石屋古墳 ― 2024年10月30日 00:37
石屋古墳(いしやこふん)は島根県松江市にある古墳時代の方墳である。
概要
松江市の市街中心部から東南東へおよそ25kmにある標高30mの低丘陵上に位置する。葺石は地元で大海崎石と呼ばれる安山岩がほとんどであった。
調査
昭和53年1月25日、松江市東津田地内において住宅団地造成工事(ひがし東光台団地)が開始されたとき、松江市文化財審議会委員の恩田清氏が現地を訪れたとき、大型の古墳があり、埴輪の破片が散乱するところを発見した。県教育委員会と工事業者とで現地立会したところ、古墳は自然丘陵を切り削し盛土して築成した一辺、約40m、高さ7.85mの大型方墳で、北辺に長方形の造出部を設けたものと判明した。これまでの調査により1辺40m、高さ7.85mと判明している。墳頂部の埋葬主体は未調査のため内容は不明であるが、造り出し部の形象埴輪群のなかに金崎古墳出土品と同型式の須恵器が含まれており、古墳時代中期に属する古墳と見られる。 出雲地方のなかでも最大級の規模の方墳である。
埴輪
南辺と北辺に造り出しがあり、北辺の造り出しから形象埴輪が出土した。第1段の平坦面に葺石の根石にそい、円筒埴輪や朝顔形埴輪が間隔をあけずに並べられていた。 島根県古代出雲歴史博物館による埴輪の整理復元が行われた。その結果、最古の2個体の力士埴輪を復元できた。また武人埴輪、正装男子、倚座人物埴輪、家型埴輪、円筒器台形埴輪、蓋形埴輪が確認された。力士埴輪は下半身部分(高さ約80センチ)をほぼ復元した。右腰にまわしとみられる帯状のものが残っている。力士埴輪の高さは推定120センチを超える可能性がある。 重要なことは、人物埴輪の配置が明らかになったことである。これまでは保渡田八幡塚古墳が最古例(5世紀後半~6世紀初め)であったが、本古墳が最古例となった。葬送儀礼の解明に役立つ事例である。
規模
- 形状 方墳
- 築成 2段築成
- 規模 1辺40m、高7.85m
外表施設
- 円筒埴輪 円筒埴輪・朝顔形埴輪
- 葺石 葺石あり
遺構
遺物
日本書紀
- 日本書紀巻第六 垂仁 七年秋七月
- 「臣聞、出雲國有勇士、曰野見宿禰。試召是人、欲當于蹶速。」卽日、遣倭直祖長尾市、喚野見宿禰。於是、野見宿禰、自出雲至。則當摩蹶速與野見宿禰令捔力。二人相對立、各舉足相蹶、則蹶折當摩蹶速之脇骨、亦蹈折其腰而殺之。
- (大意)出雲国に野見宿禰という勇士がいる。当麻蹶速と対戦させたい。倭直の先祖の長尾を派遣し、野見宿禰を召して出雲から到着した。野見宿禰と当麻蹶速は相撲を取った。二人は立ち上がり、足を上げて互いに蹴った。当麻蹶速の脇の骨を砕き、彼の腰を折って殺した。
築造時期
- 5世紀中葉頃に築造
被葬者
- 当地の航海権を掌握した豪族の墓所
展示
指定
- 1979年4月6日 国の史跡 史跡名勝天然記念物
考察
『日本書紀』の垂仁七年は紀元前23年とされるが、これは虚構である。埴輪の力士の製作年代は400年代の半ばと見られる。垂仁は存在したとすれば450年頃ともされるので、上記伝説の時期とも整合する。『日本書紀』に埴輪の起源の田道間守の説話もあるので、垂仁は埴輪とも関係が深い。またイリヒコの名をもつ大王は実在性があるとの意見が多い。垂仁が5世紀半ばの活動時期とすれば、実在性を想定してもよいであろう。
アクセス等
- 名称:石屋古墳
- 所在地 :島根県松江市矢田町・東津田町
- 交 通 :JR松江駅からバス15分、馬橋下車徒歩10分
参考文献
- 松江市教育委員会(1985)「史跡石屋古墳」
最近のコメント