聖武天皇 ― 2025年01月16日 00:24
聖武天皇(しょうむてんのう、701年-756年,Emperor Shomu)は奈良時代(在位724年~749年)の第45代天皇である。
概要
701年(大宝1年)、奈良で生まれる。父は文武天皇、母は藤原不比等の娘の藤原宮子。諱は首(おびと)王子。7歳で父と死別する。父方の祖母である元明天皇が即位する。714年(和銅7年)、14歳で皇太子となる。716年(霊亀2年)、光明子は皇太子・首王子の妃となる。後宮には藤原不比等の女の安宿媛(光明皇后)、県犬養広刀自、藤原武智麻呂の女(名前不明)、同じく房前の女など4夫人が知られている。 719年、皇太子は始めて朝政を聴く。724年(神亀1年)2月首王子は24歳で即位する。長屋王が左大臣となる。3月、吉野に行幸する。8月、献新羅使を任命する。11月、大嘗祭。 727年7月、光明子が皇子を産む。11月。皇子を皇太子とする。728年9月、皇太子没。 729年2月10日、藤原不比等の4兄弟は陰謀によって長屋王を殺害し(長屋王の変)、729年8月に光明の立后を強行した。県犬養広刀自を夫人とし、728年皇子に安積親王が生まれる。井上内親王・不破内親王を得た。光明子との間に皇子として基王、内親王として阿倍皇女を得た。基王は皇太子になったが早世し、安積親王も744年(天平16年)に没したため、皇位継承に問題が残った。737年(天平9年)に天然痘の大流行により、藤原四兄弟を始め、政府高官の大多数が死去する。天皇の母の藤原宮子は長く病に伏していたが、唐より帰国した僧玄昉が看病してこれを回復させ,天皇は初めて母に対面することができた。それ以来,天皇は玄昉や吉備真備を重用するようになる。
政治的変動
玄昉が重んじられることへの不満をきっかけとして740年(天平12年)9月,藤原広嗣は九州において大規模な反乱をおこした(藤原広嗣の乱)。反乱を機に恭仁京(京都府)、紫香楽宮(滋賀県)、難波京(大阪市)と3度にわたる遷都を繰り返し、膨大な費用を要して国家財政は苦境に陥る。最終的に都は平城宮に戻ったが、政治的混乱の時期であった。740年(天平12年)12月からわずか 4年半の間である。 741年(天平13年)には国分寺建立の詔を発し、諸国に国分寺、国分尼寺を建てた。743年には盧遮那大仏の造立を発願した。
財政破綻
結果的に民衆の全負担が増大し、墾田永年私財法の制定とともに律令体制の崩壊を促進した。749年4月陸奥国産金の報を受けて東大寺へ行幸し、大仏に自らを三宝の奴であると述べて、749年(天平勝宝元年)7月2日(西暦の8月19日)、娘の阿倍内親王に譲位し(孝謙天皇、出家した。752年(;天平勝宝4年)4月9日(752年5月30日)、東大寺の大仏の開眼法要を行った。754年(天平勝宝6年)唐僧・鑑真から菩薩戒を受けた。756年(;天平勝宝8年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする違勅を残し崩御した。御陵は奈良市法蓮町の佐保山南陵(奈良市法蓮町)。
正倉院宝物
遺品は正倉院御物として伝わる。仏教芸術は高度の技術と鑑賞眼による華麗な工芸品を中心とする、いわゆる天平文化とよばれるもので、聖武の遺品は光明皇后によって東大寺に献納され、正倉院宝物の母体となる。この時代の仏教芸術は高度の技術と高い鑑賞眼による華麗な工芸品を中心として、いわゆる天平文化を作り上げた。聖武天皇の唯一の書跡は正倉院に「雑集」が伝えられる。これは東大寺献物帳のうち国家珍宝帳に「雑集一巻(注略)右平城宮御宇 後太上天皇御書」とあるもので、巻末に天平3年(731)9月8日写了とある。天皇31歳の書である。
繰り返された遷都
先行研究では大宰府での藤原広嗣の乱の平城京への波及を恐れたこと、先代の天皇である元正上皇からの独立を求めたこと、737年(天平9年)に流行した天然痘,またその原因とみなされた長屋王の怨霊を忌避したいとの願望,などが指摘されている。737年の疫病流行で不比等の4子が没してから貴族間の抗争が激しくなったことも理由に挙げられている。
恭仁京への遷都の理由
松浦茂樹は遷都の理由を天平 6年(734年)4月,畿内は大地震に見舞われたが,その時に地すべり地帯である大和川亀ノ瀬峡谷部で舟運に影響を与える変動が生じたと推測する(参考文献1)。すなわち平城京の物資輸送に大きな役割を果たしていた大和川舟運に支障があったためと推測する。
平城京還都の理由
松浦茂樹は平城京還都の理由を745年(天平17年)4 月に美濃国を震源とした大規模な内陸直下型群発性に襲われたことを最大の理由とした。
考察
長屋王の変
皇子の誕生で、聖武が有頂天になった様子は、727年10月5日の「大赦、官人に賜物を配布」、翌6日の「王臣以下への賜物」に見られる。そして聖武は生後わずか1ヵ月の皇子を皇太子にした。それ以前の例では若くとも15歳で皇太子になっている。寺崎保広(2020)は長屋王が皇太子の指名に異を唱えた可能性を指摘する。根拠として、11月14日のお祝いに不比等邸を訪れた官人に長屋王の名がないことを挙げる。律令の規定を厳格に守ろうとする法治主義の長屋王であるから、当然あり得たことであろう。 しかし、翌年728年の9月に皇太子は2歳(数え)で没する。聖武は相当に落胆したと思われる。そして藤原氏は聖武の皇子が生後まもなく亡くなったのは、長屋王の呪詛が原因であると耳元でささやいた可能性も想定できる。単純で神経質な聖武はそれを信じたかもしれない。そして愛する我が子の殺害を許せないという感情にかられ、無実の長屋王の殺害に聖武の事前了解を与えたのではなかろうか。長屋王の殺害は聖武天皇の意向があったとみてよいのではないか。「処刑に値する密告」は時の天皇である聖武天皇にも報告されていたであろう。その前の伏線として、聖武が母宮子に『大夫人』という尊称を勅命で与えたときに,長屋王は律令違反を理由に反対し,聖武の出した勅を撤回させた事件があった。聖武はこのことを恨みに思っていたであろう。長屋王の弁明を一切何も聞かず、天皇直属の親衛隊である六衛府軍を派遣する決定は、天皇の許可や指示がなければできなかったであろう。聖武の頻繁な遷都の気の弱さは、ある種の暗さや性格の歪みが見られる。とすれば長屋王の殺害で冷酷なストーリーを描くことも可能である。
光明子の立后
藤原氏からすれば皇族出身でない光明子を皇后に立てることができれば、将来男子が生まれたときに他の皇子より優位な地位を得ることができる。これは藤原氏の権力維持に必要な舞台であった。皇族を皇后とする従来の慣例を破り。藤原不比等の娘の安宿媛を皇后(光明皇后)にするには、長屋王の存在が邪魔になる。律令の規定を何よりも重視する長屋王の存在は、聖武にとっても、藤原氏にとっても邪魔な存在であった。聖武が愛する光明子を皇后にするために障害となった長屋王を無実の罪を着せてでも殺害したとしても不思議ではない。藤原氏としては、聖武を味方に付けなければ、リスクが大きく実施できなかったであろう。その意味で、長屋王殺害の黒幕説には光明子もあるが、やはり聖武であろう。
参考文献
- 松浦茂樹(2017):「聖武天皇と国土経営」53『水利科学』 No.358
- 寺崎保広(2020)『聖武天皇』山川出版社
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