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音羽古墳群2026年02月26日 00:34

音羽古墳群(おとわこふんぐん)は、福井県高島町音羽石穴に所在する古墳時代後期の群集墳である。小田川流域の丘陵斜面に立地し、河川交通と内陸交通を結ぶ結節点を望む位置に築造されている。

概要

本古墳群は小田川を挟んで形成された複数支群のうち、南側に展開する「石穴支群」に属する。丘陵斜面の等高線に沿って段状に分布する点は、後期群集墳に典型的な立地形態を示している。

墳丘構成と規模

石穴支群には約50基が確認されており、その大半は円墳である。墳丘規模は直径10?15メートル前後の小規模なものが中心で、6世紀後半から7世紀初頭にかけての築造と推定される。

前方後円墳のような首長級墳墓は確認されておらず、地域の有力家族層を単位とする墓域が継続的に形成された可能性が高い。群集墳化の進展は、古墳時代後期における地方社会の階層分化のあり方を示す重要な資料である。

横穴式石室の構造

1983年(昭和58年)の発掘調査では石穴支群の6基が調査された。

10号墳

横穴式石室を主体部とし、玄室奥壁に「棺台(石製の台状施設)」を据える構造をもつ。棺台を明確に設ける例は、被葬者の身分や葬送儀礼の整備を示す要素である。

14号墳

玄室奥壁付近から銀象嵌を施した大刀の鍔が出土した。銀象嵌技法は畿内や北陸の有力層墓にもみられる高度な金属加工技術であり、本古墳群の被葬者が一定の武装的性格を帯びていたことを示唆する。

石室は自然石を用いた横穴式で、6世紀後半以降の北陸地方に広く見られる技術系統に属すると考えられる。

出土遺物と被葬者像

出土遺物には鉄製武器類、装身具類などが含まれ、特に銀象嵌鍔の存在は注目される。 これは単なる農耕民層ではなく、軍事的役割を担った地方豪族層、あるいはその配下の武人的階層の存在を示唆する。

群集墳の中に装飾性の高い武器を副葬する墳墓が存在することは、後期古墳社会における内部階層の分化を具体的に示す事例といえる。

地域史的意義

音羽古墳群は、

  • 北陸地方における後期群集墳の展開
  • 横穴式石室の受容と普及
  • 地方有力層の武装化傾向
  • 7世紀初頭にかけての社会再編

を考える上で重要な資料である。

特に銀象嵌鍔の出土は、畿内政権との文化的・政治的接触をうかがわせる点で評価される。

研究史的整理(補足小節案)

1983年の発掘調査以降、本古墳群は北陸地方の後期群集墳研究の一事例として位置づけられてきた。 研究上の論点は主に以下の三点である。

  • 石室構造の地域系譜
  • 銀象嵌鍔の流通圏と製作系統
  • 群集墳内部における階層差の実態

今後は副葬品の編年再検討や、周辺古墳群との比較研究が課題となる。

北陸地方後期群集墳の展開

1.前期首長墓から群集墳へ

北陸地方(越前・加賀・能登・越中)では、古墳時代前期から中期にかけて首長層による前方後円墳が築造された。しかし6世紀後半に入ると、大規模前方後円墳の築造は終息し、丘陵斜面や河川流域の段丘上に小規模円墳を多数築く群集墳が急増する。

これは畿内における古墳築造の変質と歩調を合わせる現象であり、北陸でも首長墓中心の構造から、地域有力家族層単位の墓域形成へと転換したことを示す。

2.横穴式石室の普及

後期群集墳の最大の特徴は横穴式石室の普及である。 北陸地方では自然石を用いた横穴式石室が主流となり、玄室と羨道を備える構造が一般化する。

技術系統としては、

  • 畿内系の影響を受けた整形石積み型
  • 地域在来技術を活かした自然石乱石積み型

の併存が確認される。石室構造の多様性は、中央政権との接触と在地技術の融合を物語る。

3.群集墳の立地と社会構造

群集墳は、

  • 河川交通を望む丘陵斜面
  • 小規模平野を囲む台地縁辺
  • 既存首長墓の周辺

などに分布する。

これは、後期社会において血縁的・地縁的集団単位で墓域が形成されたことを示唆する。 一方で、群集内には副葬品の質量差が存在し、武器・装身具を多く伴う墳墓もある。したがって「平等化」ではなく、小規模化した中での階層差の内在化と理解される。

4.副葬品の変化

北陸地方後期群集墳では、

  • 鉄製大刀
  • 鉄鏃
  • 馬具
  • 装身具(耳環など)
  • 銀象嵌鍔 が中心となる。

とくに銀象嵌や金銅装の武器・馬具は、6世紀後半~7世紀初頭にかけての武装化傾向を示す。これは中央政権の軍事再編と連動した現象と考えられる。

5.終末期への移行

7世紀前半になると、

  • 石室規模の縮小
  • 副葬品の簡素化
  • 古墳築造そのものの減少

が進む。これは律令国家形成過程における葬制の変容と関係し、北陸地方でも古墳時代から歴史時代への移行が確認される。

総括

北陸地方の後期群集墳は、

  • 首長墓体制の解体
  • 横穴式石室の普及
  • 地域有力家族層単位の墓域形成
  • 武装的性格の強化
  • 律令国家形成への移行

という一連の社会変動を反映している。

音羽古墳群のような事例は、こうした北陸全体の動向の中に位置づけることで、その歴史的意義がより明確になる。

指定

遺物

  • 鉄製大刀
  • 銀象嵌鍔
  • 鉄鏃
  • 須恵器
  • 馬具
  • 装身具(耳環など)

被葬者

  • 地域の有力家族層

築造時期

  • 古墳時代後期  6世紀後半~7世紀初頭

展示

アクセス等

  • 名称:音羽古墳群
  • 所在地:滋賀県高島市勝野(旧高島町音羽)
  • 交通:JR湖西線 近江高島駅からバスで約4分

参考文献

殿塚古墳(千葉県)2026年02月24日 00:09

殿塚古墳(千葉県)(とのづかこふん)は千葉県横芝光町に所在する前方後円墳である。

概要

殿塚古墳は木戸川左岸の台地上に立地し、墳丘は全長約88~89m、後円部径58m・高さ8.6m、前方部幅55m・高さ7.7mの2段築成である。墳丘部に埴輪が樹立する。後円部墳頂に円筒埴輪列が1周しており、中段または下段にあったとみられる埴輪が堀に落下していた。1958年(昭和33年)6月28日に国指定史跡となった。 出土品は芝山町立芝山古墳・はにわ博物館と芝山ミューゼアム 芝山仁王尊で展示されている。殿塚古墳・姫塚古墳から出土した形象埴輪48点は2024年(令和6年)8月27日に国の重要文化財に指定された。これは殿塚・姫塚両古墳出土品を一括評価し、東国首長墓の埴輪群としてのまとまりを示し、保存状態の良好さが評価されたものである。

調査

1956年(昭和31年)に発掘調査が行われた。玄室中央に主軸に直交するように仕切石が横に置かれている。前半部分の床には石敷きが施され、赤色顔料が壁に塗られている。副葬品から古墳は7世紀代前半の築造と推察される。

出土品

発掘調査では円筒埴輪や朝顔形埴輪・人物埴輪、動物埴輪(馬・猪・犬・牛・鳥など)が多数出土した。石室から玉類や耳環、頭椎大刀、直刀、鉄鏃、大玉・中玉・小玉などの玉類、金銅製耳環、金銅製鈴などが出土した。後円部寄りからは多数の男女の人物埴輪が出土した。北側周堀の前方部からは馬型埴輪、犬形埴輪、牛形埴輪、牡鹿埴輪、猪形埴輪、鴨形埴輪、水鳥形埴輪が出土し、くびれ部寄りから靭形埴輪、鐙形埴輪、家形埴輪などの器財埴輪が出土した。

石室

横穴式石室は羨道部が不明であるが、玄室は残っていた。石室の開口位置は後円部中段南側に開口する。形式は両袖式・玄門付構造である。規模は現存全長3.4m、玄室長2.74m、幅2.5mを測る。玄室の石材には、主に緑泥石片岩などの結晶片岩が使用されている。積み方は砂岩切石瓦目積み、切組積である。室内部からは、この結晶片岩を用いた組合せ式箱式石棺の部材(底石、側石の一部)が残存・確認される。主体部(竪穴式石室)内部には大量の朱(水銀朱)が塗られていた。 内部構造に仕切石があり、床は石敷きである。この地域の6世紀後半の石室としては規模が大きく、豪族の勢力の大きさを反映している。

長方形型周溝

周囲を長方形の二重周溝がめぐる。長方形型周溝は千葉県では船塚原古墳(下総町)、人形塚古墳などで確認されている、先行する埼玉県の古墳の影響が指摘されている。

  • 方形区画性を強調する設計思想
  • 武蔵・下総地域との政治的関係の可能性
  • 7世紀代の東国前方後円墳の終末的様相

姫塚古墳との双墓的関係

姫塚古墳との双墓的関係が最大の特徴であ。姫塚古墳と殿塚古墳はほぼ同規模であり、 形象埴輪の豊富さが共通する。被葬者の関係には、首長夫妻説・世代継承説などがある。 同一政治勢力により築造された可能性がある。

東国後期前方後円墳としての位置づけ

7世紀前半という築造時期が重要であり、前方後円墳終末期の東国での展開となる。横穴式石室に金銅製品が副葬されることは、中央政権との結びつきを示唆する。畿内的要素を受容していたとみられる。

動物埴輪の象徴性

動物埴輪の多様性とリアルな動物表現は、注目されている。 殿塚古墳および隣接する姫塚古墳から出土した動物埴輪群は、東国後期前方後円墳における象徴体系を考える上で重要な資料である。馬・犬・牛・猪・牡鹿・鴨・水鳥など多種にわたり、その構成は単なる写実的表現を超えて、首長権威や死生観を可視化する装置として理解される。

1.馬形埴輪 ― 軍事力と首長権威

馬は古墳時代中期以降、支配層の象徴的動物となる。特に7世紀前半段階では、騎馬戦術の導入とともに、馬は軍事的機動力・交通支配・外交的威信を示す記号的存在となった。 殿塚古墳で馬形埴輪が前方部周堀から出土していることは、前方部=儀礼空間において首長の武威を演出した可能性を示唆する。

2.犬・猪・鹿 ― 狩猟儀礼と境界性

犬・猪・牡鹿は狩猟と密接に関わる動物である。狩猟は単なる生業ではなく、支配者層の威信行為・通過儀礼・軍事訓練の性格を帯びていた。 とりわけ鹿は再生・季節循環の象徴とされることがあり、墓域に配置されることで死者の再生観念と結びついた可能性がある。犬は狩猟補助動物であると同時に、境界を守護する存在としても理解できる。

3.牛形埴輪 ― 生産と富の象徴

牛は農耕・運搬に関与する動物であり、地域経済基盤を象徴する存在とみなせる。7世紀段階の東国では畿内的文化要素の浸透が進むが、牛形埴輪は農耕社会の成熟と首長層の富の誇示を反映する可能性がある。

4.水鳥・鴨 ― 霊魂の媒介者

水鳥形埴輪は古墳時代を通じてしばしば出土するが、水辺に生息し、水上と陸上を往還する生態から、此岸と彼岸を結ぶ存在と解釈されてきた。 殿塚古墳が木戸川流域に立地する点を考慮すれば、水鳥は地域景観と結びついた象徴であると同時に、死者の霊魂を導く存在として墓域に配置された可能性がある。

5.器財埴輪との関係

動物埴輪は、靭形・鐙形・家形などの器財埴輪と組み合わさって出土している。この構成は、

  • 馬(軍事)
  • 器財(武装・居館)
  • 家形(首長の拠点)

といった社会的世界の縮図を墓域に再現したものである。

6.東国後期前方後円墳における位置づけ

殿塚古墳の築造は7世紀前半と推定され、前方後円墳終末期にあたる。この段階でこれほど多様な動物埴輪が整然と配置される例は、東国でも特筆される。 それは単なる伝統の継承ではなく、中央政権との関係を示す副葬品は首長層の自己表象であり、姫塚古墳とあわせて地域政治勢力の象徴空間を構成していたと考えられる。姫塚古墳とともに、7世紀前半の上総・下総地域の政治的動向を考える上で重要な基礎資料となっている。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 墳長 88m
  • 後円部径 径58m 高8.6m
  • 前方部 幅55m 長38m 高7.7m

外表施設

  • 円筒埴輪 円筒・朝顔形Ⅴ式

主体部

  • 室・槨 横穴式石室

遺物

  • 金銅耳環6
  • 【装身具】
    • 金銅製耳環3
  • 【玉類】
    • 大玉4・
    • 中玉5・
    • 小玉10
    • 大型勾玉1・
    • 琥珀玉5
  • 【武器】
  • 頭椎大刀1・
    • 直刀5
    • 鉄鏃 数10本
  • 【農工具等】
    • 刀子1
    • 銅鋺3・
    • 金銅製鈴8

築造時期

  • 古墳時代(6世紀)

被葬者

展示

  • 芝山ミューゼアム 芝山仁王尊
  • 芝山町立芝山古墳・はにわ博物館

指定

  • 1958年(昭和33年)6月28日 国指定史跡
  • 2024年8月27日(令和6年8月27日)日 国指定重要文化財

アクセス等 

  • 名称  :殿塚古墳
  • 所在地 : 千葉県山武郡横芝光町中台1472-1
  • 交 通 :芝山鉄道「芝山千代田駅」または、JR総武本線「松尾駅」から芝山ふれあいバスにて「芝山仁王尊」下車、徒歩10分

参考文献

  1. 滝口宏(1956)「千葉県芝山古墳調査速報」『古代』19・20合併号
  2. 玉口時雄(1961)「千葉県山武郡芝山古墳群」日本考古学年報9
  3. 栗田則久・木島桂子(2005)「古代の上総北東部」『千葉県文化財センター研究紀要』

動物埴輪2026年02月18日 00:05

動物埴輪(どうぶつはにわ)は、古墳時代に製作された形象埴輪のうち、動物の姿をかたどったものを指す。円筒埴輪の展開のなかから生まれた造形表現であり、5世紀後半から6世紀にかけて各地の古墳に配置された。

■ 儀礼的性格をもつ鳥形埴輪

鶏や水鳥は比較的早期に出現する動物埴輪である。鶏は4世紀後半頃には見られ、5世紀にはさらなる広がりを示す。朝を告げる鳥として特別視された可能性が指摘されており、首長墓において祭祀的意味を担ったと解釈する説がある。水鳥についても、水辺や他界観念と結びつける見解が提示されているが、その具体的意義については研究が続いている。

■ 馬形埴輪と首長権威

馬は5世紀以降急増する。馬具を伴う例も多く、軍事力や支配者層の威信を象徴する存在であったと考えられる。とくに装飾的な「飾り馬」は儀礼的性格が強い。一方、6世紀に入ると実用的側面が強調される表現もみられ、社会の変化を反映している可能性がある。

■ 狩猟・生業を示す動物

犬・猪・鹿などは狩猟活動と関連づけられる。猟犬を伴う場面表現も確認され、単体表現から場面構成へと造形が発展している点が注目される。魚形埴輪はきわめて少数例で、河川環境との関係が想定される。

■ 稀少例

牛形・猿形・熊形などは例が限られ、地域的特色や特定の象徴的意味をもつ可能性があるが、現段階では断定はできない。

■ 主な出土例(代表例)

  • 大阪府堺市・大山古墳出土 馬形埴輪(5世紀)
  • 群馬県赤堀茶臼山古墳出土 鶏形埴輪(5世紀)
  • 伝茨城県行方市大日塚古墳出土 猿形埴輪(重要文化財)
  • 千葉県東深井古墳群出土 魚形埴輪
  • 奈良県羽子田1号墳出土 牛形埴輪(重要文化財)
  • (詳細寸法・所蔵情報は各収蔵機関資料参照)

■研究史的補足

動物埴輪は「死者を守護する存在」とする説がある。

  • 「古墳を王宮に見立てた儀礼空間構成説」

関東に動物埴輪の種類が多い理由は、大型前方後円墳の集中、埴輪工人集団の存在が言われている・

地域差:関東型動物埴輪の特色

古墳時代中期以降、畿内を中心に展開した動物埴輪は全国に広がるが、関東地方では種類の多様性と造形の具体性がとくに顕著である。以下に、研究上指摘される主な特色を整理する。

1.種類の多様性(全国的にも最多水準)

関東では、馬・犬・猪・鹿・鶏・水鳥のほか、魚・猿・熊など稀少種も確認される。たとえば、

  • 赤堀茶臼山古墳 出土の鶏形埴輪
  • 東深井古墳群 出土の魚形埴輪
  • 伝 大日塚古墳 出土の猿形埴輪(重要文化財)

などは、畿内では類例が限られるか、ほとんど見られない種類である。 この点は、関東が単なる埴輪の受容地ではなく、独自の展開地であった可能性を示唆する。

2.造形の具体性と写実性

関東の動物埴輪には、筋肉表現や体毛線刻、口吻・耳・蹄の細部まで丁寧に表した例が少なくない。とくに猪や鹿では、体躯の量感を強調する傾向がある。

畿内の一部が象徴的・様式化された表現をとるのに対し、関東では実際の動物観察に基づく具体的造形が目立つと指摘されることがある。

3.狩猟文化との結びつき

関東平野周縁の台地・河川環境は、古墳時代においても狩猟資源に富んでいた。猪・鹿・猟犬を主題とする埴輪の存在は、

  • 首長層による狩猟儀礼
  • 武威・統率力の象徴化
  • 地域社会の生業構造の反映

といった側面を示す可能性がある。

魚形埴輪の出土も、利根川水系など大河川環境との関連で理解されることが多い。

4.大型古墳集中地帯との関連

群馬・埼玉北部は5世紀後半以降、大型前方後円墳が集中する地域である。とくに、

  • 赤堀茶臼山古墳
  • 伊勢崎市境上武士古墳群

周辺では動物埴輪の出土が目立つ。 これは、有力首長層の成立と、それを視覚的に演出する葬送空間の発達と結びつけて理解されることがある。

5.鳥形埴輪の展開と祭祀性

関東では鶏形・水鳥形の出土例が比較的多く、台座付きや首を伸ばした姿勢など多様な形式がみられる。 これらは葬送儀礼や他界観念と関わる可能性が論じられているが、解釈は一定していない。

まとめ

関東型動物埴輪の特色は、

  • 種類の豊富さ
  • 造形の具体性
  • 狩猟的要素の強調
  • 大型古墳との結びつき

にあると整理できる。

これらは、5~6世紀の関東における政治的自立性や首長層の独自性を示唆する資料として注目される。ただし、畿内文化の影響下にあったことは明らかであり、単純な対立構図ではなく、受容と再編成の過程として理解する必要がある。

参考文献

  1. 高橋克壽(1996)『埴輪の世紀 歴史発掘9』講談社
  2. 賀来孝代(2002)「埴輪の鳥」日本考古学 第1号
  3. 亀井正道(1995)『人物動物はにわ』 (日本の美術 No.346),至文堂

菖蒲池古墳2026年02月17日 00:06

菖蒲池古墳(しょうぶいけこふん)は、奈良県橿原市に所在する古墳時代終末期の方墳である。

概要

明治時代以降は墳丘の封土は失われ、横穴式石室の天井石が露出した状態となっている。2007年(平成19年)には、「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の構成資産の一つとして、世界遺産暫定一覧表の記載資産候補となった。1927年(昭和2年)4月8日に国指定史跡となっている。

2009年(平成21年)から2012年(平成24年)にかけて、発掘調査による範囲確認調査が実施され、2010年の調査により本古墳が二段築成の方墳であることが明らかとなった。さらに2011年の調査では、墳丘構築に版築が用いられていることが判明した。

墳丘規模は、下段が一辺約30m、上段が一辺約18mである。墳丘裾部には基底石が据えられ、前庭部を伴う構造が確認されている。

埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、玄室は長さ約7.2m、幅約2.6m、高さ約2.6mを測る。玄室内には家形石棺2基が安置されており、複数埋葬が行われた可能性が考えられる。

出土遺物には、土師器(高坏・蓋・杯)、須恵器(甕・壺・平瓶)、土製品のほか、瓦・磚・鉄滓などが含まれる。これらの一部については、古墳築造後の活動や周辺環境を反映した混入の可能性も指摘されている。

以上の構造的特徴および出土遺物から、菖蒲池古墳は7世紀前半から中葉頃の築造と考えられ、飛鳥地域における終末期方墳の一例として位置づけられる。なお、古墳は江戸時代以降の耕作により大きく改変・破壊を受けており、現存状況は必ずしも良好ではない。

菖蒲池古墳の世界遺産構成資産としての評価軸

① 飛鳥時代の葬制変革を示す「終末期方墳」の代表例

菖蒲池古墳は、7世紀前半?中葉に築造された二段築成方墳であり、前方後円墳から方墳・八角墳へと移行する古墳時代終末期の葬制変革を具体的に示す遺構である。 この時期の方墳は、被葬者の身分や政治的性格が従来とは異なることを示唆しており、律令国家形成期における王権・貴族層の墓制の変化を理解するうえで重要な位置を占める。

② 版築・二段築成にみる国家的土木技術の展開

本古墳では、墳丘構築に版築工法が用いられていることが確認されている。 版築は、宮殿・官衙・寺院など国家的建設事業と密接に関わる技術であり、これを墓制に導入している点は、(1)墳墓が国家的秩序の中で位置づけられていたこと、(2)飛鳥時代の高度な土木・建築技術が葬送空間にも及んでいたことを示す。 これは「飛鳥・藤原の宮都」が有する計画都市・官営建築との技術的連続性を補完する要素である。

③ 家形石棺2基を備える横穴式石室が示す被葬者像

両袖式横穴式石室内に家形石棺が2基並置されている点は、菖蒲池古墳の大きな特徴である。家形石棺は、被葬者の居住空間を象徴化したものであり、飛鳥時代における死後観・身分表象を反映する。複数の家形石棺の存在は、(1)血縁・政治的関係に基づく合葬、(2) 同一権力基盤をもつ複数首長の葬送、などを想定させ、飛鳥地域における支配層の構造を考える上で重要な手がかりとなる。

④ 宮都・寺院・生産活動と結びつく「周辺環境」を示す遺物群

出土した瓦・磚・鉄滓は、必ずしも副葬品とは断定できないが、(1)近隣に存在した寺院、(2)官営的生産活動(鍛冶・建築資材生産)との関係を示唆する資料である。 これは、菖蒲池古墳が単独の墓ではなく、飛鳥の宮都・宗教施設・生産拠点が複合的に存在する文化的景観の一部として機能していた可能性を示す。

⑤ 飛鳥地域の終末期古墳群を補完する存在

飛鳥地域には、(1)牽牛子塚古墳(八角墳)、(2)中尾山古墳(八角墳)など、王権中枢と関わる大型・象徴的古墳が存在する。それに対し菖蒲池古墳は、それらを支えた王権周辺層・実務層の墓制を示す中核的資料として、階層構造を立体的に理解させる役割を担う。 この点で、構成資産群全体の物語性(王権+官僚層+宗教・技術)を補完・補強する。

⑥ 世界遺産評価基準(OUV)との対応関係(整理)

  • 基準(iii)
    • 飛鳥時代における葬制・社会構造・死生観を伝える卓越した証拠
  • 基準(iv)
    • 国家形成期における土木技術・墓制の発展段階を示す顕著な事例

菖蒲池古墳は、これらの基準を補助的・補完的に支える構成資産として位置づけられる。

菖蒲池古墳は、飛鳥時代の国家形成期における葬制の変革、土木技術の展開、支配層の階層構造を具体的に示す終末期方墳であり、宮都・寺院・生産活動と一体となった飛鳥地域の文化的景観を理解する上で不可欠な構成資産である。

規模

  • 形状 方墳
  • 一辺30m
  • 高さ7.5m

遺構

  • 方墳
  • 横穴式石室
  • 溝、
  • 落ち込み、
  • 墳丘、
  • 古墳前庭、
  • 墳丘裾基底石

遺物

指定

  • 1927年(昭和2年)4月8日 国指定史跡

被葬者

築造時期

  • 7世紀中葉

展示

アクセス等

  • 名称:菖蒲池古墳
  • 所在地:奈良県橿原市菖蒲町
  • 交通:近畿日本鉄道 吉野線 岡寺駅 徒歩約15分

参考文献

  1. 奈良県橿原市教育委員会(2015)「菖蒲池古墳」

姫塚古墳(千葉県)2026年02月09日 00:40

姫塚古墳(千葉県)(ひめづかこふん)は千葉県横芝光町に所在する前方後円墳である。 「中台姫塚古墳」ともいう。「日本百名墳」の一つである。

概要

姫塚古墳は芝山古墳群のひとつで、千葉県北東部の九十九里平野を流れる木戸川流域の標高40mの台地上にある古墳である。姫塚古墳は、殿塚古墳とともに国指定史跡『殿塚・姫塚古墳』に指定されている。。 殿塚古墳とともに豊富な埴輪群を出土した代表的な前方後円墳である。低平な台地に所在する両古墳は平行しており、殿塚古墳の北30mに立地する。姫塚古墳の規模は、墳長58.5mを測り、後円部は径35m・高さ4.5m、前方部は幅36m・高さ4.8mである。。 昭和31年に観音教寺と早稲田大学による学術調査発掘調査が行われ、姫塚古墳から埴輪列が出土した。埋葬施設は無袖式の横穴式石室である。玄室の幅は1.65m、高さは1.8mである。築造時期は6世紀中葉と考えられている。豊富な形象埴輪や副葬品の内容から、被葬者は九十九里平野北部を基盤とした有力首長層に属すると考えられている。

埴輪

形象埴輪列は45体あり、当時の原位置で出土しているため、埴輪の配列の意味の分析がしやすい。埴輪は美豆良を結い、顎髭をたくわえ、山高帽を被る男性、馬と馬子、また正装女性は巫女と見られる。形象埴輪列が原位置を保って完存していたことは、学術的な価値が極めて高い。墳丘南側は朝顔形円筒埴輪を立て、北側は前方部の角から後方まで50mに渡り、埴輪列が続く。

大形で優れた造形の埴輪群である。姫塚古墳の埴輪群は葬列の様子を表したものであり、埴輪が外を向いて立てられていることは、古墳を見る人を意識して並べられている「見せる埴輪」であることが分かる。このような配置は、古墳が単なる墓域ではなく、権威や儀礼を可視化する場であったことを示しており、関東地方における後期古墳の政治的・儀礼的性格を考えるうえで重要である。

調査

副葬品は、金銅製耳環、銅碗、頭椎大刀、鉄地金銅張杏葉、金銅飾金具、勾玉、勾玉、水晶切子玉、琥珀棗玉、ガラス製小玉、方頭太刀、鉄刀、鉄鏃、刀子、金銅製装金具、金銅製球状装金具、金銅製雲珠、轡、鉄釘、土師器、須恵器がある。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 墳長 58.5m
  • 後円部径 径35m 高4.5m
  • 前方部 幅36m 長28m 高4.8m

外表施設

  • 円筒埴輪 円筒・朝顔形Ⅴ式
  • あごひげの男性埴輪
  • 葺石 

主体部

  • 室・槨 横穴式石室

遺物

  • 金銅耳環6
  • 金銅飾金具5
  • 金銅球状金具4
  • 勾玉5
  • ガラス小玉82
  • 水晶切子玉3
  • 琥珀棗玉3
  • 方頭大刀1
  • 直刀13
  • 鉄鏃 あり
  • 刀子3
  • 金銅雲珠6
  • 鉄地金銅張杏葉1
  • 金銅鞍金具1組
  • 轡2
  • 須恵器 3
  • 鉄釘 - 石室内

築造時期

  • 古墳時代(6世紀)

被葬者

展示

  • 芝山町立芝山古墳・はにわ博物館
  • 芝山ミューゼアム 芝山仁王尊

指定

  • 2026年(令和6年)8月27日 国指定重要文化財
  • 1958年(昭和33年) 国指定史跡(芝山古墳群)

アクセス等 

  • 名称  :姫塚古墳
  • 所在地 : 〒289-1741 千葉県山武郡横芝光町中台
  • 交 通 :芝山鉄道「芝山千代田駅」または、JR総武本線「松尾駅」から芝山ふれあいバスにて「芝山仁王尊」下車、徒歩10分

参考文献

  1. 滝口宏(1956)「千葉県芝山古墳調査速報」『古代』19・20合併号

二本松山古墳2026年02月08日 00:30

二本松山古墳(にほんまつやまこふん)は福井県吉田郡永平寺町に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。福井県内を代表する大型前方後円墳の一つとして「日本百名墳」に選定されている。

概要

二本松山古墳は、九頭竜川右岸の二本松山丘陵に展開する松岡古墳群を構成する中核的な古墳である。丘陵の山頂部に立地し、九頭竜川流域を広く見渡す景観的な優位性をもつ。墳丘規模は全長約89mを測り、福井県内では最大級の前方後円墳に位置づけられる。築造時期は、墳形・石棺形態等から4世紀後半頃と推定されている。

内部主体は後円部に2基の石棺(1号石棺・2号石棺)が埋葬されている点に大きな特徴がある。両石棺はいずれも舟形石棺であり、被葬者の重層性、あるいは世代的継承関係を示唆する可能性が指摘されている。副葬品は2号石棺のみから確認されているが、1号石棺については江戸時代に盗掘を受けて原状を留めていない。

墳丘のくびれ部裾からやや離れた位置に陪塚が存在することも確認されており、首長墓を中心とする祭祀・埋葬空間の構成を考える上で重要である。

江戸時代の1716年以降(享保年間)に盗掘を受け、石棺内から副葬品が持ち出され、売却されたことが、文献記録によって知られている。これにより、副葬品の詳細な内容や配置状況の復元には限界がある。

石棺の規模は、縄掛突起を除いた計測で、全長約287.7cm、最大幅約115.5cmと推定されており、当時としては大型かつ精緻な石棺である。こうした舟形石棺の採用は、被葬者が九頭竜川流域における有力首長層であったことを強く示唆する。

本古墳では、1880年(明治13年)および1906年(明治39年)に発掘調査が実施されており、近代考古学草創期の調査例としても位置づけられる。ただし、調査記録の制約から、詳細な層位や埋葬過程の解明には課題が残されている。

松岡古墳群内における序列

松岡古墳群は、九頭竜川右岸の段丘・丘陵上に展開する古墳時代前期を中心とした古墳群であり、複数の前方後円墳および円墳から構成される。この古墳群の中において、二本松山古墳は規模・立地・埋葬施設のいずれの点においても最上位に位置づけられる首長墓と評価されている。

墳丘規模に注目すると、二本松山古墳は全長約89mを測り、松岡古墳群中で最大規模の前方後円墳である。これに対し、その周辺に分布する前方後円墳や円墳はいずれも規模が小さく、墳丘長・墳丘高の点で明確な階層差が認められる。この規模差は、被葬者の政治的・社会的地位の差を直接的に反映したものと考えられる。

立地面においても、二本松山古墳は古墳群中で最も高所に位置する丘陵頂部に築造されており、九頭竜川流域および福井平野東縁を広く望む視認性を有する。このような卓越した立地は、単なる墓域の一構成要素ではなく、地域首長権を象徴的に示すモニュメントとして意図的に選択された可能性が高いと考えられる。

埋葬施設の構成に関しても、序列関係を考える上で重要である。二本松山古墳では、後円部に舟形石棺が2基並存するという特異な構造が確認されている。これは、単一被葬者墓にとどまらず、首長権の継承、あるいは同一首長層内での重層的埋葬を想定させるものであり、古墳群内の他古墳には見られない最上位墓特有の構成と評価できる。

さらに、くびれ部裾に陪塚が付随する点も、二本松山古墳が古墳群の中心的存在であったことを示す要素となる。陪塚の存在は、主墳を核とした祭祀・埋葬秩序の形成を示唆し、二本松山古墳を頂点とする階層的墓制構造が松岡古墳群内に成立していた可能性を高める。

以上の点を総合すると、松岡古墳群は、二本松山古墳を頂点とし、その周囲に規模・構造を異にする従属的古墳が配置される首長墓中心型古墳群として理解することができる。二本松山古墳の被葬者は、九頭竜川流域を基盤とする在地首長層の中でも最上位に位置し、ヤマト王権成立期における地方首長層の一角を担った存在であった可能性が高いと想定できる。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:1段、後円部:1段
  • 墳長 83(90)m
  • 後円部 径径51m 高9m
  • 前方部 幅40m 長43m 高7m*埴輪 なし

葺石 なし

埴輪 

  • 埴輪列
  • 円筒埴輪 円筒・朝顔形Ⅳ式

遺構

  • 棺 舟形石棺2基

遺物

  • 円筒埴輪
  • 形象埴輪
  • 倭製獣形鏡1
  • 硬玉勾玉・
  • 碧玉管玉
  • 鉄剣1・
  • 鉄刀残片3・
  • 鹿角刀装具13・
  • 責金具1
  • 三角板鋲留短甲1
  • 眉庇付冑1
  • 頸甲
  • 脇当
  • 鍍金冠
  • 鍍銀冠

築造時期

  • 5世紀後半頃

展示

  • 東京国立博物館

考察

指定

  • 2005年(平成17年)7月14日 国指定史跡

アクセス等 

  • 名称  :二本松山古墳
  • 所在地 :福井県吉田郡永平寺町松岡
  • 交 通 :

参考文献

蘇我満智2026年02月07日 00:41

蘇我満智(そがの まち)は古墳時代に朝廷で活動した蘇我氏の有力人物である。

表記と史料上の位置づけ

『古語拾遺』、『尊卑分脈』では「蘇我麻智」と表記され、表記には揺れがみられる。 一方、『日本書紀』は蘇我氏の出自や初期系譜について明確な説明を与えておらず、満智の具体的な家系は後世史料に依存して復元されている。

系譜伝承の整理

『公卿補任』には、 満智―韓子―高麗―稲目 という系譜が掲げられている。これに対し、『尊卑分脈』は、 彦太忍信命(孝元天皇皇子)―屋主忍男武雄心命―武内宿禰―石川宿禰―蘇我麻智宿禰 とする皇別系譜を伝える。

これらを総合すると、 彦太忍信命―屋主忍男武雄心命―武内宿禰―石川宿禰―蘇我麻智―韓子―高麗―稲目 という系譜構成が導かれるが、史料成立時期や性格を考慮すれば、すべてを史実として受け取ることはできない。

太田亮(1942)は、これらの伝承を踏まえ、蘇我氏を武内宿禰系統に連なる氏族として位置づけている。

財政権との関係

『古語拾遺』には、諸国からの貢進が増大した結果、大蔵が新設され、その管理を蘇我麻智宿禰に委ねたとする記事がみえる。ここでは、斎蔵・内蔵・大蔵の三蔵を総括したとされ、満智が朝廷の財務運営に深く関与していたことがうかがえる。

この記述を根拠に、蘇我満智は財政処理能力を背景として中央政権内で地位を高めた人物であったと考えられている。阿部武彦(1964)は、蘇我氏が早い段階から財政権を掌握し、帰化系集団を配下に組み込むことで政治的影響力を強めたと論じている。

蘇我氏の分化と勢力拡大

『古事記』は、蘇我石川宿禰を祖とする諸氏族として、蘇我臣・川辺臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣などを挙げている。阿部武彦はこれを、蘇我一族が内部で分岐し、それぞれが独立した氏を名乗った結果と解釈する。

こうした同族系氏族が朝廷内に多数存在したこと自体が、蘇我氏の権力基盤を支える重要な要素であったとされる。また、帰化人集団を被官化して勢力を拡大した点についても、関晃の研究などにより一定の妥当性が認められている。

渡来系氏族説

蘇我満智を、百済における権臣「木満致」と同一人物とみなし、蘇我氏を渡来系氏族とする見解も存在する。坂靖(当時・奈良県文化財保存課)は、考古学的観点から飛鳥地域の開発主体を検討した結果、蘇我氏の起源を朝鮮半島南西部(全羅道周辺)に求める可能性を指摘している。

もっとも、この説については文献的裏付けが限定的であり、学界において定説とはなっていない。

政治活動

『日本書紀』履中天皇2年(401)正月条によれば、磐余に宮廷が設けられた際、蘇我満智は平群木菟・物部伊莒弗・葛城円らとともに政務を執ったとされる。この記事から、満智が5世紀初頭の王権中枢に関与していた可能性が読み取れる。

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 斎部広成、西宮一民(1985)『古語拾遺』岩波書店
  3. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  4. 坂靖(2018)『蘇我氏の古代学』新泉社
  5. 阿部武彦(1964)「蘇我氏とその同族についての一考察」北海道大学文学部紀要12,pp.123-135.