要な遺跡である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;住居
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;竪穴建物
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;土坑　260
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;竪穴3
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;縄文土器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;石器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;縄文土器（深鉢+浅鉢）
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;平成15年3月25日　群馬県指定史跡
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;渋川市赤城歴史資料館
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称： 三原田諏訪上遺跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：群馬県渋川市赤城町三原田字諏訪上140-1
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通： 
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;赤城村教育委員会（2004）『赤城村埋蔵文化財発掘調査報告書 25：三原田諏訪上遺跡』赤城村教育委員会
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;橋本勝雄（2020）「出現期の石鏃に関わる新たな資料群の発見とその意義」研究連絡誌 (83), pp.2507-2519,千葉県教育振興財団文化財センター
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>縄文時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>土師器</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/05/02/9852079</link>
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      <pubDate>Sat, 02 May 2026 00:57:31 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-05-02T00:58:06+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-05-02T00:58:06+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;土師器&lt;/strong&gt;(はじき)は古墳時代から平安時代にかけて広く用いられた、弥生土器の系譜を引く素焼きの土器である。日常生活用の煮炊き・食器を中心に、祭祀や副葬品にも用いられ、日本古代社会の基礎的な土器群を構成する。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;土師器は、粘土紐を積み上げて成形する紐積み（輪積み）法を基本とし、ろくろや登窯を用いず、野焼きに近い方法で焼成される。焼成温度はおよそ700～900℃程度で、全体に赤褐色・黄褐色を呈するのが特徴である。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;弥生土器の技術的伝統を継承しつつ成立し、古墳時代を通じて形態や製作技法に変化がみられる。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;時期ごとの特徴&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;古墳時代前期：弥生土器の系統を色濃く残し、壺・器台・小型丸底土器などが中心となる。
中期：壺や高坏などの器形が変化し、甑（こしき）など調理具の発達がみられる。調整技法にも多様化が生じる。
後期：灰色硬質土器である須恵器が登場し、両者の併用が一般化する。
奈良・平安時代：須恵器や施釉陶器の普及により相対的に地位は低下するが、日常用土器として継続して使用される。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;器種と用途&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;主な器種には、壺・甕・坏・高坏・器台・盤・甑・椀などがあり、用途に応じて使い分けられた。
&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;煮炊き・調理：甕・甑
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;飲食・供膳：坏・椀・高坏
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;貯蔵：壺
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;また、祭祀用土器には手で成形する手づくね法が用いられる例もある。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;製作技法&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;成形後の整形・調整には、叩き、刷毛目、ナデ、削り、磨き、押圧など多様な技法が用いられ、地域差も顕著である。文様は基本的に施されず、機能性を重視した簡素な外観をもつ。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;須恵器との違い&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;土師器と須恵器は、日本古代の代表的な土器であり、以下の点で区別される。
&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;焼成方法：
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;土師器＝野焼き（低温焼成）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;須恵器＝窯焼成（高温焼成・約1000～1200℃）
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;色調：
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;土師器＝赤褐色系
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;須恵器＝灰色系
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;性質：
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;土師器＝軟質で吸水性が高い
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;須恵器＝硬質で緻密
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;用途面でも、土師器が煮炊きや日常食器に用いられるのに対し、須恵器は貯蔵・供膳・儀礼的用途に多く用いられる傾向がある。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;文献史料と名称&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;平安時代の法制書『延喜式』や辞書『和名類聚抄』には「波爾（はじ）」の表記がみえ、古代における呼称を知る手がかりとなる。名称は、土器生産に関与したとされる土師氏との関係が指摘されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;出土例&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;壺 石田川遺跡、群馬県太田市、古墳時代
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;皿　郡山遺跡、宮城県仙台市、奈良時代
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高坏　奈良県天理市柳本町、東京国立博物館蔵、8世紀、重要文化財
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;土師器甕  小治田安万侶墓出土、奈良市都祁甲岡町、神亀6年（729） 東京国立博物館  
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂出版
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;江坂輝彌、芹沢長介(1985)『考古学ハンドブック』ニューサイエンス社
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>冠位十二階</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/05/01/9851882</link>
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      <pubDate>Fri, 01 May 2026 00:28:55 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-05-01T00:29:48+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-05-01T00:29:48+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;冠位十二階&lt;/strong&gt;(かんいじゅうにかい)は飛鳥時代初期の603年（推古11年）に制定された官位制度であり、官人の地位を12段階に区分し、位階に応じて冠の色を変えることで序列を明示したものである。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;この制度は一般に聖徳太子による政策とされるが、実際には蘇我馬子をはじめとする有力豪族の関与も想定されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それまでのヤマト政権では、氏姓制度に基づく門閥的・世襲的な支配が行われており、特定の氏族が政治的地位を独占していた。冠位十二階はこうした体制を相対化し、個人の能力や功績に応じて官位を与える仕組みを導入した点に大きな意義がある。これは日本における官僚制的秩序の萌芽と評価される。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;位階は上位から「徳・仁・礼・信・義・智」の6区分に分けられ、それぞれに「大」と「小」を設けることで、合計12階の序列が構成された。また、冠の色は紫・青・赤・黄・白・黒の6色が用いられ、視覚的に身分秩序を示す工夫がなされている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;制度の成立には、当時交流のあった百済や高句麗の官制の影響が指摘されており、東アジアの政治制度を受容した改革の一例といえる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;冠位十二階はその後、647年（大化3年）に制定された「七色十三階冠」へと発展的に改編されるまで、およそ40年間にわたって運用された。ただし、その適用範囲は主に畿内およびその周辺に限られ、地方社会への浸透は限定的であったと考えられている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この制度は、後の律令制における位階制度の先駆けとして、日本古代国家形成史において重要な位置を占めている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;広瀬 圭（1978）「古代服制の基礎的考察--推古朝から衣服令の成立まで」日本歴史, 日本歴史学会編 (356),pp.20-41
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;武田佐知子（1982）[「古代国家の形成と身分標識--東アジア社会における衣服の機能について」『歴史学研究』歴史学研究会 編 (別冊),pp.28-40
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>飛鳥時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>しゃくし塚古墳</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/04/29/9851701</link>
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      <pubDate>Thu, 30 Apr 2026 00:10:00 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-04-29T23:52:05+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-04-29T23:42:56+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;しゃくし塚古墳&lt;/strong&gt;（しゃくしづかこふん)は、千葉県香取郡多古町に所在する古墳時代前期後半（4世紀後半頃）の前方後円墳であり、千葉県指定史跡である。柏熊古墳群に属する古墳の一つで、第8号墳にあたることから「柏熊8号墳」とも呼ばれる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;本古墳は、多古町北東部の栗山川中流域に位置し、その支流である常盤川との合流点を南に望む舌状台地上に築かれている。水系を見下ろす立地は、古墳の築造位置として戦略的・象徴的な意味をもつと考えられる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;墳丘は全長82mを測り、後円部径49m、前方部前端幅22m、くびれ部幅約20mである。墳丘の高さは後円部が約7m、前方部が約3mで、両者の比高差は約4mを有する。後円部墳頂は直径約15mの平坦面をなし、祭祀や儀礼の場としての利用が想定される。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これまで本格的な発掘調査は実施されておらず、墳丘にも顕著な盗掘の痕跡は確認されていない。採取遺物としては、土師質でハケ目を有する有段口縁の壺形土器（底部に穿孔をもつ）や円筒埴輪片が知られている。これらの埴輪の存在は、本古墳がヤマト政権の古墳文化と一定の関係を有していた可能性を示唆する。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しゃくし塚古墳は、関東地方における前方後円墳の展開過程を考えるうえで重要な資料であり、未調査であることから今後の考古学的研究の進展が期待される。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;見学案内&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;古墳周辺は林や笹に覆われているため、見学の際には長袖・長ズボン・帽子を着用し、肌の露出を避けることが望ましい。足元は不整地であるため、歩きやすい靴を準備するとよい。夏季は虫除け対策を行うなど、安全面に配慮した装備が推奨される。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;有段口縁底部穿孔壺形土器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;円筒埴輪片
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;1991年（昭和50年）12月12日　千葉県指定史跡
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称 　：しゃくし塚古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地 ： 千葉県香取郡多古町南玉造3761
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交 通  ：
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>修羅</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/04/29/9851520</link>
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      <pubDate>Wed, 29 Apr 2026 00:04:28 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-04-29T00:11:53+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-04-29T00:10:24+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;修羅 (しゅら)&lt;/strong&gt;は、巨石や巨木などの重量物を運搬するために用いられた木製の橇（そり）である。古墳時代の土木技術や巨石運搬の実態を示す重要な考古資料として知られる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1978年（昭和53年）、大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳の周濠底から、大小2点の修羅と梃子棒が出土した。この発見は同年4月5日に確認され、考古学上の大発見として大きな注目を集めた。4月15日に実施された現地説明会には、全国から約1万2千人の見学者が訪れている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;出土した修羅は、大型品（全長8.8メートル）と小型品（全長2.9メートル）の2点で、いずれもV字形の二股構造をもつ橇状の木製品である。大型修羅はアカガシの巨木の二股部分を利用して一木から削り出されたもので、全体に丁寧な加工が施されている。頭部および脚部には孔が穿たれており、綱を通して牽引したと考えられる。小型修羅はクヌギ材を用いたもので、構造は同様であるが加工は比較的粗い。出土した梃子棒はアカガシ製の丸木で、修羅の進行方向の調整や姿勢制御に用いられたと推定される。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これらの遺物は、保存のため元興寺文化財研究所において約14年間にわたりポリエチレングリコール（PEG）含浸法による処理が施された。現在、大型修羅と梃子棒は大阪府立近つ飛鳥博物館に展示されており、小型修羅は藤井寺市立図書館の展示施設で公開されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、1978年には朝日新聞社が厚生文化事業として修羅の復元を行い、牽引実験が実施された。復元には徳之島産のカシ材が用いられ、高知市の打刃物師が製作した斧（ヨキ）によって加工され、出土品に近い形状が再現された。牽引実験は同年9月3日に大和川河川敷で行われ、市民や中学生、自衛隊員など約400人が参加した。実験では約14トンの花崗岩を修羅に載せて綱で牽引し、古代における重量物運搬技術の再現が試みられた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なお、古墳時代の修羅の出土例は極めて少なく、松面古墳の例とあわせて数例に限られる。こうした資料は、古代の大型古墳築造における労働力動員や運搬技術を具体的に理解する上で重要な手がかりとなっている。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;修羅と古墳土木技術論 ― 巨石運搬からみた古墳時代の技術と社会 ―&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;修羅（しゅら）は、巨石や巨木などの重量物を運搬するために用いられた木製橇であり、古墳時代の土木技術を具体的に示す数少ない実物資料である。とりわけ1978年に大阪府藤井寺市の三ツ塚古墳から出土した修羅は、その構造と使用実験の成果によって、従来抽象的に語られてきた古墳築造技術を実証的に理解する契機となった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まず注目すべきは、修羅の構造的合理性である。三ツ塚古墳出土の修羅は、アカガシやクヌギといった硬質材の二股部分を利用し、一木から削り出されている。これは単なる木製器具ではなく、重量物を安定して支持しつつ地面との摩擦を軽減するための設計である。V字形の二股構造は荷重を分散し、かつ直進性を確保する役割を果たしたと考えられる。また、頭部や脚部に穿たれた孔は牽引用の綱を通すためのものであり、牽引力を効率的に伝達する工夫が見られる。さらに梃子棒の併用は、単なる直線的な牽引にとどまらず、方向転換や姿勢制御を可能にする高度な操作体系の存在を示唆している。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;次に、復元実験の成果は、古墳土木技術の実態を具体的に裏付けるものである。1978年に実施された牽引実験では、約14トンの花崗岩が人力によって移動可能であることが確認された。この結果は、古墳築造における巨石運搬が特別な機械装置に依存せずとも、適切な器具と組織的な労働力によって実現し得たことを示している。すなわち、修羅は単なる道具ではなく、「人力＋技術」の統合によって機能する運搬システムの中核であったと位置づけられる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに重要なのは、こうした技術の背後にある社会的基盤である。修羅を用いた運搬には、多数の人員の動員と統率が不可欠である。牽引実験においても約400人が参加していることから、古墳時代においても同規模あるいはそれ以上の労働力が組織的に動員された可能性が高い。これは単に技術の問題ではなく、首長権力による労働管理や共同体の動員体制が確立していたことを意味する。すなわち、修羅の存在は古墳時代社会における政治的統合の進展を物質的に裏付ける証拠といえる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、修羅の出土例が極めて限定されている点も重要である。三ツ塚古墳や松面古墳など数例にとどまることは、この技術が特定の地域や特権的な土木事業に限定されていた可能性を示す。すなわち、修羅は一般的な農業用具ではなく、大規模古墳の築造という特別なプロジェクトに投入された高度技術であったと考えられる。このことは、古墳築造が単なる埋葬行為ではなく、権力の象徴としての公共事業的性格を有していたことを示唆する。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;以上のように、修羅は古墳時代の土木技術を理解する上で極めて重要な資料である。その構造は合理的な力学設計に基づき、使用実験は人力による巨石運搬の実現可能性を示し、さらにその運用は高度な社会組織の存在を前提としている。したがって、修羅は単なる運搬具ではなく、「技術・労働・権力」が結びついた古墳時代社会の総合的な特質を体現する存在と評価できるのである
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;出土例&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;修羅 - 三ツ塚古墳、大阪府藤井寺市、5世紀頃
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;修羅 - 松面古墳、千葉県木更津市、古墳時代
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;「古墳時代のそり、千葉にも　土木運搬「修羅」、大阪に続き２例目」朝日新聞、2019年5月4日
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;朝日新聞社 （1979）『修羅―発掘から復元まで』朝日新聞社
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
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      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>平林章仁</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/04/28/9851291</link>
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      <pubDate>Tue, 28 Apr 2026 00:20:34 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-04-28T00:21:32+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-04-28T00:21:32+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;平林章仁&lt;/strong&gt;（ひらばやし あきひと、1948年4月17日生)は日本の歴史学者。専門は日本古代史で、とくにヤマト王権・氏族構造・古代信仰の研究を中心とする。元龍谷大学教授。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;略歴&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;奈良県に生まれる。1971年に龍谷大学文学部史学科を卒業後、大和高田市立片塩中学校教諭を経て、大学非常勤講師・研究職に転じ、龍谷大学文学部教授に就任（2007年）。2017年に定年退職。奈良県王寺町史編纂委員なども歴任した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;2002年、「古代日本の王家と氏族の研究」により皇學館大学から文学博士号を取得。同研究では、古代王権と氏族の関係構造を再検討し、政治秩序の形成過程に新たな視角を提示した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;研究方法としては、文献史料の精密な読解に加え、考古学・歴史地理学・民俗学・神話学・文化人類学などの成果を積極的に取り入れる学際的手法を特徴とする。これにより、従来の文献中心史観では捉えきれなかった古代社会の実像、特に王権と地域社会・信仰の関係の解明を試みている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;著書（単著のみ）&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;平林章仁（1991）『鹿と鳥の文化史』白水社
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;平林章仁（1994）『橋と遊びの文化史』白水社
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;平林章仁（1996）『蘇我氏の実像と葛城氏』白水社
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;平林章仁（1998）『七夕と相撲の古代史』白水社
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;平林章仁（2000）『三輪山の古代史』白水社
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;平林章仁（2002）『七世紀の古代史 : 王宮・クラ・寺院』白水社
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;平林章仁（2007）『神々と肉食の古代史』吉川弘文館
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;平林章仁（2015）『「日の御子」の古代史』塙書房
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;平林章仁（2019）『物部氏と石上神宮の古代史』和泉書院
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;平林章仁（2021）『雄略天皇の古代史』志学社
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古代史人物団体</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>土偶</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/04/27/9851269</link>
      <guid>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/04/27/9851269</guid>
      <pubDate>Mon, 27 Apr 2026 21:43:31 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-04-27T21:44:37+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-04-27T21:44:37+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;!DOCTYPE html&gt;&#13;
&lt;html&gt;&#13;
&lt;head&gt;&#13;
&lt;title&gt;土偶&lt;/title&gt;&#13;
&lt;/head&gt;&#13;
&lt;body&gt;&#13;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;土偶&lt;/strong&gt;（どぐう）は、&lt;strong&gt;縄文時代&lt;/strong&gt;に作られた人物をかたどる土製の焼成品である。&lt;/p&gt;&#13;
&#13;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;&#13;
&lt;p&gt;&#13;
土偶の出現は縄文時代草創期末（約1万年前）にさかのぼる。造形は人物像が中心で、特に女性像が多いが、男性像や抽象的な表現も確認されている。弥生時代に入ると土偶はほぼ姿を消す。&#13;
&lt;/p&gt;&#13;
&lt;p&gt;&#13;
代表的な遺跡として青森県の&lt;strong&gt;三内丸山遺跡&lt;/strong&gt;があり、大型の板状土偶が出土している。女性像では乳房や臀部に加え、妊娠を想起させるように下腹部を強調した例もあり、安産・多産・豊穣・再生などの祈願と関係する祭祀的性格が指摘されている。&#13;
&lt;/p&gt;&#13;
&lt;p&gt;&#13;
なお、動物や道具など人物以外をかたどる土製品は一般に「土偶」とは呼ばず、「土製品」と区別される。&#13;
&lt;/p&gt;&#13;
&lt;p&gt;&#13;
著名な例として、&lt;strong&gt;遮光器土偶&lt;/strong&gt;（東京国立博物館蔵、重要文化財）があり、ゴーグル状の目の表現が特徴的である。&#13;
&lt;/p&gt;&#13;
&#13;
&lt;h2&gt;埴輪との違い&lt;/h2&gt;&#13;
&lt;p&gt;&#13;
土偶は縄文時代に製作されたのに対し、&lt;strong&gt;埴輪&lt;/strong&gt;は古墳時代に製作された焼き物である。埴輪は古墳に立て並べられる祭祀・儀礼用の遺物であり、武人・巫女・力士などの人物像や、馬・犬などの動物、さらには家屋など多様な形態をもつ。一方、土偶は女性像を中心とする人体表現が主体である点に特徴がある。&#13;
&lt;/p&gt;&#13;
&#13;
&lt;h2&gt;分布&lt;/h2&gt;&#13;
&lt;p&gt;&#13;
土偶は縄文時代を通じて各地で作られたが、特に後期から晩期にかけて日本列島各地に広く分布する。なかでも東日本では造形が多様で複雑な土偶が発達し、分布の中心となる。&#13;
&lt;/p&gt;&#13;
&#13;
&lt;h2&gt;各時期の特徴&lt;/h2&gt;&#13;
&lt;table border="1" style="border-collapse: collapse;"&gt;&#13;
&lt;thead&gt;&#13;
&lt;tr&gt;&#13;
&lt;th&gt;時代区分&lt;/th&gt;&#13;
&lt;th&gt;特徴&lt;/th&gt;&#13;
&lt;th&gt;主な出土例&lt;/th&gt;&#13;
&lt;/tr&gt;&#13;
&lt;/thead&gt;&#13;
&lt;tbody&gt;&#13;
&lt;tr&gt;&#13;
&lt;td&gt;草創期&lt;/td&gt;&#13;
&lt;td&gt;土偶の出現。頭部や手足を簡略化した表現が多い。&lt;/td&gt;&#13;
&lt;td&gt;相谷熊原遺跡（滋賀県）&lt;/td&gt;&#13;
&lt;/tr&gt;&#13;
&lt;tr&gt;&#13;
&lt;td&gt;早期&lt;/td&gt;&#13;
&lt;td&gt;胴部中心の造形が目立ち、関東地方（千葉・茨城）に多い。&lt;/td&gt;&#13;
&lt;td&gt;上野原遺跡（鹿児島県）&lt;/td&gt;&#13;
&lt;/tr&gt;&#13;
&lt;tr&gt;&#13;
&lt;td&gt;前期&lt;/td&gt;&#13;
&lt;td&gt;小型土偶が継続し、東北・関東・中部地方で出土。&lt;/td&gt;&#13;
&lt;td&gt;釈迦堂遺跡（山梨県）板状土偶&lt;/td&gt;&#13;
&lt;/tr&gt;&#13;
&lt;tr&gt;&#13;
&lt;td&gt;中期&lt;/td&gt;&#13;
&lt;td&gt;出土量が増加し、大型化・立体化・装飾性の向上がみられる。&lt;/td&gt;&#13;
&lt;td&gt;棚畑遺跡（長野県）「縄文のビーナス」（国宝）&lt;/td&gt;&#13;
&lt;/tr&gt;&#13;
&lt;tr&gt;&#13;
&lt;td&gt;後期&lt;/td&gt;&#13;
&lt;td&gt;関東内陸部や沿岸地域に広がり、地域差が顕著となる。&lt;/td&gt;&#13;
&lt;td&gt;郷原遺跡（群馬県）ハート形土偶&lt;/td&gt;&#13;
&lt;/tr&gt;&#13;
&lt;tr&gt;&#13;
&lt;td&gt;晩期&lt;/td&gt;&#13;
&lt;td&gt;東北・関東を中心に発達し、やがて衰退・消滅へ向かう。&lt;/td&gt;&#13;
&lt;td&gt;亀ヶ岡遺跡（青森県）遮光器土偶&lt;/td&gt;&#13;
&lt;/tr&gt;&#13;
&lt;/tbody&gt;&#13;
&lt;/table&gt;&#13;
&lt;strong&gt;出土例&lt;/strong &gt;&lt;br&gt;&#13;
-遮光器土偶  - 石船戸遺跡 新潟県内で最大&lt;br&gt;&#13;
-嘆きの土偶  - 井戸尻遺跡&lt;br&gt;&#13;
-国宝「土偶」  - 尖石遺跡&lt;br&gt;&#13;
&lt;br&gt;&#13;
&lt;/p&gt;&#13;
&lt;strong&gt;参考文献&lt;/strong&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style="font-family&amp;#58; 'ＭＳ; font-size&amp;#58; small;"&gt; &lt;br&gt;&#13;
1. 武藤康弘,譽田亜紀子 （2014）『はじめての土偶』世界文化社&lt;br&gt;&#13;
2.竹倉史人（2022）『土偶を読む図鑑』小学館&#13;
&lt;/span&gt;&lt;/p&gt;&#13;
&lt;/html&gt;&#13;
&lt;/body&gt;
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      <dc:subject>縄文時代</dc:subject>
    </item>
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      <title>遠賀川系土器</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/04/27/9851257</link>
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      <pubDate>Mon, 27 Apr 2026 20:53:53 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-04-27T20:55:18+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-04-27T20:55:18+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;遠賀川系土器&lt;/strong&gt;（おんががわけいどき)は弥生時代前期に出現する土器群であり、水田稲作の開始と密接に関係する考古学的指標である。九州北部を中心に成立し、その後、西日本各地へと分布を広げた。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;本土器群は、1931年（昭和6年）に福岡県遠賀川下流域の立屋敷遺跡（水巻町）において、名和洋一郎によって川底から発見されたことにより注目された。この発見は、弥生時代初頭の文化様相を具体的に示す重要な契機となった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;遠賀川系土器は、弥生時代前期の土器型式である板付式土器を基盤として成立したとされる。器種には壺・甕・鉢・高坏などがあり、縄文時代の深鉢主体の土器構成とは大きく異なり、機能分化が進んでいる点に特徴がある。とくに貯蔵・調理・供献といった用途の分化は、定住的農耕社会の成立を反映するものと理解される。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;形態的特徴としては、口縁部の発達や胴部の張り出しが顕著であり、甕では口縁部に刻み目を施し、その下に横線文を巡らせる例が多い。壺ではヘラや貝殻を用いた施文がみられる。文様は羽状文・鋸歯文・弧線文などが知られるが、縄文土器と比較すると全体として装飾性は抑制され、簡潔な意匠が主流となる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このような特徴は、朝鮮半島系土器文化の影響を受けつつ成立した可能性が指摘されており、木製農具、石包丁、太形蛤刃石斧、柱状片刃石斧などとともに、水田稲作技術の受容と連動して展開したと考えられる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;当初の分布は当初九州北部に限られるが、弥生時代前期の進行とともに瀬戸内海沿岸を中心に東方へ拡大し、近畿・東海を経て最終的には東北地方南部にまで及ぶ。この広がりは、初期水田稲作の伝播過程を示す有力な考古学的証拠とされる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;以上のように、遠賀川系土器は単なる土器型式ではなく、弥生時代初頭における農耕社会の成立とその拡散を読み解く上で重要な文化要素となる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;出土例&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;遠賀川式土器 白石遺跡、愛知県豊橋市、弥生時代前期
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;遠賀川式土器 月縄手遺跡、愛知県名古屋市西区比良、弥生時代
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;藤尾慎一郎（2003）「近畿における遠賀川系甕の成立過程」国立歴史民俗博物館研究報告  108,pp.45-66
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;「遠賀川系土器の黒色物質の脂質分析と塗布方法の考察」
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;岡安雅彦・宮田佳樹(2021)「遠賀川系土器の黒色物質の脂質分析と塗布方法の考察」研究紀要 22,pp.17-28
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;永井宏幸（2016）「尾張平野における縄文文化より弥生文化への移行過程」愛知県埋蔵文化財センター研究紀要　第17号,pp.31-38
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>弥生時代</dc:subject>
    </item>
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