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    <title>新古代史の散歩道</title>
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    <pubDate>Mon, 07 Sep 2026 22:38:55 +0900</pubDate>
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      <title>クリブラ・オルビタリア</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/09/08/9875323</link>
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      <pubDate>Tue, 08 Sep 2026 00:05:46 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-07T22:38:55+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-09-07T22:38:55+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;クリブラ・オルビタリア&lt;/strong&gt;(くりぶらおるびたりあ）は「眼窩上壁（眼窩の天井部分）に小孔や網目状の変化がみられる骨病変」であり、眼窩（目の奥のくぼみ）の上壁に網目状の小孔ができる骨病変である。
原因は成長期の貧血や栄養・感染などとの関連が指摘されてきたが、原因は単一ではなく、現在も議論がある。成長期に受けた生理的ストレスを検討する際の指標の一つとして利用されている。人骨集団における出現頻度を比較することで、過去の集団の健康状態や生活環境を考える手がかりとなる。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;クリブラ・オルビタリア（cribra orbitalia）は人類学や古病理学で「ストレス・マーカー」として使われている。特に子ども時代の慢性的な貧血や栄養不良が原因とされている。
縄文人の健康状態や食生活、生活環境を読み解く手がかりになるとされている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;縄文時代と弥生時代との比較&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;水田稲作（米作り）が始まり食料生産が安定する一方、、人口の集中や衛生環境の変化、偏った食生活による新たな健康ストレスが生じたとされる。弥生時代には水田稲作の普及など生活環境が大きく変化したが、クリブラ・オルビタリアの出現率は一様に増加したわけではなく、地域・集団による差が大きい。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;Hirata（1990）は縄文時代から現代までの出現頻度を明らかにし、江戸庶民が最も高頻度であったと明らかにした。古賀英也（2003）は縄文時代から現代までの682個の頭蓋骨を調査した。成人で比較すると、縄文時代では出現率15.8%、弥生時代では10.5%（古浦、島根県松江市)から28.6%（広田遺跡、鹿児島県）、古墳時代では11.7%（横穴墓）から28.6%（墳丘墓）、中世人で10.5%（吉母浜遺跡、山口県下関市）、近世人で2.4%（天福寺遺跡、福岡県福岡市）から17.8%（原田遺跡、福岡県嘉麻市）、現代人で35.4％であった。
ばらつきはあるが、縄文人や弥生人の栄養状態が現代人より低いわけではないことが示された。少なくともクリブラ・オルビタリアの出現頻度だけから、縄文人の栄養状態が現代人より悪かったとは判断できない。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;南西諸島の場合&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;土肥直美（2007）は石垣島出土人骨の骨考古学的調査を行い、中近世の人骨では、クリブラ・オルビタリアの出現率が47.1%（17例中8例）と比較的高い結果を得た。南西諸島は小さな島のため、自然条件の変化に対応する事が難しく、凶作が多かったためと想定されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;江戸時代の比較&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;江戸市中の一橋高校遺跡では成人頭蓋 102体中37体（36.3%）にクリブラ・オルビタリアが観察されており，高い人口密度による衛生状態の劣悪さが要因として報告されている（Hirata K.(1988)）。江戸や地方の都市・村落から出土する人骨の調査から、当時の子どもたちは厳しい生育環境にあったことが示されている。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;古賀英也（2003）「西南日本古代人のストレスマーカー（2）クリブラ・オルビタリアとエナメル質減形成，及びハリス線を含めた三種のストレスマーカーの関連性」Anthropological Science(Japanese Series）111(1),pp.51-67
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;土肥直美（2007）「南西諸島出土人骨の骨考古学的調査」学研究費補助金研究成果報告書
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;Hirata K.(1988) A contribution to the paleopathology of Cribra orbitalia in Japanese. 1. Cribra orbitalia in Edo Japanese. TheSt. Marianna Medical Journal, 16:pp.6-24.
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;Hirata K.(1990)Secular trend and age distribution of cribra orbitalia in Japanese,Human Evolution5,pp.375-385
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;Hirata K. (1995) Regional differences on environmental circumstances in Edo period from palaeopathological point of view. Anthropological Science, Vol.103, p.205.
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>縄文時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>海老名市温故館</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/09/07/9875112</link>
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      <pubDate>Mon, 07 Sep 2026 00:05:35 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-06T21:13:41+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-09-06T21:13:41+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;海老名市温故館&lt;/strong&gt;(えびなしおんこかん）は神奈川県海老名市に所在する歴史系郷土資料館である。正式名称は「海老名市立郷土資料館『海老名市温故館』」である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;大正7年に建てられた国の登録有形文化財（旧海老名村役場）の洋風建築を利用し、1階で相模国分寺跡や市内の出土品などの考古・歴史資料を展示する。1921年（大正10年）に相模国分寺跡の史跡指定に合わせて作られた「遺物陳列館」が前身である。遺物陳列館は、中山毎吉らによる相模国分寺跡保存活動を背景としており、これが温故館の前身となった。1982年（昭和57年）に資料館として開館した。神奈川県内に現存する最古の役場遺構とされる。2010年（平成22年）に移築工事を開始し、2011年（平成23年）3月に現在地への移築が完了した。
現在の基本展示は「1階＝考古・歴史、2階＝民俗資料」の展示構成である。
1階では旧石器時代の石器、縄文・弥生時代の土器、さらに相模国分寺の瓦や復元模型、秋葉山古墳群の出土品などを収蔵する。2階では明治・大正・昭和の時代に使われた農耕具や養蚕具、昔の生活用具など、当時の人々の暮らしや「衣・食・住」を知る資料民俗資料を展示する。「郡役所様式」建築の近代洋風建築の特徴を持つ。登録有形文化財としての建築的特徴は木造洋風庁舎であること、二階建寄棟造桟瓦葺で東側に切妻造の玄関ポーチがあること、外壁は下見板張であることなどである。
1988年（平成元年）度に「かながわの建築物100選」に選定された。相模国分寺跡に隣接する。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;意義&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;温故館は2023年に国の登録有形文化財となり、海老名市の近代史を物語る建造物として文化的価値を持つ。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;展示品&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;常設展示&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;旧石器時代の石器（石斧）や石鏃、縄文時代の勝坂式土器・弥生時代の土器、丸木弓、秋葉山古墳群の資料や小銅鐸、勾玉などの出土品、相模国分寺跡の復元模型（七重塔など）相模国分寺の模型や相模国分寺の寺院の屋根を彩っていた国分寺瓦（文字が刻まれた墨書瓦など）や遺物が展示される。
秋葉山古墳の出土品として、1号墳からは土器とともに鉄製のやじりが出土した。2号墳からは水銀朱の付いた片口鉢、3号墳からは水銀朱の付いた片口鉢や高杯などが出土し、常設展示される。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;企画展示&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;企画展示では旧石器時代の約3万年前の「柏ケ谷長ヲサ遺跡」から出土したナイフ形石器、尖頭器、剥片、石斧、「河原口坊中遺跡」などから出土した、弥生時代の木製品・金属器である木製の臼や杵、梯子、鉄斧、小銅鐸が展示されることがある。上浜田古墳群第2号墳では、2014年に墳頂部から鉄剣片が偶然発見されたことを契機として発掘調査が行われ、鉄剣・鉄鏃・勾玉・管玉・ガラス玉などの副葬品が出土した。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;国登録有形文化財（建造物）「海老名市温故館（旧海老名村役場）」
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;2023年（令和5年）8月7日登録
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;正式名称： 海老名市立郷土資料館「海老名市温故館」
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;開館時間 ：開館時間：9時～17時15分（最終入館16時45分
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地 ：神奈川県海老名市国分南一丁目6番36号
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通 ：海老名駅から750m（徒歩14分）
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;</description>
    </item>
    <item>
      <title>秋葉山古墳群</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/09/05/9874966</link>
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      <pubDate>Sun, 06 Sep 2026 00:05:29 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-05T23:59:36+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-09-05T23:59:08+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;秋葉山古墳群&lt;/strong&gt;（あきばやまこふんぐん)は神奈川県海老名市に所在する6基（6号墳は未調査）の古墳群である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;神奈川県のほぼ中央に位置する座間丘陵の尾根に沿って継続的に築造された古墳群である。相模川から約2km東の標高75mから80ｍの丘陵頂部に立地する。
前方後円墳の形状から古い時代の様相を呈する古墳群であろうと推定されていた。
発掘調査により、3世紀後半から4世紀中頃にかけて継続的に築造された、古墳時代出現期の古墳群であることが明らかになった。
墳形は前方後円墳、前方後方墳、方墳の3種類がある。
土器は庄内式期では在地色が強かったが、布留式期には畿内色が強くなるという変遷がたどれる。押方みはる(2026)によれば「3号墳では墓坑上で土器、朱を使った祭祀、2号墳では朱、円筒形土製品、火を使った祭祀」が行われていたとする。
出土品は海老名市温故館で保管、展示される。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;調査歴&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1969年（昭和44年）に神奈川県教育委員会による測量調査が行われた。
第1次調査は1987年（昭和62年）神奈川県教育委員会により3号墳から5号墳の調査が行われた。
第2次調査では秋葉山古墳群遺跡調査団が結成され、1988年（昭和63年）4月20日から7月18日までの期間で第1から第4号墳の発掘調査を実施した。海老名市史編纂委員会による測量調査が1992年（平成4年）に行われた。その後は2003年（平成15年）の第12次調査まで断続的に調査が行われた。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;各古墳の築造順と特徴&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;出土した土器から築造順は「3・4号墳 → 2号墳 → 1・5号墳」と判断されている。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;第1号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;第1号墳は前方後円墳で墳長は59m、後円部径は33m、後円部の高さは4.8m、前方部長さは26m、幅は14m、前方部の高さは2mである(海老名市教育委員会（2005）。周溝は存在していないが、前方部前面／南側に溝が確認されている。墳丘は地山を削って成形している。遺物は極めて少ないくびれ部から布留式期の完形小型丸底坩と鉄鏃、前方部から壺口縁部片が出土したのみである。2号墳に比べると前方部が長くなり、定型化した前方後円墳である。4世紀前半の築造とみられている(海老名市教育委員会（2005）。
&lt;/p&gt;&lt;h4&gt;第2号墳&lt;/h4&gt;
&lt;p&gt;3世紀末から4世紀初頭の前方後円墳である。墳長50.5m、後円部径33m、後円部高さ5m、前方部幅15m、前方部長18.9m、前方部高さ3mである。後円部の大きさに比べて前方部が短い。
周濠は見られないが、前方部の正面にのみ溝が掘られる。くびれ部を中心に、埴輪状の円筒形土製品や、水銀朱の付いた片口の鉢などの土器が出土した。
&lt;/p&gt;
&lt;h3&gt;第3号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;秋葉山古墳群では最も古いとみられており、３世紀後半の築造とみられている。前方後円形であるが、前方部は削平されて残っていない。現状では径40ｍ程度の円墳状を呈するが、大正年間の中山毎吉の記録や古写真等によれば、前方部の存在が確認でき、かつては全長50ｍ程度の前方後円形の墳丘と見られる。周溝内の各所から大型の壺が5個体以上出土した。胴部の球形化が進み、頸部が明確に屈曲する在来系の壺である。墳頂部から出土した高坏は元屋敷系であるが、脚部透かし孔を省略し、ハケ調整をそのまま残すなど在地化が進んでいるとされる。そのほか台付鉢が出土している。出土土器は、東海系の高杯が見られるものの全体としては在地色が強く、時期は弥生時代から古墳時代の移行期にあたる庄内式期に併行する時期とみられている。後円部側には、幅7.8mの周溝が確認されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;第4号墳&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;2002年～2003年の発掘調査結果により、秋葉山古墳群では唯一の前方後方墳と判明した海老名市教育委員会（2004）。弥生時代の墳丘墓的要素が見られる。第３号墳築造の前後の時期と見られる。墳長は37.5m、全長は40m、後方部長24.8m、前方部長12.7mである（海老名市教育委員会（2004））。周溝は墳丘西側で幅4m、深さ0.4mが確認されているが、全周はしていないとみられている。出土遺物はほとんどないが、壺の破片が得られている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;第5号墳&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;5号墳は一辺訳20m、周溝含め約26mの方墳で、１号墳と同じ特徴をもった土器の小型丸底壺、小型器台がわずかに確認されている。４世紀前半頃の築造である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;評価&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;弥生時代の墳丘墓的要素を残す前方後方墳（第4号墳）や不整形な前方後円墳（第3号墳）から、整った形の前方後円墳（第2号墳・第1号墳）へと移り変わる様子を見ることができる。土器では庄内式期において在地色が強かったが、布留式期には畿内色が強くなるといった変遷がたどれるため、前方後円墳の出現期に集団間の交流の在り方に変化のあったことが示唆されると指摘されている。
葬送儀礼に使われたとみられる水銀朱（赤い顔料）や、全国的に類例のない円筒形土製品などが発見されている。南関東における出現期古墳のあり方や当時の社会を考える上で極めて重要な古墳群と評価されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;築造時期&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;古墳時代初頭（３世紀後半）から４世紀中頃
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;被葬者&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;海老名市温故館
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;2005年（平成17年）7月14日  国指定史跡
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等　&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称 　：秋葉山古墳群
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地 ：神奈川県海老名市上今泉4・5丁目にまたがる
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交 通  ：相模鉄道相鉄本線 かしわ台駅 徒歩20分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;押方みはる(2026)「秋葉山古墳群と相模川流域の古墳時代を考える」
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;海老名市教育委員会（2002）『秋葉山古墳群第1・2・3号墳発掘調査報告書』海老名市教育委員会生涯学習部文化財課
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;海老名市教育委員会（2004）『秋葉山古墳群第3・4号墳発掘調査報告書』海老名市教育委員会生涯学習部文化財課
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;海老名市教育委員会（2005）「海老名市温故館特別展　1700年の時を経て、今ここに」
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;海老名市教育委員会（2006）『史跡秋葉山古墳群』改訂新版、海老名市教育委員会生涯学習部文化財課
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>浅間古墳</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/09/05/9874765</link>
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      <pubDate>Sat, 05 Sep 2026 00:05:13 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-04T21:39:22+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-09-04T21:39:22+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;浅間古墳&lt;/strong&gt;（せんげんこふん)は静岡県富士市に所在する古墳時代前期後半（4世紀中頃）築造の前方後方墳である。後方部の墳頂に浅間神社の社殿が鎮座することから「浅間神社古墳」とも呼ばれる（大塚初重、小林三郎（1996））。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;4世紀前半ごろにつくられた、全長約90.8m（約91m）の東海地方で最大規模の前方後方墳である。1957年の国史跡指定以後、本格的な発掘調査は行われていなかったが、保存管理や活用に向けた本格的な発掘調査が2026年度から開始されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;富士市は史跡の適切な保存管理と未来への活用のための基礎資料とするため、発掘調査を、令和8年度から令和12年度までの5か年をかけて行い、令和13年度には総括報告書を作成する予定とされた。1957年（昭和32年）に国の史跡に指定されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;2020・2021年のレーザー測量によって、南側（海側）と北側（山側）で墳丘の高さが大きく異なり、海側から見た際に大きく見えるように築造されたことが確認されている。
被葬者には諸説があるが、被葬者には諸説があるが、富士市教育委員会（2025）は被葬者を『水上・陸上交通を掌握したスルガの王墓』とする。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;調査歴&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;1921年（大正10年）、『静岡県史蹟名勝誌』に前方後円墳で、埴輪が出土したと記載される。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;1930年（昭和5年）『静岡縣史』第1巻に全長97ｍの前方後円墳と記載された、
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;1957年（昭和32年）内藤晃による初めての本格的な測量調査が行われ、全長103ｍの「前方後方墳」であると指摘し、葺石は存在し、埴輪は伴わないとされた、年代は古墳時代中期の初め頃と推定された。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;1997年（平成9年）、静岡大学人文学部考古学研究室による測量調査が実施され、墳長約90m 、後方部長約60m・後方部高約10m の前方後方墳（ 後方部二段・前方部一段築成）とされた。平面形態は非対称形で、南側が大きく、前方部が比較的短く、古い形態を残したものとされ、古墳時代前期後半（4 世紀中頃）の築造と推定された。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;2019年、富士市教育委員会による、埋葬施設の有無・形状把握を目的とした地中レーダー探査を実施し、後方部に建てられた社殿の西側で地表から2.0 ～ 2.5ｍほどの深さに、内法長辺約7.4m、短辺約2.2m、幅1～3ｍ程度の構造物に囲まれた竪穴系埋葬施設（もしくは粘土槨）が残存している可能性が示された（富士市市民部（2022））。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;2020～2021年、富士市教育委員会による空中レーザー測量が行われ、全長90.8ｍに復元し、後方部側面に平坦部（テラス部）の存在を指摘した。後方部二段、前方部一段築成の前方後方墳とした（富士市市民部（2022））。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;2026年（令和8年）7月20日からの発掘調査の目的の一つは、史跡指定地外に存在する可能性が高まった墳丘盛土・周溝などを確認し、古墳の範囲を確定することである。
またトレンチ調査で埋葬施設が存在すると推定される後方部墳頂付近から過去に採集されていた赤彩高坏について製作年代を分析し、古墳の築造年代は、4世紀中ごろ（古墳時代前期後葉）の可能性が高くなったと報道された（朝日新聞（2026））。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;4世紀後半～7世紀の富士山噴火による火山噴出物に覆われた葺石が確認されたと報道された（朝日新聞、2026年8月30日）。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;築造時期&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;古墳時代前期後半（4 世紀中頃）
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;被葬者&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;駿河湾の水上・陸上交通を掌握したスルガの王墓
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;1957年（昭和32年）7月1日　国指定史跡
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等　&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称 　：浅間古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地 ：静岡県富士市増川624-1
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交 通  ：JR東海道本線　吉原駅 バス 25分/岳南電車「神谷駅」1.4ｋｍ（徒歩25分)
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;大塚初重、小林三郎（1996）『古墳事典』東京堂出版
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;富士市教育委員会（2025）『国指定史跡　浅間古墳保存活用計画　概要版』富士市教育委員会 
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;富士市市民部（2020）「空中レーザー測量実施」埋蔵文化財ニュース
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;富士市市民部（2022）「空中レーザー測量実施」埋蔵文化財ニュース
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;「4世紀古墳から富士山噴火噴出物」朝日新聞、2026年8月18日
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;富士市（2026）「国指定史跡浅間古墳の発掘調査を始めます」2026年8月17日
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;「4世紀の古墳の葺石が当時のまま発見」朝日新聞、2026年8月30日
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
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    <item>
      <title>帯広百年記念館</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/09/04/9874591</link>
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      <pubDate>Fri, 04 Sep 2026 00:05:17 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-03T21:50:58+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-09-03T21:50:58+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;帯広百年記念館&lt;/strong&gt;(おびひろひゃくねんきねんかん）は北海道帯広市にある博物館と創造活動センターからなる複合施設である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;旧帯広町が十勝監獄用地を購入し整備した公園である緑が丘公園の中にある博物館である。
緑ヶ丘公園には現在も十勝監獄石油庫が残っている。これは帯広市指定文化財で、明治33年築、帯広市に現存する最古の建造物である。
帯広百年記念館は十勝の自然や人と文化、アイヌ民族などを歴史的に紹介する。開拓期の十勝の自然や人々の生活ぶり、十勝の自然や人々の生活ぶり、農機具類の開発と改良から冷害問題、収穫物などを展示する。先史時代では旧石器、縄文、続縄文、擦文時代の資料を展示する。マンモスゾウの実物大模型が展示されている。分館の「百年記念館埋蔵文化財センター」では、市内の遺跡発掘調査で出土した土器・石器などを保管・公開・活用している。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;開館&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;晩成社が1883年（明治16年）に、帯広へ入植してから100年目に当たる1982年（昭和57年）に開館した。晩晩成社は依田勉三らが結成した民間開拓団体で、1883年（明治16年）に帯広へ入植した。北海道内陸部における民間開拓の先駆的な事例となった。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;意義&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;先史時代から晩成社による明治の開拓、近代農業の発展に至るまでの歩みを実物資料や模型で伝えているところに意義がある。
館内にはアイヌ民族文化情報センター「リウカ」が設置され、アイヌ民族の文化や歴史を学ぶことができる。十勝の自然を生態展示や剥製などを通じて紹介し、地域の自然環境への理解を深めている。創造活動センターや、分館である埋蔵文化財センターも備えた地域の文化・学習拠点となっている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;第1展示室&lt;/h3&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;「イントロダクション」
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;十勝平野に最初にすんだ人類が、マンモスを追うように北方から来たころを紹介する。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;「開拓の夜明けと発展」
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;「十勝の自然」
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;「十勝のくらし」
「十勝・農業王国の確立」
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h3&gt;第2展示室&lt;/h3&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;「十勝のおいたち」
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;海の底だった十勝が陸地になり、最初の人類が来る直前までを、化石や岩石などの資料で紹介する。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;「十勝の先史時代」
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;旧石器、縄文、続縄文、擦文時代の順に発掘資料や分析データを紹介する。国重要文化財「北海道八千代A遺跡出土品」の土器・石器などを展示する。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;「十勝のアイヌ文化」
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;主な展示資料&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;暁式土器（最古相） 薄手・無文で底面にホタテ貝の圧痕あり（帯広市大正6遺跡)
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;国重要文化財「北海道八千代A遺跡出土品」の土器・石器などを展示する。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;石刃鏃文化の土器 三角形の型押文が施文される。(帯広市大正７遺跡）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;東釧路Ⅳ式 ２ヵ所の頂部から短い貼付けが垂下する。（大正３遺跡）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;モコト式土器 中央の土器が貼付けと押し引きが施文される。(若葉の森遺跡）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;宮本式土器 口縁部に沈線が施文される。(宮本遺跡）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;綱文式土器 太目の縄文が横走する。(八千代Ａ遺跡）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;東釧路Ⅳ式 小型品。２種類の縄文が交互に施文される。(大正３遺跡）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;中茶路式 細い粘土ヒモの貼付け、細かい縄文が特徴。(大正７遺跡）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;石刃鏃文化の土器 波状口縁で、口縁に沈線と刺突文がある。(帯広市大正７遺跡)
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;平成30年10月31日 国指定重要文化財「北海道八千代A遺跡出土品」
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;正式名称： 帯広百年記念館
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;開館時間 ： 常設展示室　9:00～17:00（入場は16:30まで）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地 ：〒080-0846　北海道帯広市緑ヶ丘2番地 緑ヶ丘公園内
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通 ：JR帯広駅からバスターミナル2番乗り場より(約15分)、拓殖バス：「南商または帯広の森・白樺学園線」から「緑ヶ丘6丁目」下車、徒歩８分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;</description>
      <dc:subject>古代史展示施設</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>松岳山古墳</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/09/03/9874419</link>
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      <pubDate>Thu, 03 Sep 2026 00:05:35 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-02T23:33:38+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-09-02T23:33:38+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;松岳山古墳&lt;/strong&gt;（まつおかやまこふん)は松岳山古墳は大阪府柏原市に所在する古墳時代前期（4世紀前半頃）の前方後円墳である。わが国最古の墓誌として国宝に指定されている『銅製船氏王後墓誌』が松岳山古墳群から出土したと伝えられることで知られている。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;大和川左岸の断崖上に築かれた前方後円墳である。
墳丘や石室には約500m東の芝山で産出するカンラン石玄武岩の板石が用いられている。石棺には香川県産と推定される柘榴石角閃石安山岩などが使用されている。
墳長は130ｍ、後円部径は72ｍ、後円部高さ16ｍ、前方部幅は32ｍ、前方部長さ56ｍ、　前方部高さ5ｍである。岸本直文（2013）は、墳丘裾をもう少し大きく考え、墳丘長を約150mと復元している。前方部は2段築成以上、後円部は4段築成以上である。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;円筒埴輪は円筒Ⅱ式とされる。円筒形の胴部にタタキ目や刷毛目が残り、2条から4条の突帯がめぐらされている。
墳丘の調査は1985年に前方部前面、1986年には墳丘南側の後円部・くびれ部・前方部が行われた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;松岳山古墳の後円部の石室は1878年に当時の堺県令の税所篤によって発掘され，その際に石棺内から管玉と石製品、棺外から鏡2、勾玉、管玉、刀剣片などが出土している。さらに1955年の大阪府教育委員会の調査の際に管玉や石製品などのほか、鏡破片、鍬形石片1点，石釧片27点以上、多数の刀剣，鉄鏃片，銅鏃のほか鉄鎌・鉄鍬などの農工具片などが採取された（白石太一郎（2003））。石室の主軸は北西向きで、内法は長さ約1.6m、幅約0.35m、床面は北西部に高く南東部に低くなっている。石棺の側石には、香川県産と推定される柘榴石角閃石安山岩や凝灰岩が使われた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;後円部墳頂には、板石を積み上げた竪穴式石室が築かれ、その内部に組合式の石棺が置かれていた。石棺は底石・側石・蓋石を組み合わせたもので、内面には朱が塗られている。組合式の石棺が置かれており、後の長持形石棺につながる形式と評価されている。
白石太一郎（2003）は、茶臼塚古墳は松岳山古墳の前方部前面の第1段（前方部の茶臼塚古墳に面する墳裾）に、約20ｍの間隔で築かれ、墳丘端を板石を垂直に積み上げる共通の手法が見られるとした。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;松岳山古墳の意義&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;大和川と龍田道が交わる交通上の要地に位置することから、水運や陸上交通と関係する首長の墓と推定する見解がある。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;交通と物流の要衝&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;大阪府柏原市にある古墳時代前期（4世紀前半頃）の全長130mの前方後円墳ある。大和と河内を結ぶ水路（大和川）と陸路（龍田道）の双方が交わる要地に立地する。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;水運の監視&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;大和川水運を統括した首長の墓と推定する見解がある。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;特異な構造&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;近隣の山で採れる板石を積み上げて墳丘や石室を造る。
大型の楕円筒埴輪が出土しており、長径70cm・短径40cm・高さ143cmの個体や、高さ158cmの個体がある。柏原市指定文化財の楕円筒埴輪は、楕円筒埴輪として日本最大とされる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;見どころ&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;①板石を積み上げた特異な墳丘構造、②後円部墳頂に残る石棺、③石棺の前後に立つ円孔をもつ巨大な立石、④大型楕円筒埴輪、が見どころである。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;築造時期&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;古墳時代前期
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;被葬者&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;被葬者は不明
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;柏原市立歴史資料館で楕円筒埴輪や壺形土器、家形埴輪を所蔵（展示される場合もある）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;船氏王後墓誌は三井記念美術館所蔵
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;1922年（大正11年）3月8日　国の史跡指定
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等　&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称 　：松岳山古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地 ：大阪府柏原市国分市場1-6-21
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交 通  ：近鉄大阪線　河内国分駅から1.4km（徒歩21分）
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;柏原市教育委員会（1987）『柏原市文化財概報1986-2：松岳山古墳墳丘範囲確認調査概報:1986年度』柏原市教育委員会
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;岸本直文（2013）「玉手山古墳群･松岳山古墳と河内政権論」百舌鳥･古市古墳群出現前夜（大阪府立近つ飛鳥博物館図録　60）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;白石太一郎（2003）「考古学から見た聖俗二重首長制」国立歴史民俗博物館研究報告　第108集
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>上野毛稲荷塚古墳</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/09/01/9874219</link>
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      <pubDate>Wed, 02 Sep 2026 00:05:30 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-01T23:31:00+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-09-01T23:30:09+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;上野毛稲荷塚古墳&lt;/strong&gt;（かみのげいなりづかこふん)は東京都世田谷区上野毛に所在する古墳時代中期初頭の前方後円墳である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;国分寺崖線上の高台、上野毛から尾山台にかけて広がる野毛古墳群のなかの1基である。
4世紀末頃に造られたと考えられている。野毛古墳群では最初に出現した古墳と推定されている。
前方部は削平されている一方、後円部は比較的良好に残存している。全長約33メートル、後円部の高さは3メートルと推定されている。西岡秀雄による荏原台古墳群の分布調査では「西岡５号墳」の名称とされていた（西岡秀雄（1936））。
1995年（平成7年)と2009年（平成21年)の2回の発掘調査によって、周溝や粘土槨による埋葬施設と割竹形木棺が確認され、鉄刀や管玉などが出土している（世田谷区教育委員会（2009））。1995年（平成7年)に上野毛稲荷塚古墳と名称が変更された。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1997年（平成9年）9月10日に世田谷区指定史跡に指定された。現在は上野毛2丁目緑地内に保存されているが、古墳への立ち入りはできず、緑地の外から見学することになる。墳丘上にあったとされる「稲荷祠」は墳丘の裾付近に移されている。
古墳の土地は、吉良家家臣の末裔とされる世襲名主の家などから世田谷区へ寄付され、現在は区有地として保存されている。
これらの副葬品などから、野毛古墳群で最初に出現した古墳と考えられており、多摩川流域における古墳群の形成過程を知る上でも重要な古墳とされる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;主体部&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;鉄刀
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;管玉
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;築造時期&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;4世紀末頃
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt; 
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：上野毛稲荷塚古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：東京都世田谷区上野毛2丁目12番
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通：大井町線上野毛駅下車 徒歩5分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;西岡秀雄（1936）「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第５号』,pp.301-325
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;世田谷区教育委員会（2009）『2008年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』世田谷区教育委員会
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
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      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>高句麗</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/10/19/9626535</link>
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      <pubDate>Tue, 01 Sep 2026 00:21:30 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-01T00:35:26+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-10-19T00:43:42+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;高句麗&lt;/strong&gt;（こうくり.고구려）は古代中国の東北部から朝鮮半島北部にかけて存在した国家である。その住民や周辺集団は、中国史料で濊貊などと関連付けられることがある。当時の『日本書紀』によれば当時の倭国は高句麗を「高麗」（コマ）と呼んでいた（日本書紀巻第廿二推古紀「高麗僧慧慈歸化、則皇太子師之」）。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;高句麗は古代の朝鮮の三国時代に、中国東北地方から朝鮮半島にかけて支配した強国であった。最盛期には中国東北地方南部から、ロシア沿海地方の一部、朝鮮半島の大部分に勢力を及ぼした。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;最も古い記録は『漢書』「地理志」に玄菟郡の首県として高句驪県が言及されているもので、玄菟郡の設置は前漢の武帝の時代、紀元前107年であった。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『三国史記』の伝承では、紀元前37年に扶余出身の朱蒙（東明聖王）によって建国されたと伝わるが、史実であるかは疑わしいとの見解もある。第三代大武神王は『三国志』高句麗伝に記載があるので、実在性を想定可能であるが、単一資料のため実在が確実ではないとの意見もある。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;紀元前1世紀頃、鴨緑江中流域の集団が地元の部族を統合し、連盟体（部族連合）を形成した。高句麗では消奴部・桂婁部・絶奴部・順奴部・灌奴部などからなる五部が政治的・社会的な基盤となったとされる（『三国志』魏書 巻30 東夷伝 高句麗条）。漢代（紀元前?紀元後）における高句麗五部の動向は『後漢書』東夷列伝に記録されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;『三国史記』によれば、高句麗は、後漢末に遼東の太守公孫氏に追われ、209年に鴨緑江流域の国内城へ遷都し、丸都城を築くなど、部族連合的な性格から次第に王権が強化され、中央集権的な国家に移行したとされる。これを実質的な建国とする見解がある（『三国史記』「高句麗本紀」）。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;三韓は古代の朝鮮半島南部に存在した「馬韓」「辰韓」「弁韓」の3つの部族連合をいう。馬韓地域では後に百済が成立し、辰韓地域には新羅が成立した。4世紀後半以降、高句麗・百済・新羅が朝鮮半島の主要な政治勢力として並立し、これを朝鮮史では一般に三国時代という。一方、半島南部には加耶諸国も存在した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本来の国名は「高句麗」であるが、金石文と歴史記録をもとにして金石文や中国・朝鮮の史料には「高麗」の表記もみられ、長寿王の時代頃に「高麗」が広く用いられるようになったとする見解がある。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;韓国の英文国号の「Korea」という名称は高麗（Goryeo）に由来する。
4世紀以降、仏教を受容し、太学を設置するなど、中国の制度や文化を取り入れながら国家体制を整備した。広開土王碑文などの記録では、高句麗の始祖である鄒牟王（チュモン）は北夫余の天帝の子（천제지자）であり、母は河伯（水の神）の娘であるとされている。高句麗の建国神話には、始祖王を天上世界や河川の神と結び付ける王権神話がみられる。このような始祖の神聖性と系統性を強調する観念は、日本の王権神話と比較されることがある。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;初期の建国地とされる卒本川地域から、3世紀初頭には鴨緑江中流域の国内城・丸都山城を中心とする地域へ政治的中心を移し、5世紀の長寿王の時代には平壌へ遷都した。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;歴代の代表的な王&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;瑠璃明王(第2代。在位前19年 - 後18年)&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;AD12年、新（漢）の皇帝である王莽は匈奴の侵略のため、高句麗に出兵を要求したが、高句麗は従わなかった。王莽は怒り、王莽は、高句麗王の称号を下句麗侯に改め、高句麗を「下句麗」と格下げした。新朝の皇帝である王莽には、中華王朝の冊封秩序のなかで高句麗侯の名称・封号を変更する権力があり、その措置は新朝の公的決定として正式なものであった。『三国史記』によれば、高句麗はその後、国名を元の「高句麗」に戻すよう求めたとされる。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;大武神王（第3代、在位18年 - 44年）&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;『三国志』魏書東夷伝高句麗条によれば、漢の光武帝の建武8年（AD32年）に高句麗王が献使したと伝える。『三国史記』によれば、このときの高句麗王は第3代大武神王（在位18年から44年）である。光武帝から「高句麗王」の称号を回復された（前代の王莽の時代に高句麗との対立や称号の格下げがあった）。
『三国史記』にはAD37年に高句麗が楽浪郡を攻めて滅ぼしたとの記事がある。一方、『後漢書』東夷伝には7年後のAD44年に後漢の光武帝は海を渡って兵を派遣し、高句麗を討って楽浪郡を奪還し、再び漢の支配を回復したとされる。
&lt;/p&gt;
&lt;h3&gt;山上王（第10代、在位:197年 - 227年）&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;第9代王・故国川王の弟とされる（『三国志魏書』は、第6代太祖王の曾孫とする）。第10代の山上王はAD197年、丸都城を築いた（井上秀雄（2004））。なお『三国史記』では198年とする。山腹に築かれた、巨大な山城である。城壁は切石積で、総長6950メートルを超える。『三国史記』によれば、209年に都を丸都城に移したとする。王后は故国川王の王后の于氏だったとされる。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;東川王（第11代）&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;東川王は236年7月には呉の使者を斬りその首を魏に送ったとされる。237年（景初元年）に魏に使者を送り、年号の改正を祝賀した。244年（『三国史記』では246年）魏の魏の幽州刺史・毋丘倹は高句麗の国都である丸都城に来襲し、陥落させた。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;美川王（第15代、在位300年 - 330年）&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;中国史料との対応関係から、4世紀以降の王については実在性を比較的確実に確認できるとする見解がある。具体的には第15代の「美川王）以後は実在性が確実との見解がある。これは中国の正史である『魏書』『梁書』などにおける同時代の記録や、歴史書『三国史記』などの記述を根拠とする。
第14代の烽上王の暴政により300年9月、国相の倉助利らは烽上王を廃位して、乙弗を王位に就け、高句麗王（美川王）とした。
美川王は遼東郡に出兵し、さらに313年に楽浪郡を滅ぼし、翌314年には帯方郡も攻略した。
342年に前燕の侵攻によって墓が暴かれたという記録（『三国史記』など）があり、安岳3号墳については、美川王の墓と関連付ける説がある一方、墓誌にみえる冬寿を被葬者とする説などもあり、被葬者をめぐる議論がある。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;故国原王（第16代、在位331年から371年）&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;369年、2万の軍隊で百済を攻めたが敗北した。371年、故国原王は百済を攻めるため大同江を渡ったが百済の伏兵に破れた。百済の近肖古王は兵3万を率いて高句麗に攻め込み、故国原王は防戦したが流矢に当たって戦死した。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;小獣林王（第17代。在位371～384年）&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;371年、前代の故国原王が百済との闘いで戦死したため、子の小獣林王が第17代の王位に就いた。文教政策を重視し、小獣林王は国力の充実を図った。372年、華北を統一支配していた前秦（五胡の一つ氐が建国した）の苻堅は高句麗に僧順道や仏像・経典を高句麗に送り、これが高句麗における仏教公伝の始まりとされる。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;広開土王（第19代、在位394～412年）&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;4世紀の第19代広開土王のとき、高句麗は最盛期を迎えた。395年8月、百済と闘い、8000人を捕虜とした。396年に百済と闘って勝利し、王の弟を捕虜とした。
広開土王碑には、百済・新羅・倭などとの軍事関係を示す記事が記されている。倭の活動や高句麗との関係については、碑文の解釈をめぐって様々な議論がある。その他、周辺に盛んに遠征して領土を広げ、広開土王の事績を記した広開土王碑は、子の長寿王によって建立された。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;宝蔵王（第28代、在位642年から668年）&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;高句麗の第28代・最後の宝蔵王は中国の唐の侵攻に強く抵抗したが、668年の第3次侵攻で平壌長安城を落とされ、高句麗は滅亡した。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;高句麗が軍事的に強かった要因&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;いくつかの要因が考えられる。
&lt;/p&gt;&lt;ol&gt;&lt;li&gt;山岳地帯や河川を利用した防衛に適した地理的条件がある。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;騎馬軍団など強力な軍事力を保持していた。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;周辺諸国との継続的な戦争経験（戦場の豊富な経験）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;山城・都城の防御体系
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高句麗に王の天孫思想があり、団結力が強化した（人的・物的資源の動員）。
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;
&lt;h3&gt;高句麗の地形条件&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;高句麗は周囲が山に囲まれた険しい地形であり、山岳地帯を利用した優れた防衛力を持っていた。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;騎馬軍団&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;鉄の鎧を着た兵士や馬に乗る騎馬軍団は強力であった。戦車も活用した。高句麗は戦争経験が豊富で、兵士の訓練が行き届いていた。高句麗古墳群の壁画には、完全武装した騎馬や兵士の姿が描かれている。4世紀から5世紀頃の東アジアでは最強クラスの精鋭部隊とされている。4世紀末から5世紀初頭に朝鮮半島へ進出した倭軍（大和政権）は、この高句麗の騎馬軍団と遭遇して大敗を喫した。これを契機として日本列島でも馬の生産や騎馬文化、河内の牧のような国内拠点を整備した。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;高句麗の継続的な戦争経験&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;隋の対高句麗の遠征回数は第一次遠征（598年）、第二次遠征（612年）、三次遠征（613年）、第四次遠征（614年）と続く。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;第一次遠征&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;高句麗の嬰陽王は598年に万余の騎兵を率いて隋の遼西へと先制攻撃し、激怒した隋の文帝は水陸30万の大軍を動員して高句麗へ侵攻したが、悪天候（大雨や台風）や疫病、補給の失敗により隋軍は大きな損害を出して敗退した。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;第二次遠征&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;612年正月、隋の煬帝は高句麗討伐の詔書を下した。総勢113万3800人の遠征軍である。迎え撃つ高句麗軍の将軍乙支文徳は、後退しながら、投降すると偽り隋軍の気が緩んだところを攻撃して大勝した。隋軍は疲労と補給不足に陥っていたと言われる。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;第三次遠征&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;613年4月の第三次遠征は皇帝の煬帝が自ら軍を率いて遼東城を包囲したが、高句麗の抵抗に遭い、楊玄感の反乱もあって撤退することとなった。
高句麗側は食糧などを残さないように農民に伝達して、後方に避難させたとされる（『三国史記』（高句麗本紀））。食糧などの物資を残さないよう住民に徹底させ、城に立てこもらせた戦術を「清野作戦」という。中国側正史『隋書』にも同様の記述がある。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;第四次遠征&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;614年の第四次遠征では随の煬帝は再び親征を行い、平壌城の近郊まで軍を進めた。高句麗の嬰陽王は使者を送って形式的な降伏を申し出たため、これを受け入れた。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;高句麗の防御体系&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;高句麗の都城と山城は強固な防御体系を築いた。その最大の特徴は、「平地城（政治・生活の場）」と「山城（戦時の籠城・防御の場）」を組み合わせて運用する「一対構造」として一体化する「羅城（らじょう）体系」へ進化させた。「平地城」と「山城」を互いに近くに配置し、連動させて国内を防衛した。普段は利便性の高い平地の国内城で暮らしていたが、敵が攻めてくると頑丈な城壁と広い収容力を持つ丸都山城へ王宮ごと避難して徹底抗戦した。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;高句麗の天孫思想と団結力&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;高句麗の天孫思想が最も端的に現れるのが、『三国史記』に記される朱蒙（東明聖王）の誕生・建国神話である。高句麗王家が「天（天帝）」と直接つながる血統であることを示し、支配の正統性を神格した。5世紀（414年）に建立された広開土王碑の冒頭部分に、高句麗の天孫思想が公式な国家記録として「朱蒙が国基を創りたもうた。北夫余より出づ。天帝の子にして、母は河伯の女郎なり）」と記される。中国皇帝の権威を借りず、高句麗王が「天の子（天孫）」として独自の天下を治める権利を持つと主張した。広開土王が中国の元号を使わずに「永楽」という独自の元号を使用したことは、「中国皇帝（天子）とは独立した独自の天の世界（天下）を持つこと」を意味していた。高句麗では、この天孫思想を物語にとどめず、毎年秋に「東盟（とうめい）」と呼ばれる大規模な国家祭祀（収穫祭）を行った。国家的儀礼は、支配階級と民衆の心理的距離を近づけ「同じ天の軍勢である」という連帯感を醸成した。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;倭国との関係&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;4世紀頃に倭国は百済や加耶諸国と結びついており、百済・新羅・加耶諸国を含む朝鮮半島の政治情勢のなかで、高句麗と倭が軍事的に対立する局面があった。5世紀には「倭の五王」は、中国の南朝（宋）に対して高句麗との競合を背景の一つとして、宋に遣使し官爵を求めたと考えられている（『宋書』倭国伝）。6世紀・7世紀になると、この関係が変化し、高句麗僧を通じた仏教や文化の伝来がなされた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;7世紀後半、高句麗は唐の軍事的圧力を受け666年や668年などに倭国に使者を送り、友好関係を求めた（『日本書紀』巻第27・天智紀）。『日本書紀』には666年の献使について「冬十月に、高麗、臣乙相奄鄒（おっしょうあんすう）等を遣わして調進る」と書かれる。高句麗の最高官位層である「乙相」の奄鄒らが来日したことは重要な意味がある。高句麗が唐・新羅によって滅亡させられる直前（668年9月滅亡）の、最後の遣使は唐軍に包囲され、通常の黄海ルートを塞がれて高句麗使は、日本海を渡る「越の路（北陸・東北ルート）」を命がけで航行した。激しい大荒れの海により多くの貢納船が沈没し、大使である南部久の船だけが命からがら倭国にたどり着いた（『日本書紀』巻27天智7年条）。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;推古天皇の時代に、『日本書紀』に登場する高麗僧の慧慈は聖徳太子の師となり、仏教思想の受容に大きな役割を果たしたとされる。『日本書紀』によれば、610年に来日した高句麗僧曇徴は、紙・墨の製法や彩色、研磨などの技術を伝えたとされる。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高句麗の滅亡後は、高句麗からの亡命者（渡来人）が倭国に受け入れられ、のちに武蔵国に「高麗郡」が置かれるなど、歴史的つながりが深まった。高句麗系渡来人を率いた高麗王若光は、高麗郡の成立と深く関わった人物として知られ、埼玉県日高市の高麗神社の祭神となる。埼玉県飯能市の堂ノ根遺跡から、高麗郡への移住者との関連が指摘される須恵器が出土しており、考古学的な裏付けもなされている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;石原道博（1985）『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1』岩波書店
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;一然、金思火華（1997）『完訳　三国遺事』明石書店
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;井上秀雄（2004）『古代朝鮮』講談社
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;金富軾(撰)、鄭早苗(訳注)、井上秀雄(1988）『三国史記』平凡社
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;藤堂明保・竹田晃（2010）『倭国伝』講談社
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古代中国朝鮮</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>八幡塚古墳 (世田谷区)</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/08/31/9873806</link>
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      <pubDate>Mon, 31 Aug 2026 00:05:35 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-30T22:47:30+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-30T22:47:30+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;八幡塚古墳 (世田谷区)&lt;/strong&gt;（はちまんづかこふん)は東京都世田谷区尾山台に所在する古墳時代中期末の造出付円墳である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;国分寺崖線上の高台に所在する野毛古墳群のなかの1基である。墳丘長約33m、円丘部径約30m、高さ約4mで、小さな造出がついた造出付円墳である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;調査&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;調査史&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;1935年（昭和10年）、西岡秀夫が「（西岡）14号墳」として名付けた。1936年（昭和11年）、考古学者の後藤守一が古墳の測量図と写真を報告した。1951年（昭和26年）、大谷勀は付近の農家に保管されていた出土品の石製模造品と銙帯金具破片を紹介した。1971年、早稲田大学により墳丘測量調査が行われた。1975年の墳頂部の立会調査では、世田谷区郷土資料館が参加し、泥質凝灰岩製の箱形石棺とみられる遺構が確認された。1995年2月、現地踏査の際に墳丘上に鉄刀が露出していることが確認された。これを受け、同年4月21日から5月10日にかけて埋葬施設の精査と墳丘測量が行われた。八幡塚古墳整理調査会を立ち上げ、2012年9月18日から2013年3月18日の期間で調査報告書を作成した。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;1992年（平成4年）発掘調査&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;1992年（平成4年）の発掘調査で3基の埋葬施設が確認された。そのうち最も北側に位置する北主体部は長さ約3.85m、幅1.25mの箱形木棺である。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;八幡塚古墳整理調査会(2013)によれば、棺内からガラス小玉924点（世田谷区公式では899点）、「乳文鏡」が鏡面を上にして出土した。棺外から鉄刀1本、鉄槍1本、鉄鏃1束（約30本）とが出土している。八幡塚古墳整理調査会(2013)では、ガラス小玉は頚部、銅鏡は胸部に置かれていたと判断された。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;銅鏡は世田谷区ホームページでは「獣形鏡」となっているが、報告書（八幡塚古墳整理調査会(2013)）では「乳文鏡」となっている。写真から判断すると、明らかに同じ鏡と判断される。
出土品は世田谷区宇奈根考古資料室に収蔵されている。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;調査史のまとめ&lt;/h3&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;1935年　西岡秀夫による命名
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;1936年　後藤守一による測量・写真報告
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;1951年　大谷勀による出土品紹介
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;1971年　早稲田大学による測量
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;1975年　墳頂部立会調査
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;1992年　発掘調査、3基の埋葬施設を確認
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;1995年　鉄刀露出を契機とした埋葬施設の精査・墳丘測量
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;2012～2013年　整理調査
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;2013年　報告書刊行
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;八幡塚古墳の位置付け&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;八幡塚古墳整理調査会（2013）では、野毛古墳群の築造順序を「上野毛稲荷塚→野毛大塚→天慶塚→八幡塚→御岳山→狐塚→尾山北原塚」としている。。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;古墳（周溝墳丘主体部）
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;獣形鏡、
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉄刀、
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉄槍
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉄鏃
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;石製模造品
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;小玉（ガラス製）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;埴輪
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;須恵器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;カ帯金具
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;築造年代&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：八幡塚古墳 (世田谷区)
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：東京都世田谷区尾山台2丁目11
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交　通： 京王線「飛田給」駅下車　300m。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;後藤守一（1936）「東京府下の古墳」『東京都史蹟名勝天然記念物調査報告書』第13冊
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;西岡秀夫（1936）「荏原台地に於ける先史および原始時代の遺物と遺跡」『考古学雑誌』26巻5号
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;八幡塚古墳整理調査会(2013)『八幡塚古墳』世田谷区教育委員会
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>番後台遺跡</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/08/30/9873669</link>
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      <pubDate>Sun, 30 Aug 2026 00:05:25 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-29T23:49:29+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-29T23:49:29+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;番後台遺跡&lt;/strong&gt;（ばんごだいいせき)は千葉県市原市の養老川中流域の高滝湖北岸の台地に所在する縄文時代中期から古墳時代にかけての遺構が確認されているが、特に弥生時代後期から古墳時代にかけて集落が発達した遺跡である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;昭和51年度に千葉県教育委員会が実施した、県内各市町村埋蔵文化財分布調査で発見された遺跡である。養老川の蛇行により囲まれた約0.6km×0.75km程度の三角形状を呈する台地の東の最上部に位置する。現在の高滝湖の北岸にあたり、養老川が蛇行して形成した三角形状の台地上に位置する。養老川総合開発高滝ダム建設工事に際して発掘調査が行われた。発掘調査は昭和54年4月2日から同年12月27日までと、昭和55年3月1日から同年7月31日にかけて実施された。昭和54年4月2日から昭和54年6月27日までトレンチ発掘を行い、昭和54年6月28日から本調査に移行した。
竪穴住居跡は合計130基が見つかった。縄文時代中期の住居跡は1基、弥生時代中期は1基、弥生時代後期は29基、古墳時代は99基である。弥生時代後期には集落が形成され、古墳時代には住居跡99基が確認されるなど、集落が大きく展開した。墓の形式は、弥生時代の方形周溝墓（方形周溝遺構）2基が確認されている。被葬者は当時の有力者層であった可能性がある。
弥生時代後期の竪穴住居跡から板状鉄斧が出土した。東海地方以西に分布する櫛描文様をもつ土器が確認されており、西方地域との文化的交流や影響を示すものと考えられる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;縄文時代中期&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;竪穴住居跡1基は直径約4.8mの円形で、住居跡の中央部から、床面に密着した状態で深鉢土器が出土した。下部は失われているが上部は完形である。口縁部には横S字状に延びる沈線が見られる。器面には縄文や燃糸文を地文として施し、胴部には3本を1組とする縦方向の沈線と、その間に螺旋状の沈線文が施されている。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;弥生時代&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;002A号住居跡は長軸10.9m、短軸9.5mの胴張隅丸方形で壺、甕、船刃石斧（長さ13.4cm 、刃幅6.7cm）、鉄製品（長さ6.8cm、刃幅3.0cm、厚さ5.5cm、重量71g）が採取された（千葉県文化財センター（1982））。
弥生時代後期の004号住居跡は約9.0 × 7.0 mの隅丸長方形で、土器、鉄器、板状鉄斧（長さ12.35cm、刃幅6.0cm 、重量272gをはかる）や磨製石斧などが出土した。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;調査&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：番後台遺跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：千葉県市原市養老字番後台北方
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通：小湊鉄道「月崎駅」から約3km-4km
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;千葉県文化財センター（1982）『市原市番後台遺跡・神明台遺跡』
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;千葉県企画部広報県民課（1983）『千葉県の歴史　資料編考古2』千葉県
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>縄文時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>深大寺城山遺跡</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/08/29/9873540</link>
      <guid>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/08/29/9873540</guid>
      <pubDate>Sat, 29 Aug 2026 00:25:14 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-29T00:25:48+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-29T00:25:48+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;深大寺城山遺跡&lt;/strong&gt;（じんだいじしろやまいせき)は東京都調布市に所在する縄文時代から中世までの複合遺跡である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;深大寺城山遺跡は国分寺崖線周辺に広がる。武蔵野台地の南縁（国分寺崖線）は、古くから豊富な湧き水が得られる場所であり、多摩川の氾濫から安全な高台（段丘縁辺部）には縄文時代の住居跡が確認されている。
神代植物公園の城山地区整備や宅地造成などに伴い、発掘調査や報告書作成が行われてきた。調査は神代植物公園城山地区や中央電気通信学園の敷地などで行われた。特に深大寺城山遺跡は中央電気通信学園（現在のNTT東日本「NTT中央研修センタ」の前身）や神代植物公園城山地区の敷地内に広がる遺跡である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;縄文時代&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1952年（昭和26年）の発掘調査で2軒の竪穴住居がみつかり、縄文土器の破片や、狩猟・加工に使われた石器、炉穴が出土した。石器は石鏃、打製石斧、磨製石斧、凹石（くぼみいし）・石皿（いしざら）、スクレイパー（掻器・削器）、礫などである。当時は湧水が豊富で豊かな落葉広葉樹林が広がっており、これらの狩猟具や植物加工用の石器がまとまって出土することは、縄文人が安定して採集狩猟生活を送っていたと推察されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;弥生時代&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;弥生時代には深大寺城山遺跡がある崖のすぐ下には豊かな湧き水と、湿地帯（低地）が広がり、住居は高台の深大寺城山遺跡に構え、農耕を目の前の低地で行った。多摩地域で最初に確認された弥生時代の竪穴住居跡とされる（調布市市史編纂委員会（1999））。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;弥生時代の竪穴住居跡は、1辺約4mの隅丸方形を呈し、北壁際に炉を設けていた。住居跡からは甕形土器、壺形土器、台付甕などが出土した。甕は口径10.5cmで口縁部に鋸葉状の刻みがあり、胴部に刷毛目整形を施す。甕形土器と台付甕は弥生時代末期の前野町式土器の特徴をもつ。前野町式土器は弥生時代終末期から古墳時代初頭（3世紀頃）にかけて南関東を中心に分布する土器ｹ形式である。台付甕は食物の煮炊きに使う甕の底に、「台（脚）」が付いているのが特徴である。火の熱効率を高める工夫とする見解があり、東海地方から伝わった土器形式とされる。台付甕は東海地方（愛知県の尾張・三河や静岡県など）の弥生文化で非常に発達した器種とされている。弥生時代中期後半から後期にかけて、東海地方からの集団の移動や、技術・物流の交流にともなって南関東（武蔵野台地や多摩川流域）へ流入、あるいは模倣された器種である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;古墳時代&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;深大寺城山遺跡から古墳時代の集落跡や土器などの遺物が出土する。壺形土器は古墳時代初頭の特徴を有する。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;中世&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;16世紀前半の戦国時代には、中世には深大寺城が築かれた。深深大寺城は深大寺城山遺跡に隣接する都立神代植物公園の水生植物園内にあり、16世紀前半の戦国時代に築かれた平山城である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;調査&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：深大寺城山遺跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：東京都調布市深大寺元町2-19
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通：京王線「調布駅」北口から京王バス「深大寺」行きに乗車（約15?20分）、終点または「深大寺」バス停下車　徒歩約3分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;調布市市史編纂委員会（1999）「調布市史　上巻」調布市
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>弥生時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>寺山中丸遺跡</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/08/28/9873356</link>
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      <pubDate>Fri, 28 Aug 2026 00:17:46 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-28T00:18:23+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-28T00:18:23+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;寺山中丸遺跡&lt;/strong&gt;（てらやまなかまるいせき)は神奈川県秦野市に所在する旧石器時代から近世にかけての複合遺跡である。縄文時代草創期の石器製作跡や落とし穴群が確認されたことで知られる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;東の中丸沢と西の小蓑毛沢に挟まれた、西向きの緩斜面上に位置する。金目川の東側に面した標高約204m～207ｍの傾斜地である。1992年に秦野市による確認調査が行われ、2013年度に新東名高速道路の建設に伴う本格的な発掘調査が開始された。2014年度から2016年度に継続して追加のトレンチ・区画調査が実施された。
発掘調査面積は、公表資料によれば4,764平方メートルである。
発掘された土器や石器などの出土品の一部は、近隣の秦野市桜土手古墳展示館で展示される。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;調査&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;旧石器時代&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;2013年調査では、縄文時代草創期に属する有舌尖頭器・槍先形尖頭器の石器製作跡と考えられる範囲を確認した。
翌2014年調査では石器や礫群を検出し、2015年調査で黒曜石の剥片や石器が出土した。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;縄文時代&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;2013年調査で 縄文時代早期～後期の集石遺構や陥し穴状土坑、草創期の石器製作跡が検出された。金目川流域における縄文時代草創期の石器製作活動を示す重要な資料となった。草創期から後期にかけての土器・石器・土製品が出土した。このほか、竪穴住居跡2軒、集石16基、土坑97基（うち落とし穴26基）を検出した。縄文時代草創期の土器は隆起線文土器が出土している。
翌2014年調査では縄文時代中期の竪穴住居1軒、前期～後期に亘る集石遺構や陥し穴状土坑を検出した。
2015年調査では竪穴住居2軒、集石8ヵ所、土坑76基、ピット46基が発見された。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：寺山中丸遺跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：神奈川県秦野市寺山1094-3
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通：小田急小田原線秦野駅から北に約3km
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;神奈川考古学財団（2015）「平成27年度発掘調査成果発表会」
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>縄文時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>飛田給古墳群</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/08/27/9873145</link>
      <guid>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/08/27/9873145</guid>
      <pubDate>Thu, 27 Aug 2026 00:10:38 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-27T00:12:50+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-26T23:28:26+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;飛田給古墳群&lt;/strong&gt;（とびたぎゅうふんぐん)は東京都調布市に所在する多摩川左岸の武蔵野台地南縁に形成された府中崖線周辺の段丘面に位置する古墳時代後期を中心に築造された古墳群である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;調査・記録の時期や古墳の認定方法によって数え方に差があり、十数基から20基程度の古墳や地下式壙などが確認・推定されている。宅地化や道路整備によりその多くが消滅した。
飛田給古墳群は、飛田給地区の府中崖線周辺に分布する古墳群の総称である。調査・記録の経緯から、飛田給1号墳から5号墳のほか、桜塚古墳群として番号付けされた古墳が知られている。桜塚古墳群の一部には飛田給古墳群としての番号も対応しており、桜塚1号墳は飛田給6号墳、桜塚10号墳は飛田給12号墳にあたる。
飛田給1号から5号墳や桜塚古墳群などのうち、現在墳丘や基底部を確認できるのは「桜塚1号墳」と「桜塚10号墳（飛田給12号墳）」の2基だけである。多摩川左岸の段丘上にあり、河原石積みの横穴式石室などが発掘調査で確認されている。周辺には下石原古墳群や白糸台古墳群（府中市）がある。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;調査&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;飛田給1号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;1981年（昭和56年)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝の約3分の1が検出され、未調査部分を含めて復元すると、北西部に陸橋部を持つ推定外径約21mの円墳である。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;飛田給2号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;1981年（昭和56年)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝の一部が検出されており、その後の1995年（平成７年)の調査により未調査部分の周溝が検出され、直径18mの円墳とされた。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;飛田給3号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;周辺を通る古道「品川道」（府中から調布、狛江方面へ抜ける歴史的な古道で別名「いかだ道」「品川街道」ともいう）の敷地や近隣の建物の建設時に消滅した。1981年（昭和56年)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝が検出され、北西部に周溝の一部が途切れた陸橋部が存在する外径19mの円墳であることが確認されている。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;飛田給4号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;1981年（昭和56年)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝の一部が検出されている。土師器の壺形土器や高杯、用途不明の青銅製品は墳丘の主体部である河原石積横穴式石室の内部から出土した。共同住宅などの建設工事に伴う発掘調査で確認されたものであり、跡地は建物の敷地内となっており、地上にその原形や遺構は現在は確認できない。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;飛田給5号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;東京都調布市飛田給二丁目にあったが、現在は消滅して跡形もない古墳である。周溝の存在が確認されているが、墳丘規模や埋葬施設の詳細は明らかでない。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;桜塚1号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;桜塚1号墳は径13ｍ、高2ｍである。墳丘上には祠（お堂）が祀られているものの、周辺は住宅地に囲まれている。飛田給古墳群で墳丘が現存する数少ない古墳の一つである。
所在地は東京都調布市飛田給２丁目8-11。京王線飛田給駅から南西に400m。（飛田給6号墳）。多摩地区所在古墳確認調査団（1995）によると「円墳。裾が大きく削平されている。墳丘に祠が祀られている。東西13m、南北12m。高さ2m。」と書かれる。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;桜塚2号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;飛田給古墳群を構成する消滅した円墳である。発掘調査により、直径約6メートル、高さ約1.5メートルの円墳と確認されている。河原石を積んだ横穴式石室が確認されている。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;桜塚3号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;飛田給古墳群（桜塚古墳群）を構成する墳丘径約24m、周溝を含む外径約30mの円墳である。刀子、金環、銀環、棗玉、ガラス小玉などの副葬品と人骨が出土した。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;桜塚4号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;東京都調布市飛田給2丁目にかつて存在した飛田給古墳群を構成する古墳である。1996年（平成8年）の共同住宅（社宅）建設に伴う発掘調査で河原石積横穴式石室などが検出されたが、現在は共同住宅などの建設により地表上の痕跡を失っている。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;桜塚5号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;桜塚5号墳は、東京都調布市飛田給2丁目にあった、現在は宅地化により消滅している飛田給古墳群（桜塚古墳群）の1つである。過去の調査で横穴式石室などが確認されている。桜塚古墳群の周辺には飛田給遺跡が所在し、縄文時代から古墳時代にかけての土器などが出土している。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;その他の桜塚古墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;桜塚6号墳から9号墳についても古墳の存在が記録されているが、宅地化などによって消滅し、詳細が明らかでないものも多い。河原石積みの横穴式石室と推定されており、鉄鏃６点が出土した。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;桜塚10号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;1995年（平成７年)に行われた共同住宅建設のための調査により確認されている。かろうじて墳丘が残る貴重な2基のうちの1基である。7世紀中頃の円墳で、調査により河原石積みの横穴式石室基底部などが確認調査当時に残されていた。古墳墳丘の残存部分とされる高まりから、埋葬施設である河原石積横穴式石室が検出されており、石室から金環、玉類、鉄鏃等が出土した。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;横穴式石室
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;金環、
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;玉類、
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉄鏃
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;築造年代&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;7世紀頃（古墳時代後期）
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：飛田給古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：東京都調布市飛田給2丁目　付近
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交　通： 京王線「飛田給」駅下車　300m。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;多摩地区所在古墳確認調査団（1995）『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;調布市教育委員会・調布市遺跡調査会（1983）『調布市飛田給遺跡』
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;調布市史編集委員会（1990）『調布市史　上』（1990）
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>下布田古墳群</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2025/12/13/9823516</link>
      <guid>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2025/12/13/9823516</guid>
      <pubDate>Wed, 26 Aug 2026 00:05:51 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-09-06T18:43:49+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2025-12-13T00:24:14+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;下布田古墳群&lt;/strong&gt;（しもふだこふんぐん)は東京都調布市にある古墳時代の古墳群である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;東京都調布市布田六丁目の区画整理事業に伴う発掘調査で発見された。現在、原形をとどめる墳丘はない。下布田6号墳（狐塚古墳）では、2000年の調査時点で墳丘中央部に高さ約80cmの高まりが残されていた。下布田古墳群一帯は、かつて「布田九塚」と呼ばれ、戦前まで複数の墳丘が見られたとされる。
付近に「下布田遺跡」がある。府中市の白糸台古墳群から調布市の飛田給古墳群、下石原古墳群、上布田古墳群、下布田古墳群にかけて、古墳群が多摩川中流域左岸の段丘縁辺に連続して分布している。
なお下布田6号墳（狐塚古墳）は別項で説明するため、ここでは説明を行わない。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;下布田古墳群の位置付け&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;下布田古墳群は、多摩川中流域左岸の立川段丘崖線付近に分布する古墳群である。現在までに約20基の円墳が確認されており、調査された古墳からは5世紀前半頃から7世紀前半頃に及ぶ資料が確認されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;周辺には、白糸台古墳群、飛田給古墳群、下石原古墳群、上布田古墳群などが分布しており、多摩川中流域左岸の段丘縁辺には古墳が集中している。下布田古墳群は、こうした多摩川中流域の古墳分布を考えるうえで重要な古墳群の一つである。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;下布田古墳群では、比較的小規模な円墳に加え、墳丘径約44mの大型円墳である下布田6号墳が確認されている。このことは、古墳時代を通じた当地域の古墳築造の展開や、被葬者集団の変化を考えるうえでも重要である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;調査&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1999年から2001年にかけて行われた発掘調査などにより、これまでに約20基の円墳が確認されている。このうち1999年から2001年の調査では、4号墳および6～13号墳の計9基が検出された。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;下布田4号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;下布田遺跡の東側にあり、周溝の西側から北側が調査された。推定される直径は26mである。築造年代を直接示す資料は出土しなかった。かつて「庚塚古墳」と呼ばれていた。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;下布田7号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;東側の周溝を確認した。墳丘径は約17mである。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;下布田8号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;周溝の一部を確認した。墳丘径は約25mである。周溝から土師器杯3点、須恵器1点、須恵器甕2点、石製紡錘車1点が出土した。出土した須恵器は5世紀中頃から後半に比定される。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;下布田9号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;墳丘径は約22mである。周溝内から土師器の坩（つぼ状の器）1点、壺1点が出土した。周溝の底部では、大型の土師器壺を埋設し、その上部を脚部のない高坏で覆った埋設土器が確認された。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;下布田10号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;河原石で構築された横穴式石室と周溝の一部を確認した。石室は大きく破壊され、原形をとどめていなかった。墳丘径は約23mである。石室の構造から7世紀前半の築造とみられる。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;下布田11号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;墳丘径は約22mである。下布田遺跡から道路を挟んだ北側である。周溝内から5世紀前半の土師器坩1点が出土した。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;下布田12号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;墳丘径は約22mである。周溝の中から5世紀末から6世紀前半に比定される須恵器甕が出土した。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;下布田13号墳&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;墳丘径は約13mである。周溝の上部から6世紀に比定される土師器杯が出土した。周溝の北西部にブリッジがある。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;横穴式石室
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;鉄製大刀3本
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鍔1点、
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;小刀1点、
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;刀子1本、鉄
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鏃1本、
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;須恵器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;土師器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;土師器坩
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉄製大刀
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鍔
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;小刀
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;刀子
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉄鏃
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;須恵器甕
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;石製紡錘車
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;2014年（平成30年）3月15日　東京都指定史跡　（下布田6号墳）
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;築造年代&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;5世紀中頃から6世紀前半
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;調布市郷土博物館
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：下布田古墳群
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：東京都調布市布田六丁目53番１
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交　通： 京王線「布田」駅下車徒歩10分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;石森直吉『たづくりを巡りて』
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;調布市市史編集委員会（1990）『調布市史 上巻(原始から中世)』
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>五番田遺跡</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/08/25/9872758</link>
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      <pubDate>Tue, 25 Aug 2026 00:05:59 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-08-24T23:48:09+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-08-24T23:48:09+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;五番田遺跡&lt;/strong&gt;（ごばんだいせき)は、新潟市江南区茅野山に所在する縄文時代から弥生時代にかけての遺跡である。砂丘下の埋没地形から発見され、縄文時代前期から弥生時代にかけての遺構・遺物が確認されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;2021年の試掘調査で発見された。地表から約2.5～3.3m掘り下げた砂丘下層から遺構・遺物が発見された。まとまって出土した石や当時の地形が確認されている。縄文時代から弥生時代にかけての遺構と遺物が発見されている。
遺構は
&lt;/p&gt;&lt;ol&gt;&lt;li&gt;①縄文時代の建物1棟及び弥生時代の建物1棟が発見されている。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;②人為的に集められたと見られる石10数か所が見つかった。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;③当時の川跡が確認されている。
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;④縄文土器がまとまって配置されたとみられる遺構がある。
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;&lt;h2&gt;川跡&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;川跡の確認により、縄文時代から弥生時代にかけての遺跡周辺の地形や、水辺と砂丘との位置関係を復元する手掛かりが得られた。川跡（特に水気が残る低湿地）は空気に触れにくいため、通常の土壌では腐って消えてしまう木製品や植物の種、骨などが腐らずにそのまま残ることがある。川跡に積もった土の層（地層）や、そこに含まれる火山灰・土器の破片を分析するにより、「何百年前に川が干上がったか」「いつ洪水が起きてルートが変わったのか」といった自然環境の変化を調べることができる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;土器&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;2,000年前の「弥生土器」&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;ほぼ原形を留めた形の土器が発掘されている。この時期には水稲農耕が各地に広がっており、弥生土器は煮炊きや貯蔵など、日常生活のさまざまな用途に用いられた。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;2,900年前の「縄文土器」&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;川跡や砂丘の調査において、「きれいに敷き詰められた状態」や、地面に「上下逆に置かれた状態」で見つかった土器がある。縄文土器には集中して配置されたものや逆位の状態で検出されたものがあり、その配置状況は、土器が単に廃棄されたものではなく、何らかの意図をもって置かれた可能性を考える上で注目される。祭祀的行為との関連を示す可能性が指摘される。
他の可能性として、墓（埋設土器）としての利用で、亡くなった幼児や子供の遺骨、または胎盤などを土器に入れ、蓋をするように「逆さま」にして土に埋める風習（再葬墓や埋設土器）が当時の日本各地で見られたことである。
&lt;/p&gt;&lt;h3&gt;5,500年前の「縄文土器」（縄文時代前期）&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;五番田遺跡で確認されている最も古い段階の土器で、縄文時代前期から晩期、さらに弥生時代に至る各時期の遺物が確認されており、長期間にわたって砂丘とその周辺環境が繰り返し利用されていたことを示している。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;利用形態&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;建物が少なく、恒常的な居住を示す痕跡が限定的であることから、五番田遺跡は大規模な定住集落ではなく、周辺の集落から人々が訪れて一時的・季節的に利用した場所であった可能性が考えられている。縄文時代の人が主に活動したと考えられる範囲がほぼ判明する成果があった。弥生時代前期の土器も出土し、この時期にも遺跡周辺が人々によって利用されていたことが明らかになった。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺跡の特徴&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;五番田遺跡の大きな特徴は、「まとまって出た石」が非常に多く見つかっている点である。これらは縄文時代晩期（約2900年前）の遺物と推測されている。五番田遺跡では、石がまとまって検出された地点が10数か所確認されている。これらがどのような目的で集められたのかは、石材の種類や配置状況、周辺の遺構との関係を含めて検討する必要があるが、人為的な集積である可能性が注目されている。
砂丘の下に埋没していた縄文時代前期から弥生時代に至る複数時期の活動痕跡が確認され、建物跡、石の集積、川跡、土器の特徴的な出土状況などから、人々と砂丘・水辺環境との関係を考えることができる
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;調査&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;縄文時代の建物
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;弥生時代の建物
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;集石遺構
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;弥生土器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;縄文土器
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;時期&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：五番田遺跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：新潟市江南区茅野山　（亀田総合体育館付近）（国道403号沿い）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交　通：JR「亀田駅」西口からバス（江南区区バスまたは住民バス「カナリア号」）で「アスパーク亀田」下車 徒歩
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;新潟市文化財センター（2025）「新潟市遺跡発掘調査説明会2025」
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>縄文時代</dc:subject>
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