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邪馬台国への使者2024年09月27日 00:08

邪馬台国への使者(やまたいこくへのししゃ)は魏が3世紀に邪馬台国へ派遣した使者である。

概要

正始元年(240年)に派遣された梯儁は魏王朝から倭国への初めての公式の使者であった。 ここで、梯儁は倭国のどこまできたかが論争になっている。2説がある。

  1. 伊都国まで説
  2. 邪馬台国まで説

伊都国まで説

伊都国説の論拠は次の通りである。

  1. 不弥国までは里数表示であるが、不弥国以降は日数に変化する。
  2. 旅行の見聞は奴国までは書かれているが、不弥国以降は書かれていない。

邪馬台国まで説

  1. 皇帝からの預かりものは倭王に直接渡すのが決まりである。
  2. 旅行の見聞の精粗は旅程と関係ない。
  3. 『魏志倭人伝』に倭王に面会したと書かれている。(「拝化」記事を参照)
  • 『春秋』には「肅慎東北夷之國去扶餘千里」(扶餘國から肅慎國まで千里)と書かれる。また『晉書四夷傳』には「肅慎氏一名挹婁在不咸山北去夫餘可六十日行」(「扶餘國から肅慎國まで六十日」)と書かれる。ここからら里数表示が実際に行った場所で、日数は言っていない場所であるとは断言できない。
  • 旅行の見聞の書きぶりが異なることは実際に行っていないことの証明にはならない。梯儁が倭国での見聞を詳しく書いたかどうかは分からないからである。陳壽が梯儁の報告(旅程記事)に他の報告をまぜた可能性もあろう。
  • 『魏志倭人伝』に倭王に面会(拜假倭王)したと思われる記事があることは重要である。 皇帝の勅書を倭王に渡さず、他人に渡すだろうかという疑問がある。
  • 大場脩(1971)は贈与する品物は倭の使者に持たせるが、印綬は魏の官吏に持たせている。印綬と贈与の品物とでは扱いが異なるとを指摘している。その理由を、もし難升米や牛利が印綬を横取りするとその人物が親魏倭王になってしまうから不都合であると指摘する。したがって梯儁は皇帝の詔の趣旨にしたがって、伝達の責任を果たさなければならないとする。つまり魏の使者が伊都国に留まって女 王のもとには行かないという考え方は承認できないと大場脩(1971)は判断する。

考察

上記のように「伊都国まで説」は根拠が乏しく、「邪馬台国まで説」に理があると考える。 皇帝の勅書と印綬を途中で倭王の代理人に渡す事はあり得ないし、倭王に面会した記事があるのだから、梯儁は邪馬台国まで行ったと判断する。他の国への派遣記事の事例があると補強になる。

参考文献

  1. 佐藤進・濱口富士雄(2011)『漢辞海』第三版、三省堂
  2. 石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店<br>
  3. 藤堂明保他(2010)『倭国伝』講談社
  4. 大場脩(1971)『親魏倭王』学生社