真田・北金目遺跡群 ― 2026年03月14日 00:45
真田・北金目遺跡群(さなだかなめいせきぐん)は神奈川県平塚市北金目地区の北金目台地上に所在する、縄文時代から近世に至る複合遺跡群である。弥生時代中期から後期にかけて形成された環濠集落を中心とする大規模集落遺跡として知られ、相模川流域西部における弥生社会の実態を示す重要な考古学資料となっている。
概要
遺跡群は9つの遺跡から構成され、総面積は約24.5ヘクタール(約245,270㎡)に及ぶ。発掘調査では竪穴住居跡、溝、土坑、井戸跡など10,644基の遺構が確認され、縄文時代から中世に至る長期的な土地利用の痕跡が明らかになった。
立地
遺跡群は平塚市北西部、JR平塚駅から約7kmの北金目台地上に位置する。 北金目台地は秦野方面から東に張り出す舌状台地で、北側を大根川、南側を金目川に挟まれている。これらの河川は相模川水系に属し、古代以来の交通路および農耕基盤として重要な役割を果たしてきた。
台地上は洪水の影響を受けにくく、水利にも恵まれることから、縄文時代以降継続的に人々が生活した場所であったと考えられている。
調査史
真田・北金目遺跡群は、北金目特定土地区画整理事業に伴い、1995年(平成7年)から2013年(平成25年)にかけて大規模な発掘調査が実施された。調査は複数の地点で段階的に行われ、王子ノ台遺跡、砂田台遺跡、南原B遺跡、大久保遺跡など複数の遺跡が一体的に把握されることとなった。
その結果、縄文時代から近世に至る集落跡や生産関連遺構が確認され、特に弥生時代の環濠集落の存在が明らかとなった。
縄文時代
縄文時代の遺構としては竪穴住居跡や土坑などが確認されている。出土遺物には縄文土器や石器があり、台地上に小規模な集落が形成されていたことがうかがえる。
縄文時代の遺構数は弥生時代に比べて少ないが、北金目台地が早い段階から生活の場として利用されていたことを示している。
弥生時代
弥生時代になると金目川流域に集落が形成されるようになり、真田・北金目遺跡群は地域の主要な拠点集落の一つとなる。
弥生時代中期中頃には、王子ノ台遺跡で9軒の竪穴住居が確認されている。また、近接する秦野市砂田台遺跡でも3軒の竪穴住居が確認され、金目川流域に弥生集落が広がっていたことが明らかとなっている。
弥生時代後期には久ヶ原式土器が出土しており、南関東の弥生文化圏との密接な関係が示されている。
弥生時代の環濠集落
真田・北金目遺跡群の特徴として、弥生時代中期から後期にかけて形成された環濠集落が挙げられる。
特に砂田台遺跡では、92軒の竪穴住居跡と新旧2条の環濠が確認されており、神奈川県西部でも最大級の弥生集落とされる。
環濠は弥生時代中期後葉、後期前半、後期後半の三段階に分けて整備されたと考えられている。溝の幅は最大約2m、深さは約1.6mに達し、断面形状はV字形や逆台形を呈する。
従来、環濠は外敵からの防御施設と考えられてきたが、真田・北金目遺跡群では、墓域や居住域の区画に加えて、生産域との境界を示す機能を持っていた可能性が指摘されている。また排水施設としての役割や、野生動物の侵入を防ぐための施設としての実用的側面も想定されている。
弥生時代後期?古墳時代前期
遺跡群では3-4世紀(弥生時代後期末から古墳時代前期)にかけての竪穴住居跡が特に多く、この時期に集落が拡大したことが確認されている。 このことは、弥生社会から古墳時代社会へと移行する過程において、金目川流域が重要な居住地域であったことを示している。
古代の真田・北金目遺跡群
大久保遺跡(北金目遺跡群18A区)3号竪穴住居跡からは、土師器、須恵器、灰釉陶器、石製品、鉄製品などが出土している。また銭貨として「長年大宝」が確認されており、この住居跡は9世紀後半から10世紀前半頃のものと考えられている。
これらの資料は、古代相模国における農村集落の存在を示すものとして重要である。
研究上の意義
真田・北金目遺跡群は、金目川流域における弥生時代集落の発展過程を示す大規模遺跡群であり、以下の点で重要な考古学資料となっている。
- 南関東における弥生時代環濠集落の構造
- 弥生時代中期から後期にかけての集落拡大過程
- 弥生社会から古墳時代社会への移行
- 古代相模国における農村集落の実態
これらの成果により、真田・北金目遺跡群は相模川流域西部における弥生社会の中心的集落の一つとして位置づけられている。 金目川流域弥生社会の形成
―相模川水系西部における弥生集落の成立と展開―
1 研究の背景
神奈川県中西部を流れる金目川は、丹沢山地南麓に源を発し、秦野盆地を経て平塚平野で相模湾へ注ぐ河川である。金目川流域は相模川水系西部に位置し、弥生時代には内陸盆地と海岸平野を結ぶ交通路として重要な地域であった。
近年の発掘調査、とくに北金目台地一帯で実施された真田・北金目遺跡群の調査により、金目川流域における弥生時代集落の形成過程が具体的に明らかになってきた。これらの成果から、金目川流域は弥生時代中期以降、相模川流域西部の重要な農耕社会の拠点地域として発展したことが理解される。
2 弥生時代前期:定住化以前の段階
金目川流域では、弥生時代前期の遺構は比較的少なく、縄文時代後期・晩期の集落が散在する状況から弥生文化が徐々に浸透したと考えられている。
この段階では本格的な水田農耕の痕跡は少なく、台地縁辺部での小規模な居住活動が主体であったとみられる。弥生文化は、相模湾岸地域や相模川下流域を経由して徐々に内陸へ広がった可能性が高い。
3 弥生時代中期:集落の成立
弥生時代中期になると、金目川流域に本格的な農耕集落が形成される。 この段階の代表的な遺跡として
- 真田・北金目遺跡群(平塚市)
- 砂田台遺跡(秦野市)
- 王子ノ台遺跡(平塚市)
などが挙げられる。
これらの遺跡では竪穴住居跡が確認され、台地上に一定規模の定住集落が成立していたことが明らかとなっている。集落は洪水の影響を受けにくい台地上に立地し、周辺の低地を農耕地として利用していたと考えられる。
この時期は金目川流域における弥生社会の形成期にあたり、農耕社会の基盤が整えられた段階と位置づけられる。
4 弥生時代後期:大規模集落の出現
弥生時代後期になると、金目川流域では集落規模の拡大が顕著となる。 特に真田・北金目遺跡群の砂田台遺跡では
- 約90軒以上の竪穴住居
- 二重の環濠
- 多数の溝・土坑
が確認されており、神奈川県西部でも最大級の弥生集落の一つとされる。
環濠は集落を取り囲む溝状施設であり、防御機能のほかに
- 排水機能
- 集落区画
- 土地利用区分
などの役割を持っていた可能性が指摘されている。
このような環濠集落の出現は、弥生社会における人口増加や社会組織の発達を反映したものと考えられる。
5 南関東地域との文化交流
金目川流域の弥生遺跡からは、南関東に広く分布する久ヶ原式土器が出土している。久ヶ原式土器は弥生時代後期の代表的土器様式であり、東京湾岸地域を中心に広く分布する。
このことは、金目川流域が
- 相模湾岸地域
- 多摩川流域
- 武蔵野台地
などと文化的交流を持っていたことを示している。
また、相模川流域は内陸の甲斐・信濃方面へ通じる交通路でもあり、金目川流域は広域的な交流ネットワークの一端を担っていた可能性が高い。
6 古墳時代への移行
弥生時代後期末から古墳時代前期(3〜4世紀)にかけて、金目川流域では依然として集落活動が継続していたことが確認されている。真田・北金目遺跡群ではこの時期の竪穴住居跡が多く検出されており、弥生社会の集落がそのまま古墳時代社会へ移行したことがうかがえる。
やがて古墳時代になると、相模川流域各地に古墳が築造されるようになり、地域社会は首長層を中心とする政治的秩序へと再編されていったと考えられる。
7 まとめ
金目川流域における弥生社会の形成は、次のような過程で進行したと考えられる。
- 弥生時代前期:弥生文化の浸透段階
- 弥生時代中期:農耕集落の成立
- 弥生時代後期:環濠を伴う大規模集落の発展
- 弥生後期末〜古墳時代前期:集落の継続と社会変化
これらの動向は、相模川水系西部における農耕社会の発展を示すものであり、金目川流域は南関東弥生社会の地域拠点の一つであったと評価される。
真田・北金目遺跡群の調査成果は、こうした弥生社会の形成過程を具体的に示す重要な考古学資料となっている。
遺構
- 竪穴建物42
- 土坑3
- 遺物集中1
アクセス等
- 名称:真田・北金目遺跡群
- 所在地:神奈川県平塚市真田・北金目地内
- 交通:
参考文献
- 平塚市真田・北金目遺跡調査会編(1999)『平塚市真田・北金目遺跡群発掘調査報告書』
- 玉川文化財研究所編(2009)「真田・北金目遺跡群大久保遺跡第3地点発掘調査報告書」
- 平塚市博物館(2013)「真田・北金目遺跡群 : 平成25年度夏期特別展平塚市文化財展」
- 白川美冬(2025)「真田・北金目遺跡群の環濠」北金目からみつめる地域社会,pp.137-142
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