綿貫観音山古墳 ― 2024年10月14日 17:12
綿貫観音山古墳(わたぬきかんのんやまこふん)は群馬県高崎市綿貫町にある古墳時代の前方後円墳である。日本百名墳に選出されている。
概要
群馬県高崎市を流れる一級河川である烏川に合流する井野川との合流点から約2.0km遡った右岸の河崖縁寄りに立地する。標高は約73m、ほとんど起伏の見られない平坦地である。副葬品の内容が特に充実する6世紀後半を代表する東日本の古墳である。。副葬品から朝鮮半島南部の百済・新羅・加耶地域との深い関係性が想定され、高い制作技術で作られた優品が収められている。石室の石材は6世紀第2四半期の榛名山噴火で噴出した角閃石安山岩を主要石材とする。石室からは二神六獣鏡、獣帯鏡、金銅製鈴付大帯・金環、金銅装頭椎大刀・鉄地銀張素環捩環頭大刀、小刀・刀子・衝角付変形冑・挂甲などの武器や武具,轡・鞍・鐙・雲珠などの馬具,須恵器の大甕・壺・坏,土師器の壺・高杯,銅製の水瓶など500点以上の副葬品が出土している。玄室は全長8.2m、幅3.8m、国内最大級のサイズである。 埴輪は巫女や弦楽器を爪弾く三人童女、正装貴人、挂甲武人、農夫、盾持人などの人物埴輪などが原位置を留めた状態で発見された。金銅大帯は綿貫観音山古墳のほかには、奈良県の藤ノ木古墳と群馬県の山王金冠塚古墳でみつかっているが、鈴付の金銅大帯は綿貫観音山だけである。 天井石が崩落していたため副葬品が盗掘されずに残っていたと考えられる。
調査
周辺の開発計画が立案され、群馬県立博物館学芸員の梅澤重昭氏が計画を見直すよう要望する。しかし観音山古墳の保存に対する地元関係農家の総意は、当面する稚蚕共同飼育用桑園を確保するためには、観音山古墳に桑園を造成することは止むなしという立場であり、保存にたいして否定的であった。地元関係農家は、桑園造成のために墳丘部にブルトザーを入れて、開墾に着手しようとしていた。1965年(昭和40年)土砂採取のため破壊、削平された前方部墳丘の測量調査を群馬県立博物館(現県立歴史博物館の前身)が行い、200分のl縮尺の墳丘実測図を作成した。 1667年(昭和43年)3月4日から17日にかけて第1次調査が行われた。現場作業の責任者には、群馬県立博物館学芸員梅澤重昭、発掘調査員として明治大学考古学研究室から派遣された学生13名および、県内出身の考古学専攻学生3名をもって構成する調査団が編成された。埴輪等の配置状況を明らかにすることを第一の目的とし、主体部の種類とその位置確認を第2の目的とした。後円部墳頂部で家・鶏・盾形埴輪等が確認された。主体部横穴式石室が確認されたため、保護対策を進める必要から主体部石室を開口し、石室内部の調査にあたった。しかし玄室右壁中央部を中心に石室は崩壊しており、天井石は玄室中央位の第2石が左側壁を支えながら落下していた。古墳は盗掘等の被害を受けておらず、きわめて良好に保たれていたことが判明した。全体調査を次年度事業とした。 第2次調査は、国の補正予算180万円を得て、1667年(昭和43年)7月26日から8月16日の期間で、主体部横穴式石室の全体調査、墳丘頂部および、中段平坦面に配置されている埴輪類の配列状態の解明、周堀囲続状態及兆域範囲の確認を行った。 第3次調査は同年11月20日から12月6日までの16日間とし、調査員に明治大学文学部史学地理学科考古学専攻の学生30名(例言参照)が参加した。併行して石室内出土遺物類の保存科学調査を行う。東京国立文化財研究所保存科学部、千葉大学理学部が協力した。県立博物館に収蔵された遺物類のなかで、埴輪類男子胡坐像(親)と女子膝坐像(巫女)、女子立像(御食持ち)の3体のほか、三人童女像・盛装男子像・桂甲武人像・農夫像(馬子)等を完全復元することができた。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段、後円部:2段
- 墳長 97m
- 後円部 径径61m 高9.6m
- 前方部 幅64m 長49.4m 高9.4
遺構
- 外表施設
- 円筒埴輪 円筒・朝顔形
- 葺石 なし
- 主体部
- 室・槨 横穴式石室(両袖型)
遺物
- 【鏡】
- >獣帯鏡 - 中国鏡
- 二神六獣鏡 - 仿製鏡
- 【装身具】
- 金環9
- 銀環4
- 金銅製鈴付大帯・
- 金銅製ボタン形飾り
- 【玉類】
- ガラス丸玉
- ガラス小玉
- 金製中空丸玉
- 【武器】
- 金銅装頭椎大刀
- 鉄地銀張素環捩環頭大刀
- 三累環頭大刀
- 刀身
- 鉄鉾身石突
- 鉄鏃
- 【武具】
- 衝角付変形冑
- 挂甲
- 臑当
- 籠手
- 胸当
- 【農工具等】
- 鑿
- 鉄鑷子
- 鉇
- 銀装刀子
- 刀子
- 鹿角把刀子
- 【馬具】
- 金銅製馬具(花弁付雲珠・歩揺飾雲珠・素環状鏡板付轡・鞍・鉸具)・
- 轡 ?
- 三環鈴
- 鉄製鉸具
- 鉄辻金具
- 鉄板飾壺鐙など
- 【土器】
- 土師器
- 須恵器(TK43)
- 【その他】
- ハマグリ
- 銅製水瓶
築造時期
- 6世紀後半
被葬者
- 6世紀の高崎市を中心とした地域を支配した豪族。
展示
- 群馬県立歴史博物館 - 日本国(文化庁)所有
指定
- 2020年(令和2年)9月30日、国宝に指定
- 1973年(昭和48年)4月14日 国の史跡指定
考察
6世紀の高崎付近の有力者としては、『先代旧事本紀』に記される上毛野国造に任命されとされる彦狭島命や武蔵国造の反乱時に当事者となった上毛野地方の豪族上毛野君小熊などが浮かび出る。『新撰姓氏録』に記される韓矢田部造は朝鮮半島と関係するものかもしれない。日本書紀に上毛野氏は朝鮮交渉に従事したとの伝承があり、出土品との関係がうかがえる。
アクセス等
- 名称:綿貫観音山古墳
- 所在地 :群馬県高崎市綿貫町字観音山
- 交 通 :
参考文献
- 群馬県教育委員会(1998)『綿貰観音山古墳』(財)群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘調杏報告書第242号 墳丘・埴輪編
- 群馬県教育委員会(1999)『綿貰観音山古墳』(財)群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘調杏報告書第255号 石室・遺物編
安徳台遺跡群 ― 2024年10月14日 20:03
安徳台遺跡群(あんとくだいいせきぐん)は弥生時代中期の奴国の拠点集落遺跡である。
概要
安徳台は福岡市の最奥にある阿蘇山の火砕流で形成された広さ15万m2の台地である。本遺跡は弥生時代中期の集落及び墓域の変遷を把握できる貴重な遺跡で、弥生時代の階層や社会構造を検証し、弥生時代の歴史を解明するうえで重要な遺跡である。
発掘調査
平成12年調査
9 箇所約3,900 ㎡を調査した。弥生時代中期の住居跡 28 軒を確認した。古代の大型の建物跡、中世の墓地を1棟検出した。
平成15年度
甕棺墓群の約 200 ㎡を調査した。合計10 基の甕棺墓を確認し、内8基を調査した。2基からゴホウラ貝製腕輪、ガラス製品(管玉、勾玉、塞杆状製品)等の貴重な副葬品が出土した。
全体的総括
奴国では比恵・那珂遺跡群と須玖岡本遺跡一帯は王都として認識されている。大陸や半島色のある出土遺物、甕棺墓と豪華な副葬品は本遺跡が奴国の中でも有力な人物が治めていた拠点的集落であることを示す。 弥生中期から後期初頭までの集落遺跡が確認された。直径15mを超える日本最大級の竪穴住居や、青銅器の鋳型などの鋳造関連遺物や舶来してきた鉄斧を再利用した道具が出土した竪穴住居跡がみつかった。検出した竪穴住居は130軒ほどであった。竪穴住居跡から鋳型、勾玉、天河石製の玉、漢式鏃、鉄器などが出土した。2号甕棺墓の被葬者は男性で、上甕には黒色顔料が塗られていた。副葬品として、鉄剣、鉄戈、ガラス製の勾玉、ゴホウラを使用した釧、管玉、ガラス器が見つかった。釧は43個あり、うち23個を右腕に装着し、残りは横に積み重ねている。棺の外から鉄剣、鉄戈が出土した。5号甕棺墓の被葬者は女性で、朱が甕棺内に全面にまかれ、遺骸部分に丹が厚く堆積する。
人骨のDNA分析
5基の甕棺に人骨が残存していた。安徳台5号人骨は紀元前1世紀の女性人骨である。ミトコンドリアDNA 配列は現代日本人の範囲に入るゲノムであったが、ハプログループはB5b であった。弥生系渡来人であるものの、現代日本人に比べると縄文的な要素が強いことが判明した。在来の縄文人と混血が進んでいたことを示す。
遺構
- 住居25以上(円形1)
- 土坑10以上
- 土坑溝
- 掘立柱建物+
- 地下式横穴
- 立柱建物
- 甕棺墓
- 祭祀遺構
- 木棺墓
遺物
- 甕
- 壺
- 高杯
- 石剣
- 砥石
- 石庖丁
- 石剣
- 作業台
- 弥生土器(壺+甕+高杯+鉢+蓋)
- 器台
- 鉄戈
- 鉄剣
- 鉄斧
- 漢式鏃
- 鋳型
- 貝輪
- 勾玉
- 管玉
- 小玉
- 塞杆状製品
- 石剣
- 石庖丁
- 砥石
- 石斧
- 台石
- 瓦
- 須恵器甕
- 土師器(皿+杯+ミニチュア土器)
指定
- 平成31年2月26日 国史跡・安徳台遺跡
展示
アクセス等
- 名称:安徳台遺跡
- 所在地:福岡県那珂川市大字安徳 416 番 2
- 交通:
参考文献
- 文化庁(2004)『発掘された日本列島 2004』朝日新聞社
- 篠田謙一(2020)「福岡県那珂川市安徳台遺跡出土_弥生中期人骨のDNA分析」国立歴史民俗博物館研究報告 第219号
朝貢 ― 2024年10月14日 22:20
''朝貢'(ちょうこう)は古代の東アジアにおいて、中国皇帝に対して周辺諸国の首長が貢物を献上し、皇帝はその恩恵として下賜(返礼品)を与えて帰国させることである。
概要
孫薇(2003)は、「朝貢とは定期的に皇帝に貢品を捧げ、天子に謁見するために朝廷にあがることである」と定義した。そこで「貢」は天子に捧げる地元の産品(方物)であり、「朝」は諸侯が臣として禮を尽くし、朝廷に集めることである。 三国時代や唐において、朝貢が行われ、宋・元・明・清でも継続した。朝貢は周辺諸国の首長の使節が相手国への物品の贈与を通じてお互いの関係を確認しあうことであり、外交儀礼・政治的行為であり、本来は経済取引ではない。 直轄支配する土地では内臣であり、朝貢国は外臣である。
方物
貢品は方物という。『魏志倭人伝』に「方物」と書かれる。1373年、朝鮮国王が馬を五十匹、貢物として使者を派遣した。しかし途中で二匹の馬が死んだため、使者は普通の馬を購入して補充した。皇帝は補充した馬を却下した。朝鮮でとれない馬は「私馬」としてそれを捧げることは「不誠」であるとした。すなわち地元の産品でなければ、方物ではないとした。
倭国の朝貢
倭国からの最初の朝貢は57年である。倭の奴国王が光武帝に使いを送り朝貢し、「漢委奴国王」の印綬を授けられた。239年卑弥呼は魏に使者を送り、生口(奴隷)として男4名、婢6名、班布(まだら織の布)2匹2丈を献上した。いささか貧弱な貢物であったが、すべて倭国の産品であった。班布は紵麻(チョマ)と呼ばれる麻の布であったとされる。2丈(約4.7m)の布を2反贈ったと理解できる。それに対する皇帝の下賜品は豪華であった。「親魏倭王」の称号や銅鏡などを授かったとされる。 倭の五王時代には上表文を提出し、称号を求めている。これらから、当時の倭国は冊封体制に組み込まれていたと考えられる。
古琉球の朝貢使
尚巴志(しょうはし)の時代(在位:1422年 - 1439年)、進貢使(朝貢使)は総勢300人、ほぼ2年に1度の頻度で派遣されていた。献上品は、馬や硫黄、貝類、芭蕉布など沖縄の特産品をはじめ、日本の工芸品や東南アジアの珍品などであった。皇帝からは、国王への文書と高級な品物が下賜された。
参考文献
- 西嶋定生『秦漢帝国』講談社
- 西嶋定生(1962)「六-八世紀の東アジア」『岩波講座日本歴史 第2巻』岩波書店
- 西嶋定生(1962)『冊封体制論』
- 西嶋定生(2002)『西嶋定生東アジア史論集〈第3巻〉』岩波書店
- 山尾幸久(1989)『古代の日朝関係』塙書房
- 孫薇(2003)『「貢品」と「下賜品」 に見る中琉関係』
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