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神仙思想2024年11月13日 00:04

神仙思想(しんせんしそう,英divine thought)は古代中国の民間思想であり、、はるか遠くの東海にある蓬莱山や西方の果ての崑崙山に神仙が宮殿に住むという思想である。

概要

神仙は不老不死(死なないこと)や飛昇(空を飛ぶ)といった特殊な能力をもつと考えられていた。『抱朴子』によれば、不老不死になるためには修行によって生を養う養生術と、丹(金丹)という薬を服用するという錬丹術が書かれる。中国では漢代(BC202年からAD220年)を中心として神仙思想が流行した。富貴、長生、子孫繁栄などの現実的な利益を求め、常世国や神仙境への憧れがあった。神仙蓬莱思想は倭国には飛鳥時代に入ってきたとされる。後世の禅寺の庭にも蓬莱山が作られている。

神仙

神仙には「西王母」と「東王父」とがある。崑崙山に住む西王母は、全ての仙女(女仙)を統括する。3000年に一度だけ開花し実を結ぶする桃(仙桃)や仙薬を保有しており、これらを食べると長寿になれるという伝説がある。東方の蓬莱山 上に住む東王父は男の仙人を統率する。「東王公」「東父」ともいう。山東半島のはるか東の海中に蓬莱山などの神仙境があるとされる。

道教と神仙思想

神仙思想は道教思想の基礎となっている。道教は、神仙思想・老荘思想・黄老思想・五斗米道など数多くの思想を取り入れて成立した多神教である。 不老長生とは、肉体を健全にし、生命の永遠を願うもので、道教は不老長生を目的とした。道教では不老長生を得るための手段の一つとして、種々の儀礼を行う。儀礼には、道教の戒律を受けた道士によって行われるものと、法師など道士以外の人々により行われるものがある。

鏡の題材

漢式の神獣鏡は神仙思想を図像にしたものであり、神仙として西王母と東王父が描かれている。神獣鏡は中国の漢代後半から六朝初期に盛行した。

徐福伝説

秦の始皇帝は不老不死を願って仙薬を求め、徐福を蓬莱山に派遣した。徐福の目指した蓬莱山は日本と言われている。徐福が日本に来たという伝説が残っている。徐福は不老不死の仙薬を探すために、3000人の童男童女を引き連れて船出し、日本の熊野にたどり着いたとされる。司馬遷が『史記』に記載しているため、徐福は実在した人物と考えられている。日本の和歌山県新宮駅から東100mに「徐福の墓」がある。

弥生時代における神仙思想

唐古鍵遺跡から出土した褐鉄鉱の塊の中空部分に勾玉を収めたものは中国では「壺石」「鳴石」「鈴石」と呼ばれる。辰巳和弘はその粘土の塊を「兎餘粮」「太乙兎餘粮」として仙薬と珍重されたものと紹介する。これを服用すれば、空を飛び、寿命を延ばすことができると『抱朴子』に書かれるからである。

日本書紀

  • 日本書紀巻第六 垂仁 九十九年秋七月戊午朔
  • 田道間守、於是、泣悲歎之曰「受命天朝、遠往絶域、萬里蹈浪、遙度弱水。是常世國、則神仙祕區、俗非所臻
  • (大意)(垂仁は逝去し)田道間守は常世の国から帰国した。持ち帰ったのは非時の香菓である八竿八縵(橘を串に刺したものと、葉付きの枝)であった。常世の国は遠く波を越え、川を渡った。常世の国は神仙が隠れるところである。

考察

神仙思想における蓬莱山が山東半島のはるか東の海中にあるという地理的情報は『魏志倭人伝』の邪馬台国の位置と関係があるのではないだろうか。『魏志倭人伝』の行程を(放射状説を取らないで)そのまま解釈すれば、山東半島のはるか東の海中になるからである。日本に大陸から伝わった蓬莱山の神仙思想は後代まで影響を与えた。江戸時代の画家である鈴木鵞湖は「蓬莱山図」を描いている。多くの仙人たちが鶴や鳳凰、龍に乗って天空から舞い降り、亀や魚に乗って集う姿が描かれる。

参考文献

  1. 横手裕(2002)『中国道教の展開』世界史リブレット96、山川出版社
  2. 大形徹(2005)「神仙思想の成立に関する研究」文部科学省科学研究費補助金研究成果報告書
  3. 藤田 友治(2002)『古代日本と神仙思想』五月書房
  4. 津田敬武(1916)「古墳發掘の所謂神獸鏡を論じて佛敎渡來以前の宗敎思想に及ぶ」『考古学雑誌』 1巻1号,pp.273~280
  5. 辰巳和弘(2005)「神仙思想の伝来と倭化」万葉古代学研究所年報(3),pp.82-92

堂ケ谷戸遺跡2024年11月13日 07:50

堂ケ谷戸遺跡(どうがやといせき)は東京都世田谷区にある旧石器時代から近世までの複合遺跡である。「堂ヶ谷戸遺跡」(ケがヶ)とも書く。

概要

東京都の東部は、台地(段丘)と低地となる。台地は武蔵野台地と呼ばれ、古多摩川により形成された扇状地性の武蔵野段丘と呼ばれる地形面が西から東へ広がる。多摩川の支流である谷戸川と仙川の合流点付近まで張り出す台地の先端部から基部にかけての武蔵野段丘上の標高38mに堂ケ谷戸遺跡は立地する。遺跡の範囲は最大で東西約38m、南北540と推定されている。武蔵野段丘上には大蔵遺跡、総合運動場遺跡、下山北遺跡、下山遺跡などの集落遺跡がある。また台地斜面には堂ケ谷戸横穴墓群、岡本原横穴墓群などがある。

顔面把手付土器

口縁部に顔面装飾のある把手を配している土器であることから「顔面把手付土器」と称される。顔面部と胴部がともに表された土器の出土は世田谷区では始めてであった。 2019年(平成31年)2月に実施された堂ヶ谷戸遺跡第61 次調査4号土坑から土偶装飾と抽象文が付された土偶装飾・抽象文付土器が出土した。高さ15.4cm の小形の土器である。樽形の小形土器で、口縁部の一部が欠損しているが、ほぼ完形である。口縁部直下の無文帯、最大径部分に3本・底部直上に2本の横走する隆帯で2つの施文域が配置される。三角形状の隆帯を組み合せた三角形区画と菱形区画が見られる。隆帯の内側に角押文があり、胴下半部に長い切り込み、短い切り込みが上下に連続的に施される。新道式2段階に比定される。抽象文はサンショウウオ文・みずち文と呼ばれ、下向きの三日月状の胴部に円やC字形の頭部を持つ。土偶装飾付土器の出土遺跡としては、他に国立市南養寺遺跡、町田市木曽中学校遺跡、同藤の台遺跡がある。

第64次調査

第64次調査は2023年に行われ、縄文時代中期中葉から後葉の住居跡11軒、土坑16基、ピット38本を検出した。遺物は縄文土器、石器、土製品を検出した。住居跡から検出された土器は23号住居跡で勝坂3式期、282号住居跡は加曽利E2式期、288号住居跡は加曽利E1式期であった。住居跡は弧状に展開していた。また遺跡で弥生時代の方形周溝墓が検出された。

調査

遺構

  • 住居
  • ピット
  • 集石
  • 屋外炉
  • 炉穴群
  • 土坑

遺物

  • 縄文土器 - 勝坂III式/阿玉台式/加曽利E1式/夏島式
  • 石器
  • 土製品
  • 顔面把手付土器

指定

考察

アクセス

  • 名称:堂ケ谷戸遺跡
  • 所在地:東京都世田谷区岡本2丁目33
  • 交通: 二子多摩川駅から徒歩25分 /2km

参考文献