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井上光貞2025年05月11日 01:17

井上光貞(いのうえみつさだ、1917年9月19日 - 1983年2月27日)は歴史学者である。東京大学名誉教授。日本古代史研究の碩学。元国立歴史民俗博物館館長。文学博士。

概要

1917年(大正6年)9月、東京に生まれる。井上馨の曾孫。桂太郎の孫。父は桂太郎の次男の井上三郎、母は井上馨の娘。腎臓炎のため、成蹊高等学校の理科乙類から文科乙類に異動する。成蹊高校の西洋史の藤原音松の影響を受け、歴史に興味をもつ。『日本資本主義発達史講座』の影響を受ける(井上光貞(2004))。 大和政権の全国統一の過程を論じ、大化改新前の古代国家の構造を解明した。「日本古代国家の研究」、「神話から歴史へ(日本の歴史)」はベストセラーとなり、古代史ブームを引き起こした。学生時代から短歌を詠み、没後一周忌に「冬の海」が編まれた。紫綬褒章受章。

経歴

1940年4月、東京帝国大学文学部の国史学科に入学する。坂本太郎、和辻哲郎博士の薫陶を受ける。古文書が読めなければ日本史の研究はできないといわれ、演習に取り組む。魏晋時代専門の東洋史の浜口重国に影響を受ける。 1942年9月 東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、大学院に進む。恩師坂本太郎による大学院での講義でその後の研究が決定づけられた。卒業後は帝国学士院で『帝室制度史』の編纂を行う。1946年、東京帝国大学の助手となる。1949年、(昭和24年)6月から東京大学に新設された教養学部の講師となる。一般教育の歴史学を担当する。1950年に東京大学助教授となる。1959年、「日本浄土教成立史の研究」で文学博士(東京大学)となる。1961年から文学部に移る。大学・大学院の国史学の担当となる。1967年4月に東京大学文学部教授に昇任する。1974年に東京大学文学部長(1976年まで)。1978年、定年退官し国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)の設立準備室長となる。1981年、国立歴史民俗博物館の初代館長に就任した。-1983年2月7日、逝去する。 公職は文化財保護審議会の専門委員、歴史風土審議会委員。1971年から1973年まで史学会理事長となる。

著作

  1. 井上光貞(1985)「井上光貞著作集」(全11巻 岩波書店)
  2. 井上光貞(1960)『日本国家の起源』岩波書店
  3. 井上光貞(1960)『日本古代の王権と祭祀』東京大学出版会
  4. 井上光貞(1965)『日本古代国家の研究』岩波書店
  5. 井上光貞(2001)『日本古代の国家と仏教』岩波書店
  6. 井上光貞(2004)『飛鳥の朝廷』講談社
  7. 井上光貞(2005)『神話から歴史へ』中央公論新社

参考文献

  1. 井上光貞(2004)『わたくしの古代史学 (人間の記録)』日本図書センター

武田幸男2025年04月24日 00:40

武田幸男(たけだゆきお、1934年8月18日- 2021年8月4日)は日本の歴史学者、東アジア史学者である。文学博士。東京大学名誉教授。

概要

専攻は朝鮮史である。金石文と文献史料双方に精通し、朝鮮古代史の先達として活躍した。 末松保和の研究を継承する。広開土王碑の研究で知られ、数多くの拓本を収集した。広開土王碑に関する「好太王碑改竄説」や解釈が成り立たないことを論証した。中国正史に見られる「倭の五王」遣使記事を検討し、当時の倭国の大王が中国王朝に対して「倭」という姓を名乗っていたことを指摘した。『新羅中古期の史的研究』では朝鮮半島の古代史で主導的役割を担った新羅について、とくに飛躍的な発展を見せた新羅中古期(514~654年)を中心に考究した。陸続と発見された各種の新羅碑文を諸史料とともに精緻に読み込むことにより、当時の激動する東アジアの国際関係における、新羅の史的実態とその展開過程を明らかにした。 武田幸男は高句麗王家を分類し、「伝説王系」と「大王王系」に分類した。

経歴

  • 1934年、山形県出身
  • 1959年 東京大学文学部東洋史学科卒業
  • 1961年 東京大学大学院人文科学研究科 修士課程修了
  • 1968年 北海道大学文学部助教授
  • 1971年 東京大学文学部助教授
  • 1981年 東京大学文学部教授
  • 1992年 「高句麗史と東アジア -「広開土王碑」研究序説」で東京大学文学博士
  • 1995年 定年退官、東京大学名誉教授
  • 1995年 名古屋市立大学教授
  • 2000年 岐阜聖徳学園大学経済情報学部教授
  • 2006年 岐阜聖徳学園大学退職

学会

  • 東方学会評議員
  • 東洋文庫研究員
  • 朝鮮学会幹事
  • 史学会会員

著書

  • 単著
  1. 武田幸男(1988)『広開土王碑原石拓本集成』東京大学出版会
  2. 武田幸男(1989)『高句麗史と東アジア―「広開土王碑」研究序説』岩波書店
  3. 武田幸男(1996)『朝鮮の歴史と文化』放送大学教育振興会
  4. 武田幸男(1997)『朝鮮社会の史的展開と東アジア』山川出版社
  5. 武田幸男(2007)『広開土王碑との対話』白帝社<白帝社アジア史選書>
  6. 武田幸男(2009)『広開土王碑墨本の研究』吉川弘文館
  7. 武田幸男(2020)『新羅中古期の史的研究』勉誠出版
  8. 武田幸男(2022)『新羅政治社会史研究』勉誠出版
  • 共著
  1. 武田幸男(1989)「朝鮮半島とその歴史的展開」『東北アジアの民族と歴史』山川出版社
  2. 武田幸男(1993)『広開土王碑と古代日本』学生社
  3. 武田幸男(2000)『朝鮮史』山川出版社
  4. 武田幸男(2000)「新羅の二人派遣官と外司正 」『東アジア史の展開と日本』山川出版社
  5. 武田幸男編(2005)『日本と朝鮮 : 古代を考える』吉川弘文館
  6. 武田幸男編(2009)『広開土王碑』天来書院

参考文献

  1. 武田幸男(1993)『広開土王碑と古代日本』学生社
  2. 武田幸男(2000)『新羅の二人派遣官と外司正』東アジア史の展開と日本(共著)
  3. 奥田尚(2005)「古代東アジアの歴史叙述に関する序説(二) : 高句麗の初期の王の名を手がかりに」アジア文化学科年報No 8,pp.32-48

天之日矛2025年04月12日 00:32

天之日矛(あめのひぼこ)は『古事記』に登場する伝説的人物で、応神の時代に新羅から渡航した渡来人とされる。『日本書紀』は「天之日槍」と記す。

概要

『古事記』では天之日矛は応神紀に登場するが、その時期は「昔」となっている。天之日矛は新羅の国主の子と示される。渡航した由来は、天之日矛が妻を責めたとき「私はあなたの妻になるべきものではない。祖先の国に行く」として難波に逃れた。妻を追って天之日矛は難波に向かったが、海神が遮ったため入れず、但馬に着いた。そこで俣尾の娘の前津見と結婚して子を産んだ。天之日矛の子孫は神功皇后の母となった。 『日本書紀』では垂仁3年3月に天之日槍が帰化したと記載する。渡来時に、羽太の玉(一書は「葉細の玉」)、足高の玉、赤石の玉、出石の小刀、出石の鉾、日鏡、熊の神籬、胆狭浅の太刀の八神宝を持参したとする。近江国「鏡村谷」(蒲生郡竜王町)の陶人は従者となった。天之日槍は『古事記』と同じ、但馬に住んだ。 『播磨風土記』では韓国(からくに)からやってきて、住む土地がほしいと天之日槍命は葦原志挙乎と土地争いをし、志挙乎は海の中なら良いと許す。天之日槍は剣で海をかき分け出来た島に宿った。志挙乎はその霊力に畏れをなし、天日槍命より先に国を抑えるべく北上した。天之日槍命は伊和の大神と戦争をして8000の軍勢を動員したのでその地を「八千軍(やちぐさ)」という。

考察

『播磨風土記』は天之日槍命と書き、神と認識している。『古事記』『日本書紀』では「命(みこと)」は書かれないので、ただの人間扱いである。神功皇后の祖先は天之日槍とされている、すなわち新羅の出身ということになる。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 倉野 憲司(1963)『古事記』岩波書店
  3. 武田祐吉(2016)『風土記』岩波書店

日本考古学協会2025年03月28日 00:20

日本考古学協会(にほんこうこがくきょうかい)は1948年に設立された日本最大の考古学研究者の組織である。

概要

日本考古学協会では春の総会と秋の大会、研究発表会、シンポジウムや講演会が開催され、会場で研究発表、シンポジウム、ポスターセッションが行われる。倫理綱領は2006年5月27日制定され、2016年1月23日に一部改正・施行された。現在の会員数は約3,900名である。総会と大会は一般人も参加できる。

入会資格

入会資格は25歳以上で著書・論文・発掘報告書いずれか1篇以上、あるいは資料紹介や分担執筆など3篇以上が条件となる。会の審査委員会で著書等の審査がされ、現会員からの意見等を受け付け問題がなければ入会できる。

設立の経緯

1947年から本格的に登呂遺跡の発掘調査が行われ、そこでは集落と水田が発見され、弥生時代のムラの全容が明らかになった。考古学的成果は、新しい時代の象徴として、全国的に注目された。1947年の登呂遺跡調査会による発掘調査は、後藤守一明治大学教授に文部省科学研究費という個人への交付金をもとに実施されたものであったが、国費の補助という性格のため、調査主体者として全国的な研究者の参加団体であることが求められた。 さらに発掘過程で全国の考古学研究者が集まり情報交換し、調査に協力を求めるなど体制構築の必要性が認識された。1947年12月に考古学の全国的専門学会設立のための第1回考古学協議会、翌1948年1月に第2回考古学協議会が開催され、同年2月には早くも日本考古学協会設立準備委員会の結成へすすんだ。1948年4月2日、日本考古学協会の設立総会が東京国立博物館講堂で開催され、正式に発足した。1950年に文化財保護法が制定された。 1970年代の後半から協会の会員数が急増したのは、文化財専門職員の増員という時代背景があり、会員の大半が文化財専門職員であり、いわゆる行政内研究者が占めてきた。 2009年に、法人化が認められ「一般社団法人日本考古学協会」と改称した。現在まで日本を代表する考古学の学会となっている。

刊行物

定期刊行物は機関誌『日本考古学』、英文機関誌『Journal of Japanese Archaeology』、『日本考古学年報』を発行する。総会、大会に合わせて『研究発表要旨』や会員向けの広報誌として『会報』を発行する。埋蔵文化財保護対策委員会(常置)を設置し、国・行政機関などの関係諸機関・団体と協議・連携を図っている。

類似団体

類似団体として1954年に設立された「考古学研究会」(個人会員約2,500名、本部は岡山市)がある。「日本第四紀学会」は1956年に発足し、約260万年前から現在にいたる第四紀)の自然、環境、人類の研究を行う。会員の専門分野は地質学、地理学、考古学、古生物学、植物学、土壌学、地球物理学、地球化学、工学、人類学、動物学などである。「古代学協会」は、1951年(昭和26年)10月、大学、博物館の古代史研究者の有志が結成し、考古学と文献学を総合した古代史研究の新しい方法論による古代史の総合的研究を目指す。2022年(令和4年)3月末時点で会員数728名である。「日本考古学会」は1895年(明治28年)に設立された長い歴史をもつ考古学の学会であり、機関誌は『考古学雑誌』である。

考察

アクセス

  • 名称:一般社団法人 日本考古学協会
  • 所在地:東京都江戸川区平井5-15-5 平井駅前協同ビル4階
  • 交 通:総武本線 「平井駅」から徒歩1分

参考文献

岡倉天心2025年03月26日 23:34

岡倉天心(おかくらてんしん,1863年-1913年)は明治時代に日本美術の革新に貢献した学者、美術指導者・思想家である。海外では『The Book of Tea(茶の本)』の著者として知られる。本名は岡倉覚三。幼名は岡倉角蔵。

概要

出生

幕末の1863年(文久2年)、岡倉覚右衛門(岡倉勘右衛門の説もある、通称は善右衛門・金右衛門・全右衛門)、母岡倉この(旧姓野畑)の次男として横浜本町甫丁目に生まれた。父は福井藩士で藩命により横浜で貿易商(生糸の輸出)を営んでいた(屋号「石川屋」)。なお巣鴨の染井霊園内にある岡倉家の墓には、父は岡倉勘右衛門と記されている。父は1896年(明治29年)7月9日、没年77歳、母このは明治 3年4月3日(1870)没。後妻の静明治32年(1899)1月9日没。生糸を扱う貿易商店・石川屋は1860年(安政7年)に開店した。 岡倉天心は貿易商店・石川屋店を訪れる外国人客から幼少時より英語に慣れ親しんでいた。

教育

1869年(明治2年)、8歳でアメリカ人宣教師ジェイムス・バラ―(James Hamilton Ballagh)の英語私塾で英語を学ぶ。この私塾が英学塾高島学校になると、ジェイムス・バラ―の弟のジョン・バラ―に英語を学ぶ。寺内正毅、本野一郎、宮部金吾、星亨らも共に学んだ。1871年(明治4年)、父に伴われて川崎大師に参詣したとき、東京府と神奈川県界に建つ標示杭を示されて読んでみろと言われたが一字も解することはできなかった。これを恥じた天心は国語の学習をさせてくれるよう父に迫り、菩提寺長命寺の玄導和尚に託されて、漢籍を学ぶことになった。『大学』『論語』『中庸』『孟子』を学んだ、 1873年(明治6年)、父は石川屋をたたみ、日本橋蛎殻町に転居し、旅館を始めた。1873(明治6)年、官立東京外国語学校(現東京外国語大学)に入学する。1875年(明治8年)、東京開成学校に11歳で入学し、1877年(明治10年)、同校が東京大学と改称されるに伴い文学部に籍を移した。同期には文学部に井上哲次郎、牧野伸顕、医学部に森林太郎がいた。 1878年(明治11年)東京大学文化大学3年在学中に、来日した米国人教師フェノロサに出会う。また同時に漢詩を森春濤、奥原晴湖に文人画、琴を加藤桜老に習う。美術・文芸への興味はこの頃から抱いた。フェノロサは、英語に堪能な天心を通訳とし、フェノロサの美術品収集を手伝う。天心もフェノロサの研究対象に興味をもつ。 1879年(明治12年)、17歳で大岡もと(元子、のちに基子)と結婚する(参考文献1,p270)。大岡元子は大岡定雄の娘で、赤坂の茶会(茶店とも)で天心と知り合い、岡倉旅館で働きはじめ、1879年に結婚した(参考文献2)。政治学・理財学を学び、英文により「国家論」を東京大学の卒業論文としたが、妻の元子に焼かれてしまい、急遽「美術論」を提出した。

美術行政

1880年(明治13年)7月に東京大学を卒業して、9月フェノロサの通訳として、奈良・京都の古社寺を回る。10月から文部省専門学務局に勤務し、音楽取調係は兼務となった。1882年5月、フェノロサは龍池会に招かれ、「美術真説」を公演した。 1883年(明治16年)、フェノロサの通訳として、狩野芳崖宅を訪問。 1884年(明治17年)、フェノロサ、狩野鉄哉らと古寺調査。法隆寺夢殿の救世観音を開扉させた。「鑑画会」を設立。九鬼隆一、狩野芳崖、橋本雅邦らが参加。 1885年(明治18年)、牛込筑土八幡の元旗本屋敷に転居。 1886年(明治19年)、フェノロサ、4月、芳崖らとともに奈良・大阪で古美術調査。「天心」の号を用いる。10月、フェノロサと欧米視察。 1887年(明治20年)10月、帰国。東京美術学校幹事となる。開校準備。 1889年(明治22年)、東京美術学校第一期生として横山大観、下村寒山ら入学。5月、帝国博物館理事。美術部長に就任。 1890年(明治23年)7月、フェノロサは東京美術学校雇を辞任し帰国する。9月、東京美術学校で「日本美術史」「泰西美術史」を講義開始。10月、27歳で東京美術学校校長に就任。 1893年(明治26年)、宮内省の命令で、中国へ第1回目の古美術調査旅行。12月帰国。 1898年(明治31年)「築地警醒会」の名で岡倉を誹謗した怪文書がばらまかれる。 「美術学校騒動」で東京美術学校校長、帝国博物館理事・美術部長、パリ万国博覧会臨時博覧会評議員を辞職。10月、谷中に日本美術院を開院。 1903年(明治36年)、五浦に土地を購入。 1904年(明治37年)、4月、ボストン美術館のエキスパートとなる。11月『日本の覚醒』をニューヨークのセンチュリー社より刊行する。12月『東洋の理想』をニューヨークのダットン社より刊行する。 1905年(明治38年)、美術品収集のため京都、奈良旅行。ボストン美術館、中国・日本美術部の顧問就任。 1906年(明治39年)、『茶の本』をニューヨーク、フォックス・ダフィールド社から刊行する。 1910年(明治43年)、4月から6月、東京帝国大学で「泰東巧芸史」を講義。5月、某トン美術館中国・日本美術部長を任命される。 1912年(明治45年)、11月から5回目のボストン美術館勤務。 1913年(大正2年)腎臓炎が再発、9月2日、新潟県赤倉温泉の山荘で永眠、同日、従四位・勲五等双光旭日章を贈られる。

Wikipedia日本語版の誤り

「岡倉天心」来歴の項に「1878年(明治11年)基子と結婚。」とあるが、誤りである。結婚当時は「基子」の名前ではなかった。また1878年ではなく正しくは1879年である。家族の項には「1879年に結婚した」と書かれている。

著書

  1. 岡倉天心(1906)『茶の本』
  2. 岡倉天心(1906)『東洋の理想』
  3. 岡倉天心(2001)『日本美術史』
  4. 岡倉天心(1904)『日本の目覚め』

参考文献

  1. 清水多吉(2013)『岡倉天心』中央公論新社
  2. 新井恵美子(2004)『岡倉天心物語』神奈川新聞社

白石太一郎2025年03月05日 00:30

白石太一郎(しらいし たいちろう、1938年11月14日 - )は日本の考古学者である。 国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長。穿孔は日本考古学。

概要

1938年、大阪府大阪市に生まれる。1957年3月、大阪星光学院高等学を卒業し、1961年3月、同志社大学文学部文化学科文化史専攻を卒業する。1964年3月、同志社大学大学院文学研究科文化史専攻修士課程修了、1968年、同志社大学博士課程単位取得満期退学。 1969年、奈良県立橿原考古学研究所所員となる。1970年4月には奈良県教育委員会技術職員、1973年から龍谷大学文学部非常勤講師に就任する。1977年、同志社大学文学非常勤講師となる。1981年から国立歴史民族博物館 助教授に着任する(1984年まで)。1984年から国立歴史民族博物館教授となる(2002年まで)。 1997年、国立歴史民俗博物館副館長となる。2002年国立歴史民族博物館を退官する。2004年、大阪府立近つ飛鳥博物館館長、奈良大学文学部文化財学科教授となり、2009年3月に奈良大学を定年退官した。

古代史への興味

中学生校の頃、父が買い求めた末永雅雄博士の著書『大和の古墳』により考古学への関心を高められた。土曜日日曜日に、『大和の古墳』を片手に奈良県の古墳を回った。 高校1年生の時に読んだ『京大日本史』から人生を決めた。また高校2年生の頃刊行された『日本考古学講座』から考古学研究の動向と成果に魅せられた。大学2年生から大学院にかけて製塩遺跡や群集墳、京都市の大宅廃寺の発掘調査に参加した。

業績

古墳の研究を通じて、考古学による日本の古代国家・古代文化形成過程の解明を目指す。

  • 2002年、雄山閣考古学賞受賞。
  • 2020年、地域文化功労者表彰

著書

  1. 白石太一郎(2022)『近畿の古墳と古代史』吉川弘文館
  2. 白石太一郎(2022)『東国の古墳と古代史』吉川弘文館
  3. 白石太一郎(2018)『古墳の被葬者を推理する』中央公論新社
  4. 白石太一郎, 水野正好, 西川寿勝(2015)『邪馬台(ヤマト)国』雄山閣
  5. 白石太一郎,橋本輝彦,坂井秀弥(2014)『邪馬台国からヤマト王権へ』ナカニシヤ
  6. 大神神社編(2013)『古代ヤマトと三輪山の神』学生社
  7. 白石太一郎(2013)『古墳からみた倭国の形成と展開』敬文舎
  8. 白石太一郎(2011)『古墳と古墳時代の文化』塙書房
  9. 白石太一郎(2009)『考古学からみた倭国』青木書店
  10. 白石太一郎(2007)『東国の古墳と古代史』学生社
  11. 白石太一郎(2007)『近畿の古墳と古代史』学生社
  12. 白石太一郎(2002)『倭国誕生』吉川弘文館
  13. 白石太一郎(2001)『古墳とその時代 』山川出版
  14. 白石太一郎(2000)『古墳の語る古代史』岩波書店
  15. 白石太一郎(2000)『古墳と古墳群の研究』塙書房
  16. 白石太一郎(1999)『古墳とヤマト政権』文芸春秋
  17. 白石太一郎(1999)『古代国家はいかに形成されたか』文藝春秋
  18. 白石太一郎(1998)『古墳の語る古代史』歴史民俗博物館振興会
  19. 白石太一郎(1989)『古墳の造られた時代 古墳時代』毎日新聞社
  20. 白石太一郎(1985)『古墳の知識 (1)』東京美術

参考文献

藤間生大2024年10月21日 20:50

藤間生大(とうませいた、1913年5月16日 - 2018年12月10日)は日本の歴史学者、考古学者である。

概要

1913年5月16日、広島県広島市に生まれた。1936年、早稲田大学文学部史学科卒。1938年、日本評論社に入社し、1945年7月、埼玉県立浦和中学校教諭となる。1971年、熊本商科大学教授(経済学部)、同付属海外事情研究所長となる。1982年、熊本商科大学教授を退職する。2018年12月10日、老衰のため死去。105歳。

業績

歴史学者の石母田正らと日本古代史研究を行い、戦後のマルクス主義歴史学をリードした。マルクス主義歴史学者として井上清、石母田正と並び称せられた。 著書に『日本古代国家』『埋もれた金印』『日本武尊』などがある。岩波新書『埋もれた金印』はロングセラーとなった。1950年代には古代の英雄を研究し、民族の独立を主張する民族論を牽引して学会に激しい論争を引き起こした。藤間 生大は部族を複数の氏族(親族共同体)を包括する地域的な結合体であるとし、北部九州における部族的なあつまりが中国人によって「国」とよばれ、その族長は「国王」と呼ばれたと論じた。 古代日本史から近代東アジア史まで幅広く研究する。1950年代には1950年代半ば以降はマルクス主義歴史学の衰退とともに学界の表舞台から遠ざかった。熊本県合志市栄に藤間生大希望の歴史学記念館が開設されている。

著書

  1. 藤間 生大(1943)『日本古代家族』伊藤書店
  2. 藤間 生大(1947)『日本庄園史』近藤書店
  3. 藤間 生大(1949)『日本古代国家―成立より没落まで特にその基礎構造の把握と批判』伊藤書店
  4. 藤間 生大(1950)『国家と階級 天皇制批判序説』太平社
  5. 藤間 生大(1950)『やまと・たける―古代豪族の没落とその挽歌』角川書店
  6. 藤間 生大(1951)『国家権力の誕生』日本評論社
  7. 藤間 生大(1970)『埋もれた金印 日本国家の成立』岩波書店
  8. 藤間 生大(1972)『邪馬台国の探究 埋もれた金印を中心にしたゼミナール』青木書店
  9. 藤間 生大(1977)『近代東アジア世界の形成』春秋社、1977年
  10. 藤間 生大(1982)『東アジア世界研究への模索 研究主体の形成に関連して』校倉書房
  11. 藤間 生大(1987)『壬午軍乱と近代東アジア世界の成立』春秋社
  12. 藤間 生大(2018)『希望の歴史学 藤間生大著作論集』ぺりかん社、