古津八幡山古墳 ― 2025年05月23日 00:33
古津八幡山古墳(ふるつはちまんやまこふん)は新潟県新津市にある古墳時代の円墳である。日本百名墳の一つに選出されている。国指定史跡である。
概要
古墳は戦後の畑利用による段切り、盛り土などによる改変が激しい。葺石や墳丘祭祀は認められない。第一次調査では新潟県内で最大の円墳である可能性が指摘された。 北陸系、東北系、両者折衷の在地系の3系統の土器が出土した。北麓で森田遺跡、舟戸遺跡、塩辛遺跡など古墳時代の集落が見つかっている。各遺跡の内容については不明な点が多いが、遺跡の年代や立地などから古津八幡山古墳の主である豪族の屋敷は舟戸遺跡が有力とされている。
調査
地中レーダー探査で反射領域は2個所あった。1つは建物基礎と見られる。中心部地下には内部施設の反射はなかった。第17次、第18次調査で竪穴住居遺構が11基確認された。第16次調査で外環濠が検出された。墳形は円墳と確認された。規模は約60mとなる。本来の高さは削平されているため、不明である。段築は2段と確認された。葺石埴輪は確認されていない。、古墳の斜面中ほどに幅約4mから5mの平坦面(テラス)が巡ることが判明した。 方形周溝墓は2基発見された。第20 〜25 次調査において鉄製品は2 点出土した。ヤリガンナと鉄鏃である。
放射性炭素年代測定
方形周溝墓の埋葬施設から出土し炭化物 4点を調べた結果、暦年較正年代(1σ)は、試料⑤が 2191 ± 2039cal BC、試料⑥が 2131±1980cal BC の間に各々 3 つの範囲で示された。縄文時代後期前葉頃に相当する年代である。試料⑦が弥生時代後期頃、試料⑧が弥生時代中期頃に相当し(小林 2009)、同じ方形周溝墓に属する異なる埋葬施設間で年代差が認められる。今回測定された試料は観察所見から木炭の可能性が高く、いずれも樹皮が残存せず、本来の最外年輪を確認できないことから、古木効果を考慮する必要がある。
規模
- 形状 円墳
- 築成 2段
- 規模 径60m、高最大6.8m
遺構
- 古墳
遺物
- 弥生土器
- 石器(採集)
築造時期
展示
- 弥生の丘展示館
指定
アクセス等
- 名称:古津八幡山古墳
- 所在地:新潟県新潟市秋葉区古津700
- 交通: JR信越線・羽越線・磐越西線「新津駅」 「新津駅東口バス停」から、秋葉区バス「新津駅西口行き」に乗車、「美術館・植物園前」で下車、徒歩すぐ。
参考文献
- 新潟大学考古学研究室(1992)『新津市埋蔵文化財発掘調査報告書:古津八幡山古墳I』新津市教育委員会
- 新潟市教育委員会(2014)「史跡 古津八幡山遺跡発掘調査報告書」
- 新潟市教育委員会(2025)「古津八幡山遺跡発掘調査報告書」第21,22,23,24,25次調査
分国論 ― 2025年05月21日 00:10
分国論(ぶんこくろん)は歴史学者の金錫亨が提唱した古代朝鮮と倭国の関係に関する学説の通称である。
概要
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の歴史学者・金錫亨は「三韓三国の日本列島内の分国について」を発表した。これは1964年に日本語に翻訳され、雑誌に3回に渡り掲載された(金錫亨(1964))。 これは三韓三国の分国がそれぞれ日本列島内に存在し、『日本書紀に登場する三韓三国は朝鮮半島内の本国を指すのではなく、日本列島内のそれぞれ分国を指すものと論じた。 日本古代文化のルーツが朝鮮にあり、古代の倭国(日本)が三韓(馬韓・弁韓・辰韓)三国(高句麗・百済・新羅)の植民地であったかのような古代史像を描いた。 九州北部、出雲・吉備、畿内の3地方にこれらの移住民の小国が50ばかりあったとする。 50とはどのような根拠か不明である。 九州北部では百済・駕洛系、出雲・吉備は新羅系がそれぞれ優勢であり、畿内では当初から原住民が比較的強かったが、その後、出雲・吉備から進出して来た新羅系が優位に立った。ところが5世紀末~6世紀末初めに九州北部の百済・駕洛系が襲い圧倒的に優勢となったというストーリーを描いた。
批判
山尾幸久は『古代の日朝関係』において以下のように批判した。
- 金錫亨は、『日本書紀』と『古事記』を否定しながら、その中の「天孫降臨神話」・「出雲伝説」を基調としながら『三国史記』の記述を史実として構成し、日本国内に「分国」が存在するという結論を導き出すのは自己矛盾といえる。
- 『「高天原」の「天(あま)」は、「空」を意味するとともに「海」を意味し、海を越えることを示唆しており、その源は「韓郷島」殊に「新羅」を指すものである。』の主張についてそうした主張の根拠が示されていない。
- 分国が正しいのであれば、古代資料(『日本書紀』、『古事記』など)、朝鮮史料(『三国史記』『三国遺事』)に何らかの痕跡がなければならないが、まったく見当たらない。
- 「現代朝鮮語=古代朝鮮語」とするのは明らかな誤りである。
- 分国論では『分国が朝鮮半島への軍事行動を起こしたものであって、大和(畿内)の大和政権とは無関係である』とされるが、仮に大和政権とは無関係だとしても、日本本土の「分国」が起こしたものとできる根拠はまったく示されていない。
評価
民族意識に支えられた政治的な古代史像とされている。説得力をもつ学説とは言えない。
参考文献
- 金 錫亨(訳鄭晋和(1964)「三韓三国の日本列島内の分国について1)」歴史評論、歴史科学協議会編(165)、校倉書房
- 金 錫亨(訳)鄭晋和(1964)「三韓三国の日本列島内の分国について2)」歴史評論、歴史科学協議会編 (168)、校倉書房
- 金 錫亨(訳)鄭晋和(1964)「三韓三国の日本列島内の分国について3)」歴史評論、歴史科学協議会編(169)、校倉書房
- 金錫亨, 朝鮮史研究会 編(1969)『古代朝日関係史―大和政権と任那』勁草書房
- 山尾幸久(1989)『古代の日朝関係』塙書房
塩田北山東古墳 ― 2025年05月20日 00:28
塩田北山東古墳(しおたきたやまひがしこふん)は神戸市北区にある古墳時代の前方後円墳である。
概要
兵庫県神戸市北区道場町塩田の見晴らしの良い丘陵上に作られた前方後円墳である。古墳時代前期の前方後円墳はこの地域では珍しい。前方部を西に向け、主軸をほぼ東西方向にとる。最終的に全長35m、後円部径22m、前方部長14m、後円部高2.5mを測る墳丘規模の前方後円墳である。墳丘に4基の埋葬施設がある。外表施設は葺石・埴輪ともに確認されていない。畿内の墓制の特徴(前方後円墳形状、三角縁神獣鏡の副葬、粘土槨に長大な木棺を置く)がこの地域まで及んでいることが示された。
第一主体部
第一主体部は後円部の中央付近にあり、長さ8mの墓坑の底に粘土を厚く敷き、その上に長さ7mの木棺を置く。副葬品として中央区画に青銅鏡・緑色凝灰岩製管玉・ガラス小玉、東区画には袋状鉄斧・鉄製刀子・鉄製ヤリガンナ等の鉄製工具類があった。 三角縁仏獣鏡があった。木棺は長さ6.9mと長大で、粘土槨に残された土層横断面の観察から、棺身は直径約80cm、断面半円形の割竹形木棺と見られる。棺内部には赤色顔料が検出された。
第二主体部
第一主体部に寄り添うようにして、もう1基の粘土槨(第二主体部)が埋設されていた。両主体部は同時埋葬ではなく、第二主体部は時間差を置いて構築されている。棺内副葬品は、碧玉製紡錘車形石製品、鉄剣、鉄製刀子、鉄斧、ヤリガンナが各1点と、鉄製刀子片が2点、鉄片1点が、 3箇所に分かれて置かれていた。
青銅鏡
鏡面を上にした状態で棺内南側に立てかけられるように出土した。木棺の中に副葬されていた青銅鏡は三角縁仏獣鏡であり、仏像を意匠とする希少な古鏡である。三角縁神獣鏡の1種であるが、神像の代わりに仏像を配置した。仏像が描かれる鏡は椿井大塚古墳(京都)、天神山古墳(岡山)、赤城塚古墳(群馬)など9面だけである。本鏡は10破片以上に割れて出土した。鋳上がりは図像にやや甘さが見出されるほか、笵傷が観察された。付着物は鏡面に布残片が1箇所ある。X線透過画像での観察に寄れば、破断面周辺の腐食が明瞭であった。直径22.5cm、厚さは内区0.7~ 1,2mm、外区3.9~ 4.5mm、現存重量は1087.Ogである。主文様は仏像1・神像3・獣像4が配され、乳を基部とする傘松文1がある。ら走獣像9体を刻んだ上から、「天王日月」方格が6個彫刻される。三角縁仏獣鏡は3世紀頃に中国で作られたとみられる。中国でもかなり早い時期の仏教画像とみられる。
調査
規模
遺構
- 墳丘
- 粘土槨
遺物
- 三角縁仏獣鏡
- 鉄剣
- 鉄製工具類
- 碧玉製紡錘車形石製品
- 石製管玉
- ガラス小玉
- 土師器
- 木棺材
- 赤色顔料
築造時期
指定
アクセス等
- 名称:塩田北山東古墳
- 所在地:神戸市北区道場町塩田字川北
- 交通:
参考文献
- 神戸市教育委員(2008)「塩田北山東古墳 発掘調査報告書』神戸市教育委員会
塚原二子塚古墳 ― 2025年05月17日 00:03
塚原二子塚古墳(つかはらふたごづかこふん)は長野県飯田市にある古墳時代の前方後円墳である。日本百名墳のひとつである。
概要
長野県飯田市には23基の前方後円墳など多くの古墳が残っており、古墳時代の伊那谷における中核的な地域とされる。塚原古墳群は、古墳群全体が良好に残っており、飯田市内に存在する古墳の中で歴史的価値が高い。周辺には3基の帆立貝形古墳と12基の円墳が残存し、塚原古墳群と呼ばれる。塚原二子塚古墳は塚原古墳群に属する古墳で、同古墳群では唯一の前方後円墳であり、飯田古墳群の中で最大級の古墳である。天竜川を崖下に望む良好な景観を有する。周墳丘の周囲に二重の周濠を確認できる。葺石は2段前後の階段状であり、外見としては基壇となる。しかし墳丘上部は耕作等による改変を受けており、前方部に顕著にみられる段は耕作によるものであり、本来の古墳の段築ではない。円筒埴輪、形象埴輪、人物埴輪など多くの埴輪が出土する。
石室
埋葬施設は不明であるが、後円部墳頂部に天井石の一部とみられる大型の石材が残る。地中レーダー探査において後円部中央で埋葬施設とみられる反応が確認できている。竪穴式石室の可能性が高いと見られる。埋葬施設は確認されていないが、竪穴式石室のため5世紀後半の築造と考えられている。
調査
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段、後円部:2段
- 墳長 67.5m
- 後円部径 径37.5m 高5.5m
- 前方部 幅41m 長30m 高5m
- 外表施設 円筒埴輪 円筒ⅣないしⅤ式
遺物
- 円筒埴輪
- 形象埴輪
- 人物埴輪
- 形象埴輪
- 冑(かぶと)
- 土師器
- 須恵器
- 朝顔形埴輪
- 形象埴輪片(蓋・甲冑・盾)
- 馬形埴輪片
築造時期
被葬者
指定
- 2016年(平成28年)10月3日 国指定「飯田古墳群」
考察
アクセス等
- 名称:塚原二子塚古墳
- 所在地:長野県飯田市桐林
- 交通:
参考文献
- 長野県史刊行会(1983)『長野県史 考古資料編』全1巻(3)主要遺跡(中・南信)
- 飯田市教育委員会(2023)『飯田古墳群範囲確認調査報告書』飯田市教育委員会
那珂八幡古墳 ― 2025年05月14日 00:00
''那珂八幡古墳'(なかはちまんこふん)は4世紀はじめに築造された福岡平野では最古の前方後円墳である。
概要
福岡平野の中部に位置し、東の御笠川、西の那珂川に挟まれ、御笠川右岸の沖積台地にある。標高は6mから9mである。墳丘は地山整形と盛土で築造され、その周囲に馬蹄形に周溝がめぐる。前方部前面の周濠は不明である。周堤はない。出土した三角縁神獣鏡は、福岡市博物館に展示される。
調査
1971年(昭和46年)に九州大学考古学研究室が銅戈鋳型と同時期の遺構・遺物を発見すべく発掘調査したところ、神社がある独立丘陵は帆立貝形古墳であると判明した。1985年、福岡市教育委員会が調査した。後世の改変をかなり受けているが、くびれ部が反るように広がる前方後円墳と判明した。後円部から見つかった2基の主体部のうち1基から、三角縁神獣鏡などの初期古墳の遺物が出土した。前方部が撥形に開く古墳時代初頭の前方後円墳である。これまで那珂八幡古墳は「纒向型」とみられていた。調査により那珂八幡古墳は、従来75mとされていた全長は約86メートルに伸び、後円部と前方部の比率が5対3となることが確認された。前方部の端の幅も30メートル程度で想定の約45mより狭く、纒向型と異なっている。福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄氏は「近畿の古墳をまるごとコピーしたものではない、独自の形状である」と話す。一帯は魏志倭人伝に記載される奴国の中心部であり、同古墳に埋葬された人物は奴国に関わる有力者と考えられる。九州大学の溝口孝司教授(考古学)は「古墳時代の初期は近畿が地方を支配していたわけではなく、近畿と各地の首長たちによるネットワーク連合という形だったのではないか。各地域の古墳に独自性がある可能性がある」と話す(西日本新聞、2019年2月14日)。
規模
- 形状 前方後円墳
- 墳長 64m以上(推定75m以上)
- 後円部径 径48~50m 高8m
- 前方部 長推定12m以上 高現状2m
- 外表施設 葺石なし
- 主体部
- 棺 ②割竹形木棺
遺構
- ①1号主体②2号主体。ともに後円部にあり。
- 第2主体は長さ2.3mの割竹形木棺の直葬である。第1主体は未調査。
遺物
- 三角縁五神四獣鏡
- 硬玉勾玉1・
- 碧玉管玉2・
- ガラス小玉1
- 三角縁五神四獣鏡 - 直径 21.8cm
- 土師器
- 高坏 3
- 器台 1
築造時期
- 古墳時代初期
指定
アクセス等
- 名称:那珂八幡古墳
- 所在地:福岡市博多区那珂一丁目44
- 交通: JR鹿児島線 竹下駅より徒歩6分
参考文献
- 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
- 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
- 『「ヤマトに服属」定説に一石か』西日本新聞、2019年2月14日
- 福岡市教育委員会(1986)『那珂八幡古墳 福岡市埋蔵文化財調査報告書第141集』
剪子 ― 2025年05月13日 00:19
剪子(せんし,Scissors)は鋏(はさみ)を意味する。
概要
切る物を2つの金属の刃で挟み、紙や布などを切断するための道具である。正倉院の灯明の芯切り用の鋏は、韓国慶州市の雁鴨池からほぼ同形の鋏が発見されており、国立慶州博物館で展示される。鋏は6世紀の中国の握りばさみが伝来したのが最初とされる。出土品では古墳時代の6世紀の鉄鋏がある。
正倉院
- 白銅剪子 - 燭台の燈芯を切るための鋏である。刃の部分に半輪形の金具がついていたことから、灯明の灯芯切りのための鋏と判明した。材料は青銅(銅68%・錫18%・鉛4%)である。
出土
- 握り鋏 - 千葉県市原城跡(門前地区)出土
- 鉄鋏 - 伝 群馬県高崎市乗附町出土、古墳時代・6世紀、東京国立博物館
- 鉄鋏 - 珠城山古墳出土、古墳時代 6世紀、奈良国立博物館、日本最古の鋏
参考文献
- 岡本誠之(1991)『ものと人間の文化史33 鋏』,法政大学出版局
卑弥呼 ― 2025年05月12日 00:10
卑弥呼(ひみこ、ひめこ,Himiko)は弥生時代の倭国(日本)の女王である。当時は倭国に約30国があり、その中の邪馬台国(邪馬臺國/邪馬壹國)の女王が共立されて、倭国全体の女王になったとされる。
概要
魏志倭人伝によれば、次のような記載がある。倭国にはもともと男王がおり、70年から80年間統治していたが、互いに戦乱状態が続いていたため、卑弥呼を女王として共立したところ戦乱は治まった。卑弥呼は鬼道による祭祀を行い、人々を惑わしていた。高齢で夫はいないものの、血縁の弟が補佐して国を治めている。王となってからは顔合わせした人は非常に少ない。侍女は千人いるが、男子一人が飲食物を運び、卑弥呼の言葉を伝え、卑弥呼の居所に出入りしている。宮殿や高楼には城柵で厳重に警備され、常に兵士がいて、武器を持ち警護している。
なお「弟」だけでは、必ずしも血縁でない場合があるが、原文は「男弟」なので、血縁のある(親が同じ)弟という意味となる。
倭国動乱
中国側史料によれば、倭国動乱の時期は二世紀後半とすることが共通している。『後漢書』(卷85、東夷列傳第75)に「桓帝・霊帝の治世の間」に倭国が大いに乱れ、王はいなかったと書かれている。その後、三世紀前半となって卑弥呼が鬼道を用いて信仰されるようになり、諸国から共立されて国を平和に導いた。「桓帝・霊帝の治世」とは、桓帝は後漢の第11代皇帝であり、治世は西暦146年8月1日から168年1月25日(永康元年12月28日)までである。霊帝は後漢の第12代皇帝であり、治世は168年から189年5月13日(中平6年4月11日)までである。両者を合わせると、西暦146年から189年の間となる。
部族同盟か地域国家同盟か
「共立」とは部族同盟なのか、それより進んだ地域的国家同盟なのか、結論は出ていない。 上田正昭は民会的要素が薄いため、単なる部族同盟ではなく、王族や諸官の合議により王が決まったものとしている(参考文献3)。
裏付け
仁藤敦史は「裏付ける史料として奈良県天理市の東大寺山古墳出土の鉄刀銘があるとする。この古墳から、「中平」(184 ~189年)という後漢年号を記した鉄剣が出土した。中平年号とは、「倭国乱」があったとされる中国の桓帝と霊帝の間(146~189年)の年号の「光和年中」(178~184年)の直後の年号である。「共立」されたばかりの卑弥呼が朝貢し、中国からその地位を承認する意味の剣が与えられたと考える」と主張する。
卑弥呼の墓
西谷正は魏志倭人伝の「卑弥呼以死,大作冢」の記載の解釈として、渡邉正気(参考文献4)の読み方が最も卓見と評価した。すなわち渡邉は『「卑弥呼,死をおもい,大いに冢を作る」と読み,卑弥呼は寿陵として径百余歩つまり後円部に当たる円丘の径約 150 m の巨大墳墓を自らの意思で作らせたと解釈』した(参考文献5)。そうした大規模な冢が北部九州ではみつかっいないことは、邪馬台国が北部九州に存在したという物証がないことを示すと評価する。卑弥呼の墓が箸墓古墳であったとするなら、卑弥呼が単なる群臣の推薦に乗ったお飾りの存在ではなかったことを示しているであろう。なぜなら箸墓古墳の築造には年あたり数万人から10万人の人力を集めなければならず、強力な政権の力を必要とするからである。しかも先行する弥生文化から隔絶した規模と計画性がみられる。甘粕健は「箸墓の土量 を30万m3として1m3の 築 成 につ いて3.5人で1日 を要す る とす る と延 べ100万 人」を必要とするとし(参考文献6)、さらに葺石、石室の構築、作業貝の供与、施設等に要する人員をさらに加算する」必要があるとする。 この労働力を集められる政治権力はかなり強力なものでなければならない。
卑弥呼の宮殿
平成20年度 ・ 21 年度に実施された第 162 次・第 166 次発掘調査により大型の掘立柱建物群が出土した。西谷正が卑弥呼の宮室(宮殿・居館)説を支持している。竪穴式石室から13 種類,合計 81 枚分の銅鏡片が採集され,大王陵の可能性があるとする。 卑弥呼の宮殿には宮室があり、男弟が政治を助ける。男子は卑弥呼に食事を持参し、卑弥呼の言葉を伝える。男弟とは別の人物のようである。男子は側用人のような存在であるが、世俗的な政治は男弟は補佐する。婢千人は全員が同じ建物には入らないが、一部は近侍する。食事は婢が作り、男子が運ぶ。護衛の兵士が宮殿の入口を警護する。 石野に卑弥呼の宮殿のイメージ図があるが(石野(2012),p.55)、それを纏向遺跡の発掘資料により補正した(桜井市立埋蔵文化財センター(2010)。
卑弥呼の鏡
卑弥呼が魏から下賜された銅鏡を三角縁神獣鏡とする考えは富岡謙蔵(1920)により提唱され、梅原末治の分析と紀年銘鏡の発見などにより補強された。小林行雄は同笵鏡の分有と伝世を分析し、三角縁神獣鏡と古代国家形成 に関する総合的なフレームワークを構築した(小林行雄(1962))。しかし、森浩一は三角縁神獣鏡は中国から出土しないことを指摘し、三角縁神獣鏡は魏の鏡ではないと主張した(森浩一(1962))。 奥野正男は「三角縁神獣鏡は他の中国鏡と各種の共通点はあるが、多くの共通しない紋様や意匠がある」と指摘し、非中国的意匠が国産説の根拠になると指摘した(奥野正男(1989))。 西川寿勝(1999)は下賜された銅鏡は皇帝からの下賜品であるから、最上位の宝器であり、金銀象嵌鏡などの宝飾鏡 あるいは貼金・鍍金の銅鏡であろうと指摘した。 石野博信は画文帯神獣鏡とし、奥野正男は画文帯神獣鏡または方格規矩鏡と考えているとした(石野博信(2012),p.131-138)。 なお「鏡100枚」について鳥越は「数が多いことの比喩」として、30枚から40枚であろうとしている(鳥越憲三郎(2020))。これに対して森浩一は魏志倭人伝に記載された鏡100枚は皇帝の詔書の原文をそのまま引用したものであるから、数字の誇張はあり得ないとしている(森浩一(1994))。 筆者の考えとしては、数量は森浩一説が正しく100枚が妥当と考える。また種類は画文帯神獣鏡または方格規矩鏡と考えるのが妥当である。 なお、豊岡市の森尾古墳出土鏡(兵庫県立古代鏡博物館蔵)に正始元年の銘があり、魏から卑弥呼がもらった銅鏡の一部である可能性が想定されている。宝塚市の安倉高塚古墳から出土した赤烏7年の紀年銘のある鏡は「呉」の年号であり、文献にはないものの、邪馬台国が呉とも国交を結んでいた可能性が想定されている。
シャーマンか
卑弥呼の鬼道に関しては諸説がある(参考文献1)。
- 心霊を憑依させ、宣託するシャーマン(巫女)
- 鬼神(農耕神)を祀る司祭者
- 中国の民俗的な道教の一種である五斗米道や太平道(宗教団体)の教祖
- 埋葬・慰霊・供養など使者儀礼を行うもの
- 聖霊・死霊によっておこる病気の治癒祈祷を行う祈祷師
しかしながら、卑弥呼はシャーマン的性格があるが、単なるシャーマンではないという説が多数である。鬼道に仕えた司祭的機能と「親魏倭王」として君臨した女王の二面性があった(参考文献3)。
小林敏男は卑弥呼を南島のノロに相当する司祭者とする。ノロは地位継承者として代々の司祭者であり、壱与との関係を考慮すると、司祭者を出す血筋を持った家柄とする。卑弥呼がシャーマンだとしても、託宣神が何かはいまだ十分に検討されていないと指摘している)参考文献1)。
鬼道とは
古代史研究者の三品彰英は『邪馬台国研究総覧』の説明によると鬼道に事(つか)えるとは神霊と直接に交わることであり、卑弥呼のシャーマン的特徴が表れているとする。 中国の研究者である王明は『抱朴子内篇校釋』の序文で、民間道教と貴族道教に区分し、民間道教を鬼道あるいは巫鬼道とし、貴族道教を不老長生や丹薬などの特徴をもつ神仙道教の特質とした(参考文献2)。 『晋書』には鬼道の記述があり、道士・李脱は妖術によって衆を惑わし、自ら八百歳であると称し、李八百と号したとされる。中州より建鄴に赴き、鬼道をもって病を療し、また 人を官位につけた。その時の人々はこれを信じ使えたという。これらのことから、卑弥呼が何らかの治療行為を行った可能性が考えられる。
外交的手腕
卑弥呼は外交的手腕に優れており、何度も使者を中国に派遣している。「親魏倭王」の称号を得ており、狗奴国と戦乱状態になったとの報告を中国に行っている。また新羅にも使者を派遣している。井上秀雄は『三国志』東夷伝倭人条の景初2年(238年)記事からの造作で、干支を一運遡らせたものとしている(参考文献7,p.61 註9)。
卑弥呼の就任時期と権力
三国史記の新羅本紀に173年(阿達羅尼師今20年)に新羅に遣使したとされる。卑弥呼の死去が247年頃とすると、173年にはまだ10歳代であったろうか。年代的には無理があるが、新羅本紀が正しいとすると、卑弥呼は83歳での死去となる。径100歩あまりの塚はかなり大きいので、延べ数万人の人員を動員できる権力があったと考えられる。「みこし」に乗ったお飾りレベルの権力者ではなさそうだ。
卑弥呼の死去
247年に使者を派遣しているので、派遣開始時は存命であったと推測される。張政が倭国に到着したときはすでに死亡しているため、247年の戦乱で死亡したとも考えられる。 死後の径100歩あまりの塚を築造した。徇葬者は男女の奴隷が百余人いたとされる。次に男王を立てたが、国中が不服のため再び動乱が起き、1000人が殺された。そこで卑弥呼の宗女の壱与13歳を王に立てると、国が安定したとされる。(魏志倭人伝)。
俾彌呼か卑彌呼か
古田武彦は卑彌呼ではなく、俾彌呼が正しいと主張する(古田武彦(2014))。その理由は「『三国志』 魏書 三少帝紀第四」の四年冬十二月に「倭國女王俾彌呼遣使奉獻」と書かれていることを挙げる。つまり俾彌呼は最初に登場する正式な名称であり、「『三国志』 魏書 烏丸鮮卑東夷傳第三十」の中で5回登場する「卑彌呼」は省略形であると主張し、古田は俾彌呼が正しいとする。漢字の意味であれば「俾」は「使」と同じ意味で、使役するという意味であり、「卑」は身分が低いという意味である。しかし卑彌呼は固有名詞ないし役職名であるし、倭国の発音を中国語に転写したものであるから、個々の漢字の意味はあまり重要ではない。 重要なことは「俾彌呼」の登場は三国志全体でも1回限りであり、5回記載される「卑彌呼」より正しいということはできない。なぜなら1回限りの登場では宋本の誤植かもしれないからである。さらに「後漢書《列傳》《東夷列傳》」においても「卑彌呼」と記載されている(有一女子名曰卑彌呼)。したがって、「俾彌呼」が正しいという事は出来ない。
参考文献
- 小林敏男(1987)『古代女帝の時代』校倉書房
- 王明(1980)『抱朴子内篇校釈』中華書局
- 上田正昭(1973)『日本の女帝』講談社
- 渡邉正気(2001)「『魏志倭人伝』の「卑弥呼以死」の読み方について」(日本考古学協会第 67 回総会研究発表要旨)
- 西谷正(2010)「邪馬台国最新事情」石油技術協会誌 第75巻,第4号 (平成 22 年 7 月)pp.277-285
- 甘粕健(1989)「前方後円墳の技術史」日本土木史研究発表会論文集 5(0), pp.1-10
- 金富軾撰、井上秀雄訳注(1980)『三国史記』第1巻、平凡社〈東洋文庫372〉
- 古田武彦(2014)「筑後国の風土記いみえる荒ぶる神をおさめた女王か?」歴史読本、KADOKAWA
- 石野博信(2012)『邪馬台国とは何か』新泉社
- 桜井市立埋蔵文化財センター(2010)「纏向遺跡の居館域の調査(纏向遺跡166次調査)」纏向考古学通信Vol2
- 富岡謙蔵(1920)『古鏡の研究』丸善
- 小林行雄(1962)「古墳文化の形成」『岩波 講座 日本歴史』1岩波書店
- 森浩一(1962)『古代史講座』学生社
- 森浩一(1994)『語っておきたい古代史』新潮社
- 奥野正男(1989)『邪馬台国発掘』PHP研究所
- 西川寿勝(1999)「三角縁神獣鏡と卑弥呼の鏡」日本考古学 6 (8), pp.87-99
- 鳥越憲三郎(2020)『魏志倭人伝 全釈』KADOKAWA
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