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勾玉2025年05月23日 00:33

勾玉(まがたま)は縄文時代、弥生時代から古墳時代にかけての装身具である。曲玉とも記される。

概要

「曲っている玉」が語源といわれる。日本の勾玉の歴史は約5000年前にさかのぼる。多くは逆C字型に湾曲し、膨らんだ頭部に孔がある。縄文時代の勾玉は翡翠、硬玉、ガラス玉、蛇紋岩碧玉、滑石、水晶など多種の材料を用い、形も一定ではない。 「三種の神器」のひとつに勾玉がある。翡翠の勾玉は祭祀の捧げ物や死者の副葬品に用いられた。C字形に曲っており、ふくらんだ一方の端にひもを通すための孔が開く。

地域

発達した勾玉は朝鮮半島と日本に限られる。日本や朝鮮の一部地域で発見される。起源については獣牙起源説、月神象徴説、胎児模倣説、半環石起源説等がある。

使い方の変遷

縄文時代は丸く膨らんだ端に穴を開けて紐を通し、首飾りとした。古墳時代には、勾玉は威信財となった。頭の部分は日(太陽)、尾の部分は月を表すとの説がある。

材料

弥生時代は硬玉、ガラス玉、蛇紋岩石製が多い。古墳時代前期は硬玉製で形が優美となる。中期は碧玉、後期は瑪瑙性が多くなるが金属製もある。勾玉には翡翠など緑色の石が多い。

表記

古事記では「勾玉」、日本書記では「曲玉」と書かれる。

出土

  • 勾玉 - 処女塚古墳、兵庫県神戸市、古墳時代、水晶
  • 勾玉 - 坪之内遺跡、新潟県柏崎市、弥生時代、ヒスイ

参考文献

  1. 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房

見晴台遺跡2025年05月22日 00:05

見晴台遺跡(みはらしだいいせき)は見晴台遺跡(みはらしだいいせき)は愛知県見晴町を中心として弥生町、貝塚町、白雲町の一部に所在する旧石器時代から室町時代にかけての複合遺跡である。

概要

見晴台遺跡が位置する台地を「笠寺台地」といい、北は山崎川、東は天白川、西は伊勢湾(当時は年魚市潟(あゆちがた))により区切られている。見晴台遺跡は笠寺台地の東南端に位置する。東海道線「笠寺駅」、名古屋鉄道名古屋本線「本笠寺駅」駅から東へ徒歩10分の距離である。 台地の標高は高い所で12mから15mであるが、水の流れで削られているため高低差がある。弥生時代後期(約2,000年前)から古墳時代前期(約1,500年前)の期間が見晴台遺跡の最盛期であった。戦時中は見晴台遺跡内に笠寺高射砲陣地が作られた。最多で6門あったが、現在は第2分隊・第6分隊の2基の砲座が残っており、戦争遺跡となっている。

発掘の経緯

見晴台遺跡がいつから人々に知られているかは明らかではない。1918年(大正7年)に遺跡の北側の桑畑(桜田貝塚)で弥生時代の魚形土器が発見されたと伝わる。1948年2月9日、名古屋市立機械専修学校の坪井邦夫教諭に引率された生徒が畑から「銅鐸形土製品」を発見したことから、研究者の小栗鐵次郎が『考古学雑誌』に掲載して、見晴台遺跡が全国に知られるようになった。1956年に見晴台遺跡は笠寺公園の予定地となったが、1963年に「名古屋考古学会」が結成されて、見晴台遺跡の意義を確認するため、翌年の1964年8月1日から11日にかけて名古屋考古学会会員、桜台高校、川名中学校の教諭と生徒ら51名により遺跡の東側で、最初の発掘調査(第一次発掘調査)が行われた。この調査では環濠(東側濠)の一部や貝層がみつかり、円窓付土器や赤く塗られた台付盌形土器が出土した。台付?形土器は通称「ブランデーグラス型土器」とも言われるスタイルの良い土器である。 第二次発掘調査は1965年3月23日から29日まで34名が参加して行われた。その後、2011年までに51次の発掘調査が行われている。見晴台遺跡の発掘調査で特徴的なことは、ほぼすべての過程を市民参加で実施することである。主として夏の約1カ月間、中学生以上を対象に行われ、地面を掘るだけでなく発掘記録なども作成し、初心者からベテランまで、毎年延べ約500人が参加する。ところが50年以上にわたる膨大な過去の調査結果の整理が十分でなかったため、資料館は第57次以後は市民調査を中断していた。令和6年7月2日に再開して、第58次発掘調査の参加者募集が行われている。

発掘の成果

  • (a)旧石器時代  見晴台遺跡で最も古い遺物は後期旧石器時代の「角錐状石器」である(第17次調査)。弥生時代の遺物に紛れて出土した。石材はチャートで、寸法は3cm程度である。約2万年前に作られたと考えられている石器である。
  • (b)縄文時代  縄文時代の遺物の出土は少ないが、遺跡東部の低地、環濠外から縄文時代の3つの貯蔵 穴が検出された(第6,7,8次調査)。3000年前の土器(深鉢)が貯蔵穴から出土した。貯蔵穴からはドングリやクルミなどの堅果類が出土した。
  • (c)弥生時代 弥生時代の遺構として竪穴住居跡が多数出土した。見晴台遺跡に弥生時代の集落が営まれていたことが証明された。この集落には周囲を囲む濠(環濠)が掘削された。環濠は、弥生時代後期に作られ、断面形状はV字形、幅約4m、深さ約4mである。環濠全体では直径約200m規模である。集落の北半分では二重環濠となっており、その外にさらに3本目、4本目の環濠も見つかっている。  環濠は南北140m、東西150mの範囲に200軒ほどの竪穴住居跡がみつかっている。弥生時代の集落は250年間続いたが、何度も建物を建て替えて使っていた。炉跡、壁際の溝、貯蔵穴など住居内の施設も出土する。180軒以上の竪穴住居跡が発見されている。多くは1辺5mから6mの方形建物である。床には炉の跡がみつかっている。 竪穴住居に大小の差はあるが、特別に大きな竪穴住居や掘立柱建物は見つかっていない。古墳時代になると少数の住居跡になり、大半の人々は他の場所に移転したとみられる。  出土遺物は、弥生土器として、円窓付土器、台付?形土器、甕型土器(第23次調査)、土師器、壺型土器(欠山式)、器台、高坏式土器(山中式)が出土している。ほかに管玉、勾玉、ガラス玉、などの装飾品、磨製石斧、石包丁、石鏃などの実用道具が出土した。外濠には、多量の貝殻が集落の外側(北西側)から廃棄されていた。貝はシジミ属やハマグリの出土が中心である。

遺構

弥生後期

  • 竪穴建物
  • 濠2
  • 環濠

遺物

弥生時代

  • 弥生土器
  • 弥生土器 高坏
  • 円窓付土器
  • ミニチュア土器
  • 炭化物
  • 焼土塊
  • 銅鐸(飾り耳)
  • ヒスイ製勾玉
  • ガラス製小玉
  • 管玉
  • 炭化物
  • 土錘
  • 石鏃
  • 刻みのある軽石
  • 小型壺
  • 高杯

弥生後期

  • 台付甕

展示施設

  • 名古屋市見晴台考古資料館

指定

考察

アクセス等

  • 名称: 見晴台遺跡
  • 所在地: 愛知県名古屋市南区見晴町47
  • 交通: 東海道線「笠寺駅」、名古屋鉄道名古屋本線「本笠寺駅」駅から東へ徒歩約10分

参考文献

  1. 名古屋市教育委員会(2021)「見晴台遺跡発掘調査報告書」(第49 ・50 ・51次)
  2. 名古屋市教育委員会(2021)『見晴台遺跡発掘調査報告書(第49,50,51次)』
  3. 名古屋市見晴台考古資料館(1997)『見晴台遺跡発掘の現状と課題』
  4. 名古屋市見晴台考古資料館(2015)『見晴台遺跡ガイドブック 第二版』
  5. 伊藤厚史(2024)『見晴台遺跡』
  6. 愛知県史編纂委員会編(2002)『愛知県史資料編1 (考古1(旧石器・縄文))』愛知県
  7. 名古屋市見晴台考古資料館編(1979)『見晴台遺跡出土品展 図録』名古屋市見晴台考古資料館

広田遺跡 (種子島)2025年05月15日 00:08

広田遺跡 (種子島)(ひろたいせき)は鹿児島県南種子町にある弥生時代から古墳時代の遺跡である。

概要

弥生時代から古墳時代にかけての種子島では海岸砂丘に墓地が作られた。種子島の南東部の海岸に面する砂丘上にある墓地遺跡である。北側墓群と南側墓群がある。出土遺物から女性のシャーマンまたは女性首長とみられるリーダーがいたとみられる。

調査

広田遺跡は1957年から1959年にかけて国分直一、盛岡尚孝、金関丈夫らにより調査され、特徴的習俗をもつ遺跡として全国から注目された。弥生時代から古墳時代にかけての90個所の埋葬遺構と貝のアクセサリーを持つ人骨157体が確認された。北側墓群で魚・獣骨の貝溜まりと鉄製釣針滑石製石鍋が出土した。 2003年度には広田遺跡学術研究会による調査が行われた。 上層は古墳時代後期、下層の新段階は古墳時代中期、下層の古段階は弥生時代後期後半から古墳時代前期である。 広田遺跡に埋葬された人々は身長が低いことが判明した成人男性で平均154cm、女性で143cmである。同じ頃、北部九州の弥生人は成人男性で平均163cm、女性で152cmであり、10cm前後の差がある。また上顎の側切歯を1本だけ抜歯し、後頭部を扁平にする風習(絶壁頭)があった。 2005年から2006年の調査で2966点に及ぶ貝製の装身具28点のガラス製小玉が出土した。南海産の貝(オオツタノハ製貝輪)を素材とした貝輪、幾何学紋様を掘った貝符、竜佩型貝製垂飾、有孔円盤状貝製品など総数44242点の及ぶ出土品である。下層の貝符は再送された人骨の周囲や上に置かれていた。孔がないものは装飾品ではない副葬品とみられる。貝符の文様は中国古代の青銅器や玉類の施文の爬虫文や饕餮文(とうてつもん)に類似すると国分直一や金関丈夫が指摘した。中国文化の影響があると見られる。新田英治は饕餮文ではなく、龍文であると指摘する。木下尚子は貝符の高い彫刻技術と洗練されたデザインは同時代の日本列島には類例が見当たらず、中国大陸系の文化とみることが適切とした。

遺構

  • 土壙墓
  • 覆石墓

遺物

弥生時代

  • 弥生土器
  • 人骨100以上
  • 貝製品
  • 紡錘車
  • 石錐
  • 鉄製釣針
  • 動物遺存体(獣(骨)
  • 弥生終末期の甕
  • 中津野式土器
  • 貝符
  • 貝輪
  • 竜佩型貝製垂飾
  • イモガイ珠
  • ガラス小玉
  • マクラガイ珠
  • ヤコウガイ容器
  • ノシ貝珠
  • 太型ツノガイ珠
  • 細型ツノガイ珠
  • 有孔円盤状貝製品
  • 孔板状貝製品
  • 貝鏃
  • 磨製石鏃

考察

展示

  • 広田遺跡ミュージアム

指定

所在地等

  • 名称: 広田遺跡
  • 所在地:鹿児島県熊毛郡南種子町
  • 交通:

参考文献

  1. 鹿児島県南種子町教育委員会(2007)『南種子町埋蔵文化財発掘調査報告書15:広田遺跡』鹿児島県南種子町教育委員会

寺福童遺跡2025年05月14日 00:03

寺福童遺跡(てらふくどういせき)は福岡県小郡市にある弥生時代の遺跡である。

概要

小郡市は筑後川支流の宝満川によって東西に二分される。宝満川の東は水田地帯が広がり、西岸には背振山系から派生する丘陵(通称・三国丘陵)があり、南へ行くと緩やかに下っ て平坦な台地へ移行する。宝満川の西には小郡・大板井遺跡、大崎遺跡、小郡正尻遺跡、寺福童遺跡などが点在する。寺福童遺跡は標高約13mの低台地周辺に位置する。 寺福童遺跡は、弥生時代後期の代表的な墓域とされる。 寺福童遺跡で検出された遺構のうち、銅戈9本を伴う埋納遺構は特筆される。寺福童遺跡4で検出された埋納遺構は、当時の生活圏から離れた場所に特別に設置されたものである可能性が高いと判断された。銅戈と同時代の遺構は周辺から発見されていないため弥生時代の青銅器は人里離れた場所に埋納されることが多いことを裏づけた。

調査

発掘調査は平成16年6月8日から11月17日まで実施した。今回の調査では、竪穴住居10軒、溝状遺構10条、土坑14基とピット群を検出した。 銅戈を除く遺物及び図面等の整理作業は同年12月から平成19年3月31日まで行った。出土した銅戈は、平成16年7月より調査と併行してレプリカを作成し、仮補強のための化学処理、遺構の切り取りと室内での遺物取り上げ及び埋納遺構内詳細調査を実施し、平成17・18年度に国庫補助事業として奈良文化財研究所と共同で保存処理した。

銅戈埋納遺構

調査開始からわずか5日後、平成16年6月18日、SK03の掘削途中に、銅戈埋納遺構の存在を確認した。埋納遺構内の銅戈は、検出初期から鋒の向きが2通りあること、平面上で検出した3本分の胡にはそれぞれ2㎝程度の間隔があることから、総数を7本以上と想定した。援・胡の設置状況から、銅戈本体は直接土中に埋納されたと判断された。銅戈を埋納していた遺構をまるごと発掘現場から切り取り、室内で慎重な調査を行った。その結果、9口入る大きさの穴の中に、7口の銅戈は切先を南西に、2口の銅戈は北西に向けて、土の中に1本ずつ丁寧に埋納されていることが判明した。銅戈は合計9口となる。 中広型銅戈は刃を立てた状態で密接して並べられていた。出土した9本は一度に埋められた物と思われたが、その後の調査により、土の中に1本ずつ丁寧に埋納されていたことが判明した。刃の内側には樋と呼ばれる溝に綾杉文が見られる。柄につく茎の部分に二重同心円や縦線の文様が見られる。長さは37cmから41.4cm、幅9.35cmから13.7cmである。

遺構

  • 方形周溝墓
  • 石棺
  • 甕棺墓
  • 青銅器
  • 埋納遺構
  • 竪穴建物
  • 土坑

遺物

  • 中広形銅戈9
  • ヤリガンナ1
  • 赤色顔料
  • 青銅器
  • 弥生土器
  • 土師器
  • 須恵器
  • 磨製石鏃
  • 磨製石剣
  • 小型倭製鏡

考察

展示

  • 小郡市埋蔵文化財調査センターにて常設展示

指定

  • 平成28年3月25日 福岡県指定文化財

所在地等

  • 名称: 寺福童遺跡
  • 所在地:福岡県小郡市寺福童籔付312-1
  • 交通: 西日本鉄道天神大牟田線 端間駅から徒歩12分

参考文献

  1. 小郡市教育委員会(2007)「寺福童遺跡4」

特殊壺2025年05月09日 00:26

特殊壺(とくしゅつぼ)は弥生時代後期に吉備地方南部で作られた壺である。吉備壺ともいう、

概要

壺の本体は浅い皿状であり、壺の中央部にかけて緩やかに広がって最大径となる。 長い首に、二重口縁は大きく外側に出る。胴の張り出部分に、樽や桶のタガのような突帯が、二条から三条がつく。底は平底であり、焼き上げた後に底部を穿孔する。 丹で赤く塗るなど、装飾性が豊かである。首長の埋葬儀礼(儀式)で使用された。 特殊壺(吉備壺)と特殊器台(吉備器台)は対になって出土していることから、特殊器台の上に特殊壺が乗せられて使用したと考えられている。サイズとしてもピタリとはまる寸法である。 吉備地方以外では広島県矢谷古墳、などで出土する。 壺形埴輪の元型という説がある。

出土例

  • 特殊壺 中山遺跡、岡山県真庭市、弥生時代後期後半から末
  • 特殊壺 西江遺跡、岡山県新見市、弥生時代2世紀から3世紀

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版

岸田遺跡2025年05月08日 00:22

岸田遺跡(きしだいせき)は福岡県福岡市にある弥生時代の大規模な集落遺跡・墓地遺跡である。

概要

福岡市の早良平野の最南部に位置し、標高50mの丘陵地上にある遺跡である。東入部遺跡よりさらに約1km上流となる。銅剣・銅矛などが大量に出土した。弥生時代の集落が、中期後半になると、「クニ」に移行する時期である。早良平野から東の福岡平野南部や南の佐賀平野に移動する交通の要衝にある。早良平野は中期初め(紀元前3世紀)に最大の勢力となり、北部九州における「王墓」や「国」の原型を生み出したが、その後は、特に抜きんでる勢力にはならなかった。

調査

福岡市教育委員会の区画整理事業に伴い福岡市早良区早良地内において2009年(平成21年)から2010年(平成22年)にかけて実施した岸田遺跡第1次発掘調査で出土した。弥生時代の甕棺墓78基、木棺墓、土壙墓8基を発見した。弥生時代中期初頭の甕棺墓4基、木棺墓1基から、銅剣5点、銅矛3点、青銅製把頭飾1点が副葬品として見つかった。青銅の武器は通常、1つの遺跡で1点から3点であるが、岸田遺跡では9点が見つかった。弥生時代の有力な集落であったと考えられる。銅矛には刃部に布目痕跡が付着することから布を巻いて副葬したとわかる。鉄戈のほぞ穴には紐の痕跡が確認でき、また柄の木質が一部付着することから、柄に着装した状態で甕棺内に副葬されたと判断できる。青銅製把頭飾は高さ6.2cmを測り国内最大かつ国内最古であった。 上甕の口径は72cm、器高94cm、底部径13cmであるが、器壁は1cmと非常に薄い作りである。内面外面が黒く塗られている。銅戈はあるが、鉄戈は福岡市では唯一であり、貴重である。

東アジアとのつながり

把頭飾や他の甕棺墓の銅剣は、朝鮮半島とは異なる鋳造技術や形態のものが含まれており、日本列島に青銅器が流入する早い段階から北部九州での青銅器生産が本格化したことを物語る遺跡である。朝鮮半島のほか、福岡平野や佐賀平野で作られた青銅器が多く出土する。

遺構

  • 甕棺墓
  • 木棺墓 土壙墓

遺物

  • 青銅製把頭飾
  • 青銅器武器 9点
  • 銅矛 3
  • 銅剣 全長31cm、根元の部分を木製の柄に差し込んで使った。
  • 鉄戈 1
  • 勾玉
  • 管玉
  • 小壺 - 埋葬儀式で使われ、甕棺と一緒に埋められた

指定

  • 1953年(昭和28年)11月14日 国の史跡指定

アクセス等

  • 名称:岸田遺跡
  • 所在地:福岡県福岡市早良区早良4丁目地内
  • 交通:

参考文献

  1. 文化庁(2017)『発掘された日本列島 2017』共同通信社
  2. 福岡市教育委員会(2015)『岸田遺跡1』

製塩土器2025年04月27日 00:34

製塩土器(せいえんどき)は古代において塩をつくるための土器である。

概要

海水中には約3%の塩分があるため、熱を加えて水分を蒸発させると塩を得ることができる。

製塩土器と通常の鉢や甕との見分け方

製塩土器は熱が内部に効率よく伝わるよう、土器の壁を薄く作る。また内面を滑らかに作る。 製塩土器は破片で見つかることが多い。加熱痕や独特の色調をもつ。

分布

縄文時代後期や晩期には関東地方や東北地方の太平洋岸に広く分布する。弥生時代後期以降は西日本が中心になる。若狭、能登、瀬戸内海沿岸、伊勢湾沿岸などが盛んである。

製塩工程

『万葉集』『風土記』に、「藻塩垂る」とあるのは、海藻に海水をかけ水分を蒸発させて塩分濃度の高い海水を作る工程を表している。

瀬戸内の製塩土器

3つのタイプに分かれる。

  1. 脚台タイププ(古墳時代前期)
  2. 小椀タイプ(古墳時代中期)
  3. 大形ボウルタイプ(古墳時代後期)

出土例

  • 製塩土器 - 上高津貝塚、茨城県土浦市上高津、縄文時代晩期
  • 製塩土器 - 里浜貝塚、宮城県鳴瀬町、縄文時代/紀元前500年、東北歴史博物館
  • 製塩土器 - 小島東遺跡、大阪府泉南郡岬町多奈川小島401番地、弥生時代後期以降期

参考文献