稲荷森古墳 ― 2024年04月20日 08:58
稲荷森古墳(いなりもりこふん)は山形県南陽市にある前方後円墳である。 日本百名墳に選出された。
概要
米沢盆地北部の長岡山孤立丘陵(海抜220m)の南西端丘尾を切断して前方部を南々西に向けて築造された。山形県では最大規模の古墳であり、東北地方では第7位の規模である。後円部に比較し、前方部が短く、また低い特色を示すが、全体的には墳形が残る。均整のとれた典型的な前期古墳形式の墳形である。 後の埴輪の原型となる底部穿孔土器と呼ばれる古墳の祭祀用の特殊な土器が見つかった。 現在は史跡公園として整備されている。南陽市教育委員会(1989)によれば、「古墳築造は4世紀代には確実に朔る」とされている。
調査
昭和8年頃に新山三郎氏に注目されて以来,西村真次氏による報告および柏倉亮吉氏の2次にわたる調査、赤湯町史による前方後円墳説の提示を経て,1975年(昭和52年)山形県史編さん室•稲荷森古墳調査団等の測量調査により,ようやく大型前方後円墳として認識された。その後地形測量により再認識された。1977年(昭和52年)から1979年にかけて山形県が測量や発掘を行った。 稲荷森古墳後円部の墳丘裾部付近から最初の調査において土師器の高杯形土器が出土し、墳丘に葺石がみられる。後円部に比較し、前方部が短い。後円部に王の棺が埋められていると想定されている。埴輪はない。横穴式石室が広まる以前の古いタイプの古墳であり、掘った穴に木棺を直に埋めた木棺直葬という形式の古墳と見られる。「底部穿孔土師器壺形土器」が出土した。肩部に三段の粘土紐隆帯に縦の刻みを施した文様帯がめぐる。各粘土紐は,幅1. 1cm 前後で隆帯にはさまれた凹部は横方向のナデが認められ、平滑である。出土遺物の検討では古墳築造は4世紀代を確実に朔ると推定されている。墳形は後円部にくらべ前方部が短く、いわゆる銚子形前方後円墳となる。通常は古墳は左右対称であるが、稲荷森古墳はねじれているため、前方部右半分が築造後に削平されたか,あるいは当初から造営されなかったかのいずれかと考えられる。検討の結果,その部分は当初から築成されなかったものと判断された。 埴輪は今までに発見されておらず、なかったと考えられる。
規模
- 形状:前方後円墳
- 築成 前方部:1段、後円部:3段
- 墳長 96m
- 後円部 径62m 高9.6m
- 前方部 幅30m 長32m 高4.1m
周濠
明確に周濠と認定しうるものは発見されていない。なかったものと判断された。
遺構
掘った穴に木棺を直に埋める木棺直葬と考えられる。古墳の埋葬施設は国の指示で発掘されていない。隣の長岡山丘陵からは大王に仕えた人々、特に上位層の四周を溝で区画した方形周溝墓6、などが発見された。後円部地山層に竪穴式住居跡がみつかる。
遺物
後円部東北部墳麓から底部穿孔土師器壺(塩釜式並行、外表遺物か)。後円部封土層直下の地山層に塩釜式期竪穴式住居あり。
- 高杯形土器 - 表面にヘラミガキ、塩釜式で古形式の土師器、世紀前半から中頃と推定
- 底部穿孔土器 - 移入伝世品と見られる
- 鉄刀・
- 斧
土器
塩釜式並行の土師器高杯が出土した。 後円部築成前に破砕された土師器の脚部が検出された。陶器片や人骨等が検出されている。底部穿孔土器と呼ばれる古墳の祭祀用の特殊な土器が検出された。供え物を盛る高杯が発見された。
指定
- 1980年(昭和55年) - 国の史跡史跡名勝天然記念物
時期
- 古墳時代前期(4世紀)、4世紀後葉とみなすことが妥当である。
被葬者
- 置賜盆地を支配した王の墓、米沢盆地の当時の有力首長墓と見られる。
展示
- 山形県立うきたむ風土記の丘考古資料館
アクセス等
- 名称:稲荷森古墳
- 所在地: 山形県南陽市長岡稲荷森1175
- 交通: JR赤湯駅から車で5分/徒歩24分 1.8km
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 南陽市教育委員会(1989)『稲荷森古墳』南陽市埋蔵文化財調査報告書第4集
雷神山古墳 ― 2024年04月20日 08:18
雷神山古墳(らいじんやまこふん)は宮城県名取市に所在する東北最大の前方後円墳である。日本百名墳に選出されている。
概要
東端に築造された東北最大の前方後円墳である。標高40m前後の愛島丘陵(標高33m)の丘陵に築造された。墳丘の大部分は自然丘を削り、その土を盛土にした。周堤と周濠を含めた墓域は南北210m、東西140m。表面に葺石がある。3段築成で、葺石があり、壺形埴輪、底部穿孔土器が出土した。古墳時代前期において、東日本でも最大級の規模である。 古墳時代前期の土師器が出土することなどから前期古墳の要素が見られるため、4世紀末から5世紀初頭の築造と考えられる。古墳の名称は、古墳の頂部に雷神様を祀った祠があるため、それにちなんで名づけられた。 北側に直径54m・高さ6mの三段築成で周湟を有する小塚古墳(円墳)がある。
保存活用計画
宮城県の「名取市文化財保存活用地域計画」(2023年(令和5年)7月21日)では、「雷神山古墳と花開いた古墳文化」として整備計画が策定された。空間イメージを「名取のはじまり」「古墳文化の繁栄」とする。雷神山古墳や飯野坂古墳群などの最新成果を踏まえた調査・研究が必要と位置づけられた。雷神山古墳、飯野坂古墳群、旧中澤家住宅の保存・活用環境や利用価値向上のための将来的な整備に向け、個別保存活用計画の必要性が指摘された。雷神山古墳+飯野坂古墳群コースで、古墳ウォーキングが実施された。
調査
史跡指定後に昭和46~50年度に渡り指定地58,308㎡を公有化し、昭和51~52年度にかけ環境整備の基礎資料を得るため墳麓線及び周湟確認調査を行った・1976年(昭和51年)、1977年(昭和52年度)に雷神山古墳の調査から壷形埴輪、土師器の器台・底部穿孔壷形土器が出土している。墳丘上で底部穿孔壷形土器や器台を使用した祭事が行われていた。主体部は未調査である。埴輪は全て壺形埴輪である。 主体部分は、未調査である。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段、後円部:3段
- 墳長 168m
- 後円部 径径96m 高12m
- 前方部 幅96m 長72m 高6m
外表施設
- 形象埴輪 埴輪壺
- 葺石 あり
- 周堤 - 一部にあり。
遺物
- 壺形埴輪
- 底部穿孔壺形土器
- 小形器台 土師器
築造年代
- 4世紀末頃 (古墳時代)
被葬者
- 地方豪族の首長の墓、仙台平野を支配していた首長
指定
- 1956年(昭和31年)12月28日 - 国の史跡に指定される。
- 1968年(昭和43年)12月5日 - 追加指定
展示
- 名取市歴史民俗資料館
アクセス等
- 名称:雷神山古墳
- 所在地: 〒981-1226 宮城県名取市植松字山、愛島小豆島字片平山
- 交通:JR名取駅からバス、JR館腰駅から約1.5km/乗合バス「なとりん号」館腰名取駅線 「館腰学校前」停留所下車 徒歩約15分/JR東北本線館腰駅からタクシー5分
参考文献
- 名取市教育委員会(1977)『名取市文化財調査報告3:史跡雷神山古墳』名取市教育委員会
- 名取市教育委員会(1978)『史跡雷神山古墳 : 昭和52年度発掘調査概報』名取市文化財調査報告書第5集
角塚古墳 ― 2024年04月13日 00:12
角塚古墳(つのづかこふん)は岩手県奥州市にある 5世紀後半-6世紀初頭の前方後円墳である。2024年、日本100名墳に選出された。
概要
岩手県内では最大で最古の現存する古墳である。北上川の中流、北上盆地の南寄り、西から合流する胆沢川が形成した扇状地の標高75の地点にある。古墳は昭和10年代から地元研究者が埴輪の出土に注目していた。昭和20年代に学会に紹介され、日本最北端に位置する本格的な前方後円墳として注目された。 1940年代に後円部東南隅を畑地とするため削平された。1950年代前半に前方部に教員住宅が建築された(前方部の旧状は不明)。東方2キロに史跡胆沢城跡があり、
調査
周濠は後円部周辺が幅約10m、前方部で約3mと狭くなっている。全体が馬蹄形状である。 前方部には各種の埋葬施設は墳頂部の平面下に設けられたと推測されるが、破壊されているため手がかりはない。昭和49年、50年に、角塚古墳で初めての周湟調査により出土した埴輪は、円筒埴輪と形象埴輪であった。形象埴輪は動物、人物、家形埴輪等が残る。出土遺物の大半は埴輪破片である。形象埴輪は、全体形状はうかがえないが、わずかに首の部分、猪の鼻等が識別できる。鶏形埴輪と円筒埴輪は完形に近い。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段?、後円部:3段
- 墳長 46m
- 後円部 径径30.4m 高4.9m
- 前方部 幅20.4m 長14.1m
外表施設
- 円筒埴輪 円筒・朝顔形(?)Ⅴ式
- 葺石 あり
遺物
築造時期
- 出土埴輪等により6世紀前半の築造と推定される
被葬者
- 不明
伝説
伝説によれば、高山掃部長者の妻が大蛇に変身し、農民を苦しめていたところを小夜姫がお経の力で退治し、その大蛇の角を埋めたのがこの古墳とされる。本古墳に手を付けると祟りがあると伝えられるため、現在まで墳丘が維持された要因と見られる。
展示
- 胆沢郷土資料館
指定
- 1985年3月22日 - 史跡名勝天然記念物
アクセス等
- 名称 :角塚古墳
- 所在地 : 岩手県奥州市胆沢区南都田字塚田
- 交 通 :JR水沢駅から車で約15分/バス岩手県交通 胆沢水沢線北回り20分「角塚公園下車」。
参考文献
船山1号墳 ― 2024年04月07日 00:08
船山1号墳(ふなやまいちごうふん)は愛知県豊川市にある古墳時代中期の前方後円墳である。
概要
豊川市の西側を流れる西古瀬川と音羽川にはさまれた洪積台地の標高約26mの場所に船山1号はある。現在は墳丘の大部分が削平されている。船山1号墳は墳長 96mと東三河地方で最大規模の前方後円墳である。周辺では律令時代に国府・国分寺・国分尼寺が建立されており、古代から開けた場所であった。古代の三河国の国府跡にはは国庁の正殿と想定される石組雨落溝を伴う四面廂建物、後殿と考えられる東西棟の大型掘立柱建物が検出されている。現在も国府駅がある。
調査
1945年(昭和20年)の防空壕切削時に、鉄製品(鉄刀3点 、鉄鉾3点 、鉄鏃約 70点)が出土した。平成20年の調査では南側くびれ部に、平成27年4月から11月の調査では北側くびれ部からほぼ相似形の造り出し(南側8.3m×4.0m、北側8.5m×4.5m)がみつかった。 平成27年調査では、前方部と後円部の3段築成、葺石が確認されている。南側造り出しから食物供献儀礼に使われたと思われる小型高坏25点・土師器はそう2点・笊形土器3点・匙形土製品1点・異形注口土器1点・食物土製品2点が出土した。北側の造り出しから儀礼祭祀を行ったと考えられる円筒埴輪列に囲まれた家形・蓋形・盾形などの形象埴輪が出土した。
規模
- 形状 前方後円墳
- 墳長 96m
- 後円部 径径50m 高6.5m
- 前方部 幅56m 長44m 高6.5m
外表施設
- 円筒埴輪 円筒・朝顔形Ⅳ・Ⅴ式
- 葺石 あり 角礫使用
主体部
遺物
- 鉄鏃 - 広身 65・無茎広身 8
- 小型高坏身(TK10~TK43) - 須恵器
- 匙形土製品
- 異形注口土
築造時期
- 5世 紀後半築造
被葬者
- 5世紀後半の三河の支配者と想定
展示
- 三河天平の里資料館
指定
アクセス等
- 名称 :船山1号墳
- 所在地 : 愛知県豊橋市八幡町字上宿
- 交 通 :名鉄豊川線 国府駅 徒歩4分、220m。
参考文献
- 豊川市教育委員会(1989)「船山第1号墳発掘調査報告書」
雨の宮一号墳 ― 2024年04月04日 19:56
雨の宮一号墳(あめのみやいちごうふん)は石川県鹿西町にある前方後円墳である。
概要
能登半島の中央部を東西に横切る邑知地溝帯付近の眉丈山山中にあり、1号墳は、墳丘長64メートルの県内で最大規模の前方後方墳である。墳丘の主軸は東西方向で、前方部は東に向く。短い前方部で、墳長64mに対して、前方部高さは推定6.5mで、比較的に高さがある。埋葬施設は粘土槨で7.2m、幅2mの規模である。主軸は南北方向である。
調査
1990年代に墳丘表面の全面発掘が行われた。棺は長さ6.3m、幅2mの割竹形木棺である。副葬品は神獣鏡1面、車輪石4(緑色凝灰岩製、外径、内孔とも卵形である)、石釧15(最大直径11cm)、琴柱形石製品 1、管玉14個、方形板革綴短甲1領、銅鏃 52本、鉄鏃 約30本、直刀7本以上、剣3本以上、短剣7本以上、鉄斧2個、靫1点(漆が塗られる)、漆製品などであった。墳丘の裾部3箇所から壺、高坏などが出土しており、葬送儀礼での使用品とみられる。 仿製神獣鏡の鏡面に布が付着し、板状の木片が残ることから、木箱に納め布で包装していたとみられる。貴重品との認識があったようだ。
規模
- 形状 前方後方墳
- 築成 前方部:2段、後方部:2段
- 墳長 64m
- 後円部 径45×36m 高6.5m
- 前方部 幅推定35m 長推定28m 高推定6.5m
外表施設
- 葺石 あり -安山岩・花崗岩の割石角礫
遺構
- 主体部
- 室・槨 粘土槨
- 棺 木棺直葬
遺物
- 仿製鏡 神獣鏡1
- 車輪石4・
- 石釧15
- 管玉14
- 琴柱形石製品 1
- 鉄剣 短剣7
- 鉄刀 大刀7
- 鉄鏃 約30
- 銅鏃 52
- 革綴短甲 方形板1
- 靫1
- 斧2
- 漆製品(盾?)1
- 赤色顔料
時期
- 古墳時代前期後半(4世紀中頃~後半)
被葬者
- 能登一円を支配した人物と想定
指定
- 1982年(昭和57年)10月12日 史跡指定
- :2008年7月10日 - 重要文化財
アクセス
- 名 称:雨の宮一号墳
- 所在地: 〒929-1602 石川県鹿島郡中能登町能登部上7
- 交 通:西日本旅客鉄道 能登部駅 から徒歩56分 3.6km
参考文献
- 文化庁編(1997)「発掘された日本列島'97」朝日新聞社
安萬宮山古墳 ― 2024年03月24日 01:22
安萬宮山古墳(あまみややまこふん)は大阪府高槻市にある一辺約20mの長方形墳である。
概要
安満山の中腹にあり、安満宮山古墳は三島で最古の古墳である。3世紀後半の邪馬台国時代に築造されたと考えられている。三島平野の安満山山塊には、40基にのぼる古墳が群在し、安満山古墳群と言われる。標高は約125mである。尾根先端の地形を利用して作られた。埴輪、葺石はなかった。長方形で南北方向21m、東西方向20m以下と見られる。
調査
墓抗は東西7.5m、南北3.5m、底に排水口を巡らせ、中央に深さ1.2mの木棺埋納抗を造り、割竹型木棺を直葬する。棺はほぼ朽廃していたが、直径0.8m、長さ5mのコウヤマキ製とみられる。遺体は東枕に葬られ、頭のすぐ近くから、銅鏡5面と、ガラス小玉1000個以上がみつかった。足下には刀、斧、ヤリガンナ、鑿、刀子、鎌など鉄製の武器や農具が置かれる。古墳祭祀の定型化以前の手法と見られ、3世紀後半の築造とみられる。
銅鏡
銅鏡は白銅色に輝き、鏡を包んだ麻布も残る。5面の銅鏡の内、二神三獣鏡は後漢末期、残る4面は義の時代。方格規矩四神鏡は235年製作と確定できる。同向式神獣鏡や三角縁環状乳四神四獣鏡は240年頃の作品とみられる。これらは240年、卑弥呼から魏に届けられた銅鏡100面のうちの一部である可能性が高い。
遺構
- 墓 坑
- 木棺
- 排本溝
遺物
- 1号鏡 - 三角縁「吾作」環状乳四神四獣鏡 直径21.8cm
- 2号鏡 「青龍三年」方格規矩四神鏡 直径17.4cm
- 3号鏡(三角縁「天・王・日・月・吉」獣文帯四神四獣鏡 直径22.5cm
- 4号鏡(斜縁「吾作」二神三獣鏡 直径15.8cm
- 5号鏡(平縁「陳是作」同向式神獣鏡 直径 17.6cm
- ガラス玉
- 直刀1点、
- 斧2
- 刀子 2
- 釶 2
- 鏨・ - 1
- 鎌 - 1点
- 布
- 棺材及び横板財
- 須恵器
- 尖頭器
考察
指定
- 2000年6月27日 - 国指定重要文化財
- 史跡指定は無い
展示
- 高槻市立今城塚古代歴史館
アクセス
- 名 称:安満宮山古墳
- 所在地:〒569-1101 大阪府高槻市安満御所の町 公園墓地内
- 交 通:JR高槻駅から(〈上成合〉〈川久保〉行き)磐手橋バス停下車徒歩25分(坂道)
参考文献
- 文化庁(1998)「発掘された日本列島 '98」朝日新聞社
- 高槻市教育委員会(2000)『安満宮山古墳』高槻市文化財調査報告書第21冊
中半入遺跡 ― 2024年03月10日 00:39
中半入遺跡(なかはんにゅういせき)は岩手県奥州市にある古墳時代の遺跡である。
概要
岩手県水沢市北西部の胆沢川沿いの段丘上に立地する。 古墳時代の遺構は約500m四方に分布していた、竪穴建物は約50棟が確認されている。住居跡は微高地に集中する。4世紀後半から6世紀前半まで続いたとみられる。出土遺物には土師器、須恵器、続縄文土器、黒曜石製石器、砥石、方割石、石製模造品、玉類、羽口などである。黒曜石製石器は小型スクレイパー、石核、剥片など1200点がみつかっている。使用する原石は宮城県湯倉産原石が90%である。琥珀は玉に加工したものは少なく、大部分は原石であった。石製品は双孔円板、勾玉、管玉、紡錘車などである。 5世紀後半から末の中半入遺跡出土の3体分の馬骨と歯牙が東北で最古の馬の出土である。御崎馬と同程度の小型馬(体高100~120cmのポニー)である。古墳時代には角塚古墳を築いた。*調査 第二次調査は平成14年4月7日から平成14年12月3日に行われた。黒曜石はエネルギー分散型蛍光X分析により、湯ノ倉産原石が使用されているとされた。ただし確率は19%である。放射性炭素年代測定では、1290±40Cal BPとされた。暦年代では西暦700年である。
考察
中半入遺跡からは、大阪府陶邑産の須恵器、宮城県産の黒曜石、久慈の琥珀やガラス製の玉類、馬の歯など、遠方との交易を示す品が大量に出土する。前方後円墳は大和朝廷の影響が見られる。古墳文化の最北端であると同時に、続縄文文化の最南端という両方の文化が交錯する場所とされる。竪穴住居跡から大量に出土した須恵器は、胎土分析により大阪府堺市の陶邑小窯跡群で焼かれたものであることが判明している。つまり相当に広域に渡る人々の交流があった。にもかかわらず、続日本紀では「山海二道(山道・海道)の果て賊奴の奥区」と書かれており、律令国家の外側に位置づけられていた。武力須支配と物流は別ものということであろうか。
遺構
- 土坑15
- 竪穴建物41
- 竪穴4
- 方形区画1
- 周溝2(円形)
遺物
- 土師器
- 須恵器
- 石器
- 続縄文土器
- 石製模造品
- コハク
- 黒曜石
指定
展示
アクセス
- 名称:中半入遺跡
- 所在地:〒023-0003 岩手県奥州市水沢佐倉河中半入39
- 交 通:
参考文献
- 岩手県水沢地方振興局(2004)『中半入遺跡』岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第443号
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