埴輪工場の発見 ― 2025年08月01日 00:10
埴輪工場の発見(はにわこうじょうのはっけん)は明治大学博物館考古部門のミニ展示「茨城県馬渡埴輪製作遺跡発掘60周年」(2025年7月11日(金)~9月20日(土))である。
概要
馬渡埴輪製作遺跡は古墳時代の5世紀末から6世紀に埴輪を製作していた工場の跡地である。粘土の採掘坑・アトリエ・埴輪を焼いた窯・失敗作の廃棄場のセットが関東で初めて出土した遺跡とされる。1965年(昭和40年)から1991年(平成3年)まで20年以上にわたり、明治大学と勝田市(現ひたち那珂市)が実施した発掘調査により、窯跡19基、住居2、工房跡12基、粘土採掘坑26基、埴輪廃棄場2個所(失敗作の廃棄場)のほか、溝跡が発見されている。谷に面して比高約3mの台地上に展開する。工人達の住居跡2基も発見される。 谷底に水が湧き、斜面には良質な粘土が取れる。A地区からE地区の5個所がある。 埴輪材料の粘土と水、窯の建設に向いた場所である。現在は「馬渡はにわ公園」として整備されている。発掘調査から60周年を記念し、明治大学博物館が所蔵する出土資料を展示(小規模展示)した。
A地区
6世紀前半から後半の遺跡である。埴輪窯9基、工房跡9、埴輪廃棄場1個所である。傾斜角度は最大24度。工房跡から塗料用の赤色顔料がみつかる。住居内から祭祀用のてづくね土器が見つかっている。採掘孔を地表面から掘り下げる。
B地区
6世紀前半の遺跡である。埴輪窯2基、粘土採掘抗は3以上、埴輪廃棄場1個所である。窯のひとつは地表から2m掘り下げたトンネル状の登り窯である。
C地区
5世紀末から6世紀の遺跡である。埴輪窯3基(うち1基は未使用)、工房跡2、埴輪廃棄場1個所である。円筒埴輪は5世紀代のものがあり、川子塚古墳に供給されたものとみられる。人物埴輪の腕の中には一般的なもののほか、芯棒を用いて成形したとみられるものがある。
D地区
6世紀の遺跡である。埴輪窯5基で登り窯である。各窯は1m間隔で作られていた。うち地中に堀り込むトンネル式が3基、掘り込み後に上部を粘土で覆う半地下式が2基である。
E地区
5世紀末の遺跡である。採掘孔は崖面から水平に掘り進める。採掘抗内より短頸壺形土器、高坏形土器、坏形土器、壺形土器片が採取されている。
遺構
- 埴輪窯
- 窯跡
- 住居跡
- 工房跡
- 粘土採掘坑
- 埴輪廃棄場
- 溝
- 粘土採掘抗
遺物
- てづくね土器
- 馬形埴輪
- 短頸壺形土器、
- 高坏形土器、
- 坏形土器
- 埴輪
- 土師器
指定
- 1969年(昭和44年)8月5日 国の史跡指定 史跡名勝天然記念物
- 1985年(昭和60年)8月12日 追加指定
考察
アクセス等
- 名称:馬渡埴輪製作遺跡
- 所在地:茨城県ひたちなか市馬渡2881-3
- 交通:勝田駅よりバス 本郷台団地入り口下車徒歩3分
- 勝田駅→「勝田駅前」バス停→海浜公園南口行きバス7分→「本郷団地入口」バス停→徒歩6分→馬渡埴輪製作遺跡(1時間3本)
参考文献
加曽利貝塚 ― 2025年08月02日 00:20
加曽利貝塚(かそりかいづか)は千葉県千葉市にある縄文時代の遺跡である。
概要
日本最大級の貝塚であり、縄文時代中期中葉に形成された直径約140mで環状の「北貝塚」と縄文時代後期前葉(約5000年前)から中葉(約4000年前)に形成された長径190mで馬蹄形(馬のひづめ形)をした「南貝塚」が連結し、[8字」形となっている珍しい形の貝塚である。 縄文時代の竪穴式建物、貯蔵穴、埋葬遺構をともなう集落遺跡である。 時期が異なる2つの大型環状貝塚が継続して作られた例は他にはなく、約2000年に渡り、長期に継続して集落が営まれていた。東京湾東岸に集中する大型環状貝塚はもとより、全国的にみても最大級の貝塚である。遺跡のほぼすべてが良好な状態で保存されていることは、他に例を見ない財産である。 千葉市内の都川の支流の坂月川を北に2km遡った西側(右岸)の東西約500メートル、南北約800メートルの台地上に位置する。貝塚を含む土層は台地の東側縁辺に東西300m、南北400mにわたり分布する。 貝塚から大量の貝殻のほか、クロダイやスズキなど魚の骨、イノシシやシカなどのの骨、炭になったクリやクルミなどが出土した。縄文土器、石器やシカの角・骨などで作った道具類、ヒスイなどの貴重な石やシカの角などで作ったアクセサリーも出土した。ヒトや狩りのパートナーのイヌも埋葬されていた。 加曽利貝塚は日本の縄文時代研究にとっても重要な意味がある。「加曽利貝塚博物館」では、貝塚から出土した土器などを資料展示する。 遺構の面積は20haを超え、現在約15.1haが特別史跡として保存されている。
縄文時代の遺跡の特別史跡指定
加曾利貝塚は貝塚としては初めて特別史跡に指定された。縄文時代の遺跡としては、4番目である。
- 尖石石器時代遺跡(長野県茅野市) 1952年
- 大湯環状列石(秋田県鹿角市) 1956年
- 三内丸山遺跡(青森県青森市)
- 加曾利貝塚(千葉県千葉市)2017年
調査
1907年(明治30年)、東京人類学会がはじめて発掘調査を行った。 1922年の大山前史学研究所による地形測量で、加曾利貝塚は二つの環状貝塚から形成されることが明らかとなった。 1924年(大正13年)の東京帝国大学人類学教室の山内清男、宮坂光弐等の発掘調査で、は層位学的な発掘調査が行われ、B地点からは堀之内貝塚(千葉県市川市)で見つかっていた特徴の土器と、その上層から新たな特徴の土器が出土した。またE地点では堀の内式土器と その下層からB地点とは異なる新たな特徴の土器が検出された。この新たな特徴の土器群にはそれぞれ加曾利貝塚の調査地点名から「賀曽利B式」「賀曽利E式」の2つの土器形式が設定された。この調査の大きな成果は、地層の上下関係より「賀曽利E式→堀之内式→賀曽利E式」という土器の変化の新旧関係を層位的にはじめて捉えた。縄文時代の人々が時期ごとに異なる特徴の土器を作り出していることを層位学的に証明したことは、「土器形式編年研究」であり、その後の縄文土器研究を飛躍的に発展させるきっかけとなった。
遺跡保存運動
郷土史家の武田宗久が保存の必要性を提起し、市民による保存運動が拡がり、国会でも議論が繰り広げられた。
遺構
1962年(昭和37年)の発掘調査で縄文時代中期中葉の竪穴式建物が見つかった。
- 竪穴式建物 - 縄文時代中期中葉
- 貯蔵穴
- 埋葬遺構
- 土坑
- 堤状貝層
- 遺構内貝層
- 溝状遺構
- 柱穴
遺物
- 異形台付土器 – 縄文時代後期
- 石棒 - 緑泥片岩製、点紋緑泥片岩製
- 貝輪 - オオツタノハ製
- イボキサゴ
- 蛤
- アサリ
- シオフキ
- アラムシロ
- クロダイの骨
- イノシシの骨
- 鹿の骨
- 縄文犬の骨 14から15例
- 加曾利E式土器
- 加曾利B式土器
- 堀之内式土器
- 縄文土器(中期~晩期)
- 土偶
- 土版
- 耳飾
- ミニチュア土器
- 有孔土製円板
- 土器片錘
- 土器片円板
- 焼成粘土塊
- 石器
- 石鏃
- 打製石斧
- 磨製石斧
- 磨石
- 石皿
- 台石類
- 砥石
- 軽石
- 玉類
- 石棒
- 石剣
- 弭形角製品
- 骨角鏃
- ヤス状刺突具
- 加工角
- 加工歯牙
- 貝刃
- 貝輪
- 埋葬人骨
- 動植物遺体
指定
- 昭和46年3月22日 – 史跡指定 北貝塚
- 昭和52年 史跡指定 南貝塚
- 2017年(平成29年)10月 - 特別史跡指定
展示
- 加曽利貝塚博物館
アクセス等
- 名称:加曾利貝塚
- 所在地:〒264-0028 千葉県千葉市若葉区桜木8丁目33−1
- 交通:千葉都市モノレール2号線 桜木駅 徒歩15分。1.1km。
参考文献
- 文化庁(2018)『発掘された日本列島 2018』共同通信社
- 西田泰民(2014)「1924 年の加曾利貝塚調査」Anthropological Science122 巻2 号
- 八幡一郎(1924)「千葉県加曽利貝塚の発掘」人類学雑誌39,pp.209–212
- 平瀬信太郎(1926)「加曽利貝塚の貝類について」人類学雑誌42巻7号
観音寺山遺跡 ― 2025年08月02日 11:51
観音寺山遺跡(かんのんじやまいせき)は大阪府和泉市にある弥生時代後期の集落遺跡である。中高瀬観音山遺跡とは別の遺跡である。
概要
和泉山地から槇尾川沿いにのびる丘陵の尾根上にある。標高60~65m、周囲の平地との比高差は約25mである。高台の弥生集落跡であり「高地性集落」と考えられている。竪穴住居が120軒ほど検出されている。住居群の周囲には住居域を取り囲むと考えられる大溝(環壕)がみつかっている。観音寺山遺跡は近畿地方における大規模高地性集落の例として度々言及される。
遺跡の性格
観音寺山遺跡の集落は弥生時代後期のみに機能した集落と考えられている。等高線に沿って作られた大溝と尾根上に作られた中小規模の溝とが検出されている。住居群は3つあるが、それぞれの住居群が環濠で囲まれていた。集落規模は100人前後と想定されている。弥生時代後期中葉や後期後葉に集落の人口は減少傾向をたどる。100年を超える長期継続した遺跡であり、争乱時のみ使用された施設ではないと判断できる。
発掘調査
1965年、弥生遺跡が存在することが知られていた丘陵上に住宅開発が計画されたため、開発会社や地元自治体との協議により、同志社大学の森浩一名誉教授(当時は助教授)らを中心として観音寺山遺跡調査団が結成された。同志社大学・関西大学の学生らを中心とした調査団が1968年2月から8月にかけて多数の竪穴住居を発掘した。50000㎡を超える広大な面積を短期間で調査する厳しい状況にあったが、多量の出土遺物を検出・記録して約半年の調査を完了した。調査できたのは集落の約3分の2であった。 当時は同志社大学の学生であった若林邦彦(現同志社大学 歴史資料館 教授)と辰巳和弘(現同志社大学 歴史資料館 教授)は大学院と大阪府文化財センター時代に遺物整理を行い、出土した土器の実測図を作成し、1999年に調査報告書を刊行した。 竪穴住居は120軒近く検出されている。サヌカイト製石器(石鏃・尖頭器など)や礫石器(敲石・磨石・石皿・投弾など)が多数出土した。サヌカイト製の打製石器は320点が出土している。多数の武器類と考えられる石器(石鏃・尖頭器・投弾など)は戦乱があったと想定される。しかし、集落成立の初期である弥生後期前葉では武器類を必要とする状況があったと考えられている。投弾と呼ばれる円礫を研磨した石器が93点出土した。戦闘用の石器と考えられている。 石包丁が10点出土したことから近隣の低湿地で稲を収穫していたことが判明している。 堅果類加工用の調理を行う石器(磨石・石皿など)が多数出土することは、平野部での水田耕作による米よりも山地の植物を多く利用した食生活を営んでいた可能性も考えられる。 大阪湾南岸部で見られる蛸壺が多数出土している。住民は沿岸部で行われていた漁労に関わっていたと思われる。
環壕
環壕の幅は3mを超え、深さは2m、断面はV字形であり、典型的な弥生時代の環壕である。環壕の造成には集落メンバーの大規模な協働作業が必要だったと考えられる。集落の居住域が形成されるときに社会的緊張状態(争乱)があったとの理解もある。環壕は弥生時代後期前葉の段階で埋没していた。つまり集落形成の初期段階では濠や区画溝などの防御施設を必要としていたが、その後に不要になって埋められたとも考えられる。
高地性集落
1960年代の日本考古学会では観音寺山遺跡は「高地性集落」として理解されてきた。つまり稲作の可能な低湿地から遠い丘陵上の集落であるため、立地の特殊性は弥生時代の戦(倭国乱)乱と結びつけて考えられてきた。高地性集落は小野忠熈博士が山口県東部の弥生遺跡朝で最初に着目した。岡山遺跡(山口県周南市)や天王遺跡(同前)など丘陵の上の弥生集落に濠状施設により囲まれた竪穴住居を発見した。
倭国乱との関係
小野博士は濠状施設を集落防御のための施設と考えた。梅原末治は北部九州の弥生時代中期中葉の須玖式土器に後漢末の青銅鏡と考えられていた菱鳳鏡が共伴するとし、その時期を二世紀後半とした。 『後漢書 東夷伝倭人条』に二世紀後半となる140年から180年頃に倭国で戦乱ないし政治的な動乱があったと記されている。 さらに佐原真は紫雲出山遺跡の発掘調査報告書で、弥生時代中期の弥生遺跡から打製石鏃が極端に大型化・重量化することを指摘し、それは戦乱に対応する武器であろうと考えた。
遺構
- 環濠 大溝(環壕)
- 竪穴建物 竪穴住居跡
遺物
- 弥生土器
- 石器 サヌカイト製石器
- 石鏃
- 尖頭器
- 礫石器
- 敲石
- 磨石
- 投弾
- 石皿
展示
- 同志社大学 歴史資料館
所在地等
- 名称:観音寺山遺跡
- 所在地:大阪府和泉市弥生町3丁目4
- 交通:泉北高速鉄道線 泉中央駅から約1500m。
参考文献
- 同志社大学歴史資料館(1999)『大阪府和泉市 観音寺山遺跡発掘調査報告書』同志社大学歴史資料館
- 若林邦彦(2013)『「倭国乱」と高地性集落論・観音寺山遺跡』新泉社
- 小野忠熈編(1953)『島田川:周防島田川流域の遺跡調査研究報告』山口大学島田川遺跡学術調査団
- 梅原末治(1940)『日本考古学論攷』弘文堂書房
- 和島 誠一(1985)『日本の考古学 3 弥生時代』河出書房新社
- 香川県三豊郡詫間町文化財保護委員会(1964)『紫雲出 : 香川県三豊郡詫間町紫雲出山弥生式遺跡の研究』
飛鳥時代 ― 2025年08月03日 00:01
飛鳥時代 (あすかじだい)は、奈良県の飛鳥(明日香)に都があった時代を指す。日本史の時代区分のひとつである。推古大王(天皇)が即位し、飛鳥の豊浦宮に遷宮した592年から、平城京に遷都した710年までの118年間をいう。
概要
飛鳥時代はもとは美術または建築史の時代区分であった。建築史の関野貞や美術史の岡倉天心が提唱した区分である。古墳は8世紀初頭まで営造されたが、飛鳥時代は古墳文化が仏教文化に切り替わる時代であった。豪族の連合政権から、中央集権体制国家へ、天皇制に基づく律令制国家に社会が変化した時代である。
| 西暦年 |
和暦 |
出来事 |
| 592年 | 推古1年 | 崇峻大王、殺害される,推古大王(天皇)即位、豊浦宮に遷宮 |
| 600年 | 推古8年 | 第一次遣隋使派遣 |
| 603年 | 推古11年 | 冠位12階制定、小墾田宮に遷宮 |
| 604年 | 推古12年 | 十七条憲法の制定 |
| 607年 | 推古15年 | 第二次遣隋使派遣 小野妹子 |
| 608年 | 推古16年 | 小野妹子、隋使裴世清らとともに帰国 |
| 610年 | 推古18年 | 第4回遣隋使を派遣 |
| 622年 | 推古30年 | 厩戸皇子が斑鳩宮で没する |
| 626年 | 推古34年 | 蘇我馬子が没す |
| 629年 | 舒明1年 | 舒明天皇が即位 |
| 630年 | 舒明2年 | 岡本宮に遷都/飛鳥岡(雷丘) |
| 640年 | 舒明12年 | 厩坂宮に遷都 |
| 642年 | 皇極1年 | 宝皇女が皇極として即位 |
| 643年 | 皇極2年 | 山背大兄王殺害される |
| 645年 | 大化1年 | 乙巳の変 |
| 646年 | 大化2年 | 薄葬令 |
| 652年 | 白雉3年 | 班田収授法 |
| 663年 | 天智2年 | 白村江の戦い、唐・新羅の連合軍に大敗 |
| 666年 | 天智5年 | 百済の男女2000余人を東国に置く |
| 667年 | 天智6年 | 近江国の大津へ遷都 |
| 669年 | 天智8年 | 藤原鎌足が没 |
| 670年 | 大宝9年 | 法隆寺焼失? |
| 672年 | 天智7年 | 天智天皇が崩御,第39代弘文天皇(大友皇子)が即位? |
| 672年 | 天武1年 | 天智天皇没す、壬申の乱。飛鳥浄御原宮に遷宮 |
| 673年 | 天武2年 | 大海人皇子が即位し天武天皇として即位 |
| 686年 | 朱鳥1年 | 天武天皇が崩御 |
| 690年 | 持統4年 | 持統天皇が即位 |
| 694年 | 持統8年 | 藤原京へ遷都 |
| 697年 | 文武1年 | 持統天皇、草壁皇子の子の軽皇子へ譲位 |
| 701年 | 大宝1年 | 大宝律令の完成 |
| 702年 | 大宝2年 | 第7回遣唐使派遣 |
| 710年 | 和銅3年 | 平城京へ遷都 |
参考文献
1. 近藤義郎(1995)『前方後円墳と弥生墳丘墓』青木書店
滑瀬遺跡 ― 2025年08月03日 00:23
滑瀬遺跡(なめんじょいせき)は弥生時代後期から古墳時代前期にかけての高地性集落遺跡である。
概要
滑瀬遺跡は大阪府 泉南市信達六尾にある通称「ナメクジ山」と呼ばれる丘陵付近の谷底低地と独立丘陵にまたがる。弥生時代中期末から後期初頭の竪穴住居は、山頂部4棟、斜面地7棟、平地4棟で見つかった。標高65mで、山頂部と平地部の比高差は20mある。土器は畿内第Ⅴ様式の初頭とされる。合計15棟の竪穴住居が発見された。出土土器の中に凸文帯のある壺が出土した。竪穴住居の多くは円形であるが、西側丘陵では方形隅丸プランの住居があった。平野部の4棟以外は急峻な斜面または頂上部で竪穴住居が見つかっている。
発掘調査
近畿自動車和歌山線建設に伴って発掘調査を実施した。試掘2回を経て、1985年(昭和60年)6月1日から7月31日まで1次調査を行い、1985年(昭和60年)8月15日から1686年(昭和61年)2月28日まで2次調査を行った。 調査の結果、弥生時代の竪穴住居・掘立柱建物・溝・自然流路、平安時代の溝、中世の堀・柱穴群などを検出した。丘陵の頂上から谷をはさみ、さらに対面する斜面にかけて、20棟以上の竪穴建物や掘立柱建物が建っていた。甕、壺、高坏、台付無頸壺、台付鉢、広口壺、砥石、有茎式石鏃、国府型ナイフ形石器。有茎尖頭器、細部調整のあるチャート、サヌカイト製スクレイパーが出土した。竪穴建物はほぼ円形である。6号住居の炉は長軸1.36m、短軸0.76m、深さ0.28mである。広口壺は端部を垂下したものがある。
砥石
滑瀬遺跡で出土した板石の破片は、弥生時代後期(1世紀)のすずりの可能性が高いと2019年6月19日に福岡市埋蔵文化財課の久住猛雄主事が指摘した。石片は1985~86年度の調査で出土。長さ6・5センチ、幅2センチである。 弥生時代から古墳時代前期のすずりは、これまでに北部九州を中心に50例以上確認されているが、大阪府で見つかったのは初めてである。現状では東限である。
遺構
- 竪穴建物群(高地性集落を含む)
- 溝
- 自然流路
- 炉
- 掘立柱建物跡
遺物
- 甕
- 壺
- 高坏
- 台付無頸壺
- 台付鉢
- 広口壺
- 砥石
- 有茎式石鏃
- 打製石器
- 磨製石器
- 国府型ナイフ形石器
- 有茎尖頭器
- 細部調整のあるチャート
- サヌカイト製スクレイパー
展示
所在地等
- 名称:滑瀬遺跡
- 所在地:大阪府泉南市信達六尾
- 交通:
参考文献
- 大阪府教育委員会他(1987)『滑瀬遺跡 財団法人大阪府埋蔵文化財協会調査報告書10』大阪府教育委員会他
- 大阪府教育委員会他(1989)『滑瀬遺跡 Ⅱ 大阪府埋蔵文化財協会調査報告書35』大阪府教育委員会他
- 「近畿でも弥生時代のすずり?」四国新聞社、2019/06/19
朝鮮系無文土器 ― 2025年08月04日 00:05
朝鮮系無文土器(ちょうせんけいむもんどき)は朝鮮の青銅器から鉄器時代初期にかけての土器である。
概要
土器の口縁部に粘土帯を付けて二重口縁として胴部が張った形状の甕などである。粘土帯の形状により円形粘土帯土器と三角形粘土帯土器とがある。韓半島では円形粘土帯土器(韓国式青銅器文化)と三角形粘土帯土器(鉄器文化)は異なる文化とされる。朝鮮系無文土器は朝鮮半島で当時使用されていた無文土器が日本で出土すると「朝鮮系無文土器」という。 日本列島では弥生前期末から弥生時代中期前半頃に集中して出土する。口縁部に断面円形の粘土紐を巻き付ける点で、同時期の弥生土器とは異なる特徴を持っている。 朝鮮半島南部の後期無文土器時代前半段階の土器の特徴である。渡来人(朝鮮半島からの移住者)が日本の地に来て作ったが、日本の弥生文化の影響を受けて、土器の形は次第に弥生土器に似るようになる。
出土例
- 朝鮮系無文土器 - 原山遺跡、島根県出雲市、弥生時代
- 朝鮮系無文土器 -諸岡B遺跡、福岡県福岡市博多区諸岡、弥生時代
参考文献
内郭 ― 2025年08月04日 00:10
内郭(ないかく)は弥生時代においては、環濠集落の外壕の中に内壕に囲まれた首長や集落の指導者が居住するエリアを言う。
概要
内郭の役割は遺跡の支配者層の居住空間や祭祀・儀礼の場であった。吉野ヶ里遺跡の例で言えば、公的空間として宗教的役割を担う祭祀や政事を行う「北内郭」と、私的空間としてリーダー層が居住した「南内郭」とに分かれている。北内郭は二重の壕と柵で囲まれていた。 高島忠平(2007)は「北墳丘墓と南祭壇に律せられた祭殿等を備えた北内郭が設けられ、聖的な宗廟として整備される」と説明する。 外壕の当時は幅4~7m、深さ2~4mという大規模なものであり、壕の外側には壕を掘ったときの土を 積み上げて、その上に木の柵を立てていたと考えられる。 寺澤薫(1998)は内郭を拠点集落と呼んでいる。社会的に優位な集落とする。 武末純一は「弥生居館」として、古墳時代の首長居館の原初形態とみる。 寺澤薫(1998)によれば、内郭がある環濠集落は惣座遺跡(佐賀県)、松原遺跡(佐賀県)、西弥護免遺跡(熊本県)、平塚川添遺跡(福岡県)、清水遺跡(山口県)、加茂遺跡(兵庫県)、池上・曽根遺跡(大阪府)、平等坊遺跡(奈良県)、岩室遺跡(奈良県)、針江遺跡(滋賀県)、梶子遺跡(静岡県)、折本西原遺跡(神奈川県)などで見られるという。九州、関西、関東中部と全国的に広く分布する。
戦国時代
はるかに後世となるが、一乗谷朝倉氏遺跡は越前10代朝倉宗淳孝景の晩年に作られ、5代(越前11代)朝倉義景まで使用されたと見られる。朝倉氏居館の内郭の背後に観音山がある。内郭は濠と土塁で囲まれ、「朝倉館(湯殿)」「中の御殿」「新御殿」を含めた朝倉宗家一族の居宅エリアである。外郭は「犬の馬場」「柳の馬場」の公用空間であった。発掘調査により礎石建物と庭園が確認されている。内郭に最重要部分があることは弥生時代と同じである。
事例
- 内郭 - 吉野ヶ里遺跡、佐賀県
- 内郭 - 惣座遺跡、佐賀県
- 内郭 - 松原遺跡、長野県長野市
参考文献
- 寺澤薫(1998)「集落から都市へ」(『古代国家はこうして生まれた』都出比呂志編)角川書店
- 武末純一(1991)「弥生時代の居館」『卑弥呼の世界』大阪府立弥生文化館
- 高島忠平(2007)「吉野ヶ里遺跡に見る「弥生都市」」建設コンサルタンツ協会会誌編 (237),pp.12-15
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