上岩田遺跡 ― 2024年03月02日 21:44
上岩田遺跡(かみいわたいせき)は福岡県小郡市にある縄文時代から古墳時代末期にかけての複合遺跡である。
概要
筑紫平野の北、宝満川の東岸台地の標高19m程度に位置する。筑後国御原郡衙跡と考えられる小郡官衙遺跡の2㎞東にあり、寺院の金堂跡と推定される基壇とその北方に計画的で規格性をもつ大型掘立柱建物群がある。小郡官衙遺跡に先行する官衙か郡司の居宅と推定される。九州最古級の古代寺院「上岩田廃寺」の遺構とその周囲に計画的に配置されたと思われる掘立柱建物群が明らかになった。寺院の基壇は東西18.5m、南北16.5m、高さ1.75mであった。礎石、根石を抜き取った孔が見つかったが、礎石は出土していない。2間×3間の4面のに庇がついている。 建物は3軒、四面の金堂で、周辺には基壇建物は検出されていない。一堂寺院の可能性がある。基壇とその周辺から、鬼板瓦、垂木先瓦、軒丸瓦、平瓦、丸瓦が出土した。軒平瓦は出土しない。垂木先瓦、平瓦、丸瓦は奈良県山田寺系、重弁八弁蓮華文の鬼板瓦、単弁六弁の軒丸瓦は高句麗、百済系の瓦である。 基壇の北側で掘立柱建物群は20棟以上が検出された。うち6棟は大型掘立柱建物で、すべて主軸は真北方向で、南北棟、東西棟がある。基壇から250先に掘立柱建物は約70棟検出された。郡司クラスの居宅と推定される。
調査
1995年から1999年にかけて発掘調査が行われ、縄文時代の落とし穴約140、弥生時代、古墳時代から奈良時代にかけての350軒、掘立柱建物200棟、土坑350基、道路上遺構を多数検出した。さらに基壇に多数の地割痕があり、建物群は地震のために倒壊したと推測される。『日本書記』天武7年(678年)条記載の筑紫大地震で建物に多大な被害が出たと考えられることから、その後、役所機能は小郡官衙遺跡へ移転されたと見られる。地震の最大震度はマグニチュード6から7と想定されており、筑後平野に大きな被害を与えた。白鳳時代に上岩田廃寺が創建され。基壇上部の縁辺や斜面には東西、南北方向に幅2cmから25cmの地割れにより、版築層がずれていた。寺の金堂は筑紫大地震によって倒壊した可能性が高い。造営から倒壊まで30年程度である。
遺構
縄文時代
- 落とし穴 - 縄文早期、縄文後期
- 甕棺墓
弥生時代
- 周溝
- 溝
古墳後期から奈良時代
- 竪穴建物200+
- 井戸1
- 掘立柱建物
- 基壇建物
- 道路
- 竪穴建物
- 土坑
- 土壙墓
- 木棺墓
- 火葬墓
- 溝
- 土採穴
- 柵
- ピット
飛鳥時代
- 大型建物群
- 柵列
- 道
- 住居
- 井戸
- 基壇建物
- 掘立柱建物
- 竪穴建物
- 地震痕跡
- 製塩土器
- 土製品
- 土馬
- 鉄製遺物
奈良
- 基壇
- 土坑
遺物
- 須恵器、
- 土師器、
- 瓦、
- 石帯、
- 硯、
- 墨書土器、
- 刻書土器
- 鬼板瓦
- 垂木先瓦
- 軒丸瓦
- 平瓦
- 獣脚硯
- 土器
- 墨書土器
- 土馬
指定
- 1971年 国指定 史跡名勝天然記念物 小郡官衙遺跡
- 2000年 追加指定 史跡名勝天然記念物 上岩田遺跡 小郡官衙遺跡群
展示
- 小郡市埋蔵文化財調査センター 一部を展示
アクセス
- 名称:上岩田遺跡
- 所在地:〒838-0121 福岡県小郡市上岩田1082
- 交 通: 甘木鉄道 松崎駅 徒歩6分。
参考文献
- 小郡市教育委員会(2018)「上岩田遺跡15」小郡市文化財調査報告書
栄町貝塚 ― 2024年03月03日 22:58
栄町貝塚(さかえちょうかいづか)は東京都北区にある縄文時代の貝塚である。
概要
縄文時代中期から後期初頭にかけての貝塚である。武蔵野台地の北東端「本郷台」の崖線に沿って形成された標高5mの場所である。JR京浜東北線の北中里駅の北西に位置する。 周囲に中里貝塚がある。 焚き火址が354 基あり、貝層の形成前に打ち込まれたと推定される木杭・竹杭が合計39 基検出された。貝層はマガキ・ハマグリが中心だが、ヤマトシジミ主体の貝層も発見されている。貝層全体の層厚は検出された最大厚で約2.4m、推定最大厚で約3.6m を測り、近接する中里貝塚に比肩する低地の貝塚である。 貝塚には「ハマ貝塚」と「ムラ貝塚」があるが、栄町貝塚は「ハマ貝塚」に位置づけられている。
調査
令和2年3月16日から令和4年2月28日、令和3年11月1日から令和5年1月31日、調査面積は955m2。発掘調査報告書は令和5年3月末に発行された。 炭化材、炭化草木、生材21点を年代測定(AMS法、OxCal4.4)により計測した。暦年較正結果は2600年前から2800年前であった。これは縄文時代中期から後期に相当する年代である。
考察
木杭や竹杭の用途は不明であるが、養殖の設備説、舟を泊めるための杭説もあるが、海岸にテントを張るための杭という可能性もありそうだ。杭の木の腫類は一定していないが、楠 やヤマコウバシなどが使われている。なお貝塚からは魚の骨が出土していない。魚を取った後、そこでは調理せず、ムラに持ち帰り調理していたのではないか。たき火は何のために使用されたのであろうか。住居の近くではないので、貝をむいて焼いたか、または水に濡れた体を温める目的が考えられる。
遺構
- 焚き火址354
- 灰層廃土遺構1
- 集石1
- 杭39
- 溝1
- ピット2
遺物
- 土器
- 土製品
- 打製石斧
- 磨石
- 凹石
- 台石
- 乳房状石製品
- 木製品
指定
展示
- 小郡市埋蔵文化財調査センター 一部を展示
アクセス
- 名称:栄町貝塚
- 所在地:東京都北区栄町5番
- 交 通: JR上中里駅 徒歩6分
参考文献
- 公益財団法人東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター(2023)『東京都埋蔵文化財センター調査報告375:栄町貝塚』公益財団法人東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター
- 阿部芳郎編(2014)『ハマ貝塚と縄文社会 : 国史跡中里貝塚の実像を探る』雄山閣
黒曜石 ― 2024年03月04日 22:33
黒曜石(こくようせき,Obsidian)はマグマの一部が急速に冷え固まってできた火山岩である。「烏石」や「漆石」とも言われる。
概要
マグマにより生み出された黒く輝く天然ガラスである。「博物誌」に、エチオピアでオブシウス (Obsius)が黒曜石を発見したという記述があり、英語名のオブシディアン(Obsidian)は発見者であるオブシウスの名前から名付けられたとされる。 黒曜石は火山活動によって溶かされた岩石のマグマが、急激に冷やされることにより生成される。
用途
加工が容易で切れ味が鋭い黒曜石は、狩猟用の槍や包丁のような調理器具、また工具として使用された。縄文時代の必須アイテムであった。黒曜石は旧石器時代から縄文時代にかけて弥生時代に鉄が伝わるまでさまざまな道具の主な材料となった。旧石器時代にはナイフ形石器や槍の先端に、縄文時代には矢じりとして使われた。動物の皮をなめすなど、加工用のツールとしても用いられた。
産地
黒曜石は、その成分を調査すると産地を特定することができるため、出土した場所を辿ることで、縄文時代を考古学的に理解できる。日本には東日本から北海道まで100以上もの黒曜石の産地があると言われるが、実用に使える品質の黒曜石の採れる場所は限られており、その地域産の黒曜石が流通している。主要な産地は北海道の置戸や白滝、長野県の霧ヶ峰、佐賀県の腰岳などであった。現在の関東近郊に住んでいた人々は、黒曜石を求め長野県の産地まで出かけていた。生活の道具の大半が石器であった時代には、重要な石であった。
世田谷の黒曜石の産地
黒曜石に含まれる微量元素のケイ素、チタン、アルミニウム、鉄、マンガン、ルビジウム、ジルコニウムを測定すると産地を同定できる。世田谷区内では(1)長野県の中部高産、(2)伊豆箱根産、(3)伊豆神津島が確認されている。栃木県高原山産は確認されていない。 遺跡の時期により山地が異なる。神津島へは海を渡らないと入手できないため、縄文時代に渡海技術があった事を示す証拠である。
参考文献
三ノ耕地遺跡 ― 2024年03月06日 00:09
三ノ耕地遺跡(さんのこうちいせき)は埼玉県吉見町にある弥生時代、古墳時代の複合遺跡である。
概要
埼玉県比企地方東部の比企郡吉見町、東松山市に広がる吉見丘陵の南側、荒川に形成された自然堤防上に形成された遺跡である。水場遺構は南北13.5m、東西7.3m、深さ1.8mで楕円形である。土器とともに大量の木の実(トチ、クルミ)が出土した。さらに食物繊維で編まれた網代編みのザル状の編み物が6点出土した。1点は49cm×44cmであり、編み物を使用して堅果類の虫殺しや灰汁抜きのための水晒しを行っていた。中央付近の湧水点と推測される直径40cm、深さ30cmの土坑状の施設があった。内部には大量の土器や石器が廃棄されていた。石剣、土器、木の実、獣骨が混在する。イノシシや鹿の骨などの獣骨、土偶、土製耳飾り、イノシシ形土製品などがあり、狩猟に関わる祭祀の跡とみられる。 土偶は高さ20.4cm、厚さ4.8cm、中は中空である。首から胴部に赤い顔料が残る。
調査
平成8年から平成9年にかけて、吉見町教育委員会が実施した発掘調査で縄文時代の水場遺構や古墳時代初期の方形周溝墓や古墳群が発見された。水場遺構は縄文時代晩期(約2500年前)の頃である。 令和3年7月1日から令和3年12月31日に埼玉県埋蔵文化財調査事業団の調査で、縄文時代の水場遺構や古墳時代初期の方形周溝墓や古墳群が発見された。古墳時代前期(4世紀初頭頃)の前方後方形墳墓3基と方形周溝墓が並んで発見された。
遺構
- 水場遺構
遺物
- 手燭形土器
- 石器
- 石剣
- 木の実
- 獣骨
- 岩版
- 耳飾り
指定
展示
アクセス
- 名称:三ノ耕地遺跡跡
- 所在地:埼玉県吉見町大字久米田字二ノ耕地367-1
- 交 通: 甘木鉄道 松崎駅 徒歩6分。
参考文献
- 文化庁編(1999)「発掘された日本列島'99」朝日新聞社
旧石器から縄文へ ― 2024年03月06日 23:30
旧石器から縄文へ(きゅうせっきからじょうもんへ)は旧石器から縄文への移行期に何が変わり、なぜ変わったかという問題である。
概要
旧石器から縄文へ変わった時期は現在から1万6000年前から1万1500年前とされている。
旧石器と縄文の違い
旧石器時代と縄文時代の最も大きな違いは、「土器」の有無である。旧石器では打製石器と骨角器を使用していたが、土器はまだ発明されていない。日本の縄文時代では、磨製石器が使われた。石器時代には、ナウマンゾウなど大型動物が狩猟の対象であった。 縄文時代ににはシカ、イノシシ、などの中小動物が狩りの対象となる。中小動物は足が速いので、落とし穴や弓矢を使うようになった。
環境変化
旧石器時代の終わり頃から縄文時代の初めに氷河期から温暖な気候へと変わった時代であった。更新世(氷期)から完新世(温暖期)に変わった時代である。晩氷期に相当する約16000年前から11500万年前は周期的な激しい寒暖差が起こる「ダンスガード・オシュガーサイクル」が起きていた。亜氷期から亜間氷期への変化の温度幅は10度以上あり、その期間は数年から数十年と極めて短い。この変化は人間活動に大きな影響を与えたと言われる。 しかし列島最古の土器 (青森県大平山元I遺跡、16,000年前)はこの晩氷期の開始よりも古く、縄文時代草創期 (16,000~11,700年前) は氷期末に開始されている。したがって気候変動が土器の発明をもたらしたとはいえない。 旧石器から縄文への気候環境は4つの時期に分かれる。 (1)LGM末期 1万8000年前~1万5000年前 最終氷期最盛期といわれる時期で、旧石器時代の終末期である。大量の氷がヨーロッパや北米に氷河や氷床となり、海面は世界的に約120メートル低下した。日本では瀬戸内海が海面の上昇により陸化していた。約16000万年前に突如として土器が現れ、それ以降を縄文時代草創期とする。 (2)オールドドリアス期 亜間氷期(コールド)期間で、寒冷乾燥した氷期であった。 (3)ベーリング・アレレード期 氷期以降は地球の気温が上昇に転じ、各地の氷床からは氷が融けて海洋に流出した。約1万4700年前に起こった事象であり、最終氷期末期を区切る。 (4)ヤンガードレアス期 暦年代で1万2800年前から1万1600年前とされる。最終氷期の最終段階で、縄文時代草創期とされる。ヤンガードレアス期が終了すると完新世(温暖期)に移行する。
土器発明の効果
縄文土器の特徴は編み目の文様、黒褐色の色、分厚くもろい土器である。丈夫で頑丈な土器はまだ作れなかった。しかし縄文土器の発明により人々の寿命が伸びた。その理由は動物を捕まえても、土器がなければ、その肉を保存するために加工ができなかったからである。縄文土器の発明により、肉を土器で煮ることが出来るようになった。煮炊き料理が可能になったことにより、食物の保存が可能となった。結果的に食生活が向上し、寿命が長くなった。 その証拠はヨーク大学(英国)の考古学者Oliver E Craigらは、約1万5000~1万2000年前の更新世後期のものとされる縄文土器に脂質が付着していたことを発見した。
定住の開始
縄文時代草創期では食べるために動物や植物をさがして,場所をかえながら移り住んでいった。つまり旧石器時代とあまり大きくは違っていない。土器は方形平底および円形丸底深鉢の2形式(器形)がある。
調査
参考文献
- O. E. Craig, H. Saul, A. Lucquin, Y. Nishida, K. Tache, L. Clarke, A. Thompson, D. T. Altoft, J. Uchiyama, M. Ajimoto, K. Gibbs, S. Isaksson, C. P. Heron & P. Jordan(2013) "Earliest evidence for the use of pottery"Nature volume 496, pp.351-354
- 多田隆治・横山祐典・長島佳菜(2005)「アジアモンスーンの変動とダンスガード・オシュガーサイクル」天気 54 (5),pp.426-429
- 東京都埋蔵文化財センター(2024)「旧石器から縄文へ」
椿井大塚山古墳 ― 2024年03月07日 23:34
椿井大塚山古墳(つばいおおつかやまこふん)は京都府相楽郡山城町に所在する古墳時代前期の前方後円墳である。
概要
京都府南部の木津川東岸に位置する。1953年(昭和28年)、JR奈良線の拡幅工事の中で発見された。竪穴式石室の周辺から三角縁神獣鏡32面を含む40面近い銅鏡や副葬品が発見された。三角縁神獣鏡が多量に出土する古墳としては黒塚古墳と椿井大塚山古墳が代表的である。 36面以上(破片があること、盗掘を受けた可能性から「以上」となる)の鏡のうち32面が三角縁神獣鏡であった。一つの古墳から三角縁神獣鏡が出土した数としては黒塚古墳と並ぶ。 鏡は三角縁神獣のほか、画文帯神獣鏡・内行花文鏡・方格規矩鏡の銅鏡がある。武器として、 鉄素環頭大刀・鉄剣・鉄槍・鉄鏃・鉄小札革綴冑・鉄甲。鉄槍などの武器・武具類が出土している。 工具類は鉄斧・鉄釶・鉄鑿・鉄錐鉄銛、漁具類は鉄釣針・鉄魚叉など、農具は鉄鎌などが出土する。鏡と副葬品から長い間、最古の前方後円墳と位置づけられてきた。築造時期は、奈良県桜井市の箸墓古墳を頂点とする定型化した前方後円墳の出現時期(3世紀後半)と推定されている。
調査
1995年から山城町が実施した墳丘規模の確認調査により、規模、構造、築造年代が判明した。椿井大塚山古墳は後円部4段、前方部2段の版築である。全体的に花崗岩の葺石が敷かれている。墳丘の裾は確認できないが、全長175m、後円部直径110m、前方長さ80m、前方部長さは80m、墳丘高さは後円部20m、前方部は約20mであった。後円部中央に竪穴式石室があり、内法長さ6.9m、幅1.1m、高さは約3mである。 前方部の墳丘平坦面では墳丘の主軸に沿う幅約2mのベルト状の盛土が約10m検出された。 三味線の撥形の平面形状であり、前方部の前端線は直線ではなく、弧を描く。椿井大塚山古墳は箸墓古墳と相似形であり、3分の2のサイズとして設計された前方後円墳と見られる。
鏡の配布の考察
さらに同じ型で作られた同笵鏡が全国各地から出土している。椿井大塚山古墳を中心とする同笵鏡の分有関係から、小林行雄は、椿井大塚山古墳の首長は、鏡の保管と配布で直接的な役割をはたしたと考えている(小林行雄(1961))。三角縁神獣鏡の多くは、同じ型から製造した同笵鏡が京都府の椿井大塚山古墳を中心として全国の古墳に分散して発見される。平塚市博物館にある三角縁四神二獣鏡も椿井大塚山古墳1 面、岡山県備前車塚古墳2面、兵庫県権現山51 号墳1 面の同笵鏡が確認されている。愛媛県文化歴史博物館の三角縁獣文帯四神四獣鏡は破片であるが、椿井大塚山古墳、桜井茶臼山古墳から出土している。 小林行雄、田中琢らの考古学者は武埴安彦(タケハニヤスヒコ)を椿井大塚山古墳の被葬者にあてている。日本書紀によれば武埴安彦は崇神のとき、葛城から生駒山麓、山城地方が 根拠地なので、支配領域は合っているが、伝承からは全国的な影響力の広がりを想定できない。 すなわち椿井大塚山古墳の被葬者は全国的な影響力をもつ権力者であったと推察する。同笵鏡の全国的な広がりは日本書紀や古事記に書かれない埋もれた歴史があることを思わせる。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段、後円部:4段
- 墳長 175m
- 後円部 径110m 高20m
- 前方部 幅76m 長80m 高10
外表施設
- 葺石 あり
主体部
- 室・槨 竪穴式石槨
- 棺 割竹形木棺
遺物
- 【鏡】中国:内行花文鏡2、画文帯環状乳神獣鏡1、方格規矩四神鏡1、三角縁神獣鏡類32以上。
- 【武器・刀剣類】鉄剣:十数、鉄刀:7以上(素環頭大刀1)、鉄槍:7以上。
- 【武器・鏃】類銅鏃:200以上、銅鏃:19。
- 【武具】その他:小札革綴冑1。
- 【農工具】農具:鎌3、工具:斧10(短冊5)、刀子17、削刀子7、?7以上、錐8以上、鑿1以上、鉄製弧形尖頭器3、漁具:釣針1、扠十数(組合式2以上)。
- 【その他】花弁形装飾付鉄製品(冠?)1、堅矧板状鉄製品(有機質甲の引合板の可能性あり)2。
築造時期
奈良県桜井市の箸墓古墳をピークとする定型化した前方後円墳の出現(3世紀後半の古墳時代前期)と同時代と推測される。
被葬者
- 木津川の流域を本拠地にした大豪族の墓
展示
- 京都大学総合博物館
指定
- 2000年(平成12年)9月6日 「国史跡」に指定される。
- 1992年(平成4年)6月22日 京都府椿井大塚山古墳出土品 一括(考古資料)重要文化財
アクセス等
- 名称 椿井大塚山古墳
- 所在地 〒619-0205 京都府木津川市山城町椿井三階・太平
- 交通:JR奈良線「棚倉」駅下車
参考文献
- 文化庁(1999)『発掘された日本列島'99』朝日新聞社
- 小林行雄(1957)『初期大和政権の勢力圏』史林 40 (4),pp.265-289
- 小林行雄(1961)『古墳時代の研究』青木書店
- 塚口義信(2016)『邪馬台国と初期ヤマト政権の謎を探る』原書房
聖石遺跡 ― 2024年03月08日 23:08
聖石遺跡(ひじりいしいせき)は長野県茅野市にある縄文時代の遺跡である。
概要
八ヶ岳の西南の麓、渋川とベッタ沢に挟まれた東西に長い尾根状の大地に立地する。遺跡がある台地の南側に台地に沿って東西に延びる幅広の谷があり、地元ではその谷を「ベッ タ沢」と呼ぶ。標高は1040mで、この一帯で縄文時代中期の遺跡ができる限界の高さである。昭和40年頃に聖石遺跡がある台地は発掘調査されずに、開田工事が行われた。工事関係者の話によれば、その時にかなりの土器が出土したといわれる。
調査
調査は大地の全体にわたり、削平部分以外の集落の全体像を把握した。平成8年度から平成15年度にかけて発掘調査が行われた。 住居形状が時期により変化することが判明した。曽利式期前半は円形プラン、曽利式期後半は方形に近いプランであった。聖石遺跡から釣手土器が出土した。釣手土器は長野県や山梨県などの限られた場所で作られ、ら5500年前から4500年前まで、約1000年の間にだけ使われた土器である。縄文時代は植物性と動物性の油で火をともしていたことと考えられる。ヒスイ製ペンダント4つ見つかっており、それぞれ別々の土坑内の東よりから出土した。1つに途中まであけようと試みた未貫通の孔が残っているものがある。これはこの場所でペンダントを作っていた証拠である。 土偶は高さ12.9cmである。頭部と手部が欠損しているが、沈線の施紋があり、臀部が張り出す立体土偶である。石棒は石囲炉の焚口部の縁石として利用されていた。材質は灰白色の安山岩である。もとは別の用途だったと考えられる。
遺構
- 竪穴住居
- 方形柱穴列
- 土坑
- 配石
- 列石
- 方形柱穴列4
- 土坑379+
- 配石6
- 列石8
- 埋設土器1
- 焼土9
- 黒曜石集積1
- 土器集中2
遺物
- 深鉢形土器
- 石器
- 石棒
- 磨製石斧
- 縄文土器
- ヒスイ製石製品
指定
展示
- 茅野市尖石縄文考古館
アクセス
- 名称:聖石遺跡
- 所在地:長野県茅野市北山芹ヶ沢
- 交 通:
参考文献
- 茅野市教育委員会(2004)「聖石遺跡」
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