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箸墓古墳2026年04月19日 00:23

箸墓古墳/筆者撮影

箸墓古墳(はしはかこふん)は奈良県桜井市に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。全長約272メートルを測り、日本列島における最古級かつ最大級の前方後円墳の一つとされる。宮内庁により倭迹迹日百襲姫命大市墓として陵墓参考地に治定されており、原則として墳丘への立ち入りは制限されている。

古墳の構造

箸墓古墳は後円部を北西、前方部を南東に向けた前方後円墳である。 主な規模は次の通りである。

  • 全長:約272メートル
  • 後円部径:約154メートル
  • 後円部高さ:約30メートル
  • 段築:後円部5段、前方部4段と推定
  • 周囲に周濠および外濠状遺構が存在

1997年(平成9年)、桜井市教育委員会による後円部周辺の調査により、幅約10メートルの周濠と、その外側に幅50メートル以上の外濠状遺構が確認された。また南側では大規模な盛土構造も確認されている。

この規模の墳丘を人力のみで築造した場合、築造には十年以上を要した可能性があると推定されている。

築造年代

箸墓古墳の築造年代については、近年の研究では3世紀中頃とする見解が有力である。 その根拠として、主に以下の資料が挙げられる。

  • 周濠出土土器の型式
  • 庄内式から布留0式にかけての土器
  • 放射性炭素年代測定
  • 周濠出土土器付着物のAMS法による分析
  • 較正年代:約西暦240?260年
  • 初期前方後円墳の形態比較
  • 前方部が「バチ形」を示す初期形態

これらの考古学的資料は、中国史書『三国志』魏志倭人伝に記される「卑弥呼の没年(247年または248年)」と年代的に近接することから、箸墓古墳を卑弥呼の墓とみなす説が有力視されている。

ただし、被葬者を特定できる決定的証拠は確認されておらず、学界では確定説には至っていない。

卑弥呼墓説

『三国志』魏志倭人伝には、卑弥呼の死後について次のように記されている。

  • 卑彌呼以死 大作冢 徑百餘歩

ここでいう「冢」は中国語で土を高く盛り上げた墓を意味する。 古代中国の1歩を約1.45メートルとすると、径100歩は約145メートルとなり、箸墓古墳の後円部径(約154メートル)と大きく矛盾しないとする指摘がある。

このため箸墓古墳は、卑弥呼の墓の有力候補としてしばしば議論の対象となる。ただし邪馬台国の所在地を九州とする立場などから、築造年代をより新しい時期とみる異説も存在する。

出土遺物

2000年、宮内庁による墳丘整備の際、倒木の根元から3000点以上の土器片・埴輪片が採取された。

主な遺物には以下がある。

  • 壺形埴輪
  • 円筒埴輪の祖形と考えられる土器
  • 特殊器台(吉備地域に特徴的な大型土器)

特殊器台は弥生時代後期に吉備地方で出現する葬送土器で、古墳時代には円筒埴輪へと発展したと考えられている。纒向遺跡でも同系統の土器片が確認されており、箸墓古墳の築造に吉備勢力が関与した可能性が指摘されている。

周濠出土の馬具

2001年度の調査では、周濠堆積土の上層から「木製輪鐙(りんあぶみ)」が出土した。

復元長は約23センチメートルで、鐙靼による摩耗痕が確認されている。年代は4世紀初頭頃と推定され、日本最古級の鐙の可能性がある。

ただし、この遺物は周濠上層から出土しており、古墳築造後に投棄されたものと考えられるため、箸墓古墳の築造年代(3世紀中頃)と直接矛盾するものではないとされている。

纒向地域との関係

箸墓古墳の周辺には、以下の初期古墳が分布する。

  • 纒向石塚古墳
  • ホケノ山古墳
  • 矢塚古墳
  • 勝山古墳
  • 東田大塚古墳

これらは一般に纒向古墳群と総称されるが、文化庁の史跡指定では箸墓古墳は同古墳群の範囲には含まれていない。

纒向遺跡は3世紀前半の巨大集落遺跡であり、邪馬台国の有力候補地の一つとされる。

被葬者

宮内庁は箸墓古墳を倭迹迹日百襲姫命墓に比定している。

倭迹迹日百襲姫命は『古事記』『日本書紀』に登場する人物で、三輪山神話と関係する巫女的存在として描かれる。しかし歴史学的には伝承的人物とみられる場合も多く、実在性については議論がある。

そのため考古学的には、箸墓古墳の被葬者は「初期ヤマト王権の首長(大王)」である可能性が高いと考えられている。

評価

箸墓古墳は

  • 日本最初期の巨大前方後円墳
  • 纒向遺跡と同時期に成立
  • 3世紀中頃の築造年代

という特徴から、古墳時代成立とヤマト王権形成を象徴する古墳として位置づけられている。

また邪馬台国論争においても、卑弥呼墓の候補としてしばしば議論される、日本考古学上きわめて重要な遺跡である。

箸墓古墳研究史(1970年代から最新研究)

箸墓古墳の研究は、20世紀前半から存在していたものの、本格的な学術的議論が展開するのは1970年代以降である。とくに纒向遺跡の発掘調査、初期古墳の編年研究、自然科学分析の導入などにより、築造年代・被葬者・ヤマト王権成立との関係をめぐる研究が大きく進展した。以下では主な研究の流れを年代順に整理する。

1 1970年代:初期前方後円墳研究の確立

1970年代には、前方後円墳の成立過程を考古学的に整理する研究が進んだ。この時期には箸墓古墳を最古級の巨大前方後円墳と位置づける見解が次第に定着した。

研究の中心となった論点は次の三点である。

  • 前方後円墳の成立年代
  • 初期古墳の形態分類
  • 大和地域の政治勢力

この時期の研究では、箸墓古墳の築造年代は3世紀末?4世紀初頭とする説が主流であった。これは当時の古墳編年が主として

  • 埴輪
  • 副葬品
  • 古墳形態

に依拠していたためである。

また、被葬者を卑弥呼とみる説は存在したが、学界では必ずしも主流ではなかった。

2 1980年代:纒向遺跡の発掘と邪馬台国論争

1980年代になると、箸墓古墳の研究は大きく進展する。最大の契機となったのが纒向遺跡の大規模発掘調査である。

纒向遺跡では

  • 大型建物群
  • 遠隔地土器の集中
  • 特殊器台
  • 大規模な都市的集落

などが確認され、3世紀の政治中心地である可能性が指摘された。

この結果、次の仮説が提示された。

  • 纒向遺跡=邪馬台国の中心地

この仮説が提示されると、箸墓古墳は次のように解釈されるようになった。

  • 邪馬台国女王卑弥呼の墓
  • ヤマト王権最初の王墓

この段階で、箸墓古墳と邪馬台国問題は密接に結びつくようになった。

3 1990年代:土器編年の精密化

1990年代には土器型式研究が大きく進み、庄内式土器から布留式土器への移行年代が精密化された。

箸墓古墳周辺から出土する土器は

  • 庄内式土器
  • 布留0式土器

であることが明確になった。

この結果、箸墓古墳の築造年代は

  • 3世紀中頃

に引き下げられるようになった。

この年代は

  • 卑弥呼没年(247年から248年)

魏志倭人伝の記述

と近接するため、卑弥呼墓説が再び注目されるようになった。

またこの時期には、三角縁神獣鏡の編年研究も進展し、古墳時代前期の年代体系が再構築された。

4 2000年代:自然科学分析の導入

2000年代に入ると、考古学研究に自然科学的分析が積極的に導入されるようになった。 箸墓古墳研究で重要となったのは次の方法である。

  • 放射性炭素年代測定(AMS法)
  • 年代較正(IntCal曲線)

周濠から出土した土器付着物を分析した結果、

  • 較正年代:西暦240-260年 という年代が得られた。

この結果は、

  • 土器編年
  • 邪馬台国年代
  • 魏志倭人伝

の三者がほぼ一致する可能性を示したため、大きな反響を呼んだ。

5 2000年代:宮内庁管理古墳の資料発見

2000年には、墳丘整備の際に倒木の根から3000点以上の遺物が採取された。

主な遺物は次の通りである。

  • 壺形埴輪
  • 円筒埴輪の祖形土器
  • 特殊器台

とくに吉備系の特殊器台の存在は重要であり、

  • 吉備勢力の関与

という仮説が提示された。

これは初期ヤマト王権が

  • 大和勢力
  • 吉備勢力
  • 出雲勢力

などの広域連合であった可能性を示す資料として注目された。

6 2010年代:ヤマト王権成立論の深化

2010年代になると、箸墓古墳は次のような視点から研究されるようになった。

①巨大古墳の政治的意味

箸墓古墳の規模は、それ以前の墳墓の約3倍である。 このため次のような見解が提唱された。

  • 箸墓古墳=列島規模の政治権力の成立を示す墓

つまり、

  • 邪馬台国連合
  • 初期ヤマト王権

の象徴的王墓とする考え方である。

②広域交流ネットワーク

纒向遺跡からは

  • 吉備
  • 山陰
  • 北陸
  • 東海
  • 関東

の土器が出土している。

このため、3世紀の大和政権はすでに

  • 列島規模の政治ネットワーク

を形成していたと考えられるようになった。

7 近年の研究動向(2020年代)

近年の研究では、箸墓古墳を次のように位置づける傾向が強い。

  • ①最初の巨大王墓

箸墓古墳は

  • 最初の大王墓

とする見解が多い。

②邪馬台国政権の王墓

一部の研究者は

  • 邪馬台国王墓

と位置づけている。

③王権成立の記念碑的古墳

別の立場では

  • ヤマト王権成立の象徴的古墳

と解釈される。

まとめ

1970年代以降の研究史は大きく次の流れで整理できる。

時期 研究の特徴

  • 1970年代 初期古墳研究の開始
  • 1980年代 纒向遺跡発掘・邪馬台国論争
  • 1990年代 土器編年の精密化
  • 2000年代 炭素年代測定導入
  • 2010年代 王権形成論
  • 2020年代 広域政治ネットワーク研究

現在の研究では、箸墓古墳は

  • 3世紀中頃の巨大古墳
  • 初期ヤマト王権の王墓
  • 邪馬台国論争の重要資料

と位置づけられている。

基本事項

  • 名称:箸墓古墳
  • 規模:墳丘長278m
  • 所在地:奈良県桜井市大字箸中
  • 交通:JR巻向駅 徒歩13分 (道路距離 948m)

参考文献

  1. 岸本直文「倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス」国立歴史民俗博物館研究報告 No185、pp.369-403
  2. 春成秀爾他(2011)「古墳出現期の炭素14年代測定」国立歴史民俗博物館研究報告163、pp.133-176
  3. 広報「わかざくら」桜井市,平成22年7月掲載
  4. 高島敦(2008)「古墳の周濠の意義」奈良大学大学院研究年報 (13号), pp.174-178
  5. 所蔵資料詳細/宮内庁
  6. 第174回国会 質問の一覧/衆議院
  7. 「卑弥呼の墓鮮明に/最古の古墳写真/宮内庁が保存」産経Biz,2014年5月19日
  8. 「THE古墳,箸墓と卑弥呼の都を結んだ「昼食帰りの大発見」,産経Biz,2021年10月13日
  9. 国立歴史民族学博物館「IntCal20較正曲線に、日本産樹木年輪のデータが採用されました

桂甲2026年04月18日 20:47

桂甲の武人/東京国立博物館/筆者撮影

桂甲(けいこう)は鉄製の小札(こざね)を革紐や組紐で綴り合わせて作られた古代の甲冑である。主として古墳時代後期の倭国において普及した防御具で、騎馬戦の展開と深く関わる。小札は甲冑を構成する短冊状の小さな板状部品である。

起源と伝来

桂甲の技術は、中国の戦国時代以降に発達した小札甲(ラメラーアーマー)に起源を持つ。小札甲が朝鮮半島を経由し、5世紀中葉頃に騎馬技術とともに倭国へ伝来したとされる。

構造と特徴

桂甲は、多数の小札を縦横に連結して構成される柔軟性の高い甲冑である。小札は主に鉄製であるが、まれに金銅装が施される例も知られる。 一領の桂甲は複数の部位から構成され、主な構成要素は以下の通りである。

  • 頚甲(けいこう:首周りの防具)
  • 肩甲(けんこう)
  • 草摺(くさずり:腰から下を守る部分)
  • 膝甲(しつこう)
  • 籠手(こて:腕の防具)
  • 臑当(すねあて)

これらは用途に応じて組み合わされ、全体として高い防御力と可動性を両立している。

短甲から桂甲への変化

倭国では古墳時代中期まで、板状鉄板を用いた「短甲」が主流であった。しかし古墳時代後期になると桂甲が普及し、やがて主流となる。 この変化は、騎馬戦の導入など戦闘様式の変化に対応したものと考えられている。なお、5世紀代には短甲と桂甲が併存していた。

考古資料と復元研究

桂甲は有機質の紐で綴られているため、出土時には小札が分離している場合が多く、原形を保つ例は稀である。そのため復元研究は、小札の形状・穿孔・綴じ方(横綴じなど)・素材分析に基づいて行われている。

特に重要な資料として、飛鳥寺跡の塔心礎から出土した桂甲がある。この遺物は年代が比較的限定できるうえ、全体構造を復元可能な点で極めて貴重である。研究によれば、基本構造は古墳時代の桂甲と共通するが、以下の特徴が指摘されている。

  • 腰部に外反する小札を使用
  • 草摺の前面で重なりを多く取る構造

この桂甲は、飛鳥寺創建に関わった蘇我馬子による埋納の可能性も指摘されている。

埴輪資料

桂甲の着装状態を示す視覚資料として、群馬県太田市飯塚町出土の「挂甲の武人」が著名である。この埴輪は国宝に指定されており、当時の武人の装備を具体的に示す重要資料である。

まとめ

桂甲は、小札を綴り合わせる構造によって高い機動性を実現した古代甲冑であり、騎馬戦の普及とともに倭国で発展した。出土状況の制約から復元研究が重要視されるが、飛鳥寺出土例や埴輪資料によって、その実態が徐々に明らかにされている。

参考文献

  1. 横須賀 倫達(1997)「常陸の桂甲」『博古研究』(通号 13),博古研究会,pp.31~42
  2. 深谷淳 (2009)「小幡茶臼山古墳の研究 築造時期の再検討と桂甲所有の政治的背景」『美濃の考古学』10,pp.25-54

石障2026年04月18日 00:13

石障(せきしょう)は古墳時代後期にみられる横穴式石室の内部施設の一つで、玄室内に設けられる石製の仕切り板である。主として玄室内部の空間を区画する目的で設置されるが、その位置や形態には多様性があり、玄室中央に立てられるもののほか、奥壁寄りや側壁寄りに設けられる例、あるいは全面を遮断しない低い仕切り状のものも確認されている。

概要

石障を備える横穴式石室は、九州中部、とくに現在の熊本県にあたる肥後地域に集中して分布することが知られており、八代平野や宇土半島、球磨川流域を中心として分布する。この地域的特徴から、石障は「肥後型石室」を特徴づける要素の一つと位置づけられる。分布の中心は古墳時代後期(6世紀後半から7世紀頃)にあり、当該期の葬送施設の発展と密接に関わる。

石障の機能については、まず追葬の際に既存の埋葬を保護するという実用的役割が指摘されている。すなわち、複数回にわたる埋葬に対応するため、玄室内に区画を設けることで遺骸や副葬品の攪乱・散乱を防ぐ機能を果たしたと考えられる。一方で、こうした実用面にとどまらず、被葬者ごとの埋葬空間を区別することによって、身分や関係性の差異を視覚的に表現する象徴的・儀礼的機能を担っていた可能性も高い。したがって石障は、単なる構造部材ではなく、玄室内部における「死者の秩序」を構成する装置として理解される。

さらに石障には、直弧文や円文、鍵手文、梯子状文などの幾何学文様のほか、靱・盾・刀などの武器・武具を表現した線刻が施され、さらに赤色顔料による彩色が確認される例もある。これらの装飾は、首長の権威の表現や呪術的意味合いを帯びるものと解釈されており、とくに赤色は再生や生命、あるいは防護を象徴する色彩として重要視される。熊本県の井寺古墳では、石障およびその上端部に同心円文・直弧文・鍵手文・梯子状文などが精緻に線刻されており、装飾石障の代表例として知られる。このように、区画そのものに装飾が集中する点は、壁面装飾とは異なる特徴として注目される。

なお、石障をもつ横穴式石室は九州中部に集中するものの、岡山県の千足古墳のように九州外にも類例が存在する。これらは例外的分布とみなされるが、石室構造の技術的要素のみならず、埋葬空間を区分するという葬送観念そのものが一定範囲に波及していたことを示唆するものとして重要である。

以上のように、石障は古墳時代後期の横穴式石室において、実用的機能と象徴的機能を併せ持つ重要な内部施設であり、地域性・装飾性・葬送観念の三点から、その歴史的意義を評価することができる。

出土例

  • 石障 - 千足古墳、岡山県岡山市、5世紀前半頃
  • 石障 - 塚坊主古墳、熊本県和水町・旧菊水町、5世紀末
  • 石障 - 王塚古墳、福岡県桂川町、6世紀中期
  • 石障 - 樋の口古墳、佐賀県唐津市、5世紀

参考文献

  1. 古城史雄(2014)「石障系石室と箱式石棺」『有明海・八代海沿岸地域における古墳時代首長墓の展開と在地墓制の相関関係の研究』、pp.113-124

マロ塚古墳2026年04月15日 00:04

第1版 2026/4/14

マロ塚古墳(まろづかこふん)は、熊本県に所在したと推定される古墳時代の古墳である。ただし、現在は墳丘および正確な所在地が確認されておらず、出土品の伝来記録に基づいて想定される未確認古墳である。

概要

旧地名では熊本県鹿本郡植木町付近に所在したと伝えられるが、現時点では遺構の特定には至っていない。このため、本古墳の位置や墳形・規模については確定的ではなく、径約15メートル前後の円墳であったとする見解があるものの、いずれも推定の域を出ない。

マロ塚古墳は、保存状態の良好な武器・武具類を中心とする一括出土資料で知られる。ただし、これらの遺物は「マロ塚古墳出土」と伝えられているものの、厳密な出土地点や発掘経緯は明確ではなく、同一遺跡に帰属するかについては慎重な検討が必要とされる。

伝えられる出土品には、小札鋲留眉庇付冑2点、小札鋲留衝角付冑1点、頸甲3点、横矧板鋲留短甲1点といった甲冑類のほか、鉄鏃25点、直刀5点、矛1点などの武器類、さらに鞍金具などの馬具類、耳環やガラス小玉といった装身具、須恵器・土師器などの土器が含まれる。これらの遺物は一括して国の重要文化財に指定されている。

熊本県内では、古墳時代に属する甲冑出土古墳が約23基確認されており、そのうち11基が鋲留式甲冑を伴うとされる。これらは九州における武装首長層の存在を示す資料群として重要視されており、マロ塚古墳もその一群に位置づけられる可能性がある。

所在地の比定については、杉井健(2012)により、菊池川水系支流である合志川中流域西半部左岸が有力視されている。この地域には、慈恩寺経塚古墳、上生上ノ原4号墳など、帯金式甲冑を出土した古墳が分布しており、同種遺物の地域的集中という観点から、マロ塚古墳出土とされる資料との関連が指摘されている。すなわち、出土遺物の様式的共通性と分布状況に基づく地域比定である。

以上のように、マロ塚古墳は墳丘の実態が不明な未確認古墳でありながら、伝来する一括遺物の内容から、古墳時代における九州中部の武装首長層や甲冑生産・流通の実態を考えるうえで重要な資料的位置を占めている。

遺物

  • 小札鋲留眉庇付冑
  • 小札鋲留衝角付冑
  • 頸甲
  • 横矧板鋲留短甲

指定

展示

  • 国立歴史民俗博物館

アクセス等

  • 名称  :マロ塚古墳
  • 所在地 :所在地不明
  • 交 通 :

参考文献

  1. 杉井健(2012)「マロ塚古墳出現の背景」国立歴史民俗博物館研究報告 第173 集

姉崎二子塚古墳2026年04月14日 00:53

姉崎二子塚古墳(あねざきふたごづかこふん)は千葉県市原市に所在する古墳時代中期の前方後円墳である。

概要

養老川河口付近の沖積低地に形成された砂丘上(標高約5m)に立地し、姉崎古墳群に属する。古墳群は大型古墳9基を含む群集墳で、本古墳はその中でも最大級の規模を持つ首長墓とみられる。

墳丘は前方後円形で、墳丘長約110m、後円部径約50m、高さ約9.5m、前方部幅約52m、長さ約48m、高さ約8.5mを測る。周濠を含めた全長は約160mに及び、墳丘周囲には盾形の周濠が巡る。前方部は南西方向に向けられている。

築造年代は5世紀中葉と推定される。埋葬施設は木棺直葬とされる。

1947年(昭和22年)に國學院大学の大場磐雄らによる調査が行われ、後円部からは鏡・勾玉・管玉・琥珀製玉・ガラス小玉などの装身具のほか、直刀・鉄矛・甲冑片・金銅製金具・滑石製品が出土した。前方部からは直刀、銀製耳飾り、瑪瑙製勾玉、鉄鏃、鉄矛、甲冑片、馬具(轡)などが確認されている。

特に前方部から出土した直弧文付石枕は優れた意匠で知られ、国の重要文化財に指定されている。また銀製耳飾りには朝鮮半島南部(伽耶系)の特徴が認められ、当時の対外交流を示す資料とされる。

これらの出土遺物から、本古墳の被葬者は武器・馬具を伴い、武人的性格を持つ有力な地域首長であったと考えられる。

主体部

  • ①後円部 木棺直葬
  • ②前方部 木棺直葬

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 墳長 110m
  • 後円部 径50m 高9.5m
  • 前方部 幅52m 長48m 高8.5m

遺構

出土品

築造時期

  • 5世紀中頃と推定される

展示

  • 国学院大学博物館 

指定

  • 1968年(昭和43年)4月9日 千葉県指定史跡

重要文化財(国指定)

  • 1974年(昭和49年)6月8日指定、 石枕(立花二箇共)- 國學院大學で保管。

アクセス等

  • 名称:姉崎二子塚古墳
  • 所在地:千葉県市原市姉崎字二夕子1762
  • 交通: JR内房線姉ヶ崎駅から徒歩約30分

参考文献

  1. 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
  2. 大場磐雄・亀井正道(1951)「上総国姉ヶ崎二子塚発掘調査概報」『考古学雑誌』第37巻第3号

内裏塚古墳2026年04月13日 00:12

内裏塚古墳(だいりづかこふん)は、千葉県富津市に所在する古墳時代中期の前方後円墳である。小糸川河口付近の沖積低地に形成された微高地(自然堤防・砂州)上に立地する。

概要

墳丘の規模は、墳長約144m、後円部径約80m・高さ約13m、前方部幅約88m・長さ約78m・高さ約11.5mを測る。墳丘には円筒埴輪および朝顔形埴輪(Ⅳ式)が巡っており、これらの埴輪の型式や墳丘形態から、築造時期は5世紀中頃と考えられている。周濠からきぬがさ形埴輪が出土している。大正4年(1915年)、墳頂に石碑が作られた。 内裏塚古墳群は、30基以上の古墳で構成され、三条塚古墳、九条塚古墳、稲荷山古墳等、100mを超える古墳を含む南関東屈指の古墳群である。同古墳群は多数の古墳から構成され、前方後円墳・方墳・円墳など多様な墳形が確認されており、地域首長層の継続的な墓域として形成されたとみられる。

内裏塚古墳は、内裏塚古墳群の中で最大規模を有し、古墳群形成の初期段階に位置づけられる前方後円墳である。内部主体の調査は1906年(明治39年)に行われ,2基の竪穴式石室が検出された。東側の石室(長さ5.75m、幅0.75mから0.88m)から2体の人骨、直刀5点、鉄剣2点、鉄小刀1点,鉄鎌1点及び鉄鏃など、西側の石室(長さ7.55m、幅1m)から鏡1点,直刀5点,鳴鏑9点,金銅製胡籙金具1点及び鉄鏃などが出土した。 主体部は後円部において2基の石槨(甲石槨・乙石槨)が確認されており、複数の埋葬施設を有する点から、追葬や被葬者の継承関係が想定される。 金銅製胡籙金具や鹿角製鳴鏑は武装に関わる威信財であり、その出土は畿内王権との関係を示唆する。また、金銅製胡籙金具は朝鮮半島南部の伽耶地域にも類例がみられることから、本古墳の被葬者が広域的な対外交流ネットワークの中に位置していた可能性が指摘される。鹿角製鳴鏑は全長7.5cmの大型であり、このサイズは他の類例が少ない。

以上の点から、内裏塚古墳は東京湾沿岸地域における有力首長墓として、ヤマト王権との政治的関係および対外交流の実態を考えるうえで重要な古墳と評価される。

遺構

  • 前方後円墳
  • 円筒埴輪
  • 朝顔形埴輪

遺物

  • 鉄刀
  • 鉄槍
  • 鉄鏃
  • 鹿角製鳴鏑
  • 金銅製胡籙金具

指定

  • 令和7年9月18日 国指定史跡 「内裏塚古墳群」

展示

  • 古墳の里ふれあい館
  • 国立歴史民俗博物館

アクセス等

  • 名称  :内裏塚古墳
  • 所在地 :千葉県富津市二間塚字東内裏塚1980
  • 交 通 :

参考文献

  1. 小林洋(1992)「上総南西部における古墳終末期の様相」国立歴史民俗博物館研究報告 第44集 
  2. 千葉県教育振興財団(2012)「古墳時代中期の房総」研究紀要 27

稲荷塚古墳 (嵐山町)2026年04月12日 01:15

稲荷塚古墳 (嵐山町)(いなりづかこふん)は、埼玉県嵐山町に所在する古墳時代後期(6世紀後半から7世紀初頭頃)と推定される円墳である。

概要

見所は比企地方に多い胴張りのある横穴式石室である。側壁の大きな石は緑泥片岩の割石を「小口積み」で、間にある小さな石は河原の礫である。板状の緑泥片岩の断面(小口)を見せて積む技法を使用するが、小口積みは比企地域の特徴的技法であり重要である。 1990年(平成2年)の発掘調査では周溝と葺き石が確認されている。規模は東西20m 南北:16m、高さ約3mとされる。 玄室中央部が膨らむ構造は副葬空間の拡張であり、権威表現と解釈されている。比企地域の有力首長層の特徴である。地域史的文脈で語ることができる。 江戸天明年間(1781年から1789年)には石室が開口していたとされ、羨道部は破壊されており、現存しない。玄室長は3m、最大幅2.7m、高さ2.5mである。 奥壁や天井石には2m前後の大きな石を使っている。1961年10月1日に嵐山町の指定史跡となる。 現在は石室入口に鍵が掛けられている。現在は木の生い茂る外部から形が見えない古墳であるが、墳丘上の樹木は倒壊の危険があるため2010年頃は立木が伐採され、墳形が見えていた。埴輪などの遺物は確認されていない。

遺物

指定

  • 1961年10月1日 嵐山町の指定史跡

展示

アクセス等

  • 名称  :稲荷塚古墳
  • 所在地 :埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷659
  • 交 通 :東武東上線 武蔵嵐山駅下車徒歩15分。

参考文献

  1. 嵐山町教育委員会(1991)『嵐山町埋蔵文化財調査報告5:稲荷塚古墳』嵐山町教育委員会