藤氏家伝 ― 2025年07月01日 23:41
藤氏家伝(とうしかでん)は奈良時代後半に成立した藤原氏の家史である。
概要
藤氏家伝は上巻と下巻からなる。藤原鎌足伝は「大織冠伝」とも言われる。藤原不比等伝は失われている。上巻は「大師」すなわち太政大臣である藤原仲麻呂が編纂を主導したとみられる。下巻は華厳宗の学僧である延慶の執筆編集とみられている。延慶は藤原仲麻呂の家僧と推測されている。藤原仲麻呂が先祖の藤原鎌足等の顕彰を目的として編纂したとみられる。貞慧は飛鳥時代の学僧で、藤原鎌足の長子である。
構成
藤氏家伝の構成は以下の通りである。
- 上巻
- 藤原鎌足伝
- 貞慧伝
- 下巻
- 武智麻呂伝
成立
天平宝字四年(760年)から天平宝字六年(762年)頃に成立した藤原氏の家史である。
『日本書紀』との関係
鎌足伝と『日本書紀』との関係は横田健一氏の見解がほぼ通説となっている。
考察
藤原不比等伝がないのは残念であるが、藤原氏にとって都合の悪いことが書かれていたのであろうか。全体としては藤原氏に都合良くかかれており、記述のすべてを文字通りに受け止めるべきではないであろう。藤原仲麻呂は藤原鎌足とは約100年の時代差があるので(藤原鎌足→藤原不比等→藤原武智麻呂→藤原仲麻呂)、直接の面識があったわけではない。藤原仲麻呂からみれば藤原鎌足は曾祖父である。藤原仲麻呂が藤氏家伝の編纂を主導したといっても、仲麻呂に記憶があった訳ではないので、それまでの伝承や古記録(あったとすれば)に、独自の誇張を加えても不思議ではなかろう。成立が760年頃なら藤原鎌足の死後100年である。
参考文献
- 沖森卓也, 佐藤信, 矢嶋泉 (翻訳)『現代語訳 藤氏家伝』筑摩書房
- 横田健一(1973)『白鳳天平の世界』創元社
- 横田健一(1973)「大化の改新と藤原鎌足」史林42 (3),pp.82-411
上野三碑 ― 2025年06月28日 16:14
上野三碑(こうずけさんぴ)は群馬県高崎市にある山ノ上碑・多胡碑・金井沢碑の3つの石碑を総称していう。
概要
飛鳥時代末期から奈良時代初期(7世紀後半から8世紀前半)にかけて、群馬県高崎市南部に建立された山上碑・多胡碑・金井沢碑の3つの碑の総称である。日本国内に現存する古代の石碑は18例のみであり、その中の3例が互いに近接して群馬県に残っていることは珍しい。上野三碑は文化財保護法により、国の特別史跡に指定されている。群馬県の多胡碑、栃木県の那須国造碑、宮城県の多賀城碑は日本三古碑とされている。また山上碑は飛鳥時代の681年に建てられたものであり、完全な形で残っている石碑としては日本最古である。
ユネスコ
10月24日からフランス・パリにおいて「世界の記憶」の登録の可否を審議する国際諮問委員会が開催され、上野三碑の登録が決定された。群馬県では、上野三碑世界記憶遺産登録推進協議会及び高崎市とともに、登録祝賀セレモニーを2017年(平成29年)11月1日(水曜日)に群馬県庁にて開催した。
経過
- 2014年(平成26年)11月1日 上野三碑世界記憶遺産登録推進協議会発足
- 2015年(平成27年)9月24日 ユネスコ国内委員会から、岐阜県・八百津町が申請していた「杉原リスト」とともに国内候補に選定される。
- 2016年(平成28年)5月19日 文部科学省を通じてユネスコへ登録申請書を提出
- 2017年(平成29年)10月31日、ユネスコ世界の記憶に登録される。
参考文献
- 鬼頭清明(1991)「上野三碑をめぐって」『古代日本金石文の謎』学生社
漢委奴国王印 ― 2024年09月09日 00:00

漢委奴国王印(かんのわのなこくおういん)は江戸時代の1784年(天明四年)に筑前国那珂郡志賀島(現福岡県福岡市東区)で出土した「漢委奴国王」の印文が刻まれた弥生時代の金印である。
概要
1784年(天明4年)の2月13日、志賀島で「漢委奴國王」の金印が見つかった。 出土地は志賀島(現・福岡県福岡市東区)の島内であった。発見直後に医者・儒学者で学問所・甘棠館の祭酒(学長)の亀井南冥は『後漢書』東夷伝「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀・・・光武賜以印綬」の印と指摘し、金印の由来を説明し、鑑定書として『金印弁』を著して金印についての研究を行った。亀井南冥の見解は現在も定説となっている。
発見の経緯
金印を掘り出したのは百姓甚兵衛説と甚兵衛の作人であった秀治,喜平の二人,秀治発見説の三説がある。甚兵衛の口上書には、私(甚兵衛)の所有地、叶の崎の、田の境の溝の水はけが悪かったので、先月23日、溝を修理しようと岸を切り落としていたところ、小さい石がだんだん出て来て、そのうち2人持ちほどの石にぶつかりました。この石をかなてこで取りのぞくと、石の間に光るものがあり、取り上げて水で洗うと金の印判のようなものでした。見たこともないようなものでした。甚兵衛の兄喜兵衛は元奉公先の主人福岡の米屋才蔵に見てもらった。甚兵衛は大切な物だと言われたので手元に置いていた。3月15日、庄屋武蔵から役所に提出するように言われ、甚兵衛は出土経緯を語った。3月16日、金印と村役の署名を添えた「口上書」を郡役所に提出したと書かれている。黒田藩の家老達は金印を甚兵衛より白銀5枚で買い取り、藩の宝物庫に保管した。
口上書
「天明四年 志賀島村百姓甚兵衛金印堀出候付口上書」 那珂郡志賀嶋村百姓甚兵衛申上る口上之覚 一、私抱田地叶の崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候に付、先月廿三日右之溝形を仕直し可申迚、岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、弐人持程之石有之、かな手子にて堀り除け申候処、石之間に光り候物有之に付、取上水にてすすぎ上げ、見申候処、金之印判之様成物にて御座候、私共見申たる儀も、無御座品に御座候間、私兄喜兵衛、以前奉公仕居申候福岡町家衆之方へ持ち参り、喜兵衛より見せ申候へば、大切成品之由被申候に付、其儘直し置候処、昨十五日、庄屋殿より右之品早速御役所江差出候様被申付候間、則差出申上候、何れ宜敷被仰付可被為下候、奉願上候、以上 志賀嶋村百生 甚兵衛(印) 天明四年三月十六日 津田源次郎様 御役所 右甚兵衛申上候通、少も相違無御座候、右体之品堀出候はば 不差置、速に可申出儀に御座候処うかと奉存、市中風説も御座候迄指出不申上候段、不念千万可申上様も無御座奉恐入候、何分共宜様被仰付可被為下候、奉願上候、以上
発見の経緯を述べた口上書から甚兵衛が発見者とされてきたが、その後の研究により、田地の所有者は甚兵衛であるが、金印の発見者は小作人の秀治と喜平の二人であるとの説が登場した。大谷光男氏によれば、博多聖福寺・仙厓和尚の『志賀島小幅』(鍋島家所蔵)に「志賀島農民秀治・喜平自叶崎掘出」と記され、金印の発見者は甚兵衛ではなく、農民の秀治と喜平が掘り出したとの一文が書かれていた。
さらに志賀島の阿曇家所蔵『万暦家内年鑑』(志賀神社)には「天明4年2月23日、志賀島小路町秀治田を墾(ひらき)し大石ノ下ヨリ金印を掘出 方七歩八厘 高三歩 漢委奴国王」とあり、金印の発見者は秀治とされている。
形状寸法
方形で一辺平均2.347cm、高さ0.887cm,総高は2.236cm、重さは108.729g、密度17.94、比重17.94である(岡崎敬(1968))。印文は「漢委奴国王」の五字を小篆の書体で三行にわけて薬研彫り形に陰刻されている。
所有者
福岡藩主黒田家に伝えられたものとして明治維新後に黒田家が東京へ移った際に東京国立博物館に寄託された。1974年(昭和49年)からは福岡市立歴史資料館で展示される。1978年(昭和53年)に黒田茂子(黒田長礼元侯爵夫人)から福岡市に寄贈され、1979年(昭和54年)からは福岡市美術館、1990年(平成2年)から福岡市博物館で保管・展示されている。
後漢書
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に次の記載がある。
- (原文)建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
- (読み下し)「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武帝は印綬を賜った。」
真贋論争
弥生時代の遺跡はない田の中から、農作業中の農夫がこの金印を見つけたので、来歴に不審をいだかれ、偽物説が浮上した。 江戸時代の国学者松浦道輔は「漢倭奴国王金印偽作辨」を表し、贋作説を唱えた。論点は
- 1.印文の最後に印・爾・章などがない、
- 2.印の多くは鋳物であるが金印は鋳物ではない、
- 3.漢が下賜するのにわざわざ「漢」の文字を入れるのは通例に反する、
- 4.神武紀元にあてはめると垂仁86年になり仲哀紀にみえる伊都県主はまだいないはずである]。
松浦道輔の贋作説には次の反論がなされている。
- 1.三宅米吉は、蛮夷印には爾・章は不要であるとした。漢代の封泥に用いられた印は「蛮夷里長」「漢夷邑長」など印・爾がないものがある。
- 2.鉄製の印は鋳物であるが、金印は鋳物では作られないのが通例である。
- 3.漢がつく印には多数の実例がある。薬研彫は「広陵王爾」(58年)の実例がある。
- 4.神武紀元にあてはめて論じるのは『記紀』の記載をそのまま歴史的事実として判断することになるため、問題にならない反論である。 1966年に金印の精密測定がなされ、印面一辺が平均2.347cmであることが確認された。これは、後漢時代の墓で見つかった物差しの一寸と同サイズであり、当時の印は一寸四方で作られることから、この金印は後漢時代のものであると、認められるようになった。
鈴木勉
NPO工芸文化研究所の鈴木勉理事長は、金印に残る彫り痕の特徴は古代中国で作られたとされる印と大きく異なっていると指摘している。金印は、文字の中心線を彫ったあと、別の角度から「たがね」を打ち込んで輪郭を整える「さらい彫り」という技法で作られている。「広陵王璽」印は、たがねで文字を一気に彫り進める「線彫り」と呼ばれる高度な技法で製作されている。前漢から後漢の印の多くは1つの線がほぼ均一の太さで彫られているが、志賀島の金印は中央から端に向かって太くなる特徴があり、印面に対する文字の部分の面積が他の印と比べて突出して大きいから、江戸時代の印ではないかとする。
三浦佑之説
- 奴国に関する遺構のない所で発見された
- 発見時の記録にあいまいな点が多い
- 江戸時代の技術と知識で岩作は作れる
- 滇王之印に比べて稚拙である。 ことから、三浦佑之(2006)は亀井南冥が商人と結託して偽作したとする。
高倉洋彰説
高倉洋彰(2007)は次の主張をした。
- 江戸時代以前に漢代の一寸の実長を知ることは困難である。
- 漢代の一寸の実長は『漢旧儀』で知られようが、そこに蛇鈕は載っていない。
- 偽作するなら『後漢書』の記述に従って「委」を「倭」にする方が自然である。 江戸時代及びそれ以前では知識の水準と量が不足しており、偽作は不可能であるとした。
形状の疑問説
印のつまみ部分は蛇鈕であるが、実際には、蛇とはわかりにくい。、胴体をらせん状に巻き、頭を後ろに向けて振り返っている蛇の姿は相当に観察しないと分からない。そこで膝を折って座っている駱駝の胴体部分との指摘が生まれた。駱駝がデザインされた鈕であったものを、なんらかの理由で、上の部分だけ蛇の形に再加工したというのである。蛇の頭が後ろを振り返る図像は日本人にはまったく馴染みがないものの、前漢から後漢時代では、龍や虎などが振り返った表現は多い。 江戸時代に鈕を蛇形につくることは可能ではなかった。顧従徳『集古印譜』(1575) には参考となる蛇形鈕の見本は掲載されていない。
字体の問題
「漢」のさんずいは縦線の一番上が緩く弧を描き、左上の線は逆L字形である。 前漢時代は、S字を三つ並べたような形であったが、時代が下ると、徐々に伸びてきて、前漢と後漢の間の王莽の時代になると、全体の曲りは非常に緩やかになり、左上の縦線の下端が小さく飛び出す形状となる。後漢時代には曲がりのない縦の直線になる。他の4文字も同様で、「漢委奴國王」の文字はすべて、王莽から後漢初期の時代の特徴が表れている。石川(2017)は鈕と文字の2点だけで、後漢時代に作られた金印を江戸時代に再現することは、まず、不可能と断言する。
金属組成
「漢委奴國王」金印の金属組成は,蛍光X 線分析で金95.0%・銀4.5%・銅0.5%と測定されている(本田ほか(1990))。中国では前漢代・後漢代とも95~99%であるから、金印の値に矛盾はない。,金品位95%の製品を江戸時代に作れるのかという問題がある。江戸時代では後漢代の金製品が95%以上の高品位であることは知ることができない。さらに江戸時代では金座で金製品は厳重に管理されていた。江戸時代に流通する小判等は江戸時代前半で85%内外,後半56%であるから、小判を潰して作ったとしても95%以上の高品位の金を作ることはできない。
石川教授の結論
明治大学文学部の石川日出志教授は志賀島の金印は、「漢」の字の「偏」の上半分が僅かに曲がっており、「王」の真ん中の横線がやや上に寄っている点など、中国の後漢初期の文字の特徴があるとする。蛇形をした「つまみ」は、中国や周辺の各地で発見された同様の形の印と比較すると、後漢はじめごろに製作されたものが最も特徴が近いとする。金印に含まれる金の純度は90%以上であることは、古代中国の印とほぼ同じであると指摘する。「江戸時代に金の純度をまねて作ることはできない」と判断している。
指定
- 重文指定年月日:1931年12月14日
- 国宝指定年月日:1954年3月20日
参考文献
- 直木考次郎(2008)『邪馬台国と卑弥呼』吉川弘文館
- 石川日出志(2015)「金印と弥生時代研究-問題提起にかえて-」古代学研究所紀要 (23), pp.99-110
- 石川日出志(2017)「「漢委奴國王」金印の複眼的研究」第5回 西泠印社印学峰会“弧山証印”
- 石川日出志(2022)『国宝「漢委奴國王」金印の考古学』令和4年度 福島県文化財センター白河館 第3回館長講演会
- 本田光子・井上充・坂田浩(1990)「金印その他の蛍光X線分析」『研究報告』No14,福岡市立歴史資料館
- 呉朴(1959)「我村"滇王之印"的看法」『文物』1959-7
- 岡崎敬(1968)「「漢委奴國王」 金印の測定」史淵 100,pp.265-280
- 高倉洋彰(2007)「「漢の印制からみた「漢委奴國王」蛇鈕金印」」、『国華』112巻12号(通巻1341)、国華社
- 三浦佑之(2006)『金印偽造事件』幻冬舎
漢書 ― 2024年08月07日 00:27
漢書(かんじょ)は前漢の歴史を記述した歴史書である。高祖から王莽の滅亡までを記述した前漢の正史である。 『前漢書』ともいう。
概要
漢書の構成は本紀(皇帝の伝記)12巻,表(人物、位階)8巻,志(事物)10巻,列伝70巻からなる。合わせて100巻。紀伝体で書かれる。 後漢の班固による撰であるが、班固が宮中の政争に巻き込まれて獄死したため、班固の死後は妹の班昭が八表と天文志を執筆した。 それでも欠けていた個所は弟子の馬続に続纂(ぞくさん)させたとされる。 詔や上奏文を忠実に引用しているため、正確さで『史記』に優れる。
倭人
『漢書』「志」の地理志には、「夫(そ)れ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見すと云う」とあり、紀元前1世紀の日本に関する正確な記録となる。
写本
- 漢書楊雄伝第五十七 京都国立博物館 国宝 現存最古の写本
- 宋版後漢書〈慶元刊本) 南宋 23巻 天理大学図書館 重要文化財
参考文献
類聚国史 ― 2024年08月06日 00:15
類聚国史(るいじゅうこくし)は菅原道真が六国史の記事を分類編集し、事項別とした文献である。
概要
道真は宇多天皇から編纂の命を受けて類聚国史の編纂を開始した。中国の会要、類書にならって『日本書紀』から始まる「六国史」記事を、内容毎に分類、つまり「類聚」したものである。892年(寛平4年)に完成したとされる。古代史の重要史料の一つである。 『類聚国史』は本文200巻、目録2巻、帝王系図3巻から成っていたが、現存する写本は写本61巻と逸文が伝わるのみである。六国史本文の校訂や『日本後紀』の欠逸部分の復原に資するところが大きいと評価される。
弘仁地震
818年の赤城山の地震は『類聚国史』の弘仁九年七月と八月(818 年 8 月~10 月)の条に書かれる。元は『日本後紀』巻二七に記載されていたが,それは散逸している。
秋田地方地震
天長七年(830)1月3日の秋田地方の地震は『類聚国史』に記載される。
- 今日辰刻、大地震動、響如雷霆、登時城郭官舎并四天王寺丈六仏像、
- 四王堂等、皆悉顛倒、城内屋仆、撃死百姓十五人、支体折損類一百
- 余人也、歴代以来未曾有聞、地之割辟、或処卅許丈、或処廿許丈、
- 無処不辟、又城辺大河云秋田河、其水涸尽、流細如溝、
- 疑是河底辟分、水漏通海歟、吏民騒動、未熟尋見、添河・覇別河、
- 両岸各崩塞、其水汎濫、近側百姓懼当暴流、競陟山崗
蝦夷進出戦の終了
802年(延暦21)4月15日、阿弖利為(あてるい)は母礼500人余を率いて降伏した記事は『類聚国史』に書かれる。奥州市水沢地域付近で生活していた蝦夷のリーダーである。阿弖利為は坂上田村麻呂に降伏し、144年間に渡る蝦夷進出戦争が終わった。
陸奥国俘囚の授位
835年(承和二年)6月27日、俘囚に授位した記事が『類聚国史』に書かれる。。陸奥国奥地の俘囚、内紛、警備に兵士差発。同月二十七日、さらに援兵を請う。また陸奥国に賑給、出羽国俘囚に授位。藤原清衡、俘囚之上頭を自称する。
写本
- 類聚国史 巻第廿五 国宝(書跡・典籍)仙台市青葉区 東北大学蔵 狩野亨吉旧蔵本
- 尊経閣文庫 鎌倉時代書写本四巻(巻百六十五・百七十一・百七十七・百七十九)国宝 前田育徳会
- 類聚国史 石清水八幡宮 所蔵本(巻一・五) 重要文化財
- 類聚国史 明応九年(1500年)書写の一五冊本
- 大永年間(16世紀前半)に三条西公条らが書写した四冊本
参考文献
- 黒板 勝美・国史大系編修会(1965)『類聚国史 前篇』東京 吉川弘文館
- 黒板 勝美・国史大系編修会(1965)『類聚国史 後篇』東京 吉川弘文館
- 早川由紀夫(2002)「『類聚国史』に書かれた818年の地震被害と赤城山の南斜面に残る9 世紀の地変跡」歴史地震 (18),pp.34-41
- 赤羽目 匡由(2017)「『類聚国史』所載の所謂「渤海沿革記事」の史料的性格について」東洋史研究 76 (2),pp.232-267
七支刀 ― 2024年05月04日 13:45
七支刀 (しちしとう)は奈良県天理市の石上神宮が所蔵する国宝で、身の左右に各3本の枝刃を段違いに造り出した鉄剣である。
概要
史料の少ない4世紀の倭に関する貴重な資料である。剣は全長74.8センチ、剣身の長さ65.6cm、茎は9.3cm。下から約3分の1のところで折損する。4世紀に百済から贈られたとされてきた。剣身の棟の両面に表裏合わせて60余字の銘文が金象嵌で刻まれている。解読は明治以降続けられてきた。
発見の経緯
1874年(明治7年)、菅政友が石上神宮の大宮司として任命され、4年間在任した。菅政友は厳重に封印された木箱を開けると、六又鉾を見出した。鉄さびが全体を覆うが、ところどころ金色が見られ、錆の下に銘文があることき気づいた。
日本書紀
日本書紀巻第九 神功皇后五十二年秋九月丁卯朔丙子条「五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氏等從千熊長彦詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。」と書かれる。この「七枝刀」が「七支刀」である。
大意は「神功52年秋9月に百済が派遣した久氏らが千熊長彦に連れられてきて、七支刀一口と七子鏡一面そのほか様々な重宝を献上した」書紀に寄れば百済の肖古王のときである。
原文解読
(表面) 泰■四年(■■)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□辟百兵宜供侯王■■■■作
(裏面) 先世以来未有此刀百済■世■奇生聖音故爲倭王旨造■■■世
年号の解釈
しかし中国の漢字音義通用の原則と、「泰」は「太」と字音と意味が同一であることから、泰和は太和と読み替えることができる。福山敏男は、中国東晋の太和四年(369年)あるいは三国魏の太和四年(230年)を候補にあげた。宮崎市定は「丙午」を「5月16日」の干支として、それにあてはまる「泰■四年■月」を「泰始四年五月」として解釈した。 李進煕(1951)は反論を提示し、太和四年に続く「五月十一日丙午」と書かれる製作日付に注目した(十六日は偽作とする)。東晋太和では、干支日が合わないからである。北魏の太和四年(480年)とする合うと主張した。369年は百済の近肖王の代であるが、480年になると百済王は東城王となる。 また日付は吉祥句にすぎないとの意見もある。 まとめると年号の解釈には4通りがある。 (1)268年説(泰始4年(西晋):菅政友、高橋健児、喜田貞吉、大場磐雄)、 (2)369年説(太和4年(東晋):福山敏男、吉田晶、浜田耕策、三品彰英、栗原朋信)、 (3)468年説(泰始四年(南朝宋):宮崎市定)、 (4)480年(北魏:李進煕)がある。
No | 年号 | 西暦 | 国 | 国号 |
---|---|---|---|---|
1 | 泰始4 | 268 | 西晋 | 武帝 |
2 | 泰常4 | 419 | 北魏 | 明元帝 |
3 | 泰始4 | 468 | 南朝宋 | 明帝 |
4 | 泰豫4 | 472 | 南朝宋 | 明帝 |
5 | 太和4 | 369 | 東晋 | 司馬奕 |
6 | 太和4 | 480 | 北魏 | 孝文帝 |
その後、東晋太和四年が神功五二年(干支二運下げた年代371年)と近似値を示すことから東晋太和四年が通説となった。
解釈
福山敏男の解釈は以下の通り。 (表面)泰和四年正月十一(或は六か)日の淳陽日中の時に百錬の鉄の七支(枝)刀を作る。以って百兵を辟除し、侯王の供用とするに宜しく、吉祥であり、某(或は某所)これを作る。 (裏面)先世以来未だ見なかったこのような刀を、百済王と太子とは生を御恩に依倚しているが故に、倭王の上旨によって造る。永く後の世に伝わるであろう。国宝
1953年(昭和28年)国宝指定。侯王の解釈
「百済王」は「倭王」を侯王と位置付けたとする研究者が多い。しかし、渡辺公子は、銘文の字句を中国金石文の実例と比較し「侯王」は吉祥句に過ぎないとしている。聖音
村山正雄は拙者拡大写真を用いて裏面の「聖□」は「聖晋」ではなく「聖音」とする。献上か下賜か
刀は、百済王から倭王に献上されたものなのか、反対に下賜されたものかという解釈であるが、金錫亨や上田正昭は、この銘文を素直に読めば、上位者(百済王)から下位者(倭王)への命令的文書の形式をとっていることを指摘している。
考察
『日本書紀』の百済王の記載が正しいとすれば百済の肖古王が贈ったと解釈できる。肖古王は三国史記の「近肖古王」であり、その在位は346年から374年であるから太和4年(東晋、369年)と整合性がある。百済第5代「肖古王」、第6代「仇首王」と区別するため、第14代「近仇首王」と書かれるが当時は肖古王と読んでいたのであろう。『日本書紀』では肖古王の表記であるが、『古事記』では「照古王」とする。
『晋書』(巻九・簡文帝紀・咸安二年(372年)正月条及び六月条)では「余句」とする。「(372年)六月,遣使拜百濟王餘句爲鎮東將軍,領樂浪太守。戊子,前護軍將軍庾希舉兵反,自海陵入京口,晉陵太守卞眈奔于曲阿。」(百済王が使を遣わし鎮東將軍,領樂浪太守の称号を得た。)
大和4年の369年は東晋の年号であり、百済は東晋の年号を使用していたと考えられる。
百済の独自年号説もあるが、これは証拠がない。
日本書紀では369年は仁徳の代であり、和年号とは整合がとれない。銘文にある「侯王」の語は、これは裏面の「倭王」を指す。高句麗と百済は369年から371年にかけて戦争をしているが、この戦争に当たり倭の協力を得たいと考えたのであろう。すると、七支刀が贈られた年は369年が最有力と考えられる。
参考文献
1.福山敏男(1951)「石上神宮の七支刀」(上田正昭編(1971)『日本文化の起源2』平凡社)
2.渡辺(神保)公子(1975)「七支刀の解釈をめぐって」史学雑誌84 (11), pp.1503-1525
3.渡辺公子(1981)「七支刀銘文の解釈をめぐって」『東アジア世界における日本古代史講座』 学生社
4.上田正昭(1973)石「石上神宮と七支刀」(『論集日本歴史 1』原島礼二編)有精堂
5.金錫亨・朝鮮史研究会編(1969)『古代朝日関係史―大和政権と任那』勁草書房
6.石上神宮「伝世の社宝」
7.石上神宮(1929)『石上神宮宝物誌』 8.宮崎市定(1983)『謎の七支刀』中央公論社
9.李進煕(1980)『広開土王碑と七支刀』学生社
10.村山正雄(1979)「七支刀銘字一考」『朝鮮歴史論集』上巻、竜渓書社
11.佐伯有精(1977)『七支刀と広開土王碑』吉川弘文館
多賀城碑 ― 2024年03月18日 00:11
多賀城碑(たがじょうひ)は奈良時代に東北地方征圧のために国によって造られた古代城柵の一つで、東北地方の政治や軍事、文化の中心となった多賀城の創建と修復の年を刻んだ古碑である。
概要
群馬県の多胡碑、栃木県の那須国造碑とともに日本三古碑とされる。平成10年6月30日に国の重要文化財(古文書)に指定され、2024年3月15日に開かれた文化庁の文化審議会で国宝に指定するよう答申された。 多賀城の南門近くにある丘陵上の小堂の中に建つ。高さ196cm、最大幅92cmの材質は花崗岩質砂岩で、ほぼ真西向きに立つ石碑である。碑面をほぼ真西に向ける。碑面に141字の文字が彫られる。前段では多賀城の位置を書き、後段では大野東人が多賀城を築き、藤原朝狩が修造したことを記す。奈良時代から平安時代にかけて東北地方の政治や軍事、文化の中心として栄えた多賀城の創建年代は、続日本紀に記載が無く、724年(神亀元年)に創建されたことを伝える唯一の歴史資料である。希少な奈良時代の金石文として価値が高いと評価される。
発見
多賀城碑は江戸時代の寛文・延宝年間に発見された。土中からの出土とも伝えられる。 1689年(元禄二年)には松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途中で立ち寄った。のちに徳川光圀の注目するところとなり覆屋を作った。
拓本の文字(原文)
- 西
- 多賀城
- 去京一千五百里
- 去蝦夷國界一百廿里
- 去常陸國界四百十二里
- 去下野國界二百七十四里
- 去靺鞨國界三千里
- 此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
- 軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
- 也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
- 節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
- 將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
- 天平寶字六年十二月一日
(大意)
- 京を去ること一千五百里
- 蝦夷國の界を去ること百二十里
- 常陸国の界を去ること四百十二里
- 下野國の界を去ること二百七十四里
- 靺鞨國の界を去ること三千里
- 此城は神龜元年、歳は甲子に次る 按察使兼鎭守將軍
- 從四位上勳四等大野朝臣東人の置くところなり。
- 天平寶字六年、歳は壬寅に次る
- 參議東海東山節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
- 將軍藤原惠美朝臣朝獦が修造した。
- 天平宝字六年十二月一日
偽作説
新井白石は、学識の浅い者が書いた偽作であると断じた。偽作説の根拠は以下の通り。
- 藤原朝狩(藤原朝獦)は天平宝字6年(761年)12月1日に参議であることはおかしい。
- 靺鞨国は渤海国であるべきだ。
- 記載された里程は正史に合致しない。
- 他の碑とは形が異なる。
- 多賀城碑は江戸時代に、仙台藩が佐久間洞巖に命じて作らせた偽作である
真作説
以下の理由から碑の内容と矛盾するものではなく、真作と確定した。
- 藤原朝狩(藤原朝獦)は天平宝字六年十二月一日に参議に就任した。
- 中国史書(旧唐書)に渤海国は渤海靺鞨と書かれる。続日本紀にも靺鞨は登場する。
- 里程は実際の距離ではない。
- 碑文の文字配置は奈良時代の天平尺が使われている。
- 碑の形は中国の円首碑と呼ばれる伝統的な様式である。
- 多賀城跡の発掘調査により、造営開始年代は720年から721年の間と判明した。
- 724年に造営が完了したとしても、矛盾はない。
- 多賀城の修造年代は749年から767年の間と判明した。碑の記載と矛盾がない。
- 碑は建立当初からこの場所にあったことを示す証拠が出た。
考察
続日本紀にに多賀城の記載がないのは、天平宝字8年(764年)9月の藤原仲麻呂の乱で藤原朝狩(藤原朝獦)が逆賊になった(反乱を起こした)ため、藤原朝狩の功績の一部なので、記載されなかったのではなかろうか。
アクセス等
- 名称:多賀城碑
- 所在地:〒985-0864 宮城県多賀城市市川字田屋場54
- 交通:JR東北本線国府多賀城駅から徒歩14分
参考文献
- 平川南(1999)「古代碑文のかたるもの」『よみがえる古代の碑」財団法人歴史民族博物館振興会
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