方形周溝墓 ― 2024年10月13日 00:14
方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ,Square tomb with Circumferential groove)は正方形や長方形の墓に周囲に溝を巡らせた墓である。
概要
弥生時代前期から古墳時代まで続く墳丘墓である。千葉県や堵玉県などでは弥生時代中期に比定できる遡るものが確認されている。 形状は方形に溝を巡らせて墓域を区画する。内側の平坦面に土壙を設けて埋葬する墓制である。規模は1辺5m-6mから30mを超える大型サイズまである。方形の区画内に周溝を盛り上げた土を約1m程度盛り上げるのが一般的である。溝の幅は1~5m程度である。溝が完周するものだけでなく、一隅が土橋状に外側とするもの、コ字型に溝が切れるもの、四隅が土橋になるものなど時代により変化する。周溝が完周するものは古墳時代に多い。周溝の一部が切れて外側と接続するものは弥生時代に多いとされる。 弥生時代の墓はどれだけ規模大きくとも分類上は古墳にならない。 盛り土された中央部に土壙(墓穴)を掘り埋葬する。棺の大きさや副葬品には大きな差がないことから、弥生時代前期は身分や権力の格差が小さな社会であったと考えられている。弥生時代中期の方形周溝墓では、1つの周溝墓に多くの人が埋葬されていることがある。社会階層の分化に伴い、社会的身分により墓の規模や副葬品などに差が出始める。
古墳との関係
川崎純徳は方形周溝墓と古墳の出現に時期差があり、一定期間は併存するが、方形周溝墓は古墳に代わり、古墳時代後期には円墳に引き継がれると主張した。
来歴
1963年(昭和38年)、東京都八王子市宇津木向原遺跡について大場磐雄が1964年に始めてこの名称を使用した。
地域の広がり
兵庫県・大阪府・香川県など瀬戸内海東部沿岸で弥生時代の前期中に現れる。弥生時代前期後半になると近畿地方のほぼ全域に広がる。岡山県から西の地域には普及していない。近畿地方から東において一般的な墓となる。弥生時代後期には北関東・東北南部まで普及した。
類例
弥生時代より早い時期に朝鮮半島で大量に発見されている。
参考文献
- 斉木誠(2016)「常陸地域における方形周溝墓の基礎的分析」筑波大学先史学・考古学研究 27 pp.1-23
- 川崎純徳(l972)「古墳以前一常総地方におげる古墳成立基盤について考える-」常総台地第 6号 常総台地研究会 pp.14・23頁
二重構造モデル ― 2024年10月13日 14:22
二重構造モデル(にじゅうこうぞうもでる)は日本人の人類学的な集団形成の起源を説明する埴原和郎が提唱した仮説である。
概要
アイヌ、沖縄人、日本本土人の集団形成史を全体として統一的に説明するための仮説である。 縄文人は北海道から沖縄まで広く分布し、時代的・地域的に大きな差はあるが、変動幅は現代日本人と比べると小さいため、埴原和郎(1993)はほぼ均一の集団とみることができるとした。埴原和郎(1993)は縄文人は大陸とは異なる生態系や食糧資源により独特な形態に小進化したと考えた。 小山修三(1984)は、縄文時代の集落は平均24人だったが、東日本の弥生集落は57人に達し、西日本では更に大規模な佐賀県・吉野ヶ里遺跡が登場し、人口が大幅に増えたと指摘する。これらの遺跡は渡来人により営まれたものであり、渡来には気候の寒冷化や中国・朝鮮半島の動乱の影響もあったと推定している。 埴原和郎(1987)は弥生時代から7世紀までの渡来人の数を推計し、7世紀までに渡来人人口は日本人全体の70%から90%に及び、数十万人から百万人以上が渡来したと推計した。 埴原和郎(1990)は全国の大学・博物館の協力を得て、出身の明らかな現代日本人の骨標本データとして男性711個体、女性537個体を分析した。縄文系集団の特徴は、北海道、東北地方、四国、九州南部に残り、渡来系集団の特徴は北九州、本州西部に残る結果を得た。 日本人の二重構造性は弥生時代に生じたと結論づけている。
縄文人の形成
埴原和郎は縄文人が北海道から沖縄に至る日本列島の全体に分布していたと考えた。また縄文時代を通じて各集団に小進化が生じ、かなり大きな時代差とともに地域差が生じたとする。縄文人の形質は同時代の中国の集団とは大きく異なり、南アジアの旧石器時代人に共通する多くの「古代型」の特徴を示すと考えた。これは各地域の頭骨計測値の因子分析から得られた結果であった。縄文人のミトコンドリアDNA配列はマレーおよびインドネシア出身の2個体と類似したことは、縄文人の祖先集団を東南アジア系と推測した。旧石器時代から縄文時代にかけて、日本列島の住民はそれぞれの地域で小規模な社会を形成していた。
人種交代説・混血説・移行
明治・大正期には日本列島における「人種交代説」が唱えられた。つまり渡来人は縄文人と交代したと考える説であり、先住民である縄文人は新しく渡来した現代日本人の祖先集団に駆逐され,人種的交代が起きたとする。これに対して混血説は縄文人の集団が近隣の集団 (渡来人)と混血することによって現代日本人に変化したと考える。移行説は日本列島では人種の交代や混血はなく、縄文人集団自体が進化することによって現代日本人に変化したとする説である。移行説は環境要因の影響で少しずつ身体的に変化して現代本土日本人になったとする。
弥生人の到来
地球規模の寒冷化と、中国の中・北部および朝鮮半島における争乱により、弥生系渡来人の数は弥生時代から急速に増加し、大陸からの渡来は弥生時代から7世紀に至るほぼ1000年間にわたって長く続いたとする。渡来人は権力者やその一族が含まれるが、それだけでなく、多数の一般庶民や難民が含まれていたとする。埴原和郎は新石器時代から現代に至る中国北部、蒙古、東部シベリアなど多数の集団の骨格データを多変量解析法により分析し、渡来系弥生人の頭骨形態は蒙古、中国東北部および東シベリアなどで寒冷適応をとげた集団との強い類縁性を有すると判断した。 渡来人は北アジアを源流とし、中国北部や朝鮮半島やを経由して日本に到達したとする。 金関丈夫(1966)は渡来人たちが男性主体の集団であったために日本で在来集団(縄文人)の女性と結婚したと考えた。骨形態からみると弥生人の特徴は北アジア集団の遺伝的影響が西日本、とりわけ北部九州に及ぶが、一方、東日本では在来の縄文人の遺伝的連続性が認められるとした。30名以上の人類学者および解剖学者の協力を得て組織された研究班により北海道(アイヌ)から南は九州に至る諸地域を含み、調査した標本数は男性711個体, 女性537個体に及ぶ。埴原(1985)は頭骨計測値に西日本から東北地方に向かって増加または減少する明らかな勾配を認めた。
二重構造説
埴原和郎は日本人の生物学的特徴は全体として、本州南西部と九州の集団は北アジア集団に類似し、本州北東部の集団は東南アジア集団に類似すると結論づけた。 すなわち日本人集団の基底に南東アジア系集団由来の縄文人の上に、北東アジア系集団由来の弥生人が重なる二重構造をなすとした。 明治大正期には「人種交代説」が有力であったが、縄文人と現代人の差を説明する最も単純な論理であるが、西日本から東日本の形質の勾配、形質の局地的な偏り(地域性)、日本犬・野生マウス、ATLV保有者の分布を説明するには限界があり、二重構造説が提唱された。 形質の勾配とは現代日本人骨の近畿、関東、東北、北海道(アイヌ)にかけて、頭蓋骨大長、頭骨最大幅、パジオン・プレグマ高、頬骨弓幅、上顔高、鼻幅、鼻高、総合偏差値がスムーズな勾配が見られることをいう(埴原和郎(1990))。
考察
埴原和郎の説は日本人の形成をめぐる明快で分かりやすい説として広く受け入れられた。 現在では二重構造モデルはいくつかの問題点を抱える。第一に、約3万年から2万年前に日本列島に渡来した後期旧石器時代の子孫が縄文人と考えられており、弥生人は中国北部や遼寧地域系のDNAをもつ韓半島青銅器文化人が弥生系渡来人と考えられていることである(藤尾(2024))。第二に縄文人が日本列島全体で均一であるという仮定を設けている点である点が指摘されている(篠田(2024))。実際には縄文人は複雑な形成過程を経ている。第三に現在ではDNA分析の技術が発達しており、縄文人や弥生人のDNA分析により中国、韓国との集団的な比較が可能となっている。第四に二重構造モデルでは北海道のアイヌ集団と琉球集団は本土の日本人と比べると縄文系の遺伝子を持つという共通点以外には共通する要素はないとされる点である(篠田(2024))。 二重構造モデルは日本人の形成全体をうまく説明できるモデルであったが、完全に否定されるモデルというわけではなく、修正や強化すれば、使えるモデルになると言える。
参考文献
- Kazuro Hanihara(1987)”Estimation of the number of early migrants to Japan : a simulative study” Journal of the Anthropological Society of Nippon,Vol95,No3,SN
- 埴原和郎(1990)『日本人新起源論』角川書店
- 埴原和郎(1994)「二重構造モデル:日本人集団の形成に関わる一仮説」AnthropologicalScience 102 (5),pp.455-477
- 埴原和郎(1993)「日本人集団の形成」『日本人と日本文化の形成』朝倉書店,pp.258-279
- Kazuro Hanihara(1994)"Dual Structure Model for the Formation of the Japanese Population"Anthropological Science/Volume 102,Issue 5
- 藤尾慎一郎(2024)『弥生人はどこから来たのか』吉川弘文館
- 篠田健一(2024)「DNA分析と二重構造モデル」季刊考古学No166、雄山閣
- KEIICHI OMOTO(1997)"Genetic Origins of the Japanese: A Partial Support for the Dual Structure Hypothesis"AMERICAN JOURNAL OF PHYSICAL ANTHROPOLOGY 102:pp.437-446
- 小山修三(1984)「縄文時代-コンピュータ考古学による復元」中央公論社
- 溝口優司(1994)「「混血説」と「二重構造モデル」,そして今後の日本人形成論」
- 金関丈夫(1966)「形質人類学から観た日本人の起源の問題」民族學研究 30 (4),pp.274-276
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