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    <title>新古代史の散歩道</title>
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    <language>ja</language>
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    <pubDate>Tue, 23 Jun 2026 00:31:35 +0900</pubDate>
    <item>
      <title>池島･福万寺遺跡</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/06/23/9861466</link>
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      <pubDate>Tue, 23 Jun 2026 00:31:05 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-23T00:31:35+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-23T00:31:35+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;池島･福万寺遺跡&lt;/strong&gt;（いけしま・ふくまんじいせき)は大阪府東大阪市から八尾市にかけて広がる縄文時代から近代に及ぶ複合遺跡である。弥生時代前期の水田跡が良好な状態で発見されたことで知られる。弥生時代前期の水田跡と農耕関連遺物で知られる複合遺跡である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;調節池・遊水池整備事業に伴い、大規模な発掘調査が実施された。
弥生時代の水田面が3面出土し、弥生時代前期初頭（約2400年前）の水田跡が極めて良好な状態で確認され、水稲耕作の実態を知る重要な資料となっている。さらに木製鍬、石包丁などの農耕具などが出土している。土器として短頸壺、長頸壺、細頸壺が出土している。器台ないし壺の口縁端部には連続渦文が施されている。木製品には杓子状未製品、竪櫛、鋤、杭、鉢などが含まれる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;意義&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;弥生時代前期の水田跡から発見された資料として、現在確認されている国内最古級のコウノトリの足跡が、人やシカの足跡とともに発見された。当時の湿地環境の中で、人と野生動物が同じ空間を利用していた様子をうかがうことができる。湿地帯に立地するため、度重なる洪水被害とそれを克服しようとする人々の営みが地層に残る。水田を区切るあぜ道、木製の導水管など、水田を区画する畦や木製導水施設などから、当時の水管理技術を知ることができる。稲の根の痕跡である根成孔隙については、X線CTなどを用いた分析研究が行われ、当時の農耕環境の復元と農耕技術を解析が進められている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;溝
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;ピット
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;水田
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;大畦畔
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;畦畔
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;石庖丁
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;弥生土器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;サヌカイト剥片
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：池島･福万寺遺跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：大阪府東大阪市池島町、大阪府八尾市福万寺町
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通： 
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;財団法人大阪府文化財センター（2002）「池島･福万寺遺跡２」遺構・遺物編
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>弥生時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>芝山町立 芝山古墳・はにわ博物館</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/05/14/9586076</link>
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      <pubDate>Mon, 22 Jun 2026 00:10:20 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-22T00:14:22+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-05-14T20:36:55+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;芝山町立 芝山古墳・はにわ博物館&lt;/strong&gt;(しばやまちょうりつこふん・はにわはくぶつかん)は千葉県山武郡芝山町に所在する、房総地域の古墳と埴輪をテーマとした博物館である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;博物館の概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;芝山町立 芝山古墳・はにわ博物館では遺跡資料や埴輪、復元された古代衣装や竪穴住居などを展示し、古墳時代の生活や社会、技術を紹介している。
3個所の展示室は1フロアに集約されている。第一展示室では主に埴輪を展示し、第二展示室では「芝山はにわ祭」の古代衣装、復原竪穴住居、土器などを展示する。第三展示室では芝山町の遺跡から出土した石器、縄文土器、墨書土器などを紹介する。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;開館年・テーマ&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1988年（昭和63年）5月1日に芝山公園内に開館し、「房総の古墳と埴輪」をテーマとした展示を行っている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;国指定重要文化財&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;殿塚古墳、姫塚古墳から出土した埴輪48点は2024年（令和6年）に国指定重要文化財に指定された。顎髭を生やした男子埴輪、巫女と考えられる女子埴輪、馬子と馬の埴輪、武人埴輪、家形埴輪のほか、鉄鏃や鉄剣なども展示されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;殿塚古墳・姫塚古墳出土埴輪の重要性&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;千葉県横芝光町の殿塚古墳・姫塚古墳（芝山古墳群）出土の埴輪は、古墳時代後期（6世紀後半）の関東地方における埴輪祭祀の様相を極めて高い造形技術で伝えている点に学術的な重要性がある。姫塚古墳の埴輪列は葬列（葬送の行列）を表したものとされる。
埴輪が古墳の中段外側を向いて整然と並んでいたことが発掘調査で確認されており、葬送の行列や埴輪配列の意味を解明する上で極めて重要な資料とされる。人物を中心とする形象埴輪群は、いずれも大型で精巧な造りをしている。特に姫塚古墳出土の、あごヒゲを蓄えて帽子（天冠）をかぶる男性全身像などは、当時の首長層の権威や社会背景を知る貴重な資料である。
東日本を代表する埴輪群像として、当時の葬送儀礼や地域的特色を示す重要な資料である。*朝日ノ岡古墳出土の埴輪の重要性
朝日ノ岡古墳出土の武人埴輪は、美豆良の髪型と、褌を膝下で脚結（あゆい）した動きやすい服装が特徴である。出土した武人や女子の形象埴輪では、当時の人々の姿を具体的に知ることができる。木戸川流域を中心とする当地域で製作された埴輪は「下総型」とも呼ばれ、、他の地域の画一的な生産ではなく、各地域の首長が独自の表現を取り入れながら共通性も備えた埴輪群を配置しており、当時の政治的・社会的ネットワークを読み解く重要な手がかりとなる。女子埴輪は頭上で髪をまとめた髷（まげ）や、スカート状の衣服「裳（も）」など、儀式用の服装の特徴がよく表れている。出土した埴輪は、古墳時代の人物埴輪や形象埴輪における地域の特性や古代の服装を現代に伝える重要な考古資料となっている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;山田・宝馬188号墳の埴輪の重要性&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;出土した「女子埴輪」は乳房が表現されている貴重な例であり、古代の女性の容姿や装飾、服飾を知るための重要な資料である。山武地方の女子埴輪の特徴をよく表す資料として知られる。馬形埴輪には辻金具や引き手などの馬具が精巧に表現されている。房総半島における古墳時代の葬送儀礼や当時の地域社会を読み解く上で学術的に極めて重要である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：芝山古墳・はにわ博物館
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：〒289-1619　 千葉県山武郡芝山町芝山438-1
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通： ＪＲ松尾駅・芝山千代田駅から芝山ふれあいバスで20分 「芝山仁王尊」下車徒歩10分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;芝山町立 芝山古墳・はにわ博物館（2023）「殿塚・姫塚の埴輪群像」芝山町立 芝山古墳・はにわ博物館
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
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      <dc:subject>古代史展示施設</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>年縞博物館</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/06/21/9861123</link>
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      <pubDate>Sun, 21 Jun 2026 00:30:21 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-21T00:34:37+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-21T00:34:37+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;年縞博物館&lt;/strong&gt;（ねんこうはくぶつかん）は福井県若狭町に所在する、水月湖の湖底で発見された約7万年分の年縞を分かり易く展示し、研究する博物館である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;2018年9月15日にオープンした。7万年分の年縞を長さ45mのステンドグラスとして可視化した展示がある。水月湖は大規模な流入河川がなく静穏な環境にあるため、最大水深38.0mの汽水湖の湖底は無酸素状態のため底生生物による攪乱がほとんど起こらない。約7万年にわたり連続して年縞が保存されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;底生生物とは海や川、湖などの水底に生息する生物の総称である。水底の砂泥中に潜るもの、湖底の岩に固着するもの、湖底付近を這うものなどがある。湖周辺の断層の影響により湖の底面が沈降し続けており、湖底に毎年堆積物が積もっても湖が埋まることがない。1年の抜けもなく7万年分が連続して堆積している例は世界でも極めて稀である。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;過去7万年の環境の変遷を詳細に復元できることから、「環境のタイムマシン」とも呼ばれている。考古学や地質学では放射性炭素年代測定の較正データとして利用されており、「年代測定の世界標準のものさし」として国際的に高く評価されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;年縞の利用方法&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;年縞に含まれる花粉や火山灰を分析することで、過去の気候変動や植生、降水量、火山噴火などを復元し、時期を年単位で特定できる。人類史や自然環境の研究に活用されている。モンゴルやフィンランド、死海、イタリア・モンティッキオの年縞など世界各地の貴重な年縞サンプルも展示する。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：年縞博物館
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地:福井県三方上中郡若狭町鳥浜122-12-1
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;入館料:個人（大人）500円（2026年5月時点）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通:JR小浜線　「三方駅」下車　タクシー５分（徒歩20 - 25分）
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;年縞博物館　パンフレット
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
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      <dc:subject>古代史展示施設</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>検見坂古墳群</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/06/19/9860936</link>
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      <pubDate>Sat, 20 Jun 2026 00:07:09 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-19T23:43:17+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-19T23:36:11+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;検見坂古墳群&lt;/strong&gt;(けみざかこふんぐん)は、福井県小浜市に所在する古墳時代後期の群集墳であり、円墳と横穴墓から構成される若狭地方を代表する古墳群である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;6世紀後半に築かれた若狭地方を代表する大規模な古墳・横穴墓群である。山の尾根から山麓にかけて、現在確認されている円墳49基と横穴墓48基のほか、未確認のものを含めると約140基の古墳が存在したと推定されている。古墳と横穴墓で構成される古墳群である。
古墳群内にある43号墳（神通寺北方の円墳）と54号墳は、横穴式石室が古くから開口しており、現在も石室内部を見ることができる。山麓斜面の軟質岩盤を掘削し、羨道と玄室を設けた横穴墓が造られている。第2号墳の横穴墓は盗掘を免れており、内部には棺座と考えられる施設が残されていた。出土品として須恵器26点、土師器1点、鉄鏃1点が発見されている。築造時期は6世紀後半頃（古墳時代終末期）と見られている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;築造時期&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;6世紀後半頃（古墳時代終末期）
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;昭和50年1月28日 小浜市指定史跡
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示保管&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：検見坂古墳群
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：福井県小浜市遠敷検見坂
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通：JR小浜線「東小浜駅」から徒歩圏内
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
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      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>都塚古墳</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/10/25/9628256</link>
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      <pubDate>Fri, 19 Jun 2026 23:01:03 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-19T23:02:45+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-10-25T16:41:30+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;都塚古墳&lt;/strong&gt;（みやこづかこふん)は奈良県高市郡明日香村阪田に所在する古墳時代後期（7世紀前半）に築造された方墳である。別名を「金鳥塚（きんちょうづか）」という。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;南北に伸びる尾根の先端の傾斜地に位置する。都塚古墳では毎年正月元旦に金鶏が鳴く「金鶏伝説」がある。石舞台古墳の近隣に位置し、7世紀前半に築造された終末期古墳である。1967(昭和42)年には関西大学文学部考古学研究室(網干善教教授)により発掘調査が行われた。玄室内には凝灰岩製の家形石棺と棺台の存在から木棺が追葬されていたことが明らかとなったた。墳丘は階段状に石積みされ、階段ピラミッドを思わせる外観であったと考えられている。調査に携わった関西大学の米田文孝教授は、「百済や高句麗には階段状の墳墓がみられるが、都塚古墳とは時期や切石を用いる構造が異なり、直接比較には慎重な検討が必要である」と指摘している。中国・朝鮮半島の積石塚との関連性を指摘する見解もあるが、類例については引き続き検討が必要とされている。
段築は5段以上あったとみられ、1段の高さは30～60cm。段の部分に拳大から人頭大の石を垂直に積み上げていた。墳丘の周囲を巡る幅1～1.5メートルの周濠跡も見つかった。
復元長は東西約41ｍ、南北約42ｍ、高さは4.5ｍ以上である。
出土遺物には土師器・須恵器・鉄製品(刀子・鉄鏃・鉄釘・小札)などがある。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;石室&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;江戸時代に既に入り口が開いており、石室は石英閃緑岩を使った両袖式横穴式石室で、全長12.2mを測る。盗掘のため副葬品のほとんどは散逸している。玄室長は5.3m、幅2.8m、高さ3.55m、羨道長6.9m、幅1.9～2.0m、高さ約2mである。ます。玄室内に暗渠排水溝が設けられている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;石棺&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;玄室内には二上山産の凝灰岩で造られたくり抜き式の家形石棺（総高1.72メートル）が安置されている。
棺は6個の縄掛け突起がある。石棺の規模は棺身の長さ2.23ｍ、幅1.46ｍ、高さ1.08ｍで、内法は長さ1.74ｍ、幅0.82ｍ、深さ0.65ｍを測り石棺の総高は1.72ｍ。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;被葬者&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;被葬者は馬子の父、蘇我稲目など同氏の有力者の説や渡来系氏族との説がある。付近一帯には蘇我氏の本拠地であり、蘇我馬子の墓と推定される石舞台古墳や、馬子の邸宅と推定される島庄遺跡がある。石舞台古墳と開口方向が同じである。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;規模&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;形状 方墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;東西41メートル・
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;南北42メートル、
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高さ4.5メートル以上
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;【周濠】幅1～1.5メートル 深さ0.4メートル
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;玄室 
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;長さ：5.3メートル
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;幅：2.8メートル
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高さ：3.55メートル
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;li&gt;羨道
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;長さ：6.9メートル
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;幅：1.9-2.0メートル
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高さ：約2メートル
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;土師器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;須恵器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;刀子
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉄鏃
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉄釘
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;小札
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;瓦器
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h2&gt;築造&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;６世紀末
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;2017年（平成29年）10月13日 国の史跡指定
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称： 都塚古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地： 〒634-0122　 奈良県高市郡明日香村阪田 
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通： 橿原神宮前駅からバス30分 石舞台下車
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;大塚初重（2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>花聳2号墳</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/06/19/9860806</link>
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      <pubDate>Fri, 19 Jun 2026 00:05:21 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-19T00:06:26+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-19T00:06:26+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;花聳2号墳&lt;/strong&gt;（はなそげにごうふん)は福岡県小郡市に所在する古墳時代中期の直径約32mの円墳である。鉄鋋や刀子など多数の鉄製品が出土し、朝鮮半島との交流や北部九州の鉄資源流通を考える上で重要な古墳として知られる。花立山丘陵に所在する花聳古墳群の一基である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;花立山丘陵の南西部に広がる「上岩田遺跡」の一角に所在する古墳である。花聳古墳群に属する古墳である。花聳古墳群では、1号墳から三角板皮綴短甲、2号墳は直径32ｍ程の円墳であり、鉄製の鋤先や刀子、さらに鉄素材として利用されたと考えられる鉄鋋16本など多数の鉄製品が出土した。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;出土した鉄鋌は朝鮮半島から持ち込まれたものとされており、当時の「渡来人」や交易の歴史を解明する重要な資料と位置づけられており、渡来系集団との関係が研究者により指摘されている。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;出土した大量の鉄製品は、古墳時代中期における北部九州の国際交流や鉄資源流通の実態を示す資料として重要である。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;出土遺物は九州国立博物館と小郡市埋蔵文化財調査センターの2カ所に収蔵されている。
九州国立博物館には鉄製品の素材である「鉄鋋」や「鍛造鉄斧」などが保管される。
小郡市埋蔵文化財調査センターでは花聳2号墳を含む、市内の発掘調査で出土した記録や一部の資料・写真パネルなどが展示される。
築造時期は4世紀後半頃?5世紀（古墳時代前期から中期）である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：花聳2号墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：福岡県小郡市三沢花聳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通： 
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;大沢正己（1977）「鉄〔テイ〕の新例に関する検討--福岡県小郡市花聳(はなそげ)2号墳の出土遺物」考古学雑誌,p.p280～310,日本考古学会
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>狐塚古墳 （世田谷区）</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2025/11/23/9819070</link>
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      <pubDate>Thu, 18 Jun 2026 22:13:48 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-18T22:15:15+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2025-11-23T00:36:11+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;狐塚古墳 （世田谷区）&lt;/strong&gt;（きつねづかこふん)は、東京都世田谷区に所在する古墳時代後期前半（6世紀前半）に築造されたと考えられる円墳である。発掘調査では「西岡12号墳」の名称でも呼ばれる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;多摩川沿いの国分寺崖線の台地先端部に立地する。直径約31メートル(周溝幅を含む)、高さ約4.6メートルの円墳である。野毛古墳群に属し、その中心的古墳である野毛大塚古墳に近接する。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;規模&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;現在確認できる墳丘は約31m（周溝を含む）であるが、『新修世田谷区史』の記載では20～30m、発掘調査者による復元推定では約40mである。
『新修世田谷区史』（1962年）によれば、1932年に田園都市会社により墳丘一部が削られ、土器片が採取されたという。しかも直径20mから30mの円墳で円筒埴輪が二重に巡ると書かれる。かつて古墳の頂上には稲荷社の小さな祠があったため、狐塚古墳と呼ばれる。野毛古墳群を構成する古墳の中では、築造時期が最も新しい段階に属すると考えられている。現在は「世田谷区立狐塚古墳緑地」として保全されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;調査&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;2013年までに3回の調査が行われた。第一次調査は1978年（昭和53年）2月10日から2月22日まで。1978年の調査時に墳丘から埴輪の破片が出土し、築造時期は古墳時代後期前半(6世紀前半)と見られる。東西両側が道路により削平され、南北両側は人家により切られており、現在の墳丘は東西34m、南北30mの範囲が残存するが、『新修世田谷区史』の築造当初は直径約40mの円墳であったと推定されている。
第二次調査は2007年（平成19年）2月19日から3月20日までであった。縄文時代の土器・石器、古墳時代の土師器が出土した。地中レーダ探査を実施した。地中レーダ探査では埋葬施設は確認されず、構造は明らかになっていない。
第3次調査は2012年（平成24年）7月17日から10月31日に行われた。周溝は確認できなかったが、盛土量から幅8メートル、深さ2メートル前後と推定されている。1932年（昭和7年）の区画整理で、墳丘の大部分が削平されているため、帆立貝式古墳または造出部付円墳の可能性は確認できなかった。出土した土器は須恵器型式「TK23型式」段階と見られた。出土土器「TK23型式」は5世紀後半の土器とされる。
縄文土器は五領ヶ台式、阿玉台式、撚糸文系土器、諸磯式土器が出土した。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;規模&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;葺石 なし&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;埴輪　あり&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;遺構&lt;/h2&gt;
&lt;h2&gt;遺物&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;縄文土器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;弥生土器
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;土師器
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;築造時期&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;5世紀後半
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;展示&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス等　&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称 　：狐塚古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地 ：東京都世田谷区尾山台2丁目17番10号
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交 通  ：東急大井町線尾山台駅　から徒歩約10分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;世田谷区教育委員会（1980）「根津山遺跡・狐塚古墳他」
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>帯金具</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/09/30/9621849</link>
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      <pubDate>Thu, 18 Jun 2026 22:12:50 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-18T22:29:14+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-09-30T19:13:13+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;帯金具&lt;/strong&gt;（おびかなぐ）は古墳時代から律令期にかけて東アジアで用いられた腰帯の装飾・留め具の総称であり、中国・朝鮮半島・日本から多くの出土例が知られる。革や布製の腰帯に取り付けられ、金属製を中心とする。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;中国では戦国時代に帯留金具としての帯鉤が普及した。魏晋南北朝時代には北方騎馬民族の胡服の流入とともに帯を金具で飾る風習が定着した。
古墳時代から律令期にかけての日本では、布や皮革製の帯に各種の帯金具が取り付けられた。飾り金具には銙板、銙帯金具がある。端には銙具、尾錠をつけ、もう一方には帯先金具、鉈尾をつける。出土時は帯の本体は腐朽しており、帯金具だけが残る。
朝鮮半島の新羅では唐草文の帯金具が主流だが、中国の帯金具の影響を受けた竜文透彫り帯金具も新羅で製作された。銙板には方形、長方形、宝珠形がある、垂飾や鈴が付くものが多い。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;素材&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;金具は金銅製が多く、中には銀製もある。古墳時代の日本列島では、4世紀中葉と末に加耶地域との交流を通じて中国の晋式帯金具が、5世紀中葉から後半には新羅の竜文帯金具がもたらされている。ただ、日本で帯金具が本格的に普及したのは、律令期に金属製や石製の銙を取り付けた銙帯（かたい）が役人の服制として採用されて以降である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;装飾&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;透彫り文様は、龍文、虎文、鳳凰文、唐草文などがある。精巧なものが多い。帯の幅は3cm前後で、帯金具は約10個が間隔を空けて装着されていたと考えられる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;出土例&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;龍文透彫帯金具 - 稲荷山古墳第１主体（礫槨）出土、埼玉県行田市、埼玉県立さきたま史跡の博物館
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;青銅製の帯金具　- 穴太遺跡、滋賀県大津市下阪本、9世紀後半～10世紀
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
</description>
      <dc:subject>古代史関連用語</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>六反田南遺跡</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/06/18/9860632</link>
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      <pubDate>Thu, 18 Jun 2026 00:11:45 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-18T00:12:22+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-18T00:12:22+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;六反田南遺跡&lt;/strong&gt;(ろくたんだみなみいせき)は、新潟県糸魚川市に所在する縄文時代の集落遺跡である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;日本海から直線距離で約200mの海川下流の右岸、標高3から6mの沖積地に立地する。
集落廃絶後、約1mに及ぶ洪水堆積層に覆われたため、遺構・遺物は良好な状態で保存された。さらに各生活面の間にも厚い洪水堆積層が形成されたことで、縄文時代の集落跡が層位的にも極めて良好に残された。
上層・中層・下層の3つの生活面が確認され、それぞれから生活の痕跡が検出された。大規模な廃棄域（ゴミ捨て場）が見つかっている。大量の遺物が出土した廃棄域の周囲に長さ50cmを超える大型の礫を中心に列石が作られていた。列石は廃棄域と居住域を区画する施設とも考えられるが、縄文時代の祭祀に伴う記念的施設とする見解も示されている。石器の石材のほとんどは、遺跡から直線で約2kmの所を流れる早川産の玢岩（ひん岩）で、西に約5㎞離れた姫川産の砂岩も含まれる。石器の中でも、とくに磨製石斧の未成品（製作途中品）が大量に出土しており、石斧製作が行われていたことを示す資料として注目される。
土器は石川県や富山県を分布の中心とする新崎式、上山田式・天神山式土器を主体として、東北系・越後系が見られる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;遺構と遺物&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;遺構としては土坑、炭化物集中、溝、ピットが見つかっている。遺物は縄文土器（新崎式、上山田、天神山式、大木7から8a式、中部高地系）、土偶、ミニチュア土器、耳飾、石鏃、石匙、石錐、不定形石器、打製石斧、打製石斧未成品、磨製石斧、磨製石斧未成品、スクレイパー、鋸歯縁石器、敲磨石、砥石、石皿、石核、貝殻状剥片、石製垂玉、円盤状石製品、石棒未成品、動物遺存体、植物遺存体が出土した。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;放射性炭素年代測定（2013 年度）&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;た竪穴建物に伴う柱根や敷物とされる炭化物、焼失住居とされる竪穴建物から出土した建築部材と考えられる炭化材、Ⅶ層及びⅦ層上面に確認された立木、市道2区下層で確認された立木などの計12点について放射性炭素年代測定を行った。
12試料はいずれも較正暦年代でcalBP 5,308～4,085の範囲に収まり、縄文時代中期前葉から後期前葉頃に相当する。縄文時代中期前葉から後期前葉頃までの年代に相当する。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;磨製石斧の未成品&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;磨製石斧の未成品が大量に出土することは専門的な石器生産の分業化を示す証拠との説がある。村人各自が自給自足で作っていた段階から、生産の専門化・分業化が進んだと見ることが出来る。さらに原料石材の産地から遠く離れた遺跡で未成品が大量に出土する場合は、石材の原石や粗い加工段階（半製品）の状態で長距離を運搬・交易してしていた可能性が高い。広域な交易と石材流通ネットワークの解明が必要となる。磨製石斧は、主に木の伐採、丸木舟の製作、土地の開墾など本格的な環境改変などに用いられる最も重要な工具である。
多くの完成品を消費する集落の出現や活動（計画的な森林伐採など）が存在したと見られる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：六反田南遺跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：新潟県糸魚川市大和川字六反田1195
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通：梶屋敷駅から徒歩25分。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;新潟県教育委員会（2018）「六反田南遺跡Ⅵ」
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>縄文時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>阿波国造碑</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/08/10/9608704</link>
      <guid>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2023/08/10/9608704</guid>
      <pubDate>Wed, 17 Jun 2026 00:05:43 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-17T00:23:29+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2023-08-10T09:54:39+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;阿波国造碑&lt;/strong&gt;（あわこくぞうひ)は徳島県名西郡石井町の中王子神社の神体とされていた奈良時代に製作された焼成土（塼）製の墓碑である。徳島県指定有形文化財である。中王子神社が所蔵し、神社境内に保存・展示されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;阿波国造碑は明治時代に出土して中王子神社に奉納されたと伝えられるが、詳しい出土地点や経緯は明らかではない。723年（養老７年）の紀年銘をもつ墓碑で、現在は中王子神社の御神体として伝えられている。正面に3行・19字、向かって左側面に2行・10字の銘文が楷書体で刻まれる。銘文には、阿波国造であった名方郡大領の粟凡直弟臣の墓で、723年（養老７年）に建立したと書かれる。焼成土で作られた小型の墓碑である。
上下にほぞがあることから、製作時に台座と笠にあたる部分が付いていた可能性が高い。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;被葬者&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;碑文によれば阿波国造で名方郡（奈良時代、平安時代の郡の名称、現在の名東郡と名西郡）の大領（郡司、郡の長官）であった栗凡直弟臣（被葬者）が723年（養老七年）頃に没したため、同年に造られた墓碑である。「大領」は律令制における郡の最高職で、郡の行政を統括した。「栗凡直」は氏族名であり、吉野川下流において勢力があった豪族である。「弟臣」は栗凡直に属する人物である。墓に墓石を立てて官位・姓名を記すところは「葬送令」に従った墓碑であり、字体、焼成から奈良時代のものとされる。墓誌としては最古級である。律令制では墓碑の建立は高位者に限られていたとされるため、正七位下の人物の墓碑である本碑は、その運用実態を考える上で注目されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;寸法&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;高さ　19.8cm
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;幅　　17.4cm
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;厚さ　9.9cm
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;碑文&lt;/h2&gt;
&lt;h3&gt;表面（正面）　3行19文字&lt;/h3&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;阿波国造
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;中方郡大領正七位下
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;栗凡直弟臣墓
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h3&gt;側面　2行10文字&lt;/h3&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;養老七年歳次癸亥 
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;年立
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;碑文には「養老七年歳次癸亥」「年立」と刻まれている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;1990年（平成2年）11月27日　徳島県指定文化財
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;管理概要&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称 - 阿波国造碑
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地　-徳島県名西郡石井町石井字石井1784
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通　- JR徳島線「石井駅」下車、南方向へ徒歩約20分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;平河南他（2004）「支配と文字」『文字と古代日本１』吉川弘文館
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;栄原永遠男編（2005）「神仏と文字」『文字と古代日本 4』吉川弘文館
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;松原弘宣（2004）「国造と碑-那須国造碑と阿波国造碑」『文字と古代日本1」,pp.43-58
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古代史史料</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>敦賀郷土博物館</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/06/16/9860285</link>
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      <pubDate>Tue, 16 Jun 2026 00:02:35 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-16T00:05:55+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-16T00:05:55+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;敦賀郷土博物館&lt;/strong&gt;(つるがきょうどはくぶつかん)は福井県敦賀市に所在する私立博物館である。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;博物館の概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;八幡神社（福井県敦賀市）宮司であった石井右近が、長年かけて数多く収集した、敦賀市内から出土した埋蔵文化財や美術品を収蔵展示する。学芸員は配置されておらず、八幡神社の神職が運営を担当している。収蔵点数は約3000点ある。
代表的な考古資料には次のものがある。
&lt;/p&gt;&lt;ol&gt;&lt;li&gt;鉄地金銅装眉庇付冑（向出山古墳出土）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;鉄地金銅装頚甲（向出山古墳出土）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;四神四獣鏡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;剣・刀類
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;
&lt;p&gt;石井右近は敦賀市教育委員会に勤務した経歴を持ち、長年にわたり敦賀市内の埋蔵文化財や美術品を収集した。向出山1号墳から出土した頚甲や冑には鉄地金銅装が用いられ、鉄製品の表面に金銅による装飾が施されている。全国的にも類例が少なく、極めて希少な資料である。鉄地金銅装眉庇付冑は敦賀市指定重要文化財（考古資料）となっている。『敦賀市史』では向出山1号墳を「この地方の首長墓と考えられる大型円墳」と位置付けており、博物館ではその出土資料を収蔵・展示している。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;開館年・沿革&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1950年（昭和25年）10月に開館し、1952年（昭和27年）に文部大臣から「福井県第一号博物館」の指定を受けた。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;アクセス等&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：敦賀郷土博物館
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：福井県敦賀市三島町1丁目（八幡神社内）
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通： JR敦賀駅 から徒歩18分。
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;敦賀市史編さん委員会編（1985）『敦賀市史. 通史編 上巻』敦賀市
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;武藤正典（1972）『若狭文化財散歩』学生社
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
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      <dc:subject>古代史展示施設</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>陰刻</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2024/03/13/9667060</link>
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      <pubDate>Mon, 15 Jun 2026 00:18:14 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-15T00:20:28+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2024-03-13T00:19:36+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;陰刻&lt;/strong&gt;（いんこく)は文字や文様を表面より低く彫り込む彫刻技法である。印章や金属器、墓誌などに広く用いられ、対義語は文字や文様を浮き上がらせる陽刻である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;古代の印章では陰刻が一般的な彫り方として広く用いられた。
国宝の金印「漢委奴国王」の文字は陰刻で刻まれている。
陰刻では文字部分が凹んでおり、印肉は凹部に入る。押印すると文字が白く抜ける（白文）
陽刻では文字が凸になっており、凸部に印肉が付く。押印すると文字がインクなどの色で表現される。
陰刻に比べると、陽刻は彫る面積が大きくなる。
印を押すと文字部分が白く抜けて見えるため、この形式の印章を「白文印」と呼ぶ。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;陰刻のメリット&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;陰刻のメリットは陽刻に比べ、より繊細で細かい形状を表現できる。印影では文字や文様が白抜きとなり、輪郭が明瞭になる。凸部がないため、一般に陽刻より欠損や摩耗の影響を受けにくいとされる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;陰刻の事例&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;国宝の船王後墓誌は日本最古の金属製（銅板）墓誌であり、長さ約29.4cm、幅約6.6cmの短冊形銅板の両面に、計162字が楷書体で陰刻されている。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;加藤諄、柴田光彦編（1988）『日本金石文学』青裳堂書店
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;東野治之（1978）「日本古代の墓誌の調査」奈良文化財研究所年報、奈良国立文化財研究所
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古代史関連用語</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>城の山古墳</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/06/14/9859898</link>
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      <pubDate>Sun, 14 Jun 2026 00:39:10 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-14T00:39:46+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-14T00:39:46+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;城の山古墳&lt;/strong&gt;（じょうのやまこふん)は新潟県胎内市に所在する古墳時代前期の円墳である。地元では「ひと籠山」「大塚山」と呼ばれてきた。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;現在確認されている日本海側最北の古墳時代前期の古墳である。胎内市の南端、新発田市との市町村界にあり、胎内川の扇状地扇端部に立地する。東西41m・南北35mで平面形はやや楕円形を呈する円墳であり、高さは5ｍとなる。周濠は確認されていない。新潟県内では古津八幡山古墳（約60m）、菖蒲塚古墳（約35m）に次ぐ規模である。ヤマト政権との深い関わりを示す多くの副葬品が出土したことで知られる。
埋葬施設は、墳頂部に掘られた長さ約10.5m、幅約5.2mの墓壙内に納められた刳貫式の舟形木棺である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;副葬品&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;銅鏡として盤龍鏡（径約10cm、縁厚6mm）、武器として大刀、靫、両頭金具、漆塗りの黒弓、赤弓、銅鏃6点、本矧3点、末矧4点が出土した。木製品として漆塗製品、工具として鉇（ヤリガンナ）、板状鉄斧、刀子、装飾品として翡翠製勾玉、石製管玉、ガラス製小玉などが出土している。
銅鏡は舶載鏡で、紐孔に紐を通したまま少なくとも2枚の着色された平絹に包まれ、表面に赤色顔料が塗布されていた。
両頭金具は弓に取り付ける鉄製の金具で発掘時点では日本最古の出土品となった。菱形紋靫は出土例が少なく、滋賀県以北では当時において初めて確認された例であり、靫は３具がまとまって出土したことは珍しい。革製靫は表面に漆が塗られており、刺繍によって飾られた表面の菱形紋様が残る。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;城の山古墳の評価&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;多くのものが日本列島最北の出土品となる。武器（弓矢）・装飾品（玉）・工具を組み合わせた副葬品構成は、畿内の前期古墳に典型的な例と共通する。このような副葬品の組み合わせは、被葬者とヤマト政権との密接な関わりを想定させるものであり、ヤマト政権の北国政策の一端を示すものとして重要となる。奥山荘歴史館（新潟県胎内市あかね町107-10、JR羽越本線 中条駅駅から 徒歩10分）に出土品が展示される。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;発掘史&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1952年、当時は「700年前の大豪族城氏の墳墓」と紹介された。1997年の第一次調査で湿地を埋め立てて造られた楕円形の大塚を確認した。2005年4月から6月、第二次調査で出土品から4世紀前半に築造された古墳と推定された。棺の存在が確認され、墳丘の上から土器200片以上が出土した。2006年、第三次調査として確認調査を行った。2010年5月から8月に第四次調査で墳頂部平坦面の調査を行った。同年9月から11月に第五次調査としてトレンチを入れた。2012年、第六次調査で棺内の全面調査を行った。2013年、城の山古墳が胎内市指定文化財に指定された。2019年、文部科学省告示第20 号において、城の山古墳の史跡指定が告示された。
&lt;/p&gt;
&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;2013年（平成25年）　 胎内市指定史跡
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;2019（平成31）年2月 国指定史跡
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：城の山古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：新潟県胎内市城塚187 
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通： JR羽越線中条駅で下車後、タクシー6分/徒歩43分
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;胎内市教育委員会（2020）「史跡城の山古墳保存活用計画」
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>セスドノ古墳</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/06/13/9859725</link>
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      <pubDate>Sat, 13 Jun 2026 00:44:40 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-13T00:45:10+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-13T00:45:10+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;　第1版　2026/6/10
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;セスドノ古墳&lt;/strong&gt;（せすどのこふん)は福岡県田川市北東部の丘陵上に築かれた古墳時代後期の円墳である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;現存する墳丘は径37m、高さ5mである。周囲に幅6mの周濠が巡り、その外側に幅16mの外堤が巡る。昭和43年に土木工事により封土の７割以上が失われた。発掘調査後は低平に復元し、芝貼りを行った。発掘調査は1968年6月8日から約2週間にわたって行われた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;主体部の石室は西に開口する横穴式石室が作られている。石室は長さ3.2m、幅1.8m の長方形の玄室と長さ0.65m 、幅0.5mの羨道で構成される。石室内は全体に赤色顔料が塗布されている。奥壁は、側壁と同様に2枚の大石を立てて腰石とし、その上に板石状の石材を平積みにして構築されている。石室に大石を縦に並べるのは、伽耶の昌寧地域の校洞87号墳などにみられる構築方法である。朝鮮半島との交流を示す可能性がある石室構造として注目されている。天井石は4枚の平石である。盗掘孔はあるが、盗掘は免れた。
&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;復元すると総直径76～78m規模の円墳になる。周濠から円筒埴輪片が出土した。
副葬品として珠文鏡が出土した。また装身具として金銅製垂飾付耳飾、耳環、櫛、金冠片が出土した。玉類として滑石製臼玉、石製模造品として滑石製有孔円板が出土した。
武器類として鉄剣、鉄刀、鉄槍先、鉄鉾、鉄鏃、石突、鹿角製刀装具が出土した。玄室奥壁の両側には各1振の大刀が切先を下にして立てかけられていた。
武具として横矧板鋲留短甲、馬具として金銅製鏡板付轡、青銅製鈴付杏葉、辻金具が出土した。
そのほか土器として須恵器小壺が出土した。
セスドノ古墳から出土した武器・武具・馬具は、田川市石炭・歴史博物館で展示されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;まとめ&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;赤色顔料で全面が塗られた横穴式石室であるり、伽耶地域との共通性を示す石室構造を持つ。金冠片や金銅製耳飾など朝鮮半島系文化を示唆する副葬品が出土している。
武器・武具・馬具が豊富に副葬されており、セスドノ古墳は当地域の有力首長墓と考えられる。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;指定&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;   田川市有形文化財
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：セスドノ古墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：福岡県田川市伊田3845
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通： 上伊田駅から徒歩13分（850m）
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;田川市教育委員会（1984）「セスドノ古墳」
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
    </item>
    <item>
      <title>池の上6号墳</title>
      <link>https://ancient-history.asablo.jp/blog/2026/06/11/9859550</link>
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      <pubDate>Fri, 12 Jun 2026 00:05:51 +0900</pubDate>
      <dcterms:modified>2026-06-12T00:00:19+09:00</dcterms:modified>
      <dcterms:created>2026-06-11T23:58:34+09:00</dcterms:created>
      <description>&lt;p&gt;&lt;strong&gt;'池の上6号墳&lt;/strong&gt;（いけのうえろくごうふん)は、福岡県朝倉市（旧甘木市）に所在する「池の上・古寺墳墓群」を構成する古墳である。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;概要&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;池の上6号墳を含む池の上・古寺墳墓群は朝倉市街地を見下ろす丘陵上に築かれた大規模な墓地遺跡である。
池の上・古寺墳墓群は主として5世紀初頭に営まれた墓地遺跡である。
池の上6号墳は、福岡県朝倉市の池の上・古寺墳墓群を構成する5世紀前半の古墳で、日本列島最古級の馬具や豊富な鍛冶具が出土したことで知られる。
伽耶地域（朝鮮半島）の土器の影響を強く受けた遺物が出土している。橋口達也氏らが編纂した甘木市教育委員会（1979）には、詳細な発掘成果や土器の型式分類が記載されている。
初期須恵器も多数出土しており、朝鮮半島から伝わった製作技術を反映すると考えられている。出土器種には広口壺、短頸壺、直口壺、袋口壺、有蓋高坏、鉢形器台、把手付鉢などがある。広口壺、短頸壺、直口壺、袋口壺、有蓋高坏、鉢形器台、把手付鉢が出土している（柳田康雄（1998））。
池の上・古寺墳墓群からは武器（刀・剣・鏃等）、鍛冶具、装身具（勾玉・管玉・耳環等）が出土している。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;騎馬文化&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;池の上6号墳は、日本列島初期の騎馬文化を考える上で重要な古墳として知られている。
池の上6号墳からは５世紀前半の鉄斧・鉄鋏・鉄鎚等、初期馬具（鞍金具、轡が出土している。これらは日本列島における最古級の出土例とされる。豊富な鉄器が出土したことで知られる重要な遺跡となっている。さらに鍛冶具として鉄斧、鉄鋏、鉄鎚など、当時の鉄器生産や加工の技術水準が分かる遺物が出土している。
古墳から出土した初期の「轡」は、日本列島における騎馬の風習や乗馬文化の始まりを知る上で重要な資料となる。5世紀の馬具は朝鮮半島から伝わったとされており、朝鮮半島との交流や渡来系集団との関係を示唆する資料と考えられている。池の上6号墳から出土した馬具や鉄器などの資料は、朝倉市甘木歴史資料館で展示されている。
&lt;/p&gt;&lt;h2&gt;アクセス&lt;/h2&gt;
&lt;ul&gt;&lt;li&gt;名称：池の上6号墳
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;所在地：福岡県朝倉市大字堤字池の上
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;交通： 
&lt;/li&gt;&lt;/ul&gt;&lt;h2&gt;参考文献&lt;/h2&gt;
&lt;ol&gt;&lt;li&gt;甘木市教育委員会（1979）『甘木市文化財調査報告5：池の上墳墓群』甘木市教育委員会
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;高久健二（2009）「古代の埼玉と東アジア」講演資料
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;堀哲郎（2016）「日本列島への騎馬文化の導入とその展開」専修大学社会知性開発研究センター古代東ユーラシア研究センター年報　巻 2,pp.17-45
&lt;/li&gt;&lt;li&gt;柳田康雄（1998）「朝倉窯系初期須恵器」『一般国道3号線筑紫野バイパス関係埋蔵文化財調査報告:諸田仮塚遺跡5』,pp.96-104、福岡県教育委員会
&lt;/li&gt;&lt;/ol&gt;</description>
      <dc:subject>古墳時代</dc:subject>
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