月見野上野遺跡 ― 2026年10月18日 00:05
月見野遺跡群上野遺跡(つきみのいせきぐん かみのいせき)は大和市(神奈川県)に所在する、旧石器時代から縄文時代草創期・早期の遺跡である。また、平安時代の遺構・遺物も確認されており、長期間にわたって土地利用が行われた複合遺跡である。境川水系目黒川流域の台地上に立地し、関東ローム層中に複数の文化層が確認され、旧石器時代から縄文時代草創期にかけての石器群や土器の変遷を層位的に検討できる。
1.立地と層位
遺跡は相模野台地に位置し、境川の支流である目黒川西岸の台地縁辺部に立地する。第1地点では、約12,000㎡を対象とした発掘調査が行われ、関東ローム層中から旧石器時代の文化層が確認された。また、最上部付近からは縄文時代草創期の土器・石器を含む第Ⅰ文化層が検出されている。 月見野遺跡群では、複数の遺跡・地点から文化層が確認されており、それらを比較することによって、後期旧石器時代から縄文時代草創期にかけての石器群の変遷を層位的に検討することができる。月見野遺跡群の調査は、関東地方における旧石器時代研究の基礎資料を提供した点でも重要である。
2.旧石器時代の石器群
旧石器時代の文化層からは、ナイフ形石器、尖頭器、細石刃・細石刃石核、スクレイパー、彫器、礫器、石核、剥片など多様な石器が出土している。これらには時期による組成の変化が認められ、ナイフ形石器から尖頭器、さらに細石刃を主体とする石器群への変化を検討することができる。大和市も、旧石器時代の八つの時期に分けられる地層から豊富な石器が出土し、狩猟具がナイフ形石器から尖頭器、さらに細石刃へ変化する過程を知ることができるとしている。 また、大和市域の旧石器資料では黒曜石製石器などについて産地推定が行われており、箱根・伊豆・神津島・信州などを含む広域から石材がもたらされたことが明らかにされている。こうした分析は、旧石器時代の人々の移動や石材獲得の範囲を考えるうえで重要である。
3.縄文時代草創期の土器
上野遺跡第1地点では、縄文時代草創期の土器が出土している。とくに隆起線文土器がまとまって出土し、二個体が完形に復元されている。これらは縄文土器の出現過程を考えるうえで重要な資料である。 また、隆起線文土器に先行する可能性がある非常に古い土器片も出土しており、その年代的位置づけは縄文土器の起源を考えるうえで注目されてきた。現在では「日本最古」と一律に断定するのではなく、日本最古級あるいは日本最古に位置づけられる資料の一つとして、その年代と位置づけを検討するのが適切である。大和市は、この土器片を「日本最古に位置づけられる土器片」と説明している。
4.調査史
月見野遺跡群では、1968年に相模考古学研究会による分布調査が行われ、土地区画整理事業に伴う造成によって露出したローム層から多数の石器が発見された。その後、1968~1969年には明治大学によって月見野遺跡群の発掘調査が行われ、複数の遺跡・地点について調査が進められた。 上野遺跡第1地点では、1979年7月から1981年7月にかけて本格的な発掘調査が行われ、約12,000㎡が調査された。第1地点の調査成果は、その後刊行された『月見野遺跡群上野遺跡第1地点』などの報告書にまとめられている。 月見野遺跡群の調査は、旧石器時代の遺跡を単独で捉えるだけでなく、同一地域に分布する複数の遺跡・地点を比較する研究を進展させ、石器群の編年、旧石器時代の遺跡群のあり方、縄文時代草創期への移行過程などを考えるための重要な資料を提供した。 第2地点も約1,440㎡が調査されている。
5.意義・位置づけ
月見野遺跡群上野遺跡は、旧石器時代の複数の文化層から出土した石器群と、縄文時代草創期の土器を同一地域で検討できる重要な遺跡である。とくに1968~1969年の月見野遺跡群の調査は、複数の遺跡・地点を比較する視点を旧石器時代研究に導入する契機となり、石器群の編年や旧石器時代の遺跡群のあり方を考える基礎資料となった。さらに上野遺跡第1地点から出土した非常に古い土器片や隆起線文土器は、縄文土器の出現過程と旧石器時代から縄文時代への移行を考えるうえで重要な資料となっている。
① 月見野遺跡群という「遺跡群」研究の重要性
- 1968年の分布調査によって多数の遺跡が把握され、複数地点を比較できたことが重要です。これは、旧石器時代の人々の活動を単独の遺跡だけでなく、地域内の遺跡群として捉える研究につながった。
② 石器群の編年研究
- ナイフ形石器→尖頭器→細石刃という大きな変化を、文化層との関係から検討できる点が重要である。
③ 縄文土器の出現を考える資料
- 非常に古い土器片と隆起線文土器が出土しており、旧石器時代から縄文時代への移行過程を考えるうえで重要であり。
④ 自然科学分析の蓄積
- 第1地点については自然科学分析の報告書も別に刊行されており、年代測定や土器付着物、石材産地推定などを含めて検討されてきた点も付記できる。大和市の刊行物には、第25集『自然科学からのアプローチ』が掲載されている。
遺構
- 遺構:縄文時代草創期の第Ⅰ文化層では明確な遺構は確認されていない。
遺物
- ナイフ形石器、尖頭器、細石刃・細石刃石核、スクレイパー、石核、剥片など、多様な石器が出土している。
指定
- 1987年(昭和62年)2月20日 出土品1,058点が「大和市上野遺跡出土品」として神奈川県指定重要文化財に指定されている。先土器時代から縄文時代草創期の出土品である。
展示
- 大和市つる舞の里歴史資料館(神奈川県大和市つきみ野7-3-2)
アクセス
- 名称:月見野上野遺跡
- 所在地:神奈川県大和市つきみ野1-4-5/3-13/5-1-2/5-3ほか
- 交 通:東急田園都市線つきみ野駅から徒歩約7分
参考文献
- 大和市教育委員会(1986)『月見野遺跡群上野遺跡第1地点』大和市文化財調査報告書第21集
- 大和市教育委員会(1987)『月見野遺跡群上野遺跡第1地点 自然科学からのアプローチ』大和市文化財調査報告書第25集
横口式石槨 ― 2026年10月17日 00:07
横口式石槨(よこぐちしきせっかく)は古墳時代後期から終末期にかけて発達した埋葬施設の一種で、石材を加工して組み合わせた小型の石槨に、側面から出入りするための開口部(横口)を設けたものである。とくに大和・河内を中心に分布し、終末期古墳を特徴づける埋葬施設の一つとなっている。大和では、二上山産の凝灰岩などを加工した石材を用いた例が知られている。床石・側壁・天井石などを組み合わせて構築した例が多い。横口から棺を納め、埋葬後に閉塞する構造をとる。 白石(1998)は7世紀の終わり頃から8世紀になると、日本の最高支配者層の墓制として受け入れられたと指摘する。
概要
横口式石槨の特徴は以下の通りである(山本彰(1998))。
- 石材を加工して組み合わせ、棺を納めるための小型の石槨を構築する。
- 石槨の側面に横口と呼ばれる開口部を設け、そこから棺を搬入する。
- 横穴式石室の玄室に比べて内部空間が狭く、基本的に単葬を目的とする。
- 石材には凝灰岩などが用いられ、表面を平滑に加工した例もある。
- 横口や閉塞施設、石槨の構造には地域・時期による多様性がある。
横口式石槨の構造
横口は、石槨の側面に設けられた出入口で、ここから棺を搬入したと考えられている。埋葬後には、石材などによって開口部を閉塞する。石槨は横穴式石室の玄室より著しく小型で、棺一基を納めることを基本とする。
横穴式石室との違い
横口式石槨は、横穴式石室と同じく側面に開口部をもつが、規模と構造が大きく異なる。横穴式石室では、玄室内部に人が入ることができる程度の空間を設け、複数回の埋葬や追葬を想定したものも多い。一方、横口式石槨は棺を納めることを主眼とした小型の施設で、内部空間が狭く、基本的に単葬を目的とする点に特徴がある。
横口式石槨の源流
横口式石槨の成立については、日本列島内の横穴式石室・石棺などとの関係だけでなく、朝鮮半島を含む東アジアの墓制・石造技術との関連も論じられてきた。そのため、その起源・系譜については現在も重要な研究課題となっている。 白石太一郎(1998)は、古い横口式石槨が律令期の安宿郡を中心とする地域に分布することに注目し、この地域には百済系渡来人が多く居住していたことから、横口式石槨の成立について朝鮮半島の墓制との関係を検討する必要があると論じている。 広瀬和雄(1998)は横口式石A型は日本で生まれたとは考えにくいと指摘する。中国、新羅、百済では系譜を追求できず、高句麗の土浦里1号墳が最も近いとする。E型の源流は百済陵山里東下塚古墳の石室に求められると主張する。
型式分類と編年
横口式石槨については、石槨の形態や石材の構成、横口の構造などに基づく型式分類が行われ、それぞれの型式について年代的位置づけが検討されている。林部均(1998)は大和の横口式石槨をⅠ式・Ⅱ式・Ⅲ式に分類しており、これらは型式・構造上の区分であるため、Ⅰ・Ⅱ・Ⅲの番号をそのまま年代順の段階とみなすことはできない。
横口式石槨については、型式分類や年代観について研究者によって見解が異なる。林部均は大和を中心として型式分類と編年を提示し、広瀬和雄(1998)はより広い地域の資料を対象として変遷を検討している。両者の編年は区分方法や年代観が異なるため、単純に対応させることはできない。
林部均の編年(林部均(1998))
林部均(1998)は、大和の横口式石槨について石室構造を基準として、Ⅰ式・Ⅱ式・Ⅲ式に分類し、それぞれの年代と事例を示している。なお、Ⅰ式・Ⅱ式・Ⅲ式という区分は型式分類に基づくものであり、番号そのものが単純な年代順を示すものではない。
Ⅰ式期
- 年代 675年頃から730年頃
- 事例:平野塚穴山古墳、牽牛子塚古墳、マルコ山古墳、石のカラト
Ⅱ式期
- 年代 660年頃から680年頃
- 事例:お亀石古墳、仏陀寺古墳、松井塚古墳
Ⅲ式期
- 年代 641年頃から675年頃
- 事例:鉢伏山西峰、巨勢山323、舞谷304、オウコ8、ホウジ1
広瀬和雄の編年(広瀬和雄(1998))
広瀬和雄(1998)は編年を1期から6期に分け、さらに玄室の構造をもとにしてA型からE型に分類した。型と期は1対1対応ではない。A型は複数の石材を組み合わせて石槨を構築するもの、B型はくり抜き式または組み合わせ式の石棺を利用するもの、C型はくり抜いた石材によって石槨を構築するもの、D型は榛原石を積み上げて構築するもの、E型は凝灰岩の切石を組み合わせて構築するものとした。
広瀬和雄の編年による事例
1期
- 年代 7世紀初頭
- 事例:平尾山13-1(平尾山古墳群13支群1号墳)(A型)
2期
- 年代 7世紀前半
- 事例:雁多尾畑(平尾山古墳群雁多尾畑支群)(A型)
***3期
- 年代:7世紀中頃
- 事例:巨勢山323号(A型)、お亀石古墳(B型)、平尾山西峰(C型)、花山西塚(D型)
4期
- 年代 7世紀後半
- 事例:白木(A型)、塚廻(A型)、小口山古墳(B型)、石宝殿古墳(C型)、平尾塚穴山(E型)
5期
- 年代:7世紀末
- 事例:徳楽山古墳(B型)、石のカラト(E型)、鬼の俎・雪隠古墳(C型)
6期
- 年代:8世紀初頭
- 事例:益田岩船(C型)、中尾山古墳(E型)
河内の横口式石槨
河内では、横口式石槨が集中して分布する地域があり、終末期古墳を考える上で重要な地域となっている。
- 石宝殿古墳
- 道明寺山古墳
- 観音塚古墳
- 小口山古墳
- 徳楽山古墳
- お亀石古墳
- 春日古墳
- 仏陀寺古墳
研究上の問題
横口式石槨については、編年、型式分類、成立過程・系譜などをめぐって研究者によって見解が異なる。
第一に編年である。横口式石槨には複数の型式・形態が認められ、その出現から終末期古墳の展開に至る過程について、研究者によって異なる編年案が提示されている。
第二に成立の系譜である。横口式石槨が日本列島内の横穴式石室・石棺などからどのように発展したのか、また朝鮮半島を含む東アジアの墓制・石造技術との関係がどの程度あるのかについて議論されている。
第三に型式分類である。石槨の形状、石材の構成、横口の位置・構造、閉塞方法などを基準として、複数の分類案が提示されている。
参考文献
- 羽曳野市教育委員会編(1998)『河内飛鳥と終末期古墳』吉川弘文館
- 白石太一郎(1998)「終末期古墳と横口式石槨」『河内飛鳥と終末期古墳』吉川弘文館
- 林部均(1998)「大和の横口式石槨」『河内飛鳥と終末期古墳』吉川弘文館
- 広瀬和雄(1998)「横口式石槨の変遷」『河内飛鳥と終末期古墳』吉川弘文館
- 山本彰(1998)「河内の横口式石槨」『河内飛鳥と終末期古墳』吉川弘文館
- 山本彰(2007)『終末期古墳と横口式石槨』吉川弘文館
鬼の俎・雪隠古墳 ― 2026年10月16日 00:05
鬼の俎・雪隠古墳(おにのまないた・せっちんこふん)は、奈良県明日香村野口・平田に所在する7世紀後半頃の終末期古墳である。墳丘は大きく失われているが、横口式石槨の床石と蓋石と考えられる「鬼の俎」と「鬼の雪隠」が残る。
概要
「鬼の俎」と「鬼の雪隠」は、現在は数十m離れているが、もとは一つの横口式石槨を構成していた石材と考えられている。「鬼の俎」が石槨の床石、「鬼の雪隠」が蓋石にあたり、墳丘の崩壊・削平などに伴って蓋石が移動し、現在の位置に残ったと考えられている。 「鬼の俎」は長さ約4.5m、幅約2.7m、厚さ約1m、「鬼の雪隠」は内部の幅約1.5m、高さ約1.3mを測る。石槨には角閃石黒雲母石英閃緑岩が用いられている。石槨の内部規模は約2.75m×1.59mと推定され、大化2年(646)のいわゆる薄葬令に示された墓室規模との関連も指摘されている。 また、「鬼の俎」の東方約9mから、これと同様の別の床石が明治10年(1877)頃に発見された。この石は分割されて民家の庭石などに転用されていたが、のちに回収され、現在は奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で屋外展示されている。このことから、鬼の俎・雪隠古墳は、二つの横口式石槨を一つの墳丘に納めた古墳であった可能性が指摘されている。 「鬼の俎」と「鬼の雪隠」は、宮内庁によって梅山古墳(欽明大王の墓とされ、現在は欽明天皇陵に治定されている古墳)の陪塚に治定されている。梅山古墳、カナヅカ古墳、鬼の俎・雪隠古墳、野口王墓古墳(天武・持統天皇陵)は、明日香村の東西方向に近接して分布している。こうした古墳の配置については、飛鳥の王墓域や王統との関係からも論じられている。
調査
西光慎治(2002)は、地籍図や墳丘規格などの検討から、鬼の俎・雪隠古墳を二段築成の長方形墳と推定し、墳丘規模を東西約35.4m(120尺)、南北約20.7m(70尺)、高さ約5mと復元している。 また西光慎治(2002)は鬼の俎・雪隠古墳を二段築成の長方形墳と復元案を示している。すると、復元案では一つの墳丘に二つの石槨の図を作成できる。
築造年代
広瀬和雄(1998)は築造年代を横口式石槨5期(680年から700年)のC型に位置づけている。西光慎治(2002)は、鬼の俎・雪隠古墳の調査は実施されていないため断定できないとしながらも、羨道がなく、羨道が退化したⅠ-b類と考え、石宝殿古墳よりやや遅れる7世紀第三四半期と想定している。両者の年代観には差があり、築造年代についてはなお検討の余地がある。
被葬者
被葬者は明らかになっていない。西光慎治(2002)は、古墳の規模・構造や周辺の王墓との関係などから、鬼の俎・雪隠古墳を斉明天皇と建王の初葬墓とする説を提示している。一方、被葬者については確定しておらず、現在も複数の説がある。
歴史
「鬼の俎」と「鬼の雪隠」は江戸時代にはすでに知られていた。林宗甫の『和州旧跡幽考』(1681年〔延宝9年〕)には、野口王墓古墳の西に「鬼の魚板」および「鬼の雪隠」と呼ばれる石があったことが記されている。 『大養徳國山陵記録』(1697年〔元禄10年〕)にも、これらの石に関する記録がある。東側にあった古墳の俎の部分は明治時代に、個人の屋敷の庭石として使用されていたものが発見されており、1889年(明治22年)には、「鬼の雪隠」を分割して持ち帰ろうとする計画があったが、宮内省から梅山古墳(欽明大王墓とされ、当時は欽明天皇陵に治定されていた)の陪塚として保護する旨の中止命令が出され、破壊を免れた。の屋外に展示されている。鬼の俎2号墳(亀田(1988)) あるいは鬼の俎・雪隠東古墳(関川(1999))と呼ばれている。1889年(明治22年)に同様に鬼の雪隠を分割して持ち帰ろうとしたところ、宮内省から欽明大王檜隈坂合陵(梅山古墳)の陪塚であることから中止命令が出されて中止され、それ以上の破壊を免れた(辰巳俊輔(2018))。 ウィリアム・ゴーランドは1872年から1888年の間に、飛鳥地域で鬼の俎・雪隠古墳の写真撮影や測量を行い、その記録が残されている(ハリス・後藤編(2003))。特に古墳の石室のプラン(平面図)や断面図を精密に測量し、当時の最新技術の写真機で記録を残した。調査図面、測量資料、写真は大英博物館に保存されている。
遺構
- 長方形墳と推定される墳丘
- 二段築成とする墳丘復元案
- 横口式石槨
- 床石(鬼の俎)
- 蓋石(鬼の雪隠)
- 東側から発見された別の床石
- 二つの石槨をもつ古墳とする復元案
遺物
- 本格的な発掘調査が実施されておらず、出土遺物についての情報は乏しい。
展示
- 現地に展示施設はない。東側から発見された別の床石は、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で屋外展示されている。
陵墓関係
- 宮内庁は欽明天皇陵(梅山古墳)の陪塚として治定(「は号」)(正確には欽明大王)
アクセス等
- 名称 :鬼の俎・雪隠古墳
- 所在地 : 奈良県高市郡明日香村野口・平田
- 交 通 : 近鉄吉野線「飛鳥駅」から950m(徒歩約15分)
参考文献
- ヴィクター・ハリス、後藤和雄編(2003)『ガウランド 日本考古学の父』朝日新聞社
- 西光慎治(2002)「今城谷の合葬墓」明日香村文化財調査研究紀要 2,pp.1-32
- 辰巳俊輔(2018)「飛鳥地域における古墳研究の軌跡(上)」明日香村文化財調査研究紀要 17,pp.23-49
- 広瀬和雄(1998)「横口式石槨の変遷」『河内飛鳥と終末期古墳』吉川弘文館
礎石建物 ― 2026年10月15日 05:16
礎石建物(そせきたてもの)は地表や基壇などに据えた礎石の上に柱を立て、礎石を介して建物の荷重を地盤に伝える構造の建物である。柱を地面に直接埋め込む掘立柱建物とは異なり、柱脚を地面から離して設置することが特徴である。
概要
礎石には、上面を平らに加工したものや、柱を据えるための「柱座」と呼ばれる造り出し(突出部)を設けたものがある。柱座をもつ礎石では、その径から柱の太さを推定できる場合がある。奈良文化財研究所の目黒新悟による研究では、円形の柱座をもつ現存古代建築12棟を分析した結果、柱径は柱座径の6割強~7割強程度で、平均すると約3分の2となることが示されている(目黒 新悟(2019))。したがって、柱座径から柱径を推定する際の一つの目安として、柱径を柱座径の約3分の2とすることができる。ただし、これは分析対象となった古代建築について得られた傾向であり、すべての礎石建物に一律に適用できるものではない。 礎石には、柱の荷重を安定して地盤に伝え、柱の沈下や位置のずれを抑える役割がある。また、柱脚を土壌から離すことで、柱の根元が土壌中の水分に直接触れることを避け、木材の腐朽を抑える効果もある。ただし、礎石建物であっても雨水や床下の湿気などによって木材が腐朽することはある。 飛鳥時代の寺院建築では、基壇や地盤改良などと組み合わせて礎石が用いられ、瓦葺きの大型建築を支えた。飛鳥寺は588年に造営が始まった日本最古の本格的寺院の一つで、瓦葺き建築が導入された初期の代表例である。こうした寺院建築には、朝鮮半島など東アジアの建築・石材加工技術との関係が認められる。礎石建物は、特に古代寺院・宮殿・官衙などの瓦葺き建築と強く結びついて発達したが、礎石建物がすべて瓦葺きだったわけではない。
礎石建物の特徴
柱を礎石上に立てるため、柱脚が土壌中の水分に直接触れにくい。 柱の荷重を礎石から地盤・基壇に伝え、柱の沈下や位置のずれを抑える。 礎石の形状や柱座から、柱径や柱配置など、失われた建物の構造を推定できる場合がある。 礎石の採取・加工・運搬・据え付けなどが必要となるため、大規模な建築では多くの労力と組織的な施工を必要とした。
掘立柱建物と礎石建物との関係
柱の立て方
- 掘立柱建物:地面に柱穴を掘り、柱を直接地中に立てる。
- 礎石建物:地表や基壇上に礎石を据え、その上に柱を立てる。
柱脚と耐久性
- 掘立柱建物:柱脚が土中に入るため、土壌中の水分などによって腐朽する場合がある。
- 礎石建物:柱脚を地面から離すことで、土壌中の水分に直接触れにくくする。
施工
- 掘立柱建物:柱穴の掘削と柱の据え付けが基本となる。
- 礎石建物:柱脚を地面から離すことで、土壌中の水分に直接触れにくくする。
礎石からわかる建物の構造
発掘調査で礎石が残っている場合、礎石の配置から柱間寸法や建物の平面規模を復元できる。また、柱座の形状・径や礎石の加工痕などを調べることで、柱の太さや柱の構造、建物の規模などを推定できる場合がある。礎石、基壇、瓦などを総合して検討することで、失われた建物の上部構造を復元する手がかりとなる。奈良文化財研究所でも、礎石に残された情報を古代建築の復元研究に利用している。
時代別変遷
飛鳥時代・奈良時代
6世紀末以降、仏教寺院の建立とともに、東アジアの建築技術を取り入れた新しい建築技術が発展した。飛鳥寺をはじめとする初期寺院では、基壇・礎石・瓦葺きなどを組み合わせた建築が成立し、その後、寺院だけでなく宮殿や官衙などにも礎石を用いた建築が広がった。飛鳥寺では588年の造営開始時から、朝鮮半島から来た技術者による建築技術の導入があったと考えられている。 現存する法隆寺西院伽藍は、670年の焼失後、7世紀後半から8世紀初頭に再建されたもので、金堂などに飛鳥時代の礎石建築の技術を見ることができる。 奈良時代には、平城宮などの宮殿・官衙や寺院で礎石建物が広く用いられ、地方でも国府などの官衙や寺院に礎石建物がみられるようになった。
平安時代・鎌倉時代
平安時代には、寺院や官衙だけでなく、貴族住宅などにも礎石上に柱を立てる建築がみられた。中世には寺院建築や武家の建築などで礎石を用いる構法が広く用いられ、建物の種類や構造に応じてさまざまな形式が発達した。
室町時代から江戸時代
中世から近世にかけても、寺社建築だけでなく、民家や町家などの木造建築で礎石の上に柱を立てる構法が用いられた。伝統的な木造建築では、礎石の上に柱や土台を載せる「石場建て」が代表的な構法の一つである。
近代以降から現代
近代以降は、コンクリート基礎とアンカーボルトなどによって建物と基礎を緊結する近代的な基礎構法(「布基礎」や「ベタ基礎」)が普及し、石場建ては一般的な住宅では少なくなった。ただし、石場建てが完全になくなったわけではなく、現在でも伝統構法による住宅などで採用例がある。
遺跡・遺構例
- 東大寺の大講堂跡 大仏殿北側の芝生の場所に大きな礎石が整然と並んでいる
- 東大寺東軒廊 奈良市、推定幅9メートルの巨大な廊下(東軒廊)の礎石
- 平城宮・東院南方遺跡、奈良市、公的施設の可能性が高い礎石建物跡
- 毛原廃寺跡 奈良県山添村、奈良時代前半の仏堂とみられる礎石建物跡
参考文献
- 青木敬(2011)「掘立柱建物の検討視点」奈良文化財研究所紀要2011,pp.46-47,
- 目黒 新悟(2019)「古代建築における礎石の柱座径と柱径との関係」奈良文化財研究所紀要,pp.8-9
- 「平城宮南東に公的施設か 礎石建物跡出土」産経新聞、2026/7/2
- 竹島喜芳、加藤薫(2022)「レーザ測量の反射強度情報を用いた建物礎石検出法の検討」中部大学工学部紀要 57,pp.31-36
- 佐々木健ー(2021)「全国の仏教寺院本堂の基礎の実態調査」日本建築学会技術報告集,第 27 巻,第66号,pp.855-858
掘立柱建物 ― 2026年10月14日 00:05
掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)は柱を礎石などの基礎の上に置くのではなく、地面に掘った柱穴に柱を直接埋め込んで立てる構造の建物である。柱穴に柱を据え、その上に梁や桁などを組んで建物の骨格を構成する。床を地面と同じ高さにするもののほか、床を地面より高くした高床建物もある。
概要
床面を地面とほぼ同じ高さに設けるものと、柱を長くして床を地面から高くした高床建物とがある。高床建物では、床下に空間が形成される。弥生時代では高床倉庫などの倉庫として用いられたと考えられる例がある一方、建物の規模・配置・構造などから、居住・祭祀・集会などの機能が想定されるものもある。柱を立てていた穴(柱穴)が発掘調査で見つかるが、柱穴の断面や埋土を観察すると、柱材が残存していなくても、柱痕跡や柱抜取り痕などから柱の位置や太さを推定できる場合がある。遺構として検出される掘立柱建物跡は、複数の柱穴(ピット)が一定の間隔で規則的に配置されることから認識される。柱穴の規模・形状・埋土・重複関係などを検討し、柱筋や建物の平面形を復元できる。
掘立柱建物と高床建物との関係
掘立柱建物には、床を地面近くに設けるものと、柱を長くして床を高くした高床建物がある。また、柱間に壁を設けるもの、開放的な構造のものなど、建物の構造には多様性がある。そのため、「掘立柱建物」は建物の用途や形態を示す名称ではなく、主として柱の設置方法を示す建築構造上の名称である。
竪穴建物と掘立柱建物の違い
竪穴建物と掘立柱建物は、主として建物を構成する構造や床面のつくり方によって区別される。竪穴建物は、地面を掘り下げて床面を設けることを基本とするのに対し、掘立柱建物は、柱を地面に掘った柱穴に直接埋め込んで立てることを基本とする。
ただし、両者は必ずしも完全に対立する構造ではなく、竪穴建物にも柱を地中に埋め込む例がある。また、掘立柱建物にも地面に近い床面を持つものと高床のものがある。 違いを比較すると以下の通り。
- 床面
- 竪穴建物は地面を掘り下げて床面を設ける(半地下式)。
- 掘立柱建物は床面を地表面付近に設けるものや、柱を長くして高床とするものがある。
- 構造
- 竪穴建物は掘り下げた床面と周囲の壁・屋根を組み合わせて空間を構成する。
- 掘立柱建物は地中に直接立てた柱を基本として、梁・桁などを組み上げる。
- 室内
- 竪穴建物は炉・炉跡が確認される例が多いが、すべての竪穴建物に炉があるわけではない。
- 掘立柱建物でも、建物の用途によっては火を用いる施設が設けられる可能性がある。
掘立柱建物の長所と欠点
掘立柱建物では、柱を地中に直接埋め込むため、礎石の上に柱を立てる建物と比べ、柱の地中部分や地際部分が腐朽する可能性がある。とくに地下水や降雨、土壌の状態などは柱材の保存状態に影響を与える。
一方、掘立柱建物は、礎石を用いる建物に比べて基礎工事を簡略化できるという利点もあり、柱を交換したり建物を建て替えたりすることも可能である。
発掘調査では、同じ場所に建物が繰り返し建て替えられた結果、柱穴が重複して検出される場合がある。こうした重複関係を調べることによって、建物の建て替えや集落の変遷を明らかにできる。
掘立柱建物跡の認定と復元
発掘調査では、柱材そのものが残っているとは限らないため、柱穴の配置から建物の存在を推定することが多い。柱穴が一定の間隔で並び、複数の柱筋が直交するなど、建物として整合的な配置を示す場合に掘立柱建物跡として認識される。
柱穴の大きさや形状、柱痕跡、埋土、重複関係などを検討することで、柱の位置や太さ、建物の規模、柱間寸法、建て替えの順序などを推定できる。柱穴が重複している場合には、古い建物を解体した後、同じ場所に新しい建物が建てられた可能性がある。
ただし、柱穴の配列だけから建物の用途や上部構造を一意に決定することは難しく、出土遺物、建物の規模、周辺遺構との関係などを総合して判断する必要がある。
掘立柱建物の出現時期
縄文時代前期
縄文時代前期には、掘立柱建物と考えられる遺構が確認されるようになる。当時は拠点集落の中心となる建物や、小規模なものが見られる。青森県青森市の三内丸山遺跡では大型掘立柱建物が現れる。直径約2メートル・深さ約2メートルの大きな柱穴に、太さ約1メートルのクリの木柱を6本立てた3×2列の構造の建物がみられる。用途は、見晴らし台、儀式や祭祀の場、大型のモニュメントなどとして使われたと考える説がある(柳原輝明(2022))。しかし、大型掘立柱建物などがどのような機能を持っていたかについては確定しているわけではない。 秋田県大館市の池内遺跡は1975年(昭和50年)〜1976年(昭和51年)の調査により、全国で初めて縄文時代の掘立柱建物の存在が確認された遺跡である。多数の竪穴建物が整然と並ぶ計画的な集落の中で、拠点となる中心的な役割を担っていたと考える説がある(秋田県埋蔵文化財センター(1999)、大館市教育委員会(1997))。
弥生時代
弥生時代の住居は竪穴建物が中心であった。弥生時代や古墳時代になると、高床式倉庫などに掘立柱構造が用いられた。弥生時代の掘立柱建物には、倉庫以外の機能もある。佐賀県吉野ヶ里遺跡では、高い柱を持つ大型の掘立柱建物跡が確認されており、その規模や構造、集落内での位置などから、物見櫓などの見張り・監視のための施設とする見解がある。
古墳時代
古墳時代にも掘立柱建物は各地で用いられ、居住施設、倉庫、祭祀関連施設などに加え、地域の拠点施設を構成する建物としても利用された。
飛鳥時代以後
飛鳥時代以降も掘立柱建物は広く用いられ、宮殿・官衙・寺院・居宅などさまざまな建物に採用された。一方、7世紀以降には宮殿や寺院などを中心に礎石を用いた建物(礎石建物)も普及し、掘立柱建物と礎石建物が用途や時期に応じて併存した。
平城京でも掘立柱建物と礎石建物の双方が確認されており、建物の用途や時期によって異なる構造が採用されていた。平城京でも、掘立柱建物と礎石建物の双方が確認されている。貴族の邸宅は掘立柱建物もあるが、すべてが掘立柱建物だったわけではない。
その後も掘立柱建物は長く用いられ、近世以降にもさまざまな建築でその構造がみられる。したがって、礎石建物の普及後に掘立柱建物が一律に消滅したわけではない。
近世以降
近世後期以降は礎石や基礎を用いる建築が普及する一方、掘立柱構造もさまざまな建物で継続して用いられた
出土例
参考文献
- 青木敬(2011)「掘立柱建物の検討視点」奈良文化財研究所紀要,pp.46-47
- 秋田県埋蔵文化財センター(1999)『秋田県文化財調査報告書282:池内遺跡』秋田県教育委員会
- 朝岡俊也(2025)「弥生時代の掘立柱建物と祖先祭祀」福岡 : 七隈史学会
- 大館市教育委員会(1997)「池内遺跡(遺構篇)」大館市教育委員会
- 埋蔵文化財研究会編(1991)『弥生時代の掘立柱建物』名著出版
- 柳原輝明(2022)「三内丸山遺跡大型掘立柱建物についての一考察」日本天文考古学会
- 山中敏史(2007)『古代官街の造営技術に関する考古学的研究』、
- 湯場﨑 辰巳(2019)「鹿児島県における弥生時代の掘立柱建物跡の基礎的研究 : 県本土の掘立柱建物跡の集成と考察」『縄文の森から』研究紀要11、pp.67-76、鹿児島県立埋蔵文化財センター
- 脇園大史、伊藤弘(2023)「三内丸山遺跡における大型掘立柱跡復元過程の検討」文化資源学 21 (0), pp.59-73
石宝殿古墳 ― 2026年10月13日 00:05
石宝殿古墳(いしのほうでんこふん)は大阪府寝屋川市打上に所在する古墳時代終末期(7世紀中葉頃)の古墳である。墳丘は失われているが、巨大な花崗岩製の横口式石槨が露出して現存し、1973年(昭和48年)に国の史跡に指定されている。
概要
寝屋川市東部の生駒山西麓丘陵に位置し、打上高塚古墳群(打上神社古墳群)を構成する終末期古墳である。現在は墳丘封土が失われ、横口式石槨のみが地表に露出している。
埋葬施設は南向きに開口する横口式石槨で、平坦な底石(下石)の上に、内部を刳り抜いた花崗岩製の蓋石を載せる二石構造を採る。石槨の外形は直径約3メートル、高さ約1.5メートルで、入口には本来閉塞用の扉石が設けられていたが、現在は失われている。
墳丘は現存しないため形状は不明である。1988年の発掘調査では石槨背後から列石が検出され、墳丘裾の土留め施設であった可能性が指摘された。このため封土を有する古墳とみる説が有力である一方、封土を伴わない露出型石槨説や八角墳説も提唱されている。
石宝殿は江戸時代以前から著名で、『河内名所図会』(1801年)にも掲載されている。また1774年には付近から金銅製骨蔵器が出土し、極楽寺に埋納されたと伝えられるが、石宝殿古墳との直接の関係は明らかではない。 北河内地域では唯一の終末期古墳であり、盛り土が流失し、巨大な横口式石槨がむき出しとなっている。花崗岩製の蓋石を刳り抜いて横口式石槨石室を構成する。埋葬施設は横口式石槨で、南方向に開口する。入り口部分には閉塞用の扉石が設置されていたが、現在は存在しない。 下石・蓋石からなる二石構造で作られた横口式石槨が特徴である。上面を平坦に加工した南北長約3m、厚さ約0.10mの底石(下石)の上に、直径3m 、高さ1.5mで埋葬部分をくり抜いた蓋石を重ねる。底石は蓋石を受けるための加工が施されている。 築造時期は、古墳時代終末期の7世紀中葉頃と推定されている。
発掘調査
1874年(明治7年)
- 堺県令税所篤による実地調査が行われ、石槨の構造が記録された。学術発掘というより実見・調査であった。
昭和53年(1978)
寝屋川市教育委員会による実測調査。
1988年(昭和63年)
- 寝屋川市教育委員会が発掘調査を実施した。発掘調査は今回が初めてである・石槨背後から列石を検出し、墳丘土留め施設の可能性が示された。出土した須恵器片および瓦器椀片は包含層出土であり、副葬品ではない。 1988年(昭和63年)7月12日から同年8月12日まで現地調査を実施し、1989年(平成元年)4月1日から1990年(平成2年)3月31日までの間に遺物整理および概要報告書作成した。遺物は、(第一トレンチでは)石敷上の第Ⅱ層中より瓦器椀の小片が数点出上した。そのうちの1点は退化傾向の強い高台を伴う底部であった。高台の断面は三角形を呈す。須恵器片は杯身の口縁部である。 (第三トレンチでは)石敷を検出した。石槨後背部には列石が4個あり、これが墳丘封土の土留め石であった可能性が指摘されている。
石宝殿古墳の意義・位置づけ
- 北河内を代表する終末期古墳
- 北河内地域で現存する数少ない7世紀の終末期古墳であり、この地域の古墳文化を知る基準資料となる。
- 横口式石槨の代表例
- 巨大な花崗岩を刳り抜いた二石構造の横口式石槨は、大王墓系統の高度な石室技術を示す資料として重要である。
- 終末期葬制の変化を示す遺跡
- 横穴式石室から横口式石槨への変化は、7世紀の葬送儀礼や被葬者階層の変化を示す代表例として位置づけられる。
- 古くから知られた古墳である
- 『河内名所図会』に描かれるなど近世から知られ、近代考古学成立以前から注目されてきた文化財である。
考察
石宝殿古墳は、7世紀中葉に畿内で普及した横口式石槨を採用する終末期古墳である。横口式石槨は追葬や扉石による開閉を可能とする新しい葬制であり、横穴式石室から古代の火葬・墓誌文化へ移行する過渡期の墓制を示している。また、墳丘背後の列石は封土を伴う墳丘の存在を示唆し、失われた墳丘復元を考える上でも重要な考古学資料となっている。
遺構
- 列石
- 横口式石槨
遺物
- 須恵器片(杯身)
- 瓦器椀片(中世)
- ※いずれも発掘調査時の包含層出土であり、副葬品ではない。
築造時期
- 7世紀中葉頃
展示
- 現地
指定
- 1973年5月10日(昭和48.05.10) 国の史跡指定
アクセス等
- 名称 :石宝殿古墳
- 所在地 : 大阪府寝屋川市大字打上
- 交 通 : JR学研都市線「寝屋川公園駅」(旧東寝屋川駅)から徒歩約15〜20分
参考文献
- 寝屋川市教育委員会(1990)『寝屋川市文化財資料14:石宝殿古墳』寝屋川市教育委員会
- 秋里籠島(1801)『河内名所図会』
- 梅原末治(1914)「河内打上村石賓殿」『考古学雑誌』第4巻7号
豪族 ― 2026年10月12日 00:08
豪族(ごうぞく)は古墳時代から飛鳥時代にかけてヤマト王権の政治・軍事・祭祀に関与し、各地域を基盤として勢力を有した有力氏族の総称である。中央で大王に仕えた中央豪族と、地方で地域支配を担った地方豪族に大別される。
概要
豪族は武力を動員できる従者や部民を擁し、一定の地域的支配権を持つ血縁・地縁的集団であった。
豪族の成立
豪族は弥生時代後期の地域首長層を基盤として、2世紀末から3世紀頃の古墳時代初頭に成立したと考えられている。米作りが盛んになると、土地や水をめぐる争いが起きるようになる。その中で、富や武力を持った有力者が周囲の住民を従え、豪族として登場した。 各地の豪族たちの中から、特に強い力を持った大和地方(現在の奈良県など)の豪族を中心とした連合体ができ、これがのちの「ヤマト王権(大和朝廷)」へと発展した。大型古墳は豪族の権威と政治的地位を示す象徴として築造された。 前方後円墳の築造や祭祀・威信財の配布、軍事を通じてヤマト王権へ組み込まれていった。
中央豪族と地方豪族
中央豪族は大和・河内などに本拠を置き、臣・連などの姓を持って大王に仕え、政治・軍事・祭祀を担った有力氏族である。
地方豪族は各地域で国造・県主などとなり、地域支配や貢納・軍事動員などを担当した。 地方にあって国造・県主に任ぜられた直・君などの姓を有する氏族を地方豪族という。
姓制度
豪族の氏姓制度は、氏姓制度は5世紀頃に整備が進み、6世紀には臣・連を中心とする秩序が確立した。豪族には氏(うじ)と姓(かばね)が与えられた。氏は血縁的・政治的集団の名称、姓は大王が与える世襲の地位・職掌を示す称号であり、臣・連・君・直・造などが代表的である。 豪族には、もともと地域の首長として独立性の強かった氏族と、大王家に職能をもって奉仕する氏族とがあり、その違いは連・造などの姓にも反映されている。ほかに帰化人系の豪族がある。
渡来系豪族
渡来人を祖とする渡来系氏族には東漢氏(やまとのあやうじ)・西文氏(かわちのふみうじ)・秦氏などがあり、技術・文書行政・外交などで王権を支えた。
大臣・大連
中央豪族の中で、臣姓の有力氏族からは朝廷の最高位官職である大臣(おおおみ)が、連姓の有力氏族からは大連(おおむらじ)が任じられた。蘇我氏は大臣、物部氏・大伴氏は大連を輩出した。 蘇我氏は臣姓をもつ中央豪族で、渡来系氏族との結び付きを背景に財政・外交・仏教政策などで勢力を拡大し、6世紀後半には王権内で大きな政治的影響力を持った。 「臣」は大身、御身を意味し、大きな勢力をもつものの尊称である。「君」は地域リーダーの意味である。 物部氏・大伴氏は連姓を代表する中央豪族で、物部氏は軍事・武器管理・宮廷祭祀を担った職能豪族として知られる。
豪族の経済基盤
豪族は部民(べみん)や田部(たべ)などの生産基盤を通じて経済力を維持し、祭祀・軍事・土木事業を支えた。大化の改新以前の豪族は民衆から直接、収穫物や労働力を徴収していた。 大化の改新後は大宝律令の制定により、大化改新以後、土地と人民を国家が把握する律令的土地制度の整備が進められ、公地公民を理念とする統治体制が形成された。徴税・行政・司法などの権限は、中央から派遣される国司へと移されていった。しかし実際の地方政治や税の取り立て(租・庸・調など)をすべて官僚だけで行うのは難しかった。そのため、地元の有力豪族たちは「郡司(ぐんじ)」という地方官に任命され、実務部隊として民衆から税を徴収する役割を担った。
豪族の終焉
7世紀後半の大化改新・天武・持統朝の中央集権化により、豪族の地域支配は次第に律令国家の地方制度へ組み込まれ、684年の八色の姓(やくさのかばね)制定によって氏族秩序として再編された。
参考文献
- 志田諄一(1985)『古代氏族の性格と伝承 第3版』雄山閣
- 青木和夫(2007)『古代豪族』講談社

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