Bing

銅鍑2024年04月26日 00:14

銅鍑(どうふく)は弥生時代の銅製容器である。

概要

佐護クビル遺跡出土の銅鍑が知られている。そろばんの珠のような形である。

名称由来

後藤守一(1922)はクビル遺跡の出土例が東京帝室博物館に収蔵される際、対馬国佐須奈村で発見された遺物を発表し、銅鍑の名を使用した。鍑は十巻本和名抄に「つり下げて物を煮たきする口の大きい釜」とされる。『辞源』には「瓮(オウ)に似たり、釜の大口なるもの」とされる。瓮は口の大きなかめの意味である。

用途

銅鍑の上に甑(こしき)を置いて、カマドに掛けて蒸し器として使用した。湯をわかすための容器とする説もある。

初期遊牧民の調理具

荒友里子・畠山禎他(2012)は初期遊牧民の調理具である銅鍑をとりあげ、鋳造史や鋳金、ユーラシア史、考古学など異分野の研究者が協力して、鋳造技術や施文方法を検討した。銅鍑の鋳造技術には2 系統がみられる点を指摘している。

考察

倭国ではあまり見ない形の青銅器である。カマドと同時に使われるので、大陸か半島経由で持ち込まれたものであろう。胴が円形に広がり、底はすぼまる。

出土例

  • 銅鍑 - 佐護クビル遺跡出土、長崎県対馬市上県町、弥生時代(後期)・1~3世紀、東京国立博物館
    • 高33.9cm 口径27.6cm×25.5cm 胴径43.6cm 底径8.7cm 口縁部厚0.75cm 重量9900g
  • 銅鍑 - 楽浪墓出土、楽浪・帯方郡時代(紀元前2世紀~紀元後4世紀)、天理参考館

参考文献

  1. 荒友里子・畠山禎・高濱秀・三船温尚(2012)「南シベリアの青銅鍑の鋳造技術に関する調査と実験」『FUSUS』4号、アジア鋳造技術史学会誌 (4),pp.1-28
  2. 後藤守一(1922)「対馬国上県郡佐須奈村発掘品」『考古学雑誌』12-8
  3. 潮見浩(1985)「青銅製容器」『弥生文化の研究』5
  4. 高浜秀(1994)「中国の鍑」『草原考古学通信』第 4 号

根塚遺跡2024年04月24日 10:06

根塚遺跡(ねつかいせき)は長野県長野県下高井郡木島平村にある縄文時代から弥生時代後期、平安時代・中世にかけての複合遺跡である。

概要

長野県の馬曲川扇状地の扇横部から扇端部における平坦な水田面のほぼ中央部に位置する水田面から高さ約10mの自然丘のひとつ東西105m、南北58mの根塚丘陵から数百点の土器と鉄剣2本が出土した。鉄剣とともに出土した土器は弥生時代の土器であった。短い剣(1号剣)は長さ53cmで一般的な形状であるが、長剣(2号剣)は長さ74cmのサーベル状である。柄頭に2つ、柄頭に1つ、合計3個所に渦巻き文の装飾がある。また墳丘墓の墳頂部に埋葬された木棺内から舶載の鉄剣一振りと多量のガラス小玉・管玉類が検出されている。

調査

平成8年の小規模な発掘で弥生時代後期の鉄剣が出土した。貴重な発見であったことから、全面的な発掘が行われた。縄文・弥生・古墳・平安・中世にわたる複合遺跡であることが判明し、北信地域で希有な遺跡であることが確認された。

刻書土器

3世紀後半の土器に「大」と読める文字が出土している。線刻される部位は鉢底部に近い体部であり、文字の方向は倒位か横位と考えられている。焼成後の線刻である。平成10年度の第3次調査で確認された「大」字様刻文土器も同様な筆順であった。筆順が朝鮮半島南部の伽耶地域の5~ 6世紀の刻書土器に類似性がある。

渦巻文を有する鉄剣

渦巻文を有する鉄剣は、国内では京都市八幡市のヒル塚古墳(4世紀後半)に出土している。2号剣のようにサーベルの巴先に渦巻文をもち、ゼンマイ状に巻き上げている。朝鮮半島南部に渦巻文をもつ鉄製品が出土している。慶尚南道金海市酒村面の良洞里古墳の出土品である。鉄製品が出土した遺構はいずれも土墳木椰墓で、第162号はA.D 2世紀後半代、第212号はA.D 2世紀末から3世紀初めに比定されている。第212号出土の鉄剣は、柄の部分を2分割して棒状部分を作出して渦巻に巻かれており、根塚遺跡2号鉄剣と同じ技法である。渦巻文装飾の文様構成や鉄素材の成分分析などから、発見された3本の鉄剣はいずれも朝鮮半島製であることが確認された。

遺構

弥生時代

  • 墳丘墓
  • 木棺墓
  • 集石墓
  • 集石

古墳時代

  • 割竹形木棺墓

遺物

弥生時代

  • 勾玉
  • 鉄剣
  • 管玉
  • ガラス製小玉
  • 弥生土器

古墳時代

  • 鉄剣
  • 鉄鏃
  • 刀子
  • 管玉

時代不明

  • 鉄製品5(鉄剣など)
  • 勾玉1
  • 細形管玉73
  • 中形管玉2
  • ガラス小玉134
  • 砥石

考察

大の文字は和歌山県の隅田八幡の人物画像鏡の「大」文字とよく似ている。ただし、後者は443年または503年とされるので、根塚遺跡の方が古いことになる。筆順は朝鮮半島の出土刻書土器と同じである。 2号鉄剣は朝鮮半島からの舶載品と考えられる。北九州あるいは近畿ではなく、信濃で出土したことは謎であるが、移入ルート(直接か、九州経由か)を研究する必要がある。 土器と鉄剣とを併せて考えれば、朝鮮半島南部と人の移動や行き来があったことはいえるのではないか。

指定

時期

  • 縄文時代・弥生時代・古墳時代・平安時代・中世

展示

  • 木島村ふるさと資料館
    • 県宝指定の根塚遺跡出土品(渦巻文装飾付鉄剣など)を展示

アクセス等

  • 名称:根塚遺跡
  • 所在地: 長野県下高井郡木島平村往郷9230
  • 交通: 北陸新幹線飯山駅 から徒歩 73分(5.3km)

参考文献

  1. 木島平村教育委員会(2002)「根塚遺跡」~墳丘墓とその出土品を中心にして~
  2. 上田市立信濃国分寺資料館(2007)「古代信濃の文字」

加茂岩倉遺跡2024年04月23日 00:16

加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)は島根県雲南市(旧加茂町)町にある弥生時代の遺跡である。

概要

加茂町は斐伊川の支流の赤川が東西に流れ、東西6.4km、南北6.8kmとほぼ四角形の四囲を山に囲まれた盆地である。 1996年(平成8年)10月14日午前10時頃、加茂町のふるさと農道整備事業大竹岩倉地区農道整備工事の工事中、偶然に銅鐸が出上した。10時頃重機のバケットの中に数個の銅鐸が入っているのに気づいて作業を中止し、作業をしていた高台から斜面下を覗くと下の水田や道路に多数の銅鐸が転げ落ちていたという。それらを水田の畦に並べて置き、バケットの中の銅鐸は取り出して高台の工事現場の片隅に寄せ置き、会社に連絡を取った。 掘り出された銅鐸は27個、銅鐸発見の際に重機の掘削によりできたバケット坑の北側に鰭を立てた埋納状態の銅鐸が2個、南側には倒れた状態で鰭と裾の部分を覗かせててる銅鐸2個があり、土中に埋まっている銅鐸は計4個を確認し、総数は31個であった。その後、12月30日、銅鐸の入れ子が発見され、銅鐸総数は39個となった。中型銅鐸が20個、小型銅鐸が19個である。 大岩山遺跡(滋賀県野洲町)の3カ所からの24個、神岡桜ケ丘遺跡(神戸市)の14個を上回り史上最多の出土数となった。 破片の数は部位のわかるものから米粒大のものまで百数十点が採取された。土器は出土しなかった。埋納坑以外の遺構では土坑1つが検出された。銅鐸は山頂から少し下がった南向きの丘陵斜面中腹に埋納されていた。身の主文様は、流水文、四区袈裟欅文、六区袈裟欅文のいずれかであった。 2008年03月、国の文化審議会は、加茂岩倉遺跡出土銅鐸39個について重要文化財から国宝へと格上げすることを答申した。

調査

同笵関係

他の遺跡の銅鐸と同笵関係が複数発見されている。

加茂岩倉遺跡出土の39個の銅鐸のうち15個8組は、同笵関係にある銅鐸が判明している。4・7・19・22号鐸は、和歌山県太田黒田鐸と同笵である。5号鐸は、兵庫県気比2号鐸と同笵である。31号、32号、34号鐸は、兵庫県桜ケ丘3号鐸、鳥取県上屋敷鐸と同笵である。17号鐸は、奈良県上牧鐸と同笵である。21号鐸は、伝大阪府陶器出土鐸、兵庫県気比4号鐸、伝福井県井向出土鐸と同笵である。

広域の交流

弥生時代に島根と和歌山、大阪、奈良、兵庫と広域の交流があったことは、銅鐸が物語る。

遺物

  • 銅鐸39
    • 中型20小型19、
    • 外縁付鈕1式銅鐸19
    • 外縁付鈕2式銅鐸9
    • 外縁付鈕2式から扁平鈕1式銅鐸2
    • 扁平鈕2式銅鐸6
    • 扁平鈕2式から突線鈕1式銅鐸3

指定

  • 1999年(平成11年)1月14日 国の史跡に指定
  • 1999年06月07日 重要文化財 指定
  • 2008年07月10日 国宝  指定:

時期

  • 弥生時代

展示

  • 島根県立古代出雲歴史博物館

アクセス等

  • 名称:加茂岩倉遺
  • 所在地: 島根県雲南市加茂町岩倉字南ヶ廻837-11
  • 交通:

参考文献

  1. 島根県加茂町教育委員会(1997)「加茂岩倉遺跡発掘調査概報I」
  2. 文化庁(1997)「発掘された日本列島 '97新発見考古速報」朝日新聞社

久ヶ原式土器2024年04月12日 00:23

久ヶ原式土器/千代田区立日比谷図書文化館

久ヶ原式土器(くがはらしきどき)は関東南部の弥生時代後期前半の土器形式である。

概要

久ヶ原式の壺型土器は、縄目の模様、磨消縄文の山形文などの幾何学模様を巡らせ、口縁部および頚部に輪積痕を残し、赤色素のベンガラが塗られているなど特徴のある土器である。 一時は弥生町式土器と時間的に平行するとの説もあったが、現状では両者は時間差と系統差があると認識されている。1から3世紀頃の南関東に広く分布する。

考察

出土

参考文献

  1. 篠原和大(1998)「弥生土器の生産と規格性:房総半島の後期弥生土器を例として」人文論集 48 (2), A51-A94

吉武高木遺跡2024年03月26日 23:22

吉武高木遺跡(よしたけたかぎいせき)は福岡県福岡市西区に所在する弥生時代の遺跡である。

概要

吉武高木遺跡は、早良平野の中央部を流れる室見川の左岸に広がる吉武遺跡群の一部を構成する弥生時代の遺跡である。

調査

吉武高木遺跡は吉武遺跡群の南端部に位置し、青銅器や玉類を副葬する墳墓群が検出された。高木地区の墳墓群は、共同墓地と独立した墓域が形成され、調査された350平方メートルの範囲に、木棺墓四基、甕棺墓一六基、小型甕棺墓一八基が密集している。 1981年の第一次調査で金海式甕棺が200基以上検出された。金海式甕棺墓からは細形銅剣の切先、板付Ⅱ式の小壺が出土する。1982年の第Ⅱ次調査では、弥生中期の甕棺墓2基が検出された。1983年の第Ⅲ次調査では弥生中期後半墓地から、甕棺墓25基以上、木棺墓1基、箱式石棺墓1基が検出された。銅矛と銅戈の片面には布が遺存していた。鑑定の結果、繊維は絹布で、国産の可能性が高いとされた。 1984年(昭和59年)第五次調査、1985年(昭和60年)第六次発掘調査で、整然とならんだ弥生時代の木棺墓・甕棺墓の一群が発見された。甕棺墓は弥生時代前期末から中期初頭に位置付けられる金海式甕棺であり、成人棺は特別に大型に作られ、蕨手状の刻目突帯文を施したものや、疾駆する二頭の鹿を描いた甕がある。副葬品をもつ甕棺墓の構成は銅剣一口を基本に玉類が加わるもの4基、銅釧2点と玉類からなるもの1基、玉類のみが2基である。 高木地区の木棺墓と甕棺墓から出土した副葬品は、細形銅剣九口、細形銅戈1口、細形銅矛1口、多鈕細文鏡1面、銅釧2点、碧玉製管玉468点、硬玉製勾玉4点、ガラス製小玉1点、有茎式磨製石鏃1点、小壺などである。多鈕細文鏡と青銅製武器は、朝鮮半島からの船載品と考えられる。豊富な副葬品をもつ墓は奴国王墓と推定される福岡県春日市須玖岡本遺跡や、伊都国王墓と推定される前原市三雲南小路遺跡の墳墓につながるる要素があり、この墳墓の被葬者達が早良平野に出現した有力首長層と見られる。青銅器を多量に副葬した墓群の東方40mの地点から、大型の掘立柱建物と高床倉庫が発見されている。大型建物は、桁行5間(総長12.5m)、梁行4間(総長9.5m)の身舎に西廂が付く南北棟建物で、北・東の二面には軒支柱が巡り、既発見の同時期の建物としては最大の規模である。吉武高木遺跡は、北部九州における弥生時代の階層分化の過程と王権の生長過程を解明する上で重要である。

最古の王墓の評価

3号木棺墓からは銅鏡(多鈕細文鏡)1・銅剣2・銅矛1・銅戈1・ヒスイ製勾玉1・碧玉製管玉95と、質・量ともに優れた副葬品が出土した。銅鏡・青銅製武器・勾玉という組み合わせは歴代天皇のレガリア(象徴品)である鏡(八咫鏡)・剣(草薙剣)・勾玉(八坂瓊勾玉)の「三種の神器」を彷彿とさせるものであり、3種類をそろえて副葬した墓は、3号木棺墓が日本で最初であった。3号木棺墓は「最古の王墓」と呼ばれるようになった。しかし個人の墓として他から独立するのではなく、集団墓の一員として吉武高木遺跡の3号木棺墓は、隔絶した存在である王墓の出現にいたるまでの、過渡的なものと評価される。

遺構

  • 甕棺墓34
  • 木棺墓4
  • 組合式木棺

遺物

  • 細形銅剣2
  • 銅釧2
  • 勾玉2
  • 管玉116
  • ガラス製小玉1
  • 細形銅剣7
  • 細形銅戈1
  • 細形銅矛1
  • 多鈕細文鏡1
  • 勾玉2
  • 管玉230
  • 多鈕細文鏡 - 銘文なし
  • 素環頭太刀
  • 水晶製算盤玉
  • 鍔金具

指定

  • 1993年(平成5年)10月4日 - 国指定史跡

展示

  • やよいの風公園
  • 所在地:福岡市西区大字吉武(西部運動公園から南へ約600m)
  • 開園時間: 9:00~17:00 年中無休
  • 入 園 料:無料

アクセス

  • 名 称:吉武高木遺跡
  • 所在地:福岡県福岡市西区吉武字高木
  • 交 通:「藤崎駅」下車(2番出口) ⇒ 西鉄バス「藤崎バスターミナル」乗車(2番系統) ⇒「田村一丁目」下車徒歩約15分

参考文献

  1. 福岡市教育委員会(1986)「吉武高木」『福岡市埋蔵文化財調査報告書』-弥生時代埋葬遺跡の調査概要-

弥生時代の東北水田稲作2024年03月25日 23:58

弥生時代の東北水田稲作(やよいじだいのとうほくすいでんいなさく)は弥生時代に日本の東北地方で水田稲作が行われた証拠である。

概要

弥生時代の日本の東北地方で水田稲作が行われていた証拠はいくつかある。長らく「東北地方北部に弥生時代はなかった」とされてきた。ところが1981年に青森県南津軽郡田舎館村で発見された垂柳遺跡により、東北地方北部にも弥生時代の稲作文化が存在していたことが証明された。水田には多数の足跡痕が残っている。遺物は土器・石器のほかに大量の炭化米や種子が出土している。垂柳遺跡の放射性炭素年代分析は、BC320年とBC470年を示していた。 垂柳遺跡以降にも砂沢遺跡、富沢遺跡など多くの弥生時代の水田遺構が発見されている。富沢遺跡では第30次調査で弥生時代の水田遺構が検出された。木製農具による水田経営の限界に近い高度な技術とされた。富沢遺跡では8B層から弥生時代の水田跡が見つかっている。富沢遺跡の農工具は、農耕具としての鋤2点(弥生時代中期1点、弥生時代中期末~5世紀中頃1点)と、鍬2点(弥生時代中期)及び、農具としての大足1点(平安時代)。工具としての斧柄1点(弥生時代中期)の6点があった。

砂沢遺跡

砂沢遺跡は弥生時代としては日本の最北、東日本最古級の水田跡6枚が見つかっている。水田跡は6面であるが、調査範囲を拡げると面積は増加すると推定されている。出土土器は砂沢式土器で、縄文時代晩期から弥生時代の標識土器とされている。-名称:砂沢遺跡

  • 時期:弥生時代前期
  • 所在地:青森県弘前市大字三和字下池神141
  • 遺構:水田6、水路状溝8、溝2、土坑3、ピット213、埋設土器1
  • 遺物:弥生土器、土製品、石器、石製品
  • 展示:弘前市立博物館
  • 発掘年:1984年(昭和59年)
  • 報告:弘前市教育委員会(1991)『砂沢遺跡発掘調査報告書』弘前市教育委員会
  • 交通:JR鶴泊駅から徒歩59分(4.3km)

富沢遺跡

  • 名称:富沢遺跡
  • 時期:弥生時代中期
    • 土器に付着する炭化物の年代を測定した結果、約2200年前
  • 所在地:仙台市太白区長町南三丁目6-1
  • 遺構:畦畔・水路・水田面・杭列
  • 遺物:木製農耕具、
  • 展示:地底の森ミュージアム(仙台市富沢遺跡保存館)
  • 発掘年:1987年
  • 報告:仙台市教育委員会(1984)『仙台市文化財調査報告書67:富沢水田遺跡』仙台市教育委員会
  • 交通:長町南駅から徒歩5分

垂柳遺跡

  • 名称:垂柳遺跡
  • 時期:弥生時代中期
  • 所在地:青森県南津軽郡田舎館村垂柳・高樋
  • 遺構:水田656、畦畔、水路12、大畔4、足跡、埋設土器1
  • 遺物:土器(田舎館式)、植物遺存体(コメ(炭化米)、種子)、炭化材、石鏃、石錐、石匙、 スクレイパー、剥片、石核、磨製石斧、石錘、磨敲凹石
  • 展示:
  • 発掘年:1981年
  • 報告:青森県埋蔵文化財調査センター(1985)『青森県埋蔵文化財調査報告書88:垂柳遺跡発掘調査報告書』青森県教育委員会
  • 交通:弘南鉄道弘南線田舎館駅より徒歩約10分

清水森西遺跡

  • 名称:清水森西遺跡
  • 時期:弥生時代中期初頭
  • 所在地:青森県弘前市大字十面沢字清水森130-2
  • 遺構:大型竪穴建物跡、土坑1基、遺物集中区1基、埋設土器1基
  • 遺物:100粒以上の炭化米、土器、石器、玉、石鏃
  • 展示:
  • 発掘年:2023年
  • 報告:
  • 交通:

大風呂南墳墓群2024年02月27日 00:12

大風呂南墳墓群(おおぶろみなみふんぼぐん)は京都府岩滝町にある弥生時代の墳墓群である。

概要

大風呂南墳墓群は若狭湾につながる阿蘇海沿岸の丘陵上に位置する。1998年の調査で、弥生時代後期後半から末期にかけての2基の墳墓群から5つの埋葬主体部を検出した。最終的に墳墓群は、ニ基の墳墓に大小合わせて十の埋葬施設が確認されている。 大風呂南墳墓群は丘陵の尾根の斜面を削り、平坦面を作り出した台状墓である。丹後地域における鉄器の出土量はこの時期としては、全国有数である。京都府大風呂南一号墓出土品は2001年6月22日、重要文化財に指定された。

1号墓

一号墓の第一主体部は長さ7.3m、幅4.3m墓穴を深さ2.1mまで掘った大規模な墓孔である。一号墓からは副葬品が多数出土した第一主体部と第二主体部があり、いずれも木棺直葬の埋葬施設である。第一主体部からは長さ4.3m、幅1.3mの大きな舟底状の木棺が出土し、 木棺内の被葬者の周囲に朱が塗られていた。被葬者の頭部付近に碧玉製の管玉が270点まとまっていた。さらに11本の鉄剣、四本の銑鏃、鉄製のヤス、ガラス釧一点、銅釧十三点、貝で作られた腕輪の一部、ガラス製の勾玉十点が出土した。直往9.7cmのガラス釧は、持つ淡いコバルトブルーの色調で、保存状鑑も良い。これまでガラス腕輪は丹後の大宮町1点と福岡県2点と、破片で見つかっていたが、完全な形では初出土であった。中国南部、ベトナムなどで出土する釧(腕輪と形や成分が同じと判明している。甕は高さ21cm、葬送儀礼において木棺部周辺で破砕されたもの。内面調整はヘラ削り、底部から大部に掛けて煤が付着しているため、使用されたものと見られる。

築造時期

  • 弥生時代後期

指定

  • 昭和16年1月27日 - 国指定史跡

被葬者

当時の丹後地方を代表する王の墓と考えられる。

遺物

  • 碧玉製管玉
  • 鉄製ヤス
  • ガラス製勾玉
  • ガラス釧
  • 貝輪残欠
  • 銅釧
  • 銑鏃
  • 鉄剣
  • 甕 -土器

展示保管

アクセス等

  • 名称:大風呂南墳墓群
  • 所在地:〒629-2262 京都府与謝郡与謝野町岩滝
  • 交通:岩滝口駅 から 徒歩44分 3.0km

参考文献