武蔵国分寺跡 ― 2024年12月10日 17:41
武蔵国分寺跡(むさしこくぶんじあと)は奈良時代に建てられた武蔵国分寺の跡である。
概要
741年(天平13年)3月24日の聖武天皇の詔(続日本紀)により全国に国分寺が建立された。武蔵国分寺は東西880メートル南北550メートルの広大な敷地が充てられた。敷地の東に野川が流れ、西は東山道武蔵路が走る。北に国分寺崖線があり、その坂を下ったところに武蔵国分寺跡がある。当時は僧寺には20人の僧侶、尼寺には10人の尼僧が住んでいた。
伽藍配置
①経典の講義などを行う講堂-本尊を安置する金堂-中門-南門が南北一列に中軸線を揃えて並び、②中軸線の東側に鐘楼と東僧坊が、対する西側に経蔵と西僧房がシンメトリーに建つ。③これらの建物を中門から両翼に延びる掘立柱塀(築地塀に建て替え)と大小複数の溝で囲まれる。④七重塔跡は、金堂・講堂跡から東方200メ-トルに位置する。
講堂
講堂跡は、創建時は桁行5間(東西約28.5 m )、梁行4間( 南北約16.6 m)であったが、再建時に桁行7間(東西約36.2m)、梁行4間(南北約16.6m)と建て替えられた。創建時の基壇は、東西約34.3 m、南北約22.6 mで8世紀中頃に生産された南比企窯跡群産の有段男瓦が多用され、一方の再建時の外装瓦は創建期から9世紀中頃までの製品が混在して使用された。
金堂
金堂の建物は、桁行7間( 東西約36.2 m )、梁行4間( 南北約16.6 m ) で、再建時の講堂跡とほぼ同規模である。屋根構造は入母屋造もしくは寄棟造と考えられる。軒の出は、廂部分に相当する礎石の位置から基壇縁、及びその外周雨落石敷まで約16 ~ 17 尺を有するが、国分寺の金堂としては最大級の規模である。基壇は河原石による乱石積外装で、規模は東西約45.4 m、南北約26.3 mである。礎石は基壇上に19 個残存する。付帯施設として基壇の南と北に階段が存在する。いずれも河原石積の構造で、北面階段は大凡建物中央間一間分( 約4.5 m ) の幅で、階段の出は約1.35 mを測る。
中門
金堂と南門との間にある中門は創建期の礎石建てから、その後掘立柱建物の門に建て替えられたことが判明した。底面に敷かれた瓦は創建期段階のもので、「高( 高麗郡)」の押印、「播( 播羅郡)」のヘラ書き資料が出土した。屋根の構造は寄棟もしくは入母屋と推定された。各地の国分寺の中門の両側には回廊が巡り、金堂や講堂などの建物と連結している伽藍配置であるが、武蔵国分寺(僧寺)では回廊はなく、伽藍中枢部は塀と大溝で囲まれていることが判明した。
南門
薬師大門と呼ばれた場所に明治時代の肇は礎石が3、4個あったが、大正11年には1つもなくなっていた。昭和33年度に日本考古学協会により調査され、4つの礎石据え付け痕跡が発見された。平成20年度調査で地表した0.55mから0.75mの位置で遺構確認を行った。金堂心から南に115m、礎石建築で二本の親柱と背後に控柱が各1本が伴う。間口1.5m、親柱と控え柱の距離は2.3mであった。
鐘楼跡
鐘楼跡は礎石建ちの南北棟総柱建物で、桁行3間(南北9.6m)、梁行2間(東西6.0m)の規模であり、廂を伴わないことから屋根構造は切妻造りと見られる。
七重塔
七重塔は3間(約10メートル)四方の礎石建物であり、高さ約60メートルと推定されている。中央にほぞ穴がある心礎を含め7個の礎石が残る。
焼失
武蔵国分寺の伽藍は1333年(元弘3年)の分倍河原の合戦で焼失したと伝えられる(寺伝)。その後、新田義貞は金堂付近に薬師堂を建立したとされる。
遺構
- 金堂跡
- 講堂跡
- 七重塔跡
遺物
展示施設
- 武蔵国分寺跡資料館
指定
- 大正11年(1922年)10月12日 国史跡
考察
アクセス等
- 名称: 武蔵国分寺跡
- 所在地: 国分寺市西元町1丁目から4丁目
- 交通: 西国分寺駅徒歩15分
参考文献
- 国分寺市遺跡調査会(2010)「国指定史跡 武蔵国分寺跡」国分寺市教育委員会
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