白鳳時代 ― 2024年10月12日 18:40
白鳳時代(はくほうじだい)は飛鳥時代に関する美術史の時代区分の一つである。
概要
白鳳時代は645年(大化元年)から710年(和銅三年)の平城京遷都までの55年間とされる。 仏像としては、法隆寺の阿弥陀三尊像、薬師寺の薬師三尊像、興福寺仏頭などふくらみのある顔立ちで、北斉・北周など大陸の影響を受けた様式から、日本独自の和風化が見られるが、隋・唐の影響も残る。肉体表現は写実性がまし、動きも見られるようになる。 飛鳥時代は仏像の材料が「銅像」、「木彫像」に限られていたが、白鳳時代になると、「銅像」だけでなく、「塑像」「脱活乾漆像」「押出仏」「塼仏」も作られるようになる。
白鳳時代前期の仏像(645年から660年頃)
- 法隆寺の金銅菩薩立像、金銅菩薩半跏像、河内観心寺の観音菩薩立像、広隆寺の弥勒菩薩
白鳳時代後期の仏像(661年から709年)
大阪・野中寺の弥勒菩薩半思維像、興福寺の仏頭、東京深大寺の釈迦如来倚像、法隆寺の金銅阿弥陀三尊像、当麻寺の弥勒仏座像
参考文献
青谷横木遺跡 ― 2024年09月19日 00:04
青谷横木遺跡(あおやよこぎいせき)は鳥取県に所在する縄文から近世にいたる複合遺跡である。
概要
日本海に面する青谷平野の日置川下流域である。平成25年度から27年度に行われた発掘調査で古代山陰道とみられる道路遺構、条里遺構、掘立柱建物などが見つかった。 道路は7世紀後葉から8世紀初頭に敷設され、11世紀まで使用された。道路遺構は、古代山陰道の駅路と想定されている。最も軟弱地盤とみられる10・11区の道路盛土には敷葉・敷粗朶工法が用いられている。道路外盛土から樹木根がみつかり、樹種同定から柳と判明した。文献や和歌から古代の街路樹に柳や槐が植えられていることは知られる。植栽間隔は0.3mから1.2mである。出土遺物は木簡や墨書土器の他に刻書土器、緑釉陶器、銅鉸具、木製祭祀具など官衙関連遺物が多く出土し、木簡は80点、木製祭祀具は約22,500点にも及ぶ。
調査
補修痕跡のある丸木舟が完形で出土した。古代山陰道と考えられる道路遺構を条里遺構とセットで確認した。道路遺構では柳の街路樹を検出し、「女子群像」が描かれた板絵が出土する。
女子群像
平成28年の調査で「女子群像板絵」が発見された。高松塚古墳に次ぐ、国内2例目の古代の女子群像であった。7世紀後葉から9世紀初頭に製作されたもので、6名の女性は列をなして歩く姿が描かれる。髪型や服装は、当時の飛鳥や唐で流行のスタイルである。袖は筒状で丈は短い。裳と言われるスカートをはく。縦縞の切り替え模様は高松塚古墳の女子群像によく似る。
放射性炭素年代測定
測定対象試料は、遺構や堆積層から出土した木片、種実の合計27点である。暦年較正年代(1σ)は、下層から順に14層の19が縄文時代後期前葉頃、13層の11 ~ 13が後期中葉頃、14が後期後葉から末葉頃、10層の18が晩期中葉頃、6層の17、5層の16が晩期後葉から弥生時代前期への移行期頃に相当する。2区では、道路1道路外盛土出土試料2点が測定された。試料の14C年代は、26が1150±20yrBP、27が1110±20yrBPである。暦年較正年代(1σ)は、26が781 ~ 966cal AD、27が898 ~ 974cal ADの間に各々複数の範囲で示され、いずれも古代に相当する。
遺構
杭群 杭列
- 盛土遺構
- 木造構造物
- 畦畔
- 石敷遺構
- 河道
- 阿古山24号墳
- 整地土
- 掘立柱建物
- 道路遺構
- 柱穴
- 条里遺構
- 石積遺構
遺物
- 縄文土器
- 石器
- 木製品
- 弥生土器
- 骨角器
- 玉類
- 土師器
- 須恵器
- 銅鏡
- 墨書土器
- 墨画土器
- 施釉陶器
- 製塩土器
- 権衡
- 木簡
- 木製祭祀具
- 獣骨
- 鉄製品
- 銅製品
- 陶磁器
指定
考察
アクセス等
- 名称:青谷横木遺跡
- 所在地:鳥取県鳥取市青谷町青谷
- 交通:JR青谷駅から346m
参考文献
- 鳥取県埋蔵文化財センター(2018)『青谷横木遺跡 Ⅰ』鳥取県埋蔵文化財センター調査報告書67
- 鳥取県埋蔵文化財センター(2018)『青谷横木遺跡 Ⅲ 自然科学分析・総括編』鳥取県埋蔵文化財センター調査報告書67
鹿島沢古墳 ― 2024年07月06日 00:05
鹿島沢古墳(かしまさわこふん)は青森県八戸市にある飛鳥時代の円墳である。
概要
太平洋に流れる馬淵川を見下ろす高台の標高70mから90mの舌状台地に立地する末期古墳である。飛鳥時代に直径4mから10mの小型円墳が10基以上作られた。
発掘調査
1958年(昭和33年)の農作業中に須恵器や埋葬施設(2号墳)がみつかり、青森県初の古墳と話題になった。1958年8月には慶応義塾大学考古学研究室の江坂輝彌らによる発掘調査が行われ、7号墳では太刀や鉄鏃(鉄製矢じり)、金環、ガラス玉などなどが出土した。1950~60年代に須恵器が検出されている。昭和43年には宅地造成に伴い、金銅製杏葉や石製の玉が発見された。保存処理を伴う調査により7号墳から、東北地方では例のない二円孔鍔付太刀、刀、鉄鏃、環状錫製品(腕輪、耳輪)、錫製丸玉、ガラス小玉、土師器が見つかった。太刀、刀、鉄鏃は南東北や関東地方からの移入品とみられる。土師器は製作手法、使われた土、器の形が同時代の八戸周辺の集落遺跡や古墳から出土したものと共通点が多いので、地元で作られたものと見られる。 墳丘規模は、開畑によって削平されていたため明確ではない。平成30年、慶応義塾大学から7号墳出土遺物が寄贈された。
規模
- 形状 円墳
主体部
外表施設
- 葺石 なし
遺物
- ガラス球12個、
- 鉄鏃7本、
- 金環2個 - 青銅製と思われる
- 水晶玉
- 金銅製金具
- 杏葉
- 勾玉
- 管玉
築造時期
- 飛鳥時代
被葬者
- 蝦夷と呼ばれた地域の首長とみられる。
展示
- 八戸市博物館
指定
- 2002年(平成14年)4月17日 -鹿島沢古墳群出土品(一括)
- 2024年3月26日 - 鹿島沢古墳群の出土品36点を追加指定
アクセス等
- 名称 :鹿島沢古墳
- 所在地 :〒039-1167 青森県八戸市沢里
- 交 通 :JR八戸駅から徒歩1時間4分(4.4km)/バス停根城エレンシア前/八戸市交通部から徒歩6分
参考文献
- 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
- 文化庁()『発掘された日本列島2022』共同通信社
下ツ道 ― 2024年06月28日 00:18
下ツ道(しもつみち)は奈良盆地の東側をを南北に走る古道である。
概要
古代の奈良盆地には、上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれる3本の直線道がほぼ等間隔で南北に縦断していた。3本のうち最も西側の道路が下ツ道である。672年の壬申の乱で大海人皇子軍は上ッ道、中ッ道、下ッ道にそれぞれ軍を配した。 奈良盆地に見られる方位に則った整然とした水田区画は、下ツ道を基準につくられた。奈良時代には平城京内で中央を走る朱雀大路につながった。下ツ奈良盆地の条里地割を東西に分ける基準になっている。 室町時代は別名「高野街道」と呼ばれており、高野山への参詣道としての役割を強めた。 江戸時代には「中街道」と呼び名を変えて、一部、路線変更が行われた。
経路
南端は橿原市五条野丸山古墳、北端は平城宮太極殿付近で、総延長は約26kmである。
設置時期
下ツ道の発掘調査事例は多い。奈良県立橿原考古学研究所(2019)、奈良県立橿原考古学研究所(2010)などである。平城京の発掘調査で朱雀門の真下から下ツ道の跡とがみつかっている。左右両側の側溝中心の距離は23mを超える。平城京左京三条一坊四坪の調査で下ツ道の東側溝がみつかり、その底から須恵器の杯蓋が発見された。6世紀後半から7世紀初頭と見られる。これは下ツ道の設置時期を示すとみられる。和田萃(2006)「奈良盆地を南北に縦走する古道、上ツ道・中ツ道・下ツ道が敷設された時期も、和田萃は私見と断った上で、孝徳朝末年(654)~斉明朝初年(655)のことであったとする。和田萃は、飛鳥において方位に則った地割りが形成されるのは7世紀中頃であり、それ以前に南北直線道路がつくられたとは考えがたいとの理由を挙げる。
蘇我稲目説
近江俊秀(2012)は下ツ道の起点が見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)であることから、この古墳の被葬者が奈良盆地の直線道路の建設者と、主張する。候補者は2名、すなわち欽明大王、蘇我稲目である。小沢毅は蘇我稲目蘇我稲目説を強く主張する。その理由は次の通り。
- (1)欽明大王は「檜隅坂合陵」とされるが、五条野丸山古墳は「軽」とその近接地にあり、檜隅の範囲ではない。
- (2)「檜隅坂合陵」に石を葺いたとする記述があるが、見瀬丸山古墳の発掘調査ではその形跡がない。
- (3)欽明大王陵とされる「梅山古墳」は江戸時代の記録によれば砂礫で覆われていた。
- (4)見瀬丸山古墳は蘇我氏の本拠地にある。
- (5)南北3道上・中・下ツ道は見瀬丸山古墳を基準に設定されている。
歴史的意義
古代の都市計画により設置された幹線道路で、重要な歴史的意義がある。 三道の歴史的意義が確認されたのは、1966年藤原京の発掘調査であった。岸俊夫は上ツ道、中ツ道、下ツ道と横大路、古代の山田道などを用いて、藤原京の京城を復元した。平城京との関係も示した。これは日本古代の都城制研究に大きな影響を与えた。
日本書紀
日本書紀 卷第廿八 天武
- 辛亥、將軍吹負、既定倭地、便越大坂往難波。以餘別將軍等、各自三道進至于山前屯河南。即將軍吹負、留難波小郡而仰以西諸國司等、令進官鑰・驛鈴・傳印。
- (大意)将軍吹負は、の地を平定し、大坂を越え難波に向かった。そのほかの別将たちは、三道(上道・中道・下道)をそれぞれ進んで山前(やまさき)に着き、川(淀川)の南に集結した。吹負は難波にとどまり、以西の諸国の国司たちに命じて官鑰や駅鈴・伝印(駅馬・伝馬を利用する際に用いる)を進上させた。
巻第廿五 孝德大王
- (白雉四年)六月、百濟・新羅遣使貢調獻物。修治處々大道。
万葉集
考察
『日本書紀』653年(白雉四年)記事に「ところどころに大道を修治」したと書かれる。これは発掘調査による「6世紀後半から7世紀初頭」推定より後であるが、おおむね整合する。672年の壬申の乱より前なので、653年を道路築造時期としても矛盾はない。
参考文献
- 佐竹昭広・山田英雄他(2013)『万葉集(一)』岩波書店
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 奈良県立橿原考古学研究所(2019)「郡山下ッ道ジャンクション建設に伴う遺跡調査報告書」奈良県立橿原考古学研究所調査報告第179冊
- 近江俊秀(2012)「道が語る日本古代史」朝日新聞出版
- 小沢毅(2002)「三道の設定と五条野丸山古墳」『文化財論叢Ⅲ』
- 奈良県立橿原考古学研究所(2010)「平城京朱雀大路・下ツ道」奈良県文化財調査報告第136集
- 独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所(2004)「中央区朝堂院の調査 平城第367次調査」
- 和田萃(2006)「新城と大藤原京――万葉歌の歴史的背景――」萬葉196、萬葉学会
- 近江俊秀(2009)「下ツ道(5)-下ツ道敷設時期をめぐる研究」両槻会 遊訪文庫
狂心渠 ― 2024年06月25日 00:10
狂心渠(たぶれこころのみぞ)は斉明天皇が飛鳥時代に実施した壮大な運河工事である。
概要
宮殿の東山に石垣を築くため大量の石材を運ぶ必要があったため、運河を建設した。運河の大工事には延べ3万人余を要し、当時の民衆からは「狂心渠」と非難された。 奈良大学の相原嘉之准教授(日本考古学)は石材がとれた豊田山(奈良県天理市)と、石垣が出土した酒船石遺跡(同県明日香村)を結ぶ運河とした。
歴史的意義
後の灌漑用水路や防御のための濠にも使えるように造ったとされ、先を見通したとの評価もある。運河は後の藤原京(同県橿原市など)造営にも活用された可能性があり、相原准教授は「非難を受けたものの、その後の利用を考えると、狂心渠の意義は大きく、斉明天皇には先見の明があったといえる」と評価する。
石山丘跡
1992年に後飛鳥岡本宮の東の丘陵で砂岩切石を積み重ねた大規模な版築土塁が確認され、書紀の記載が裏付けられた。「酒船石」がある丘陵での中腹から裾にかけて 4段に築かれた大規模な石垣である。砂岩切石は天理市周辺の石上・豊田付近で切り出されたことが判明している。丘陵の西側から飛鳥寺の寺域東側にかけて人工の谷川を回収した大規模な流路が確認されている。尾根の全体を巡り総延長 700mに及ぶ。斉明・天智朝は、中国系の新技術や水利用技術導入の上でも画期的な時代であったとする。小澤毅(1994)は相原嘉之准教授の想定した流路には、地形や水系を無視した誤りがあると指摘した。
日本書紀 巻第廿六 齊明二年
- 時好興事、廼使水工穿渠自香山西至石上山、以舟二百隻載石上山石順流控引、於宮東山累石爲垣。時人謗曰、狂心渠。損費功夫三萬餘矣、費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣、山椒埋矣。又謗曰、作石山丘、隨作自破。
- (大意)斉明は時に土木工事を好み、水路技術者に命じて香具山の西から石上山まで水路を掘らせ、舟200隻に功夫(工夫=こうふ)を浪費すること三万人余、石垣を造る功夫を費やし損すること七万人余。宮材はくずれ、山頂は埋まった。『石の山丘をつくると、つくった端から壊れるだろう』と人々は謗った。
参考文献
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 相原嘉之(2021)『古代大和の舟運利用の実態 : 斉明朝の「狂心渠(たぶれこころのみぞ)」を中心に』
- 木下正史(2007)「古代都市の建設と土木工事」Civil engineering consultant : 建設コンサルタンツ協会会誌 / 会誌編集専門委員会 編 (237),pp.28-31
- 小澤毅(1994)「「狂心渠」 の経路と高市大寺の位置―相原嘉之説批判―」
造酒童女 ― 2024年06月22日 01:01
造酒童女(さかつこ)は奈良時代以降の大嘗祭において白酒・黒酒の醸造に奉仕する童女である。「造酒児」とも書く。
概要
天皇が即位後に、在任当初の一度だけ行う大規模な新嘗祭が大嘗祭である。天皇位継承儀礼となったのは天武持統朝時代とされる。 造酒童女は大嘗祭における稲収穫儀礼の前半の主役である。斎田として決められた悠紀・主基両郡の大少領の未婚の娘から卜占によって選ばれた。采女の1種である。 齋田で抜穂の儀から白酒・黒酒の醸造、大嘗宮の御飯の奉春奉炊など神饌の行事に関わる重要な役を務める。御飯の奉春では「先春御飯稲」とされ、造酒童女は先に稲を春く。 神服院で神服が奉織され5000人に及ぶ大行列が巳刻(午前10時頃)、御稲と共に北野斎場から大嘗宮に向かう。全員は徒歩で進む中、造酒童女だけは夫四名が担ぐ白木の輿に乗る。到着すると造酒童女は御稲を春き、その後、神膳行立が行われる。
黒酒
米の比率を割弱で発酵させたものが「白酒」で、それに久佐木灰を加えたものが「黒酒」であるという。
聖婚儀礼説
岡田精司(1970)によれば天皇は「諸国の国津神の依り代としての采女(造酒童女)と同衾する」聖婚儀礼説を唱える。新帝は真床覆衾にくるまって「天皇霊」を身につけるが、その際、新帝と造酒童女とが同衾する。これは服属儀礼のひとつと見られる。すなわち大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意され、新帝と造酒童女との聖婚がおこなわれるという説である。真床覆衾から出たとき、新帝は完全な天皇になると考えられている。しかし岡田荘司説では「真床覆衾」論も聖婚儀礼説も否定されている。
考察
現在では聖婚儀礼説は否定されているというが、もともと秘儀であり文書は何も残っていないから、肯定否定の検証は難しい。『内裏式』新出の逸文(西本昌弘(2009))があるといっても、これは平安時代の文献であるから、儀式が当初から変わっていないという証拠でもない限り、飛鳥時代、奈良時代の行事にそのまま適用できるわけではない。聖婚儀礼説は、飛鳥時代頃ではあり得たのではないか。
参考文献
- 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 池浩三(1983)『家屋文鏡の世界』相模書房
- 岡田精司(1970)「大化前代の服属儀礼と新嘗」『古代王権の祭祀と神話』塙書房
- 平城宮跡資料館秋期特別展(2015)「地下の正倉院展 造酒司太筒の世界」奈良文化財研究所
- 西本昌弘(2009)「九条家本『神今食次第』所引の「内裏式」逸文について」史学雑誌 第118編11号 pp.39-63
上ツ道 ― 2024年06月17日 00:12

上ツ道(かみつみち)は奈良盆地の東側をを南北に走る古道である。
概要
古代の奈良盆地には、上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれる3本の直線道がほぼ等間隔で南北に縦断していた。3本のうち最も東側の道路が上ツ道である。672年の壬申の乱で大海人皇子軍は上ッ道、中ッ道、下ッ道にそれぞれ軍を配し、上ッ道を進撃する近江朝廷軍と箸墓近くで闘っている。国道169号線は上つ道とは一部で重なるが、同一ルートではない。「官道」と呼ばれているとおり、一般道ではなく、外国の使節、任地へ赴く国司、及び許可証を持った国営の飛脚が使う目的である、実用性より中央権力の強大さを印象付ける意味合いが大きかったと見られる。中央集権体制が崩れだす平安中期頃(8世紀後半~9世 紀初め)からは道路を維持管理できなくなり、幅の狭い実用的な道路になった。
経路
上ツ道の起点は桜井市大字谷付近であり、奈良盆地の東端の山沿いを北上し、終点は天理市佐保庄付近である。上ツ道は最南端では大和平野の南部で東西に走る横大路に近接する。横大路は桜井市の三輪山の南から葛城市の二上山の麓の長尾神社付近までの道であり、現在は伊勢街道ともいう。上ツ道の遺構はほとんど確認されていないが、箸墓古墳近くの発掘調査では上ツ道跡と想定される盛土遺構が確認されている。
上ツ道の設置時期
上ツ道の設置時期は推古の頃(岸俊男説)、孝徳・斉明期など諸がある。 纏向遺跡の第189次調査では、緑釉陶器や奈良三彩片、漆塗りの須恵器などがみつかっているが、これらの遺物は、上ツ道付近で発見されたことから、奈良時代に道路付近に置かれた役所があったと推定されている。纏向遺跡の第142次調査では、調査地の東側を南北に走る上ツ道に沿う位置で、古墳時代後期以降の盛土状遺構が確認された。盛土のなかから出土した土器片のうち、最も新しいと考えられるものは6世紀後半~7世紀初頭ごろの須恵器杯であった。近江俊秀(2012)は上ツ道は飛鳥時代の7世紀初頭以降に築かれたと判断している。
歴史的意義
古代の都市計画により設置された幹線道路で、重要な歴史的意義がある。 三道の歴史的意義が確認されたのは、1966年藤原京の発掘調査であった。岸俊夫は上ツ道、中ツ道、下ツ道と横大路、古代の山田道などを用いて、藤原京の京城を復元した。平城京との関係も示した。これは日本古代の都城制研究に大きな影響を与えた。
南北朝時代
南北朝の争乱で、北朝側の奈良・興福寺が南朝側の妙楽寺を攻めるために使った道は、上つ道であった。
日本書紀 卷第廿八 天武
- 鯨軍不能進。是日、三輪君高市麻呂・置始連菟、當上道、戰于箸陵、大破近江軍。
万葉集
考察
上ツ道は箸墓古墳の後円部を迂回しているので、箸墓古墳より後に上ツ道が作られたことは知られていたが、発掘調査により7世紀初頭以降であることは確認できた。すると上ツ道の建設は600年から672年の間ということになる。 日本書紀に明確な記述はないが、656年(斉明2)に「斉明は時に土木工事を好んだ」と書かれており、狂心渠の土木工事、後飛鳥岡本宮の造営、大倉庫の造営、吉野宮の造営、多武峰に石垣を巡らし、「観」を建て、それを「両槻宮」あるいは「天宮」と呼んだなどを行っている。土木工事のひとつとして、この頃に上ツ道、中ツ道、下ツ道を整備した可能性がありそうだ。
参考文献
- 佐竹昭広・山田英雄他(2013)『万葉集(一)』岩波書店
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
- 近江俊秀(2012)『道が語る日本古代史』朝日新聞出版
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