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吉見台遺跡2025年07月02日 00:10

吉見台遺跡(よしみだいいせき)は千葉県佐倉市にある縄文時代の遺跡である。

概要

千葉県印旛沼の南約2.5キロメートルに位置し、付近は南北に流れてる手繰川と鹿島川に挟まれ、印旛沼に向かって延びる標高20mから30m台地上で鹿島川の河口近くにある。台地の下には、七井戸池と呼ばれる湧水池がある。住宅地の造成に伴う発掘調査が1983年(昭和58年)10月から実施され、調査によって検出された遺構は、縄文時代早期から各時代にわたる。現在、吉見台公園となっている。

調査

大型住居

円形の大型建物跡。長軸18.2m、短軸17.5m、最も長い部分で約19mである。日常で使う土器・石器類などとともに、ミニチュア土器、土偶、異形土製品などが検出された。また、水鳥の線刻画が描かれた土器も検出された。土偶は600以上が出土した。また12点の手燭形土製品が出土している(蜂屋孝之(2007))。製作時期は安行式3aから3bである。 入口部を含む基本的には、深さ2m前後の主柱穴8本と壁に沿う柱穴で構成される。出入口寄りの炉のほかに、床面に焼土が6か所点在している。海獣形土製品は珍しい。ミレニアムセンター佐倉(京成佐倉駅北口)二階で展示する。

浅鉢式土器

大阪歴史博物館に所蔵される下郷伝平コレクションの中に吉見台遺跡A地点から出土した浅鉢式土器の破片がある。加曽利1式期であり、関東地方東部の土器の特色として、外面に縄文を施す。

遺構

  • 住居跡7軒
  • 掘立柱建物跡2棟
  • 土坑 124基
  • 焼土址5基
  • 貝塚1ヵ所

遺物

  • 縄文式土器(浮島興津
    • 阿玉台中峠
    • 加曽利E1-4
    • 称名寺
    • 綱取
    • 堀之内1-2
    • 加曽利B1-3
    • 曽谷安行12
    • 前浦
    • 大洞
    • 荒海式
  • 東北系搬入土器製塩土器)
  • 異形台付土器
  • 手燭形土器
  • 土偶
  • 土版
  • ミニチュア土器
  • 骨角貝製品
  • スタンプ形土製品
  • 土製耳飾
  • 土製円盤
  • 動物形土製品
  • 有舌尖頭器
  • 石鏃
  • 玉類
  • 磨製
  • 打製石斧
  • 軽石製品
  • 礫器
  • 石皿
  • 石剣
  • 独鈷石
  • 砥石
  • 加曽利E3-4式土器
  • 土器片錘

指定

展示

  • ミレニアムセンター佐倉

考察

大型竪穴式住居は縄文時代としてはかなり大型である。主軸方向は北北西で、南側に出入口部がある。集会所または共同作業所だったのであろうか。

アクセス等

  • 名称: 吉見台遺跡
  • 所在地:千葉県佐倉市吉見台字古新畑344
  • 交通:

参考文献

  1. 印旛郡市文化財センタ-(2000)『印旛郡市文化財センター発掘調査報告書159:吉見台遺跡A地点』印旛郡市文化財センタ-
  2. 蜂屋孝之(2007)「手燭形土製品の新資料と千葉県内の出土例について」研究連絡誌 68,pp. 1-9,千葉県教育振興財団
  3. 別所鮎美(2015)「下郷コレクションにおける深鉢形土器の一例」共同研究成果報告書 9、大阪歴史博物館
  4. 堀越正行(1992)「千葉県の土偶」国立歴史民俗博物館研究報告第37集
  5. 印旛郡市文化財センター(2007)「印旛の原始・古代」

藤井千尋2025年07月02日 22:47

藤井千尋(ふじい ちひろ、1837年- 1900年3月15日)は、幕末勤王の志士、明治期の内務官僚である。第一次奈良博覧会の開催に尽力した。

概要

1837年(天保8年)に上野国群馬郡(現群馬県高崎市)で生まれる。幼名は弘助であったが、1870年(明治3年)に千尋と改名した。20歳頃に幕府御馬所見習いとなる。 明治維新後、藤井千尋は明治政府に出仕し、1869年7月12日(明治2年6月4日)に徴士弾正台大巡察に任官される。1870年(明治3年)10月、堺県大参事に任命される。1871年(明治4年)11月22日、堺県権参事に任命される。1872年(明治5年)7月8日、堺県参事に任命される。1872年(明治5年)11月10日、従六位となる。 廃藩置県後、最初の県令である四条隆平が退任した後、青山貞が奈良県権令に就任する予定であったが、赴任しないまま他の任務についたため、代わりに堺県参事であった藤井が1873年(明治6年)11月19日に奈良県権令に就任した。1874年(明治7年)2月18日、正六位となる。 1876年(明治9年)4月、奈良県が廃止され、堺県に合併され廃官となり、従五位となる。 1883年(明治15年)11月4日、能勢豊島郡長となる(月俸50円)。 1886年(明治18年)11月、大阪府の生國魂神社宮司・松下隆和の辞職に伴い、生國魂神社宮司に就任した。1900年(明治33年)3月15日に逝去した。63歳没。

第一次奈良博覧会

湯島聖堂大成殿を会場に博覧会が開催されたあと、産業振興を目的として、奈良県でも博覧会の開催が計画された。 1874年(明治7年)8月、奈良県権令・藤井千尋のすすめで、植村久道・鳥居武平ら奈良町の有力者が中心となって奈良博覧会社を設立し、翌1875年(明治8年)4月1日から6月19日までの80日間、東大寺大仏殿と廻廊を会場に第一次奈良博覧会が開かれた。書画、古器古物、動植物標本、機械類が展示された。東大寺・法隆寺・春日大社など大和の有力な社寺や諸家が所蔵する什宝や書画などが、多数出品され、また明治5年の壬申検査で開封された正倉院御物が出陳された。正倉院からは鳥毛立女屏風、紅染象牙尺、黄熟香、紫壇碁局、金銅投壷、木製黒漆水瓶などの名品が出品された。第1次奈良博覧会の観客数は17万人を超え大人気であった。博覧会は1890年(明治23年)まで続いた。神仏分離政策等によって散逸の心配があった多くの宝物類の認識が高まった。 1875年(明治8年)の奈良博覧会で赤漆文欟木御厨子の1枚の扉が紛失した。博覧会の関係者で奈良県権令の藤井千尋の自宅で発見され、返却された(由水常雄(2006))。

奈良県での業績

奈良在任期間中の業績ととしては、大区会議所の整備・大区小区の組み替えなど、大区小区制の整備、地租改正事業の実施、「学制」以後の小学校の整備、小学教員伝授(伝習)所以降の教員養成機関の設立などである。

参考文献

  1. 奈良国立博物館(2008)『正倉院展60回の歩み』奈良国立博物館
  2. 東京国立博物館(1981)『特別展 正倉院宝物』東京国立博物館
  3. 由水常雄(2006)『天皇のものさし』、麗澤大学出版会
  4. 奈良県(1987)『青山四方にめぐれる国 : 奈良県誕生物語』奈良県
  5. 和田萃,幡鎌一弘,谷山正道,山上豊,安田 次郎(2010)『奈良県の歴史』(県史29)山川出版社
  6. 国立公文書館(1892)「第五類 諸官進退・官吏進退」明治十九年官吏進退五・内務省三止