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黒色土器2024年12月30日 01:20

黒色土器(こくしょくどき)は土師器系の土器で、器面をへらで磨き、炭素を吸着して黒変させた土器である。内黒土器ともいう。

概要

黒色土器には内側だけを黒化させた黒色土器A類と全体を黒化させた黒色土器B類とがある。後身の瓦器とは異なり、窯を用いないで焼き上げる。椀や皿などの食膳用が多いが、壺や煮炊き用の甕も見られる。素焼きの土器は、表面に細かいすきまがあるため、水分が土器にしみこんで水などの液体が漏れる。黒色土器は、土器の内側をていねいにへらで磨き、黒い物質ですきまを埋めることで水分がしみこまないように工夫している。 須恵器は窯を使って高温で焼くため、水がしみこまない。しかし灰釉陶器は役所や寺などで使われる高級品であるため、一般庶民は使えない。須恵器の代用品として黒色土器が伝わったと考えられる。

伝搬過程

黒色土器A類から黒色土器B類へ変化したとされている。A類は6世紀に東日本で現れ、8世紀に畿内と九州に広がり、9世紀以後はそれ以外の地域に普及したとする。須恵器生産が盛んであった東海地方以外の、信州・北関東・東北地方南部に特に多くみられ、杯・碗・高杯、鉢などの器種がある。奈良時代末では黒色土器Aが圧倒的に多いが、平安時代に入ると黒色土B類も多くなる。 畿内および西日本で須恵器が食器として普及したが、東日本の黒色土器は須恵器に代わるものとして出現して一般化したとする。

別の見解

逆の見解もある。九州で土器の表裏に煤(煙)を付着・吸収させて仕上げた黒色磨研土器(黒色土器B類)が先行し、祭祀や儀礼で使用されたとみる。8世紀後半に畿内を中心として、黒色土器(内黒土器、黒色土器A類)と呼ばれる器の内側だけを黒く燻した高台のない杯が定量生産されるようになるとの学説である。

使用地域の重要性

古代から中世への土器生産の移行過程を検討する上で重要である。

出土例

  • 黒色土器 - 百々遺跡、山梨県南アルプス市、平安時代
  • 黒色土器 - 五社遺跡、富山県小矢部市、平安時代

参考文献

東ノ宮古墳2024年12月30日 01:35

東ノ宮古墳(ひがしのみやこふん)は白山平山の山頂にある愛知県下で最古級の前方後方墳である。以前は「瓢簞塚古墳」、「瓢簞山古墳」などと呼ばれていた。

概要

東ノ宮古墳は国宝・犬山城の東側の標高143mの白山平の山頂で、東ノ宮神社の社殿の裏手にある。東之宮社が鎮座することから、古来より神聖な地とされていたため、古墳は良好な状態で保全されてきた。 前方後方形が良好に残っており、特に古墳の北側は残りが良く、北側に広い平坦面がみられる。1973年(昭和48年)3 月下旬の盗掘を契機に同年8 月から9 月にかけて発掘調査が行われ、竪穴式石槨や豊富な副葬品が出土した。白山平山はチャートでできた岩山であり、東之宮古墳は岩山を平らに削って平地をつくり、そのうえに盛土して築造した。東之宮古墳の後方部は2段築成の墳丘である。

調査

1973年(昭和48年)の発掘調査では主体部は後方部頂に2か所、前方部に1か所あることが確認された。後方部の竪穴式石槨が調査され、7枚の扁平な板石状の天井石に覆われた竪穴式石槨の規模は長さ4.8メートル、幅0.96メートルである。奇妙な文様の銅鏡11面(三角縁神獣鏡4面、斜縁動向式二神二獣式鏡1面、方格規矩四神倭鏡1面、四獣形鏡1面、人物禽獣文鏡4面)、美しい光沢の玉類140点(翡翠製勾玉3点、硬玉製管玉137点)、鉄剣4点、鉄刀9点、鉄剣鉄槍17点、鉄鏃6点、短冊形鉄斧3点、有袋鉄斧3点、針筒1点、Y字形鉄器2点(謎の鉄器)、釶が出土した。

狗奴国と邪馬台国

報告書では東之宮古墳の被葬者は狗奴国と邪馬台国が緊張状態であった3世紀中葉から後半を中心に活躍した人物と想定している。その抗争期を経て初期ヤマト王権誕生に至る激動期を生き抜いた王としている。

規模

  • 形状 前方後方墳
  • 墳長 72m
  • 後方部 径48,×49m 高7.5m
  • 前方部 幅43m 長33m 高6m

主体部

  • 竪穴式石槨2
  • 割竹形木棺
  • 第1主体(後円部)
  • 第2主体(前方部)。【備考】

遺物

  • 吾作銘重列二神二獣鏡1
  • 波文帯三神三獣鏡2
  • 天王日月唐草文帯二神二獣鏡1・
  • 唐草文帯三神三獣鏡1
  • 四獣形鏡1
  • 人物禽獣文鏡4
  • 方格規矩鏡1
  • 車輪石1
  • 合子2
  • 石釧3
  • 鍬形石1
  • 勾玉3
  • 碧玉管玉230
  • 鉄剣2
  • 鉄刀7
  • 鉄槍20
  • 鉄鏃5
  • 斧6(短冊形3、袋形3)
  • 針3

築造時期

  • 3世紀の終わりから4世紀はじめ

展示

  • 京都国立博物館

指定

  • 1978年(昭和53年)6月15日 尾張東之宮古墳出土品 一括(考古資料)

所感

狗奴国と邪馬台国の争乱は、どちらかが勝利したのではなく、何らかの和解に終わったのではなかろうか。そうでなければ、東ノ宮古墳がこの規模で築かれることはなかったであろう。前方後方墳であることは、大和の勢力と協調する面がありながらも、独自路線を取るところがあったのではなかろうか。狗奴国の領域は現在の愛知、岐阜、三重の3県にまたがる濃尾平野一帯という説があるが、纏向遺跡から東海系土器が出土することは、和解後の協調路線に基づく人の移動ということが考えられる。

アクセス等

  • 名称:東ノ宮古墳
  • 所在地:愛知県犬山市大字犬山字北白山平7
  • 交通:名鉄犬山線 犬山遊園駅から徒歩約20分

参考文献

  1. 犬山市教育委員会編集(2005)『史跡東之宮古墳調査報告書』犬山市教育委員会編 ; 第2集
  2. 犬山市教育委員会編(2006)『史跡東之宮古墳 : 調査概要』 第3-5集, 第9集
  3. 犬山市教育委員会編(2014)『史跡東之宮古墳』犬山市教育委員会編 第12集
  4. 東海古墳時代研究会編(2014)『東之宮古墳の研究はどこまで進んだのか』東海古墳時代研究会第4回研究会資料集