唐古・鍵遺跡 ― 2025年04月05日 14:28
唐古・鍵遺跡(からこかぎいせき)は奈良県磯城郡田原本町に所在する弥生時代の集落遺跡である。弥生時代においては、日本最大級の集落であった。
概要
唐古・鍵遺跡は奈良盆地の中央部にあり、寺川と初瀬川の間の標高47mから49mの沖積地に立地する遺跡である。弥生時代の拠点集落の一つである。拠点集落の中で、その実態が最も解明されているのが唐古・鍵遺跡である。弥生時代前半から古墳時代前半までの長い期間に渡る集落である。7世紀には藤原京から平城京へとつながる大動脈の下ツ道が脇に通り、中世・近世にはそれを中街道と呼んだ。
発掘調査の歴史
1936年・19377年、国道敷設用採土に伴い唐古池底の調査がおこなわれた。この時に出土した土器や木製品等は弥生時代の総合的な認識をもたらし、畿内の土器編年の枠組みの基礎となった。その後、発掘調査は1977年に再開され、2015年9月までに116次に達した。
主な調査
最初の報告は高橋健自による遺跡調査である。1901年の論文「大和考古雑録」で「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」として紹介した(高橋健自(1901))。その後、飯田恒男・飯田松次郎親子は唐古池を中心とする遺物採取を行い、自費出版で『大和唐古石器時代遺物図集』を刊行した(飯田恒男・飯田恒男編(1929))。第一次学術調査は国道15号線(現在の24号線)建設に伴う唐古池の土取り工事と併行して1936年暮れから始まった唐古池調査であった。1943年に刊行された『大和唐古弥生式遺跡の研究』は日本の弥生時代研究の大きな成果となった(京都帝国大学文学部考古学教室編(1943))。出土品は木製農具など類例が少ないものであり、弥生時代を総合的に把握するために重要な役割を果たした。唐古池の発掘により、弥生式土器の様式が確立された。調査を担当した末永雅夫による「唐古池発掘日誌」に調査の様子が詳しく語られている(末永雅雄(1937))。
唐古・鍵遺跡発掘の歴史
学術調査
弥生集落の変遷
発掘調査により判明した弥生集落の変遷を時代順に概説する。
第一段階 - 弥生集落の成立(弥生時代前期)
小高い所を選んで人が住むようになった。遺跡の北部、西部、南部の3ヶ所の微高地にムラが形成された。周辺は湿地が広がるため、中洲状が想定されている。弥生式土器で最も古い段階の「大和第Ⅰ-1-a様式」とともに、ごくわずかの縄文式土器も検出された。縄文人と弥生人の棲み分け論の根拠である。藤田三郎は縄文晩期から徐々に変化したというより、新たに稲作技術を持った人々が唐古・鍵の地を開拓したと見る(参考文献5,p48)。集落の成立初期には環濠はなかったようである。
第二段階 - 弥生集落の分立(弥生時代中期初頭)
3ヶ所に形成されてきた居住区が、それぞれ周りに溝を巡らせて「環濠集落」となる。西側地区では総柱の大型建物が建築された。梁行き2間(7m)、桁行き5間以上(11.4m以上)の南北に長い建物である。床面積は80m2。炭素14年代測定では北東隅の倒れていた柱は紀元前3から4世紀と推定されるが、立っていた2本のケヤキ柱は下っても紀元前5世紀までとされた。小溝から検出された土器を検証し、前後関係を整理すると、弥生時代中期初頭に建築され、大和第Ⅱ-3様式には解体されたと理解され、倒れていた柱の年代と一致する。立っていた柱は転用材とみられる。弥生時代前期から中期の墓は2つ見つかっており、南側の第一号木棺墓は木棺と人骨が残存していた。東京大学埴原和郎の鑑定では身長160cm以上の20歳代後半から30歳代前半の男性とみられた(藤田三郎(2012),p60)。国立科学博物館の馬場悠男の復元では、江戸時代など現代人とあまり変わらない骨格で大陸系の人の可能性があると見られた。2号木棺の放射性炭素年代測定では約2100年前と測定され、弥生時代と確認された(藤田三郎(2012),p62)。
第三段階 - 集落統合と大環濠の切削
3ヶ所の居住区が統合され、全体を囲む「大環濠」が掘削される。大環濠で囲まれた集落は、直径約400mと考えられる。その周りを幾重にも溝が取り囲み、中期後半には、楼閣をはじめとする建物、鹿、人物などの絵画を土器に描く風習が広まった。
第四段階:環濠集落の再建(弥生時代後期)
中期末の洪水で環濠の大半は埋没するが、すぐに再掘削が行われる。環濠帯の広さは最大規模となる。後期のはじめに、ムラの南部で青銅器の製作が行われた。弥生時代中期末の洪水は全村的な災害と推定されている(藤田三郎(2012)5,p91)。集落は放棄されず、より大きなムラが再建され、より大きな環濠が再建された。定住性の強いムラであった。後期後半に方形周溝墓が作られた。
第五段階:環濠集落の解体(弥生時代後期)
弥生時代中・後期に大環濠はなくなり、ムラの規模が縮小する。環濠の一部は再掘削されるが、井戸などの居住区関連の遺構は大幅に減少する。 環濠は土器の大量廃棄により埋没する。藤田三郎は環濠を必要としない新しい社会を想定する(藤田三郎(2012),p96)。南地区では弥生時代の環濠が再切削され、溝内から多量の遺物が出土する。
アクセス等
- 名称:唐古・鍵遺跡
- 遺跡面積:約42万平方メートル
- 遺跡規模:東西700m、南北80mの楕円形
- 調査面積:3万5271平方メートル
- 所在地:奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵
- 交通:近鉄橿原線石見駅下車 東へ徒歩約20分(約1.5キロメートル)
参考文献
- 高橋健自(1901)「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」『考古界』第1篇第7號,考古学会
- 飯田恒男・飯田恒男編(1929)『大和唐古石器時代遺物図集』飯田松次郎
- 京都帝国大学文学部考古学教室編(1943)『大和唐古弥生式遺跡の研究』京都帝国大学文学部考古学研究報告 第16冊,桑名文星堂
- 末永雅雄(1937)「大和の弥生式遺跡 唐古 発掘日誌」『考古学』第8巻2-4号,東京考古学会
- 藤田三郎(2012)『唐古・鍵遺跡』同成社
- 名古屋大学中村俊夫( 考古学,文化財科学,地理学,文化財科学,文化財科学・博物館学
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