影向寺遺跡 ― 2024年05月22日 00:12

影向寺遺跡(ようごうじいせき)は神奈川県川崎市高津区にある古代橘樹郡の役所跡である橘樹郡家跡の西隣に創建された古代寺院の遺跡である。
概要
昭和52年度から5ヶ年間計画による影向寺総合調査の発掘調査によって寺院が創建される以前に建てられていた橘樹郡の有力者が関与している可能性の高い、掘立柱建物跡や塔の基壇、中世の土塁などの遺構が確認された。古代影向寺の主要伽藍と考えられる建物については、現薬師堂基壇下で検出した基壇建物Aとその南東側約50m付近にある基壇建物Bの2棟が確認されている。古代の役所の郡家には隣接して寺院が建てられる例が多いことから、橘樹郡衙と古代影向寺は密接な関連があったと考えられる。
創建年代
1710年(宝永7年)成立の『影向寺縁起』は当寺の創建について、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝える。ところが境内から出土した軒丸瓦の様式等により、創建は7世紀末に遡るといわれてきた。しかし、昭和52年~56年度に実施された川崎市高津区影向寺文化財総合調査の発掘調査で、影向寺薬師堂西側に設定したトレンチ内から平瓦(女瓦)が発見された。サイズは長さ約31.4cm、幅約23.8cm、厚さ約2.1cmであるが、焼成は不良で、全体的に脆弱であり、全体の約3分の1は欠損している。瓦凸面のほぼ中央部に「无射志国荏原評」の文字が判読できる。文字は、焼成前に箆(へら)ないし箆のような工具類で刻まれたと推定される。文字の字体は、軽快で端正な筆致で書かれる。7世紀第3四半期と想定される千葉県印旛郡栄町の龍角寺五斗蒔瓦窯跡出土の文字瓦と比較しても、本文字瓦に刻まれた文字は洗練されている。「无射志」の表記は、『古事記』(上巻)に「无射志国造」、『万葉集』(3376、3379)に「无射志野」という類似表記があり、いずれも「むざし」と読まれる。「无射志」は、後に一般的に「武蔵」の2字で表記される。ある。「荏原評」の「荏原」は、旧武蔵国南東部の地名で律令制下の荏原郡にあたり、現在の東京都品川区・大田区・目黒区・世田谷区の範囲である。したがって、「无射志国荏原評」の銘文は、「むざしのくにのえばらこおり」と読める。。「評」は、7世紀半ば頃に施行された地方行政組織名であり、大宝元年(701)に施行された大宝令以前の遺跡から出土する木簡等にも見られる。大宝令以後は「郡」に改められた。「評」と「郡」は、どちらも「こおり」と読む。「国」と「評」が同時に記載されていることから、683年から701年の間瓦が製作されたと見られる。 本文字瓦の「荏原評」の銘文により、寺院建立は7世紀後半であることが確実である。
遺構
- 硬化範囲1
- 竪穴建物4
- 掘立柱建物1
- 溝1
遺物
- 土師器
- 須恵器
指定
- 平成27年3月10日 国指定史跡
展示
アクセス
- 名 称:影向寺遺跡
- 所在地:神奈川県川崎市宮前区野川419
- 交 通:東急東横線武蔵小杉駅より、東急バス道中坂下行き、鷲沼行き、野川台公園行き、ないし川崎市営バス鷲沼行きに乗車、バス停「影向寺」にて下車、徒歩5分
参考文献
- 川崎市教育委員会(2024)「国史跡橘樹官衙遺跡群 橘樹歴史公園」川崎市遺跡リーフレット①
- 三輪修三(2006)『古刹 影向寺』影向寺
最近のコメント