瀬田遺跡 ― 2024年09月01日 00:10
瀬田遺跡(せたいせき)は奈良県橿原市にある弥生時代の前方後円形墳丘墓がある遺跡である。
概要
2016年春に藤原京の発掘調査で弥生時代末期の周溝墓が3基発見された。本薬師寺の南東約200mで、藤原宮大極殿の南西約1.4kmに位置する。藤原京の西二坊大路(条里呼称)とそれをはさんだ右京九条二坊西北坪(同前)と九条三坊東北坪(同前)にあたる。2016年5月12日、瀬田遺跡の発見を奈良文化財研究所が発表した。 周溝から弥生時代末期の土器が多数出土した。薬師寺の東南隣接地である。円形の周溝がめぐる周溝墓1は南側に陸橋が接続していた。古墳時代の「前方後円墳」によく似る。 香川県、兵庫県、大阪府、滋賀県では前方後円形墳丘墓がすでに見つかっているので、奈良県内でも纒向石塚古墳より古い前方後円形の弥生時代の周溝墓が見つかるはずである、という「前方後円形予想」(仮説)を裏付ける発見であった。 纏向遺跡は瀬田遺跡の東北7kmにあるが、瀬田遺跡と同様の前方後円形墳丘墓が埋もれている可能性がある。
調査
奈良県内で検出された最古の前方後円形墳丘墓であり、最古級の前方後円墳とされる箸墓古墳や纒向石塚古墳より古いものである。 墳丘内土坑1から周溝出土の土器と近い時期の壺・高坏を模倣したミニチュア土器が出土した。墳丘丘を作る前に埋められていた。埋葬施設は見つかっていない。 周溝墓1の東側には、2基の方形周溝墓(周溝墓2・3)がある。方形周溝墓からは「前方後円形墳丘墓」に先行する畿内第Ⅴ様式土器が出土した。 同じ墓域の中で、方形墓と円形墓とが共存している。前方後円墳の原型であった可能性がある。
前方後円形墳丘墓
墳丘はあったはずだが、削平されていた。墳丘は藤原京以前に削平され、周溝は埋没していたが、周溝跡ははっきり残っていた。周溝内の土器や木片が出土した。土器は周溝西北部の墳丘側から集中的に出土した小型壺、高坏が目立つ。土器の時期は纏向遺跡出現記の庄内式新式(初期庄内式土器)である。 円形周溝墓の全長は約26mで、墳丘直径は東西約19m、南北18m。方形突出部の長さ7m、基部幅3m、先端部幅6m、周溝は幅6mと巨大なものであった。
編みかご
円形周溝墓の周溝から、編みかごが1点出土し、同じ時代の土坑から3点の編みかごが見つかった。遺存状態が比較的良く、同じ地層で出土した土器により弥生時代後期末から終末期(3世紀前半)のものと時期を特定できた。周溝出土の編みかの底部に脚が付いていた。その脚は「四方転びの箱」と呼ばれるものであり、これまで用途が不明だった木製品である。 サイズは外形33cm×32cmである。 今回の発見で、はじめて謎の木製品「四方転びの箱」の用途が判明した。これまでに約50例が出土しているが、用途は不明であった。今回、かごの脚としての用途がはじめて判明した。多くの「四方転びの箱」は、上辺(短辺)が8から12cmであり、今回出土した編みかごの底部が一辺6~12cmであり、大きさもほぼ一致している。 タテ材とヨコ材はタケ亜科(稈)、親骨はヒサカキ(枝)、親骨の巻き付け材と脚の留め紐はツヅラフジ(蔓)と部位により使い分けがされている。
意義
瀬田遺跡の発見により前方後円墳の出現経過を辿れるようになった。弥生時代墳丘墓の発展過程を考える上で、重要な成果といえる。これまで奈良県では弥生末期の顕著な墳墓は未発見であった。これまで邪馬台国大和説の弱点を埋める。前方後円墳がどのように成立したかを明らかにできる資料である。
規模
- 前方後円形墳丘墓
- 全長 26m
- 東西 19m、南北18m.
- 方形突出部 長さ 7m、基部幅 3m、先端部幅 6m
- 周溝 幅 6m、深さ 0.5m
- 周溝墓2号
- 1辺 5.4m以上
- 溝幅 最大 3.4m、深さ0.2m
- 周溝墓3号
- 1辺 2.7m以上
- 溝幅 最大 1.2m、深さ0.4m
遺構
- 円形周溝墓 周溝
- 方形周溝墓 周溝
遺物
- 弥生土器 弥生時代末期の土器
- ミニチュア土器 壺・高坏を模倣
- 木片
- 編みかご
指定
考察
瀬田遺跡により、以下のような前方後円墳が成立したとの「仮説」が形成できる。従来は四隅突出墳丘墓から前方後円墳が生まれたとの説があったが、この形式変化の流れでは形に飛躍があったし、地域も岡山と奈良とでかなり離れている。瀬田遺跡の発見により、前方後円墳は同じ近畿地域(奈良/大阪)での一連の形式進化として把握できることになった。
- (仮説)円形墳丘墓⇒前方後円形墳丘墓⇒纏向型前方後円墳⇒前方後円墳
- 円形墳丘墓 成法寺遺跡(大阪府八尾市)、径14mの陸橋付き円形周溝墓、弥生時代後期、
- 長原遺跡(大阪市平野区)3基の陸橋付き円形周溝墓、弥生終末期
- 前方後円形墳丘墓 瀬田遺跡、弥生時代末期、奈良県橿原市
- 纏向型前方後円墳 纒向石塚古墳、弥生時代末期、奈良県桜井市
- 前方後円墳 箸墓古墳、古墳時代初期、奈良県桜井市
- 円形墳丘墓 成法寺遺跡(大阪府八尾市)、径14mの陸橋付き円形周溝墓、弥生時代後期、
アクセス等
- 名称:瀬田遺跡
- 所在地:〒634-0033 奈良県橿原市城殿町433
- 交通:畝傍御陵前駅から徒歩15分。1.1km
参考文献
- 山本崇(2016)「藤原京右京九条二・三坊瀬田遺跡の調査飛鳥藤原第187次調査」奈文研ニュース、No61、p.2
- 独立行政法人 国立文化財機構 奈良文化財研究所 都城発掘調査部(2017)「瀬田遺跡(飛鳥藤原第187次調査)の成果」
- 独立行政法人 国立文化財機構奈良文化財研究所 都城発掘調査部(2017)「瀬田遺跡出土編みかごの調査成果」
- 浦蓉子(2017)「「四方転びの箱」の用途について」奈良文化財研究所紀要 2017 44-45
金剛寺原遺跡 ― 2024年09月02日 00:06
金剛寺原遺跡(こんごうじばるいせき))は宮崎県宮崎市にある後期旧石器時代の遺跡である。
概要
宮崎平野の舌状に延びる丘陵部の根幹部にやや平坦部をもつ洪積台地の垂水台地に所在する。宮崎市教育委員会により第1と第2遺跡が調査された。
第1遺跡
第1遺跡では、ナイフ形石器、スクレイパー、使用痕剥片1片および剥片等の233点の石器が出土した。 九州型ナイフ形石器4点、瀬戸内技法第二工程の接合資料、大量の掻器、石錐は2点出土、スクレイパーは33点出上、敲石は3点出上、二次加工素剥片は18点出上した。
第2遺跡
金剛寺原第2遺跡はナイフ形石器文化に相当する後期旧石器時代の単純遺跡であった。 遺跡からは集石遺構3基が検出され、切出形のナイフ形石器7点、スクレイパーをはじめ角錐状石器や石錐、横長子1片素材を主体とした瀬戸内技法関連石器群が出土した。 スクレイパーは両側縁に粗い調整が施され、扶入を呈している。狭入はあまり顕著ではない。 3号集石遺構はB-6区東側で検出され、挙大の石礫94個が出土した。焼上、炭化物等は検出されなかった。後期旧石器時代のナイフ形石器文化期所産の資料としては、宮崎平野では船野遺跡、堂地西遺跡など数例が知られているだけである。九州では、AT上位のナイフ形石器文化においては、ナイフ形石器と劉片央頭器、角錐状石器等が伴出して認められることが特徴に挙げられ、赤木遺跡、堂地西遺跡は特にその特徴を兼ね備えている。金剛寺原第2遺跡については、剣片尖頭器の出土はなかった。石器群の出土総数が少ないため、金剛寺原第1遺跡。金剛寺原第2追跡と直接対比できる石器は見当たらない。金剛寺原第2遺跡は、堂地西遺跡・芳ヶ迫第1遺跡および赤木遺勤などとほぼ同じ時期か、あるいは、やや新しい時期と想定された。
指定
考察
旧石器時代では、石器だけなので土器のように緻密に編年することは難しい。
アクセス等
- 名称:金剛寺原遺跡
- 所在地:宮崎県宮崎市瓜生野
- 交通:
参考文献
- 宮下貴浩編(1990)「金剛寺原第1遺跡・金剛寺原第2遺跡」宮崎市教育委員会
瀬戸内技法 ― 2024年09月03日 00:08
瀬戸内技法(せとうちぎほう)は旧石器時代の近畿西部、瀬戸内中央部で発達した系統的な石器製作技術である。
概要
鎌木義昌によって大阪府国府遺跡出土資料により『図説世界文化史大系』の中で解説・提唱され(鎌木(1960))、二上山北麓で採取された膨大な瀬戸内技法関連資料の検討を行なった松藤和人によって、修正・例証がなされた(松藤(1974)(1979))。 翼上剥辺石角の素材となる大型剥片の獲得(第1工程)を、石核に転じて規格化された翼上剥片を量産する(第2工程)。石核から横長の剥片をとりやすいよう打撃面を調整する工作が必要となる。最後に翼状剥辺に整形剥離を施し、国府型ナイフ形石器に仕上げる(第3工程)。 翼状剥片石核の性質として打撃面を調整する工作、すなわち山形状に打面調整を施すことが必須となる。瀬戸内技法と打面調整とは不可分な関係にあり、同時に瀬戸内技法を行なうために必要不可欠な調整技術である。もう一つの特徴として、打点の直線的な後退がある。 二上山北麓では礫の一端に交互に打撃を加えて、大きな剥離角で盤状剥片を剥ぎ取るという規則性がある。第2工程では盤状剥片を翼状剥片石核に転じて、翼状剥片を連続的に剥ぎ取る。
参考文献
- 絹川一徳(1988)『瀬戸内技法小考』岡山大学構内遺跡調査研究年報 5(1987年度)、pp.51-63
- 鎌木義昌(1960)「先縄文文化の変遷」『図説世界文化史大系日本1』角川書店
- 松藤和人(1974)「瀬戸内技法の再検討」『ふたがみ』学生社
港川人 ― 2024年09月04日 00:22
港川人(みなとがわじん)は沖縄県八重瀬町の港川遺跡から出土した後期更新世の人骨化石である。
概要
共伴した木炭の炭素14年代測定により1.8万年前から1.6万年前とされたが最近の調査で、約2万2千年前とされる。 総数は5体から9体であるが、港川Ⅰ人骨は比較的良く残り、全身骨格がよく分かる。 脳容量は男性が1390cc、女性が1170ccであった。 脳頭蓋の厚さは現代人の2倍ある。 沖縄県では他に、大山洞人、桃原洞人、カダ原洞人、下地原洞人が出土する。多くは新人であるが、大山洞人はフッ素含有量から旧人とみられている。 石垣島(石垣市)の「白保竿根田原洞穴遺跡」では2016年までの調査で見つかった旧石器時代の人骨は全身骨格がほぼ残った人骨としては国内最古の約2万7千年前のものと見られており、港川人より古い。19体分以上の骨があり、旧石器時代の人骨発掘としては「世界最大級」である。推定身長は約165センチで「港川人」より10センチ程度高い。
考察
参考文献
- 「旧石器時代の「港川人」、現代日本人と直接つながらず」読売新聞、2021/06/14 14:28
- 「石垣島で国内最古の全身人骨 2万7千年前と推定」日本経済新聞、2017年5月19日
埋積浅谷 ― 2024年09月05日 00:30
埋積浅谷(まいせきせんこく)は深い谷が厚い堆積物によって埋め立てられて浅くなったものをいう。
概要
小野映介・海津正倫(2001)は堆積物の14C年代値の測定を行い、埋積浅谷の発達過程を調べた。濃尾平野北東部では浅谷が約3,000~2,400年前に形成され,約2,400~2,200年前に埋積されたことが明きらかになった。 小松市八日市地方遺跡の埋積浅谷では肩部に円形状に貝類の集中がみられた。貝類は、マシジミ、ヤマトシジミを主体とし、サザエ、オオタニシなどがみられる。埋積浅谷に接した箇所に木器の貯木に利用したと思われる隅丸長方形の土坑がみられる。埋積浅谷のくぼ地を 利用して貯木場を作っていた。遺跡の中央に最大幅40 mの埋積浅谷がみられる。環濠集落形成以前にあたる弥生時代前期では、埋積浅谷の水流は強く、砂層の堆積と侵食が繰り返し行われていた。環濠集落形成以後は、水流は強くなくなり、人々にとって利用しやすい環境 となっていた。 遠藤邦彦・牧野内猛(1995)は関東平野の中川低地において、海面が低下傾向に転ずる5300年前以後,浅谷の形成が始まったとし、こうした埋積浅谷の存在は平野の陸化、河成作用の卓越化などを示すものとして重要と指摘する。
考察
14C年代測定により埋積で谷が埋まるまでに800年前後を要することが判明した。埋積浅谷の周囲では、埋まるまでの間、水流があり遺跡が作られた。
参考文献
- 小野映介・海津正倫(2001)「濃尾平野北東部における埋積浅谷の発達と地形環境の変化」第四紀研究 40 (4),pp.345-352
- 遠藤邦彦・牧野内猛(1995)「沖積層の形成過程」土と基礎 43 (10),pp.8-12
- 川瀬久美子(1996)「矢作川下流低地における縄文海進期以降の陸化の進行」名古屋大学加速器質量分析計業績報告書 7 221-228
西川津遺跡 ― 2024年09月06日 00:41
西川津遺跡(にしかわづいせき))は縄文時代から近現代まで続く大規模な複合遺跡である。弥生時代は拠点集落遺跡となる。
概要
松江市の、朝酌川中流域近くの島根大学松江キャンパス北東にある弥生時代を中心とする集落・低湿地遺跡である。 西川津遺跡は松江市北部の朝酌川流域に拡がり、昭和50年代から平成20年代にかけて発掘調査が行われた。遺跡から土笛や貝輪、銅鐸、多数の木製品が出土するなど、山陰地方を代表する弥生時代の大規模拠点集落として知られる。コンテナ数約3,000箱に及ぶ膨大な遺物が出土した。西川津遺跡には前期から中期にかけての多量の上器や木製の農工具、石製品、骨角器などがあり、島根県地域で最も早く水田耕作が始まった地域である。本製農耕具の多量な出土が特徴で、特に鍬類では、広鍬、狭鍬、丸鍬の製品、そして、広鍬、丸鍬では各段階の未製品の出土があり、当地方での鍬類の製作過程が分かるものである。
貝塚
遺構としては弥生前期の貝塚、中期の掘立柱建物跡なども検出されている。 西川津遺跡では弥生時代の前期~中期(2500年~2000年前ころ)の小規模な貝塚が何か所かで発掘調査されている。縄文時代の佐太講武貝塚と同様、貝の主体となるのはヤマトシジミである。
遺構
- 掘立柱建物
- 貝塚
- 土坑
- 貯木場
- 石列
- 溝状遺構
遺物
- 弥生土器
- 高坏
- 石斧
- 石器
- 石剣
- 石鏃
- 柱状石斧
- 石庖丁
- 砥石
- 刀子状小形磨製石
- 木製品
- 鍬
- 丸鍬
- 狭鍬
- 又鍬
- 鋤の柄
- 鋤身
- 膝柄
- 本鎌状木製品
- 糸巻状本製品
- 杭状木製品
- 木弓状本製品
- 棒状本製品
- 荷負棒状本製品
- 玉製品
- 骨角器
- 人骨
- 獣骨
- 魚骨
- 太型蛤刃石斧
- 扁平石斧
- 不定形刃器
- 局部磨製削器
- ゴホウラ製腕輪
- 漆 器
木製壺
宇野隆夫(2011)による報告は以下の通り。従来、大量の土器・木器、玉作り資料、銅鐸、掘立柱建物などが見つかっていた。今回の調査では弥生前期の2条の環濠および弥生後期の1条の環濠が発見された。弥生前期の環濠は貯木場の機能をもち、多くの木製農具に混じって木製壺1点が出土した。壺のように口がすぼまる形のものを一木から作ることは難しいため、高度な木工技術を示している。本例は弥生時代木製壺として最古のものである。また弥生後期の環濠からはJ字形のガラス製玉勾玉が見つかった。ガラスの色はコバルトブルーでありJ字形の勾玉は、初めて発見されたものである。本調査で、西川津遺跡が山陰地方の一大有力拠点集落であったことが明確になった。
大溝
2011年11月10日(木)、島根県埋蔵文化財調査センターは、松江市の西川津遺跡から、弥生時代前期の大溝1本が発見されたと発表した。2010年に同遺跡で見つかった大溝とつながるものと見られており、大溝の長さは少なくとも30メートルと見られる。 同センターは「環濠集落」の可能性があるとする。
人面付土器
額部分が最大幅であり、顎に向かって細くなる尖顎である。顎から頸にかけて写実的に表現されている。眼寓上隆起が強調され、眼寓自体が一段下がった位置に表現される。目はヘラ状工具による刺突、鼻孔は先端の狭い工具による刺突により表現されるが、日は浅く柔らかい表現となる。西日本の人面付土器で弥生時代前期に遡るものとしては、山口県下関市、綾羅木郷遺跡の土偶、岡山県岡山市。田益田中遺跡の人面土製品、同県邑久町・熊山田遺跡の人形土製品、香川県志度町の鴨部川田遺跡の土偶、兵庫県。大歳山遺跡の土偶、大阪府茨木市。東奈良遺跡の土偶などがある。 西日本の人面付土器のルーツの解釈は2説がある。
- 設楽博己説
- 畿内を中心とした西日本から、無鯨面・頭部有突起の人面付土器・土偶が各地に派生し、その伝播過程において縄文的な要素が加わり鯨面が再登場したり、中部地方では頭部に突起を持つ有髯土偶が出現する
- 石川日出志説
- 近畿地方で変容・発生した「無鯨面・頭部有突起の人面付土器」という情報が西川津遺跡にもたらされた
放射性炭素年代測定
ばらつきが大きいが、紀元前3300年から5700年であろうか。
- NK97 No1 BC3370
- NK97 No2 BC4840
- NK97 No3 BC5700
- NK97 No4 BC3665
指定
考察
鍬、丸鍬、狭鍬、又鍬、鋤の柄、鋤身などは米作りの道具である。鶴場地区から大量の炭化米がみつかっている。弥生時代の炭化米は島根県埋蔵文化財調査センターで保存する。 蔵)
アクセス等
- 名称:西川津遺跡
- 所在地:松江市 西川津町
- 交通:
参考文献
- 「西川津遺跡で、弥生前期の大溝を発見」毎日新聞、2011年11月14日
- 宇野隆夫(2011)「考古学」ブリタニカ国際年鑑 、pp.221-224
- 内田律雄(1987)『朝酌川河川改修工事に伴う西川津遺跡発掘調査報告書3』
- 島根県教育委員会(1999)『西川津遺跡』6
- 島根県教育委員会(2000)『西川津遺跡Ⅶ』埋蔵文化財発掘調査報告書第12冊
- 島根県教育委員会(2001)『西川津遺跡Ⅷ』埋蔵文化財発掘調査報告書第13冊
- 石川日出志(1987)「土偶形容器と顔面付土器」『弥生文化の研究8 祭と墓と装い』雄山閣出版
- 設楽博己(1990)「線刻人面土器とその周辺」『国立歴史民俗博物館研究報告』第25集
- 設楽博己(1999)「第Ⅲ章 弥生文化の東へ西へ 第3節祖先の顔」『新弥生紀行』朝日新聞社
- 三浦清・内田律夫(1988)「松江市西川津遺跡から出土した分銅形土製晶に含まれるクローム鉄鉱とその考古学的意義」島根大学教育学部紀要. 人文・社会科学 22 (1),pp.1-6
ミニチュア土器 ― 2024年09月07日 00:32

ミニチュア土器(みにちゅあどき)は手のひらに乗るサイズで10センチにもみたない、小さな土器である。
概要
縄文時代から古墳時代まで出土する超小型の土器である。このような小さな土器では実用的に使うことはできないから、おそらく実用品ではない。 三内丸山遺跡からは2,500点以上のミニチュア土器が出土した。
事例
- ミニチュア土器・ 二重口縁壺、下那珂遺跡、宮崎市佐土原町出土、弥生時代
- ミニチュア土器 注口土器、元屋敷遺跡、新潟県村上市、縄文時代後から晩期
- ミニチュア土器 石郷遺跡、鹿児島県鹿児島市
- ミニチュア土器 深鉢、栗林遺跡、長野県中野市、縄文時代、長野県立歴史館蔵
- ミニチュア土器 幅上遺跡、十日町市、縄文時代中期、
- ミニチュア土器 水差形土器、唐古鍵遺跡、奈良県磯城郡田原本町、弥生時代(中期)
- ミニチュア土器 炊飯具、釜、甑(蒸し器)、大谷古墳群公園、羽曳野市、古墳時代後期
考察
ミニチュア土器はさまざまな形があり、丁寧に作られたもの、急いで作られたものなど様々である。 ミニチュア土器は何のために作られたのか、諸説がある。 ①「祭祀に使う道具」説、②「墓の副葬品」説、③「こどものオモチャ」説、④「教育用」説、⑤室内の飾り説、⑥技術伝承・習得の過程を示す証拠 などが考えられているが決め手は難しい。
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