ササン朝ペルシャ ― 2026年04月07日 00:28
ササン朝ペルシャ(ささんちょうぺるしゃ,Sassanid Persia)は226年にアルダシール1世(アルデシール)によって建国されたイラン系王朝であり、651年まで425年にわたり西アジアを支配した国家である。古代イラン世界の大帝国であり、イスラーム成立直前の西アジア政治秩序を形成した王朝として知られる。
概要
ササン朝は、アルダシール1世がパルティア(アルサケス朝)を倒して成立した王朝である。王朝名は、アルダシールの祖父とされる「サーサーン(Sāsān)」の名に由来する。
ササン朝は自国を「「エーラーン(Ērān)」または「エーラーンシャフル(Ērānšahr)」と称し、王は「諸王の王(シャーハンシャー)」を名乗った。 「ペルシア帝国」という呼称は主にギリシア・ローマ世界の呼称に由来する。
都はクテシフォン(現在のバグダードの南東約30-35km)に置かれ、これは先行するパルティア王朝の首都でもあった。 最大版図は以下の通りである。
- 西:メソポタミア・アルメニア・シリア周辺
- 東:中央アジア・アフガニスタン
- 南:ペルシア湾沿岸
ローマ帝国・東ローマ帝国と並ぶ西アジアの二大勢力を形成した。
ローマ帝国との対抗
ササン朝は成立当初から「ローマ帝国および東ローマ帝国(ビザンツ帝国)」と長期にわたり抗争した。
特にアルメニアやメソポタミアの支配をめぐる争いが激しく、両帝国は400年に渡り、たびたび戦争を繰り返した。
363年にはローマ皇帝ユリアヌス帝がメソポタミア遠征を行ったが、クテシフォン近郊で戦死し、ローマ軍は撤退した。
6世紀の「ホスロー1世(在位531~579)」の時代には国家体制が整備され、ササン朝は最盛期を迎えた。彼の治世では
- 行政制度の整備
- 税制改革
- 学術文化の保護
が進められた。
また、東ローマ帝国で閉鎖されたアテネの哲学学校の学者などが保護され、ギリシア語・インド語文献の翻訳活動が行われたとされる。度重なる戦争により両帝国ともに経済的・軍事的に疲弊し、イスラム勢力の台頭を許すことになったとされる。
社会構造
ササン朝社会では貴族層が強い政治的影響力を持った。
有力貴族には「七大貴族(Seven Great Houses of Iran)」と呼ばれる家系が存在し、彼らは広大な世襲領地を持ち、
- 皇帝戴冠への関与
- 軍事指揮
- 地方統治
- 税収管理
などの権限を保持した。
社会階層は大きく
- 王族
- 大貴族
- 騎士層(小地主貴族)
- 聖職者
- 農民・都市民
に分かれていたとされる。
経済と交易
ササン朝では
- 銀貨(ドラクマ)を中心とする貨幣経済
- 都市建設
- 中継貿易
が発展した。
皇帝は各地に都市を建設し、シリア人やメソポタミアの職人・技術者を移住させたため、都市工業や交易が発達した。
ササン朝はシルクロード交易の重要な中継国家であり、中国・中央アジア・インド・地中海世界を結ぶ商業ネットワークにおいて重要な役割を担った。
美術と文化
ササン朝美術は、先行するパルティア文化の影響を受けつつ独自の発展を遂げた。
その特徴として
- 人物の正面表現
- 王権を強調する浮彫
- 精緻な金属工芸
- ガラス工芸
- 豪華な絹織物
などが挙げられる。
これらの工芸品はシルクロードを通じて広まり、中央アジア、中国、さらには日本の古代工芸にも影響を与えたと考えられている。
また、ササン朝滅亡後には貴族や工人の一部が唐へ亡命し、中国美術や工芸技術にも影響を及ぼした。
滅亡
7世紀にアラビア半島で成立したイスラーム勢力は急速に勢力を拡大し、ササン朝と衝突した。
637年のカーディシーヤの戦いでササン朝軍は敗北し、メソポタミア支配を失った。
最後の王「ヤズダギルド3世(在位632–651)」は東方へ逃れたが、651年にメルヴで殺害され、ササン朝は滅亡した。
その後イラン地域はイスラーム勢力の支配下に入り、イラン人はイスラーム王朝において
- 官僚
- 学者
- 軍人
として重要な役割を果たすようになった。
ササン朝と東アジア(唐・日本)
ササン朝ペルシア(226–651)は、西アジアの大帝国であっただけでなく、シルクロード交易を通じて東アジア世界とも深い文化交流を行った国家であった。特に中央アジアのソグド商人を媒介として、ササン朝の美術・工芸・文化は唐代中国や日本の奈良時代文化にまで影響を及ぼした。
1 シルクロード交易とササン朝
ササン朝はユーラシア交易の中心に位置しており、
- 地中海世界
- イラン高原
- 中央アジア
- 中国
を結ぶ東西交易の中継国家であった。
交易活動では、特にソグド人商人が重要な役割を果たした。ソグド人は中央アジアの都市国家出身の商人であり、ササン朝文化を東方へ伝える主要な担い手となった。
この交易によって次のような品物が東アジアへ運ばれた。
- 銀器
- ガラス器
- 宝石
- 絹織物
- 金属工芸品
これらは唐や日本の宮廷文化に大きな影響を与えた。
2 唐王朝とササン朝亡命者
7世紀にササン朝がイスラーム勢力に滅ぼされると、王族や貴族の一部が唐に亡命した。
代表的な人物として
- ペーローズ(Peroz)
が知られる。 彼はササン朝最後の王ヤズダギルド3世の子とされ、唐に亡命した後、唐王朝から保護を受けた。
唐は彼を形式的に
- 「波斯王(ペルシア王)」
として遇し、西域支配の政治的象徴として利用したと考えられている。
この亡命によって
- ペルシア系貴族
- 職人
- 商人
が唐へ流入し、唐代文化にイラン的要素が取り入れられた。
3 ササン朝美術の東方伝播
ササン朝美術は東西交流の中で広く影響を与えた装飾様式として知られる。
特徴として
- 王権を象徴する狩猟図
- 翼を持つ動物文様
- 円形のメダイヨン文
- 王の威厳を示す正面表現
などがある。
これらの様式は
- 中央アジアのソグド美術
- 唐代金銀器
- 日本の正倉院宝物
などに影響を与えた。
特に唐代金銀器の多くはササン朝銀器の形態や装飾を模倣している。
4 日本への影響(正倉院文化)
奈良時代の日本にも、シルクロードを通じてササン朝系文化の影響が伝わった。
その代表例が奈良の正倉院宝物である。
正倉院には
- ペルシア風ガラス器
- ササン朝風銀器
- 西アジア系織物
などが伝来している。
代表的な例として
- 白瑠璃碗(ペルシア系ガラス器)
- ササン朝風銀盤
- 連珠文錦(れんじゅもんきん)
などが知られる。
これらは直接ササン朝から伝来した場合だけでなく、
中央アジアや唐を経由して日本にもたらされた可能性が高い。
5 東西文化交流史における意義
ササン朝は政治的には7世紀に滅亡したが、その文化はシルクロードを通じて広く拡散し、ユーラシア世界に長期的な影響を与えた。
特に重要な点として
- 唐文化の国際性形成
- シルクロード工芸の発展
- 日本奈良文化への西方影響
などが挙げられる。
このためササン朝は単なる西アジアの王朝ではなく、古代ユーラシア文明交流の中心的存在として評価されている。
参考文献
- 青木 健(2020)『ペルシア帝国』講談社
黄金瑠璃鈿背十二稜鏡 ― 2026年03月31日 22:29
黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(おうごんるりでんはいじゅうにりょうきょう)は奈良時代の宝物で、正倉院に伝来する多稜鏡の一種である。
概要
唐代に製作された可能性が高い銀製多稜鏡で、七宝を用いた宝相華文装飾をもつ奈良時代伝来の正倉院宝物である。七宝を用いた鏡の他例は知られていない。 鏡は直径約18.8cmを測り、十二の稜をもつ形態となっている。鏡面は銀製であり、一般的な古代鏡に多く用いられる白銅製とは素材が異なる点に特徴がある。
背面には七宝装飾が施され、黄・緑・緑黒の釉を用いた花弁形の区画と、三角形の金板を組み合わせた華麗な意匠を構成する。花弁状区画の内部には銀板による細線文様が施され、その上に釉薬を焼き付けることで宝相華文を表現している。これらの装飾は左右対称に配され、全体として高度に統一された構図を示す。背面は18枚の花弁で構成される。
宝相華文は中国唐代に流行した装飾文様であり、技法・意匠の両面から、本鏡は8世紀に中国で製作された可能性が高いと考えられている。
七宝技法は後世において中国では明代以降、日本では近世以降に広く普及するが、本鏡はそれ以前の段階に属する早期の作例として注目される。ただし、その技術的位置づけについては、ガラス象嵌・焼成技法との関係を含め、研究上の議論がある。
参考文献
- 田中輝和(2002)「正倉院宝物黄金瑠璃鈿背十二稜鏡について」正倉院紀要,宮内庁正倉院事務所編 (24),pp.1-20
黒柿 ― 2026年02月04日 00:01
黒柿(くろがき)は柿の木の芯材に黒色物質が沈着し黒い模様にみえる木材である。
概要
一般に、柿材は製材すると乳白色から淡黄色を呈する木材であり、木目も比較的均質である。しかし、ごく限られた個体において、幹の内部に濃色の変化が生じ、黒色あるいは黒褐色の縞状模様を示す場合がある。一般に「黒柿」と呼ばれる材は、このような異常な着色を示した柿材を指す通称である。
黒柿が確認されるのは、長期間生育した柿の古木がほとんどであり、若木から得られることは極めて稀である。林業や木工の分野では、発生頻度は非常に低く、実際に材として利用可能な状態で得られる例はごく限られるとされている。この希少性により、黒柿は古くから高級材として扱われてきた。
黒柿材の性質
黒柿材は伐採後すぐに加工できるものではない。柿材自体が比重の高い硬質材であるうえ、黒柿の場合は含水率が高く、内部応力も不均一であることが多い。そのため、割れや変形を防ぐためには、長期間にわたる自然乾燥や調湿工程が不可欠であり、加工に至るまでに相当の年月を要する。そこで乾燥と安定化を経てはじめて、器物材や工芸材としての利用が可能となる。
黒柿に見られる黒色部の成因については、従来は柿渋の主成分であるタンニンの変質・沈着が関与していると考えられてきた。近年では、材料分析や顕微観察に基づく研究により、黒色部には有機物や微生物の存在が顕著であること、また生育環境となった土壌中にも微生物や多様な元素が関与していた可能性が指摘されている。
これらの研究では、柿の根や幹に取り込まれたカルシウム、リン、硫黄、塩素などの元素が、微生物活動と関係しながら生体鉱物として沈着し、時間の経過とともに材の色調変化に影響を与えた可能性が示唆されている。こうした過程を経て形成された黒色部は、単なる色素沈着とは異なる複合的な生成過程を持つものと考えられている。
黒柿の使われ方
黒柿の意匠的特徴としては、幹の辺材部に現れる黒色の縞模様が挙げられる。この模様は「孔雀杢」とも称され、自然が生み出した独特の景観として、木工・漆工分野で高く評価されてきた。模様の現れ方には個体差が大きく、同一の意匠が再現できない点も、黒柿の価値を高める要因となっている。
歴史的には、黒柿は日本の工芸文化とも深く関わってきた。正倉院宝物の中には、黒柿材とみられる木工品が伝えられており、その希少性と美的価値が早くから認識されていたことがうかがえる。また、実際の黒柿が入手困難であった場合には、木地に着色や模様を施して、黒柿の風合いを模して表現した「仮黒柿」と呼ばれる技法も用いられた。
まとめ
このように黒柿は、自然条件、生物学的要因、長い時間の蓄積によって偶発的に生み出された素材であり、単なる木材の一種を超えて、材料学的・文化史的価値を併せ持つ存在といえる。現代においても、黒柿は入手困難な希少材として扱われ、その独自の表情と背景を含めて評価され続けている。
正倉院の使用例
- 黒柿把鞘鉋 第22号
- 黒柿把鞘金銀荘刀子 第31号
- 黒柿蘇芳染金銀山水絵箱 第32号
- 黒柿両面厨子
- 黒柿蘇芳染金絵長花形几 第4号
- 黒柿金銀絵廿八足几 第13号(第99号櫃)
- 黒柿把鞘鉋 第22号
- 十合鞘御刀子
- 馬鞍 第4号
- 紫檀木画槽琵琶 第3号
参考文献
- 「黒柿について」 おかや木材楽天市場店
- 奈良国立博物館(2022)『正倉院展第74回』仏教美術協会
- 田崎和江・竹原照明・橋田由美子・橋田省三・中村圭一・横山明彦・青木小波・田崎史江.(2017)「希少銘木「黒柿」の物理化学的特徴と生体鉱物化作用」地球化学71,pp.97-113
七条織成樹皮色袈 ― 2025年09月05日 00:19
七条織成樹皮色袈裟(しちじょうしょくせいじゅひしょくのけさ)は正倉院に収蔵されている聖武天皇が使用したと想定される袈裟である。
概要
国家珍宝帳に所載される品である。もとの宝物は一部に欠損がある。 樹皮の柄の図柄なので、見ためは地味な風合いと色である。技法的も素朴である。出家した僧侶は財産を持たないので、衣服は貧乏に見えるボロ布らしいくした可能性がある。しかし、布を拡大すると模様の上に撚金糸を格子のように織り込んでおり、目立たないところで豪華にしている。文様の部分ごとに横糸の色を変え、2~3種類の色糸をより合わせた杢糸を使用する。 「七條」とは袈裟を7枚の長方形の布で横に波縫いでつなぐ袈裟の形式である。「刺納」は刺し子である。我が国で唯一の織成遺品とされる。織成は地緯糸と文様を表す色緯糸の二種の緯糸を用いて交互に織る技法で、綴織の一種である。綴織は文様を表す緯糸が織幅いっぱいに貫通せず、要所の部分だけ織り返す。複雑な機台を必要としないので、古代エジプトの綴織、南米ペルーの綴織、ヨーロッパのゴブラン織、中近東のキリムなどにみられる。
復元品
京都の伝統工芸士の川本繁夫氏が復元した品が、愛知学院大学禅研究所に保管される。色合いは、もとの宝物より明るく鮮やかである。
構成
表は七条の織成を並べ、各条の間は紺平絹で界を為す。裏は唐花文様の紺綾を五枚継ぎしている。樹皮色とは布の裂を組み合わせて、樹皮のようにみえる色合い文様からきている。
東大寺献物帳
東大寺献物帳には九領の袈裟が記録されている。 御袈裟合玖領 九條刺納樹皮色袈裟一領 碧綾裏皂絹縁 七條褐色紬袈裟一領 金剛智三蔵袈裟 七條織成樹皮色袈裟一領 紺綾裏皂綾縁 七條刺納樹皮色袈裟六領 二領碧綾裏皂絹縁 二領紺絹裏皂絹縁 一領紺綾裏皂綾縁 一領紺 裏皂綾縁) (『大日本古文書』4)
模造報告
復元模造が平成18年から3ヵ年で行われた。その報告は参考文献1,2,3に書かれる。 龍村美術織物が担当した。
展示歴
七条織成樹皮色袈裟 第3号
- 1956年 - 第10回
- 1985年 - 第37回
- 1996年 - 第48回
- 2011年 - 第63回
- 2019年 - 第71回
管理
名称 :緑牙撥鏤尺 甲
- 倉番 :北倉 1
- 用途 :服飾品
- 技法 :染織
- 寸法 :幅245cm,縦139cm
- 材質:織成(綴錦の変種) 裏は紺綾 縁は皀綾 畔は紺絹
参考文献
- 尾形充彦、田中陽子(2010)「模造」『正倉院紀要』年次報告32号,pp.170-172
- 尾形充彦、田中陽子(2010)「模造」『正倉院紀要』年次報告33号,pp.115-117
- 白井進(2012)「七条織成樹皮色袈裟の復元模造」『正倉院紀要』第34号pp.1-28
- 奈良国立博物館(2008)「正倉院展60回のあゆみ」奈良国立博物館
正倉院宝物盗難事件 ― 2025年04月22日 00:18
正倉院宝物盗難事件(しょうそういんほうもつとうなんじけん)は奈良県奈良市の東大寺内の正倉院 に保管されている宝物が盗難にあった歴史的事件である。
概要
正倉院は勅封蔵(勅封倉)制度により、天皇の勅使でなければ宝物倉を開けることが出来ない制度によって、長い間に渡り守られてきた。ところが過去に盗難事件が何回か起きている。それらについてまとめる。そのほか奈良時代などで宝物を借りだして返却しなかったこともある。犯行は大部分が東大寺の僧であった。
判明している盗難事件
長歴三年盗難事件
1039年(長歴三年)3月3日、僧の長久・菅野清延が東大寺北倉に侵入し、銀300両を盗み出したが、同年5月18日に捕らえられた(参考文献4)。高床の下に忍び込み床板の一部を焼いて孔を開け、そこから侵入したと考えられる。
- (参考)長暦三年三月三日夜、盗人焼穿勅封蔵、窃取宝物、
- 長久二年 (中略)十二月廿九日、自検非違使庁、糺反黄金等送之、
- 別当所司五師検校封納印蔵 (「東大寺別当次第」『群書類従』)
寛喜二年盗難事件
1230年(寛喜二年)東大寺の僧「顕識」、「春蜜」等が正倉院中倉に侵入し、鏡八面、銅小壺1個、銅小仏三体を盗み出した(参考文献5)。
- (参考)同年(寛喜二年)十月廿七日降雨 今日終夜、盗人焼開東大寺勅封倉中間、
- 盗取宝物之由、以年預五師状申寺務、廿八日戌剋到来、仍自別当、
- 同廿九日辰刻相具五師状、以公人国貞遣長官家光許了、即大衆令蜂起、
- 郷々求之中門台後戸階置之、盗渡之立彼橋登蔵上、焼穿鏘根一尺余、
- 開門戸入蔵内云々、 (下略)
- 同寛喜二年十月廿七日夜、群盗焼穿正蔵院中倉、盗取宝物了、
- 仍為知紛失物、(中略)
- 十二月七日被遣勅使、実検宝物、 (下略)
- (「東大寺続要録 宝蔵篇」『続々群書類従』)
- (大意) 1230年(寛喜二年)10月27日の雨の夜に盗賊は、中門堂の後戸の階段を持ち出し、これを正倉院の縁側に立ち渡し、蔵の上に登り、中倉の扉の錠の根元を焼き切って門戸を開き、庫内に入って宝物を盗んだ。 中倉に仮納中の北倉の宝物のうち、鏡8面、銅小壺1口、銅小仏3体であった。 主犯は、元東大寺僧の春蜜と顕識らであった。 犯人らは、白銅鏡を銀とみて、これを小さく砕いて京都へ持参し売ろうとした売値が安いため、大仏殿前の五百余所社の社殿に包んで積み置き、そしらぬ体でいた。
ところが、吉野山蔵王堂の前執行の下人が、大和国葛城上郡の僧顕識の挙動に不審をもち、正倉院宝庫破りの犯人らしいと言い出した。同年11月28日、興福寺の衆人が逮捕に向かったところ、顕識が抵抗し、興福寺の僧・延実、弘景の兄弟と斬り合いになった。顕識は弘景に打ち伏せられて縛につき、糾問の結果、首謀者は元東大の僧円詮(春蜜)であること、贓品の隠し場所など一切のことを自供した。円詮は東大寺の五師(5人の執事)の一人であるが、実遍殺害の下手人でもあった。潜伏先を捜索したが、もぬけの殻であった。しかし、居場所が知られて春密も捕縛された。 12月25日、顕識と舎弟法師・春密と共に、佐保山で斬首され、首は奈良坂にさらされた。
盗まれた鏡は1231年(寛喜三年)3月に正倉院に送り返された。四十四片に分かれた一面の鏡(花鳥背八角鏡)は詳細な実況見分図が残されている。図の通り復元すると、「無」と記された4片の破片が足りなかった。明治時代に接合復元され、往時の姿を取り戻した。新片と破片同士をつなぐ鎹に銀が使われた(参考文献6)。
寛喜二年盗難事件
1328年(嘉歴三年)、このときの犯人は特定できなかった(参考文献7)。
安倍友清が占って逃げた方角や、宝物発見の見込みが示され、「東大寺関係者が犯人に交じっている」との占いがでたが、それ以上は判らなかった。
慶長十五年盗難事件
江戸時代の1610年(慶長十五年)7月21日、東大寺塔頭の僧が、北倉の床板を切り破って宝物を盗み出した。 奈良が台風に見舞われ、大仏殿の仮上屋が大風により倒れた。大仏殿は、1567年(永禄10年)、三好・松永の合戦による兵火で焼失し、復興されないまま仮上屋のままであった。散乱した材木の取り片付けに塔頭の福蔵院、北林院、中証院の三人が指揮した。ところが三人は、涼をとる格好で正倉院宝庫の下に集まり、宝庫を破って宝物を盗る相談をはじめ、北倉の床板を切って宝物を奪った。1年半経過した1612年(慶長17年)3月下旬に塔頭の上生院、無量寿院、清涼院3人が、「内々不思議な売り物が方々から出ている」といううわさを耳にする。 宝庫を調べた処、そこではじめて北倉が破られていることが判明した。南都奉行に訴え出て、東大寺僧侶全員を集めた現場検証の結果、福蔵院等3人と僧・学順が捕えられた。その後、京都所司代が嫌疑の者と買い手を対決させると、すべてを白状するに至った。犯人は猿沢の池のほとりに籠詰にされ、さらし者とされた。1613年(慶長18年)、中証院が牢死し、1614年(慶長19年)2月、残りの3人は奈良坂で磔に処せられて、事件は落着した。佐波理の皿や碗などが持ち出されて売却されたとされるが、盗難の全容や、回収品は不明である。
参考文献
- 和田軍一(1967)『正倉院夜話~宝物は語る~』日本経済新聞社
- 中川登史宏(1982)『正倉院物語』向陽書房>
- 和田軍一(1996)『正倉院案内』吉川弘文館>
- 『春日社参記』
- 『東大寺別当次第』『東大寺続要録』『百錬抄』
- 杉本一樹(2008)『正倉院』中央公論新社
- 拾遺古文書中の『佐保山晋円献納文書』『東南院文書』
水精誦数 ― 2025年04月19日 00:29
水精誦数(すいしょうじゅず,Crystal Rosary)は正倉院に保管されている水晶製の数珠である。
概要
数珠は誦数、念珠とも書かれ、一定の数の珠を紐に通して、称名(仏の名を唱える)や陀羅尼(仏教の呪文)などを念誦する際に、その数を数えるために用いる。 念珠を持ち、仏に手を合わせると、煩悩が消滅し功徳を得ることができると考えられている。 数珠の数は、108珠が基本となる。 母珠1枚、咸珠108枚、記子10枚、記子留枚のすべてが水晶製となっている。 正倉院にはほかに琥碧誦数、菩提子誦数がある。 展示回数は少ない。
東大寺献物帳
東大寺献物帳には百済の義慈王が献納した宝物に「純金念珠 一具、白銀 念珠 一具、瑪瑙念珠 一具、水晶念珠 一具、虎魄念珠 一具、真珠念珠 一具、紫瑠璃 一具」との記載がある。そのうちの「水晶念珠 一具」の可能性がある。
水精誦数
正倉院には水精誦数は第15号、第16号、第17号、第18号、第19号の5種類がある。
展示歴
水精誦数 第15号
- 1992年 - 第44回
水精誦数 第16号
- 1954年 - 第8回
- 1977年 - 第30回
水精誦数 第17号
- 1961年 - 第14回
管理
- 名称 :水精誦数 第16号
- 倉番 :南倉 57
- 用途 :仏具
- 技法 :石製品
- 寸法 :周囲長 81.0cm
- 材質: 水晶
参考文献
- 成瀬正和(1986)「石製宝物材質調査」書陵部紀要 第8号 年次報告,p.76
檜和琴 ― 2025年04月11日 00:51
檜和琴(ひのきのわごん, Japanese cypress Wakoto)は正倉院に収蔵されている木製の日本固有の六絃の琴である。
概要
和琴は「大和琴」(やまとごと)、「東琴」(あずまごと)「倭琴」(やまとこと)とも言われる。神社で使用される和琴は弥生時代から檜、杉、高野槙等を使用していたとされる。和琴は六弦の小型の琴である。琴の弦は失われているため音色は不明である。側面や両端に螺鈿が施され、装飾性に溢れる。万葉集では「日本琴」とも書く。弥生中期の琴が出土する。祭礼などで使用したとみられる。
由来
神楽や雅楽などで用いられ楽器であったという。古墳時代の埴輪の弾琴像や埴輪に描かれる琴は、四絃または五絃で、六絃のものは見られない。近畿地方から出土した埴輪の琴も五絃である。和琴がいつから六弦になったかは不明である。
古事記の琴
古事記に「爾握其神之髮、其室毎椽結著而、五百引石取塞其室戸、負其妻須世理毘賣、?取持其大神之生大刀與生弓矢及其天詔琴而、逃出之時、其天詔琴、拂樹而地動鳴。」 (大意)其の妻の須世理毘賣(スセリビメ)を背負うとすぐに、取持其大神の生大刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)と其の天の詔琴(のりごと) を取って、逃げ出す時、其の天の詔琴が樹に触れて、地が鳴動鳴した。 (意訳)大穴牟遅は須佐之男の髪を束ねて部屋の太い柱に結びつけ、巨大な岩で部屋の入口を封鎖し、妻の須勢理毘売を背負い、神宝の大刀・弓矢・天の詔琴を手にして逃げ出そうとしたところ、詔琴が樹に触れ、大地が揺れ動ごき轟音が響いた。須佐之男は気づいて起き出した。 神代の三種の神器は、太刀・弓・琴だったようだ。このような忙しい場面で琴を持ち出そうとしている。
構成
槽に檜材を使用し、上面は金銀泥で麒麟、鹿、尾長鳥、草花などを描く。周縁には金泥・銀泥で模様を描いた玳瑁を張り、竜頭・竜尾にも玳瑁を張る。緑地の玳瑁は後補である。竜頭・竜尾の玳瑁は、予め型を作りはめ込んでいる。側面は彩画を施した玳瑁と金箔を裏から押した玳瑁を交互に貼り付ける。彩画のものは直接、朱・緑などで文様を描く(参考文献1)。
類例
時代は下るが、彦根城博物館の和琴は六弦である(参考文献2)。
材料
槽・磯は檜材である。
展示歴
- 1949年 - 東京国立博物館、御物特別展
- 1952年 - 第6回
- 1967年 - 第20回
- 1984年 - 第35回
- 1997年 - 第49回
- 2013年 - 第65回
管理
- 名称 :檜和琴
- 倉番 :南倉 98
- 用途 :楽器・楽具
- 技法 :木竹工
- 寸法 :全長156.0cm,頭部幅17.0cm,尾部幅13.5cm(注:参考文献1では全長156.0cm,厚さ4cm,尾部幅17cmとなっている。
- 材質:槽・磯は檜 裏板は環孔材 栢形・櫛形は紫檀貼 金銀泥絵 金箔 玳瑁 金銀細線 螺鈿木画(黄楊木・紫檀・黒檀) 象牙
参考文献
- 内田至(1991)「正倉院宝物の海ガメ摂収集調査報告」正倉院紀要13号
- 松本重行作「和琴 銘葵」南北朝時代 永徳元年(1381),井伊家伝来資料
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