Bing
PVアクセスランキング にほんブログ村

石鏃2025年06月27日 00:10

石鏃(せきぞく,flint arrowhead)は石製の矢じりである。

概要

石鏃は縄文時代に登場したとされる。弓矢の矢尻として使われた。矢の先端に紐などで石鏃を固定して使用する。有舌尖頭器の形が変化したとされている。 弓矢は動物の狩猟に革命を起こした。弓矢が鹿や猪を捕獲するために用いられた。石材には鋭い先端にするために黒曜石、サヌカイト、チャートなどが使われる。 神戸市内で出土する石鏃の石材は、サヌカイトがほとんどである。

使われ方の変化

弥生時代になると、石鏃は戦いの武器としても使用された。そのため縄文時代のものは小型であるが、弥生時代には大型になった。

形式分類

田中良(2019)は石鏃の基部の形で平基式と凹基式に分類し、有茎のものは全て有舌尖頭器と分類した。

出土例

  • 石鏃 大平山本Ⅰ遺跡、青森県蟹田町、縄文時代草創期
  • 石鏃 上浅野遺跡、長野県豊野町、縄文時代
  • 石鏃 長者久保遺跡、青森県上北郡野辺地町、縄文時代草創期

参考文献

  1. 田中良(2019)「縄文時代草創期における狩猟具の変遷」愛知県埋蔵文化財センター 研究紀要 第20号、pp.1-10

吉野ケ里遺跡2025年06月27日 22:28

吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)は佐賀県神埼市と同吉野ヶ里町にある全長2.5kmの壕に囲まれた日本最大規模の弥生時代の環壕集落跡である。

概要

志波屋・古野ヶ里段丘は、背振山地南麓から平野部へ広がる段丘であり、山麓部には旧石器時代・縄文時代から埋蔵文化財が多い場所である。 吉野ケ里遺跡からは弥生時代の多数の住居跡、高床倉庫群跡、3,000基を超える甕棺墓、弥生時代中期の王の墓と考えられる墳丘墓などが出土している。1992年に国営公園「吉野ヶ里歴史公園」として閣議決定し、1995年に着工され、2001年に一部開園した。遺跡から、紀元前1世紀の段階で、すでに北部九州の弥生社会では多様な身分や階層による社会組織が形成されていたことが分かっている。古墳時代の初めとなる紀元3世紀後期~4世紀前期に吉野ヶ里は消滅した。古墳時代に入ると、吉野ヶ里は急速に廃れ、人々は離散したと考えられている。背景には、稲作の普及や大和政権の勢力拡大による戦乱の終結などにより、山上に集落を構えるメリットがなくなったことがあると推測されている。弥生時代前期から後期にわたる集落の変遷過程や集落と一体的に変遷する墳墓の形成過程等が明らかになっている。

邪馬台国との関係

吉野ヶ里遺跡の最盛期は弥生中期の遺跡であり、邪馬台国時代は弥生時代後期または古墳時代初期であるから時代が合わない。さらに甕棺等墳墓の数から見て吉野ヶ里のある時点での人口は1,000人位と見積もられている。邪馬台国にしては人口が少なすぎると見られている。権力者の威厳を示す遺物(鏡、剣等)が少ない点や、吉野ヶ里の位置が魏志倭人伝の旅程記事と合致しないことから、邪馬台国とは関係ないと見られている。

時代区分

約700年間に渡り維持された弥生集落である。

弥生時代前期

縄文時代晩期の水田農耕が伝来した頃、周辺の小規模農村の上に立つ環壕を巡らせた吉野ヶ里の草分け的な集落が形成された。弥生時代前期の環壕跡は、直径は約20mと小形である。

弥生時代中期

弥生時代中期には南部の丘陵を囲む推定20ha以上の環壕集落が形成された。居住域と倉庫域が分かれていた。環壕跡内部からは、大量の土器や石器が出土し、低地からは外洋航行船を模したと思われる船形木製品等が出土した。

弥生時代後期

北方に規模を拡大し、40haを超す国内最大規模の環壕集落となる。大型の祭殿をもつ首長の居住や祭祀の場と考えられる北内郭がある。環壕、城柵、物見櫓等の防御施設で守られたところに人々が住む。後期後半から終末期には望楼(物見櫓)を備えた環壕によって囲まれた特別な空間(北内郭・南内郭)となっている。多数の掘立柱建物跡は、その規模や構造から「市」の存在が推定されている。

終焉

3世紀後半頃に吉野ヶ里遺跡全体を取り囲む環壕は、ほぼ埋没し、北内郭、南内郭とともにその機能を失った。

調査

1986年(昭和61年)から1988年(昭和63年)にかけて佐賀県教育委員会によって発掘調査が行われた。 検出した遺構は、弥生時代の甕棺墓313基、弥生時代・古墳時代・奈良時代の竪穴建物跡105棟、弥生時代・古墳時代・古代の掘立柱建物跡11棟、弥生時代~古代の土坑146基、弥生時代の石棺墓1基、弥生時代~中世の土坑墓36基、古墳時代~古代の溝跡、性格不明遺構、小穴などである。弥生時代の遺構は前期から後期に至る各時期のものがほとんど検出されている。検出された掘立柱遺構は200棟以上である。全国最大規模の弥生時代の集落であることが明らかになった。 墳丘墓から高度な技術を要する有柄銅剣やガラス製の管玉などが出土し、中国大陸や朝鮮半島との交流が想定できる。

竪穴住居跡

縄文時代に一般的な円形の竪穴住居とは異なり、弥生後期の長方形の住居跡である。

青銅器工房跡

青銅を作る原料、高温で溶かしたことを物語る焼けこげた土などがまとまって見つかったことから、青銅を作る専用の工房跡と想定される。

高床倉庫群

多くの高床倉庫群が発見された。掘立柱建物の殆どは、高床倉庫と考えられ、1間×2間規模の建物跡以外は、1間×1間規模である。集落域の建物比率は、竪穴建物3に対して掘立柱建物(高床建物)1の割合である。

防御施設

逆茂木

門の両側一帯には敵の侵入を防ぐための特別な仕掛けである逆茂木があったと考えられている。のり面に存在する柱穴は外に向かって斜めに穿たれたものが多く、敵の侵入を防ぐための乱杭があったようである。

物見やぐら

楼観跡と推定される物見やぐら跡が発見されている。 外からの侵略者を監視する見張り台と想定され床高6.5m、高さは12m。

入口防護

外壕に7カ所、南北内郭に3ヶ所の入口が確認されている。入口で兵士たちが厳重に警備していたと考えられる。

環濠

幅2.5~3.0m、深さ2mが一般的であり、最大の部分は幅6.5m、深さ3mである。断面の形態は南西部低地で逆台形となっている以外はV字形である。

遺体

首のない遺体、矢や槍の刺さった遺体は戦乱のあったことが推測される。長身で、のっぺりとした面長の顔つきの「渡来系弥生人」と判明している。

謎のエリア

北墳丘墓の西側、日吉神社の境内であった場所は長らく未調査のため「謎のエリア」と呼ばれていた。2023年5月3日から7日まで特別公開された。2022年度にエリアの北側から弥生時代の甕棺墓列が出土し、円形の竪穴住居跡が検出された。南側では2023年4月末に表土を掘削すると、丘陵頂部から石ぶたの墓が発見された。 2023年5月29日、「謎のエリア」で弥生時代後期の石棺墓が見つかったと発表された。石棺墓に石の蓋が4枚並べられており、全長約2.3m、幅は最大0.65。表面に「×」などの線刻が多数みられる。石棺墓の周囲の 墓坑 は全長約3.2m、幅約1.7m見晴らしの良い丘陵の頂部にあり、他の墓坑より規模が大きいため、有力者の墓である可能性があるとされる。2023年6月5日以降に石棺墓の蓋を開け、副葬品を調べるという。貴重なものが見つかれば、一部の吉野ケ里遺跡=邪馬台国説が再燃する可能性がある。

「権(けん)」発見

2022年11月11日、吉野ケ里遺跡で奈良時代と推定される青銅製の重り「権(けん)」が発見された。高さ2・9センチ、最大径3・4センチ、重さ約82・5グラム。頂部に秤にぶら下げるためのひもを通す輪があるが、欠けている。佐賀県文化財保護室白木原宜室長は「吉野ケ里町付近に肥前国の神埼郡衙があったと推定されていたが、これを裏付けるもの、と語る。

遺構

  • 竪穴建物
  • 掘立柱建物
  • 環壕
  • 甕棺墓
  • 井戸
  • 土壙墓
  • 水田の水路
  • 青銅器鋳造遺構
  • 環濠
  • 方形周溝墓
  • 古墳(前方後方墳) <立地>段丘上。標高20.5m、西側水田からの比高13m
    • 総長21.5m、墳長20.2m、後方辺14.6m、前方幅6.2m・長6.2m、くびれ幅5.5m、
    • 墳丘は完全に削平され、墳丘立面形・葺石については不明。

遺物

  • 弥生小型倭製鏡(内行花文鏡)(銘文なし、欠損6.6cm)、
  • 鏡式不明(内行花文鏡か)(銘文不明、破片22.2cm)、
  • 鏡式不明(銘文不明、破片)、
    • 伴出、巴形銅器鋳型+
    • 不明青銅器鋳型
    • 銅剣片
    • 土器
  • 巴形銅器鋳型
  • 在地系土器
  • 外来系土器
  • 鉄器
  • 銭貨(貨泉)
  • 銅鐸
  • 箱式石棺 蓋石2、両側石各1、妻石各1、床石1、小児棺
  • 石棺(ほぼ東西、東側攪乱、蓋石1、南側石5、北側石2残、妻石西側1、床石なし)
  • 石庖丁
  • 磨製石剣
  • 石庖丁
  • 土製鏡
  • 骨角器
  • 青銅器鋳型
  • 鉄製農耕具
  • 銅鏃
  • 細形銅剣
  • ガラス小玉
  • 鉄製鋤先

規模

  • 南北 約4・5キロ
  • 東西 約600メートル
  • 面積 約40ヘクタール

指定

  • 1991年(平成3年) 国の特別史跡に指定。

吉野ヶ里歴史公園

  • 名称:吉野ヶ里歴史公園
  • 休館日: 12月31日、1月の第3月曜日及びその翌日
  • 利用時間:9:00~17:00(GW、6月~8月は9:00~18:00)
  • 入館料:大人(15歳以上)460円、シルバー(65歳以上)200円、団体割引あり※
  • 所在地:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
  • 交通:JR長崎本線吉野ヶ里公園駅または神埼駅から徒歩15分

参考文献

  1. 「「謎のエリア」興味津々 吉野ケ里遺跡、特別公開始まる佐賀新聞,2023年5月4日
  2. 「吉野ケ里遺跡発掘調査現場を一般公開:吉野ケ里遺跡発掘調査現場を一般公開」朝日新聞,2023年5月3日
  3. 「吉野ケ里遺跡で奈良時代ごろの重りが出土:吉野ケ里遺跡で奈良時代ごろの重りが出土」朝日新聞,2022年11月12日
  4. 「神社があったので未発掘、吉野ヶ里遺跡の謎エリアで石棺墓を発見」読売新聞、2023年05月29日
  5. 「神社があったので未発掘、吉野ヶ里遺跡の謎エリアで石棺墓を発見」読売新聞、2023年5月29日
  6. 佐賀県教育委員会(1990)「吉野ケ里遺跡」佐賀県文化財調査報告柑第100集

和田晴吾2025年06月27日 22:53

和田晴吾(わだせいご、1948年 – )は日本の考古学者である。研究分野は弥生時代・古墳時代の考古学的研究で、特に古墳研究。兵庫県立考古博物館名誉館長。立命館大学名誉教授。文学修士。

概要

奈良県に生まれ、京都大学文学部で考古学者の小林行雄に師事する。 1987年の論文「古墳時代の時期区分をめぐって」(考古学研究会第33回総会研究発表--統一テーマ「考古学における時期区分・時代区分」考古学研究 / 考古学研究会編集委員会 編 ))は、古墳の編年研究に大きな影響を与えた。2022年3月、古墳壁画の保存活用に関する専門家の会合の座長を務めた。同会合の基本構想案で新施設を作り高松塚古墳の出土資料を集約して保存する計画である。展示室のほか講演会や体験学習を催すスペースを設け、国内外の研究機関と連携して日本の壁画を総合的に調査研究する施設である。和田氏は「明日香の古代遺産を包括して紹介する拠点にしてほしい」と語る。大阪府高槻市にある闘鶏山古墳(4世紀前半)の未盗掘前期古墳について、古墳研究で著名な和田晴吾館長は「合掌形の石槨は地震などで崩れやすい。壊れず完全に残っている点で特に貴重だ」と語る。さらに「(未盗掘古墳は)地域差も大きい。山城地域(現在の京都府南部)は盗掘集団がおり未盗掘はまれだが、残りのよい地方もある」と語る。 西宮市津門大塚町のアサヒビール工場跡地の地中から、8基の古墳が見つかったことについて「西宮市内の平野部はほとんど古墳が残っておらず、今回の発見は「当時の阪神間地域の社会情勢を探る手がかりになる重要な史料となる」と語る。研究キーワードは「日本考古学、考古学、古墳時代、首長連合、他界観」である。

経歴

  • 1948年 奈良県に生まれる。
  • 1972年 京都大学文学部卒業、小林行雄に師事。
  • 1977年 京都大学大学院文学研究科考古学博士後期課程中退。
  • 1977年 京都大学助手/富山大学人文学部助教授
  • 1985年 立命館大学文学部教授。
  • 2014年 立命館大学名誉教授・特任教授。
  • 2015年 兵庫県立考古博物館館長就任(第2代)。前任は石野博信。
  • 2024年 兵庫県立考古博物館館長を退任し、名誉館長となる。

受賞

  • 令和6年度地域文化功労者 文化庁

著書

  • 和田晴吾(1995)『(共著)継体王朝の謎―うばわれた王権』河出書房新社
  • 和田晴吾(2011)『(共編著)講座 日本考古学』第7巻、青木書店
  • 和田晴吾(2012)『(共編著)講座 日本考古学』第8巻、青木書店
  • 和田晴吾(2014) 『古墳時代の葬制と他界観』吉川弘文館
  • 和田晴吾(2015)『古墳時代の生産と流通』吉川弘文館
  • 和田晴吾(2018)『古墳時代の王権と集団関係』吉川弘文館
  • 和田晴吾(2018)『(共著)淡路島松帆銅鐸と弥生社会』雄山閣
  • 和田晴吾(2019)『(共著)前方後円墳 : 巨大古墳はなぜ造られたか』岩波書店
  • 和田晴吾(2021)「(共著)『播磨国風土記』の古代史」神戸新聞総合出版センター
  • 和田晴吾(2024)『古墳と埴輪』岩波書店

参考文献

  1. 「高松塚古墳壁画の展示施設、29年度までに開館」日本経済新聞, 2022年3月17日
  2. 「大阪・高槻に古代のタイムカプセル」日本経済新聞、2020年9月8日
  3. 「西宮のビール工場跡地で古墳8基見つかる」朝日新聞、2022年11月10日