潤地頭給遺跡 ― 2025年07月13日 12:21
潤地頭給遺跡(うるうじとうきゅういせき)は福岡県糸島市にある弥生時代中期から中世までの複合遺跡である。
概要
福岡県の北西部にあり、『魏志倭人伝』に伊都国として記された糸島半島の中央部の標高3mから4mの微高地に位置する。糸島平野のほぼ中央部に位置する。弥生時代中期を中心とする360基の甕棺墓、井戸枠に転用された2世紀未の準構造船、玉作工房が見つかっている。
調査
平成14年7月に調査区内の遺構の状況と内容を知るため約1ケ月間をかけて全域を対象とした試掘調査を行った。弥生時代前期末~中世にかけての複合遺跡と判明した。本調査は平成15年1月15日~平成16年3月19日の 約1年2ケ月をかけて実施した。
玉作工房
範囲は一部が調査区外であるが、検出された3世紀頃の玉作工房の遺構として約30棟が検出された。南北130m、東西80m、9600m2の広大な面積に33軒の工房があった。平面は隅丸の四角形または不正隅円長方形であり、周囲に円形の溝を巡らす建物が多い。上屋の構造は切妻屋根を葺き下ろしたいわゆるテント状の簡易建物とみられる。 弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて玉作りが行われたことを示す。玉作工房は周囲に円形の溝を巡らせる竪穴建物であり、東西100m、南北130mの広い範囲に広がっている。遺構から出土した石材として碧玉、水晶 メノウ、鉄石英、蛇紋岩、玉作り用の砥石がある。 碧玉ろ水晶は別々の建物跡からみつかった。工具として砥石、叩き石、鉄製加工異などがあり、いずれも住居内や排 水溝、土坑から出土した。
井戸
井戸は径60cm、深さ2mであり、6枚の部材により円形に作られている。井戸枠内から長頸壺、短頸壺、庄内式土器など20点がみつかった。井戸枠は準構造船を転用したものであった。船体断面がU字形であり、残存長は1.5m、幅82cm、厚さ3.5cmである。両舷に臍穴が見られ、溝を切って仕口をはめ込む仕口が作られている。船尾部分とみられる。樫原考古学研究所の福田さよ子の鑑定によれば、船底と舷側が杉材、船尾部はクスノキであった。全長は約6mと推定されている。
遺構
弥生+古墳+奈良+中世
- 掘立柱建物
- 大溝
- 甕棺墓
- 土壙墓
- 玉作工房
- 竪穴建物
- 井戸
- 火葬墓
- 祭祀土坑
遺物
- 弥生土器
- 石剣
- 石庖丁
- 石斧
- 石鏃
- 投弾
- 甕棺
- 銅訓
- 銅鏡
- ヒスイ製勾玉
- 碧玉
- 水晶
- メノウ
- 鉄石英
- 蛇紋岩
- 井戸転用準構造船
- 剣装具
- 須恵器
- 土師器
- 鉄鏃
- 金槌
- 蔵骨器
- 動物遺存体
- 掘立柱建物
指定
展示
- 伊都国歴史博物館
考察
弥生時代に丸木舟ではなく準構造船が見つかったことは重要である。韓国への往復に使われたのであろうか。玉作り工房の製品はどこに出荷されたものであろうか。
アクセス等
- 名称: 潤地頭給遺跡
- 所在地:福岡県糸島市潤地頭給
- 交通:
参考文献
- 前原市教育委員会(2005)「潤地頭給遺跡」前席市文化財調査報告書 第89集
鳥居松遺跡 ― 2025年07月12日 00:10
鳥居松遺跡(とりいまついせき)は静岡県浜松市にある弥生時代の遺跡である。
概要
鳥居松遺跡は浜松市南部の海岸平野に位置する。北方1kmには、伊場遺跡があり、弥生時代の中核集落と考えられている。 古墳時代前期になると伊場遺跡群周辺の集落は急速に衰退する。重なる洪水により集落が放棄されていたようである。家形土器の年代は2世紀を遡るとされ、家形土器としてが最古である。家形土器は切妻式の倉庫であり、柱を細い粘土紐で表現する。床下に高坏の脚がつく。高さ35.5cmである。
調査
第1次調査では弥生時代後期の環濠を伴う集落跡を検出した。第2次調査地点では環濠に相当すると思われる溝を検出した。第3次調査において出土した家形土器は、全国的にみても出土例が少ない家形土器は集落の西側の大畦畔の傍らから、完形の土器とともに出土した。鳥居松遺跡では集落内部に掘立柱建物や土坑墓、その外側に水田があった。 弥生時代の集落や水田、奈良時代から鎌倉時代に流れていた小川が確認されている。 弥生時代後期の根拠的集落家形土器や南関東系土器など希少な遺物が出土した。幅20m、深さ2.5mの自然河川(伊場大溝)から完形の装飾大刀(金銀装円頭大刀)が出土した。
金銀装円頭大刀
河川跡の底から出土した全長76.5cmの大刀である。柄に朝鮮半島の製品に見られる龍文や連続波頭文が装飾される。精緻な彫刻があり、金銀張りの工芸技術が使われる。金銀装大刀が川底に沈められていたことは、有力者層による特異な儀礼が推定されている。6世紀前半に朝鮮半島で製作された可能性が高いとされた。
家形土器
『鳥居松遺跡』では集落内の重要な建物を表現したと評される。「水田に伴う祭祀」と書かれるがそのような証拠があるかは不明である。家形土器は平成17年10月19日付で、浜松市の有形文化財(考古資料)に指定された。
遺構
- ピット
- 濠
- 掘立柱建物
- 土坑
- 土器集積
- 包含層
- 水田
- 竪穴建物
- 環濠
- 畦畔
- 灌漑用水路
- 河川
遺物
- 弥生土器
- 砥石
- 弥生土器
- 家形土器
指定
- 2005年(平成17年)10月19日 浜松市 有形文化財(考古資料)
- 2020年3月27日 静岡県指定有形文化財(鳥居松遺跡出土)金銀装大刀
展示
- 浜松市博物館
考察
アクセス等
- 名称: 鳥居松遺跡
- 所在地:静岡県浜松市中区森田町146・150
- 交通: 浜松駅から遠州鉄道バス4番のりば浜名線10系統「舞阪・弁天島・湖西」行き /12系統「高塚経由 馬郡」行き「森田」バス停下車 徒歩3分
参考文献
- 浜松市文化振興財団(2009)「鳥居松遺跡 6次」
重列式神獣鏡 ― 2025年07月08日 00:05
重列式神獣鏡(じゅうれつしきしんじゅうきょう)は文様が上から下へ一方向に配列される神獣鏡である。
概要
水平線により内区を数段に分け、上段から下段へ上下を同じ方向に向いた神獣が配置される。神獣鏡は鏡背の紋様の特徴により重列式神獣鏡、対置式神獣鏡、環状乳式神獣鏡、同向式神獣鏡、三角縁神獣鏡などに分類される。外区に銘帯をもつ神獣鏡は、廣漢派の神獣鏡や建安年間(196 ~220)に江南で盛行した重列式神獣鏡に多い。「正始元年陳是作重列式神獣鏡」(山口県竹島古墳出土品、九州国立博物館蔵)は紀年銘をもつ鏡として著名である。正始元年は240年で、卑弥呼が魏の明帝に使者を送った239年の翌年にあたる。
出土例
- 重列式神獣鏡 - 出土地不明、三国時代(呉)3世紀、天理参考館
- 重列式神獣鏡 - 出土地不明、後漢 2世紀、古代鏡展示館
- 重列式神獣鏡 - 出土地不明、後漢~三国時代(呉)・3世紀、東京国立博物館
- 画文緑吾作銘重列式神獣鏡 - 備前車塚古墳、岡山市、古墳時代・3~4世紀
考察
曲り田遺跡 ― 2025年07月05日 00:09
曲り田遺跡(まがりたいせき)は、福岡県糸島市二丈石崎にある弥生時代の集落遺跡である。稲作開始時期の集落遺跡である。「石崎曲り田遺跡」とも言われる。
概要
日本列島の初期農耕文化をもつ遺跡であり、板付遺跡、菜畑遺跡とともに,弥生期の生活研究に欠かせない資料を提供する。稲作開始期の集落である。日本最古の鉄器などのほか、調査当時において、それまで稲作開始期のものとされていた土器よりもさらに古い土器群(曲り田古式土器)や、大陸系磨製石器などの遺物が発見された。
調査
1979年、1980年、1981年の発掘調査により稲作の始まりを裏付ける土器群や石器、竪穴式住居、支石墓、甕棺墓などが発掘された。方形、長方形の住居址が多数発見される。紀元前4世紀の住居跡から日本列島で最古の鉄器が発見された。土器は、当時において最古の弥生土器と呼ばれていた「板付Ⅰ式」より古く、「曲り田古式」が最古の弥生土器となった。 現在の野球場グラウンドに隣接した場所に弥生時代の住居跡がある。
遺構
遺構は弥生時代の住居跡30がほぼ中央に分布する。いずれも方形プランである。弥生中期前半から後期後半の住居跡11が検出された。墓地は支石墓1、弥生前期の甕棺墓11を検出する。このほか奈良時代から平安期の掘立柱を検出する。
稲作開始時期
昭和55年の菜畑遺跡(佐賀県唐津市)、曲り田遺跡(福岡県二丈町)などの発掘調査によって、今まで突帯文土器の出ていた層から水田の跡と農耕具、稲作の始まりを証明する大陸系磨製石器などが発見された。これらから稲作開始期の土器編年が再考され、「弥生時代早期」の時期を新設することが学会に提唱された。 弥生時代は近年の水田稲作の発掘により、紀元前9世紀は弥生時代の始まりとされている。 佐原眞は「水田稲作の開始が弥生時代の開始である」と定義した。したがって曲り田遺跡は弥生時代の遺跡となる。
遺構
- 集落
- 墓地
遺物
- 弥生土器
- 石器
- 須恵器
- 土師器
- 夜臼式土器、
- 紡錘車、
- 大陸系磨製石器群
- 炭化米
- 籾圧痕土器
- 弥生土器
- 青銅器
- 土師器
指定
アクセス
- 名称:曲り田遺跡
- 所在地:福岡県糸島市二丈石崎312
- 交 通:JR筑肥線「一貴山駅」徒歩26分/糸島市コミュニティバス JA西部支店前より徒歩8分
参考文献
- 藤尾慎一郎(2014)「弥生鉄史観の見直し」国立歴史民俗博物館研究報告 第185集
- 福岡県教育委員会(1983)「石崎曲り田遺跡」
- 福岡県教育委員会(1983)「石崎曲り田遺跡 Ⅱ」今宿バイパス関係埋蔵文化財調査報告 第9集
- 福岡県教育委員会(1985)「石崎曲り田遺跡 Ⅲ」今宿バイパス関係埋蔵文化財調査報告 第11集
- 佐原眞編(1997)『弥生土器1:弥生文化の研究 第3巻)』雄山閣出版; 第2版
吉野ケ里遺跡 ― 2025年06月27日 22:28
吉野ケ里遺跡(よしのがりいせき)は佐賀県神埼市と同吉野ヶ里町にある全長2.5kmの壕に囲まれた日本最大規模の弥生時代の環壕集落跡である。
概要
志波屋・古野ヶ里段丘は、背振山地南麓から平野部へ広がる段丘であり、山麓部には旧石器時代・縄文時代から埋蔵文化財が多い場所である。 吉野ケ里遺跡からは弥生時代の多数の住居跡、高床倉庫群跡、3,000基を超える甕棺墓、弥生時代中期の王の墓と考えられる墳丘墓などが出土している。1992年に国営公園「吉野ヶ里歴史公園」として閣議決定し、1995年に着工され、2001年に一部開園した。遺跡から、紀元前1世紀の段階で、すでに北部九州の弥生社会では多様な身分や階層による社会組織が形成されていたことが分かっている。古墳時代の初めとなる紀元3世紀後期~4世紀前期に吉野ヶ里は消滅した。古墳時代に入ると、吉野ヶ里は急速に廃れ、人々は離散したと考えられている。背景には、稲作の普及や大和政権の勢力拡大による戦乱の終結などにより、山上に集落を構えるメリットがなくなったことがあると推測されている。弥生時代前期から後期にわたる集落の変遷過程や集落と一体的に変遷する墳墓の形成過程等が明らかになっている。
邪馬台国との関係
吉野ヶ里遺跡の最盛期は弥生中期の遺跡であり、邪馬台国時代は弥生時代後期または古墳時代初期であるから時代が合わない。さらに甕棺等墳墓の数から見て吉野ヶ里のある時点での人口は1,000人位と見積もられている。邪馬台国にしては人口が少なすぎると見られている。権力者の威厳を示す遺物(鏡、剣等)が少ない点や、吉野ヶ里の位置が魏志倭人伝の旅程記事と合致しないことから、邪馬台国とは関係ないと見られている。
時代区分
約700年間に渡り維持された弥生集落である。
弥生時代前期
縄文時代晩期の水田農耕が伝来した頃、周辺の小規模農村の上に立つ環壕を巡らせた吉野ヶ里の草分け的な集落が形成された。弥生時代前期の環壕跡は、直径は約20mと小形である。
弥生時代中期
弥生時代中期には南部の丘陵を囲む推定20ha以上の環壕集落が形成された。居住域と倉庫域が分かれていた。環壕跡内部からは、大量の土器や石器が出土し、低地からは外洋航行船を模したと思われる船形木製品等が出土した。
弥生時代後期
北方に規模を拡大し、40haを超す国内最大規模の環壕集落となる。大型の祭殿をもつ首長の居住や祭祀の場と考えられる北内郭がある。環壕、城柵、物見櫓等の防御施設で守られたところに人々が住む。後期後半から終末期には望楼(物見櫓)を備えた環壕によって囲まれた特別な空間(北内郭・南内郭)となっている。多数の掘立柱建物跡は、その規模や構造から「市」の存在が推定されている。
終焉
3世紀後半頃に吉野ヶ里遺跡全体を取り囲む環壕は、ほぼ埋没し、北内郭、南内郭とともにその機能を失った。
調査
1986年(昭和61年)から1988年(昭和63年)にかけて佐賀県教育委員会によって発掘調査が行われた。 検出した遺構は、弥生時代の甕棺墓313基、弥生時代・古墳時代・奈良時代の竪穴建物跡105棟、弥生時代・古墳時代・古代の掘立柱建物跡11棟、弥生時代~古代の土坑146基、弥生時代の石棺墓1基、弥生時代~中世の土坑墓36基、古墳時代~古代の溝跡、性格不明遺構、小穴などである。弥生時代の遺構は前期から後期に至る各時期のものがほとんど検出されている。検出された掘立柱遺構は200棟以上である。全国最大規模の弥生時代の集落であることが明らかになった。 墳丘墓から高度な技術を要する有柄銅剣やガラス製の管玉などが出土し、中国大陸や朝鮮半島との交流が想定できる。
竪穴住居跡
縄文時代に一般的な円形の竪穴住居とは異なり、弥生後期の長方形の住居跡である。
青銅器工房跡
青銅を作る原料、高温で溶かしたことを物語る焼けこげた土などがまとまって見つかったことから、青銅を作る専用の工房跡と想定される。
高床倉庫群
多くの高床倉庫群が発見された。掘立柱建物の殆どは、高床倉庫と考えられ、1間×2間規模の建物跡以外は、1間×1間規模である。集落域の建物比率は、竪穴建物3に対して掘立柱建物(高床建物)1の割合である。
防御施設
逆茂木
門の両側一帯には敵の侵入を防ぐための特別な仕掛けである逆茂木があったと考えられている。のり面に存在する柱穴は外に向かって斜めに穿たれたものが多く、敵の侵入を防ぐための乱杭があったようである。
物見やぐら
楼観跡と推定される物見やぐら跡が発見されている。 外からの侵略者を監視する見張り台と想定され床高6.5m、高さは12m。
入口防護
外壕に7カ所、南北内郭に3ヶ所の入口が確認されている。入口で兵士たちが厳重に警備していたと考えられる。
環濠
幅2.5~3.0m、深さ2mが一般的であり、最大の部分は幅6.5m、深さ3mである。断面の形態は南西部低地で逆台形となっている以外はV字形である。
遺体
首のない遺体、矢や槍の刺さった遺体は戦乱のあったことが推測される。長身で、のっぺりとした面長の顔つきの「渡来系弥生人」と判明している。
謎のエリア
北墳丘墓の西側、日吉神社の境内であった場所は長らく未調査のため「謎のエリア」と呼ばれていた。2023年5月3日から7日まで特別公開された。2022年度にエリアの北側から弥生時代の甕棺墓列が出土し、円形の竪穴住居跡が検出された。南側では2023年4月末に表土を掘削すると、丘陵頂部から石ぶたの墓が発見された。 2023年5月29日、「謎のエリア」で弥生時代後期の石棺墓が見つかったと発表された。石棺墓に石の蓋が4枚並べられており、全長約2.3m、幅は最大0.65。表面に「×」などの線刻が多数みられる。石棺墓の周囲の 墓坑 は全長約3.2m、幅約1.7m見晴らしの良い丘陵の頂部にあり、他の墓坑より規模が大きいため、有力者の墓である可能性があるとされる。2023年6月5日以降に石棺墓の蓋を開け、副葬品を調べるという。貴重なものが見つかれば、一部の吉野ケ里遺跡=邪馬台国説が再燃する可能性がある。
「権(けん)」発見
2022年11月11日、吉野ケ里遺跡で奈良時代と推定される青銅製の重り「権(けん)」が発見された。高さ2・9センチ、最大径3・4センチ、重さ約82・5グラム。頂部に秤にぶら下げるためのひもを通す輪があるが、欠けている。佐賀県文化財保護室白木原宜室長は「吉野ケ里町付近に肥前国の神埼郡衙があったと推定されていたが、これを裏付けるもの、と語る。
遺構
- 竪穴建物
- 掘立柱建物
- 環壕
- 溝
- 甕棺墓
- 井戸
- 土壙墓
- 水田の水路
- 青銅器鋳造遺構
- 環濠
- 門
- 方形周溝墓
- 古墳(前方後方墳) <立地>段丘上。標高20.5m、西側水田からの比高13m
- 総長21.5m、墳長20.2m、後方辺14.6m、前方幅6.2m・長6.2m、くびれ幅5.5m、
- 墳丘は完全に削平され、墳丘立面形・葺石については不明。
遺物
- 弥生小型倭製鏡(内行花文鏡)(銘文なし、欠損6.6cm)、
- 鏡式不明(内行花文鏡か)(銘文不明、破片22.2cm)、
- 鏡式不明(銘文不明、破片)、
- 伴出、巴形銅器鋳型+
- 不明青銅器鋳型
- 銅剣片
- 土器
- 巴形銅器鋳型
- 在地系土器
- 外来系土器
- 鉄器
- 銭貨(貨泉)
- 銅鐸
- 箱式石棺 蓋石2、両側石各1、妻石各1、床石1、小児棺
- 石棺(ほぼ東西、東側攪乱、蓋石1、南側石5、北側石2残、妻石西側1、床石なし)
- 石庖丁
- 磨製石剣
- 石庖丁
- 土製鏡
- 骨角器
- 青銅器鋳型
- 鉄製農耕具
- 銅鏃
- 細形銅剣
- ガラス小玉
- 鉄製鋤先
規模
- 南北 約4・5キロ
- 東西 約600メートル
- 面積 約40ヘクタール
指定
- 1991年(平成3年) 国の特別史跡に指定。
吉野ヶ里歴史公園
- 名称:吉野ヶ里歴史公園
- 休館日: 12月31日、1月の第3月曜日及びその翌日
- 利用時間:9:00~17:00(GW、6月~8月は9:00~18:00)
- 入館料:大人(15歳以上)460円、シルバー(65歳以上)200円、団体割引あり※
- 所在地:佐賀県神埼郡吉野ヶ里町田手1843
- 交通:JR長崎本線吉野ヶ里公園駅または神埼駅から徒歩15分
参考文献
- 「「謎のエリア」興味津々 吉野ケ里遺跡、特別公開始まる佐賀新聞,2023年5月4日
- 「吉野ケ里遺跡発掘調査現場を一般公開:吉野ケ里遺跡発掘調査現場を一般公開」朝日新聞,2023年5月3日
- 「吉野ケ里遺跡で奈良時代ごろの重りが出土:吉野ケ里遺跡で奈良時代ごろの重りが出土」朝日新聞,2022年11月12日
- 「神社があったので未発掘、吉野ヶ里遺跡の謎エリアで石棺墓を発見」読売新聞、2023年05月29日
- 「神社があったので未発掘、吉野ヶ里遺跡の謎エリアで石棺墓を発見」読売新聞、2023年5月29日
- 佐賀県教育委員会(1990)「吉野ケ里遺跡」佐賀県文化財調査報告柑第100集
弧帯石 ― 2025年06月26日 00:10
弧帯石(こたいせき)は帯状の弧を描いた石である。正面に人の顔を造り出すことがある。 「弧帯文石」「施帯文石」「亀石」ともいう。
概要
弥生時代に作られた石器で岡山の楯築遺跡から出土した弧帯石が知られる。文様は弧帯文と言われ、縄目や帯を曲線状に配置するモチーフの文様である。特殊な帯状曲線入組文様である。文様の呪力が信じられていた。纏向遺跡からも弧帯文様を施した木の板や石が出土する。同様の文様の弧文円板は石塚古墳(奈良県、纏向遺跡)の周溝から発見されている。 東田大塚古墳の東南約180mの布留式期の溝から全長4.5cm、厚さ1.1cmの弧帯石が発見された。粘板岩製で弧帯文(弧帯文様)が浮き彫りにされている。 吉備の弥生時代から古墳時代への移行期の特殊器台に作られた文様に類似する。 纏向遺跡と吉備の密接な関連性を示唆するものである。
出土例
- 弧帯文石 楯築神社の御神体、岡山県倉敷市、弥生時代
- 弧帯石 纏向遺跡遺跡、奈良県桜井市、古墳時代前期
考察
纏向遺跡の人々の出身地は吉備であった可能性の根拠の一つとなる。
須玖坂本遺跡 ― 2025年06月25日 00:20
須玖坂本遺跡(すぐさかもといせき)は福岡県春日市にある弥生時代の遺跡である。
概要
須玖坂本遺跡は春日丘陵と平野部の境目に位置し、南側約130mに奴国王墓と比定される須玖岡本遺跡が位置する。 福岡県の春日丘陵付近は弥生時代に栄えた奴国の中心地と目されている。当時は弥生文化の先進地域であった。弥生中期以降に青銅器生産を行ったとみられる。奴国の官営工房とも言われる。
調査
1次調査の調査区北部で柱痕を有する大型のピットを複数で検出した。削平された竪穴建物の柱穴と見られる。弥生土器とともに多量の青銅器生産関連び遺物が出土した。遺構から中型の石英長石斑岩の石塊や剥片が多数出土した。竪穴建物を使用する青銅器工房があったとみられる。多数の溝と柱穴が出土した。溝は幅50cmで、10m×10mの区画を囲んでいた。石製の鋳型や中空部分を作り出す中子、坩堝、銅滓、貨泉が出土した。石製の鋳型には矛、戈、剣、鏡、鐸、鏃などがある。1・4次調査で出土した1号溝は、南北方向に延びる約46mの大溝であった。銅矛中子片の出土は400以上あるため、銅矛がメインの生産であった。 1号溝から弥生土器と共に、石器、青銅器中型、管玉等が出土した。銅鏃鋳型は長さ33cmで、7個連結した有茎鏃が7列あり、一度に49の銅鏃を生産できる。裏面に2列、4個連結の鋳型があり、一度に8個生産できる。青銅器鋳型は6点がまとまって出土した。石器は打製石器16 点、磨製石器14 点、砥石12 点が出土した。そのほか天秤権と見られる石器が3点出土した。
漢式鏃
青銅製の鏃は横断面が三角形であり、矢柄が鉄製であることから国産ではなく、当時の朝鮮半島に存在した楽浪郡を経由して倭国にもたらされた可能性が高いとされる。漢式鏃は10例が発見されているが、断面が三角形のタイプは5例目である。
遺構
- 包含層
- ピット
- 土坑 1基
- 溝 6条
遺物
- 鋳型(筒状銅製品鋳型+銅鏃鋳型+銅矛鋳型+銅鏡鋳型)
- 弥生土器
- 銅矛(中子)
- 弥生土器
- 土製品
- 鉄器
- 玉類
- 木製品
- 石器
指定
展示
- 春日市奴国の丘歴史資料館
考察
アクセス等
- 名称: 須玖坂本遺跡
- 所在地:福岡県春日市岡本1-76
- 交通:
参考文献
- 春日市教育委員会(2020)「須玖坂本B遺跡」
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