石屋古墳 ― 2026年08月18日 00:05
石屋古墳(いしやこふん)は島根県松江市にある古墳時代の方墳である。
概要
宍道湖と中海を結ぶ大橋川の南岸、標高約30mの丘陵上、松江市の市街中心部から東南東へおよそ4kmから5kmの郊外に位置する。葺石は地元で大海崎石と呼ばれる安山岩がほとんどであった。自然丘陵を切り削し盛土して築成した一辺約40m、高さ約7.8mの大型方墳で、南北両辺に長方形の造出部を設けている。墳丘は2段築成で斜面に葺石がある。 本古墳の成立時期は、出土土器から西暦5世紀の後半と判断された(松江市教育委員会(1985))。ただし出土した力士埴輪は5世紀中葉と見られているので、微妙なズレが見られる。
調査
昭和53年1月25日、松江市東津田地内において住宅団地造成工事(ひがし東光台団地)が開始されたとき、松江市文化財審議会委員の恩田清氏が現地を訪れたとき、大型の古墳があり、埴輪の破片が散乱するところを発見した。県教育委員会と工事業者とで現地立会して古墳と確認した。昭和53年7月10日から7月31日まで調査し、8月末に資料をまとめ、文化庁から翌年4月6日に国の史跡に指定された。 墳頂部の埋葬主体は未調査のため内容は不明であるが、造り出し部の形象埴輪群のなかに金崎古墳出土品と同型式の須恵器が含まれており、古墳時代中期(5世紀頃)に属する古墳と見られる。 方墳が多く築造された出雲地方でも最大級の規模をもつ方墳である。
埴輪
中央平坦部から多数の形象埴輪の破片が出土した。種類としては、人物埴輪、馬埴輪などがある。埴輪片に混じって須恵器の壷、器台の破片、土師器の高郭丸底坩、埴輪の破片が散布していた(松江市教育委員会(1985))。 造り出し部分に形象埴輪を樹立する(松江市教育委員会(1985))。第1段の平坦面に葺石の根石にそい、円筒埴輪や朝顔形埴輪が間隔をあけずに並べられていた。造り出し部の先端の北側は、「空濠」部分である。埴輪の基部は約10cm地山を掘ってすえられている。、完形の円筒埴輪はなかったが、最低2段の凸帯を有し器表面の刷毛目調整は水平方向と垂直方向に施し、比較的古い製作技法によっていた。赤色や緑色の顔料が残る埴輪片も確認されており、彩色埴輪の実態を考えるうえでも注目される。 島根県古代出雲歴史博物館による埴輪の整理復元が行われた。その結果、最古の2個体の力士埴輪を復元できた。また武人埴輪、正装男子、倚座人物埴輪、家型埴輪、円筒器台形埴輪、蓋形埴輪が確認された。力士埴輪は下半身部分(高さ約80センチ)をほぼ復元した。右腰にまわしとみられる帯状のものが残っている。力士埴輪の高さは推定120センチを超える可能性がある。 重要なことは、人物埴輪の配置が明らかになったことである。複数種類の人物埴輪を組み合わせた埴輪群の最古例として、従来は保渡田八幡塚古墳の例が注目されていたが、石屋古墳の再整理によって、さらに古い人物埴輪群の存在が明らかになった。造り出し上に配置された形象埴輪群の構成を復元する手掛かりが得られた。
考察
古墳の築造時期は「倭の五王」の時期と近い。円筒埴輪に加え、人物、動物、家などをかたどった形象埴輪が使われる時期である。 最古の力士埴輪が出土しており、第11代・垂仁天皇の時代(相撲の天覧試合が行われたとされる伝承)との繋がりが指摘されている。『日本書紀』では垂仁の前で野見宿禰と当麻蹴速が相撲をとったという伝承が記載されている。 『日本書紀』の垂仁七年は紀元前23年とされるが、これは虚構といえる。石屋古墳出土の埴輪の力士の製作年代は400年代の半ばと見られている。 一部には、記紀に記された天皇紀年をそのまま採用せず、考古学的・系譜的検討から垂仁を5世紀頃の人物として位置づけようとする見解もある。イリヒコの名をもつ大王には崇神大王(ミマキイリヒコ)や垂仁大王(イクメイリヒコ)などが知られており、3世紀後半から4世紀頃に実在した可能性のある「大王(おおきみ)」と見る見解がある(井上光貞(1960))。しかし垂仁の実在性については、考古学的な確証はなく、神話・伝説上の人物(架空性がある)とする見方が有力である。しかも5世紀とは時代がずれているので、『日本書紀』の人物の実在性の証明は困難である。
規模
- 形状 方墳
- 築成 2段築成
- 規模 1辺40m、高7.85m
外表施設
- 円筒埴輪 円筒埴輪・朝顔形埴輪
- 葺石 葺石あり
遺構
遺物
築造時期
- 5世紀中葉頃に築造
被葬者
- 当地の航海権を掌握した豪族の墓所
展示
指定
- 1979年4月6日 国の史跡 史跡名勝天然記念物
アクセス等
- 名称:石屋古墳
- 所在地 :島根県松江市矢田町・東津田町
- 交 通 :JR松江駅からバス15分、馬橋下車徒歩10分
参考文献
- 松江市教育委員会(1985)「史跡石屋古墳」
- 井上光貞(1960)『日本国家の起源』岩波書店
薬師堂東遺跡 ― 2026年08月17日 00:05
薬師堂東遺跡(やくしどうひがしいせき)は埼玉県本庄市に所在する縄文時代から近世までの複合遺跡である。
概要
薬師堂東遺跡は本庄市域の北、JR高崎線本庄駅から北東方向に1kmほど離れた位置にある。本庄台地の北東縁沿いで北側は段丘崖に、西側、東側は彎入する谷部に縁取られた段丘上に位置する。 発掘調査は、2026年まで4回行われ、検出された遺構は、竪穴住居跡だけで384軒、土坑が506基にのぼる。平成24、25年に本庄市立本庄東中学校の新校舎建設に先立って最も広い範囲で発掘調査が行われた。本庄台地縁辺部の古墳時代から奈良・平安時代の集落跡の特徴は住居跡の分布密度が著しく高いとされる。薬師堂東遺跡は重層的に重複する住居跡が著しい密度で分布していた。そのため時期判定の困難な住居跡があった。 薬師堂東遺跡C地点で検出した遺構は、竪穴住居跡294軒、土坑424基、溝跡3条、多数のピットである。C地点の各遺構からガラス小玉鋳型が188点出土した。一つの遺跡からの出土数としては2026年時点では国内最多である。日本では初めてである完形のガラス小玉鋳型や同種鋳型片などが多数出土した。
調査
アクセス等
- 名称:薬師堂東遺跡
- 所在地:埼玉県本庄市日の出4-2-45
- 交通:JR本庄駅から1.6km(徒歩約22分)
参考文献
- 本庄市教育委員会(2019)『薬師堂東遺跡Ⅱ』本庄市埋蔵文化財調査報告書 第58集
大神塚古墳 ― 2026年08月16日 00:50
大神塚古墳(おおじんづかこふん)は神奈川県高座郡寒川町に所在する4世紀後半から5世紀前半の前方後円墳(または帆立貝形前方後円墳)である。「応神塚古墳」、「寒川町No.8遺跡」とも呼ばれる。
概要
座間市、海老名市、綾瀬市、藤沢市、寒川町を流れる目久尻川・小出川流域を望む相模野台地南縁部、標高約15mの微高地に立地する 高野山真言宗の寺院安楽寺の境内に位置しており、本堂の裏手に存在する。
1908年(明治41年)帝国大学理科大学教授・坪井正五郎の指導で発掘調査が実施された。しかし詳しい調査報告書がないため、詳細は不明である。 坪井正五郎氏の指導のもとで行われた、日本最古期の発掘調査で、埋葬施設(粘土槨、または舟形木棺を収めた施設と推測される遺構)から、副葬品として主体部から倭鏡(1908年(明治41年)の調査)2面と漢鏡1面、直刀3振が出土した。
現存する墳丘は全長約43m、後円部径約28m、高さ約4mとされるが、前方部は大きく削平されている。前方部が大きく削平されているため、本来の墳形には不明な点がある。墳丘上の配石や、和鏡の再配置、さらに安楽寺本尊の年代などから、古墳は中世において山岳信仰・修験的な宗教空間として再利用されていた可能性が指摘されている。 墳丘は裾に近い部分は地山をローム層近くまで掘削して土台を構築し、その後黒色土を盛土した。残存状況から、主体部は粘土槨を基本とし、その内部に木棺を据え、周囲に礫を配した構造であった可能性が高い。 出土品の一部として寒川神社方徳資料館に鏡1面が保管展示される。そのほか直刀・その他鉄製品は大神塚古墳およびD号墳の出土と思われる。
築造時期は時期を決定づける土器が出土していないので不確定であるが、古墳時代前期の4世紀後半頃と推定されている。従来は5世紀前半頃と考えられていたが、近年の調査成果により年代が見直されている。近年、寒川町教育委員会による保存目的の発掘・確認調査が継続して実施されている。
陪塚
大神塚古墳の周辺に小型古墳5基(大神塚周辺古墳群)が配置される。大神塚周辺古墳からC・D号墳で勾玉・管玉・切子玉・ガラス小玉、D号墳から金環が出土した。
被葬者の伝承
被葬者について、寒川地域では寒川神社が国造の祖先を祀る神社と伝えられていることから、大神塚古墳を相模川流域を開拓した初代相武国造・茅武彦命の墓とする伝承がある。ただし、これは後世の伝承に基づくものであり、考古学的に被葬者を特定できる資料は確認されていない。
考察
大神塚古墳は、相模川流域において前方後円墳が出現する初期段階に位置づけられる古墳である。相模川流域では、4世紀後半から5世紀初頭にかけて、前方後円墳の築造が各地で開始されるが、その多くは全長40~60m級の中規模墳であり、大神塚古墳(推定全長約50m)もこの規模帯に属する。 漢鏡は内行花文鏡で、1世紀から2世紀頃の中国(後漢時代)で作られたものとみられる。築造年代と鏡の製作年代との時代差から、伝世品と推定されている。 ヤマト王権中枢または王権と緊密な関係をもつ有力首長層によって管理・授与されていた性格の遺物と考えられる。相模川流域の同時期古墳において漢鏡副葬例が限られることを踏まえると、大神塚古墳の被葬者は、単なる地域内部の有力者にとどまらず、ヤマト王権の政治秩序に早い段階から組み込まれた首長層であった可能性がある。
また、大神塚古墳の周辺には複数の小型古墳(大神塚周辺古墳群)が配置されており、被葬者を中心とした首長墓とその従属的墓域からなる構造が認められる。この点も、相模川流域における初期首長制の成立過程を示す好例といえる。
築造時期
- 4世紀後半頃
被葬者
展示
- 寒川神社方徳資料館)(一部のみ)、東京大学総合研究博物館
指定
- 1987年(平成9年)12月24日 寒川町指定重要文化財
アクセス等
- 名称 :大神塚古墳
- 所在地 :神奈川県高座郡寒川町岡田字大塚
- 交 通 :JR相模線「寒川駅」北口から徒歩で10分
参考文献
- 小林秀満(2025)「近年の発掘調査成果をもとに寒川町大(応)神塚古墳を読み解く」
- 寒川町教育委員会(2023)「令和4年度大(応)神塚古墳(寒川町№8 遺跡)保存目的のための調査概要」
新羅 ― 2026年08月15日 00:05
新羅(しらぎ)は古代朝鮮半島南東部に成立した国家であり、いわゆる三国時代において高句麗・百済と並立した王国である。都は現在の慶州(当時は「金城」)に置かれた。
1 新羅の成立と発展
新羅の起源は、三韓の一つ辰韓地域に成立した斯盧国(しろこく)に求められる。三韓の一つである辰韓の12国の中の1つであつた。斯盧国は周辺の小国や部族集団を統合していった。当初は有力者による部族連合的な性格を持っていた。初期には複数の有力集団が政治的連合を形成していたと考えられ、朴・昔・金の諸氏が首長を担った。 次第に特定の氏族(朴氏・昔氏・金氏)による世襲王権を確立していった。356年に即位した第17代・奈勿王の時代に金氏による王位継承が定着し、王権の基盤が強化された。 君主の称号は「尼師今」から「麻立干」へと変化し、王権の強化が進んだ。 503年、第22代・「智証(ちしょう)王」の時代にそれまで「斯盧」「斯羅」「徐羅伐」など多様に漢字表記されていた国号を、「新羅」と定めた。これは「徳業が日に新たになり、四方を網羅する」という意味に解釈された。
2 制度改革
6世紀では王権の強化と中央・地方支配の整備が進み、とくに「法興王(在位514~540)」の時代に重要な制度改革が行われた。
- 律令的な法制度の整備
- 官位制度など中央官制の整備
- 仏教の公認(527年) 仏教を公認し、国家的な仏教受容を進めた。
- 独自年号「建元」の制定(法興王が536年に制定)
これらの制度整備は王権の強化と国家統治の整備につながった。さらに東アジア諸国との外交関係(南朝梁への遣使など)は活発化した。532年には金官国(金官加耶)を併合し、加耶地域への勢力を拡大した。高句麗、百済との関係では、553年には、それまで優位だった百済から漢城周辺の要衝を奪い、百済や高句麗と激しく対立・抗争を繰り返した。中国の南北両王朝への朝貢では、564年に北斉へ朝貢し、翌565年に北斉から冊封を受けた。568年には南朝の陳にも使者を送り、南北朝双方との外交関係を構築した。568年には南朝の陳にも使者を送るなど、分裂していた中国の南北両王朝と外交関係を構築した。東アジアの中で国家の地位を固めた。新羅は、百済・高句麗との軍事的対立の中で中国王朝との外交を巧みに利用した。
3 三国統一と唐との関係
7世紀半ば、「武烈王(在位654~661)と文武王(在位661~681)」の下で対外戦争が本格化する。
新羅は唐と軍事同盟を結び、660年に百済、668年に高句麗を滅ぼした。しかしその後、半島支配を企図した唐軍と対立し、唐の朝鮮半島支配構想を挫折させた。唐は676年に安東都護府を遼東へ移し、朝鮮半島への直接支配を断念した。
676年までに新羅は旧百済地域を含む朝鮮半島南部を確保し、北方では唐の勢力と対峙することになった。いわゆる「統一新羅」時代を迎える。ただし旧高句麗北方地域は渤海の成立へとつながり、半島全域を完全統一したわけではない点には注意が必要である。
4 統治体制と社会
新羅社会の特色として「骨品制(こっぴんせい)」が挙げられる。骨品制は王族・貴族の血統を基準として政治的・社会的地位を規定する身分秩序であり、官位・官職・居住・服飾などにも関係した。 初期の中央集権化においては安定要因となったが、時代が下ると後期には骨品制による政治参加の制約が、六頭品などの有力層との緊張関係を生み、王権・貴族社会の政治的対立の一背景となったとされる。
5 衰退と滅亡
9世紀に入ると地方豪族の台頭、王位継承争い、農民反乱の頻発などにより王権は弱体化した。単一要因ではなく、
- 王位継承争い
- 真骨貴族間の抗争
- 地方豪族の成長
- 農民反乱
- 国家財政・地方支配の動揺 など、政治的分裂と社会変動の複合的結果と考えられている。大規模な寺院造営など国家的事業も行われたが、これを王朝衰退の直接的要因とすることには慎重である。
935年、新羅最後の王である敬順王は高麗への帰順を決断し、王朝は終焉を迎えた。この帰順は大規模な戦闘を伴わない政治的移行であり、以後は高麗王朝へと統合される。
6 冊封体制と東アジア秩序の再編
7世紀は、唐を中心とする国際秩序が形成されつつあり、唐は周辺諸国との冊封・羈縻関係を構築していた。
朝鮮半島では、
- 高句麗は北方・中国方面の諸勢力との外交・軍事関係を展開し、唐との対立を続けた。
- 百済は倭との人的・外交的・軍事的関係を維持した。
- 新羅は百済・高句麗から圧迫を受ける状況にあり、独力で両国に対抗することは困難であった。
という三極構造が続いていた。
新羅は百済・高句麗との対抗関係の中で唐との関係を強化し、唐の軍事力と国際的地位を利用して自国の生存と領域拡大を図ったと再評価されている。
7 百済・高句麗滅亡と国際戦争化
660年の百済滅亡、668年の高句麗滅亡は、新羅単独の勝利ではなく、唐軍の大規模派兵によるものであった。
とくに663年の白村江の戦いでは、百済再興を支援した倭軍が唐・新羅の共同軍に敗北し、日本列島の対外政策にも大きな転換をもたらした。この戦争は、半島諸国間の戦争を基盤としながら、唐・倭を巻き込んだ東アジア規模の国際戦争へと展開した。
なお、百済と倭の関係は単純な二国間同盟ではなく、4世紀から7世紀にかけて、朝鮮半島の百済、高句麗、新羅、そして中国(南朝や唐・隋)と倭がそれぞれの立場で、外交・軍事的に複雑に関係していた。百済は王子(豊璋など)を倭に送って支援を求め、逆に倭が半島内の政治的影響力を背景に動いたり、七支刀の贈答や渡来人を通じた仏教・儒教・土木技術などの伝播を含む、人的移動を伴う文化的・経済的な結びつきであった。
8 唐・新羅戦争の意味
百済・高句麗滅亡後、唐は半島に安東都護府を設置し、直接支配を企図した。これに対し新羅は反発し、670年代に唐と戦争状態に入る。 676年までに唐軍を朝鮮半島南部から撤退させ、新羅は旧百済地域を含む朝鮮半島南部の支配を確立した。
ここで重要なのは、新羅が唐の軍事力を利用しつつも、その支配には従属しなかった点である。 これは新羅は唐の冊封・朝貢秩序に組み込まれながらも、国内統治と軍事・外交政策については自律性を維持した。
9 「民族統一」史観の再検討
近代以降の韓国・朝鮮史研究では、三国統一を民族統一の起点として評価する歴史観が形成された。しかし、
- 698年には高句麗旧領の北部を中心に渤海が成立し、新羅とは別の政治勢力が形成された。
- 唐軍の軍事的介入が不可欠であった
- 戦争の契機は国内対立と国際政治の結合であった
ことを踏まえると、「新羅が朝鮮半島の民族的統一を単独で達成した」という理解は単純化の側面を持つ。加えて、「民族統一」という近代的な概念を古代の三国統一にそのまま適用することには慎重さが必要である。
むしろ三国統一戦争は、
- 唐帝国の東アジア再編戦略と半島諸国の生存戦略が交錯した結果
として把握する方が国際関係史的には妥当である。
10 倭国への影響
白村江敗戦後に倭国では宰府周辺の防衛施設や西日本各地の山城などが整備され、対外的危機への対応が強化された。また、こうした国際情勢は、中央集権化・律令国家形成が進む政治過程の重要な背景の一つとなった。 百済と倭の関係についても、百済滅亡直前の国際関係は単純な「百済・倭対唐・新羅」の二極構造ではなく、時期によって外交関係は流動的に変化していた。
11 三国統一戦争の国際関係史的再評価
7世紀の三国統一戦争(660~676年)は、従来「新羅による民族的統一」として叙述されることが多かった。しかし近年の研究では、これを東アジア国際秩序の再編過程の中に位置づける視点が重視されている。 唐と新羅は、時期によって同盟者・敵対者・外交関係者という複数の顔を持った。すなわち三国統一と国際秩序は、
- 朝鮮半島の政治統合
- 唐の朝鮮半島直接支配構想の挫折
- 日本古代国家形成の契機
という朝鮮半島・中国大陸・日本列島の諸勢力が連動した歴史現象と評価できる。 新羅は唐の冊封・朝貢秩序に参加しながら、国内統治や軍事・外交政策については一定の自律性を維持した。唐と新羅は、時期によって同盟者・敵対者・外交関係者という複数の関係を形成した。したがって三国統一とその後の国際関係は、唐の東アジア再編、新羅の生存と領域拡大、百済・高句麗の抵抗、倭の軍事的関与が交錯した歴史過程として理解することができる。
12 総括
三国統一戦争は、
- 半島内部の王権競争
- 唐の東アジア秩序形成と対外政策
- 倭国の対外関与
が複合した国際秩序再編戦争であった。
その結果誕生した統一新羅は、東アジア世界の一員として唐との外交関係を維持しつつ、自立的王国として存続した。この事例は、7世紀東アジアにおける「帝国と周辺国家」の関係性を考える上で重要な歴史的ケーススタディとなっている。
参考文献
- 一然、金思火華(1997)『完訳 三国遺事』明石書店
- 井上秀雄(2004)『古代朝鮮』講談社
- 金富軾(撰)、鄭早苗(訳注)、井上 秀雄(1988)『三国史記』平凡社
- 早乙女雅博、李 成市(2002)『古代朝鮮の考古と歴史』雄山閣
- 橋本繁(2014)『韓国古代木簡の研究』吉川弘文館
- 李 盛周(2005)『新羅・伽耶社会の起源と成長』雄山閣
- 盧泰敦(2012)『古代朝鮮三国統一戦争史』岩波書店
鎮守森古墳 ― 2026年08月14日 00:05
鎮守森古墳(ちんじゅもりこふん)は福島県河沼郡会津坂下町にある古墳時代中期の前方後方墳である。
概要
鎮守森古墳は標高約175mの段丘縁辺部に立地する。鎮守森古墳は宇内青津古墳群を構成する古墳の一つである。宇内青津古墳群は前方後円墳13基、前方後方墳3基から構成される。鎮守森古墳は亀ヶ森古墳とほぼ平行する方向に築造されている。規模は全長約55.2m、後方部一辺約30m、後方部高さ約4.69mm、前方部長さ28m、前方部幅約18m、前方部高さ約2.18mである。
墳丘は後方部が3段築成で、相似形の周堀を備える。前方部は後世の削平を受けており、段築などの詳細な構造は不明である。埋葬施設や副葬品については未調査のため明らかになっていない。周濠から出土した二重口縁壺などから、古墳時代中期に築造され、亀ヶ森古墳よりやや新しいと考えられている。後方部頂部に八幡神社が鎮座する。古墳へは細い参道を通って到達する。
宇内青津古墳群は会津地方を代表する古墳群の一つであり、前方後円墳(亀ヶ森古墳)と前方後方墳(鎮守森古墳)がまとまって築造された点で地域首長層の墓域を知る上で重要である。
宇内青津古墳群
- 亀ヶ森・鎮守森古墳
- 杵ガ森古墳 -
- 臼ガ森古墳
- 長井前ノ山古墳 - 合掌天井式石棺出土。5世紀前半の築造。
- 虚空蔵森古墳
- 天神免古墳
- 灰塚山古墳
- 宮東1号墳
- 雷神山1号墳
- 森北1号墳
- 鍛冶山4号墳
- 出崎山1号墳
- 出崎山2号墳
- 出崎山3号墳
- 出崎山4号墳
発掘調査
遺物
- 土師器(二重口縁壺) - 周濠部より
築造時期
- 古墳時代中期
被葬者
- 亀ケ森古墳被葬者の親族と見られる。
展示
指定
- 1976年(昭和51年) 国指定史跡(亀ヶ森・鎮守森古墳)。
アクセス等
- 名称 :鎮守森古墳
- 所在地 :福島県河沼郡会津坂下町大字青津字舘
- 交 通 :会津坂下駅よりバス10分バス停青津入口/JR磐越西線塩川駅から徒歩92分、6.8km。
参考文献
- 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
- 河沼郡会津坂下町教育委員会編(1998)「鎮守森古墳 : 国指定史跡鎮守森古墳発掘調査報告書」会津坂下町文化財調査報告書 ; 第50集).
小金塚古墳 (伊勢原市) ― 2026年08月13日 00:09
小金塚古墳 (伊勢原市)(こがねづかこふん)は神奈川県伊勢原市に所在する古墳時代前期の円墳である。
概要
相模地域を代表する大型円墳で、相模地域で最大級の円墳とされる。規模は東西46.9m、南北48.9m、高さ6.2m以上である。長龍寺の裏手に古墳が所在する。墳頂に小金塚神社が鎮座し、石段の上に拝殿、その傍に神楽殿や鐘楼が建てられる。 主体部は未調査であるが、墳頂部の状況から竪穴系の埋葬施設(未調査)が神社の社殿の下に存在すると推定されている。 北側には愛甲大塚古墳、地頭山古墳、ホウダイ山古墳などが所在する。 1921年(大正10年)11月18日11月18日に陸軍大演習が行われたとき、昭和天皇(当時皇太子)が「御野立所」(天皇や皇族などが、野外で休憩や(軍事演習などの)観覧を行った場所)にしたとされる。古墳の一隅に「御野立所」の碑が建てられる。
発掘調査
1984年(昭和59年)に周溝の確認を目的として、専修大学考古学教室により測量・発掘調査が行われた。トレンチ調査で幅約10.4m、深さ約1.1mの周溝が確認された。周溝底面は現地表下約2.5mに位置していた。周溝から南関東最古級とされる朝顔形埴輪2個体が出土した。高さ約79.4cmの朝顔形埴輪が確認されている。そのほか円筒埴輪片、青銅製リングが出土した。そのほか銅鏡1面の出土が伝えられるが、銘文、遺存状況、面径、出土時期などは明らかでなく、現物も現存しない。
小金塚古墳の意義
古墳時代前期の大規模首長墓が少ない相模地域において、前方後円墳ではなく大型の「円墳」に古式の埴輪を採用している点が特徴となる。当時の相模西部(西相模・伊勢原周辺)における有力首長の存在や、ヤマト王権とのつながり、地域間の墓制の多様性・展開を示す遺跡である。伊勢原の小金塚古墳、海老名の秋葉山古墳群、平塚の塚越古墳の3者を比較すると、秋葉山古墳群は3世紀後半から4世紀の築造で、小金塚古墳より築造時期が早い。早い段階でヤマト王権の「前方後円墳体制」に組み込まれた可能性がある。塚越古墳は4世紀後半であり、東海・北陸などとの繋がりを示唆するヤマト王権とは異なる伝統を示す前方後方墳を採用している。小金塚古墳は円墳であるが、規模は卓越しており、古式埴輪(朝顔形埴輪など)が出土することは、王権の「葬送儀礼(埴輪を並べる文化)」を受け入れていたと推察される。
指定
アクセス
- 名称:小金塚古墳
- 所在地:神奈川県伊勢原市高森1102
- 交通:小田急小田原線 愛甲石田駅から南西に約1.3km
参考文献
- 相原精次、藤城憲児(2000)『神奈川の古墳散歩』彩流社
- 厚木市文化財協会(1998)「厚木の古墳 厚木市における古墳の分布調査報告書」厚木市教育委員会
- 国立歴史民俗博物館編(1994)『国立歴史民俗博物館研究報告 第56集』共同研究「日本出土鏡データ集成
土口将軍塚古墳 ― 2026年08月12日 00:05
土口将軍塚古墳(どぐちしょうぐんづかこふん)は長野市松代町岩野と千曲市土口の市境にある古墳時代の前方後円墳である。
概要
妻女山から西方に張り出した支脈の突端近くの尾根上に立地し、沖積地との比高差は約100mである。全長67.7m、後円部径40.5m、高さ7m、前方部幅30.5m、前方部長34m、高さ4mを測る二段築成の前方後円墳である。
円筒埴輪は墳頂部・前方部頂・段築面に円筒埴輪と朝顔形埴輪Ⅲ式が樹立されている。埴輪の中に平行状、格子状のタタキ痕跡やヘラ状工具による線刻をもつものがある。後円部に2基の竪穴式石室が並列して設けられており、器面に珍しい「叩き目」が施された埴輪が出土するなど、全国的にも類例の少ない資料として知られる。築造年代は5世紀中葉と考えられている。
築造時には、上段・下段の墳丘斜面がほぼ全域にわたり葺石で覆われていたと考えられている。葺石は石英閃緑岩の角礫であり、特にくびれ部の残存状況が良好であった。
古墳は、山の尾根を利用し丘尾を切断して築造したものである。墳丘出土の土器および柳葉形鉄鏃や三角板革綴短甲の年代から、5世紀前半の築造時期が推定されている。 国の史跡「埴科古墳群」のひとつとして指定されている。保存状態は比較的良好であるが、標高約450mの尾根にあるため、古墳までは山道を登る必要がある。長野盆地を一望できる景勝地となる。
発掘調査
1981年頃の盗掘を契機として、1982~1986年に長野市と更埴市が合同で発掘調査を実施した。1982年に測量調査、1983年に石室調査、1984年に前方部の予備調査、1985年に本調査、1986年に埴輪列の補足調査が行われた。 第一次調査として1982年(昭和57年)8月7日から12日にかけて測量調査が行われた。第二次調査は1983年(昭和58年)7月26日から8月19日で、石室を発見した。第三次調査は1984年(昭和59年)7月25日から8月18日に行われ、試掘坑(前方部東トレンチ)を設定して予備調査を行った。第四次調査は1985年(昭和60年)9月9日から9月30 日に行われた。1986年(昭和61年)9月8日から10日に補足調査として埴輪列の確認を行った。
埋葬施設は後円部中央に2基の竪穴式石室が並列して設けられている。竪穴式石室は①北主体(長さ不明・幅0.55m・高さ0.60m)、②南主体(長さ5.20m・幅0.65m・高さ0.85m)である。北石室は5度北西に石室主軸を振り、西側に1mほど突出する。
石室は石英閃緑岩の板状の石をほぼ垂直に小口積みしている。床面は平坦で、盗掘のため棺は不明である。 副葬品として、盗掘のため副葬品の出土状況は不明確で、鉄鏃・三角板革綴短甲片・ガラス小玉・滑石製臼玉などが確認された。南石室で出土した遺物は、ガラス製丸玉のみであった。後円部墳頂から土師器約40個体(壺約8個体・高坏約30個体)が出土した。
指定
- 1973年(昭和48年) 長野県指定史跡
- 2007年(平成19年)2月6日、国の史跡指定(史跡「埴科古墳群」)
アクセス
- 名称:土口将軍塚古墳
- 所在地:長野県千曲市大字土口字北山、長野市松代町岩野字笹崎
- 交通:しなの鉄道線の屋代高校前駅 から徒歩約40分
参考文献
- 長野市教育委員会(1987)「土口将軍塚古墳」
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