縄文時代の漆 ― 2025年04月05日 00:04
縄文時代の漆(じょうもんじだいのうるし)はウルシの木の樹皮に傷をつけて樹液を採取し、漆液を作り塗料や接着剤としたものである。
概要
漆の木は日本、中国、朝鮮半島にあるウルシ科ウルシ属の落葉高木である。 日本では縄文時代から漆を利用している。縄文時代の漆器は青森県是川遺跡や埼玉県真福寺貝塚における発掘調査によって1920 年代から知られていた(能城修一・吉川昌伸・佐々木由香(2021))。継続的に居住が続いた縄文時代の集落の周辺においてウルシ林が維持され、漆液を採取し、漆液を用いて漆器を製作していたことが明らかにされた。
漆器が出土する遺跡
古くは上久津呂中屋遺跡(富山県)、三引遺跡(石川県)から約7500年から7200年前の 漆塗りの櫛の破片が発見された。三内丸山遺跡からは漆塗りの赤い木皿や赤色顔料発見され、約5500年前のものとされる。縄文時代の漆器の出土状況から、本州の中央部から東北 部では普通にウルシ林が維持されていたと見られる。縄文時代前期の青森県岩渡小谷遺跡縄文時代中期から晩期の東京都下宅部遺跡から漆器の製作とともに、多数のウルシの木材が低地の遺構の構築や容器の製作に使われていた(同前)。下宅部遺跡における漆工作業は堀之内1 式期に始まり,縄文時代晩期初頭にはほぼ終息した(千葉敏朗(2021))。 関東地方ではデーノタメ遺跡(埼玉県)があり、漆塗り土器が出土している。集落でウルシの木を栽培し、管理していたとみられる。ウルシの痕跡は花粉、木材、漆製品、ウルシのパレットで確認されている。現在、ウルシの木の苗木は、岩手、福島、茨城で育成されている。日本一の漆の木の産地は岩手県である。
漆の木材
ウルシの木材は縄文時代草創期に福井県西部の鳥浜貝塚で出土しているが、縄文前期には東北地方の4遺跡、中期には関東地方と北陸地方の6 遺跡、後・晩期には本州中部から東北地方の18 遺跡で確認されている(能城修一・吉川昌伸・佐々木由香(2021))。短期間に使われた集落遺跡では、ウルシ資源の維持はできなかった。下宅部遺跡ではウルシは22 年生の個体が検出されている。ウルシは風通しを良好に保たないとと弱って枯れてしまうため,木が生長して大きくなるにつれ,隣接木との間隔を確保するために人手で間伐を行なう必要がある。下宅部遺跡からは木杭として70本の漆の木が出土した。このうち43本に杭を一周する掻き傷が確認された。下宅部遺跡のウルシ樹液採取の傷を持つ杭は縄文人がウルシ林を意図的に維持管理していた証拠となる。
発祥地
漆器は中国発祥であり(ウルシの原産地は中国の揚子江中・上流域から東北部とされていた)、漆技術は漆の木と共に大陸から日本へ伝わったと考えられていた(山崎敬(1989))。ところが北海道函館市南茅部地区の垣ノ島B遺跡から出土した漆の装飾品6点は米国における放射性炭素年代測定により7400年前の中国の漆器を大幅に遡る約9000年前(縄文時代早期前半)と判明した。
考察
ウルシの木が栽培されていたデーノタメ遺跡では現在、ウルシの木が見られないことから、人手がなければウルシの木を維持できないことは明らかである。ウルシの木は他の樹木よりも生長が遅いので、他の樹木との生育競争で負けてしまい生育できない。維持するには人手が必要である。ウルシの木は埼玉県では自生していないことから、埼玉県の縄文人はウルシの木をどこから手に入れたのであろうか。
参考文献
- 能城修一・吉川昌伸・佐々木由香(2021)「縄文時代の日本列島におけるウルシとクリの植栽と利用」
- 山崎敬(1989)「ウルシ科.『日本の野生植物 木本II』(佐竹義輔・原 寛・亘理俊次・冨成忠夫編)pp.4-6,平凡社,
- 坪井睦美(2001)「遺跡速報 垣ノ島B遺跡の漆製品」考古学ジャーナル (479) (臨増) p.29
- 千葉敏朗(2021)「下宅部遺跡から見た縄文時代の漆工技術」
唐古・鍵遺跡 ― 2025年04月05日 14:28
唐古・鍵遺跡(からこかぎいせき)は奈良県磯城郡田原本町に所在する弥生時代の集落遺跡である。弥生時代においては、日本最大級の集落であった。
概要
唐古・鍵遺跡は奈良盆地の中央部にあり、寺川と初瀬川の間の標高47mから49mの沖積地に立地する遺跡である。弥生時代の拠点集落の一つである。拠点集落の中で、その実態が最も解明されているのが唐古・鍵遺跡である。弥生時代前半から古墳時代前半までの長い期間に渡る集落である。7世紀には藤原京から平城京へとつながる大動脈の下ツ道が脇に通り、中世・近世にはそれを中街道と呼んだ。
発掘調査の歴史
1936年・19377年、国道敷設用採土に伴い唐古池底の調査がおこなわれた。この時に出土した土器や木製品等は弥生時代の総合的な認識をもたらし、畿内の土器編年の枠組みの基礎となった。その後、発掘調査は1977年に再開され、2015年9月までに116次に達した。
主な調査
最初の報告は高橋健自による遺跡調査である。1901年の論文「大和考古雑録」で「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」として紹介した(高橋健自(1901))。その後、飯田恒男・飯田松次郎親子は唐古池を中心とする遺物採取を行い、自費出版で『大和唐古石器時代遺物図集』を刊行した(飯田恒男・飯田恒男編(1929))。第一次学術調査は国道15号線(現在の24号線)建設に伴う唐古池の土取り工事と併行して1936年暮れから始まった唐古池調査であった。1943年に刊行された『大和唐古弥生式遺跡の研究』は日本の弥生時代研究の大きな成果となった(京都帝国大学文学部考古学教室編(1943))。出土品は木製農具など類例が少ないものであり、弥生時代を総合的に把握するために重要な役割を果たした。唐古池の発掘により、弥生式土器の様式が確立された。調査を担当した末永雅夫による「唐古池発掘日誌」に調査の様子が詳しく語られている(末永雅雄(1937))。
唐古・鍵遺跡発掘の歴史
学術調査
弥生集落の変遷
発掘調査により判明した弥生集落の変遷を時代順に概説する。
第一段階 - 弥生集落の成立(弥生時代前期)
小高い所を選んで人が住むようになった。遺跡の北部、西部、南部の3ヶ所の微高地にムラが形成された。周辺は湿地が広がるため、中洲状が想定されている。弥生式土器で最も古い段階の「大和第Ⅰ-1-a様式」とともに、ごくわずかの縄文式土器も検出された。縄文人と弥生人の棲み分け論の根拠である。藤田三郎は縄文晩期から徐々に変化したというより、新たに稲作技術を持った人々が唐古・鍵の地を開拓したと見る(参考文献5,p48)。集落の成立初期には環濠はなかったようである。
第二段階 - 弥生集落の分立(弥生時代中期初頭)
3ヶ所に形成されてきた居住区が、それぞれ周りに溝を巡らせて「環濠集落」となる。西側地区では総柱の大型建物が建築された。梁行き2間(7m)、桁行き5間以上(11.4m以上)の南北に長い建物である。床面積は80m2。炭素14年代測定では北東隅の倒れていた柱は紀元前3から4世紀と推定されるが、立っていた2本のケヤキ柱は下っても紀元前5世紀までとされた。小溝から検出された土器を検証し、前後関係を整理すると、弥生時代中期初頭に建築され、大和第Ⅱ-3様式には解体されたと理解され、倒れていた柱の年代と一致する。立っていた柱は転用材とみられる。弥生時代前期から中期の墓は2つ見つかっており、南側の第一号木棺墓は木棺と人骨が残存していた。東京大学埴原和郎の鑑定では身長160cm以上の20歳代後半から30歳代前半の男性とみられた(藤田三郎(2012),p60)。国立科学博物館の馬場悠男の復元では、江戸時代など現代人とあまり変わらない骨格で大陸系の人の可能性があると見られた。2号木棺の放射性炭素年代測定では約2100年前と測定され、弥生時代と確認された(藤田三郎(2012),p62)。
第三段階 - 集落統合と大環濠の切削
3ヶ所の居住区が統合され、全体を囲む「大環濠」が掘削される。大環濠で囲まれた集落は、直径約400mと考えられる。その周りを幾重にも溝が取り囲み、中期後半には、楼閣をはじめとする建物、鹿、人物などの絵画を土器に描く風習が広まった。
第四段階:環濠集落の再建(弥生時代後期)
中期末の洪水で環濠の大半は埋没するが、すぐに再掘削が行われる。環濠帯の広さは最大規模となる。後期のはじめに、ムラの南部で青銅器の製作が行われた。弥生時代中期末の洪水は全村的な災害と推定されている(藤田三郎(2012)5,p91)。集落は放棄されず、より大きなムラが再建され、より大きな環濠が再建された。定住性の強いムラであった。後期後半に方形周溝墓が作られた。
第五段階:環濠集落の解体(弥生時代後期)
弥生時代中・後期に大環濠はなくなり、ムラの規模が縮小する。環濠の一部は再掘削されるが、井戸などの居住区関連の遺構は大幅に減少する。 環濠は土器の大量廃棄により埋没する。藤田三郎は環濠を必要としない新しい社会を想定する(藤田三郎(2012),p96)。南地区では弥生時代の環濠が再切削され、溝内から多量の遺物が出土する。
アクセス等
- 名称:唐古・鍵遺跡
- 遺跡面積:約42万平方メートル
- 遺跡規模:東西700m、南北80mの楕円形
- 調査面積:3万5271平方メートル
- 所在地:奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵
- 交通:近鉄橿原線石見駅下車 東へ徒歩約20分(約1.5キロメートル)
参考文献
- 高橋健自(1901)「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」『考古界』第1篇第7號,考古学会
- 飯田恒男・飯田恒男編(1929)『大和唐古石器時代遺物図集』飯田松次郎
- 京都帝国大学文学部考古学教室編(1943)『大和唐古弥生式遺跡の研究』京都帝国大学文学部考古学研究報告 第16冊,桑名文星堂
- 末永雅雄(1937)「大和の弥生式遺跡 唐古 発掘日誌」『考古学』第8巻2-4号,東京考古学会
- 藤田三郎(2012)『唐古・鍵遺跡』同成社
- 名古屋大学中村俊夫( 考古学,文化財科学,地理学,文化財科学,文化財科学・博物館学
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