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谷地久保古墳2024年06月11日 00:27

谷地久保古墳(やちくぼこふん)は福島県白河市にある円墳である。日本百名墳に選出されている。

概要

白河舟田・本沼遺跡群を構成する古墳である。阿武隈川の左岸、三方を丘陵に囲まれた標高350mの南面する谷部に位置する。 東日本では数少ない安山岩質溶結凝灰岩(白河石)の横口式石槨を埋葬施設に採用し、前庭部には石敷きと石組みを造る。奈良県中尾山古墳の石槨との共通性が指摘される。墳丘外側は、周辺地形をコ字形に整形する。横口式石槨は東北地方では極めてまれである。横口式石槨は後期から終末期の古墳にみられるもので、切石を用いて玄室内部に木棺を納められる空間を設け、短辺の小口部が開口する。安山岩や凝灰岩などの切石を使った精巧な造りであり、箱形の身と屋根形の蓋で構成される。原則的には被葬者は一人だけである。 近畿地方の終末期古墳に共通した特徴がある。

発掘調査

1926年(大正15年)岩越二郎が石室を測量、1983年(昭和58年)に関西大学考古学研究室が測量調査を行った。2001年(平成13年)と20003年(平成15年)に白河市教育委員会が国史跡指定を目指す内容確認調査を行った。羨道入口から奥壁まで長さ2.6m、玄室の幅1.38m・高さ1.18m・奥行1.41mである。前庭部は羨道から南6mほどに河原石が敷き詰められる。

横口式石槨

  • 石のカラト古墳 - 奈良県奈良市
  • 石宝殿古墳 - 大阪府寝屋川市
  • キトラ古墳 - 奈良県高市郡明日香村

規模

  • 形状 円墳
  • 直径 17m
  • 高さ3.5m

主体部

  • 横口式石槨

外表施設

遺構

墳丘

  • 外周部
  • 横口式石槨
  • 前庭部

遺物

築造時期

  • 7世紀後半から8世紀 - 横口式石槨を持つ古墳の例を参照

被葬者

  • 古代白河郡の郡司などの盟主層と想定/白河国造の墓

展示

指定

  • 2005年(平成17年)7月14日  国指定史跡

アクセス等 

  • 名称  :谷地久保古墳
  • 所在地 :福島県白河市大字本沼字岩井戸
  • 交 通 :東日本旅客鉄道東北本線 久田野駅から4.0km、55分。

参考文献

  1. 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
  2. 白河市教育委員会(2005)『白河市埋蔵文化財調査報告書41:谷地久保古墳発掘調査報告書』白河市教育委員会
  3. 白河市教育委員会(2002)『白河市埋蔵文化財調査報告書36:谷地久保古墳発掘調査報告書』白河市教育委員会

磐余2024年06月04日 00:15

磐余(いわれ)は現在の桜井市南部から橿原市東池尻町にかけての地域の古い地名である。

概要

古代ヤマト王権の根拠地として、磐余稚桜宮(履中、神功)、磐余甕栗宮(清寧)、磐余玉穂宮(継体)、磐余池辺雙槻宮(用明)などの諸宮があったと伝わる。さらに『上宮法王帝説』には、磐余神前宮(崇峻)が伝わる。敏達の訳語田幸玉宮は磐余訳語田宮ともされる(『帝王編年記』『扶桑略記』)。郷土史家の栢木喜一氏「桜井風土紀」によれば、桜井駅から西南方の旧安倍村一帯の地が磐余であるとする。 五世紀前半から六世紀にかけて磐余は大和政権の中枢の地であった。

日本書紀

日本書紀巻第十二 履中天皇

  • 元年春二月壬午朔、皇太子即位位於磐余稚櫻宮。
  • 二年 十一月、作磐余池。
  • 三年冬十一月丙寅朔辛未、天皇、泛兩枝船于磐余市磯池、與皇妃各分乘而遊宴。
  • 三年冬十一月 於是、長眞膽連、獨尋花、獲于掖上室山而獻之。天皇歡其希有、?爲宮名、故謂磐余稚櫻宮、其此之?也。

日本書紀巻第廿一 用明天皇

  • 九月甲寅朔戊午、天皇?天皇位。宮於磐余、名曰池邊雙槻宮。

磐余池

履中二年十一月条に「磐余池を作る」と記されている。池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が現在も残る。橿原市東池尻町の御厨子神社付近に磐余池があったとする説が有力である。橿原市東池尻町小字「島井」には版築された堤があり、発掘調査でも古代の池と確認されている。磐余池は12世紀13世紀頃に埋没して耕作地になったと考えられている。「磐余池」の一部とみられる6世紀の人工池の堤跡が見つかり、2011年12月15日(木)、橿原市教委が発表した。粘土で盛り土された高さ約2メートル、長さ約80メートル分の堤跡が見つかったもので、堤全体の規模は高さ3m以上、全長330mと推定され、川をせき止めるダム式の人工池としては、7世紀前半の狭山池(大阪府大阪狭山市)より古く日本最古のダム湖とされる。

万葉集

大津皇子の歌に万葉集巻3-416がある。

  • 大津皇子の、死されしときに、磐余の池の堤に流涕して御作りたまひし歌一首
  • ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ
  • 右は藤原宮の朱鳥元年の冬十月なり 大津皇子は天皇の崩御後、皇太子の草壁皇子に謀反を企てたとして死を命ぜられ、自殺したとされる。「雲隠る」は、死ぬという意味。当時24歳の若さで無実の罪を着せられ処刑されることになった大津皇子の辞世の歌である。佐竹昭広・山田英雄他(2013)によれば、 「雲隠る」は人を尊敬してその死を間接的に表す敬避表現のため、自らの死使うのは適切ではないので、大津皇子の周囲の人物が読んだ歌が伝承されたと推測する。 息子の草壁皇子に皇位を継がせようとした鵜野讃良皇女(大津皇子の叔母、後に持統天皇)が罪を着せた。磐余に大津皇子の宮(訳語田(おさだ)の宮)があったと推定されている。

考察

大津皇子の宮は万葉集で訳語田の宮とされるので、敏達の訳語田幸玉を転用したのではないだろうか。

参考文献

  1. 佐竹昭広・山田英雄他(2013)『万葉集(一)』岩波書店
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 「万葉集に登場「幻の池」か」日本経済新聞、2011年12月15日

西福寺古墳2024年05月24日 00:15

西福寺古墳(さいふくじこふん)は神奈川県川崎市高津区にある6世紀後半の円墳である。

概要

南武線武蔵溝ノ口駅の南方、約2.1kmにある。沖積低地を望むやや南北に細長い台地上の縁辺部の標高約46m矢作川の左岸でその南側寄りにある。周囲を幅6~7.5mの周溝がめぐる。内部構造は未調査であるため不明だが、横穴式石室が存在すると思われる。出土遺物は円筒埴輪や朝顔形埴輪、水鳥形埴輪などがある。「梶ヶ谷第3公園」内に整備、保存されている。

調査

昭和57年と昭和58年に、神奈川県からの補助金を得て、古墳と周辺の保存整備事業を実施した。昭和57年8月には、地上測量と竹石健二氏の指導で、整備上必要な範囲の確認調査が実施された。 墳丘裾部の発掘調査によって直径35m、高さ5.5mの正円形に近い円墳であることが判明した。墳丘を囲繞する周溝の存在や周溝上の畑地から、円筒埴輪片等が採集されていることから、西福寺古墳は埴輪が周囲を巡る高塚古墳と見られる。築造時期は6世紀後半と推定された。 周溝は上端が幅6.0mから7.5m、深さ70cmから80cm(当初は、1m前後)で、溝底は比較的平坦であった。また、そこには水を満たした痕跡がないので、当初から空堀であったと思われる。

規模

  • 形状 円墳
  • 径約35m、
  • 高5.5m

外表施設

遺物

  • 鶏形埴輪
  • 円筒埴輪
  • 朝顔形埴輪
  • 形象埴輪

築造時期

  • 5世紀後半~6世紀後半

被葬者

展示

指定

  • 1970年(昭和45年)8月26日、西福寺古墳を市重要史跡に指定した。
  • 1980年(昭和55年)9月16日、神奈川県指定重要文化財

アクセス等 

  • 名称  :西福寺古墳
  • 所在地 :神奈川県川崎市高津区梶ヶ谷3-17
  • 交 通 :東急田園都市線「梶ヶ谷駅」から東急バス梶01系統「野川台公園前」行き、「梶ヶ谷5丁目」下車/川崎市バス溝23系統「溝の口駅」行き、「大原」下車、徒歩5分

参考文献

  1. 西福寺古墳発掘調査団編編(1989)『県史跡西福寺古墳 保存整備報告書』川崎市教育委員会

影向寺遺跡2024年05月22日 00:12

影向寺遺跡(ようごうじいせき)は神奈川県川崎市高津区にある古代橘樹郡の役所跡である橘樹郡家跡の西隣に創建された古代寺院の遺跡である。

概要

昭和52年度から5ヶ年間計画による影向寺総合調査の発掘調査によって寺院が創建される以前に建てられていた橘樹郡の有力者が関与している可能性の高い、掘立柱建物跡や塔の基壇、中世の土塁などの遺構が確認された。古代影向寺の主要伽藍と考えられる建物については、現薬師堂基壇下で検出した基壇建物Aとその南東側約50m付近にある基壇建物Bの2棟が確認されている。古代の役所の郡家には隣接して寺院が建てられる例が多いことから、橘樹郡衙と古代影向寺は密接な関連があったと考えられる。

創建年代

1710年(宝永7年)成立の『影向寺縁起』は当寺の創建について、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝える。ところが境内から出土した軒丸瓦の様式等により、創建は7世紀末に遡るといわれてきた。しかし、昭和52年~56年度に実施された川崎市高津区影向寺文化財総合調査の発掘調査で、影向寺薬師堂西側に設定したトレンチ内から平瓦(女瓦)が発見された。サイズは長さ約31.4cm、幅約23.8cm、厚さ約2.1cmであるが、焼成は不良で、全体的に脆弱であり、全体の約3分の1は欠損している。瓦凸面のほぼ中央部に「无射志国荏原評」の文字が判読できる。文字は、焼成前に箆(へら)ないし箆のような工具類で刻まれたと推定される。文字の字体は、軽快で端正な筆致で書かれる。7世紀第3四半期と想定される千葉県印旛郡栄町の龍角寺五斗蒔瓦窯跡出土の文字瓦と比較しても、本文字瓦に刻まれた文字は洗練されている。「无射志」の表記は、『古事記』(上巻)に「无射志国造」、『万葉集』(3376、3379)に「无射志野」という類似表記があり、いずれも「むざし」と読まれる。「无射志」は、後に一般的に「武蔵」の2字で表記される。ある。「荏原評」の「荏原」は、旧武蔵国南東部の地名で律令制下の荏原郡にあたり、現在の東京都品川区・大田区・目黒区・世田谷区の範囲である。したがって、「无射志国荏原評」の銘文は、「むざしのくにのえばらこおり」と読める。。「評」は、7世紀半ば頃に施行された地方行政組織名であり、大宝元年(701)に施行された大宝令以前の遺跡から出土する木簡等にも見られる。大宝令以後は「郡」に改められた。「評」と「郡」は、どちらも「こおり」と読む。「国」と「評」が同時に記載されていることから、683年から701年の間瓦が製作されたと見られる。 本文字瓦の「荏原評」の銘文により、寺院建立は7世紀後半であることが確実である。

遺構

  • 硬化範囲1
  • 竪穴建物4
  • 掘立柱建物1
  • 溝1

遺物

  • 土師器
  • 須恵器

指定

  • 平成27年3月10日 国指定史跡

展示

アクセス

  • 名 称:影向寺遺跡
  • 所在地:神奈川県川崎市宮前区野川419
  • 交 通:東急東横線武蔵小杉駅より、東急バス道中坂下行き、鷲沼行き、野川台公園行き、ないし川崎市営バス鷲沼行きに乗車、バス停「影向寺」にて下車、徒歩5分

参考文献

  1. 川崎市教育委員会(2024)「国史跡橘樹官衙遺跡群 橘樹歴史公園」川崎市遺跡リーフレット①
  2. 三輪修三(2006)『古刹 影向寺』影向寺

狭山池遺跡2024年05月11日 00:07

狭山池遺跡(さやまいけいせき)は大阪府大阪狭山市に所在する飛鳥時代に築造された灌漑用の溜め池である。

概要

狭山池は大阪府南部の狭山市の中央部に位置する農業用水確保のために造られた、人工の池である。規模は周囲3.4km、面積約40万平方メートル(0.36km2)、総貯水容量280万m3である。 狭山池の改修に関わる確実な記録は8世紀以降である、発掘調査により日本最古のため池と判明している。狭山池は飛鳥時代に築造され,その後各時代の改修を経ながら今日まで利用が継続している灌漑用溜め池である。狭山池は、築造後度々の災害にあい、その都度大改修がおこなわれてきた。奈良時代(8世紀)の改修では、僧行基が中心となり、狭山池の改修を行った記録がある。

年代測定

狭山池の発掘調在では、北堤付近において中樋遺構、西樋遺構、東樋遺構の3つの樋の遺構が検出された。発掘調査で出土した東樋(ひがしひ)の年輪年代測定の結果から、狭山池は7世紀前半の飛鳥時代につくられた日本最古のため池と判明した。下層の東樋(ひがしひ)の木樋には616年(推古24年)に伐採された木が使われていたことから、狭山池の築造は5世紀代ではなく7世紀前半であることが確実となった。

重源狭山池改修碑

重源狭山池改修碑は和泉砂岩を用い、長さ192cm、幅58.5cm、厚さ79.5cmの大きさである。 重源が狭山池改修時に作成した記念碑である。行基が731年(天平三年)に初めて堤防を築いたこと、摂津、河内、和泉三ヵ国の人民の誘いで工事を実施したことが書かれ、工事の概要に続き道俗男女、子どもや非人までが自ら石を引き堤を築いたと記す。

狭山池木樋

1本1トンになるコウヤマキの丸太をくり抜いた材木を本つなげる。

考察

遺構(白鳳時代(7世紀))

  • 樋(東樋下層遺構)

遺物

  • 樋管
  • 須恵器
  • 土師器

指定

  • 2014年8月21日 - 国指定重要文化財 重源狭山池改修碑
  • 2014年8月21日 - 国指定重要文化財「大阪府狭山池出土木樋
    • 「下層東樋 2基分・上層東樋 1基分・中樋取水部材 34点・西樋取水部材 17点)」
  • 平成27年3月10日 狭山池が国の史跡指定となる。

展示

  • 大阪府立狭山池博物館

アクセス

  • 名 称:狭山池遺跡
  • 所在地:大阪府大阪狭山市岩室
  • 交 通: 大阪狭山市駅から徒歩2分。

参考文献

  1. 狭山池調査事務所(1998)「狭山池 埋蔵文化財編」

細工谷遺跡2024年03月27日 23:06

細工谷遺跡(さいくだにいせき)は弥生時代、飛鳥白鳳時代から奈良時代の複合遺跡である。

概要

難波宮跡の東南に位置する遺跡である。上町台地の東斜面の谷部にある。古代仏教史や難波地域における渡来系氏族のあり方、銭貨の鋳造と流通といった、重要な課題に直結する資料が出土した。

調査

1996年(平成8年度)の発掘調査により、難波京内の空白地域に「百済尼寺」という古代寺院の存在が確認され、全国で初めて和同開珎の枝銭が出土した。枝銭は奈良時代の排水路の底近くから見つかった。排水路からは、枝銭のほか多数の土器、瓦、匙、鋲などの銅製品、坩堝や金属を挟む道具の金鉗、鉄の斧先、木簡などが発見された。工具や銅板の切り屑が見つかったことから、金属製品の工房が付近にあったとみられる。

銅銭

鋳棹の左右に3枚、計6枚の和同開珎が付く。鋳棹は断面が楕円ないしカマボコ形で、下端を欠損する。和同開珎の鋳造工程を具体的に示す。銅の純度は96~98%と高く、重さは78.9gである。枝銭と一緒に出土した和同開珎には、18点の完形品のほか、鋳バリが残るバリ銭や破片は未完成品・失敗品である。長さ11.3cmで枝銭の先端は切り取られており、完成品として使用されたとみられる。約40枚の和同開珎のほか、「万年通宝」「神功開宝」「隆平永宝」「富本銭」が出土する。藤原京2例、平城京2例に次ぐ、国内5例目である。

軒丸瓦

飛鳥様式の素弁蓮華文軒丸瓦、重弁蓮華文軒丸瓦、複弁蓮華文軒丸瓦が出土した。法隆寺系の複弁八葉蓮華文軒瓦の出土数が多く、「百済尼寺」の創建瓦の可能性が高い。「百済寺」と想定される堂ヶ芝廃寺の出土瓦との共通点が多い。

古代寺院

細工谷遺跡での出土で発見された古代寺院は、難波宮の南側に点在しており、難波宮のメインストリートである朱雀大路と推定される道路の東にある。 条坊制が敷かれた難波宮の栄華を思わせる。尼の父の名前を記した木簡は長さ18.1cmで、尼寺に入るための身分証明書とみられる。「百済尼寺」の存在を示す墨書土器の出土が注目される。細工谷遺跡では「尼寺」の墨書が4点、「尼」のみが3点出土し、ほかにも「尼」の字を伴う墨書が7点ある。尼寺と対をなす「僧寺」は1点だけであり、この一帯が難波京「朱雀大路」の東に接した尼寺であったことを示す。墨書土器は1000点が出土し、これらは奈良時代末から平安時代初め頃である。

遺構

  • 井戸
  • 土壙
  • 柱穴

遺物(飛鳥時代、奈良時代)

  • 富本銭
  • 木簡
  • 墨書土器
  • 箸と考えられる銅製品
  • 鉄釘
  • 耳環
  • 鉄斧

指定

  • 大阪市指定文化財

アクセス

  • 名 称:細工谷遺跡
  • 所在地:大阪府大阪市天王寺区細工谷1丁目
  • 交 通:JR鶴橋駅から徒歩3分 (遺跡看板あり、聖バルナバ病院の前)

参考文献

  1. 財団法人大阪市文化財協会(1999)『細工谷遺跡発掘調査報告1』財団法人大阪市文化財協会

豊浦宮2023年12月31日 23:23

豊浦宮(とゆらのみや)は奈良県明日香村豊浦付近にあった推古天皇の宮殿である。

概要

593年(推古元年)豊浦宮で推古天皇は即位した(「冬十二月壬申朔己卯、皇后?天皇位於豐浦宮」)。豊浦宮で即位した推古天皇は603年(推古11年)豊浦宮地と桜井寺地とを交換し、旧宮跡に桜井寺を移し豊浦寺とし、寺地に移った宮を小墾田宮とした。豊浦宮は小墾田宮に遷都するまでの宮室である。蘇我稲目の向原の家があった場所である。それまで宮殿が集中していた磐余から飛鳥に遷都し、飛鳥の地で最初の宮殿として推古天皇が即位したのが豊浦宮である。 豊浦宮は約11年に渡り使用された。推古天皇が豊浦宮で即位してから持統天皇が藤原京へ遷都するまでの約100年間は、飛鳥とその周辺に宮殿が集中したため、飛鳥時代と名付けられる。 舒明朝には塔婆が建立され、持統天皇のとき飛鳥五大寺の一つに称されたが、平安時代には朽廃したといわれる。豊浦の地はもと蘇我氏の本拠地であり、この豊浦宮の造営から飛鳥時代が始まったと言われている。

調査

向原寺の庫裏の建て替えが昭和60年に行われた際、地下埋蔵物の地質調査に対し住職夫妻が全面協力しその結果、豊浦寺の金堂・講堂と思われる伽藍配置の一部が出土し、その下層から石組溝や列柱などの遺構が発見された。その結果、日本最初の女帝・推古天皇の豊浦宮の跡と判断された。現在は、一部ではあるが当時の豊浦寺の敷石及び柱の跡が見ることができる状態で保存され誰でも見学できる。屋根も付けられ雨風にも影響が受けないようにして保存されている。

遷都年

日本書紀は603年(推古11年)「十一年冬十月己巳朔壬申、遷于小墾田宮。」に遷都したと記するが。『元興寺縁起並流記資財帳』は等由良宮を施入して等由良寺とした年を593年(推古1年)とする。この場合、遷都は593年の即位直後のこととになる。 推古天皇は蘇我稲目の孫にあたるため、宮の所在地は蘇我氏との関係で定められた可能性が高い。

墓誌

668年(天智天皇7年)につくられた船氏王後墓誌は、推古天皇を「等由羅宮治天下天皇」と記す。

出土

1985年の発掘調査によれば、現向原寺境内から豊浦寺講堂跡と推定される版築の基壇が検出され、この基壇の下層に石敷と高床式掘立柱建物の跡、砂利敷が確認され、豊浦宮の跡に豊浦寺が建立されたとする『元興寺縁起』の説が裏付けられている。豊浦宮の範囲や建物配置は確認されていない。

指定

  • 昭和52年3月22日 - 県指定史跡 「豊浦寺跡」

所在地等

  • 名称: 豊浦宮跡
  • 拝観料:志として200円(事前予約)
  • 所在地:奈良県明日香村豊浦630(向原寺内)
  • 交通:飛鳥駅より赤かめ周遊バス豊浦下車徒歩5分

参考文献

  1. 佐藤信(2020)『古代史講義 宮都編』筑摩書房