箸墓古墳 ― 2026年04月19日 00:23
箸墓古墳(はしはかこふん)は奈良県桜井市に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。全長約272メートルを測り、日本列島における最古級かつ最大級の前方後円墳の一つとされる。宮内庁により倭迹迹日百襲姫命大市墓として陵墓参考地に治定されており、原則として墳丘への立ち入りは制限されている。
古墳の構造
箸墓古墳は後円部を北西、前方部を南東に向けた前方後円墳である。 主な規模は次の通りである。
- 全長:約272メートル
- 後円部径:約154メートル
- 後円部高さ:約30メートル
- 段築:後円部5段、前方部4段と推定
- 周囲に周濠および外濠状遺構が存在
1997年(平成9年)、桜井市教育委員会による後円部周辺の調査により、幅約10メートルの周濠と、その外側に幅50メートル以上の外濠状遺構が確認された。また南側では大規模な盛土構造も確認されている。
この規模の墳丘を人力のみで築造した場合、築造には十年以上を要した可能性があると推定されている。
築造年代
箸墓古墳の築造年代については、近年の研究では3世紀中頃とする見解が有力である。 その根拠として、主に以下の資料が挙げられる。
- 周濠出土土器の型式
- 庄内式から布留0式にかけての土器
- 放射性炭素年代測定
- 周濠出土土器付着物のAMS法による分析
- 較正年代:約西暦240?260年
- 初期前方後円墳の形態比較
- 前方部が「バチ形」を示す初期形態
これらの考古学的資料は、中国史書『三国志』魏志倭人伝に記される「卑弥呼の没年(247年または248年)」と年代的に近接することから、箸墓古墳を卑弥呼の墓とみなす説が有力視されている。
ただし、被葬者を特定できる決定的証拠は確認されておらず、学界では確定説には至っていない。
卑弥呼墓説
『三国志』魏志倭人伝には、卑弥呼の死後について次のように記されている。
- 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩
ここでいう「冢」は中国語で土を高く盛り上げた墓を意味する。 古代中国の1歩を約1.45メートルとすると、径100歩は約145メートルとなり、箸墓古墳の後円部径(約154メートル)と大きく矛盾しないとする指摘がある。
このため箸墓古墳は、卑弥呼の墓の有力候補としてしばしば議論の対象となる。ただし邪馬台国の所在地を九州とする立場などから、築造年代をより新しい時期とみる異説も存在する。
出土遺物
2000年、宮内庁による墳丘整備の際、倒木の根元から3000点以上の土器片・埴輪片が採取された。
主な遺物には以下がある。
- 壺形埴輪
- 円筒埴輪の祖形と考えられる土器
- 特殊器台(吉備地域に特徴的な大型土器)
特殊器台は弥生時代後期に吉備地方で出現する葬送土器で、古墳時代には円筒埴輪へと発展したと考えられている。纒向遺跡でも同系統の土器片が確認されており、箸墓古墳の築造に吉備勢力が関与した可能性が指摘されている。
周濠出土の馬具
2001年度の調査では、周濠堆積土の上層から「木製輪鐙(りんあぶみ)」が出土した。
復元長は約23センチメートルで、鐙靼による摩耗痕が確認されている。年代は4世紀初頭頃と推定され、日本最古級の鐙の可能性がある。
ただし、この遺物は周濠上層から出土しており、古墳築造後に投棄されたものと考えられるため、箸墓古墳の築造年代(3世紀中頃)と直接矛盾するものではないとされている。
纒向地域との関係
箸墓古墳の周辺には、以下の初期古墳が分布する。
- 纒向石塚古墳
- ホケノ山古墳
- 矢塚古墳
- 勝山古墳
- 東田大塚古墳
これらは一般に纒向古墳群と総称されるが、文化庁の史跡指定では箸墓古墳は同古墳群の範囲には含まれていない。
纒向遺跡は3世紀前半の巨大集落遺跡であり、邪馬台国の有力候補地の一つとされる。
被葬者
宮内庁は箸墓古墳を倭迹迹日百襲姫命墓に比定している。
倭迹迹日百襲姫命は『古事記』『日本書紀』に登場する人物で、三輪山神話と関係する巫女的存在として描かれる。しかし歴史学的には伝承的人物とみられる場合も多く、実在性については議論がある。
そのため考古学的には、箸墓古墳の被葬者は「初期ヤマト王権の首長(大王)」である可能性が高いと考えられている。
評価
箸墓古墳は
- 日本最初期の巨大前方後円墳
- 纒向遺跡と同時期に成立
- 3世紀中頃の築造年代
という特徴から、古墳時代成立とヤマト王権形成を象徴する古墳として位置づけられている。
また邪馬台国論争においても、卑弥呼墓の候補としてしばしば議論される、日本考古学上きわめて重要な遺跡である。
箸墓古墳研究史(1970年代から最新研究)
箸墓古墳の研究は、20世紀前半から存在していたものの、本格的な学術的議論が展開するのは1970年代以降である。とくに纒向遺跡の発掘調査、初期古墳の編年研究、自然科学分析の導入などにより、築造年代・被葬者・ヤマト王権成立との関係をめぐる研究が大きく進展した。以下では主な研究の流れを年代順に整理する。
1 1970年代:初期前方後円墳研究の確立
1970年代には、前方後円墳の成立過程を考古学的に整理する研究が進んだ。この時期には箸墓古墳を最古級の巨大前方後円墳と位置づける見解が次第に定着した。
研究の中心となった論点は次の三点である。
- 前方後円墳の成立年代
- 初期古墳の形態分類
- 大和地域の政治勢力
この時期の研究では、箸墓古墳の築造年代は3世紀末?4世紀初頭とする説が主流であった。これは当時の古墳編年が主として
- 埴輪
- 副葬品
- 古墳形態
に依拠していたためである。
また、被葬者を卑弥呼とみる説は存在したが、学界では必ずしも主流ではなかった。
2 1980年代:纒向遺跡の発掘と邪馬台国論争
1980年代になると、箸墓古墳の研究は大きく進展する。最大の契機となったのが纒向遺跡の大規模発掘調査である。
纒向遺跡では
- 大型建物群
- 遠隔地土器の集中
- 特殊器台
- 大規模な都市的集落
などが確認され、3世紀の政治中心地である可能性が指摘された。
この結果、次の仮説が提示された。
- 纒向遺跡=邪馬台国の中心地
この仮説が提示されると、箸墓古墳は次のように解釈されるようになった。
- 邪馬台国女王卑弥呼の墓
- ヤマト王権最初の王墓
この段階で、箸墓古墳と邪馬台国問題は密接に結びつくようになった。
3 1990年代:土器編年の精密化
1990年代には土器型式研究が大きく進み、庄内式土器から布留式土器への移行年代が精密化された。
箸墓古墳周辺から出土する土器は
- 庄内式土器
- 布留0式土器
であることが明確になった。
この結果、箸墓古墳の築造年代は
- 3世紀中頃
に引き下げられるようになった。
この年代は
- 卑弥呼没年(247年から248年)
魏志倭人伝の記述
と近接するため、卑弥呼墓説が再び注目されるようになった。
またこの時期には、三角縁神獣鏡の編年研究も進展し、古墳時代前期の年代体系が再構築された。
4 2000年代:自然科学分析の導入
2000年代に入ると、考古学研究に自然科学的分析が積極的に導入されるようになった。 箸墓古墳研究で重要となったのは次の方法である。
- 放射性炭素年代測定(AMS法)
- 年代較正(IntCal曲線)
周濠から出土した土器付着物を分析した結果、
- 較正年代:西暦240-260年 という年代が得られた。
この結果は、
- 土器編年
- 邪馬台国年代
- 魏志倭人伝
の三者がほぼ一致する可能性を示したため、大きな反響を呼んだ。
5 2000年代:宮内庁管理古墳の資料発見
2000年には、墳丘整備の際に倒木の根から3000点以上の遺物が採取された。
主な遺物は次の通りである。
- 壺形埴輪
- 円筒埴輪の祖形土器
- 特殊器台
とくに吉備系の特殊器台の存在は重要であり、
- 吉備勢力の関与
という仮説が提示された。
これは初期ヤマト王権が
- 大和勢力
- 吉備勢力
- 出雲勢力
などの広域連合であった可能性を示す資料として注目された。
6 2010年代:ヤマト王権成立論の深化
2010年代になると、箸墓古墳は次のような視点から研究されるようになった。
①巨大古墳の政治的意味
箸墓古墳の規模は、それ以前の墳墓の約3倍である。 このため次のような見解が提唱された。
- 箸墓古墳=列島規模の政治権力の成立を示す墓
つまり、
- 邪馬台国連合
- 初期ヤマト王権
の象徴的王墓とする考え方である。
②広域交流ネットワーク
纒向遺跡からは
- 吉備
- 山陰
- 北陸
- 東海
- 関東
の土器が出土している。
このため、3世紀の大和政権はすでに
- 列島規模の政治ネットワーク
を形成していたと考えられるようになった。
7 近年の研究動向(2020年代)
近年の研究では、箸墓古墳を次のように位置づける傾向が強い。
- ①最初の巨大王墓
箸墓古墳は
- 最初の大王墓
とする見解が多い。
②邪馬台国政権の王墓
一部の研究者は
- 邪馬台国王墓
と位置づけている。
③王権成立の記念碑的古墳
別の立場では
- ヤマト王権成立の象徴的古墳
と解釈される。
まとめ
1970年代以降の研究史は大きく次の流れで整理できる。
時期 研究の特徴
- 1970年代 初期古墳研究の開始
- 1980年代 纒向遺跡発掘・邪馬台国論争
- 1990年代 土器編年の精密化
- 2000年代 炭素年代測定導入
- 2010年代 王権形成論
- 2020年代 広域政治ネットワーク研究
現在の研究では、箸墓古墳は
- 3世紀中頃の巨大古墳
- 初期ヤマト王権の王墓
- 邪馬台国論争の重要資料
と位置づけられている。
基本事項
- 名称:箸墓古墳
- 規模:墳丘長278m
- 所在地:奈良県桜井市大字箸中
- 交通:JR巻向駅 徒歩13分 (道路距離 948m)
参考文献
- 岸本直文「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」国立歴史民俗博物館研究報告 No185、pp.369-403
- 春成秀爾他(2011)「古墳出現期の炭素14年代測定」国立歴史民俗博物館研究報告163、pp.133-176
- 広報「わかざくら」桜井市,平成22年7月掲載
- 高島敦(2008)「古墳の周濠の意義」奈良大学大学院研究年報 (13号), pp.174-178
- 所蔵資料詳細/宮内庁
- 第174回国会 質問の一覧/衆議院
- 「卑弥呼の墓鮮明に/最古の古墳写真/宮内庁が保存」産経Biz,2014年5月19日
- 「THE古墳,箸墓と卑弥呼の都を結んだ「昼食帰りの大発見」,産経Biz,2021年10月13日
- 国立歴史民族学博物館「IntCal20較正曲線に、日本産樹木年輪のデータが採用されました
桂甲 ― 2026年04月18日 20:47
桂甲(けいこう)は鉄製の小札(こざね)を革紐や組紐で綴り合わせて作られた古代の甲冑である。主として古墳時代後期の倭国において普及した防御具で、騎馬戦の展開と深く関わる。小札は甲冑を構成する短冊状の小さな板状部品である。
起源と伝来
桂甲の技術は、中国の戦国時代以降に発達した小札甲(ラメラーアーマー)に起源を持つ。小札甲が朝鮮半島を経由し、5世紀中葉頃に騎馬技術とともに倭国へ伝来したとされる。
構造と特徴
桂甲は、多数の小札を縦横に連結して構成される柔軟性の高い甲冑である。小札は主に鉄製であるが、まれに金銅装が施される例も知られる。 一領の桂甲は複数の部位から構成され、主な構成要素は以下の通りである。
- 頚甲(けいこう:首周りの防具)
- 肩甲(けんこう)
- 草摺(くさずり:腰から下を守る部分)
- 膝甲(しつこう)
- 籠手(こて:腕の防具)
- 臑当(すねあて)
これらは用途に応じて組み合わされ、全体として高い防御力と可動性を両立している。
短甲から桂甲への変化
倭国では古墳時代中期まで、板状鉄板を用いた「短甲」が主流であった。しかし古墳時代後期になると桂甲が普及し、やがて主流となる。 この変化は、騎馬戦の導入など戦闘様式の変化に対応したものと考えられている。なお、5世紀代には短甲と桂甲が併存していた。
考古資料と復元研究
桂甲は有機質の紐で綴られているため、出土時には小札が分離している場合が多く、原形を保つ例は稀である。そのため復元研究は、小札の形状・穿孔・綴じ方(横綴じなど)・素材分析に基づいて行われている。
特に重要な資料として、飛鳥寺跡の塔心礎から出土した桂甲がある。この遺物は年代が比較的限定できるうえ、全体構造を復元可能な点で極めて貴重である。研究によれば、基本構造は古墳時代の桂甲と共通するが、以下の特徴が指摘されている。
- 腰部に外反する小札を使用
- 草摺の前面で重なりを多く取る構造
この桂甲は、飛鳥寺創建に関わった蘇我馬子による埋納の可能性も指摘されている。
埴輪資料
桂甲の着装状態を示す視覚資料として、群馬県太田市飯塚町出土の「挂甲の武人」が著名である。この埴輪は国宝に指定されており、当時の武人の装備を具体的に示す重要資料である。
まとめ
桂甲は、小札を綴り合わせる構造によって高い機動性を実現した古代甲冑であり、騎馬戦の普及とともに倭国で発展した。出土状況の制約から復元研究が重要視されるが、飛鳥寺出土例や埴輪資料によって、その実態が徐々に明らかにされている。
参考文献
- 横須賀 倫達(1997)「常陸の桂甲」『博古研究』(通号 13),博古研究会,pp.31~42
- 深谷淳 (2009)「小幡茶臼山古墳の研究 築造時期の再検討と桂甲所有の政治的背景」『美濃の考古学』10,pp.25-54
弥生二丁目遺跡 ― 2026年04月18日 20:30
弥生二丁目遺跡(やよいにちょうめいせき)は東京都文京区弥生に所在する弥生時代後期の集落遺跡である。都心部において貝層を伴う数少ない弥生時代遺跡として知られ、弥生式土器の発見地に関わる重要な場所と位置づけられている。
概要
弥生時代は、薄手で硬質な土器(弥生土器)を特徴とする時代であり、本遺跡はその文化を示す代表的資料に関係する地点として評価される。1976年(昭和51年)6月7日に「弥生二丁目遺跡」として国の史跡に指定された。
発見史と弥生式土器命名の経緯
1884年(明治17年)、東京大学関係者である有坂鉊蔵・坪井正五郎・白井光太郎の3名が、当時「向ヶ丘貝塚」と呼ばれた地点から壺形土器を発見した。この土器は縄文土器とは異なる特徴を持つことから、「弥生式土器」と命名され、1889年に『東洋学芸雑誌』で報告された。
ただし、発見当時の記録が不十分であったため、「向ヶ丘貝塚」の正確な位置は後の都市化により不明となり、「幻の遺跡」として長く議論の対象となった。
向ヶ丘貝塚の位置をめぐる議論
従来、発見地点については以下の三地点が有力候補とされてきた。
- 東京大学農学部東外門付近(サトウハチロウ記念館周辺)
- 東京大学農学部と工学部の境界付近
- 文京区立根津小学校校庭内の崖上
しかし、有坂の回想にある「根津の町を眼下に見下ろし、不忍池を望む丘」という地形条件と一致しない点が指摘され、これらの地点には疑問が呈されている。
そのため近年では、現在の弥生二丁目遺跡付近こそが弥生式土器発見地に最も近いとする見解が有力となっている。
1970年代の再発見と発掘調査
1974年(昭和49年)、根津小学校の児童が東京大学工学部構内で土器片や貝殻を発見したことを契機に調査が行われた。翌1975年には東京大学文学部考古学研究室および理学部人類学教室による発掘調査が実施された。
調査の結果、以下の遺構・遺物が確認された。
- 丘陵崖縁に沿って交差する二条の溝
- 貝層(鹹水性貝類を主体)
- 弥生土器(5個体)
- 灼骨・砥石
これらは同一時期の遺構・遺物であることが確認され、当該地が弥生時代の生活活動の場であったことが明らかとなった。
学術的評価
弥生二丁目遺跡は以下の点で重要である。
- 弥生式土器発見史に直接関わる地点であること
- 都市部における貝塚を伴う弥生集落の希少例であること
- 立地(谷地形に面した丘陵縁)と生業(貝類利用)を示す具体例であること
これらの点から、弥生文化成立史および東京低地周辺の古環境復元において重要な資料を提供している。
現状
遺跡周辺には東京大学による解説板が設置されており、農学部と工学部の境界付近には「弥生式土器発掘ゆかりの地」の碑が建てられている。また、1884年に出土した壺形土器は東京大学総合研究博物館に所蔵されている。
なお、弥生二丁目遺跡に関する年代測定データ(放射性炭素年代など)は現在のところ報告されていない。
弥生式土器命名史=日本考古学成立論
はじめに
「弥生式土器」という名称は、単なる土器型式の呼称にとどまらず、「弥生時代」という名称が示すとおり、日本考古学の成立過程そのものを象徴する概念である。その命名の経緯をたどることは、日本における先史時代区分の形成、さらには近代学問としての考古学の確立を読み解くことに直結する。
1. 発見と命名—「差異の認識」から始まる考古学
1884年、東京・向ヶ丘の貝塚から壺形土器が発見された。この発見に関わったのが、坪井正五郎、有坂鉊蔵、白井光太郎である。
彼らが決定的に重要であったのは、この土器を既知の縄文土器と「異なるもの」と認識した点である。すなわち、
- 薄手で硬質
- 文様が簡素
- 器形が機能的
といった特徴が、従来の縄文土器とは明確に異なると判断された。
この「差異の認識」こそが、日本考古学の出発点であった。すなわち、遺物の形式の違いを時間的差異として捉える思考(型式学的認識)がここに萌芽したのである。
2. 「弥生」という地名の学問化
発見地は当時「向ヶ丘」と呼ばれていたが、後に町名として成立した「弥生町」にちなみ、「弥生式土器」と命名された。この命名は一見偶然的であるが、学史的には重要な意味を持つ。
第一に、地名をもって文化段階を呼称する方法の確立である。これは後の
- 縄文(大森貝塚)
- 弥生(向ヶ丘貝塚)
といった時代区分の命名原理へと連続する。
第二に、ローカルな発見を普遍的概念へ昇華する過程である。すなわち、「弥生」は単なる地名から、日本列島全体に適用される文化概念へと拡張された。
3. 『東洋学芸雑誌』と知の制度化
1889年、この発見は『東洋学芸雑誌』に報告された。この点は、日本考古学成立における制度的転換を示す。
- 発見 → 記録 → 公表 → 共有
という学術的プロセスが初めて明確に機能したのである。これは個人的蒐集から近代科学への転換を意味する。
ここで重要なのは、考古学が「物の発見」ではなく「知識の体系化」として成立した点である。弥生式土器は単なる出土品ではなく、論文によって初めて学問的対象となった。
4. 型式学と編年の萌芽
弥生式土器の認識は、日本における型式学(typology)の出発点でもある。すなわち、
- 形態・製作技術・文様の差異
- それらの体系的分類
- 時間的序列(編年)の推定
という方法論が導入された。
これは後の日本考古学において中核となる
- 土器編年
- 遺跡の年代推定
- 文化段階区分
の基礎を形成した。
つまり、弥生式土器の命名とは「名称付与」ではなく、「時間を測る道具の発明」であったと評価できる。
5. 「幻の遺跡」と学史的問題
一方で、発見地点の記録不備により「向ヶ丘貝塚」は長らく不明となった。この問題は、日本考古学の初期段階における限界を示している。
- 発掘記録の不十分さ
- 位置情報の欠落
- 都市化による遺跡消失
しかし逆に、この問題は後の考古学に以下の課題を与えた。
- 精密な記録の必要性
- 層位学的調査の確立
- 遺跡保存の制度化
すなわち、「弥生式土器」は成功例であると同時に、方法論的反省の出発点でもあった。
6. 日本考古学成立の意義
以上を踏まえると、弥生式土器命名の意義は次の三点に集約できる。
- 差異認識の成立
- → 遺物を時間差として理解する視点の確立
- 概念化の成立
- → 地名から文化概念への昇華
- 方法論の成立
- → 型式学・編年・学術公表の制度化
これらはすべて、日本考古学という学問の基盤そのものである。
おわりに
弥生式土器の命名は偶然の産物ではなく、近代日本における知の編成の中で生まれた必然的出来事であった。それは、遺物を通じて過去を科学的に再構成しようとする営みの始まりであり、日本考古学の成立を象徴する画期である。
したがって、「弥生式土器命名史」とは単なる名称の歴史ではなく、「過去をどのように認識し、分類し、意味を語るか」という学問の成立史そのものに他ならない。
アクセス情報
- 名称:「弥生式土器ゆかりの地」碑
- 所在地:東京都文京区弥生2丁目11番
- 交通:東京メトロ千代田線「根津」駅より徒歩約3分
参考文献
- 坪井正五郞(1889)「帝國大學の隣地に貝塜の跟跡有り」『東洋學藝雜誌』第6巻第88号、東京社
- 渡辺直径(1975)「大学構内向ヶ丘貝塚」東京大学理学部弘報, 7(4),pp.4-6
群馬県立歴史博物館 ― 2026年04月18日 00:17
群馬県立歴史博物館(ぐんまけんりつれきしはくぶつかん)は群馬県高崎市の「群馬の森」内に所在する歴史系博物館である。1979年(昭和54年)10月に開館し、2014年からの大規模改修を経て2017年にグランドオープンした。群馬県の歴史・文化資料を体系的に収集・保存・展示する中核的施設であり、東国古代史研究の拠点として重要な役割を担っている。
概要
同館は、原始時代から近現代に至るまでの群馬県の歴史を、実物資料を中心に、映像・復元模型・デジタル技術などを組み合わせて展示する。展示は「人びとのくらし」「生産・交流」「地域形成」などの視点から構成され、来館者が地域史を体系的に理解できるよう工夫されている。
また、企画展示や特別展示、講座・ワークショップなどを通じて、研究成果の公開と教育普及活動を積極的に行っている。
主な見どころ
最大の特徴は、2020年(令和2年)に国宝指定された「群馬県綿貫観音山古墳出土品」を常設展示する国宝展示室である。銅水瓶・金銅製馬具・埴輪群像など、古墳時代の高度な工芸技術と地域首長層の権威を示す副葬品が一括して公開されている。
さらに、古墳文化を中心とする展示は「古墳・埴輪王国ぐんま」の実像を示すものであり、東国における古墳時代社会の実態を理解するうえで重要である。
近年はデジタル展示の導入も進み、埴輪ホログラムや体験型展示、発掘疑似体験などを通じて、視覚的・体験的な学習環境が整備されている。
学術的意義
群馬県は古墳の集中地域として知られ、同館はその出土資料を集約・公開することで、東国古代史・考古学研究の基盤を形成している。特に綿貫観音山古墳出土品は、ヤマト王権と東国豪族との関係や、古墳時代後期の政治・文化の交流を考察するうえで重要な史料群である。
また、同館は地域史を「日本列島史」および「東アジア史」の中に位置づけて提示することを理念としており、地方史研究の高度化と普及を両立させる施設として評価される。
展示
綿貫観音山古墳の世界 - 国宝
- 綿貫観音山古墳 副葬品
- 綿貫観音山古墳埴輪
- 埴輪 胡坐し 合掌する男子
- 埴輪 三人童女
- 埴輪 飾り馬・馬子
- 埴輪 振分け髪の男子
縄文・旧石器
- 岩宿遺跡出土石器(複製)、
- 石器(下触牛伏遺跡・三和工業団地Ⅰ遺跡・上白井西伊熊遺跡)
- 石器(東長岡戸井口遺跡・柏倉芳見沢遺跡・市之関前田遺跡・八ヶ入遺跡ほか)
- 土偶(天神原遺跡・中栗須滝川Ⅱ遺跡)、
- 獣面把手(上丹生屋敷山遺跡・神保植松遺跡)、
- 土面(本遺跡)、
- 岩版・独鈷石(中栗須滝川Ⅱ遺跡)、
- 石棒(南蛇井増光寺遺跡)
古代
- 銅水瓶
- 突起付冑
- 獣帯鏡
- 金銅鈴付大帯
- 装飾付大刀
- 鉤状鉄製品
- 金銅心葉形杏葉
- 金銅歩揺付雲珠・
- 辻金具・
- 飾金具
- 三角縁神獣鏡 -川井稲荷山古墳(玉村町)
- S字甕 - 中溝・深町遺跡(太田市)
- 石製模造品 - 剣崎天神山古墳(高崎市)
- 長持形石棺(複製) - お富士山古墳(伊勢崎市)
- 衝角付冑・短甲・眉庇付冑 - 鶴山古墳(太田市)
- 木簡 - 藤原宮跡(奈良県)
- 鶏形埴輪
- 舟形木製品(下田遺跡)、
- 石田川式土器(石田川遺跡)、
- 壺形土器(前橋天神山古墳)
- 上野三碑 - 山上碑・多胡碑 金井沢碑(高崎市)
- 儀仗・
- 小銅鐸(中溝・深町遺跡)、
- 石製品(下佐野遺跡)、
- 石製模造品(剣崎天神山古墳)、
- 短甲・冑(鶴山古墳)、
- 韓式系土器(蔵屋敷遺跡)、
- 鉄製轡(西大山遺跡1号古墳)、
- 馬形土製品(高崎情報団地Ⅱ遺跡)
- 同向式画文帯神獣鏡(古海原前1号古墳)
- 馬具・鉄製武器(川額軍原Ⅰ遺跡)、
- 軒丸瓦・文字瓦「放光寺」[複製](山王廃寺)、 唐三彩-陶枕(多田山 12号墳)(伊勢崎市)
基本事項
- 名称:群馬県立歴史博物館
- 開設:1979年10月 開館
- 休館日:月曜日
- 開館時間:午前9時30分から午後5時まで(?館は午後4時30分まで)
- 観覧料:300円 企画展示は展覧会により料金が異なる。
- 午前9時30分から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)
- 所在地: 〒370-1207 群馬県高崎市綿貫町992-1
- 交通:【JR高崎駅東口から】高崎市内循環バスぐるりん
- 岩鼻線 15系統 「綿貫町行き」 約25分
石障 ― 2026年04月18日 00:13
石障(せきしょう)は古墳時代後期にみられる横穴式石室の内部施設の一つで、玄室内に設けられる石製の仕切り板である。主として玄室内部の空間を区画する目的で設置されるが、その位置や形態には多様性があり、玄室中央に立てられるもののほか、奥壁寄りや側壁寄りに設けられる例、あるいは全面を遮断しない低い仕切り状のものも確認されている。
概要
石障を備える横穴式石室は、九州中部、とくに現在の熊本県にあたる肥後地域に集中して分布することが知られており、八代平野や宇土半島、球磨川流域を中心として分布する。この地域的特徴から、石障は「肥後型石室」を特徴づける要素の一つと位置づけられる。分布の中心は古墳時代後期(6世紀後半から7世紀頃)にあり、当該期の葬送施設の発展と密接に関わる。
石障の機能については、まず追葬の際に既存の埋葬を保護するという実用的役割が指摘されている。すなわち、複数回にわたる埋葬に対応するため、玄室内に区画を設けることで遺骸や副葬品の攪乱・散乱を防ぐ機能を果たしたと考えられる。一方で、こうした実用面にとどまらず、被葬者ごとの埋葬空間を区別することによって、身分や関係性の差異を視覚的に表現する象徴的・儀礼的機能を担っていた可能性も高い。したがって石障は、単なる構造部材ではなく、玄室内部における「死者の秩序」を構成する装置として理解される。
さらに石障には、直弧文や円文、鍵手文、梯子状文などの幾何学文様のほか、靱・盾・刀などの武器・武具を表現した線刻が施され、さらに赤色顔料による彩色が確認される例もある。これらの装飾は、首長の権威の表現や呪術的意味合いを帯びるものと解釈されており、とくに赤色は再生や生命、あるいは防護を象徴する色彩として重要視される。熊本県の井寺古墳では、石障およびその上端部に同心円文・直弧文・鍵手文・梯子状文などが精緻に線刻されており、装飾石障の代表例として知られる。このように、区画そのものに装飾が集中する点は、壁面装飾とは異なる特徴として注目される。
なお、石障をもつ横穴式石室は九州中部に集中するものの、岡山県の千足古墳のように九州外にも類例が存在する。これらは例外的分布とみなされるが、石室構造の技術的要素のみならず、埋葬空間を区分するという葬送観念そのものが一定範囲に波及していたことを示唆するものとして重要である。
以上のように、石障は古墳時代後期の横穴式石室において、実用的機能と象徴的機能を併せ持つ重要な内部施設であり、地域性・装飾性・葬送観念の三点から、その歴史的意義を評価することができる。
出土例
- 石障 - 千足古墳、岡山県岡山市、5世紀前半頃
- 石障 - 塚坊主古墳、熊本県和水町・旧菊水町、5世紀末
- 石障 - 王塚古墳、福岡県桂川町、6世紀中期
- 石障 - 樋の口古墳、佐賀県唐津市、5世紀
参考文献
- 古城史雄(2014)「石障系石室と箱式石棺」『有明海・八代海沿岸地域における古墳時代首長墓の展開と在地墓制の相関関係の研究』、pp.113-124
経田遺跡 (愛媛県) ― 2026年04月18日 00:06
経田遺跡 (愛媛県)(きょうでんいせき)は愛媛県今治市朝倉下に所在する、弥生時代から中世にかけて継続した複合遺跡である。とくに弥生時代中期末から後期初頭の集落遺構と祭祀関連遺物の出土で知られる。当初は「朝倉下経田遺跡」の名称であったが、「経田遺跡」に改名された。同じ今治市の「朝倉下下経田遺跡」とは別の遺跡である。愛媛県松山市にある「太山寺経田(たいさんじきょうでん)遺跡」とは別の遺跡である。
概要
本遺跡では、2005年から2009年にかけて約3万9,000平方メートルに及ぶ大規模な発掘調査が実施された。その結果、弥生時代中期末から後期初頭に属する竪穴住居跡6棟を発見した。遺物は弥生土器(壺・甕・高杯)や青銅製品が出土した。とくに弥生時代の竪穴住居のうち3棟は長径8メートルを超える大型建物であり、当該期の集落構造や社会的階層の存在を考える上で重要な資料となっている。遺跡は屯田川から数百mという川の氾濫が想定される距離にあり、自然堤防などの微高地を利用した集落形成がみられる。
本遺跡の最大の特徴は、平形銅剣の特異な出土状況にある。銅剣は、集落中央部に位置するとみられる柱穴状遺構(長径36cm・短径34cm・深さ41cm)から、剣先を下に向けて垂直に埋納された状態で発見された。銅剣は途中で折損しており、刃部を持たないことから実用武器ではなく、祭祀的性格を有する遺物と考えられている。出土した銅剣は平形銅剣I式と推定される。
また、銅剣周囲の土壌が黒褐色に変色していたことから、木製容器や布などに包まれて埋納された可能性が指摘されている。このような埋納形態は、弥生時代における青銅器祭祀の具体的様相を示す重要な事例である。
銅剣が出土した地点の周囲には顕著な建物遺構が確認されておらず、当該空間は居住域とは区別された祭祀空間であった可能性が高い。埋納時期は遺構の廃絶時期からみて弥生時代中期末から後期前半に位置づけられる。
以上のように、朝倉下経田遺跡は、弥生時代集落の構造と青銅器祭祀の関係を具体的に示す遺跡として重要であり、瀬戸内地域における祭祀行為と集落内空間の分化を考察する上で重要な考古学的資料を提供している。
青銅器埋納=弥生祭祀論
弥生時代における青銅器の埋納は、日本列島の祭祀構造と社会秩序を解明する上で最も重要な考古学的現象の一つである。銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸といった青銅器は、実用武器あるいは楽器としての機能を超え、象徴的・儀礼的存在として扱われていたことが、各地の埋納状況から明らかとなってきた。
まず注目されるのは、青銅器の非実用性である。とりわけ銅剣や銅矛は刃部が鈍く、実戦に適さない形状を持つ場合が多い。また、使用痕が乏しいことや、意図的な破損(折損・切断)が確認される例も少なくない。これらは、青銅器が武器ではなく、むしろ儀礼具として製作・使用されたことを示唆している。
次に重要な点は、埋納の方法と場所である。青銅器は単独あるいは複数で、地中に埋納される例が広く知られるが、その立地は一様ではない。たとえば北部九州では、銅剣・銅矛・銅戈が丘陵や集落近傍に埋納される一方、近畿地方では銅鐸が山間部や水系に近い場所に埋納される傾向がある。この地域差は、祭祀の対象や意味内容の違いを反映していると考えられる。
近年の発掘成果の中でも、朝倉下経田遺跡の事例は特に注目される。本遺跡では、平形銅剣が柱穴状遺構内において剣先を下にして垂直に埋納されていた。このような「立てて埋める」行為は、単なる廃棄では説明できず、明確な意図をもった儀礼行為と理解される。また、銅剣が折損した状態であった点や、周囲に有機物の痕跡が認められる点は、埋納前の儀礼的処理(いわゆる「殺し」や包納儀礼)の存在を示唆する。
さらに、埋納空間の性格も重要である。経田遺跡においては、銅剣出土地点が居住域の中心に位置しつつも、周囲に顕著な建物遺構を伴わないことから、日常生活空間とは区別された祭祀空間であった可能性が高い。この点は、弥生集落における空間分化、すなわち「生活」と「祭祀」の分離を示す証拠として評価できる。
以上の諸点を踏まえると、青銅器埋納は単なる物資の隠匿や廃棄ではなく、共同体の秩序維持や超自然的存在への働きかけを目的とした祭祀行為であったと結論づけられる。特に、青銅器の破壊・埋納・空間選択という一連の行為は、共同体内部の権威や信仰体系を視覚化する役割を担っていたと考えられる。
すなわち、弥生時代の青銅器埋納は、単なる考古資料ではなく、「モノを媒介とした社会的・宗教的実践」として理解されるべきであり、そこには地域社会の構造、権力関係、そして世界観が凝縮されているのである。
遺構
- 竪穴建物
- 壺棺墓
- 自然流路
- 土坑
- 溝
- 柱穴
- 井戸
遺物
- 弥生土器
- 石庖丁
- 石斧
- 石鏃
- 石錘
- 管玉
- 紡錘車
- 折り曲げ鉄器
- 古式土師器
- 土師器
- 須恵器
- 製塩土器
- 赤色塗彩土師器
- 黒色土器
考察
展示
- 愛媛県埋蔵文化財センター
指定
所在地等
- 名称: 経田遺跡
- 所在地:愛媛県今治市朝倉下
- 交通:
参考文献
- 公益財団法人愛媛県埋蔵文化財センター(2014)「経田遺跡」
池子遺跡群資料館 ― 2026年04月17日 00:03
池子遺跡群資料館(いけごいせきしりょうかん)は神奈川県逗子市に所在する池子遺跡群の発掘調査成果を保存・公開する資料館である。池子遺跡群から出土した遺物や調査成果を通じて、地域の歴史と古環境の変遷を分かり易く紹介する拠点施設として位置づけられる。
概要
池子遺跡群は、丘陵・谷戸・低湿地からなる複合的な地形に展開する広域遺跡群であり、旧石器時代(先土器時代)から近代までに至る長期的な人間活動の痕跡が確認されている。とくに低湿地環境においては、有機質遺物の保存状態が良好であり、木製品をはじめとする通常は残存しにくい資料が多数出土している点に大きな特色がある。これらは農具・容器・建築部材など多岐にわたり、当時の生活様式や生業活動の復元に重要な手がかりを提供している。出土展示資料は、弥生時代の広鍬、小型叉鍬、縄、槽、卜骨、環状石斧、横槌、鍬膝柄、鎌状製品、堅杵、機織具、長柄桜山1号墳の埴輪、持田遺跡から出土した石釧などがある。
本遺跡群の発掘調査は、1989年から1994年にかけて神奈川県立埋蔵文化財センターおよびかながわ考古学財団により実施された。この調査は、旧日本海軍弾薬庫跡地を経て戦後にアメリカ軍提供用地となり、その後の住宅整備に伴って行われたものである。調査の結果、弥生時代の旧河道が検出され、水田開発や集落立地と自然環境との関係を解明する上でも重要な成果が得られた。旧石器時代と縄文時代の遺物はあまり出土せず、池子の谷戸まで海岸線が及んでいたとみられる。池子谷における生活の痕跡が縄文時代早期にまで遡ることが判明している。弥生時代になると。人々は川の付近に住み始めた。川底から木製の農具が多数出土した。水田の跡は明らかではないが、この付近で水田が営まれていたとみられる。鹿の骨で作られた釣針や、石製の網錘などが出土しているため、半農半漁の生活であったとみられる。古墳時代では、谷戸最奥部での当該期の生活痕跡が伺えた。川に土砂が流入し、低湿地となっており、方形周溝墓が作られた。勾玉、剣、鏡などの石製模造品がみつかっている。なんらかの祭祀が行われていたとみられる。
池子遺跡群資料館では、こうした出土遺物(石器・土器・木製品など)および発掘調査の成果を展示し、遺跡群の歴史的意義と環境復元の成果をわかりやすく紹介している。池子遺跡群は、関東地方における低湿地遺跡の代表例の一つであり、有機質遺物の豊富な出土によって古代社会の具体像に迫ることができる点で、学術的にも高い評価を受けている。
■池子遺跡群=低湿地遺跡研究の意義
池子遺跡群は、丘陵・谷戸・低湿地からなる複合的地形上に展開する遺跡群であり、とりわけ低湿地環境に由来する有機質遺物の良好な保存によって、日本列島における低湿地遺跡研究の進展に大きく寄与した事例として評価されている。
まず第一に注目されるのは、有機質遺物の豊富な出土である。通常、木製品や植物質資料は分解されやすく、遺存例はきわめて限定される。しかし池子遺跡群では、低湿地に形成された嫌気的環境により、木製農具・容器・建築部材などが良好な状態で保存されていた。これにより、従来は土器・石器に偏りがちであった考古学研究に対し、生活技術や生業活動を具体的に復元する新たな資料群が提供された。この点は、物質文化研究の質的転換を促すものであったといえる。
第二に、弥生時代の旧河道の検出がもつ意義である。河道の位置や変遷は、集落立地や水田開発と密接に関係する。池子遺跡群における旧河道の確認は、単なる地形復元にとどまらず、当時の水利用や灌漑、さらには洪水リスクへの対応といった環境適応の実態を解明する手がかりを提供した。すなわち、本遺跡は人間活動と自然環境との相互関係を具体的に読み解くフィールドとなっている。
第三に、長期的時間軸における土地利用の変遷を追跡できる点が挙げられる。池子遺跡群では旧石器時代(先土器時代)から近代に至るまでの連続的な遺構・遺物が確認されており、同一地域における土地利用の変化を通時的に検討することが可能である。とくに低湿地は時代ごとに利用形態が大きく変化するため、その変遷を具体的に示す資料として重要である。
さらに、池子遺跡群の発掘調査は、現代の都市開発と埋蔵文化財保護の関係を考える上でも重要な意味を持つ。米軍住宅建設という大規模開発に先立って実施された調査により、広範囲かつ精密な記録が残されたことは、開発と学術研究の両立の一つのモデルケースと評価できる。低湿地遺跡は、泥炭層などの酸素が少ない環境によって、木製品、骨角器、植物遺体などの有機質遺物が極めて良好な状態で保存され、考古学的に非常に貴重な遺跡となる。しかし、その特性ゆえに開発圧力の影響を強く受けやすく、保存と開発の調整が大きな課題 となる。この点は、池子遺跡の低湿地遺跡がしばしば開発圧力にさらされやすい環境に立地することを踏まえると、特に重要である。
以上のように、池子遺跡群は、
- ①有機質遺物の保存による生活復元研究の深化、
- ②旧河道を軸とした環境復元と生業研究の進展、
- ③長期的土地利用変遷の解明、
- ④開発と文化財保護の調整
という複数の観点において、低湿地遺跡研究の重要な基準例を提供している。したがって本遺跡群は、関東地方のみならず日本列島全体における低湿地遺跡研究の展開において、方法論的・資料論的両面から高い学術的意義を有するものと位置づけられる。
遺構
弥生時代
- 竪穴建物
- 掘立柱建物
- ピット群
- 土坑
- 溝5
- 土器溜
- 河川
古墳時代
- 方形周溝墓
- 竪穴建物
- 掘立柱建物
- 溝
- 土器棺墓
- 土器だまり
- 土器列
- 焼成遺構
- ピット
遺物
- 縄文土器
古墳時代
- 土師器
- 木製品
- 動物遺存体(獣(骨)
アクセス等
- 名称:池子遺跡群資料館
- 所在地:神奈川県逗子市池子字花ノ瀬60-1 池子の森自然公園内
- 休館日: 月曜日
- 開館時間:9時00分~16時00分
- 入館料: 無料
- 交通: 京浜急行線 神武寺駅から徒歩15分
参考文献
- 池子遺跡群資料館 パンフレット
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