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銅矛2024年09月10日 00:05

広形銅矛/国立歴史民俗博物館

銅矛(どうぼこ)は弥生時代の青銅製の鉾である。「銅鉾」ともかく。

概要

銅鉾はもとは刺突すための武器であった。木の棒の先に取り付けて使う。もとは中国で生まれ、殷、西周、春秋、戦国、前漢、後漢で使用された。殷式銅矛は大多数が河南省殷虚から出土する。銎の部分が背となり、鋒まで通る。西周式銅矛は身部が銎の2倍の長さとなる。 春秋式銅矛は身部が狭く全長が長いものと、幅が広く短いものとがある。耳がなく、目釘穴を銎部にもつ。戦国式銅矛は地域差が大きくなる。朝鮮の銅矛は狭鋒銅矛が主体である。 南朝鮮では銅矛に儀器化のきざしがみえる。弥生前期末近くに始まる日本の青銅利器は、慶州を中心とする朝鮮南部のものがもたらされ、それ以後は南朝鮮の工人の手により、日本の青銅利器の鋳造が開始された。日本の銅矛は1例を除いて耳をもつ。朝鮮出土の狭戈b形式と同じ形状である。狭鋒銅矛c形式は朝鮮出土の狭戈c形式と同じ形状である。狭鋒銅矛d形式では長大化する。狭鋒銅矛e形式は日本独自の形式となり、銎部基部の両側に耳がある。中鋒銅矛A形式は耳と銎部基部の節帯の位置関係が乱れるようになる。広鋒銅矛A形式では全体に退化し、鋳造後の研磨がなくなり、背に鎬がない。 北部九州では墓に副葬された。日本で作られるようになると、多くは実用から離れた祭器となった。 九州から中国・四国地方にかけて出土する。銅矛は、銅鐸、銅剣、銅戈(どうか)とともに、弥生時代を代表する青銅器である。朝鮮半島からの伝来当初は細身で小さく、本来の武器の機能を備えていたが、日本列島では時期が降るとともに薄く扁平となり大型化するなど、武器としての形状は失われ、独自の変化を遂げる。

出土例

  • 銅矛 - 荒神谷遺跡、島根県出雲市、銅矛16本が出土した、弥生時代
  • 銅矛 -検見谷遺跡、佐賀県三養基郡北茂安町、佐賀県佐賀市城内

参考文献

  1. 近藤喬一(1969)「朝鮮・日本における初期金属器文化の系譜と展開: 銅矛を中心として」史林 52 (1),pp.75-115

さいたまA-59号遺跡2024年09月10日 00:09

さいたまA-59号遺跡(さいたまえーごじゅうきゅういせき))は埼玉県さいたま市に所在する縄文時代から弥生時代にかけての遺跡である。

概要

さいたま市大宮駅の東2.5kmにある。昔はゴボウ畑であった。大宮台地は関東平野の中央部で、埼玉県川口市・さいたま市から鴻巣市にかけての細長い洪積台地である。その大宮台地南東部の見沼低地を見下ろす台地の縁辺部にさいたまA-59号遺跡がある。周辺には中川貝塚や南中野西浦遺跡、中川稲荷山遺跡がある。

調査

分譲住宅建設のため先だって遺跡調査が行われた。調査期間は2023年10月10日から2024年1月30日であった。第一次調査では縄文時代中期竪穴住居跡2軒、土坑3基、弥生時代後期住居跡1軒であった。第4号住居跡は縄文時代後期で5m径の円形もしくは5m長軸径の楕円形であり、石囲い炉をもつ。第5号住居跡は隅丸方形で、東西6.2m、南北5.2mである。南側に埋め甕がある。住居内に1.5m×1m、深さ65cmの袋状土坑2基を検出した。 弥生時代後期の第3号住居跡は4.2m×3.8mの隅丸長方形であった。 第二次調査1区では縄文時代中期住居跡2軒、土坑5基、3区では縄文時代中期頃の土坑15基、平安時代の土坑2基を検出した。 南側の土坑群を囲む環状集落であった可能性がある。中央広場が想定される。

遺構

  • 竪穴住居跡
  • 土坑

遺物

  • 土器
  • 浅鉢
  • 埋甕

指定

考察

アクセス等

  • 名称:さいたまA-59号遺跡
  • 所在地:さいたま市見沼区中川
  • 交通:

参考文献