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物部太媛2025年04月01日 00:20

物部太媛(もののべ の ふとひめ, -587年(用明2年)8月2日)は飛鳥時代の豪族の女性である。父は物部尾輿であり、母は阿佐姫阿佐姫。「物部布都姫」、「御井夫人」、「石上夫人」とも呼ばれる。

概要

『日本書紀』では蘇我大臣(蘇我馬子)の妻は物部守屋の妹と書かれている(崇峻即位前秋七月条)。名前を特定していないので、物部太媛が蘇我馬子の妻であったかかは分からない。 『先代旧事本紀』 巻第五 天孫本紀では、物部贄子の妻とする。 しかし『紀氏家牒』には蘇我大臣の妻は物部守屋の妹で名は太媛と書かれている。物部守屋の滅亡後は石上神宮の斎神の頭になったとされる。当時の女性は結婚しても、姓は変わらず、「物部」を名乗っていた。 『先代旧事本紀』「天孫本紀」に「此の夫人、倉梯宮御宇天皇(崇峻天皇)の御世、立ちて夫人と為る。亦朝の政に参て、神宮を斎き奉る」と記され、崇峻天皇の時代に神職の重職について国政にも参画したと記される。『石上振神宮略抄』『紀氏家牒』に蘇我蝦夷の母親は守屋の妹の「太媛」とされている。

呼び方

史料間にかなりの食い違いが見られ、『先代旧事本紀』「天孫本紀」には布都姫夫人と書かれており、配偶者は異母兄弟の物部贄子となっている。子が4名いて、一人は蘇我馬子の妻となる鎌足姫(鎌姫)大刀自であるとされている。

考察

日本書紀に蘇我馬子が妻の計略を用いて物部守屋を殺したと書かれる(崇峻年七月条)。どのような計略かは分からない。石上神宮の斎主になったり、政治にも関与したことがあるならば、同時代での評判は悪かったかもしれない。『日本書紀』『紀氏家牒』が蘇我馬子の妻が物部系であり、太媛を示唆する。さらに『神主布留宿禰系譜』は、「蝦夷の母は物部弓削連(守屋)の妹の太姫で、蝦夷が弓削連死亡後に祭首を補佐した」と書かれる。『先代旧事本紀』の記載だけが崇峻の夫人であったと書くので、それを除けば各史料は一致する。よって、蘇我馬子の妻が物部太媛で、物部守屋の妹と解釈するのが妥当である。

史料

  • (『日本書紀』原文) 時人相謂曰「蘇我大臣之妻、是物部守屋大連之妹也。大臣妄用妻計而殺大連矣。」
  • (『紀氏家牒』原文) 馬子宿祢男、蝦夷宿祢家、葛城県豊浦里。故名曰二豊浦大臣一。亦家多貯二兵器一、俗云二武蔵大臣一。母物部守屋大連亦曰二弓削大連一。之妹、名云二太媛一也。守屋大連家亡之後、太媛為二石上神宮斎神之頭一。
  • (『先代旧事本紀』「天孫本紀」)「字は御井夫人。亦は石上夫人と云ふ。此の夫人、崇峻天皇の御世、立ちて夫人と為る。亦朝の政に参て、神宮を斎き奉る。」

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 田中卓(1986)『田中卓著作集 2 』(日本国家の成立と諸氏族) ,国書刊行会

難波宮2025年03月13日 22:32

難波宮(なにわのみや)は、大阪市中央区にある飛鳥時代から奈良時代時代にかけての宮殿跡である。

概要

飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認されている。2時期の宮殿遺構は前期難波宮、後期難波宮と区別する。『日本書紀』『続日本紀』などで存在は知られていたが実際の所在は不明であった宮殿の遺構が見つかった。

調査

前期難波宮の遺構に火災痕跡があり、686年(朱鳥元年)に焼失した天武天皇の難波宮にあたる。孝徳天皇により造営された難波長柄豊碕宮と考えられている。後期難波宮は聖武天皇によって再建された難波宮である。1954年(昭和29年)から開始された、山根徳太郎を中心とする発掘調査により、1961年、現在の史跡指定地に難波宮があることが明らかにされた。

難波遷都の目的

天皇中心の中央集権体制を作るため遷都したとされた。また激変する半島情勢に対応し、対外情報の入りやすい場所として選ばれた。

前期難波宮

前期難波宮は、孝徳天皇によって造営された「難波長柄豊碕宮」と考えられている。蘇我氏を滅ぼした乙巳の変(645年)のあと、645年(皇極4年)に孝徳天皇は中大兄皇子や中臣鎌足とともに飛鳥から難波宮に遷都した(『日本書紀』原文:大化元年冬十二月乙未朔癸卯、天皇遷都難波長柄豐碕。)。しかしすぐに宮殿ができるわけではなく、長柄豊碕宮以前の諸宮の多くは、既存の朝廷の施設を改築したものとされる。大化二年春には、「天皇、御子代離宮」「或本云、壞難波狹屋部邑子代屯倉而起行宮。」と書かれており、これを裏付ける。大化3年記事に記載のある小郡宮は650年(白雉元年)から宮殿の造営が始まり、2年後の652年(白雉3年)9月に宮殿が完成したと『日本書紀』に記される(『日本書紀』原文:秋九月、造宮已訖。其宮殿之?、不可殫論。冬十二月晦、請天下僧尼於?裏、設齋・大捨・燃燈。)。僧侶を呼び斉会を行った。国内最初の本格的宮殿であり、内裏前殿の両側に八角形の楼閣風建物がそびえ、14棟以上の朝堂、宮城南門(朱雀門)などを有する。建物はすべて掘立柱建物であり、瓦は使われていない。 654年(白雉5年)10月に孝徳が死去し、都が飛鳥に移るまで使用された。 朱鳥元年(686年)の火災によって焼失したと日本書紀に書かれる。

後期難波宮

(726~784年)の時期に属する建物の基壇跡が見つかった。基壇跡は東西約11m、南北5m以上の規模であった。基壇の周辺に凝灰岩の破片が見つかり、建物の外装に使用していたものが解体の際に壊され飛び散ったものと考えられる。また重圏文軒丸瓦をはじめとする後期難波宮の時期の瓦も基壇の周辺から見つかっている。こうした状況から、今回検出した建物は朝堂などと比べるとやや小型であるが、凝灰岩で覆われた基壇を持ち、重圏文の瓦で飾られていたことが分かる。神亀3年(726)に聖武天皇によって前期難波宮と同じ場所に造られた。中心部は大極殿や8棟の朝堂、内裏などで構成される。このうち政務や儀式が行われた大極殿・朝堂は礎石建物で瓦茸屋根が採用されたが、天皇の居住空間である内裏は従来からの掘立柱建物で瓦を使用していない。

遺構

前期難波宮

  • 掘立柱建物 飛鳥時代

難波宮下層遺跡

  • 柵4
  • 建物2
  • 溝1
  • 柱穴

遺物

  • セン
  • 土師器
  • 須恵器
  • 木簡
  • 木製品
  • 漆容器
  • 絵馬
  • 新羅土器
  • 軒瓦約220
  • 鬼板
  • 重圏文軒丸瓦
  • 重圏文軒平瓦
  • 丸瓦
  • 凝灰岩
  • 天目茶碗
  • 肥前陶器
  • 焼塩壺
  • 信楽焼
  • 信楽焼(腰白茶壷)
  • 一石五輪塔
  • 羽口

出土木簡

難波宮「玉作五十戸俵」木簡

2015年2月3日に、地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が発見されたと大阪市博物館協会大阪文化財研究所が発表した。646年に出した大化改新の詔に「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」(日本書紀)が記載される。 「玉作五十戸俵」の木簡は7世紀後半の記載様式とみられる。文字は片面のみである。両側に三角形の切込みがあったので「荷札木簡」と分かる。五十戸は「サト」と読む飛鳥時代の書き方である。律令制では五十戸が1里であった。意味は「玉作のサトから米俵を貢納した」。 庚午年籍以後と考えられていた地方支配の制度が、天智4年(665)以前に遡ることが示された。飛鳥時代の制度は「国―評―五十戸」と考えられる(四国新聞,2015年2月3日)。玉作の地名は陸奥や土佐などに見られる。

難波宮跡出土万葉仮名文木簡

史跡難波宮跡の南西約100m、前期難波宮(長柄豊碕宮)の建設に伴うと考えられる整地層の直下の地層から出土した。地層の時期は、前期難波宮が完成する白雉3年(652)前後より古いと考えられている。簡の片面に「皮留久佐乃皮斯米之刀斯□」と11字が完全に残り、12字目をわずかに残して折れている。万葉仮名文の成立はこれまで7世紀末頃とされていたが、この木簡の出土により、その成立が7世紀中頃まで遡る可能性が出てきている。1字を1音に当てるのは万葉仮名の方式である。木簡は「春草のはじめのとし」と読む。“春草の”は万葉集では枕詞として使われており、全体は五音・七音を重ねた和歌と考えられる。日本語表記や和歌の重要な資料である(大阪市,2019年1月9日)。

史跡

宮殿の中心部とされる範囲が国の史跡に指定され、史跡公園として整備されている。史跡は2種類の方法で示されており、地表面より一段高くし、石造りで基壇を示すものが726年(神亀3年)から造営された後期難波宮、一段低くして赤いタイルを敷き、赤い御影石で柱位置を示し、サザンカの生け垣をめぐらせているものが「大化改新」による難波遷都の後、白雉元年(650)から造営が始められた「難波長柄豊碕宮」である。昭和37年(1962)に後期難波宮大極殿一帯の17.500m2が国指定史跡になり、以後数度の追加指定を経て、現在の史跡指定範囲は大阪歴史博物館南側の広場を含め、約13万m2に及ぶ。

  • 昭和39年5月2日(第1次)  国指定史跡 

史跡難波宮跡

難波宮の跡地の一部は難波宮跡公園として整備されている。

アクセス等

  • 名称:難波宮
  • 所在地:〒540-0006 大阪府大阪市中央区法円坂1丁目6
  • 見学:営業:入園自由 但し、難波宮跡資料展示室は10:00~17:00※展示室の見学は要事前連絡
  • 交通: 地下鉄谷町線「谷町四丁目」駅すぐ、JR大阪環状線「森ノ宮」駅より徒歩5分

参考文献

  1. 近つ飛鳥博物館(2015)「歴史発掘おおさか2015」近つ飛鳥博物館
  2. 難波宮跡出土万葉仮名文木簡,大阪市,2019年1月9日
  3. 「大阪・難波宮跡に「五十戸」木簡」四国新聞,2015年2月3日
  4. 「難波宮 現地公開資料」,大阪市文化財協会,2009年3月14日
  5. 植木久(2009)『難波宮跡』同成社

馬絹古墳2025年03月02日 02:01

馬絹古墳

馬絹古墳(まぎぬこふん)は神奈川県宮前区馬絹にある7世紀の古墳である。

概要

田園都市線「梶ケ谷駅」の南約1.2kmに位置し、矢上川に沿った台地の縁辺の標高43mの高台にある。 神奈川県宮前区の馬絹神社の裏手にある古墳である。一般的には円墳と考えられているが、実測図によれば円墳はない。八角墳の可能性もある。舒明陵と同じ形式との推定もある。 周囲み幅3.5m、深さ約1.5mの周溝が巡る。葺石があり、西福寺古墳と並んで梶が谷古墳群を代表する古墳である。南武蔵における終末期古墳のひとつである。学術的な価値が高いとされて神奈川県史跡に指定された。

調査

昭和46(1971)年に発掘調査が実施された。墳丘内から持ち送り式の横穴式石室が発見された。石室の全長は約9mと大型であり、横穴式石室は全体が3室に仕切られており、両袖式で、奥室・中室・前室からなる複室構造である。奥の玄室は縦横高さが各3mで、1尺29.6cmの唐尺で作られたものと見られる。唐尺は7世紀中葉に普及したと考えられるので、馬絹古墳は7世紀中葉以後と想定される。盗掘被害を受けたため、副葬品は見つからなかった。玄室から79本の鉄釘が出土したことから、複数の木棺が納められていたと考えられる。墳丘の北側斜面に拳大の河原石で1重、東・南・西側斜面には2重の葺石が敷かれていた。墳丘の築造方法は、北西側では1段、東北・西南側では2段、南東側では3段築成と推定される。ローム土と黒色土のを交互に突き固めた堅固な版築工法により墳丘が築成されている。玄室左側壁に円文があり、鏡石には図柄不明の文様が描かれている。一種の装飾古墳である。石室内の装飾は、古代朝鮮半島の古墳の影響を受けているとみられる。石室は泥石切石による切組積で、天井部に向けて徐々に狭める持ち送り技法を用いる。

規模

  • 形状 不明
  • 築成 1段から3段
  • 径約33m
  • 高約6m

外表施設

  • 葺石 あり

遺物

  • 鉄釘

築造時期

  • 7世紀 第三四半期

被葬者

  • 影向寺の創建に関わった人物

展示

指定

  • 昭和46年12月21日 神奈川県指定史跡

アクセス等 

  • 名称  :馬絹古墳
  • 所在地 : 〒216-0035  神奈川県川崎市宮前区馬絹994-12
  • 交 通 :東急田園都市線「宮前平駅」から川崎市バス城11系統「新城駅前」行き、東急バス宮01・02「野川台」行き、「金山」下車、徒歩約5分

参考文献

  1. 川崎市教育委員会(1978)『川崎市高津市馬絹古墳保存活用計画調査報告書』川崎市教育委員会

台渡里遺跡2025年02月07日 00:50

台渡里遺跡(だいわたりいせき)は、茨城県水戸市渡里町にある飛鳥時代、奈良時代から平安時代に渡る遺跡である。「台渡里官衙遺跡」ともいう、

概要

台渡里遺跡は国指定史跡「台渡里廃寺跡」の観音堂山地区,南方地区の東西に広がる遺跡であり、那珂川右岸の標高31mから34mの台地縁から中央平坦面にかけて広がる遺跡である。 7世紀後半以前に営まれた豪族居館もしくは評段階に遡る初期官衙が検出された。7世紀末から8世紀初頭頃に位置付けられる竪穴建物跡1棟が確認された。長方形のプランの可能性が高い。台渡里の台地上ではこれまでに7世紀末頃の竪穴建物跡が多数確認されているが、平面プランが長方形を呈するものはアラヤ遺跡(第1地点)の工房に続き、2例目となる。床面および床面直上より出土した砥石3点は、金属器等の刃部の仕上げや維持・補修に係るものと見られる。鍛冶工房かどうかはは定かではないが、砥石が出土したことから金属器の等の刃部の仕上げや維持・補修が行われていた可能性が高い。本遺跡が立地する台地上に7世紀第4四半期から8世紀前葉にかけて那賀郡周辺寺院や那賀郡衙正倉院が造営されており、郡衙周辺寺院や郡衙正倉院の造営に必要な金属器の生産・維持・補修を行っていた造営集落が郡衙周辺寺院や郡衙正倉院の近隣に展開していた。「厨口」銘の墨書土器が出土した。

調査

1939年の第一次調査では7 世紀後半から8 世紀初頭の竪穴住居跡4 軒,溝6 条,建物跡2 棟が検出された。1943年の第三次調査では「之十二」銘文字瓦、瓦塔片 「徳輪寺」銘文字瓦 文字瓦が多数出土した。1971年の第五次調査では「往生料」銘の墨書土器が出土した。第24次調査では「備所」銘墨書土器が出土した。「備所」は租税を備蓄しておくための施設名が想定されている。64次調査では工房として機能していたとみられる長方形の竪穴建物跡が1 棟確認され,金属器の研磨に用いられたとみられる砥石などが出土した。第1号竪穴建物跡は大半が調査区外に延びており、全容は解明できなかった。廃絶年代は8世紀第 2四半期から第3半期の間とみられる。砥石は鉄製品の維持・補修のために使用していたとみられる。

遺構

  • 溝1
  • 竪穴建物7
  • 掘立柱建物3
  • 礎石建物1
  • 土坑

遺物

  • 土師器
  • 須恵器
  • 炭化米
  • 砥石

アクセス等

  • 名称:台渡里遺跡
  • 所在地:茨城県水戸市渡里町2909-1、2973-1
  • 交通:

参考文献

  1. 水戸市教育委員会(2008)「台渡里遺跡」水戸市埋蔵文化財調査報告第15集

阿倍倉梯麻呂2024年12月25日 23:30

阿倍倉梯麻呂(あべのくらはしのまろ、?-649年3月17日)は飛鳥時代の官僚である。 「阿倍内麻呂」、「摩侶」、「阿倍麻呂」、「大鳥大臣」ともいう。

概要

日本書紀によれば、624年(推古32年)、蘇我馬子は阿倍倉梯麻呂と阿曇を推古に遣わして、葛城はもともとの居住地であるから、この縣を頂きたいと要求した。推古は「私は蘇我の生まれで蘇我馬子は私の叔父である。たいていのことは聞き入れるが、葛城を失ったら、後世から悪く言われるし、蘇我馬子も不忠とされ、後世に悪名を残す」、として断った(史料1)。 628年(推古36年)、推古の死後、皇位が定まらず、蘇我馬子を中心に群臣が協議した。蘇我馬子は阿倍倉梯麻呂と諮って、自邸に群臣を集めて饗応した。散会する際に阿倍倉梯麻(内麻呂)は皇嗣に関して語った。「早く決めないと乱が発生する恐れがある。誰を後継ぎとすべきか」。意見は2つに割れて群臣の意見は折り合わなかった(史料2)。 乱のあとの645年(大化元年)、左大臣に阿倍倉梯麻呂、右大臣には蘇我倉山田石川麻呂が任じられた。阿倍倉梯麻呂は豪族を代表する重鎮となった(史料3)。 648年(大化4年)、阿倍倉梯麻呂は四天王寺に四衆を招き、仏像4体を迎えて内に安置させ霊鷲山の像を造るなど、法要を執り行った。 同年、推古朝以来の冠位十二階を廃止し、前年制定の七色十三階制に移行したが,左大臣の阿倍倉梯麻呂と右大臣(蘇我倉山田石川麻呂)のみは旧制度の冠を使用したとされる。 翌年、649年(大化5年)3月17日、阿倍倉梯麻呂は難波宮で亡くなった。孝徳は朱雀門に出て死者を祀るために慟哭した。

考察

阿倍倉梯麻呂は蘇我氏とも関係は良好であったが、蘇我氏の滅亡後も亡くなるまで政治的8立場を維持した。娘の小足媛を孝徳の妃として入れ、有間皇子を生んだことが大きかったと思われる。

史料1 『日本書紀』巻第廿二 推古卅二年

  • (原文)冬十月癸卯朔、大臣遣阿曇連闕名・阿倍臣摩侶二臣、令奏于天皇曰「葛城縣者、元臣之本居也、故因其縣爲姓名。是以、冀之常得其縣以欲爲臣之封縣。」於是、天皇詔曰「今朕則自蘇何出之、大臣亦爲朕舅也。故大臣之言、夜言矣夜不明、日言矣則日不晩、何辭不用。然今朕之世、頓失是縣、後君曰、愚癡婦人臨天下以頓亡其縣。豈獨朕不賢耶、大臣亦不忠。是、後葉之惡名」則不聽。

史料2 『日本書紀』第廿三 推古卅六年

  • (原文)九月、葬禮畢之、嗣位未定。當是時、蘇我蝦夷臣、爲大臣、獨欲定嗣位、顧畏群臣不從、則與阿倍麻呂臣議而聚群臣饗於大臣家。食訖將散、大臣令阿倍臣語群臣曰「今天皇既崩无嗣。若急不計、畏有亂乎。今以詎王爲嗣。天皇臥病之日、詔田村皇子曰、天下大任、本非輙言、爾田村皇子、愼以察之、不可緩。次詔山背大兄王曰、汝獨莫誼讙、必從群言、愼以勿違。則是天皇遺言焉。今誰爲天皇。」

史料3 『日本書紀』 巻第廿五 即位前

  • (原文)以阿倍內麻呂臣爲左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣。以大錦冠、授中臣鎌子連爲內臣、増封若于戸、云々。

史料4 『日本書紀』巻第廿五 大化四年

  • (原文) 二月壬子朔、遣於三韓三韓、謂高麗・百濟・新羅學問僧。己未、阿倍大臣、請四衆於四天王寺迎佛像四軀、使坐于塔內、造靈鷲山像、累積鼓爲之。

史料5 『日本書紀』巻第廿五 大化四年

  • (原文) (二月巳未)、遣於三韓(三韓、謂高麗・百濟・新羅)學問僧己未、阿倍大臣、請四衆於四天王寺迎佛像四軀、使坐于塔內、造靈鷲山像、累積鼓爲之。

史料6 『日本書紀』巻第廿五 大化四年

  • (原文) 夏四月乙卯朔甲午、於小紫巨勢德陀古臣授大紫爲左大臣

史料7  『日本書紀』巻第廿五 大化五年

  • (原文) 三月乙巳朔辛酉、阿倍大臣薨。天皇幸朱雀門、舉哀而慟。皇祖母尊・皇太子等及諸公卿、悉隨哀哭。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀4』岩波書店
  2. 井上光貞、笹山晴生(2020)『日本書紀』中央公論新社

久宝寺遺跡2024年11月22日 00:02

久宝寺遺跡(きゅうほうじいせき)は大阪府八尾市にある縄文時代晩期から弥生・古墳時代、中世、近世の集落・河川・生産遺跡を含む複合遺跡である。

概要

久宝寺遺跡は八尾市の北西部を中心とする大阪市、東大阪市にもまたがる縄文から近世までの複合遺跡である。範囲は南北1.6km、東西1.7kmに及ぶ。久宝寺遺跡は河内平野にあり、東は生駒山地、西は上町台地、南を河内大地に囲まれる。河内平野の平地は、低湿地、湖沼、三角州により形成される。 久宝寺遺跡は、物部氏の本拠地の一つであった可能性が高い。また南九州の隼人が居住したと記録される萱振保(八尾市萱振付近と推定)に近いことから、成川式土器は南九州から近畿への移住を示すものと推定されている。古墳時代後期から飛鳥時代の遺構は、掘立柱建物6棟・土坑7基・溝8条・小穴 158 個などで、調査地の西側で行われた第 68 次調査を含めて、古墳時代後期(6世紀)を中心とする建物群が集中している。

調査

昭和10年に久宝寺5丁目で実施された道路工事中に、弥生土器や土師器・須恵器、そして丸木舟の残片が出上したことが発見の契機となった。第66次調査では古墳時代前期の居住域の存在が明らかになった。 八尾市文化財調査研究会が1998年、1999年に調査した資料のうち、古墳時代中期(5世紀)中ころの住居跡から出土した高杯・壺などの土器は形や胎土の特色から、南九州で製作した成川式土器であることが明らかにされている。古墳時代後期から飛鳥時代の遺構は、掘立柱建物6棟・土坑7基・溝8条・小穴 158 個などで、 調査地の西側で行われた第 68 次調査を含めて、古墳時代後期(6C)を中心とした建物群が集中している。 平成23年から平成26年の調査で古墳時代前期に属する水田畦畔を発見した。古墳時代前期には、この周辺で広く水田耕作を行っていたことが明らかになっている。また古墳時代前期の水田は、その後の洪水による土砂の氾濫によって堆積した厚い砂に覆われている。 発掘調査では古墳時代の準構造船や韓式系土器が出土しており、古代の運搬や交易の様子が明らかにされた。 第67次調査では現地表下2~ 3m付近の層から古墳時代初頭~前期に比定される土器・木製品がコンテナ1箱程度出上した。第67次調査5層からは古墳時代初頭(庄内式期)の遺物が出土した。

発掘成果

1999年調査、2002年調査

  • 1区、2区の3-1層(弥生時代)ははほぼ水田であり、人の足跡が見られる。畔は幅50cm、高さ5から10cm、長辺6-10m、短辺4-6mである。希に偶蹄目の足跡も見られる。牛の可能性がある。
  • 5層(古墳時代)からは直口壺、複合口縁壺、庄内式甕が出土した。また方形周溝墓(久宝寺2号墓)を検出した。

物部氏

物部氏は古代の有力氏族の一つで、大和政権の軍事と祭司を担当していた。物部氏は奈良盆地東部が本拠地であるが、海外との通行が必要であることから、河内平野にも拠点を置いた。 古代にあった河内湖南岸の久宝寺遺跡付近が中河内における物部氏の本拠地と考えられる。 久宝寺遺跡には古墳時代後期の大型掘立柱建物群があり、建物の存続時期から物部氏の居館と考えられている。この時期の物部氏は全国に勢力を拡大しており、渡来人や他地域からの移住者を統括していた。 蘇我馬子などの崇仏派と物部守屋と中臣鎌子を中心とした排仏派との宗教対立があった。戦闘の際に物部守屋は「渋川の家」にいたと日本書紀に記録されるが、その場所は久宝寺遺跡とそこから近い渋川廃寺付近と推定されている。

宗教対立か

物部氏の本拠の渋川に寺の跡(渋川廃寺)が残っているため、物部氏は廃仏派ではなかったとする説がある。 山本昭(1986)は、廃寺跡から出土した瓦を豊浦寺の瓦と比べて、推古11年(603年)頃に当たるとした。このあたりは四天王寺領となっている土地が多いため、物部守屋の管轄下にある田や奴の一部が渋川寺建立にあてられたと推定している。つまり、山本昭(1986)は渋川廃寺を物部本家の滅亡前に建てられたと判定し、物部氏は廃仏派ではなかったと考えている。つまり宗教対立はなかった根拠になるとする。

遺構

  • 堰 - 古墳時代中期頃に比定される
  • 土坑
  • 護岸施設
  • 周溝墓 - 古墳前期
  • 水田 飛鳥以前
  • 土器棺墓
  • 木製品 古墳後期
  • 石製品 古墳後期
  • 畝間溝群 弥生末から古墳初頭
  • 水路 弥生末から古墳初頭
  • 竪穴建物 古墳初
  • 方形周溝墓 古墳初
  • 堰の部材 古墳中期

出土

  • 土師器
  • 土師器(布留式など) 古墳前期
  • 古式土師器 - 古墳初頭
  • 須恵器
  • 船材 - 久宝寺遺跡の南地区で三世紀末から四世紀初めの船材が出土した。
  • 銅鏃 古墳初
  • 木製品 古墳前期
  • 鋤先 古墳中期

日本書紀 巻第廿一 用明二年 

  • (原文)秋七月、蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子・竹田皇子・廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀?夫・葛城臣烏那羅、倶率軍旅、進討大連。大伴連・阿倍臣人・平群臣神手・坂本臣糠手・春日臣闕名字倶率軍兵、從志紀郡到澁河家。大連、親率子弟與奴軍、築稻城而戰。於是、大連昇衣揩朴枝間、臨射如雨、其軍強盛、填家溢野。皇子等軍與群臣衆、怯弱恐怖、三却還。
  • (大意)7月、蘇我馬子は物部守屋を滅ぼそうと諸皇子と群臣にはかった。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率い、志紀郡(現大阪府八尾市)から河内国(志紀郡)渋川の守屋の館へ向かった。守屋は子弟と奴軍を族を集めて稲城を築いた。物部軍は強盛で家や野にあふれた。守屋は朴の木の枝の間によじ登り、雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は恐怖に怖じ気づき、三度も退却した。

指定

アクセス

  • 名称:久宝寺遺跡
  • 所在地:大阪市八尾市西久宝寺/八尾市久宝寺2丁目2-33(久宝寺小学校内・正門横)
  • 交通:近鉄「久宝寺口」駅 徒歩約10分

参考文献

  1. 文化庁(2023)『発掘された日本列島2023』共同通信社
  2. 山本昭(1986)「河内国渋川寺について」(『帝塚山考古学』No.6
  3. 財団法人 八尾市文化財調査研究会(2007)「久宝寺遺跡(第64次調査」
  4. 財団法人 八尾市文化財調査研究会(2007)「久宝寺遺跡(第66次調査」
  5. 財団法人 八尾市文化財調査研究会(2007)「久宝寺遺跡(第67次調査」
  6. 財団法人 八尾市文化財調査研究会(2007)「久宝寺遺跡(第69次調査」
  7. 財団法人 八尾市文化財調査研究会(2007)「久宝寺遺跡(第72次調査」
  8. 大阪府文化財センター(2004)「久宝寺遺跡・竜華地区発掘調査報告書Ⅵ」大阪府文化財センター調査報告書 119集

白鳳時代2024年10月12日 18:40

白鳳時代(はくほうじだい)は飛鳥時代に関する美術史の時代区分の一つである。

概要

白鳳時代は645年(大化元年)から710年(和銅三年)の平城京遷都までの55年間とされる。 仏像としては、法隆寺の阿弥陀三尊像、薬師寺の薬師三尊像、興福寺仏頭などふくらみのある顔立ちで、北斉・北周など大陸の影響を受けた様式から、日本独自の和風化が見られるが、隋・唐の影響も残る。肉体表現は写実性がまし、動きも見られるようになる。 飛鳥時代は仏像の材料が「銅像」、「木彫像」に限られていたが、白鳳時代になると、「銅像」だけでなく、「塑像」「脱活乾漆像」「押出仏」「塼仏」も作られるようになる。

白鳳時代前期の仏像(645年から660年頃)

  • 法隆寺の金銅菩薩立像、金銅菩薩半跏像、河内観心寺の観音菩薩立像、広隆寺の弥勒菩薩

白鳳時代後期の仏像(661年から709年)

大阪・野中寺の弥勒菩薩半思維像、興福寺の仏頭、東京深大寺の釈迦如来倚像、法隆寺の金銅阿弥陀三尊像、当麻寺の弥勒仏座像

参考文献