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横幅2024年04月16日 00:57

横幅(よこはば)は『魏志倭人伝』に書かれる倭国の男子の服装である。

概要

『魏志倭人伝』の記述に男子の服装が書かれる、すなわち「男子は皆露、木緜を以て頭に招け、その衣は横幅、ただ結束して相連ね、ほぼ縫うことなし」(男子皆露紛、以木県招頭、其衣横幅、但結束相連、略無)とされる。男子は冠や頭巾をつけることなく、木綿で鉢巻きをして。衣は横幅で、結んだだけで連結し、裁縫はほぼしない、とされている。 『古事記』、『日本書紀』には同様の記述はないから、弥生時代に独特の服装であろう。

横幅の解釈

大林太良(1977)によれば、2通りの解釈がされている。一つは長い布を腰巻きとして使う方法である。倭国の使節の姿に梁代(6世紀)の「職貢図巻」に描かれている。すなわち横に長い布を肩掛けから、腹のあたりまで巻き付け、腰付近でくくり合わせるものである。百済の使節とはかなり異なり、貧弱な服装になっている。『晋書』卷九十七・林邑伝に「女嫁之時,著迦盤衣,橫幅合縫如井欄,首戴寶花」と書かれる。林邑とはベトナム中部から南部でチャム人が2世紀末に建設した国家をいう。『隋書』卷八十二列傳第四十七 南蠻林邑伝に「俗皆徒跣,以幅布纏身」(風俗は皆裸足で、横幅に衣服をまとう)と書かれる。 二番目の解釈では肩から掛けた布をさすという。三品彰英は袈裟式の服装と解釈した。斎藤忠も同様の解釈である。サリーはインド・ネパール・スリランカ・バングラデシュ・パキスタンにおいて、細長い布を様々なスタイルで体を包み込んで使用する。

考察

どちらの解釈によっても、横に長い布を身にまとう衣服であり、これは東南アジアで広く見られる衣装である。南アジアから東南アジアにかけて広く分布している腰巻文化圏がある。名称はサロン,サルン(マレーシア,インドネシア),シン(ラオス),ルンギー(インド,バングラデシュ)、ロンジー(ミャンマー)があるが、いずれも布を腰巻きとして使用する。 現代でも、インドネシアでは輪にした布を衣料に用い,裁断や縫製をしないまま身体を包む布として使う。とすれば、魏志倭人伝に記述される服装は東南アジア系統の服装なのだろうか。そうだとすると、どのような経路を渡ってきたのであろうか。

参考文献

  1. 三品彰英(1971)『神話と文化史』平凡社
  2. 斎藤忠(1958)『日本全史1 原始』東京大学出版会
  3. 吉本忍(2005)『アジアにおける「包むJ文化』日本衣服学会誌 Vol.49 No.l
  4. 大林太良(1977)『邪馬台国』中央公論社

丸木弓2024年04月14日 00:18

丸木弓(まるきゆみ)は古代日本の石器時代から古墳時代まで使われた原始的な弓である。

概要

単体弓は丸木弓と割材を用いる木弓に大別される。枝を材として用いる丸木弓は心持ち材が多いとされる。縄文・弥生時代の弓は大半が丸木弓である。丸木弓の材料は「梓」(あずさ)「桑」(くわ)「櫨」(はぜ)などの木を用いた。 丸木弓は武器として使用されるほか、神事にも使用された。弓の弦は植物性の繊維や動物の筋などが使用されたと考えられている(片岡生悟(2020))。

魏志倭人伝

『魏志倭人伝』に「兵用矛楯木弓、木弓短下長上」(兵は矛・楯・木弓を用いる。木弓は下を短く、上を長く持つ)と書かれる。そのような使い方の証拠がある。袈裟襷文銅鐸(伝香川県出土、弥生時代・前2~前1世紀)に見られる。鹿を射る人の弓は中心より下側を持っている。桜ヶ丘遺跡出土4号「銅鐸」(扁平鈕2式 四区袈裟襷文銅鐸)においても弓の持ち方は同様である。

弥生時代の弓

六反ケ丸遺跡(鹿児島県出水市)で、弥生時代中期(約2200~2300年前)の鹿児島県内最古となる木製の弓4張が出土した。最大のものは長さ87.9cm、小さなものは長さ46.1cm、幅は2.2cmから2.7cmである。堅くて重い素材のイスノキ製であった。森本遺跡の丸木は木を丹念に削り断面を円形にした精巧な丸木弓である。先端は丸く加工され、その下にくびれをつけて弦を巻き付けて固定する。

考察

縄文時代や弥生時代の弓の使用法は短下長上だったことは、『魏志倭人伝』に書かれていても、『日本書紀』、『古事記』には書かれない。これは『魏志倭人伝』は弥生時代から古墳時代の同時代資料であるが、『日本書紀』、『古事記』は同時代資料ではないからである。日本文献より中国文献を信用するのはなぜか、という的外れな素人意見がある。これに対しては、『魏志倭人伝』は同時代史料だが、『日本書紀』、『古事記』は500年後の史料だから、信頼性に差があるのは当然である。年代差は信頼性に大きく影響する。どこで書かれたから信頼性が劣るというものではない。弓の使い方の記述の有無はその証拠の一つになる。つまり短下長上は『魏志倭人伝』にしか書かれていないから、同時代資料の有効性を指摘することができる。

出土

  • 丸木弓 - 森本遺跡、京都府向日市、弥生時代
  • 丸木弓 -六反ケ丸遺跡、六反ケ丸遺跡、弥生時代中期。
  • 丸木弓 -下宅部遺跡 30点、東京都東村山市、縄文時代- 丸木弓はイヌガヤのみを材質とする。

参考文献

  1. 佐原真(1997)『魏志倭人伝の考古学』歴史民族博物館振興会
  2. 「酸性土壌でよくぞ腐らず…弥生中期の木製「弓」見つかる」南日本新聞、2024年1月14日
  3. 片岡生悟(2020)「縄文・弥生時代の弓矢について」東京大学考古学研究室研究紀要(33), pp.67-86

生菜2024年04月11日 00:42

生菜(せいさい)は古代中国語で生野菜の意味である。

概要

『魏志倭人伝』に「倭地温暖、冬夏食生菜、皆徒跣。」(倭の地は温暖で、冬も夏も生菜を食す。皆はだしである)と書かれる。

現代中国語では「生菜」shēngcài はレタス、サラダ菜の意味とされ、二番目の意味に生野菜がある。 古代中国の蜀、呉越では野菜を生で食べる習慣があったという(佐原真(1997))。 杜甫の詩に「春日、春盤、細生菜」(立春、細かく刻んだ生野菜が平皿に盛られる)と書かれる(佐原真(1997))。

考察

わざわざ倭は生野菜を食べる、と書くところは、そのような習慣のない古代の北方中国人が見聞したからに違いない。物珍しい倭の習慣として書いているようだ。倭地温暖とは中国の厳しい暑さ、寒さと比較している。皆はだし、もそうである。古代中国では、下駄は一般的な服飾品であったという。つまり中国では庶民もはだしではなかったらしい。

出土

参考文献

佐原真(1997)『魏志倭人伝の考古学』歴史民族博物館振興会

黄幢2024年01月10日 00:05

黄幢(こうどう)は黄色い旗指物の軍旗である。

概要

「幢」は旗指物であり軍事権を象徴する旗である。魏志倭人伝によれば、倭の女王卑弥呼が派遣した難升米に魏の皇帝が授けた黄色の軍旗である。 「黄」は魏が五行思想による土徳の王朝であるため黄色を旗印としたとの説がある。 「幢」は中空の釣鐘形の布であり、漢代の画像石にみえる吹き流し状の旗と考えられている。 蛮夷の外臣に「幢」を授けた例は非常に少ないため、魏が倭国を重視していたことの現れである。

黄幢授与の趣旨

黄幢を授けたのは、狗奴国と戦う邪馬台国への支援とする説と、朝鮮半島への軍事的な支援を倭国に求めたためという説、倭の大夫を率善中郎将に任じたので、その中郎将の旗として与えたとする説とがある。なお遼陽壁画(北薗壁画墓)に黄幢とみられる旗が描かれているとの説があるが、貴人の日除けに用いる翳(さしば)に似ており、軍旗にはみえない。

後世の幢旗

『延喜式』では大極殿に向かい烏形幢、日像幢、朱雀幢・青龍幢、月像幢、白虎幢、玄武幢と合計7本の幢旗を立てるとされる。時代は下るものの院政期の儀式を描いた「文安御即位調度図」に幢旗が描かれている。高さは約「三丈」(9m)であり、旗を取り付ける中央の長い柱にそれを支える2本の短い脇柱があり、平城京の発掘結果と一致する。しかし魏の黄幢と同じとは限らない。

魏志倭人伝 原文

  • 其六年 詔賜倭難升米黄幢 付郡假授
    • (訳)正始六年(245年)、皇帝は詔して、倭の難升米に黄色の軍旗を賜い、帯方郡に付託してそれを仮に授けた。
  • 倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素 不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状   遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之
    • (訳)倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王である卑弥弓呼素と和せず、倭の載斯烏越等を帯方郡に派遣して、互いに攻撃しあう状態を説明した。皇帝は塞曹掾史の張政等を派遣した。それにより詔書と黄幢を難升米に授け、檄を告げて諭した。

参考文献

  1. 佐伯有清(2000)『魏志倭人伝を読む』吉川弘文館
  2. 大庭脩(2001)『親魏倭王』学生社
  3. 高橋賢一(1996)『旗指物』新人物往来社
  4. 大澤正吾(2019)「平城宮第一次大極殿院の幢旗遺構」奈文研ニュースNo74
  5. 斎藤忠(2003)『幢竿支柱の研究』第一書房

入墨2023年12月31日 10:09

入墨を表した土製人形/森本遺跡/京都府立山城郷土資料館

入墨(いれずみ)は古代において墨・煤・朱などの色素で体や顔の皮膚を彩色し、または線刻により文様・文字・絵柄などを体や顔に描くことである。

概要

魏志倭人伝に「男子は大小となくみなクジラのような顔で入墨を入れている」「中国にくると皆「大夫」を自称する」「南の會稽のように斷髮文身して鮫の害を防ぐ」「国によって入墨の位置は異なる」「身分によって入墨に違いがある」「のちに入墨は装飾のようになった」と書かれている。 三国志馬韓伝に「男子は時々入墨する」と書かれる。また韓伝弁辰に「風俗は倭に似ており、男女とも入墨する」と書かれる。つまり倭の風俗は弁辰に似ている。

「大小となく」の解釈

「大小となく」の解釈には年齢説と身分説とがある。年齢説は「大人も子供も(入れ墨する)」という意味とする。 身分説は吉岡郁夫(2021)に代表され、身分に関わらず入れ墨をしているとする説である。 一般的には世界各地の文身習俗では、通過儀礼で大人になった証として入れ墨を入れるという。埴輪の男子は線刻がみられる事例がある。これは入れ墨とみられる。魏志倭人伝の後半に身分により入れ墨が異なると書かれるので、身分説の方が分かりやすい。

女子の入れ墨

倭人伝には「男子は」と書かれるが、女子は入れ墨をしたかどうか書かれていない。「男子は」と書かれているので、女子は入れ墨しないとも解釈できる。しかし女性の埴輪には顔に色ぬりをしたものがある。線刻の埴輪は。入れ墨はあったとしても、男子とは異なっている。 千田稔(2014)の解釈は、女子は「彫り物ではなく、塗り化粧つまりペイントの表現」とする。すなわち化粧のための色塗り(ペインティング)と理解される。群馬県の上野塚廻り古墳群出土埴輪は王位継承儀礼での巫女の顔面彩色である(千田(2014))。

古代の入墨

縄文時代の土器の顔面把手や土偶に描かれた顔、弥生時代Ⅴ期から古墳時代の近畿を除いて茨城から福岡までの土器や木の板、石棺の蓋などに鼻を中心とした平行弧線が描かれており、これは入墨の可能性がある。 津寺(加茂小)遺跡の黥面文身土偶は昭和63年に行われた校舎の建て替え工事に伴う発掘調査で、弥生時代後期の溝から出土した。高さ3.5cm。頸部以下は欠損している。両目の上下に弧状線数本描き口の脇や顎・頸にも数本の線刻がみられる。 これら『魏志倭人伝』に記載された、倭人の習俗である黥面文身(入墨)を表現したものとみられる。

刑罰の入墨

日本書紀には刑罰として死罪の代わりに入墨を入れる例が示される。住吉仲皇子の反乱に加担した阿曇連浜子に対し、死罰を免じて罰として黥面をさせ、当時の人は「阿曇目」と呼んだと記される。大系日本書紀は「阿曇部や鳥養部が行なっていた入れ墨の慣習を、中国風の思想から説いた起源説話であろう」とする。また履中天皇が淡路島に狩猟のため行幸したところ、イザナギ神が、随行の河内の馬飼部の人々の目のふちの入墨の血の生臭さに堪えられないと神託したために、以後は馬飼部の入墨をやめさせたとする。

琉球諸島とアイヌ女性の入れ墨

奄美群島から琉球諸島にかけての島嶼部で女性は「ハジチ」と呼ばれるイレズミを指先から肘にかけて入れる習慣があった。記録は16世紀以降であるが、それ以前から入れ墨は行われていたと推測される。宮島幹之助(1893)は明治23年に琉球婦人が手の甲に入墨をしているところを目撃した。琉球の入墨の文様は身分により異なるという。友人の後藤千代吉はアイヌの婦人が手の甲、口の周囲、眉間に入墨をしているところを見たという。 手の部分のイレズミは、女性が既婚であることを表し、施術が完成した際には祝福を受けるなど、通過儀礼の意味合いも持っていた。島ごとに施術される範囲や文様が異なっており、ハジチがない女性は来世で苦労するという伝承が残る島もあった。

海外古代の入墨

紀元前4,000年頃エジプトで発見された土器(人形)にタトゥーの痕跡が認められている。女性を模した「点」、「線」、「菱形」模様が施されており、後に発見されたミイラに見られるタトゥー模様のパターンと符合する。1991年、オーストリアのアルプス山中で見つかった旧石器時代の男性遺体に7個所から8個所の入れ墨があったという。アルプスの山中で発見されたことから、アイスマンと呼ばれる。

入れ墨の健康効果

スウェーデンとハンガリーの研究者は、ボディペイントには昆虫を遠ざけ、病気から人々を守る効果があることを証明している(Gábor Horváthet al(2018))。身体へのペインティングには実用的意味があったとみられる。

原文

  • (三国志魏志 倭人伝 原文)「男子無大小、皆黥面文身、自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫、夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之害、今倭水人、好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽、後稍以爲飾、諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差。」)
  • (三国志魏志 馬韓伝原文)其男子時時有文身。
  • (三国志魏志  韓伝 弁辰伝原文)男女近倭、亦文身。
  • (日本書紀 巻第十二履中天皇元年)詔之曰「汝、與仲皇子共謀逆、將傾國家、罪當于死。然、垂大恩而兔死科墨。」即日黥之、因此、時人曰阿曇目。
  • (日本書紀 巻第十二履中天皇五年)先是、飼部之黥皆未差。時、居嶋伊奘諾神、託?曰「不堪血臭矣。」因以、卜之、兆云「惡飼部等黥之氣。」故自是以後、頓絶以不黥飼部而止之。

出土例

参考文献

  1. 吉岡 郁夫(2021)『いれずみ(文身)の人類学』雄山閣
  2. 千田稔(2014)「入れ墨が示す海洋民たちの記号」『謎の女王卑弥呼の正体』,KADOKAWA,pp.196-209
  3. Gabor Horvath1,al(2019)"Striped bodypainting protects against horseflies",Royal Society Jan 16;6(1)
  4. 黥面文身土偶, 津寺(加茂小)遺跡, 岡山市埋蔵文化財センター
  5. 宮島幹之助(1893)_琉球人ノ入墨ト「アイヌ」ノ入墨

卑弥呼の使者派遣時期2023年12月31日 00:23

卑弥呼の使者派遣時期(ひみこのっししゃはけんじき)は邪馬台国の卑弥呼が献使を送り、その使者が帯方郡に到着した時期に関する論争である。

概要

魏志倭人伝』には「景初二年(238年)六月、倭の女王(卑弥呼)は、大夫の難升米等を派遣して帯方郡に到着し、天子にお目通りして献上品をささげたいと申請した。帯方郡太守の劉夏は官吏を派遣し、難升米等を京都(洛陽)まで引率して送りとどけさせた」と書かれる。景初二年は景初三年の誤りとするのが通説である。

通説

学会の通説は卑弥呼の最初の献使は景初三年(239年)であったとする。梁書は「景初三年に公孫淵が滅びて後、卑弥呼が遣使した」と書く。梁書と日本書紀の引く『魏書』には「景初三年(239年)」と記述がされている。両者で1年異なる。景初二年では魏から独立した勢力として楽浪郡・帯方郡を支配していた公孫淵が滅びていないから、その時点では洛陽に使者は到達できないとするのが一般的理解である。 鳥越憲三郎(2020)は「公孫淵の父子を誅殺したのが景初二年八月である。それ以前の六月に帯方郡の役所に行くことは絶対に不可能であった」とする。倭の献使は景初三年六月に皇帝への謁見を願い出て、郡の太守が役人を洛陽に行かせて願い出て、倭国の使者を同行することの許可を得て、郡に帰り太守に報告する。太守は倭の使者と同行者を伴い、洛陽に上京する。そこまで五ヶ月を要した。この時系列で、最初を景初二年とすると間が1年5ヵ月となるので間が開きすぎるし、帯方郡に到着できたのが景初二年では。 日本書紀の引く『魏書』は『魏志倭人伝』の宋の版本の刊行よりはるかに古いから、その記述の方が正しいと考えるべきである。日本書紀の編纂は720年頃であり、『魏志倭人伝』の最古の版本は「紹興本」であり、刊行は1131年から1162年であるから、少なくとも411年の違いがある。

版本至上主義の弊害

『魏志倭人伝』に関しては素人的な版本至上主義がはびこる。版本の史料批判を行わずに「ひとつの文献にこう書かれているから正しい」とする理解は、いかにも視野が狭い。たとえば以下の記述である、『女王卑弥呼が景初3(239)年に初めて魏王朝に使節を派遣した」と主張されているが、「原文が景初二年であるのは衆知である」から、これは端から誤訳である。氏が、中国史料を文献考証しようとされるなら、肝心なのは「揺るぎない原典の選定」である。検証無しに、世上の俗信、風説文書を引用するのは、お勧めできない「よそ見」と見える』(参考文献4)と書かれる。「景初二年は衆知」であっても、それが正しくなければ訂正して解釈するが筋である。根拠無く原文が正しいと解釈するのは、誠実さに欠ける。原文と断定するが、陳寿の原本は現存していないから、「紹興本」はひとつの版本に過ぎない。 『梁書』は公孫淵が滅んでから、はじめて卑弥呼は朝貢ができたと書く。公孫淵が魏への通路の障壁になっていてのであるから、この記載が正しいと考える。239年(景初3年)1月に魏の明帝は死去し、当時8歳の新皇帝(曹芳)が謁見したことになる。

原文

  • (魏志倭人伝)景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏、將送詣京都。
  • (梁書)至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢
  • (日本書紀 巻第九 氣長足姫尊 卅九年)魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。

参考文献

  1. 鳥越憲三郎(2020)『倭人・倭国伝全釈』KADOKAWA
  2. 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝』岩波書店
  3. 新・私の本棚 前田 晴人 「纒向学研究」 第7号『「大市」の首長会盟と…』1/4 補充

生口2023年12月29日 21:23

生口(せいこう)は贈与交換用の捕虜を起源とする奴隷とされる。

概要

『後漢書』東夷伝に「安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ請見を願う」と書かれる。さらに『魏志倭人伝』に行者に吉善あらば、共に、その生口、財物を顧す(若行者吉善 共顧其生口財物)、239年(景初三年)の卑弥呼の献使では「汝が献ずるところの男生口四人、女生口六人、班布二匹二丈を奉り以って到る」(奉汝所獻 男生口四人 女生口六人 班布二匹二丈以到)と男女の生口10名を献上した。 なお『魏志倭人伝』の版本には238年(景初二年)と書かれるが、こは誤りであることは、「卑弥呼の使者派遣時期」の参照をお願いしたい。

243年(正始4年)にも倭王は「使者の大夫伊聲耆、掖邪狗等八人を派遣し、生口や倭の錦、赤、青の目の細かい絹、綿の着物、白い布、丹、木の握りの付いた短い弓、矢を献上した」が、生口の人数は不明である。次の女王である壱与は「臺に詣り、男女の生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雑錦二十匹を貢ぐ」(因詣臺 獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹)と書かれる。

合計4回生口を皇帝に貢いでいる。1回の献上で107年には160人、238年には10名、243年には30名、250年頃には30人を献上している。班布や錦、白珠と同列の扱いであるから、物扱いであった。

生口の解釈

生口の意味についてこれまで研究者により様々な解釈がなされてきたが、整理すると次のパターンになる。

  • (1)生口は未開人の意味とする(市村瓚次郎)
  • (2)奴婢の意味とする(市村瓚次郎)
  • (3)動物の意味とする(市村瓚次郎)
  • (4)捕虜説(沼田頼輔)。異国人の俘虜説(牧健二)
  • (5)日本人とは異なった異種族の捕虜(波多野承五郎)
  • (6)倭人特有の特殊技術として潜水捕魚鰒者(橋本増吉)
  • (7)在外研究員・外国留学生(中山平次郎)
  • (8)奴婢一般と区別される性質をもち、財物視されていた人々(原島礼二)
  • (9)大人・下戸・奴婢・生口の四階層で、生口は社会的地位は最も低く、奴隷階層(広淇)
  • (10)倭の特産とての献上品(沈仁安)
  • (11)人権の喪失者として家畜と変わりない(日野開三郎)
  • (12)生口は捕虜を意味すると同時に奴婢の意味を併せ持つ(佐伯有清)
  • (13)捕獲された非戦闘員あるいはなんらかの事情って他の権力機構に隷属せしめられた人々で奴婢とは区別する(笠井倭人)

中国での「生口」の意味

中国、漢代の思想書『論衡』の恢國に「匈奴時擾,遣將攘討,獲虜生口千萬數」とある。これは匈奴と戦い、千万の人数の生口を捕らえたという意味である。数が多いのは戦争捕虜のためであろう。

『漢書』には「捕生口虜」(竇田灌韓傳)、「捕得生口」(李廣蘇建傳)、「捕得生口」(西域傳上)などの文脈で登場する。『後漢書』において、匈奴や鮮卑など「生口」は漢族からみた異民族(漢民族ではない民族)であった。

『三国志』では戦闘や済南の黃巾(魏書呂虔伝)や武陵の蛮夷などもあり、生口は牛馬と同様に売買される対象であった。南北朝期では生口を対象とした投機的な売買が行われていた。湖南省長沙市走馬楼で出土した三国・呉代の竹簡と木牘では生口を売買した記録がある。

奴婢の成因

劉偉民は奴婢の成因(発生原因)について、争俘虜・・犯罪による没入・困窮と質にる身売り・脅迫および略奪などの理由をあげている。職掌については農耕・労務(水利・築城・運輸・殯葬・雑役・販売・偵察・倉庫管理など)・軍事(兵および指揮)・娯楽(楽舞などをあげ、そのため奴婢の技能は歌舞・文章作成・技工・武芸をあげる。必ずしも単純労働だけではなかった。

結論と課題

生口は総合的に考えれば、戦争等での捕虜に起因した奴隷と考えるのが合理的と結論する。 理由は、班布・錦・白珠と同列にもの扱いしていること、男女の生口がいること、から判断できる。 倭国乱に見られるように、弥生時代は地域的な戦乱が多かったと考えられる。戦乱があれば、負けた方は奴隷になることは、中国の例もあるから不思議ではない。 検討課題としては

  • (1)奴婢と生口は同じであるか、異なるか。
  • (2)生口は異民族であるか、同じ民族か。
  • (3)生口は古墳時代には見られなくなったとすれば、いつ頃なくなったのか。
  • (4)生口は、日本でも売買されたのか。

などである。『魏志倭人伝』において生口は「もの扱い」とみえるから、売買対象であっても不思議ではない。中国では売買事例があっても、倭国では証拠がない。

参考文献

  1. 劉偉民(1975)『中国古代奴隷制度史─由殷代至両晋南北朝─』龍門書店,pp.274-294
  2. 牧健二(1962)「第二・三世紀における倭人の社会」史林45(2)、pp.159-194
  3. 門田誠一(2019)「魏志倭人伝にみえる生口の検討」歴史学部論集 9、佛教大学歴史学部,pp.1-20