Bing
PVアクセスランキング にほんブログ村

磐余2024年06月04日 00:15

磐余(いわれ)は現在の桜井市南部から橿原市東池尻町にかけての地域の古い地名である。

概要

古代ヤマト王権の根拠地として、磐余稚桜宮(履中、神功)、磐余甕栗宮(清寧)、磐余玉穂宮(継体)、磐余池辺雙槻宮(用明)などの諸宮があったと伝わる。さらに『上宮法王帝説』には、磐余神前宮(崇峻)が伝わる。敏達の訳語田幸玉宮は磐余訳語田宮ともされる(『帝王編年記』『扶桑略記』)。郷土史家の栢木喜一氏「桜井風土紀」によれば、桜井駅から西南方の旧安倍村一帯の地が磐余であるとする。 五世紀前半から六世紀にかけて磐余は大和政権の中枢の地であった。

日本書紀

日本書紀巻第十二 履中天皇

  • 元年春二月壬午朔、皇太子即位位於磐余稚櫻宮。
  • 二年 十一月、作磐余池。
  • 三年冬十一月丙寅朔辛未、天皇、泛兩枝船于磐余市磯池、與皇妃各分乘而遊宴。
  • 三年冬十一月 於是、長眞膽連、獨尋花、獲于掖上室山而獻之。天皇歡其希有、?爲宮名、故謂磐余稚櫻宮、其此之?也。

日本書紀巻第廿一 用明天皇

  • 九月甲寅朔戊午、天皇?天皇位。宮於磐余、名曰池邊雙槻宮。

磐余池

履中二年十一月条に「磐余池を作る」と記されている。池之内(桜井市)、池尻町(橿原市)など池に由来する地名が現在も残る。橿原市東池尻町の御厨子神社付近に磐余池があったとする説が有力である。橿原市東池尻町小字「島井」には版築された堤があり、発掘調査でも古代の池と確認されている。磐余池は12世紀13世紀頃に埋没して耕作地になったと考えられている。「磐余池」の一部とみられる6世紀の人工池の堤跡が見つかり、2011年12月15日(木)、橿原市教委が発表した。粘土で盛り土された高さ約2メートル、長さ約80メートル分の堤跡が見つかったもので、堤全体の規模は高さ3m以上、全長330mと推定され、川をせき止めるダム式の人工池としては、7世紀前半の狭山池(大阪府大阪狭山市)より古く日本最古のダム湖とされる。

万葉集

大津皇子の歌に万葉集巻3-416がある。

  • 大津皇子の、死されしときに、磐余の池の堤に流涕して御作りたまひし歌一首
  • ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ
  • 右は藤原宮の朱鳥元年の冬十月なり 大津皇子は天皇の崩御後、皇太子の草壁皇子に謀反を企てたとして死を命ぜられ、自殺したとされる。「雲隠る」は、死ぬという意味。当時24歳の若さで無実の罪を着せられ処刑されることになった大津皇子の辞世の歌である。佐竹昭広・山田英雄他(2013)によれば、 「雲隠る」は人を尊敬してその死を間接的に表す敬避表現のため、自らの死使うのは適切ではないので、大津皇子の周囲の人物が読んだ歌が伝承されたと推測する。 息子の草壁皇子に皇位を継がせようとした鵜野讃良皇女(大津皇子の叔母、後に持統天皇)が罪を着せた。磐余に大津皇子の宮(訳語田(おさだ)の宮)があったと推定されている。

考察

大津皇子の宮は万葉集で訳語田の宮とされるので、敏達の訳語田幸玉を転用したのではないだろうか。

参考文献

  1. 佐竹昭広・山田英雄他(2013)『万葉集(一)』岩波書店
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 「万葉集に登場「幻の池」か」日本経済新聞、2011年12月15日