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仏舎利2025年07月01日 00:02

仏舎利(ぶっしゃり)は入滅した釈迦の遺骨である。

概要

舎利は「遺骨・遺体」を意味するサンスクリット語の「sarira」から由来するとされる。 舎利は釈迦をしのぶものであり、釈迦の教えのシンボルとして尊重され、信仰されてきた。

舎利を美しい容器に納めることは古代インドに始まる。仏教の伝播にともない、舎利信仰は中国、韓国、日本へと伝わわった。

仏舎利塔

釈迦の遺徳を慕って、仏舎利を分けてほしいと懇請があり、地元のマルラ人たちはそれぞれを各国王に分譲した。分譲をうけた8カ国と地元は、仏舎利をまつるための塔を10ヶ所建てた。これが仏舎利塔の起源とされる。 五重塔(三重塔)は、仏舎利を納めるために建てられる仏塔のひとつである。塔はインドのストゥーパ(仏塔)が起源である。五重塔の心柱の下に心礎(礎石)があり、そこに舎利容器が納められる。

参考例

  • 松林寺五層磚塔納置金銅舎利 - 韓国・国立慶州博物館
  • 慶州羅原里五層石塔出土舎利容器 - 韓国・国立中央博物館
  • 金銅舎利塔 - 東京国立博物館 重要文化財

参考文献

羽根尾貝塚2025年07月01日 00:10

羽根尾貝塚(はねおかいづか)は神奈川県小田原市にある縄文時代の遺跡である。

概要

羽根尾貝塚は相模湾北西部に位置し、小田原市東部、大磯丘陵南西部の羽根尾工業団地内の地表下2mから4mで発見された。縄文時代前期中葉の貝塚と泥炭質包含層により構成される遺跡である。貝塚は現在標高22mから25mにあるが、斜面貝層の堆積があり、縄文海進時の比較的温暖な気候のときに形成された貝塚である。遺物は、縄文時代前期の関山式・黒浜式土器のほか、東海地方との交流を示す土器が含まれる。貝層の厚さが約50cmと薄いため、貝の採集は長期間ではなかったとみられる。水分と有機質を含む泥炭層であったために、台地上の遺跡では通常残らない(腐ってなくなる)木製品・漆製品・繊維類が豊富に出土した。貝塚の形成はBC3720年頃と見られる。遺跡は造成により消滅した。現地に説明板が立っている。

調査

漆塗りの木製容器、丸木舟を漕ぐための櫂、骨や角で作った髪飾りや釣針などの生活の道具、縄文人 が食料としたカツオ、イシナギなどの魚類、猪、鹿、イルカなどの哺乳類の骨や歯、クルミなどの木の実が出土した。縄文時代の相模湾で船を用いたイルカ・カツオ・メカジキ・サメ・イシナギなどの外洋性漁労が行われていた。石器は磨石・敲石の出土が多い。調査区東寄りの地点で半分に割れたクルミ殻と堅果類が集積している。1号貝層の北西端から、人骨が1体検出された。神奈川県下における縄文時代泥炭層遺跡の本格的調査は本遺跡が最初の事例であった。

遺構

  • クルミ集中
  • 貝層6
  • 遺物集中1
  • 集石1

遺物

  • 縄文土器
  • 石器
  • 土製品
  • 骨角器
  • 木製品
  • 人骨
  • 植物遺存体
  • 動物遺存体
  • 縄文土器
    • 関山式土器
    • 黒浜式土器
    • 諸磯a式
  • 石器
    • 漆塗りの木製容器、
  • 丸木舟を漕ぐための櫂、
  • 髪飾り
  • 釣針
  • カツオの骨
  • イシナギ
  • 猪、
  • 鹿の骨
  • イルカの骨
  • 成人男性の骨
  • 磨石
  • 敲石
  • 木製品
  • 編物

指定

  • 平成16年2月10日 神奈川県指定重要文化財

展示

  • 小田原市郷土文化館

考察

アクセス等

  • 名称: 羽根尾貝塚
  • 所在地:神奈川県小田原市羽根尾字中道444-1
  • 交通:

参考文献

  1. 戸田哲也・舘弘子(2001)「羽根尾貝塚の発掘調査成果とその意義」日本考古学

藤氏家伝2025年07月01日 23:41

藤氏家伝(とうしかでん)は奈良時代後半に成立した藤原氏の家史である。

概要

藤氏家伝は上巻と下巻からなる。藤原鎌足伝は「大織冠伝」とも言われる。藤原不比等伝は失われている。上巻は「大師」すなわち太政大臣である藤原仲麻呂が編纂を主導したとみられる。下巻は華厳宗の学僧である延慶の執筆編集とみられている。延慶は藤原仲麻呂の家僧と推測されている。藤原仲麻呂が先祖の藤原鎌足等の顕彰を目的として編纂したとみられる。貞慧は飛鳥時代の学僧で、藤原鎌足の長子である。

構成

藤氏家伝の構成は以下の通りである。

  • 上巻
    • 藤原鎌足伝
    • 貞慧伝
  • 下巻
    • 武智麻呂伝

成立

天平宝字四年(760年)から天平宝字六年(762年)頃に成立した藤原氏の家史である。

『日本書紀』との関係

鎌足伝と『日本書紀』との関係は横田健一氏の見解がほぼ通説となっている。

考察

藤原不比等伝がないのは残念であるが、藤原氏にとって都合の悪いことが書かれていたのであろうか。全体としては藤原氏に都合良くかかれており、記述のすべてを文字通りに受け止めるべきではないであろう。藤原仲麻呂は藤原鎌足とは約100年の時代差があるので(藤原鎌足→藤原不比等→藤原武智麻呂→藤原仲麻呂)、直接の面識があったわけではない。藤原仲麻呂からみれば藤原鎌足は曾祖父である。藤原仲麻呂が藤氏家伝の編纂を主導したといっても、仲麻呂に記憶があった訳ではないので、それまでの伝承や古記録(あったとすれば)に、独自の誇張を加えても不思議ではなかろう。成立が760年頃なら藤原鎌足の死後100年である。

参考文献

  1. 沖森卓也, 佐藤信, 矢嶋泉 (翻訳)『現代語訳 藤氏家伝』筑摩書房
  2. 横田健一(1973)『白鳳天平の世界』創元社
  3. 横田健一(1973)「大化の改新と藤原鎌足」史林42 (3),pp.82-411