和同開珎 ― 2024年09月08日 00:19

和同開珎(わどうかいちん)は日本最古の流通貨幣である。
概要
「皇朝十二銭」のうち、708年に催鋳銭司(鋳銭司を設置する準備のための宮司)が最初に作られ、鋳銭司長官に多治比真人三宅麻呂が任命された。翌、和銅2(709)年8月には、河内鋳銭司が設置された。いつ発行されたかは、分からないが和銅3年に都は藤原京から平城京に移るため、その前後に和同開珎が発行されたと考えられる。鋳銭司は神亀3年(726年)まで存続していた。 発行目的は第一に都城造営のための大量の物資や人員を調達すること、次に実物貢納では政府や貴族官僚のニーずと合っていなかったため、フレキシブルな収入が必要であったこと、第三に中国の貨幣制度を真似することであった。丸い貨幣の中央に四角い穴を開け、上下左右に4つの文字を配するというデザインは唐の様式をそのまま模倣したものであった。 政府の支払手段説があるが、『続日本紀』和銅二年条「交関の雑物・・価三文以下は皆銅銭を用いよ」と書かれ、流通を意図していたと見られる。 和同開珎は銀銭と洞銭とがあり、洞銭は字体の違いから「新和同」と「古和同」とがある。 全国から出土する和同開弥はそのほとんどが新和同で、その出土点数は6,300枚近く、規格性の高い均質な銭貨の大量生産ができていた。
最古の貨幣
奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から33枚の富本銭が見つかり、それが日本最古の貨幣と判明している。ただし流通貨幣とは見られていない。
考察
参考文献
石錐 ― 2024年09月08日 00:51
石錐(せきすい/いしきり、Borer/stone awl)は穴をあけるための道具である。 「ドリル」、「ツインケン」、「揉錐器」と呼ばれることもある。
概要
旧石器時代、縄文時代から弥生時代に見られる。長さ3cm前後の一端を針状にとがらせた打製石器である。 キリのように回転穿孔の道具として使われたと考えられている。錘状の突出部を刃として用いた。「いしきり」の名で、縄文時代に石器として用いられた。携帯用のドリルである。 頭部を平たくしたものと全体を棒状にしたものとがある。江戸時代には石鏃の一種とされていたが、1886年に羽柴雄輔が石錐であると指摘した。旧石器時代と弥生時代の石錐はすべてが打製石器である。北部九州では石錐はまれである。朝鮮半島に類例がある。
分類
石錐の形態は錐部の長短、調整加工の方法、横断面形、頭部の形状、錐部両側縁の角度などの形状によりA類、B類、C類に分類される。
- A類:基部に短い身部を作り出したもの。
- B類:膨らんだ基部から身部が細長く棒状に突出する。
- C類:基部がなく、全体が棒状である。
使い方
先が細く尖っており、獣の皮や木の皮などを縫い合わせるため、木器や皮革製品などの有機質に穴をあける道具と推察される 柄部にアスファルトによる固定痕が残るものがみられる。
出土例
- 石錐 - 南方遺跡、岡山市北区国体町、弥生時代
- 石錐 - 境A遺跡、富山県朝日町、縄文時代、重要文化財
- 石錐 - 御経塚遺跡、石川県野々市市御経塚、縄文時代後期から晩期
参考文献
- 西谷正(1981)「朝鮮の環状様穿孔具について)」朝鮮学報99,100
- 加藤晋平、小林達雄、藤本強(1983)『縄文文化の研究』雄山閣
- 大野左千夫(1981)「石錘についての覚書」『古代学研究』81
- 内田律雄(2016)「九州型石錘についての覚書」『海と山と里の考古学』山崎純男博士古稀記念論集編集委員会
- 渡辺仁(1969)「所謂石錐について-先史学における用途の問題-」『考古学雑誌』5512
最近のコメント